明けきらぬ岩国の、小雨に濡れる「錦帯橋」を眺めている。大きなアーチがゆったり連なって両岸を繋ぐ姿は、人工と自然が調和してまことに美しい。山陽路の山かげに、隠れるように「国」を営んだ小藩は、なんと麗しい景観を生み出したのか。世に名高い天下の奇橋を一度は渡ってみたいとやって来た私は、ホテルのベランダにいて、温泉で火照った身体を冷ましているのだからいい気なものである。山襞に霧がたゆたい、雨はまだ上がりそうにない。
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小倉からの帰途、新幹線を徳山で下車する。特段の用があるわけではないのだけれど、知らない街があると歩いてみたくなる。私の行動範囲はどうしても東日本に偏りがちだから、西日本の地理は未だに疎い。特に山口県の瀬戸内海沿岸の街の並びがアヤフヤであることが、長年の気懸りになっていた。そのうえ近年の合併で、子供のころに覚えた街の名が変わるという混乱が加わる。だから徳山のコンビナートを眺めながら考えてみることにする。 . . . 本文を読む
小糠雨が烟る小倉城の庭園で、梅の膨らみを確認している若手造園業者と話す。「小倉は30年ぶりかなぁ」「東京からですか、東京は緑化に成功しましたね」「いやいや、未だに樹木伐採で揉めている街です」「東京の緑化は私らの目標です」「失礼ながら、北九州はどうも粗暴な事件が多い印象があって」「確かにそんな街でした。しかし警察が本気出してくれて、ここ何年かですっかり変わりました」。市から城跡の保全を委託されているのだという。 . . . 本文を読む
門司・小倉・若松・八幡・戸畑の5市が合併して北九州市が発足したのは1963年2月。その半年前、若松と戸畑を結ぶ「若戸大橋」が完成した。東洋一の橋だと喧伝され、遠く離れた新潟の高校生だった私でさえ「凄いなあ」と興奮したものだった。高度経済成長が加速し、所得倍増を掲げる池田内閣が国民に期待を振りまいていた。若戸大橋はそんな時代の架け橋だった。いつか見たいものだと思って60年が過ぎ、私は今、ようやく見上げている。 . . . 本文を読む
神湊(こうのみなと)は玄界灘の小さな港町で、宗像大社の辺津宮・中津宮・沖津宮を一直線に結ぶライン上にある。沖に見える島が中津宮と沖津宮遥拝所がある大島のようで、1日7便のフェリーがこの港と7キロほどの海路を20分で結んでいる。毎年10月1日には宗像大社の神事「みあれ祭」がこの海を賑わす。神輿を乗せた2隻の御座船が大島港から神湊港に向かい、それを守って100隻余の漁船が海上を、華やかにパレードするのだ。
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外来文化の影響を受けていない日本民族固有の宗教といえば、それは「神道」ということになろう。源流の古神道は、この宇宙が「天上の高天原」「人間世界の中つ国」「悪霊蠢く夜見(黄泉)」が垂直に重なってできていると信ずるところから始まる。「天つ神」と「国つ神」が地下の闇と戦い、「中つ国」を光で満たしてくれるから我々がある、というわけだ。神々はいたるところに居るが見えない。私は宗像大社辺津宮の高宮斎場で、神を感じている。 . . . 本文を読む
萩にハギが多いとは聞かない。この季節、街を埋めているのは桜である。指月城跡も橋本川の堰堤も、反射炉遺構でさえ桜花に埋もれている。訪ねた街が花で迎えてくれるのは嬉しいけれど、こうも桜漬けになると胸焼けしそうである。そこでツバキ祭りを終えて間もない笠山に行く。しっとり湿った園地に紅いツバキが無数に落花している。いささかほっとして周囲を見回すと、無人の広場で桜たちが無言の饗宴を展開しているのだった。 . . . 本文を読む
