駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ブラック メリーポピンズ』

2014年07月12日 | 観劇記/タイトルは行
 世田谷パブリックシアター、2014年7月10日ソワレ。

 1920年代初頭、ドイツの著名な心理学者グラチェン・シュワルツ博士の屋敷で火事が起こった。博士は亡くなったが、博士の四人の養子たち、ハンス(小西遼生)、ヘルマン(上山竜司)、アンナ(音月桂)、ヨナス(良知真次)は家庭教師メリー・シュミット(一路真輝)によって救出された。しかしメリーは失踪し、残された子供たちはその夜のことを何も覚えていなかった…
 脚本・作詞・音楽/ソ・ユンミ、演出/鈴木裕美、上演台本/田村孝裕、訳詞/高橋亜子、美術/二村周作。2012年にソウル・テハンノで初演された心理スリラー・ミュージカル。全一幕。

 卒業後ずっと映像の仕事をしていたキムちゃんがついに初舞台というのでいそいそと出かけてきました。韓国ミュージカルが元気なのは知ってはいましたが、個人的には未だにアタリに巡り会えていなくて、このキャストでなければ手を出せないでいたかもしれないので、出会いに感謝です。とてもおもしろかった。号泣しました。
 天井の高さを生かした簡素で美しく効果的なセット、美しい照明(原田保)、聞き取りやすく意味が伝わりやすく的確に訳された歌詞、不安げな不安定な楽曲を歌いこなす役者たちの歌唱力、一瞬で時間を行き来する舞台の魔法を見せ付ける役者たちの演技力、椅子とソファの素晴らしい使い方、効果的な盆の回り方…私が舞台に求めるほぼすべてのものがそこにあったと言っても過言ではなかったかもしれません。そして長編小説のようなミュージカルがえてして大味なものになりさがりがちなことを思えば、このシャープな舞台のあり方は確かに好みです。短編小説、と言うほどコンパクトかつアイディア勝負、みたいなものではなかったとは思いましたけれどね。

 「ブラック」とは何を差すのか、私には当初ぴんと来ませんでした。そもそも原作、というか元ネタの『メリー・ポピンズ』を私は読んだことがなくて、傘をさして空から降りてくる乳母の話…?くらいの知識でした。
 イチロさんのメリーは幼い子供たちの家庭教師で、優しく愛情深く、絵本を読んで不思議な楽しいお話をしてくれる「母親」的存在でした。黒い服を着ていますが、地味な使用人に徹しているだけとも思えます。裏、とか悪、といった意味での黒衣ではない。
 彼女は子供たちのために生き、子供たちを守ろうとし、しかし博士の実験を止められず、結果的に博士を殺してしまった子供たちを現場から救い出し、記憶を奪うことで助けようとしたのでした。その方が子供たちのためだと思ったからです。自分にも忘れたい記憶があるからです。
 しかし記憶とは決して人工的に完全に失わせられるものではないのでした。記憶がない、という記憶が残ってしまうからです。だから人は忘れた記憶を取り戻そうとしてしまう。失われた真実を確かめようとしてしまうのです。真実は必ずしも人を幸せにしないのだけれど、それでも知らないままでは彼らはもう先へと進めなくなっていたのでした。
 だから兄弟たちは再び集い、失踪したメリーを探し出します。そして火事の夜の真実を再び手に入れる。
 それはそれこそ目を覆いたいような、忘れてしまいたいような、ひどいものでした。完全な無慈悲な暴力でした。そして確かに彼らにはそのときメリーの手で記憶を奪われることが必要だったのかもしれません。事件はそうでないと乗り越えられないくらいひどいものであったかもしれません。
 けれどそれでも乗り越えきれずに苦しい思いをした日々があり、そして今に至って再度真実に向き合ったからこそ、今度はその真実を抱えたままでも生きていける、強い人間に生まれ変われたのではないでしょうか。
 忘れてもなかったことにはならない、だからやっぱり記憶したまま生きていくしかない。記憶していれば消化することもできる。理不尽な暴力の非が自分にはないこと、自分は決して損なわれてはいないこと(「きみは決して汚されてなんかいないんだよ、うさぎさん」ですよ!)を確信して生きていけるようになる日が来る。
 そして子供たちのそんな姿を見て初めて、メリーもまた救われたのではないでしょうか。かつて実の父から同じような暴力を受けていた記憶、消せないでいた記憶を受け入れて飲み込む、あるいは逃げ出す、解放される日が来たのです。自分でなかったことにすることはできる。それはいいのです。でも外から強制的にやられるとひずみが出るのです。
 メリーと子供たちが一緒に屋敷を出て明るい日の差す屋外へと出て、物語は終わります。号泣。

