今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

207 関ヶ原(岐阜県)・・・殺伐と400年の風渡る

2009-04-21 21:19:14 | 岐阜・愛知・三重

不破関跡を彷徨してなお、日は高い。駅への帰路を外れ、「開戦地」という案内に誘われるままJR東海道線を越えて「天下分け目の」決戦場に迷い込んでしまった。線路の切り通しがあたかも古代の関跡と、中世の古戦場を切り分けているような構図だ。関ケ原は確かに「原」ではあるが狭い。こんなところで大合戦があったというのだから、凄まじい光景だっただろう。原を流れる筋の中には「黒血川」などというリアルな名前もある。

古戦場は町の教育委員会が管理しているようで、各大名の陣屋地点には家紋を染めた幟が立てられていて、私のようなものでも、一望することによって東西各勢力の陣構えをしのぶことができる。僅か400年の昔に過ぎないのに、覇権を獲得するために殺し合いをしたというのだから、人間の進歩の何と遅いことか。いまここに家康がいたら「この愚か者めが」と一喝してやりたくなる。

確かにこの風景全体が、まれに見る歴史的景観を保っている。とはいえ、その歴史事実がひたすら殺戮の場であったということは、その後の関ケ原で生きて来た人たちにどう受け止められているのだろう。単純に「郷土の誇り」とは言い難い苦みがあるのではないか。誰もいない冬枯れの古戦場でそんなことを考えていると、「平和の杜」という公園のような一角があった。

現代彫刻が10点ほど配置されている。そして「戦争は勝者を生むことはなかった」「関ケ原400年の戦いと平和の歴史がそれを物語っている」「フランスの現代作家、ピエール・セーカリー氏と関ケ原製作所の共同事業としてこの杜が完成した」といったことが彫られている。ここは戦死者を弔い、平和を祈念する場なのか。関ケ原製作所というから、地元の民間企業なのだろう。

いささか重苦しい気分で集落を目指すと、路地の奥に立つモダンな「何か」が目に入った。石のオブジェのようである。アート好きな私は吸い寄せられるように路地へと入り込み、気がつくと「せきがはら生活美術館」と彫り込んだ門柱らしきものの前にいた。いつの間にか、関ケ原製作所の敷地に入り込んでいたのだ。

「見せてもらってよろしいですか?」と図々しくお願いすると、奥の部屋に相談に行った女性職員が「どうぞ」と招き入れてくれた。そして2階も案内してくれたうえにパンフレットをたくさん持参し、応接コーナーで香り豊かなコーヒーまで供してくれた。奥の事務室からラフな雰囲気のおじいさんが顔を出したので、管理人さんかと思い礼を言って名刺を渡すと、おじいさんも名刺を取り出した。見ると「代表取締役会長」とあった。

この会長さんの経営理念が「企業とは人間ひろばである」ということらしく、作家たちにアトリエを提供し、作品広場は地元に開放しているのだという。「会長さんの許可をいただいたので」という女性職員さんは、それからたっぷり時間をかけ、社内のアート群と工場周辺を案内してくれたのだった。「こんな寒さは関ケ原では寒いとは言いません」と言いながら。

後日、工場内のアトリエで知り合った彫刻家から展覧会の案内が届いた。上野の美術館で現代彫刻の団体展を堪能しながら、関ケ原で受けた思いがけないご親切を思い出していた。殺伐たる古戦場が、いまでは心優しい人たちが暮らす土地として思い出される。(2009.2.19)
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