岬をいくつ巡ったかは忘れたけれど、こんな岬を見るのは初めてだと思う。室戸岬である。海岸からいきなり山になってそそり立ち、太平洋を睥睨しているのだ。標高は200メートルほどあるらしい。「なるほど!」と私がわかったような顔で見上げているのは、前日、室戸世界ジオパークセンターで勉強して来たお陰だ。世界屈指の「変動帯ニッポン」にあって、室戸の大地は千年で2メートルという驚異的な速さで盛り上がり続けているのだという。
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徳島県の最南端に、海陽町という小さな街がある。90%が山地ながら、南東部は太平洋が「室戸阿南海岸国定公園」の美しいリアス式海岸を洗っている。年間3000ミリ降る雨が、北の霧越峠から海部川を下り、この海岸線では比較的広い沖積平野を形成した。徳島駅から2時間余をかけてやってきたJR四国の牟岐(むぎ)線は、この街の阿波海南駅が終着である。閑散とした駅前で腰を伸ばしていると、一風変わった形の乗り物がやって来た。 . . . 本文を読む
四国の東北端になるのだろうか、私は徳島県鳴門市の鳴門公園の丘に立って、北方の水平線に横たわる淡路島を遠望している。眼下は鳴門海峡である。最も狭い部分は1340メートルだそうで、大鳴門橋を境に、東側の紀伊水道と、西側の播磨灘の干満の差が激しい潮流を生む。「鳴門の渦潮」である。橋と飛島の間の海面が、波立っている。公園の「架橋記念館」には「本日の渦潮の見頃 満潮(北流)8時40分」と書いてある。あと15分だ。
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関西の地図を見るたびに「不思議だ」と思う「形」がある。瀬戸内海最奥部に描かれる海岸線の弧のことだ。淡路島・神戸・大阪・和歌山の海がきれいな楕円を描いている。大阪湾と呼ばれるその楕円は、まるで人の手がスプーンで海を慎重に掬い取ったかのように整った形なのである。太古の噴火によるカルデラの痕跡か、あるいはイザナギとイザナミがオノコロ(自凝)島で淡路島を産み、次いで四国を産んだという、古事記が語る国産みの大八洲か。
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それは「柳」からくるイメージを超えて、見上げるほどの大樹であった。猛々しいほどの生命力を漲らせ、駅前ロータリーの中央で葉叢を揺らしている。安曇野に「銀座の柳」があると聞いて以来、JR大糸線・穂高駅に降りる機会があったら、駅前に植えられているという柳を眺めたいと思っていた。根元に「安曇野の柳を東京中央区に寄贈した返礼に、里帰りした銀座の柳2世です」と書いてある。植物が取り持つ街と街の縁、私はこういう話が好きだ。 . . . 本文を読む
「安曇野に行こう」と決めて、思い描いたのは北アルプスの銀嶺を背景にした雄大な風景だった。写真集などで紹介される、大自然と人の営みが渾然と一つの世界に収まる爽快さを一望したい、という思いである。「馬鹿は高いところへ登りたがる」という失敬な慣用句があるけれど、私のことかと思わざるを得ないほど私は高いところが好きだ。だから安曇野に来たからには、長峰山展望台に登らなければならない。問題はこの季節の空模様である。 . . . 本文を読む
今宵、信州・安曇野は満月である。あまねく月光に照らされた大地は、俺たちトノサマガエルの棲家なのだ。昨日までは大雨だったから、安曇野の大地はいつも以上に水を含み、田植えを終えた稲田は満々と水が張られている。月が梢の上まで昇った。人間どもは家に引っ込んだ。さあ、俺たちの刻が来た。白い腹を大きく膨らませ、喉を震わせ「ケロロッ」。俺の一声を合図に、みんな一斉に得意の喉を披露し始める。人間にはこれが合唱に聞こえるらしい。 . . . 本文を読む
30年も昔になるから、20世紀が終わろうとしているころのことだ。私は4年間ほど、石神井公園の近くで暮したことがある。住宅地の中の公園は、池畔の遊歩道が楽しい散歩コースだった。その後、井の頭公園近くに転居したものだから、私の意識の中では二つの公園が混在しているのだけれど、久しぶりに石神井を訪れて、こちらの方がはるかに野趣豊かなのだと改めて気付いた。梅雨入り前の日曜日、近くの小学校から運動会の歓声が響いて来る。
