その庭には、梢を広げる一株の古い桜があった。風があるとも思えないのに、花弁は絶え間なく枝を離れ、光の中を舞い落ちている。横浜の、丘の上の市営斎場である。孫を見送ったのだ。名もつかぬまま、一度も外の世界に触れることなく逝った彼は、小さな骨壺に納まった。それは掌に乗るほど小さいのだが、両親には何よりも重く大きい存在に違いない。私は密かに「大」と名付けてやった。大は、花を纏って天国に行ったのだろう。 . . . 本文を読む
東京・調布市を流れる「野川」の桜が、年に一度、夜空に浮かび上がる。両岸の染井吉野が満開となる日を見定め、しかも雨の心配がない夜に決行される一夕限りのライトアップである。写真では、漆黒の闇と静寂が支配しているようにも見えるけれど、花の下の遊歩道では、数万の人の波が「停まらないでください、ゆっくり進んでください」と声を張り上げる警備の警察官に急かされているのだ。私もそのうちの一人になりに来た。 . . . 本文を読む
これはこの年の、花に狂った記録である。西行ほどではないと思うのだけれど、私もこの季節は花に狂う。開花を聞いたら「花狂い」は部屋に閉じこもって居られなくなる。しかも今年は例年よりいささか開花が遅れていただけに、満開が宣言された「花祭り」の8日、東京西郊の花行脚へと飛び出したのだ。まずは調布の骨董市と深大寺に始まり、国際基督教大学(ICU)の桜のトンネルを潜り抜け、井の頭公園へとなだれ込むのである。 . . . 本文を読む
島崎藤村を真似て「奈良井はすべて雨の中である」とでも書きたくなる空模様だ。小布施―善光寺―姨捨と、穏やかな陽光を楽しんで来た《信濃花曼荼羅の旅》も、最終3日目の松本で降り始め、奈良井宿に着いたころには本降りになった。私は「晴れ男」を自認しているのだが、時にはこんなこともある。松本で足を痛めた彼女には喫茶室で休んでもらい、私は傘を手に奈良井宿探索に出かけることにした。それにしても長い宿である。 . . . 本文を読む
旅に出るエネルギーは、知らない街への好奇心が牽引力になるものだが、最近の私にはもう一つ、「この人」といっしょに出かけることによって、二つの視点で眺める土地の面白さを楽しんでいるところがある。例えば松本を訪ねれば、やはりお城に足が向くけれど、4度目ともなればさすがに私には新鮮味がない。しかし「彼女にはどんな風に見えるのだろう」と思うから、退屈することはない。彼女の反応は、いつも私には新鮮なのだ。 . . . 本文を読む
長野から松本に向かうため、JR篠ノ井線の時刻を調べていたら、途中駅に「姨捨(おばすて)」があることを知った。ああ、ここだったのかと思うことがある。『楢山節考』や「田毎の月」のことだ。信州のどの辺りなのだろうかと時おり考えては、確認することを怠ってきた。長野駅を午前11時23分に発車する快速に乗ると、姨捨駅に11時51分に到着する。次の松本行きは58分後にやって来る。手ごろな途中下車の旅ができそうだ。 . . . 本文を読む
吾輩は猫である。名前はまだ無い。先日通りかかった夫婦連れ(夫婦ではないかもしれない)の男が「ゼンコウがいいな」などと勝手に名付けていたが、善光寺の門前をねぐらにしているから「善公」だなんて、全く想像力の乏しい男(なかなか姿のいい男ではあったが)だと言わざるを得ぬ。しつこくカメラを向けるものだから、喜びそうなポーズをとってやったら、本気で喜んでシャッターを押していた。おかげで眠くなってきた。 . . . 本文を読む
原発ロードはいよいよ終着地に近づき、東京電力柏崎刈羽原子力発電所が現れる。一見、海岸に建設された工場群のようにも窺える。東京で暮らす私などは、ここで生み出される電気によって日々の暮らしが成り立っているわけだけれど、福島の惨事を目の当たりにした眼には、格納容器建屋が死の箱のように思えてしまう。だが地元の人たちにとってはありふれた光景なのだろう、原発を背景にして、海辺の散歩を楽しんでいるのである。 . . . 本文を読む
日本海に長い海岸線を延ばしている新潟県の、そのなかほどにある新潟市と柏崎市を結ぶ国道402号を、私は勝手に「原発ロード」と名付けた。調子に乗ってもう一つ命名を許していただければ、さらにそのなかほどの寺泊―石地間を「オイルロード」と呼んでみたい。というのも途上の出雲崎は、日本の石油掘削産業発祥の地であり、さらに下った石地には尼瀬油田が開発され、わが国の石油元売りの歴史が始まって行くのである。 . . . 本文を読む
《くれさかの森》の所在地は「群馬県吾妻郡中之条町赤岩」である。2年前に合併するまでは「六合(くに)村赤岩」といった。六合村は、上信越国境の白砂山(標高2139メートル)を源にする白砂川が、山系の流れを集めて穿った渓谷に張り付く六つの集落が合併して営まれた村である。明治までは、草津の旅館業者らが避寒のため冬期間を暮らす「冬住みの里」でもあった。人口規模はあくまで小さく、しかも美しい村である。 . . . 本文を読む
土を捏ね、形を作り焼く。作陶とは、人間が石を削って道具を創ることを覚えたころ、つまり新石器時代に分類される時代になって知った大発明であった。土が焼けると硬く固まることに着目した新石器時代知恵者が、粘土で型を作ってから焼くことを創案する。生活に大革命を起こしたことだろう。やがて集団の上手が選ばれ、よじった縄で粘土を締める術を編み出す。するとその文様に刺激され、様々な意匠が土器を飾って行く。 . . . 本文を読む
暮坂峠をやや西に下ると、南側の山の中に円錐型の独立丘が見えてくる。地図に記されるほどの嶺ではないのだろうが、土地の人々は天狗山と呼んでいる。その緩やかな裾野に、芸術村を建設しようと夢見た人がいた。様々なジャンルの作家たちの工房と研修生用のロッジが点在する制作エリアと、豊かな知性と感性の人々が集う別荘ゾーンで構成される、標高1000メートルのアート空間だ。眼前には、雄大な白根山の連なりが広がる。 . . . 本文を読む
蛦夷を平定したヤマトタケルが亡妻を想い、峠道で「アヅマハヤ」とため息をついたことから、そこより以東の地を《吾嬬》と呼ぶようになったと記紀は云う。ただ古事記がその地を「足柄(神奈川県)の坂本」とするのに対し、日本書記は「碓日坂(現・鳥居峠)」と記している。そこで群馬県は、延喜式の「上野国吾妻郡」を根拠に県北西部に《吾妻》を冠し、伝説をわがものとした。そんな吾妻山塊のなかほどに《暮坂》という峠がある。 . . . 本文を読む
東日本大震災から1年を経たこの日、私は故郷・新潟の原発ロードを南下していた。新潟市の海岸線を忠実になぞって下る国道402号は、「日本海夕日ライン」「越後七浦シーサイドライン」などと面映い愛称が付けられていて、だれも「原発ロード」とは呼ばない。しかし終着地の柏崎では東京電力の巨大な原子力発電所が稼働しているし、途中の角田山には東北電力の原発予定地があったのだ。海からの風は激しく、恐ろしいほどに冷たい。 . . . 本文を読む