こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(マルコ5:21-43)イエスの心に触れる生き方を目指そう

2009-06-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/06/28(No.423)
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年間第13主日
(マルコ5:21-43)
イエスの心に触れる生き方を目指そう
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ようやく、賄いさんの退院の目処が付きました。日曜日の昼ご飯を食べたあとに退院だそうです。30日までは息子さん夫婦の家に寄せてもらって、それから体と相談しながら司祭館の仕事に復帰してくれるようです。やれやれといった感じです。

6月最後の日曜日は、とても大切な日曜日です。それは、昨年6月29日(日)から始まった「パウロ年」の閉年を宣言する日曜日だからです。この1年間、聖パウロの手紙から多くのことを学び、生活に生かそうと努めてきました。教区内あちこちの地区で聖パウロについての講演会も開かれましたし、わたしたちは小教区の中で「聖パウロの手紙を学ぶ会」を続けてきました。

お知らせしましたように、日曜日の午後2時から、浦上教会で「パウロ年の閉年ミサ」がささげられます。参加者と共に、この1年取り組んできたことの発表が本部事務局のまとめで披露されます。その中には、馬込教会・大明寺教会が取り組んだ「聖パウロの手紙を学ぶ会」のことが特別に取り上げられるそうです。わたしたちの取り組みが、教区本部の目に留まったということです。

また、参加者のために、記念のメダイが1000個用意されていると聞きました。そのようなお楽しみもありますので、ぜひ都合をつけて参加し、パウロ年でいただいた恵みを、教区のみんなと分かち合ってほしいと思います。

では福音の学びに入りましょう。今日の朗読福音は、一部省略することのできる箇所が含まれています。会堂長ヤイロの娘が命の危険にさらされているという物語に、途中12年間出血の止まらない女性の物語がサンドイッチのように挟まれています。朗読を省略することもできますが、あえて省略しないで朗読しました。

というのは、今週の朗読の中で、わたしは出血が止まらない女性とイエスとのやりとりがとても興味を引いたからです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と固く信じて、「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(5・27)のでした。

イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいて、群衆の中でふり返り、「わたしの服に触れたのはだれか」(5・30)と尋ねました。この、イエスが仰った「わたしの服に触れたのはだれか」という言葉に、わたしはぐっと引き込まれました。

イエスが仰った「触れる」という言葉ですが、もちろん服を掴むという意味もあると思いますが、わたしは、「イエスの心の奥に触れる」ということも、言葉の中に含まれているのではないかと思いました。それを他の言葉で言えば、「動かされた」という言葉に近いかも知れません。動かされたという言葉を聞いたとき、多くの人は「心が動かされた、感動した」ということを考えるのではないでしょうか。

「わたしの服に触れたのはだれか。」イエスは、ご自分の心にまで触れるような強い決意で近づいてきた女性がいたことを感じ取ったのです。だれかが、イエスの心に触れたのです。

女性は、自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました(5・33)。女性はまだイエスの思いを理解していませんでした。ですから恐ろしかったのです。

イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(5・34)と声をかけます。イエスにとって、女性の取った態度は、心にまで触れる感動的な出来事だったのです。心にまで触れる態度を、イエスは押し寄せる群衆を前にして、たたえたのです。

この出来事が、会堂長ヤイロの娘の癒しの間に挟まれました。会堂長ヤイロは、本当は娘の命が心配で、途中で足止めを食うのは不本意だったと思います。けれども、イエスが動いてくださるまではイエスをせかすことはしませんでした。そこには、ヤイロなりの理解の深まりがあったのだと思います。

会堂長ヤイロは、まずイエスにお目にかかったとき、「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(5・23)と自分の信仰を表明しました。ただし、このイエスへの信頼は、出血症の女性とのやりとりの間に揺らぎ始めます。本心は、目の前の女性など放っておいて、まっすぐに娘のところに来て欲しかったのです。

けれども、ヤイロの信仰は深まっていきます。会堂長の家から使いの者がやってきて、娘が死んだことを告げました。それでもイエスに「恐れることはない。ただ信じなさい。」(5・36)と言われ、踏みとどまったのです。また進んで、「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(5・39)とイエスが声を上げたとき、人々のあざ笑う声が自分にも向けられていると感じたでしょう。それでもヤイロは、イエスへの信仰に踏みとどまったのです。

実はここに、出血症の女性とのやりとりに共通する部分が隠されています。会堂長ヤイロも、もうイエスについて行けないと思えそうな場面に至っても踏みとどまることで、イエスの心に触れていたのではないでしょうか。ヤイロの信仰もまた、イエスを感動させるに足る信仰だったのではないでしょうか。

こうして、両方の奇跡物語は1つのしるしとして示されていることが分かります。それは、イエスの心に触れるほどの信仰は、イエスから奇跡すら引き出すということです。

わたしは、今週の福音朗読を分かち合いながらこう考えました。イエスは、今もわたしたちに呼びかけているのではないか、ということです。「わたしの服に触れたのはだれか。」イエスの服に触れ、イエスの心に触れるほどの信仰の持ち主はどこにいるか。そのようにイエスは問いかけているのではないでしょうか。

