ガウディやモンタネールを生んだ建築の聖地・バルセロナは、同時に現代絵画の都でもある。ミロが生まれ育ち、ピカソが本格的に絵を学んだ街なのだ。さらにカタロニアという範囲に目を広げれば、ダリもいる。スペインにはゴヤとベラスケスだけでも絵画史に特筆されるべき国だが、そのうえにミロにピカソにダリである。何というきらびやかな才能群であろうか。バルセロナはミロとピカソに国立の美術館もある、美の巡礼地なのだ。
スペイン広場からオリンピックスタジアムのあるモンジュイックの丘に登る。まるで宮殿のようなカタルーニャ美術館がそびえ、振り返るとバルセロナの市街が一望された。そのまま丘を進むと森の小径があった。季節のせいか、市街地ではほとんど見かけなかった緑がここでは青々と繁り、街の貴重な公園であることが分かる。丘の奥に建つミロ美術館に行くと、日本の画学生らしき一行がいた。美術研修にこの街はうってつけなのだろう。
個人美術館としては規模の大きいミロ美術館は、その作風の変遷が理解できるように展示が工夫されていて、私の好きなミロの作品が、どのように生まれて来たかが分かって実に興味深かった。屋上には立体作品が並んでいて、その一つを先ほど見かけた日本の若者らが取り囲んでいた。「おっ、この脚、そそっている」「そうねえ、この組み方はそそっているわね」などと談笑している。芸術家の卵らしい、風貌も独特の若者たちだ。
「そそる」とは私には意味不明であったが、創作に携わる若者の視点は私などより鋭いはずだ。微妙な脚の組み方が観る者にどのような反応を起こさせるか、ミロは計算していたということなのだろう。私は脚の組み方より、その色彩に目を奪われる。赤、黄、青、緑と、街に溢れている色を組み合わせて、鮮やかで、しかし決してうるさくない、光が満ちて来る思いにさせる。現代のバルセロナの色は、ガウディではなくミロかもしれない。
カタロニア人は、南部人を見下す癖があるらしい。「前線の僕らの隣りには、アンダルシア人の一隊が来ていた。彼らがどうしてこの前線へ来ることになったものか、僕には見当がつかない。マラガからあんまり急いで逃げ出したもので、バレンシアでとまるのを忘れちゃったんだ、という説明が行われていたが、これはもちろん、アンダルシア人を未開人として見下しているカタロニア人が言いふらしたものにすぎない」(『カタロニア讃歌』より)
そのマラガに生まれ、14歳でバルセロナの美術学校に入学した少年がいた。パブロ・ピカソである。この天才にとって、カタルーニャとはどんな土地だったのだろう。馴染みにくい街だったのではないかと想像するけれど、パリに出てからもバルセロナには何度も来ていたというから、強い縁で結ばれていたのかもしれない。そのピカソの美術館は、見晴らしのいいミロの美術館とは対照的に、旧市街の下町っぽい路地を行った奥にある。
カタルーニャ広場の西の街区に、バルセロナ現代美術館がある。隣接して文化センターや国立バルセロナ大学の芸術学部もあり、市街地に現代アートの拠点が集合している。これもバルセロナという街の、美術に向ける意思なのだろう。美術館前の広場では若者がスケボーの騒音を響かせ、小さなギャラリーはかなりハードな作品展を開催していた。広場を抜けると、アーティストたちのショップが並んでいるのだった。(2011.12.18-22)
スペイン広場からオリンピックスタジアムのあるモンジュイックの丘に登る。まるで宮殿のようなカタルーニャ美術館がそびえ、振り返るとバルセロナの市街が一望された。そのまま丘を進むと森の小径があった。季節のせいか、市街地ではほとんど見かけなかった緑がここでは青々と繁り、街の貴重な公園であることが分かる。丘の奥に建つミロ美術館に行くと、日本の画学生らしき一行がいた。美術研修にこの街はうってつけなのだろう。
個人美術館としては規模の大きいミロ美術館は、その作風の変遷が理解できるように展示が工夫されていて、私の好きなミロの作品が、どのように生まれて来たかが分かって実に興味深かった。屋上には立体作品が並んでいて、その一つを先ほど見かけた日本の若者らが取り囲んでいた。「おっ、この脚、そそっている」「そうねえ、この組み方はそそっているわね」などと談笑している。芸術家の卵らしい、風貌も独特の若者たちだ。
「そそる」とは私には意味不明であったが、創作に携わる若者の視点は私などより鋭いはずだ。微妙な脚の組み方が観る者にどのような反応を起こさせるか、ミロは計算していたということなのだろう。私は脚の組み方より、その色彩に目を奪われる。赤、黄、青、緑と、街に溢れている色を組み合わせて、鮮やかで、しかし決してうるさくない、光が満ちて来る思いにさせる。現代のバルセロナの色は、ガウディではなくミロかもしれない。
カタロニア人は、南部人を見下す癖があるらしい。「前線の僕らの隣りには、アンダルシア人の一隊が来ていた。彼らがどうしてこの前線へ来ることになったものか、僕には見当がつかない。マラガからあんまり急いで逃げ出したもので、バレンシアでとまるのを忘れちゃったんだ、という説明が行われていたが、これはもちろん、アンダルシア人を未開人として見下しているカタロニア人が言いふらしたものにすぎない」(『カタロニア讃歌』より)
そのマラガに生まれ、14歳でバルセロナの美術学校に入学した少年がいた。パブロ・ピカソである。この天才にとって、カタルーニャとはどんな土地だったのだろう。馴染みにくい街だったのではないかと想像するけれど、パリに出てからもバルセロナには何度も来ていたというから、強い縁で結ばれていたのかもしれない。そのピカソの美術館は、見晴らしのいいミロの美術館とは対照的に、旧市街の下町っぽい路地を行った奥にある。
カタルーニャ広場の西の街区に、バルセロナ現代美術館がある。隣接して文化センターや国立バルセロナ大学の芸術学部もあり、市街地に現代アートの拠点が集合している。これもバルセロナという街の、美術に向ける意思なのだろう。美術館前の広場では若者がスケボーの騒音を響かせ、小さなギャラリーはかなりハードな作品展を開催していた。広場を抜けると、アーティストたちのショップが並んでいるのだった。(2011.12.18-22)
「カタロニア人は、南部人を見下す癖があるらしい。」
このような傾向とういのは、日本人にはなかなか気がつかないことがらですね。『カタロニア讃歌』を是非、読んでみたいと思います。ブログでのご紹介ありがとうございます。