葉山でベン・シャーン展を観た後、鎌倉に戻り、今度は神奈川県立近代美術館《鎌倉》で「藤牧義夫展」を鑑賞した。つまりこの日は展覧会をハシゴしたわけだが、もともと観たいと思っていたのは藤牧義夫の版画展だったのだ。しかし「鎌倉は遠い」とぐずぐず日を送っていたところ、ベン・シャーン展が開催中だと知り、両方の展覧会日程が重なる一度だけの週末に腰を上げた。なぜ藤牧義夫(1911-1935?)に執着したのか。
. . . 本文を読む
神奈川県立近代美術館《葉山》のテラスは依然として細かい雨に煙っているのに、相模湾を遥かに望めば、大きな富士が冠雪を輝かせているではないか。展覧会場を抜け出した人たちは、しばし見とれて言葉がない。日本人は本当に富士山が好きなのだ。三浦半島のこちら側はほとんど来たことがない私には、自分の立ち位置がどのあたりなのか、とっさには把握できない。富士の左に低く蒼く連なっているのは、箱根の山々だそうだ。 . . . 本文を読む
フィレンツェといえば、決まってこのアングルの写真が掲げられる。ランドマークであるサンタ・マリオ・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)のクーポラと、アルノ川に架かるヴェッキオ橋の景観である。世界遺産の都市景観を代表する風景といってもいいだろう。これはどこからの眺めなのか、できることなら行って写真を撮りたかった。地図を調べると川を見下ろす位置に「ミケランジェロ広場」という丘がある。坂を登ってみる。 . . . 本文を読む
白い頬を紅潮させた坊やは緑のスカーフをまとい、赤のつなぎが愛らしい。クリスマスの散歩に連れ出したパパとママは、息子をイタリア国旗でまとめたのに違いない。ここはフィレンツェのシニョリーア広場。石畳を駆け回る坊やは将来、彼の後方に立っているダビデのように逞しくなるかもしれない。ダビデ像は今は美術館に納められているけれど、ミケランジェロから200年ほどの間は、このヴェッキオ宮殿前に立っていたのである。 . . . 本文を読む
システィーナ礼拝堂の天井画が堪能できると勇んで出かけたのだけれど、たどり着くまでに名画の洪水を潜り抜けて来たことに疲れ果て、そのうえ礼拝堂は、大盛況の立食パーティー会場のような人の群れであったから、私たちはしばし隅のベンチに座り込み、そこから天井画を見上げた。その中央には確かに、アダムに命を吹き込もうとする神が人差し指を延ばしているのだけれど、指と指は触れようとしてなお、触れていないのだった。 . . . 本文を読む
松尾芭蕉が出雲崎に立ち寄ってから69年を経た1758年、この天領湊町の名主、橘屋に長男が生まれた。後の良寛である。越後はこの僧一人が生きてくれたおかげで、歴史に潤いを満たすことができたと、私は考えている。その良寛はいま、生家跡に建てられた堂の前で、日本海を眺めている。「いにしへにかはらぬものはありそみとむかひにみゆる佐渡のしまなり」と、母の生地である佐渡ヶ島に思いを馳せる歌を口ずさみながら。 . . . 本文を読む
日本海の風波から稲作地帯を守かのように、新潟の海岸線には弥彦連山が延びている。西蒲原で生まれた私にとって、それはふるさとの記憶に欠かすことのできない風景である。新潟市に引っ越す前の幼い日、母を迎えに勤める中学校まで農道を行きながら、弥彦山に落ちる夕陽を浴びた記憶である。しかしそれほど親しんだ存在であるにもかかわらず、では山の向こうはどうなっているのか、考えてみたこともなかったのは不思議である。
. . . 本文を読む
結論から言うと被害はなかったのだけれど、あのとき私はスリ集団に囲まれていたらしい。お腹のあたりに押さえていた(つもりの)ショルダーバッグは、気がつくとフックがはずれ、ファスナーも開いていた。ローマの地下鉄での、クリスマスイブのことだ。ローマに行くならくれぐれもスリには気をつけるようにと、たくさんの注意を受けた。だから私もそれなりに気を張っていたのだが、永遠の都の賑わいに浮かれてしまったのだろう。 . . . 本文を読む
宗教は《人間の魂を救う》という共通の目的を持ちながら、その手段であるはずの教義をめぐって戦争まで引き起こしたりする。そのくせ宗派を超えて、ある同様の行動癖を持っていることが「やはり人間の成せる業なのだ」と可笑しくもなる。それは、寺院・教会・聖堂・モスクなどと呼ばれる祈りの場のことで、教団の勢力が増大するにつれ巨大化し、豪華に飾り立てられて行く。サン・ピエトロ大聖堂は、まさにその筆頭格であろう。 . . . 本文を読む
ローマで食事をしたレストランのオーナーが、日本人女性だった。同世代の私たちが気に入ったらしく、オーナー席だというテーブルに招きワインを振る舞ってくれた。34歳で東京からローマにやって来て、来年で日本とイタリアの人生が同じ歳月になると言った。なぜローマで生きると決めたのかと問うと、「この街が一番素敵だったから」と答えてくれたけれど、実際はそう簡単な話しではあるまい。異境での波乱の半生だっただろう。 . . . 本文を読む
19世紀フランスの作家・フロベールが「神々はもはや無く、キリストはいまだ出現せず、人間が一人で立っていたまたとない時間」について書いているそうだ。原典の書簡集を確認したわけではないので、以下の解釈は私の大いなる誤解かもしれないのだが、その「またとない時間」は「キケロからマルクス・アウレリウスまで存在した」と定義付けられているから、帝政ローマ期の紀元前後2世紀ほどの間を指していることになる。 . . . 本文を読む