どんなに小さな隣人愛でも、イエスの心に触れるほどの隣人愛である可能性があります。わたしは気づいていなくても、これまでおささげしてきたこと、これまでにゆるしてあげたこと、これまでの働きで力になってくれたこと、これらがイエスの心に触れている可能性があると思うのです。

「わたしの服に触れたのはだれか。」あなたが知らないところで、イエスはあなたの隠れた行いを高く評価してくれているかも知れません。


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ちょっとひとやすみ
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▼最近調子に乗りすぎて、毎日スロージョギングを続けている。雨の日も風の日もである。それが幸いしてか、体重は75キロ±1キロで推移している。まだまだだが、「池中○○80キロ(注・ドラマのタイトルです)はいやだ~」と思ってから運動と食事に気を付け始めてここまで来ているから、悪くはないと思っている。
▼できれば、7月に海に足をつける頃までには72キロとか、その辺までいかないかなぁと思っているが、はたして思い通りにいくかどうか。もちろん、運動を続けてという条件付きで、絶食してとかというつもりはない。だいたい、絶食なんて無理。
▼どこで聞いた話だったか、おもしろいなぁと思った話があったので紹介。大学の先生が生徒に「時間の使い方」というテーマを考えさせるために、器に大粒の丸石を入れた状態で、「この器が、もういっぱいになっていると思う人」と尋ねたところ、ほとんどの学生がいっぱいになっていると思って手を挙げた。そこで先生が、粒の小さな丸石をその中に少し入れていって、「これで、この器がいっぱいになったと思う人」と同じ質問をした。
▼すると生徒は何かに気づいたようで、「いえ、まだいっぱいだとは思いません」と答えた。先生はにっこりして、今度は砂をどんどん器に入れて、まだまだ器の中には隙間があることを示した。そして最後に、「先生の言いたいことが分かりますか?」と尋ねた。
▼生徒の1人が、「時間は、もう隙間がないと思っていても、工夫次第でいくらでも見つけ出すことができるという意味です」と答えた。いい答えだなぁと思ったら、先生は違う答えを提示した。
▼「まず、主要な時間の使い方を見つけ出すこと。次に、2番目に大切な時間の使い方を考えること。そして最後に、種々雑多な時間の使い方で時間を埋めること。種々雑多な時間の使い方で器を埋めてしまうと、主要な務めを果たす時間はどこにも見いだせなくなります。その見極めが大事なのです。」確かにそうだと思った。

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新企画今週の1枚
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第30回目。冷水岳の少女ハイジ。パウロ年閉年ミサの様子は来週。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マルコ6:1-6)
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年間第12主日(マルコ4:35-41)困難があっても共にいるイエスに信頼して渡る

2009-06-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/06/21(No.422)
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年間第12主日
(マルコ4:35-41)
困難があっても共にいるイエスに信頼して渡る
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金曜日でした。墓地管理委員会の通帳に島外の人の管理費が入っていないか郵便局まで確認に行ったのです。集団下校している小学生に会いました。その中に、付き添いの大人の人から「ほら!そんなところに登ったら危ないでしょ」と注意されている小学1年生がいました。

船津の、一ノ瀬電気の並びの道路は、一段高くなったコンクリートの土手の上に簡単な手すりが設置されているわけですが、注意されても言うことを聞かず、狭い土手を平気で歩いている1年生がいました。わたしはバイクに乗って、ヘルメットをかぶっていましたが、その1年生から、「あー、何か神父さまに似てる」って言われましたが、似てるんじゃなくて神父さまです。

6月19日、今年のイエスのみ心の祭日はとても大切な祭日になりました。この日から来年の6月19日までを、教皇ベネディクト16世は「司祭年」とすることに決めたのです。この司祭年に当たっての呼びかける中心になる相手はもちろん司教・司祭で、司祭年のテーマは「キリストと教会への忠実」となっています。

わたしも自分の司祭職を、委ねられた務めを、キリストと教会に対して忠実に、誠実に果たしているかと言われると、やはり反省させられます。「だいたい」は果たしているでしょうが、「忠実に、誠実に」果たしているか。うーん、まだまだ足りないなぁと感じます。

さて福音朗読は、イエスが弟子たちを促して、舟で湖の向こう岸に渡ろうとする出来事が取り上げられています。イエスは、「向こう岸に渡ろう」(4・35)と弟子たちに言いました。この時点ですでに、かつてモーセを先頭にして、イスラエルの民が紅海を無事に渡ったことが背景にあるのかなと考える必要があります。

