秋田新幹線は、秋田駅を後ろ向きに出発、大曲で先頭を逆にして盛岡・東京を目指す。横手盆地を北上してくる秋田の大河・雄物川が、ここで田沢湖近くから流れて来る玉川と合流、大きく湾曲した盆地を形成するから、自ずと路線もその制約を受けるのだ。新幹線はなぜ、この不自然なルートを選んだのだろう。新庄まで延びる山形新幹線を延伸し、湯沢・横手・大曲と奥羽本線に沿って北上すれば、ごく素直なコースになったのに。大曲に立ち寄ってみ . . . 本文を読む
秋田を初めて訪れたのは、50歳を過ぎていたと思う。それほど縁の薄い土地だった。青森での会議の後、知らない秋田を回って帰りたいという私を、車で案内してくれたのは同僚のW君だった。秋田育ちだから、当然、秋田には詳しい。八森で白神山地を少し分け入り、能代で一泊したのち南下、そろそろ秋田市街になるというあたりで、W君は「ここが秋田城です」と崖上の緑を指差した。私は佐竹氏の居城跡だと勝手に思い込み、うなづいた。 . . . 本文を読む
地元テレビの天気予報が、秋田市の日照時間は全国の県庁所在市で47番目、つまり最も短いのだと紹介している。一番長い甲府市より、年間で700時間ほども少ないのだそうだ。ところが月別の統計では、6月だけは札幌、青森に次いで3位になっているという。7月は再び最下位あたりに戻るというから、梅雨入りが遅いということなのだろう。そんな予報を聞いて空を見上げると、なるほど雲ひとつない快晴である。私は秋田市に来ている。
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横手は駅の東側が城下(旧市街)で、西側が新開地らしい。その新開地の郊外に「秋田ふるさと村」がある。好天の土曜日、県立近代美術館もあるから行ってみると、丘陵地のテーマパークといった様相だ。折りしもこの週末は「クラフトフェア」が開催中ということで、たくさんの家族連れで賑わっている。旧市街ではほとんど見かけなかった横手市民は、ここに集まっていたのだ。アーバンライフを満喫しているような、満ち足りた笑顔が弾けている。 . . . 本文を読む
下校する小学生に出会った。秋田県横手市の市役所近く、「かまくら館」を見物した後、武家屋敷街へ行こうと横手川の「学校橋」を渡ろうとしている時だ。歩道は余裕があって、これなら子供たちの通学も安心だと思いながらシャッターを押すと、一人が「あー、写真だー」と笑い転げた。私は「ありがとう」と答えて、未来の秋田美人たちと別れる。まもなく公園のような橋を渡って、学校に突き当たる。私はこの横手南小学校にほとほと感心した。
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内藤湖南が生まれた街・毛馬内。私はこの不思議な響きの地名に接して「聞いたことがある」と思った。だがいつ、どんなきっかけで記憶することになったかは思い出せない。今回の旅で、最寄りのJR花輪線十和田南駅はかつて毛馬内駅という名称であったと知った。改称は1957年と昔のことだが、駅名として毛馬内を記憶したのかもしれない。改称の理由は知らない。ただ十和田南とは「湖の南」、つまり「湖南」の号そのものではないか。 . . . 本文を読む
秋田には鉱山が多い。私が旅した県北部だけでも阿仁、花岡、大葛、尾去沢、小坂などのヤマが連続する。地球生成時のマグマが、このあたりに金・銀・銅・鉛といった鉱脈を連続させたのだろう。地下資源は莫大な富を産む。例えば小坂鉱山で、人々は鉱山事務所の華麗さに眼を奪われ、康楽館の舞台に文明を見る思いだっただろう。しかし資源はいつか果てる。掘り尽くされたヤマは役割を終え、閉山を迎える。ここからが街の正念場である。 . . . 本文を読む
