今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

539 八ッ場(群馬県)沈み行く美田を最後に見下ろして

2013-10-26 19:49:49 | 群馬・栃木
これを「やんば」と読むことができるのは、私が群馬で暮らしたことがあるからで、それは40年以上昔のことになる。当時すでに「八ッ場ダム建設計画」は県政の大テーマになっており、群馬県北西部を西から東に流れ利根川に合流する吾妻川を堰止めて、首都圏の水瓶にしようという構想は、水没住民を賛否2派に分断し激しい騒動を招いていた。そして今、計画地は空中高く橋が架かり、ダム湖の広がりが想像できるまでになっている。



私が立っているのは「不動大橋」という名の湖面2号橋の上だ。長さは590メートルあって、ダム湖のほぼ真ん中の、湖の幅が最も広くなるあたりだ。前方(下流側)に遠く望まれる橋脚は、建設が進む湖面1号橋で、ダムサイトはその少し先に姿を現すことになっている。写真の左上部に見える白い円形は、水没地を避けて新たに建設された国道145号の久森トンネルだ。つまりそのあたりまで水没し、ここに広大な人造湖が出現する。



右手前から前方に流れて行くのが吾妻川で、この日は大型の台風が群馬に暴風雨をもたらした直後なので、泥のように濁り、水かさが増している。八ッ場ダムは水瓶としての必要性が薄れて来た近年、推進派はむしろ洪水調整機能を力説するようになったが、何年に一度かの台風が通過したあとでもこの程度の水量だから、洪水などめったに起きるようにも思えない。しかし防災では「利根川本流の流れを抑えるためにも」となるのだろう。



このダムの必要性が実際どの程度のものなのか、私に判断する材料はないものの、これほどダムが造り易い地形はそうないだろう、ということは分かる。ダムサイトのあたりは吾妻渓谷と呼ばれ、川の両側に急峻な崖が迫り、わずかな幅の堰を造ればダムになる。ダムは、人間が自然を創り換える最もダイナミックな建造物といえるから、土木工学を学んだ人たちは、こんな地勢を目の当たりにしたらダム建設の衝動に駆られることだろう。



確かにこの吾妻渓谷は深く険しく、かの勇猛な真田軍団が信州上田から上州沼田を往来するのに、わざわざ暮坂峠を越える道を選ぶしかないほどだったといい、現代の国道も狭く曲がりくねって、何とかしなければならない道路ではあった。反対運動が最も激しかった川原湯温泉は旅館の取り壊しが急ピッチで、移転先となる湖畔には真新しい建物が増えつつある。道路の改良と新しい風景を産むダムは、悪くない選択のようにも思えて来る。



しかし似たような騒動が続いた熊本県五木村の川辺川ダムは、八ッ場と同じような天空の橋を子守唄の里に残し建造が凍結された。おそらく八ッ場ダムも、その建造費の何割かで流域に防災措置を施し、道路を改良することは可能だったろう。しかし旧建設省の奥の院あたりでは、幻に終わった利根川の沼田ダムのリベンジを何とか吾妻渓谷で、が悲願のように引き継がれて来たのではないか。どうも私はダム反対論者のようである。



旧国道から山に分け入ると、群馬県埋蔵文化財調査事業団の「八ッ場ダム調査事務所」があった。湖底に水没する遺跡地の発掘調査を行っている。出土品の展示室があって、縄文時代以来の土器などが並べられている。そのなかに天明3年(1783年)の浅間山噴火による泥流が、吾妻川流域に引き起こした大惨事を解説する展示もあった。こんな数百年に一度の大厄災を、はたしてこのダムは食い止めることができるだろうか。(2013.9.16)



















コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 538 米子(鳥取県)広々と歩... | トップ | 540 草津(群馬県)このお湯... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めまして (yoshiki)
2016-08-23 01:08:34
ひょんなことから、暮坂芸術区のことを調べているうちに、辿り着き、読ませて頂いております。読み始めて小一時間で生まれ故郷が出て参りました。いつの日暮坂でお逢いしたいです。
返信する

コメントを投稿

群馬・栃木」カテゴリの最新記事