出エジプトの出来事を背景にして、目の前で起こっていることを考えると、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(4・37)という様子は、後ろからは追いすがるエジプト軍の精鋭部隊、前は海という絶体絶命のピンチが思い起こされます。この前にも進めない、後にも引けない状況で、神は水を分けられ、イスラエルの民は乾いた土地を歩いて対岸まで渡ったとされています。

同じように、イエスは弟子たちのあわてふためく中で、枕をして眠っておられるのです(4・38参照)。ここには、父である神への絶対の信頼の中にイエスはおられて、たとえどんなに惑わされそうなときでも、揺るがないという姿があり、かつてのモーセとイエスの間で重ねて見ることができます。

ですから、イエスのこうした態度は、自然を超越している神の子だからできるのだという意味よりも、どんな場面でも父なる神への信頼を失わないという態度を学ばせるためのジェスチャーなのではないでしょうか。つまり、波をかぶっている状態でぐーぐー眠っておられたというのが出来事の中心なのではなく、腕を組み、目を見開いて、動じない。そんな意味合いがイエスの態度にはあるのだと思います。

一喜一憂しないということでついでの話ですが、先週始め賄いさんから電話があり、リハビリを懸命にこなしていて、予定通りいけば今月いっぱいには退院できるだろうという報告でした。その際、「一時的に膝の周りが腫れたこともあって心配した」というので、わたしはこう返事したのです。「晴れの日も、曇りの日もあると。人生晴ればかりじゃない。いちいち心配しない。」そう言ったら電話の向こうではげらげら笑い転げておりました。

さて福音に戻りますが、弟子たちはイエスの一連の行動に恐れを感じています。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(4・41)弟子たちは目の前で起こっている出来事が十分理解できていませんでした。

湖を渡る体験が、もしかしたらかつての紅海を渡ったイスラエルの民の体験と重ねられているのではないだろうかということや、イエスがどうしてあそこまでして落ち着き払っている様子を示そうとしているのか、さらにはイエスと共にあるなら、「向こう岸」に渡ることができるということも、その時は理解できていなかったわけです。

この記事を書いたのはマルコ福音記者です。他にもマタイとルカも同じ記事をとりあげています。皆さんも今年の黙想会で理解しているように、マルコはパウロの第1回宣教旅行で活動に同行し、のちには別行動を取ることになりましたが、それでもパウロやバルナバに認められていた人物でした。

マルコはふり返ってみて、12人の弟子たちが体験した湖を渡る出来事はイエスに絶対の信頼を置くように促す意味深い出来事だったことを物語の中に込めようとしたのです。しかも、旧約聖書のエジプト脱出の出来事を意識しながら物語を描いている節があるのです。

モーセと共に、かつてイスラエルの民は紅海を渡ったじゃないか。イエスと共に、嵐の湖を渡ったじゃないか。わたしたちの舟である教会も、イエスと共にあるなら、どんな嵐でも渡っていけるはずだ。そんなことがこの物語には込められているのではないでしょうか。

今年、教皇さまの願いで、「司祭年」が設定されました。もしかしたら今の社会の中にあって、教会という舟は転覆寸前なのかも知れません。これまでの常識を根底から揺るがす強風が吹き付けているし、これまで考えることすらしなかった意見や現実が一気に舟の中に流れ込み、水浸しになっています。それなのに、目に見えた動きがないのです。これでは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いたくなるのも無理はありません。

けれども、イエスはかつてもそうであったように、今も船に一緒に乗っておられて、揺るぎない態度を保ち続けておられるのだと思います。「黙れ、静まれ」(4・39)とだけ命ずれば、風はやみ、すっかり凪になる。弱いわたしたちは、そのことがなかなか信じられないのだと思います。

この「司祭年」という一年、固い信頼をイエスに寄せたいと思います。いつもイエスのほうから「向こう岸に渡ろう」と呼びかけを受けているはずです。もしかしたら今のままの方が楽でいいのかも知れません。けれども、危険があるとしても、イエスはわたしたちに「向こう岸に渡ろう」と促すのです。

あえて危険を覚悟で向こう岸に渡る経験をしなければ、わたしたちのイエスに対する信頼は深まることができないのかも知れません。何も、絶対というものがない現代だからこそ、イエスへの絶対の信頼がより必要になってきているのではないでしょうか。

