写真の家族連れは、日本から来た観光客だろう。日本人と台湾の人たちは、見分けがつかないほど似ていることが多いけれど、掲げるランタン(天燈)に書かれた願い事が日本語だからそれと分かる。「安定した生活」「成績学校No.1」と、なかなか欲張りな一家である。ここは台湾北部の山中の村・十分(シーフェン)。「神様の住処に一番近い村」なのだそうで、ランタンに乗せて舞い上がる願いは神様に届くはずだという。天空はお願いでいっぱいだ。 . . . 本文を読む
この国は75歳を超えると「後期高齢者」というラベルが貼られる。当事者は「前期と後期に何の違いがあると言うのだ」と戸惑うのだが、境界を何年か過ぎてみると、確かに「心身ともに変化したかもしれない」と思うことはある。「心」は好奇心の低下や感受性の摩滅、「身」は体力の低下を顧みれば反駁しようがない。私の場合、それは展覧会への関心が薄れる形で現れた。それでも「日本人はどこから来たか」などと問われると、奮い立つのである。
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日本統治時代の台湾関連書を読んでいると、基隆(きいるん)という街がしばしば登場する。台湾最北部の港湾都市で、日本の与那国島とは150キロしか離れていない。日治時代は統治の足場であったのだろう、台湾に移住する日本人の多くがここから上陸して行った。そのせいだろうか、私が覚えた台湾の街の名前では、台北や高雄に次いで早かったように思う。年間降雨日が200日を超えるという雨港・基隆は、この日は快適な陽気で迎えてくれた。 . . . 本文を読む
台北の国立博物館に行く。台湾島は中国大陸の東150キロのプレート境界上に隆起した孤島で、アフリカを出た人類がユーラシア大陸を東西に移動した太古の時代、大陸からか、あるいは南方のマレー方面からか、海を越えて渡ってきた人々が住み着いたのだという。これら台湾原住民の祖先たちはいくつもの部族に別れ、それぞれのテリトリーを守る生活を続けたが、統一的な国家を形成することはなかったーーと説明されているらしかった。
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18年ぶり3度目の台湾である。街はずいぶん変わっただろうと楽しみにやって来たのだけれど、台北の街並みは記憶とさほど変化していない。高層ビルが増えた地区もあるようだが、古びた中・低層のアパート群も頑張っていて、看板だらけの混沌ぶりは健在である。まだ3月なのに30度を超え、私は汗まみれで疲れ果てているというのに、街を行く市民に応えている様子はなく、みなさん穏やかに行き交って、夕刻は公園のベンチで涼んでいる。
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歩き疲れたところで路傍の石に腰を下ろす。そこへ隣の保育園から園児たちが溢れ出てきて、「アッ、おじさんがいる」「こんにちワー」と賑やかな歓声を上げながら散歩に出発して行く。私は栃木市に来ている。初めての街だ。園児らが行く道沿いの水路は「県庁堀」という名で、この街が明治6年から10年余、栃木県の県庁所在地であったことを物語っている。振り返ると「文豪 山本有三文学碑」が建ち、代表作『路傍の石』の一節が刻まれている。 . . . 本文を読む
およそ「聖」を冠される人物は、各分野において史上最も傑出した技量を持ち、その芸術世界で圧倒的な影響を及ぼし尊敬される存在だと認められていることになるだろう。歌聖・柿本人麻呂、画聖・雪舟、俳聖・芭蕉といった名前が思い浮かぶ。では陶芸はどうか。名前が判れば縄文の火焔型土器製作者に冠してもいいだろうけれど、「陶聖」と呼ばれる陶芸家は未だいない。最も近い存在は板谷波山(1872-1963)ではないだろうか。
