善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」は、本堂最奥部の瑠璃壇に安置されている、ということになっているが、秘仏であるから確認しようがない。ただその床下に回廊があって、仏の足元を一周することはできる。途中、あるものに触れると御本尊と結縁を果たしたことになり、往生する際には阿弥陀如来にお迎えに来ていただけるという。さっそく潜ってみたのだが、情けないことに絶対の「暗闇」に圧倒され、何に触れたか覚えがない。 . . . 本文を読む
記憶とは、ポイントとなる対象に出遭うと一瞬にしてよみがえるもののようである。雨に濡れながら訪ねた長野県信濃町で、小さな土蔵の前に立った瞬間、「ああ、ここだここだ」と、50年前の遠足を思い出したのだ。俳人・小林一茶が晩年を過ごした土蔵である。小学6年生の春だった。バスか列車かは忘れたけれど、新潟市から妙高高原まで来て一泊し、翌日、野尻湖を回って一茶の旧跡を訪ねたのだった。
一茶の俳句は、小学生で . . . 本文を読む
「上野」は、東京のノスタルジーを代表する街の一つだ。私もこの駅に降りることによって故郷と別れた一人だから、Uenoという響きに出遭うと常に特別な思いに襲われる。それにしてもこの街は、いつ行っても混沌の中にある。山手と下町の境界に位置するゆえの混沌なのだろうか、おしゃれな人と野暮な人、リッチな人と貧しい人、健全そうな人たちと怪しげな人・・・。呆れるばかりの都会の縮図である。
葉桜の下を、賑やかな . . . 本文を読む
覆い被さるような梢から色素が滴り落ちて、身も心も緑に染まってしまいそうな広場。そんなところでゲートボールに興じていられるのは、生活に屈託がないという証明であろう。これは年老いて後の、一つの幸福なシーンだと、私もそのおすそ分けに預かって、しばらく眺めていたのである。ここは新潟県妙高市の市中公園。最近までは「新井」と言った、長野県境の街である。日曜日の朝、この街で90分を過ごした。
直江津から長野 . . . 本文を読む
上越市の山中に、桑取(くわどり)という谷筋がある。かつて奈良の十津川郷のことを調べている折に手にした『秘境』(宮本常一編、昭和36年、有紀書房)という1冊に、全国24カ所の秘境の一つとして取り上げられていた。すっかり忘れていたのだが、出かけることになって「もしや」と古いメモを取り出し確認したら、やはりこの谷のことであった。しかしいまや秘境の面影は薄れ、むしろ桃源郷の佇まいである。
信越国境の妙 . . . 本文を読む
この写真は十日町ではない。十日町に行く車窓から眺めた、多分、六日町の手前あたりであろう。上越新幹線を越後湯沢で「ほくほく線」に乗り継ぐと、間もなくこの風景が広がる。新幹線よりやや高台を走っているから得られるこの眺望は、私をいつも晴れ晴れとした気分にしてくれる。「日本の車窓」という選集が企画されれば、取り上げられてしかるべき地点ではないか。列車は八箇峠の長いトンネルを抜け、十日町に着く。
この街 . . . 本文を読む
かつて東海のある街で単身赴任をしていたころ、居酒屋の常連客同士が盛り上がり、「湖東へ紅葉見物に出かけよう」ということになった。幹事役を命じられた私は凝りに凝って彼の地を調べ、1泊2日のプランを練り上げた。その際、個人的に最も興味が湧いた地は、湖東三山でもなければ永源寺でもなく、五箇荘とその周辺に散在する寺々であった。風変わりな地名の響きと、数多の近江商人を排出した土地への関心である。
この紅葉 . . . 本文を読む
三崎の港は、祭りでにぎわっていた。たまたまそこに行き遇った旅人であっても、土地の人々の元気な笑顔を見ることは楽しい。遠巻きに神輿のもみ合いを眺めながら、半島の突端での暮らしに思いを馳せる。そうした旅は徒歩がいい。点から点へ車で駆け廻るより、気ま
まに「街の線」を辿っていくことで、見えてくるものがある。例えば城ヶ島大橋の空中散歩は、徒歩だからこそ潮風を感じ、空の広さを楽しめる。
江ノ島を荒っぽく . . . 本文を読む
短時間の滞在で国宝を2点も鑑賞できたのだから、彦根訪問は大成功だったと言わねばならない。国宝「彦根城」はいつ行っても仰ぎ見ることができるとしても、井伊家に伝わる国宝「彦根屏風」はそうはいかない。彦根城博物館で年に一度の公開中だということは、事前の調査でチェックしておいた。気がかりは閉館時間である。屏風に対面するため城の大手坂を駆け登った。図らずも彦根城の堅牢さを体感することになった。
息せき切 . . . 本文を読む
この写真の中に、人はいない。火山性有毒ガスの高濃度立ち入り禁止地区であるから、少なくとも生活はない。山肌には地すべりの黒い筋が幾重も刻まれ、稜線の木立は立ち枯れて卒塔婆の列のようである。三宅島はこの状態が7年間、続いている。近づくと、家々の傷みは激しい。このまま朽ち果てていくしかないのかもしれない。火山という地殻活動の前で、人間はいかに無力であるか、沈黙の集落は、雨に濡れていた。
運行が再会さ . . . 本文を読む
大阪の人々にとって、「天王寺」とはいかなる「場所」か。私の「大阪暮らし」は13ヶ月に過ぎなかったから、街に抱く大阪人の心情を理解するには不足だった。ただ「東京で言えば《上野》かな?」と想像した程度である。「訛り懐かし停車場」かどうかは知らないが、交通の拠点で公園があり、動物園があって美術館があり、そして露天暮らしが似合う、懐かしいけれども落ちつかない街。天王寺はそんな上野によく似ている。
私の . . . 本文を読む
堺の辻で「竹内街道」に思いを馳せたものだから、かつて大和・当麻の竹内(たけのうち)を歩いた記憶を呼び戻してみる。・・・私は1997年1月3日、まだ當麻町竹内だった(合併により葛城市に編入)鄙びた里の道を歩いていた。司馬遼太郎氏が「もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾―竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう」と書いた道である。
長尾の集落 . . . 本文を読む
ここは日本史少年に、特別の思いを抱かせる街(のはず)であった。「自由都市」のことである。貿易と商工業の富で豪商たちが、封建暴力社会において「自治」を確保した。そんな街が日本にもあったということに、少年は胸ときめかせたのである。老年の入り口にさしかかったいま、その街角に立ち、彼は抱き続けてきた歴史の華やぎを追った。しかしもはやそれは幻でしかなく、元少年は肩を落として帰るしかなかった。
「堺」が摂 . . . 本文を読む