今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

365 饗庭(滋賀県)しみじみと望む山の端饗庭野の

2011-08-12 13:16:15 | 滋賀・京都
高島市の中ほどに《饗庭》という土地がある。中世以前に遡る古い地名で、昭和30年に2村合併で新旭町となるまでは、饗庭村として長い歴史を刻んで来た。西部の台地は饗庭野と呼ばれ、自衛隊饗庭野演習場にその名を伝えている。かつての近江国高島郷に含まれる新旭町、今津町、安曇川町、高島町、マキノ町、朽木村は平成17年に合併し、高島市となった。饗庭という古風な響きは、ますます時代に埋もれて行くかのようである。

湖西に入って大溝城下に立ち寄った私たちは、そのまま北上して旧安曇川町に着いた。せっかくの機会だから藤樹書院跡と、隣接する良知館に立ち寄った。その日のボランティア当番なのだろう、待機していたお年寄りが書院内を案内してくれて、中江藤樹とその一族の位牌らしき展示物の説明を始めた。近江聖人の事蹟は、村人のこうした献身で今も守られているといった格好だ。

私は「むしろお尋ねしたい」と申し出て、「中江藤樹は偉い学者に違いないけれど、土地の皆さんはそのどこに共感してこうも熱心に讃えているのか」と、失礼を顧みず聞いてみた。陽明学のことはともかく、人倫を説く寺子屋の先生のようでもある「よえもんさん」が、なぜこんなにも祀り上げられているのか、本音を知りたくなったのだ。だが質問が唐突で思いがけなかったのだろう、おじいさんは曖昧な笑みを浮かべただけだった。

書院前の堀に女の子が二人、座り込んでいた。堀は清流で、鯉が群れている。奇麗だねと声をかけると、手にした袋の中から数粒を私の手に落としてくれた。近くの台で1袋30円で売っている鯉の餌だった。この集落は上小川という。前に来た際も感じたのだが、通りの整然とした気配は凛として崩れていない。そこに今度は可憐な少女である。これらも藤樹の遺徳ということか。

先を急ぐ私たちは、高島バイパスに乗って安曇川を越えた。おそらくその道すがらに望んだ左手の山際あたりが饗庭の庄だったのだろう。川の手前には彦主人御陵の森も見えていたかもしれない。継体天皇の父・彦主人王の墓と伝えられる円墳である。《継体》という奇妙な追号を持つこの第26代天皇は、近江高島郷に生まれ、越前で育ったということになっているが、謎に満ちている。ただ湖西の地と深い縁があることは間違いなさそうだ。

古代から日本史の重要な舞台であった近江は、半島からの渡来人があたかも自らの故地であるかのように生活を浸透させて行った土地であり、琵琶湖の周囲はそうした文化の痕跡に事欠かない。さらに湖西には、北九州から全国に散った安曇族が移り住み安曇川の野を拓いた。こうした渡来人文化の先進性が、湖西の人々の血に融け込み、中江藤樹ら傑出した学者の輩出にもつながったと強調するのが『故郷の廃家』(2005年・新潮社)である。

そもそも私を湖西に強く惹き付けたのは、饗庭孝男というフランス文学者が著わしたこの本だった。著者は饗庭の旧家の出で、一族の生と死を綴りながら、近江の文化と生活史、さらに湖西の歴史の輪郭を浮かび上がらせる。藤樹書院が残る上小川は、著者の母方の祖父の地なのだという。まさに山の端の残照のような1冊である。

それにしても「庭にて食を饗(あへ)す」饗庭を、「あいば」と読ませている行政は「罪万死に値する」と著者は怒る。地名の読みはまことに難しいが、誤りを正すに遅いことはない。やはり「あえば」であろう。(2011.7.17)






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