今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

942 甲賀(滋賀県)今もなお忍者出没こうか衆

2021-04-14 08:57:13 | 滋賀・京都
「油日」という地名も、油日大明神を祀る「油日神社」も、日本中でここ甲賀にしかない。なんとも不思議な響きだけれど、878年の文書に由緒ある神社として登場するそうだから、創祀はそれを遡ることは間違いない。20代目になるという神主さんは「もう、よく分かりませんね」とおっとりしたもので、「ここまでおいでになったのですから、櫟野寺にも行かれたらどうです」と薦めてくださる。「甲賀」は小さな城跡と寺が実に多い不思議な里である。



戦後まで「油日村」があった。それがが合併で甲賀郡甲賀町が生まれ、さらに平成の大合併で信楽町など5町が一緒になって甲賀市が発足した。ちなみに甲賀は濁らず「こうか」だ。甲賀市の人口は約9万人で、旧水口町辺りが街の中心らしい。柘植と琵琶湖畔の草津を結ぶ草津線が走る野洲川の谷を挟んで、油日のある鈴鹿山系から西部の信楽盆地まで、市域は広い。東と西とでは風土も経済圏も異なるだろうに、合併市の運営は大変だろう。



旧甲賀町は「忍者の里」を前面に押し出している。甲賀駅に降りると、駅の中は忍者のだまし絵的装飾で溢れ、見る者を術中に陥れる。駅前のブロンズ像はもちろん忍者だし、街角の「飛び出し注意標識」はちびっこ忍者だ。甲賀と、山の向こうの伊賀に、なぜ忍者集団が生まれたのだろう。伊賀から西へ、山を越えていけば柳生がある。この地理的つながりに何か秘密があるのではないか。都の周縁にあって、勢力を広げるにはあまりに土地が狭い。



特に甲賀は東海道筋にあって、諸国の情報を得やすかった。その情報を武器に、大きな勢力の陰に入って土地の安堵を得ていたのだと思われる。柳生もなにやら似た集団である。そして伊賀の南の名張一帯は、万葉の時代の吉隠である。「降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(いかひ)の岡の寒からまくに」は、後に忍びの術を育む適地だったのだろう。その末裔の地は、今はいたって長閑で、小さな公園には「早寝早起き朝ごはん」とある。



予約通り油日神社の収蔵庫を開けてもらう際、神主さんは参詣客に「よろしかったらどうぞ、有料ですが」と声をかけた。桜の境内を写真に収めていた若者が「ラッキー!」と言って入ってきた。神主の櫟野寺(らくやじ)の勧めにも興味を示している。そこで私はひらめいた。「車ですか?」「ええ」「一人?」「ええ」。「では一緒に櫟野寺に行きましょうか。そしてあなたは私を油日駅まで送ってくれる」「ええ? ええ」。私も「ラッキー!」である。



近江路は魅力的なのである。平城・平安の都のバックヤードとして、食糧・材木などを供給する一方で、都の文化を受け止め、きらびやかさは乏しいものの、民衆の暮らしに密着した信仰風土を残している。それは湖北特有かと思っていたのだが、南の甲賀にも痕跡は濃い。櫟野寺は今は途絶えた油日寺など甲賀六大寺の中心だったのだそうで、里の規模とは不釣合いなほどの大寺である。収蔵庫に並ぶ平安仏に、湖北・己高閣の仏たちを思い出した。



櫟野寺には、鈴鹿山の山賊退治に向かう坂上田村麻呂が、本尊の「いちいの観音」に祈願したという言い伝えがある。寺から北へ土山(つちやま)に出て、賊を討伐したのかもしれない。この日は信楽まで脚を延ばしたかったのだが予約できる宿が見つからず、甲賀駅近くのホテルに泊まった。泣きたくなるようなホテルだったけれど、帰りに土山産のほうじ茶を土産にくれた。緑茶は宇治へ運ばれるのだそうだが、ほうじ茶もうまい。(2021.4.3-4)
















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