向こう岸に渡れない、さまざまな事情を抱えている人もこの中にいるかも知れません。けれども、向こう岸に渡ろうと決心するとき、必ずイエスがそばにいてくれることを体験できます。なかなかイエスに信頼して生きることを選ばない今の暮らしから、イエスへの信頼を生活の土台にして生きる人間へと渡りきることができるように、お互い恵みを願うことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼梅雨に入り、本格的な夏ももうすぐ。夏には薄着になるし、お腹が出ているのは格好悪いし、渚のシンドバッドになれないので、5月頃から体を絞り始めた。78kgあった体重は少しずつ減り、6月中旬の現在75kg台に。お腹が空きすぎるとやけ食いするのでそれを注意しながら、ぼちぼちやっている。
▼その中で、「ためしてガッテン」が取り上げた意外な運動の原則が目を引いた。「スロージョギングの勧め」である。筋肉には速筋と遅筋があるらしく、速筋を使わない程度の運動が、ダイエットには効果的なのだという。一般的には、時速4kmから5kmくらいのジョギングが速筋を使わないらしい。
▼そこで、何かきっかけを作ってスロージョギングをしようということになった。ちょうど、今は墓地管理委員会の中の墓地管理者としての役割が重くなってきたところだった。島外居住者で、馬込教会の墓地を所有している人が、墓地管理費をぱるるに送金してくる。この管理費をまめに通帳記入するという名目で、郵便局まで出かけることにした。
▼初めは、「スロー」でジョギングするのがいかにも格好悪く、びゅーんと走りたくなるわけだが、それをがまんして、歩く速さをイメージして郵便局に向かう。往復しても、まったく疲れない。それはそうだろう。原理としては速筋を使わないのだから、それはゴロゴロしている時と同じ状態なのである。それでも体内は十分に燃焼していて、明らかに体重計の変化が確認できる。
▼通帳記入に行く。それが今の動機付けになって、通帳を握ってスロージョギングしているが、もちろん目立つことこの上ない。さっそうと走ったほうがむしろ目立たないだろう。案の定、自転車に追い抜かれざまに、「神父さま、運動しよっと?遅かね~」と言われた。どう言われてもこれ以上スピードは上げられない。速筋を使ったら、ダイエットにはつながらないのだから。
▼おかげで、別の楽しみも見つかった。「今週の一枚」に4枚も掲載してしまったが、ある狭い海の道沿いに、大きなクロダイ、メジナ、アジなどがうようよしているのを見てしまったのである。自分が釣ったら自慢したくなるクラスの魚が、道路下で悠々と泳いでいるのを見たのである。
▼わざわざ沖に漕ぎ出して、釣ったの釣らないのと言っているのが空しく感じるほどだった。負け惜しみを言わせてもらうなら、人間に近づく魚、また目で確認できる場所にわざわざいる魚は釣ろうとしても釣れないらしい。しかし目の前にいれば、内心穏やかでないのは確かである。

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新企画今週の1枚
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第29回目。こんな近くにあんな魚が。わざわざ沖に行く根拠が揺らぎます。




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(マルコ5:21-43)
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キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)取って食べなさい

2009-06-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/06/14(No.421)
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キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
取って食べなさい
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火曜日から金曜日まで、教区司祭の黙想会に参加してきました。黙想の指導はイエズス会の林 尚志(ひさし)神父さまでした。まもなく後期高齢者ですと言っていましたが、どうしてどうして、身振り手振りも交えて説教をする方で、時間割に従えば説教の時間は45分のはずですが、いちばん短いときでも60分、いちばん長かったのは72分も話していました。どこからあんな元気が出てくるのか、学びたいなぁと思ったくらいです。

説教の内容は、大きく言うと、「イエスとの出会い、交わりの中で、わたしたちにイエスの命が流れる。交わりを大切に」ということだったと思います。交わり、出会いを大切にする中で、わたしたちは誰でも自分の中心に芯となるものが1本通っていて、この「中心線・芯」を、イエスの中に流れている「中心線・芯」とぴったり重ねて生きることが最も重要なのだ。芯と芯を重ねるから、これをイエスとわたしたちとの芯重と捉えていますと仰っていました。ちょっとびっくりする言葉ですね。

他にもお話しすればたくさんのキラッと輝く材料を提供することができるのですが、またの機会にしましょう。これからの一年間のわたしの説教への取り組みの中に、またわたし自身の歩みの中に、黙想会で見つけた材料を練り込んでいけたらと思っています。

今年の黙想会は、例年とは少し雰囲気が違っていました。2つ例を挙げますと、昼食と夕食に、例年よりも多くの神父さまが一緒に参加しておられたということです。長崎本土の神父さまは、希望すれば教会に戻って司祭館で食事をすることもできます。本土の神父さまが全員そのようなことをすれば、一緒に食べる人の数はもっと少なかったでしょう。

また、「今日は外で食べようかなぁ」というようなことを、これまででしたら割とおおっぴらにやっていたのですが、今年は本部事務局のたっての願いで、「みんなでカトリックセンターの食事を食べましょうよ」という意向になっていたのです。本心は、「たまには外食したいなぁ」と思っている方もおられたかも知れませんが、結構まじめに、カトリックセンターと大司教館を離れずにいたようです。

もう1つは、これもまじめに黙想会をしようとするなら当然と言えば当然なのですが、いろいろ用事を作って外出する人も少なかったのではないかと思います。たとえば、昼食後にわたしは時々気分転換をしにボーリングに行っていました。この点についても、本部事務局から、「黙想会に妨げとなるような行動は慎みましょう」と釘を刺されてしまったのです。わたしはボーリングですが、ある人はもっと小さい鉄の玉で楽しむ場所に行く人もいたわけで、こうした楽しみを慎んで、それはもうまじめ~に、黙想会をしてきました。