雨は降り続いている。瀬戸内の海を眺めて来た者には、雨の日本海はことのほか暗い。仙崎の街を離れ、仙崎湾を東へ回り込むと、山陰本線の長門三隅駅が現れて、香月泰男(1911-1974)が生まれた三隅町(現・長門市三隅)に入ったと知れる。湯免温泉という小さな温泉郷があって、香月泰男美術館はその一角にある。東京で絵を学び、戦争に駆り出され、シベリアに抑留された香月が、「ここが<私の>地球だ」と生きた地である。 . . . 本文を読む
好天が続く山口路だが、長門は雨になる予感があった。金子みすゞと香月泰男が生きた街・長門。詩と絵画に天性の才能を輝かせながら、二人の悲運な生涯が投影しての予感である。案の定、本降りになった。傘を差して仙崎の街を歩く。しかし日が射すより、むしろその方が好もしい気分である。そして私が漠然と想像していたほどその人生は暗くはなく、日本海の山河の温もりに包まれていたことを知る。生地を訪ねてこその安堵である。 . . . 本文を読む
今日は4月1日。新しい年度がスタートする日だ。山口県県央部の美祢市の桜は8分ほど咲きそろい、週末の「さくら祭り」に備えている。厚狭川の橋の上で花を撮っている私の前を、女性が一人、軽く会釈して渡って行く。時刻からして、橋の先の市役所へ出勤するところなのだろう。地方創生が叫ばれても、地方困難は今年度も続く。彼女にとってはいい年でありますようにと、余計なことを考えてしまう。花が余りに美しいからだろう。 . . . 本文を読む
宇部でのインターハイに出場した際、帰郷する前にみんなで秋吉台見物に出掛けた。半世紀が経つからどうやって行ったかは憶えていないが、地図を確認すると宇部からはそれほどの距離ではない。秋芳洞にも立ち寄って、初めて見る鍾乳洞に驚いた。それよりも萩を観て来るべきだったと、帰ってから地理の先生に叱られたことは以前書いたが、やはりここまで来たからにはこの天下の奇観は観ておくべきだろうと、奥方を案内する。 . . . 本文を読む
下関市に合併する前は長府町といった。江戸時代には長府毛利藩の陣屋が置かれ、戦国時代に遡ると西国の覇者・大内氏がこの地で滅亡した。さらに律令の時代まで跳べば、長門国の国府・国分寺の地として「長府」の呼び名が定まった。ついでに神話の時代をひもとけば、熊襲平定のため西下した仲哀天皇がこの地に「豊浦宮」を興して政を治めたというのだから、一時的にせよここは倭国の都だったのだ。私たちは大変な土地にいる。 . . . 本文を読む
岸壁で釣り糸を垂れる彼らに「何が釣れるの?」と訊ねると、即「イカ!」と返って来た。「たくさん釣れた?」と問うと「まだ!」と、これまた簡潔である。九州男児は一言で答えるのだ。国際貿易港の役目を終えた門司港は、レトロを売り物に観光地へと衣替えし、年間300万人の客を迎えている。下関から5分間の船旅を愉しむと、もう門司である。海峡の幅は700mしかない。われわれも車を下関に停め、フェリーでやって来たのである。 . . . 本文を読む
下関という街は、本州島の《しっぽ》の先に当たる。いささか失敬な表現だとは思うけれど、北を上部に置く地図の常識を基にすると、そう言わざるを得ない位置になる。ただわずかな幅の関門海峡を挟んで、九州島という大きなたんこぶをぶら下げているしっぽでもある。こうした特別な位置にあるからこそ、この街は様々な歴史の舞台になったし、美味しい海の幸にも恵まれて、あまり例のない存在感豊かな街になったのであろう。 . . . 本文を読む
記憶は時とともに薄れて行く。しかし同時に、薄れ行く記憶を「懐かしさ」という薄衣でそっと覆ってくれるのも時間だ。1962年8月、私は宇部市で開催された全国高校総体バスケットボール大会に出場していた。ほとんどのことは忘れてしまったけれど、「常磐公園」という名前を憶えている。会場の体育館がそこにあったはずだ。記憶が薄れた分だけ懐かしさが増幅され、今回の旅では宇部へ回り道した。センチメンタルな旅である。 . . . 本文を読む