追分とは「道が左右に分かれる所」を指す。ただし「牛馬を追い分ける」ような、それなりの主要な分かれ道を云うのであろう。だから地名として今も残る「追分」は、かつて賑わった街道の痕跡なのだ。なかでも中山道と北国街道が分岐する追分宿は、浅間根越の三宿と呼ばれた沓掛、軽井沢宿とともに大いに繁盛し、馬子唄「追分節」はここから全国に広まって行った。かつての宿場は、国道18号の喧騒から隠れるようにして残っている。 . . . 本文を読む
「ぎょうだ」と濁音の多い街の名を聞くと、反射的に浮かぶのは「足袋」である。行田はかつて、圧倒的な国内シェアを誇る足袋の街だった。そしてその「袋」からの連想か、思いは「花袋」へと飛び、その作品「田舎教師」に行き着く。行田で育った文学青年が、大望を抱きながらも田舎の教職に埋もれ、若くして死んで行くという自然主義文学の金字塔の舞台が、羽生である。モデルの教師が下宿した寺では、地蔵が陽に焼かれている。
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行田の古代蓮が泥中の眠りに就いて数千年、地上は大和朝廷が支配する時代となり、東国でも、朝廷に仕える豪族が巨大な古墳造りに民を使役するようになった。なかでも後の世に武蔵国の稲荷山古墳と呼ばれる、全長120メートルの前方後円墳を築かせた乎獲居(ヲワケ)臣は、大王家の親衛隊長を務めた一族の輝かしい由緒を刻んだ大刀を作らせ、副葬するよう命じた。それからまた1500年、行田はこの鉄剣発見で大騒ぎになった。 . . . 本文を読む
「花」はすべからく美しい。色も姿もそれぞれで、時には奇妙な形もあるけれど、全てに共通しているのは「美しい」ということだ。だからそれらを選別するなど思い上がりも甚だしいのだけれど、「夏の花を一つ選べ」と問われたら、トップは「蓮」になるに違いない。わずか4日の寿命のうちに、膨らみ・開き・受粉し・散る。まるで美しくも儚い女体のようではないか。その艶やかさに触れたいばかりに、炎天を厭わず私は行田へと向かう。
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夏草がはびこる薮の奥で、黒々と口を開ける闇は、石室への入口である。先ほどから私は、容赦ない日差しと草いきれに閉口しつつ「小さな古墳だけれど、私が入るであろう墓より遥かに大きい」などと考えている。吉岡町南下(みなみしも)。群馬県のほぼ中央、前橋・高崎・渋川の3市に囲まれて、自治体区分地図では陸の孤島のような小さい町なのだが、確認されている古墳は400基を超え、古墳大国・群馬でも有数の古代の墓域なのだ。
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