さて、福音朗読に入りましょう。朗読箇所は、マルコによる福音の、過越の食事を通して、イエスが弟子たちに聖体の秘跡を制定される様子が描かれていました。今年の黙想会を終えてあらためてこの朗読箇所を読むと、わたしには「過越の食事」という意味合いがぐっと迫ってきます。

「過越の食事」というのは、説明なしで使われていますが、マルコ福音書の中では説明の必要がないのでこのような使われ方をしています。けれども、わたしたちには説明が必要でしょう。ここで言う「過越の食事」は、出エジプト記の出来事に基づいています。エジプト脱出の夜、イスラエルの民が小羊の血を家の入り口に塗ったことから過越の記念として食されました(出エジプト12:1-14)。出エジプト記12章によると、エジプト王がイスラエルの民をひどい扱いをしている中で、神はモーセを選び、エジプトに災いをもたらしてイスラエルの民を約束の地へと脱出させようとします。

エジプトには10の災いが降るのですが、その最後の災いが、人であれ動物であれ、初子が死ぬというものでした。小羊の血を塗った家は災いが過越ていきました。こうしてイスラエルの民は、モーセを先頭にしてエジプトを脱出したわけです。

この過越を経験した人々の子孫は、当時の出来事を思い起こし、物語るために、食事の形式を引き継いでいったのです。イエスの時代にも、忠実に受け継がれていて、弟子たちは過越の食事を準備する場所をどうするのか、イエスに尋ねたわけです。

イエスはもちろん、当時の過越の食事の形式を尊重しましたが、この最後の晩餐の中で執り行った過越の食事には、全く新しい意味が与えられることになります。エジプトを脱出した当時、それは現状の奴隷の軛からの解放であって、エジプトを脱出したからと言って救いにあずかったわけではありませんでした。

イエスも、過越の出来事を念頭に置いていましたが、イエスが残してくれた最後の晩餐は、ご自身のからだと血を裂くことによって、救いを与えるものとなったのです。現状からの解放だけではなく、決定的な救いにあずからせるために、イエスはご自身を過越の食事として与えてくださったのです。

そう考えるとき、イエスが用意してくださった過越の食事は、どこからどこへ過ぎ越すものであるかを、しっかり捉える必要があると思います。食事の形でイエスが残してくださったもの、つまり「聖体の秘跡」は、わたしたちをどこからどこへ過越させるものなのでしょうか。

「これが説明だ」と、1つの説明に縛り付ける必要はありません。決定的にわたしたちを過越させるのだと言えるその人なりの説明があればいいと思います。たとえば、罪深い生活から、罪を捨て神と向き合う生活に決定的に変わる。もちろん人間の力だけでは不可能ですが、聖体の秘跡はこのような過越をわたしたちにもたらします。あるいは、人を憎み、ゆるそうとしない姿から、憎しみを捨て、決してゆるせなかった人とも和解する。そのような過越を可能にしてくれるのです。

では、これほどすばらしい過越のためにイエスがご自分のからだと血を裂いてくださったのであれば、わたしたちはイエスの愛にどのように答えればよいのでしょうか。それは、イエスが用意してくださる聖体の秘跡に近づき、わたしたちも決定的に過越させてもらうことです。今週の「キリストの聖体」の祭日は、そのことを考えるまたとない機会です。

この喜びに、わたしたちは毎週招かれています。罪を自覚していてもそこから抜けられないわたしたちを、イエスはご自身が過越の食事となって決定的に過越させてくださるのです。日曜日ごとに繰り返されるみことばと聖体の祭儀は、わたしたちを決定的に過越させてくださる交わりの場なのです。

まずわたしたちは聖体の秘跡の力をよく理解して、なかなか足を向けない人々にも、また初めての人にも、宣教するきっかけにしましょう。わたしたちが聖体の秘跡の力をもっともっと感じるなら、宣教することは難しいものではなくなってしまうはずです。自信を持って、この一週間それぞれの生活に遣わされていくことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼目から鱗が落ちる話。黙想会で、いろいろ「キラッと光る福音の切り口」を示してもらった。けれども思い出しながら書いているので、説教でお話しいただいたのと完全に同じではないかも知れない。前もってここでお詫びしておく。ヨハネ福音書の分かち合いの中で、あー、これはすごいという印象を受けた。
▼ヨハネ4章に「イエスとサマリアの女」の話がある。その4節、イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と女性に尋ねる。すると女性は答えて、「わたしには夫はいません」と言う。それに対してイエスが「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と答えている。
▼この部分について、わたしの頭の中では「あー、この女性は5回も結婚して離婚したのだな」と思っていたけれども、5人の夫とは、これまでサマリアを支配してきたさまざまな支配者のことを指していると考えてみてくださいと説教者が教えてくれた。なるほど、サマリアの女は、歴史の中で支配を受け続けてきた。
▼それでも、本当の主人はこれまで1人もいなかったわけだが、イエスは、サマリアの女にとって「生きた水」を与え、「決して渇かない水」を与えてくれるまことの主人となってくださったわけである。支配ではなく、真の解放を与えてくれるイエスの姿を、このヨハネ4章の中で学ぶことができた。最初にも言ったが、記憶違いだったらおゆるしを。
▼この4・5年、ずっと同じメンバーで黙想会中寝泊まりしている。大部屋に5人で寝ていたが、いびきで朝方はいつも起こされていた。早い時は4時から眠れず、疲れてボーリングに行く気力も起こらなかった。いつかこの大部屋の部屋割りから卒業できるかも知れないが、その時になるとホッとすると同時に、いびきが懐かしくなるのかも知れない。

