こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第5主日(マタイ5:13-16)私たちは26聖人にささげられた教会の家族

2023-02-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/2/5(No.1220)
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年間第5主日(マタイ5:13-16)私たちは26聖人にささげられた教会の家族
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ミサの初めでもお知らせしましたが、田平修道院のシスターが容態が良くないそうなので、お祈りください。今年は、2月5日が日曜日で回ってきました。長崎教区にとって、2月5日は日本26聖人殉教者の祝日です。さらに私たちが今ミサをささげている聖堂は、日本26聖人に献げられていますから、日本26聖人そのものに親しみがなくても、この聖堂への愛着を通して、2月5日を心に刻んでほしいと思います。

さて、田平教会は山の上にある教会です。台風の風もいちばん受けますし、雷の影響もしばしばです。献堂百周年の時に記念誌のタイトル募集をしたことを思い出します。「祈りは未来へ」というタイトルが選ばれましたが、中田神父も応募していました。「天空の教会」です。気温差の大きな日、田平教会はときおり霧に包まれました。そこに教会だけが浮かび上がる光景を想像して書いたのですが、一次審査で即刻ボツになりました。

ところで新約聖書の舞台であるパレスチナでは、「山の上にある」ということはおおいに利点があったようです。「山の上にある町は、隠れることができない」(5・14)と言われていますし、「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らす」このことにも触れています。

当然、山の上にある町がたいまつをともしたり、それぞれの家がともし火を燭台の上に置けば、その町全体が周囲からよく見えるようになり、「世の光」の役割を果たすでしょう。同じ役割を、田平教会聖堂は百年以上、果たしてきました。今現在であれば、土曜日の繰り上げミサの明かりは、きっと平戸瀬戸を通過する大型船、大小さまざまの漁船の目に留まり、対岸の平戸島の人々の目にも留まっていることと思います。

日本26聖人に置き換えて考えてみましょう。彼らが殉教した場所は、当時は最も見晴らしの良い場所だったかもしれません。彼らはともし火は持ってなかったでしょうが、彼ら自身が「世の光」でした。そして「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(5・16)このイエスのことばを完全に実行したのです。

振り返って、田平教会聖堂は、人が居ないのに明かりがともるでしょうか?そんなことはありません。田平教会の家族が、ミサに参加したり、聖堂内での典礼行事や、黙想会に出席したりすることで、夜の時間に明かりをともすことになります。

ではもう少し踏み込んで、田平教会聖堂を、「山の上にあって、明かりがともる聖堂」にする人々は、募集して集めた人々でしょうか。バイト代を払って集められたのでしょうか。そうではありません。この聖堂に集まる一人一人、自分の中に光があって、その光を人々の前に輝かそうと、この聖堂に集まっているのではないでしょうか。

もちろん、漠然とこの聖堂に集まっている人もいるでしょう。けれども今日から皆さんは全員、この聖堂を「山の上にある町」「燭台の上のともし火」にするために集まる人々に変わりました。イエスの次のことばを聞いたからです。「あなたがたは世の光である。」(5・14)

念のために言っておきますが、「あなたがたは世の光である」この光は、暗闇の中でだけ働くのではありません。日曜日の一番ミサ二番ミサの人にも当てはまります。田平教会聖堂に集まるすべての人が、田平教会聖堂を「山の上にある町」「燭台の上のともし火」にしてくれている人々です。

「この教会が燦然と輝くのは、レンガで作られた百年前の聖堂だから」それもありますが、この百年の歴史を繋いできた皆さんの中にある光が、この聖堂を輝かせているのです。その自覚と誇りが必要です。

最後に残っているのは次の言葉です。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」先日一組の夫婦が田平教会聖堂を訪ねてくれました。一年半前に訪ねたとき、県道に沿って柵が設けられていて敷地内にも入れなかった経験をしたそうです。けれども今回は、「お祈りをなさるための訪問でしたらどうぞお入りください」と案内所にお伝えして、聖堂内で熱心にお祈りをささげて帰られたそうです。

この夫婦は、私たちと同じようにこの田平教会聖堂を「山の上にある町」にしてくれました。田平教会を訪問して、レンガと、ステンドグラスまでたどり着く人はいくらでもいます。けれどもこの聖堂で祈る人々がいて、ミサをささげる人々がいる。そこまでたどり着く人は数えるほどしかいません。レンガとステンドグラスをたたえる人がどれだけいても、その人々は「地の塩、世の光」ではないので、天の父をあがめる人は増えないのです。

私たちは違います。私たちが集まるとき、私たちは天の父をあがめる人を増やすのです。いつその結果が見えてくるかは分かりませんが、私たちは信じて、この聖堂を「山の上にある町」「燭台の上のともし火」にするために引き続き集まりましょう。2月19日、ペトロ中村倫明大司教様の小教区訪問が実現すると、「人々があなたがたの天の父をあがめるようになる」その時が現実のものとなるかも知れません。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日(マタイ5:17-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼ネジを巻き直すのは時間が経つにつれて難しくなってくる。堅信組の、堅信式前のテストを行ったが、以前であれば「祈りの試験」で祈りが唱えられないと、「この程度の祈りが唱えられなくて堅信を受けるのかい?」という強い口調だったが、「頑張ったんだなぁ」と思ってつい許してあげる気持ちが湧いてくる。
▼筆記試験でも、七つの秘跡の試験箇所の中で「堅信の秘跡」の項目に完成できなかった項目があると、以前であれば「堅信を受けるのに、ほかでもない堅信の秘跡の箇所が完成できないとはどういうことよ?」と言っていたのに、今や「よく頑張ったなぁ」とつい許してしまう。
▼ネジを巻き直すのが難しくなってきているとすれば、何も与えられなくなる危険もある。自分で巻けないネジは、強制的に人に巻いてもらう。それも有りだと思う。

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今週の1枚
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第827回目。毎日の読書第4巻の18頁。第一朗読の該当箇所が見つからない。

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