釧路の夏は霧が深く、寒い。釧路川が濃い霧に包まれた朝、街のシンボル「幣舞橋」をOLらしき女性が渡って行く。職場に向け急いでいるのだろう、しっかり長袖を着込んでいる。「釧路の夏を見つけた!」と、私はすかさずシャッターを切った。見事にそのチャンスを捉えたと思うが、いかがであろう。かくいう私は、想定外の寒さに持参したシャツをすべて着込み、襟が二重という哀れな格好である。何しろ日中の気温が16度なのだ。 . . . 本文を読む
丹頂鶴に対面した時、人間の私の方が粛然として居住まいを正したようだった。野生動物は往々にしてそうしたオーラを放つものだが、タンチョウのそれは大した貫禄であった。霧多布の、立秋を過ぎた日の早朝である。沼かと思うほど静かな湿原の川の縁を、彼?はエサをついばみながら近づいて来た。私のことはとっくに気づいているに違いないのだが、全く無視して全身を晒している。北海道の自然の中では、人間の何と小さいことか。 . . . 本文を読む
8月だというのに、北部九州はまだ梅雨明けしていない。それでも唐津港を発ったフェリーは薄日を浴びて、心地よい潮風を切って玄界灘を北上して行く。その風が「冷えてきた」と感じた時、壱岐の島がすぐそこに近づいていた。平坦な島の、上空だけが黒い雲に覆われている。あいにくの空模様で、海を渡る風が島を通過しながら冷やされているのだろう。魏志の編纂者に倭人のクニグニについて語った旅人も、この風を感じていただろう . . . 本文を読む
唐津は二度目だが、宿泊するのは初めてである。ゆっくり滞在して再認識したことは、「唐津はいい街だ」という、実に割り切りのいい感想である。私にとっては余りに遠い街で、土地の気風や住民の気質、細かい行政サービスの善し悪しについてまで判断できるはずがないけれど、例えば「リタイア後の人生をのんびり送りたい」という向きにとって、これほど条件が適っている街は珍しいのではないか。自然災害もほとんどないのだという . . . 本文を読む
信濃の旅を続けている。還暦同窓会の誰かが「無言館に行ってみたい」と言った。戦没画学生の展示施設であるらしい。案内役が車を上田方面に向けた。北国街道・海野宿を離れ千曲川を渡ると、農村の原風景のような集落をいくつか過ぎ、小さな峠を越えた。佐久平から塩田平に入ったのだろう。同窓会の面々が育った越後蒲原に比べたら、箱庭のような盆地である。常に山が、風景のどこかに迫って来るのが信州なのであろう。
「無言 . . . 本文を読む
天気予報で「明日は前線が移動し、空気が入れ替わるでしょう」といった表現を耳にすることがある。空気が入れ替わるーー。人間など地球のホンの小さな構成物に過ぎないと、改めて教えてくれる表現だ。高峰高原(前項「小諸」参照)から見晴らす佐久平は、山に囲まれた空を両の手に掬い採り、空気を入れ替えることができそうに見える。そしてその時、時間もスルリと入れ替えてしまったら、麓の海野(うんの)宿はどんな光景になる . . . 本文を読む
還暦を過ぎたおじさんおばさん5人が、小諸に集うことになった。中学の同窓生なのである。その間、消息を伝え合う間柄ではあっても、それぞれがそれぞれの土地で職業に就き、世間並みに多忙な人生を送ってきたものだから、ずいぶん久しぶりの同窓会である。その場がなぜ小諸なのか。メンバーの一人が長い海外生活を切り上げ、日本復帰の場として選んだ街が小諸だったからだ。浅間高原の「寒さ」が気に入ったのだというのだが・・ . . . 本文を読む
7月に入って間もなく、京都に行った。すでに祇園祭が始まっているということで、街にはまだ山車が姿を現していないものの、中心街の四条河原町界隈では提灯飾りが歩道を彩り、流れて来る鉦のお囃子がそのことを告げていた。日本三大祭りの筆頭に挙げられる祇園祭ではあるけれど、こうした古い街では、大掛かりな行事もすっかり生活に溶け込んでいるらしく、街は特に浮かれた様子はなく、しかししっかり華やいでいるのだった。
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ペリーはなぜ、浦賀に来たのだろう。米国大統領の国書を携え、日本に開国を求めるためだったことは知っているけれど、それがなぜ「浦賀」だったのか。江戸湾の開口部にあって幕府の奉行所が置かれ、そのころは三浦半島一の繁華な港だったからなのか。そうしたことはすでに研究され尽くしているのだろうが、書をひも解くより行った方が早いと、出かけることにした。都心から高速を使って2時間ほど、この「距離」に注目した。
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