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新企画今週の1枚
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第28回目。教区報ではおそらくボツになる黙想会の1コマ。

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‥次の説教は‥‥
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三位一体の主日(マタイ28:16-20)聖霊による一致を三位一体から学び、倣おう

2009-06-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/06/07(No.420)
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三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
聖霊による一致を三位一体から学び、倣おう
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半月板の手術のために賄いさんが市民病院に入院してから1週間が経ちました。わたしにとっては1ヶ月のように感じられた1週間でした。わたしが掃除をしないおかげで司祭館はゴミ屋敷です。ゴキブリも大運動会をしています。幸いに修道院のシスターが助けに来てくれたのですっかりきれいになりましたが、1ヶ月これが続くのかと思ったら気が重いです。

まぁそれでも、見舞いに行ってみようかなぁと思い、せっかくなら伊王島の魚も味わわせてあげようと、釣った魚をこしらえて病室に行きました。リハビリの時間だったので、30分ほど待ちましたが、病室に戻ってから様子を聞いて、それから言いました。「病院では伊王島の匂いのする物も食べてないだろうから、これを食べて元気を付けよう。」刺身に切って行ったのは、キンブク(シロサバフグ)と、バリ(アイゴ)です。

そしたらよほどおいしかったのか、かぶりついて食べましたよ。一緒に食べようと思っていたのですが、黙ってたら全部食べてしまいそうだったので、「おいおい、わたしにも残してくれよ」と言ったくらいです。この日は病院食と別に刺身も食べたわけですから、先週話したような三食昼寝付きではなくて、四食昼寝付きという豪勢な入院生活ですよ。いいですねぇ。

今日三位一体の祭日を迎えました。父と子と聖霊が唯一の神でおられるという神秘について、与えられた朗読箇所から学びを得ることにしましょう。

考えるきっかけとして、ひれ伏す弟子たちに、イエスが近寄ってきたということを取り上げてみたいと思います。弟子たちの中には疑う者もいたわけですから、空間的には近寄ることはできても、弟子たちの心の中まで近寄ることは困難だったと思われます。それでもイエスは近寄って、すべての民を弟子にしなさいと使命を授けました。

イエスが弟子たちに取った態度、「近寄る」ということの中に、三位一体の神秘に触れるヒントがあるようです。父と子と聖霊が間に何も挟むものがないほどに近寄る時、父と子と聖霊は近くにいるというよりも一つでおられるのです。

わたしたち人間同士は、親友であっても離れることがあるし、離れてはいけない間柄であっても引き裂かれることもあります。ところが父と子と聖霊は決して離れません。たんに近くにいるのではなく、一つになって、唯一でおられるのです。

父と子と聖霊が、一つでおられるための大きな役割を果たしているのは聖霊だと思います。父と子が、思いも望みも近寄って一つになるために、聖霊が絆となっておられるのです。このことは、イエスが弟子たちに近寄った場面にも当てはめて考えることができます。

弟子たちにイエスが近寄った。それは分かりますが、それだけではあとに続くみことば「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28・20)の説明には不十分です。

「いつもあなたがたと共にいる」という実感は、弟子たちが聖霊降臨を体験しなければ理解できなかったはずです。つまり、聖霊のおかげで、イエスが仰った「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とのイエスの約束が弟子たちにも理解できたのです。

父と子と聖霊の三位が一体となるために、聖霊による一致が大きな役割を果たしているとわたしは考えました。同じように、わたしたちが教会として一致して行動するためにも、聖霊による一致が必要になります。

行動の計画を立てる時、ある人は意見が対立するかも知れません。それは反対するための意見の衝突ではなく、慎重になっていたり、別の方法で目的が果たせるのではないかと考えていたり、いずれにしても熱心さから来る意見の衝突は十分考えられます。そんなとき、わたしたちは皆、聖霊に一致のための恵みを願うべきです。

また、家族の中で大きな決定を下す話し合いをする時にも、意見がぶつかり合うことはあり得ます。親と子の間で、夫と妻の間で、兄弟間で、それぞれの持っている考え方には違いがあるわけですから、すんなり話し合いがまとまらないこともあるでしょう。そんな、一致が難しいと思える時に、一致のための聖霊の恵みを願うべきだと思うのです。