 子供たちのキャラクターのバランスが素晴らしかったし、これしかないという感じでした。役者も好演。
 キーパーソンのアンナも素晴らしかった。プレ運動会か!という椅子取りゲーム場面、サイコーでした。
 この役、強い男役ができたことを知っているキムでよかったな。でももちろん女子なんだけれど、たとえばそれこそこれをマリアも演じたスミカがやったらイタすぎたでしょう。大空さんじゃ歳がアレだし(オイ)。
 そしてイチロさんのラスボス感、月影先生感がまたハンパなくて素晴らしかったです。

 キムがこういう作品を選んだことは意外だったけれど、とにかくすごくいい作品を観せてくれて嬉しかったです。ストレート・プレイのコメディエンヌっぷりも楽しみ。でもミュージカル女優としても羽ばたいていってほしいなー。期待しています。











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清水玲子『DeepWater<深淵>』(白泉社花とゆめコミックススペシャル)

2014年07月12日 | 乱読記/書名た行
 病院で行方不明になった女児。地区大会で記録を出した美少女。事件現場に現われた潔癖症の刑事。すべてがゆっくりと絡み合い出す…

 少女漫画家は長く活動していると、キャラクターやストーリーの作り方が時代の流れからずれること以上に、絵がまず枯れたり乱れたりしていくものです。
 清水玲子は絵が上手い、と言うか上手すぎるくらいなのでそれはないのだけれど、上手くなりすぎて愛嬌が欠けてきました。わざとなのかもしれませんが。何故なら『秘密』は薪さんという萌えキャラ(笑)がいるせいもあるかもしれませんが、まだキャラクターの瞳が力を入れて描かれていて、読者は登場人物に共感したり感情移入したり好感を持つことができます。
 しかしこの作品ではそれを拒むかのようにキャラクターの顔、特に目があっさりと描かれています。もう少しだけ大きくはっきりと、かつ目と目を離して描くだけで顔立ちは華やぎ愛嬌が出て読者はそのキャラクターに好感を持ちやすくなるにもかかわらず、まるでわざとのようにそう描いていません。
 題材が題材なだけに、キャラクターに感情移入させて読ませるには重すぎる話だと判断してのことなのかもしれません。だからわざとドライに描いて読者を突き放しているのかもしれません。
 でも私はそれはやはり寂しいと思いました。少女漫画だろうと社会派の青年漫画だろうと、漫画でありエンターテインメントであり、読者はキャラクターを愛しながらストーリーを追いたいものだと思うのです。
 それがさせてもらえないなら、そこで描かれるお話はただの他人の起きた自分にはなんの関係もない事件で、心揺すぶられるドラマにはなりえないのです。
 このお話の中でキャラクターたちが体験することは一般的でもないし普遍的ですらないかもしれない。けれどこういう深淵、暗い闇の淵は形を変えて我々の日常のどこにでも潜むものであり、それを知っている読者にはこのお話はもっと響いたはずです。キャラクターの描き方にもう少しだけ愛嬌があって、こちらの思い入れを許してくれるものであったなら。
 それがないのが残念です。それではせっかくの感動的なラストシーンも感動できません、心が揺れません。
 それではもったいないと思います。読者の心をや揺らしてこその漫画、漫画家なんじゃないのかなあ。なんの遠慮をしているのかなあ。残念だなあ、と私は思います。
 全然違う意図で描かれたものだったらすみません…
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