植物園と動物園は何が違うか。一方ではバラが咲き、他方にはサルが居る、などと訊ねているのではない。入園者の子供の数が違うのである。動物園は子供が主役で、父親や母親はわが子に振り回されている。ところが植物園では子供の数はめっきり少なく、たまに見かける子供たちもおおむね退屈そうなのである。そして植物園の大人たちは、圧倒的に(やや円熟期以降の)女性が多いのだ。これはなぜか? 調布の神代植物公園で考えた。 . . . 本文を読む
重なり合う山の、遠くなるに連れて青さが薄れて行くのは、光の屈折の関係ではなかったか? そうした科学的原理はとりあえずどうでもいいのであって、私はひたすら自然の美しさに魅了されている。標高1500メートル、上越国境・谷川岳の天神平に立ち、トマの耳を背に関八州を望んでいる(のだと思う)。もちろん自力登山ではなく、ロープウエーとリフトに引き上げてもらって山上の冷気を吸い、錦秋に染まっているのだ。
谷 . . . 本文を読む
ここは上州・渋川の駅前、日曜日の夕刻である。元気な赤子を背負った母親がスニーカーで足元を固め、後ろのお姉ちゃんが小走りでなければついて行けないほど、しっかりした歩幅で歩いている。腕には大きな育児バッグを下げ、着ているのはマタニティのようだ。このご時世に3児のママとは、頼もしい限りである。週末を実家で過ごし、家に帰るところか。上州のかかあ天下は、こうしたしっかり女性の多さを指しているのである。
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城址が公園となって、市民の憩いの場になっている街はいい。沼田もそうした街の一つだ。沼田城は五層の天守を構える本格的な城郭だったと絵図が伝えるが、明治を待たず破却され、いまは何も残らない。しかし往時を偲ぶ城内の古木に、市民はわが街の時の流れを感じているのだろう。この日はグランドで、市の消防団総出の秋季点検が行われていた。古風なラッパの響きに、いまはいつの時代かと戸惑ってしまった。
沼田は不思議な . . . 本文を読む
月夜野という美しい町の名は、いまは亡い。隣接する水上町などと合併して「みなかみ町」に町名を変えたからだ。「みなかみ」も十分に美しい響きではあるけれど、三十六歌仙の故事にちなんで命名されたという《月夜野》の幽玄なイメージが消えたことは惜しまれる。「奥利根ゆけむり街道」と名付けられたこの道沿いは、雑然として少しも美しくはないのだが、暗くなって月が昇れば、思わず「佳き月夜のかな」と見惚れるのであろうか . . . 本文を読む
佐原に寄った。伊能忠敬の事績に接するためである。50歳で天文学を志し、55歳にして全国測量の旅に出た忠敬さん。当時の寿命を考えれば、還暦を過ぎて漫然と日々を過ごしているいまの私と、ほぼ同年代のようなものではないか。ここはひとつ、人間の持つ恐るべき能力に接し、大いに刺激を受けようという魂胆である。記念館では特別展が開催中で、国宝の伊能図が展示してあった。測量の緻密さと正確さに、ただただ頭が下がる。 . . . 本文を読む
私は岬に惹かれる。陸の果ては、見果てぬ彼方につながると連想がたくましく広がるからだ。そこで《突端の街》に憧れることになる。たどり着いたさまざまな人生が、深く沈潜しているに違いない(と想像する)のだ。銚子に行ってみたかったのは、利根川の河口に位置し、しかも房総半島の付け根という、突端が二つも重なっている希有な街だからだ。暮らしている人たちから見ればヘンな視点であろうが、そんな思いを膨らませて出発し . . . 本文を読む