私の顔は平板で、眉は薄い。どちらかといえば縄文より弥生人の系譜に繋がると、顔付きは物語っている。しかし実はそうではなくて、縄文人のDNAを色濃く受け継いでいるのである。というのも、縄文人が生きた痕跡に出合うと、決まって心がトキメクのである。今回はトキメキ過ぎて、架けていた眼鏡を落としても気がつかなかったほどだ。大湯環状列石でのこと。今ごろ私の眼鏡を見つけて、縄文人が眼を回していることだろう。 . . . 本文を読む
日本の歴史で武士の時代は結構長い。12世紀ころから700年ほど続いた。ここでは主にその成熟期である江戸時代を思い浮かべているのだが、私は常々、武士の世界観が《藩》で完結することを不自然に感じている。現在の都道府県か、それよりもっと狭い地域である《藩》。そこが彼らの国家であり宇宙なのだ。そんな狭い空間は嫌にならなかったのだろうか。鹿角市花輪の商店街で、南部せんべいを売る店を見かけてそんなことを考えた。 . . . 本文を読む
大館を訪ねた6月30日は「花岡事件」の日だった。今年が70年目ということもあり、街ではいつにも増して厳粛な慰霊祭が開かれているようである。青森県境に近い山中の城下町。奥羽本線の大館駅では忠犬ハチ公の像が出迎えてくれる。大館はハチの故郷でもあるのだ。観光案内所で「中心部まで歩けますか」と訪ねると、係の女性が難しそうに私を見て、自転車を奨めてくれた.。だから私は初めての街で、慣れないペダルを漕いでいる。 . . . 本文を読む
能代訪問は2度目になる。秋田に詳しい同僚が、弘前から五能線のリゾート列車「しらかみ」で同行してくれたことがあった。その日は能代で飲んで泊まったはずだが、案内を人に頼るとラクではあるが記憶は薄くなる。覚えているのは中天に懸かかる満月と、駅のホームにバスケットボールのリングが設置されていたことくらいだ。それを見つけて「そうか、能代か」と、能代工業と試合をして楽勝した高校時代を思い出したのだった。 . . . 本文を読む
能代では「風の松原」を歩きたいと思っていた。だから能代駅で五能線を降りると、さっそく市内循環のバスに乗った。市街地の南半分をゆるゆる回りながら海岸に近づいて行く。そうやって街を眺めていて「何か違う」という思いが募る。何だろうか。ようやく気がついたのは「ゴミが落ちていない!」ということだった。住宅街はもちろん郊外店舗街も、歩道も車道も塵一つ見当たらない。人もいないのだがゴミが落ちていないのだ。 . . . 本文を読む
「大潟村に行ってみる」と言うと、周囲は「なぜ?」と怪訝な顔をする。広大な八郎潟を干拓し、大規模な米作りが行われている、ということはみんな知っている。しかしわざわざ出掛ける場所だとは誰も思わない。その怪訝さであろう。私だって何故と訊かれて明確には答えられない。ただそうした大地があるから行って見てみたい、と言うしかない。問題は、列車とバスしか移動手段のない私に、村へ行く方法はあるか、という点だ。 . . . 本文を読む
秋田県の北部地域を4日間歩いた。ローカル列車と超ローカルな路線バスが頼りの旅だから、「歩いた」といっても嘘にはならないだろう。旅は、1枚の絵を観てから始めようと考えていた。藤田嗣治の壁画『秋田の行事』だ。秋田の資産家と藤田との出会いが産み出した巨大な壁画である。その絵の存在は知っていたものの、なかなか対面する機会がなかった。新幹線を降りるや心弾ませ、建設されたばかりの秋田県立美術館に向かった。 . . . 本文を読む
確かに、眼前のクサハラが鮮やかな緑となって足に土の感触を伝え、その先できらめく海に溶け込んで行っているとしたら・・・そして世界すべてが蒼穹の輝きに包まれ、聞こえて来るのは潮騒と松風だけだとしたら・・・私は「世はすべて事もなし」と呟いて眼をつむるだろう。訪れるのが三ヶ月も遅ければ、私はそうやって岩に座り、大きな深呼吸をしているところだ。三陸海岸の北辺、青森県八戸の種差海岸。まだ草原は枯れている。 . . . 本文を読む