久しぶりに立川に行く。電車に乗ればごく近い街なのだが、観たい映画をやっているか、10年ごとのパスポートの更新か、あるいはIKEAに行きたくなった時くらいしか行かないから、いつも「久しぶりの街」である。しかしそのせいで、長い間工事用の目隠しで覆われていた駅北口の新街区に、新しいモールが生まれていたりするから面白い。この街が「都市軸」だと呼ぶ広場のような道を行くと、頭上をモノレールが音も無く通過していく。 . . . 本文を読む
国宝・火焔型土器に接近し、老いた頬をさらしているのは私だ。この土器は、何度見ても見飽きることがない。今回は我が10年に及ぶ陶芸体験をもとに観察すると、これを作った縄文の陶工は、複雑な文様を生き生きと浮き上がらせる勢いを体得した、大変な手練れであることが判る。粘土を自由に、何の迷いもなく操るその手際の良さに惚れ惚れさせられるほど、土を扱う技量は私をはるかに超えている。十日町市博物館での至福のひとときだ。
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そんなことは考えたこともなかったのだけれど、魚沼の旅から帰って改めて新潟県の地図を見ていて、小千谷は越後平野の最南部の街なのだと気がついた。私が育った新潟市から思うと、そこは遠い魚沼にあって、すでに山の中の街だと考えていた。しかし信濃川で結ばれる長岡市からは平坦部が続いており、そこは2000平方キロにわたって広がる越後平野に含まれるようだ。信濃川と魚野川が形成する魚沼の地勢が、ようやく理解できた。
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この時期、旅先に新潟を選ぶ者は、新潟を知らない者である。冬の始まりを告げる曇天が遠く雷鳴を響かせ、冷たい霙(みぞれ)が吹き付ける、本格的な降雪を前にした雪国の暗く湿った日々が続くのである。新潟育ちの私はそのことをよく知っている。それでもこの時期、それも日本一の豪雪地帯である魚沼に行こうと決めたのは、ただ日程の都合からなのだが、「縮」「紬」「上布」といった雪国の織物の世界へ、妻を案内したいと考えていたからだ。 . . . 本文を読む
新潟の冬は、雪まじりの激しい風が吹き付ける、のではなかったか。高校卒業まで新潟市の海岸近くで育った私の記憶は、そうだ。しかし魚沼・六日町のこの穏やかさは何だろう。低く浮かぶ白雲は山麓から離れようとせず、市街地の煙突から立ち上る煙は、どこまでも真っ直ぐ昇って行く。風が強かったのは、日本海からの海風だったからなのだろうか、山懐までそれは届かず、魚沼はむしろ穏やかなのかもしれない。私は露天風呂に浸かっている。
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「和歌山」という表記が初めて認められるのは、秀吉の書状の中なのだという。ということはさほど古い地名ではないことになる。しかし万葉集には山辺赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」が採録されている。これは神亀元年(724年)10月、聖武天皇が紀伊国に行幸した際に赤人が詠んだ歌だ。この「若の浦」こそ、和歌山の地名のルーツなのではないか。市中から20分ほどバスに揺られ「和歌浦」を目指す。
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和歌山の街をGoogleマップで俯瞰すると、紀ノ川の河口を西に見晴らす高台に城が築かれ、その周りを和歌川や市堀川といった水路が外堀となって守っていることがわかる。城山は現在、街を東西に貫く「三年坂通り」で分断されているけれど、かつての城域は天守から南方の紀州徳川家の菩提寺の先まで続く、広大なものだったのだろう。その丘陵の一角に、県立の美術館と博物館が並んでいる。和歌山市民は、一等地に文化施設を置いた。
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「吉野川が紀の川と名を変え、ほぼ一直線に西へ流れ下る川筋に、ずっと沿い続けて和歌山の街に至る鉄路がある」「日本地図に興味が湧き始めた小学生のころだった。これほどの長距離を、川にぴたりと沿って走る路線があることを発見した私は、いつかこの鉄道に乗ってみようと思ったのだった」。これは1991年9月1日、奈良・五條から念願のJR和歌山線に乗車した際のメモだ。約30年後に思いを達したことになる。
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