三位一体が深い一致を実現して、わたしたちに何かを考えさせていると思います。あなたたちに一致できないことはない。もし一致できないでいるのなら、聖霊による一致を願っていないからだ。聖霊による一致以外に、本当の一致を見ることはできない。だから、あなたの関わっている教会、共同体、家族の一致のために、聖霊の恵みを願うべきだ。そんな声を、今日三位一体の祭日にイエスは呼びかけているのだと思います。

イエスは弟子たちに近寄って声をかけてくださいました。弟子たちを含め、わたしたち人間には一致の力が足りないので、イエスのほうから近寄って、一致の力を与えてくださいました。わたしたちの中で一致が見られないなら、聖霊による一致を強く願いましょう。わたしたちがある程度一致できているなら、より深い一致を求めて聖霊に祈りましょう。聖霊こそ、三位一体の絆の源であり、わたしたちが意見の相違を乗り越えて、信頼しあえるまでに一致する、力の源なのだと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼第26回目の「今週の1枚」に載せた子供の話。3歳か、4歳位の子供だと思うが、やんちゃ坊主がわたしの座った席の前に来た。じっとしていられないのか、興味があり過ぎてなのか、後ろを振り向いて盛んに船内を見回していた。おもしろいなぁと思い、その子をこっそり盗撮したわけである。
▼最初はメールを別の人に打っていた所だったので、気づかれないようにうまくカメラモードに切り替えることができた。カメラにうまく納めようと、ケータイを前にかざしたり少し引いてみたりしていたのだが、ケータイに付けているストラップ(クマのプーさん。それもなぜか2個プーさんがぶら下がっている)が大いに気になったようで、手を伸ばしてつかもうとしてきた。
▼おお、これはおもしろいと思い、カメラ撮影の前にもう少し遊んでやろうと思って、クマのプーさんを近づけてみたり引っ込めたりしてみた。すると案の定、男の子は手を伸ばし、プーさんをつかもうとする。もちろんこちらは掴ませない。そうしている間に写真を1枚撮影し終えたのでカメラを手提げカバンに入れた。
▼カバンに収めたあとに出来事は起こった。何とその子が、手提げカバンにまで手を伸ばしたのである。小さな子供にはちょっと重かったようで、掴んだ途端に床に落としてしまった。そこでようやく、一緒に席に座っていたおばあちゃんが気づき、「すみません」と言ったあとにその子を引きずり下ろし、「何やってんの!ダメでしょ!」ときつ~いお仕置きを食らってしまった。
▼怒られた男の子は何が起こったのか分からず、ビックリして火が付いたように泣き始めた。しかもわたしの前に連れて来られ、「謝りなさい!」と叱られている。そのこの目は訴えていた。「このおじさんが悪い!」わたしはその子の頭をなでながら、「しゃべるんじゃないぞ~」と心の中で言った。この子がはっきり物が言えるなら、きっと自分の正しいことを説明しただろう。ずいぶん楽しませてもらった。


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新企画今週の1枚
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第27回目。現在入院中。リハビリ効果を上げるために、差し入れしてきました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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聖霊降臨の主日/わたしたち自身の聖霊降臨に気づき、証しを立てよう

2009-06-01 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/90531.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
09/05/31(No.419)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
わたしたち自身の聖霊降臨に気づき、証しを立てよう
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5月30日土曜日に、父フランシスコ中田輝明の年忌のミサを新上五島町鯛ノ浦教会でささげてきました。金曜日に長崎の大波止から五島産業汽船に乗って鯛ノ浦に向かったのですが、この日は木曜日の大荒れの天気の影響がまだ残っていて、少々の波では何とも思わないわたしも、さすがに船が揺れてまいりました。胃の中身がかき混ぜられるような感じと言ったらいいでしょうか。とにかくつらい船旅になりました。

わたしは大きな波に揺られて鯛ノ浦に向かっている時間に、1年と数ヶ月前、肺ガンの治療のために鯛ノ浦から長崎に船で上がってきた父を迎えた時のことを思い出していました。「おー、迎えにきとったとか。酔うたぞ~」と、弱気なことを言って船から降りてきたのです。

「これから治療に行くんだから、そんな弱気じゃダメだよ」と、元気づけるつもりで言葉を掛けたような気がします。わたしが金曜日に味わったようなつらさをもし味わっていたとしたら、弱気じゃダメじゃないかとか言ったのは、今になって考えてみれば悪いことを言ってしまったなぁと思ったのでした。

翌日の土曜日、集まった信徒の皆さんと一緒に追悼のミサをささげたのですが、金曜日に布団に滑り込んだのは夜中の12時半くらいでした。しばらく休ませてもらおうと思っていたのですが、ちょっとした物音が聞こえたような気がして起き上がって居間に行きますと、母が何やら新聞で調べ物をしていました。