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水戸の絵柄はやはり「梅」ということになる。だからこの季節、脚は自ずと偕楽園へと向かうのだが、梅まつりが始まったと聞いて2週間になるのに、花盛りにはまだ間があるようだ。それでも早咲きの数株が見事に咲き誇るあたりでは、芳香に絡め取られて陶然となる観梅日和である。19年前に妻と二人、水戸に赴任中の旧友に鮟鱇鍋をご馳走になって以来の偕楽園だ。本日は独行なので、閑散とした庭園が似合っている。ゆっくりと古木を縫う。 . . . 本文を読む
寒風が列島を震え上がらせた前日から一転、春の到来を思わせる土曜日は、どこの公園も家族連れで賑わっている。東伏見で縄文人との交歓を楽しんだ私は、西東京市の「はなバス」に揺られて小金井公園にやって来た。なんとも年寄りくさい休日の過ごし方だけれど、年寄りなのだから仕方ない。目の前に現れた幼児があまりに可愛いので、写真を撮ってもいいかと訊ねると、母親は戸惑いながら了承してくれた。「どちらから?」「ネパールです」 . . . 本文を読む
叶うなら「縄文時代にタイムスリップしたい」と願っている私なのに、頑張れば自宅から歩いて行けないこともない近場に、南関東最大級の縄文集落遺跡があることを知らなかったとは迂闊であった。西東京市東伏見の下野谷(したのや)遺跡である。紀元前3000年もの太古の人々が、一千年にわたって暮らしを営んでいた地だ。緩い起伏が続く森に包まれ、竪穴の家々が囲む日溜まりの広場には、縄文っ子の歓声が賑やかに響いていたのだろう。 . . . 本文を読む
150メートルの高みから、東京・千葉の都県境を流れる江戸川を眺めている。眼下の街は市川市だ。JR総武線の市川駅南口に建つ45階建てビルの展望デッキで、私は北を向いている。鉄橋を渡る電車がおもちゃのようだ。南は新旧の江戸川が挟む行徳の先に東京湾が広がり、西のスカイツリーと富士山が、東京のビルの小ささを際立たせている。見渡す限りを埋め尽くす人の営みが、唸りを上げている。自分が生きる時代の貪欲さに疲れを覚える。 . . . 本文を読む
国府台を「こうのだい」と読めなかった私は、やはり「総の国」では他所者である。そのことを十分に意識しながら、市川市北部の堀之内・国府台界隈を歩く。そこで少女と出会った。市の歴史博物館脇の広場で石のベンチに座り、少女は「縄文の鉢」をじっと見つめていた。私が感嘆の余り「美しい土器ですね」と声を掛けると、彼女は「ええ、ホントに」と小さな声で応えた(ような気がした)。背後の雑木林から続く丘は、国指定史跡の堀之内貝塚である。 . . . 本文を読む
葛西臨海公園にやって来た私は、駅前から延びる中央園路をゆっくり進みながら、マフラーとコート下のジャケットを脱いでバックパックに仕舞った。気象予報士は「この冬一番の寒気が近づいています」と盛んに警告していたけれど、東京湾最奥の渚は小春日和である。自転車の爺さんがよろよろと行き過ぎる遊歩道は水仙が花盛りで、芝生広場ではママが幼児と戯れている。開園して35年になるという、かねて来てみたかった都立公園である。 . . . 本文を読む
古代、「葛飾」は下総国に属する「郡」であった。茨城県古河市あたりから古・渡良瀬川が東京湾へと南下する流域の、広大なエリアである。その名残りは「東葛」「葛西」など今も地名に用いられている。そっくり名をいただいた葛飾区は、南端に近い南葛飾の一部でしかない。しかし今の私はそんなことはどうでもいいのであって、京成立石駅前の路地のようなアーケード街で、露天同様の店に座り、熱燗を片手におでんを頬張っているのである。 . . . 本文を読む
年明けまで1週間を切って、都内屈指の初詣どころ西新井大師はすでに準備が整ったようである。大きなガラスで仕切られた本堂を覗くと、清々しい畳の広間でおじさんが一人、静かに手を合わせている。大晦日に始まる初詣では、さほど広いとも言えないこの境内に60万人を超す善男善女がやって来るそうだから、静寂は今だけのものだろう。今日はクリスマス。異宗教の聖なる日は関係ないと、露天を造作する音だけが忙しなく響いている。
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