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昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

944 紫香楽(滋賀県)廃都には1200年の風が吹く

2021-04-16 09:44:21 | 滋賀・京都
痩せた雑木が立ち並ぶ疎林を、冷たい風が吹き抜けていく‥‥ように感じるのだが、実際には風は吹いていない。剥き出しの礎石が点在する風景が、そうした感覚に陥らせるのかもしれない。廃棄された都とは、こういうものであろうか。聖武天皇・紫香楽宮跡である。1200年余も放置されていたにしては、削られて他の用途に用いられることがなかった土地である。そんなところに遷都しようとした帝の胸中には、何が去来していたのであろう。



続日本紀は天平14年(742年)2月に「初めて恭仁京から東北へ行く道を造成し、近江国甲賀郡に通ずるようにした」との記事を載せている。現在の国道307号・木津信楽線に重なるルートを拓いたのだと思われる。ほぼ35キロの道のりである。そして8月、「天皇、紫香楽宮に行幸」となる。一行の車駕は1日で紫香楽に着いた。そして3日後には恭仁京に還っている。信楽川の谷に急造された道を往復する、かなりの強行軍であったろう。



信楽川は現在の信楽駅前で大戸川に合流、大戸川は狭い盆地を抜けた後、信楽高原の北辺を左回りに縫って琵琶湖からの瀬田川に落ちて行く。紫香楽宮は、こうした高原上に細長く延びる盆地の、行き詰まりのような狭い土地に造営されている。比較的土地が広い現代の街の中心からは6キロほど離れている。私は「何故ここに」を感じたくてやってきたのだが、かえって「なぜ」の思いが強くなった。聖武天皇はなぜここに籠りたかったのか。



平城京から北東の山へ、ひたすら分け入って辿り着く高原である。盆地であるから、険しい山が迫る息苦しさはなく、なだらかな丘が連なる穏やかさがある。寒さは厳しいだろうが、春から秋にかけてはさぞや美しい風光に包まれるのだろう。だから離宮ならふさわしい土地だろうが、天皇はここに大仏を建立しようとした。やはり信楽を都城にしたかったのだろう。世から逃れるように、あるいは隠れるために、聖武はここに籠りたかったのだろう。



内政外交に難題を抱え、天然痘が流行り、巨大地震が頻発した天平年間は、現代とよく似ているようにも思える。「志は広く人民を救うこと」と宣う聖武は、「天下の富と権勢を所持するのは朕である」として盧遮那仏を造ろうとするのだが、紫香楽宮は3年で放棄される。私がいる小丘は内裏野の地名が残る宮跡比定地だけれど、近年、2キロほど北に大規模な遺構が発掘され、今ではそちらが宮跡で、こちらは甲賀寺の跡だと考えられているようだ。



紫香楽」は「信楽」の修辞であろう。甲賀宮とも呼ばれたらしい。紫香楽宮跡駅は無人の寂しい駅だが、駅前から内裏野までは郊外の新興住宅地といった佇まいである。信楽の陶芸に関わる人たちが暮らしているのだろうか。



帰路、電車左側の車窓に目を凝らす。線路と道路に挟まれた狭い土地に、手を合わせたようなモニュメントが建っている。1991年5月14日、ここで信楽高原鉄道列車事故が発生、42人が死亡した。その慰霊碑である。



 あの日は火曜日だった。私は開催中の「世界陶芸祭」に行こうと信楽を目指していた。ただ、大阪から高原鉄道に乗り入れる直行電車を利用するはずだった計画は、直前になって同僚が「僕も休みが取れたから、車で案内するよ」と誘ってくれたことで、急遽変更になった。乗るはずだった電車は満員の乗客を乗せ、この地点で事故に遭った。私の45歳の誕生日、人生で最も惨事に近づいた日だった。間もなく30年になる。車窓から黙祷した。(2021.4.5)















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