「頼むよ本当に。こっちは疲れてるんだから。」そう言うと母が「起きたとね。時間までゆっくり寝とってよかよ。起こすけん」と言うんです。それはこっちのセリフじゃ。こんな時間に物音立てたりして。そう思ったのですが、これまたあとで考えると、毎朝ミサに行く時に「おー、こうじ。ミサに行くぞ~」と言って目覚ましが鳴るよりも早くに起こしていた父が、物音を立ててわたしを起こしていたのかなぁと思ったのです。

この2つのことを重ねて考えると、わたしはこんなことを思いました。父が生活の中で教えてくれようとしていたことは、一緒に暮らしている時には当たり前すぎて理解できなかった。けれども、父が亡くなって1年経ってみると、今のほうがむしろ当時よりも父の言いたいことがよく理解できることもある。そう感じたのです。

この経験は、聖霊降臨の出来事を理解するヒントになるのではないでしょうか。今日の福音朗読の中で、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(15・26)「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」(15・27)「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」(16・12)「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(16・14)これらの箇所が重なっていると考えました。

説明すると、聖霊降臨の出来事は、弟子たちが、今は理解できなくても、あとで聖霊を受けると理解できるようになるという約束の部分と、聖霊を受けると弟子たちは証し人になるという使命の部分とが含まれると思うのです。

この二重になっている部分は、わたしが父のことをあとになって理解できるようになったことと、父が残してくれた生き方を、自分のこれからの人生の中で証ししていかなければならないと感じているという二重の感覚と、よくにているなぁと思ったわけです。

このような関連は、なぜ生まれてきたのか。それは、両方共に、聖霊が降って、働いているからではないでしょうか。今年、中田神父にとっては、父の1周忌を通して、聖霊降臨とはどんな出来事だったのかを具体的に教えてもらったような気がします。

もちろんわたしが話したことはわたし個人に関わる体験ですので、皆さまはそれぞれが、自分の中で同じような経験をしていないだろうかと、振り返っていただければと思います。

その当時は理解できなかったけれども、今になってみたら前よりもよく分かるようになった。そしてその分かるようになったことは、今の時代のより多くの人に、さらには次の世代の人々に、告げ知らせるべきだと感じている。

もしもこのような経験を持っているとしたら、あなたにも聖霊降臨の働きが届いているのだと思います。聖霊降臨で弟子たちが体験していることは、当時劇的な形で実現したわけですが、それで終わったのではなく、今の時代にも同じ恵みの体験は与えられるということです。

同じ体験が与えられる共通の土台は、わたしたちがすでに堅信の秘跡によって聖霊を受けているということです。あとは、よくよく振り返ってみると、誰しもきっと同じような体験に行き当たるのではないでしょうか。

わたしにも、聖霊降臨の恵みは届いています。その喜びの体験に気づき、体験をもとにして証しを立てましょう。あなたが体験した喜びであれば、他人の借り物ではないのですから、きっと伝えることができるはずです。そしてあなた自身の喜びが本物であれば、きっと人を惹きつけ、わたしたちと同じ信仰に、人を招き入れることができるのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼父の年忌のミサを郷里の教会でささげてきた。もっと食事会とかも含めてしてあげてもよかったのだろうが、どこからも何も声が上がらず、わたしの結論は「あまりそういう習慣がないのかな」という判断だった。あとになって「失敗した~」というようなことがなければよいのだが。
▼父は畜産で生計を立てていて、生き物の生き死にが自然のリズムとよく符合していることを繰り返し話していた。父が亡くなった時も、干潮23時半頃だったが、引き潮に合わせてこの世を去っていったのかなぁと思っている。今振り返ると、生活の中で体験したことが机の上で学んだことよりも重みがあることを繰り返し教えてくれていたのだろう。
▼今も、まだどこかで生きている感じがしている。実際に肉体はどこにも存在しないが、生きている時の貴重な映像を見ていると、どこかで生きているのだろうなぁと思えてならない。天国で、本人に生きている実感があるとしたら、わたしたち家族が生きているんじゃないかと思っていることが、何らかの形で実現しているのだろう。
▼1年はあっという間だった。何か、父のためにしてあげたいと思っていたけれども、何もできないうちに1年過ぎた。この1年は少し悔いが残る。何かを形にしてあげたいと今も思っているので、それがどのように実現できるか、早急に考えてみたいと思う。わたしが父から受けたものを、何かの形にしたいものだ。
▼5月17日に信徒総会を開いてからいちばん頭を悩ませているのは墓地管理委員会である。引き継ぎ時点で、引き継ぐ準備ができてなかった。今まで大変な負担を掛けていたようだが、これからは引き継げる形を整えて墓地の管理に当たるべきだと感じた。引き継げるようにするために、しばらくは骨折らなければならない。


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新企画今週の1枚
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第26回目。来週話しますが、伊王島から大波止に向かう船内での1コマです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
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