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最近になって花の美しさに目覚めたらしい娘にせがまれ、植物公園に行くことが多くなった。4月20日に訪れた神代植物公園は「つつじウィーク」の渦中で、園内はツツジの香りでむせ返らんばかりであったものの、広大なバラ園は全て蕾で、花は一輪も咲いていなかった。それが5月25日に再訪すると、「春のバラフェスタ」はすでに終盤に入っているらしく、萎れて痛み、枯れた花びらが目につくのだった。「花の命」はまことに儚いのである。 . . . 本文を読む
このところ連日「お茶の水橋」を渡っている。JR御茶ノ水駅西側改札を明大通りに出て右折すると、中央線に沿って流れる神田川を渡ることになる。そこに架かるのがお茶の水橋だ。渡り切ると道は外堀通りに吸収されるのだが、突き当たりに東京科学大学と名を変えた旧東京医科歯科大学病院が建っている。妻が入院しているのだ。1階のスターバックスでコーヒーを買い、面会手続きをとって11階の病室に向かう。妻が嬉しそうに微笑む。 . . . 本文を読む
新緑はこれほど美しいものだったのだと、あらためて驚かされる連休さなかの5日、青梅で緑に染まっている。会いたいと思っていた夫妻が「高崎に越すことになりました」と聞き、慌てて出かけてきたのである。彼らが青梅に来て3年、わが家からは電車1本、1時間もかからないというのに、互いに「近いといつでも会えると思ってしまいがち」で、無沙汰が続いていた。河辺駅で迎えてもらい、「まずツツジを」と塩船観音に案内していただく。
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写真の家族連れは、日本から来た観光客だろう。日本人と台湾の人たちは、見分けがつかないほど似ていることが多いけれど、掲げるランタン(天燈)に書かれた願い事が日本語だからそれと分かる。「安定した生活」「成績学校No.1」と、なかなか欲張りな一家である。ここは台湾北部の山中の村・十分(シーフェン)。「神様の住処に一番近い村」なのだそうで、ランタンに乗せて舞い上がる願いは神様に届くはずだという。天空はお願いでいっぱいだ。 . . . 本文を読む
この国は75歳を超えると「後期高齢者」というラベルが貼られる。当事者は「前期と後期に何の違いがあると言うのだ」と戸惑うのだが、境界を何年か過ぎてみると、確かに「心身ともに変化したかもしれない」と思うことはある。「心」は好奇心の低下や感受性の摩滅、「身」は体力の低下を顧みれば反駁しようがない。私の場合、それは展覧会への関心が薄れる形で現れた。それでも「日本人はどこから来たか」などと問われると、奮い立つのである。
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日本統治時代の台湾関連書を読んでいると、基隆(きいるん)という街がしばしば登場する。台湾最北部の港湾都市で、日本の与那国島とは150キロしか離れていない。日治時代は統治の足場であったのだろう、台湾に移住する日本人の多くがここから上陸して行った。そのせいだろうか、私が覚えた台湾の街の名前では、台北や高雄に次いで早かったように思う。年間降雨日が200日を超えるという雨港・基隆は、この日は快適な陽気で迎えてくれた。 . . . 本文を読む
台北の国立博物館に行く。台湾島は中国大陸の東150キロのプレート境界上に隆起した孤島で、アフリカを出た人類がユーラシア大陸を東西に移動した太古の時代、大陸からか、あるいは南方のマレー方面からか、海を越えて渡ってきた人々が住み着いたのだという。これら台湾原住民の祖先たちはいくつもの部族に別れ、それぞれのテリトリーを守る生活を続けたが、統一的な国家を形成することはなかったーーと説明されているらしかった。
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