こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(マタイ10:37-42)砕かれて、さらにイエスの弟子となる

2023-06-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/7/2(No.1244)
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年間第13主日(マタイ10:37-42)
砕かれて、さらにイエスの弟子となる
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司祭の黙想会に参加してきました。黙想指導をしてくださったのは福岡教区の桜井神父様で、現在手取教会と帯山教会の主任をしておられます。私が大神学生の頃ご一緒に過ごしたことがあります。カナダでの留学を終えてしばらく大神学校で教えてくださいました。

お話の中で特に印象に残ったのは、今を生きる教会は、入信の秘跡を直前に控えた求道者のような姿を備えていなければならないということです。皆さんの中に、大人になって洗礼を受けた人がいるかと思いますが、もうすぐ洗礼を受ける人たちの集まり、そんな緊張感を持った姿でいてほしいということでした。たいへん参考になりました。

7月3日にいちばん近い本日2日、トマスの霊名のお祝いを設けてくださり、感謝します。実は同じ霊名なのに長崎教区の祝日表には「トマ」「トマス」「使徒トマ」書き方が三通りあります。どれが正しいとかはないので、呼びやすい形を使ってください。

福音の学びに入りましょう。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」(10・37)この勧告は自然な家族への愛を無条件に捨てなさいというものではなくて、たとえば迫害を目の前にして、イエスをどうしても証しすべき時にそれが妨げとなってはいけないという意味で受け取ると無理がないと思います。

イエスはおよそ30年間、両親に仕えてお暮らしになりました。「御父の元にいることが当たり前」と知っておられても、ヨセフとマリアにお仕えしました。そのことと矛盾しないよう考えると、「証しすべき時」これを踏まえて考えるというのが妥当です。

ついこの前は聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日でした。私たちの教区長中村倫明大司教様は聖ペトロの霊名をいただいています。大司教様もご自分の歩みの中で、どうしても証しすべき時が来て、父母よりもイエスを愛することを選びました。

ご存知ないかもしれませんが、中村大司教様は両親が授かったたった一人のご子息でした。司祭の中には、第一子長男や、一人っ子がほかにもいます。このような環境にあって司祭召命を選ぶということは、時が経つにつれてたいへん重い決断を迫られることになります。両親も歳を取っていくからです。司祭叙階式は、重い決断の最たるものです。司祭は、すべての人に仕えることが家族よりも優先されるからです。

司祭に叙階されると、祭壇でのミサが働きの中心です。ミサに参加するすべての人を代表して、ミサをささげます。そこにご両親が参加していても、特別なことをするわけではありません。すべての人を分け隔てなく祭儀に招くのです。聖体拝領のときも、順番通りに聖体を拝領する。それだけです。自分の親が聖体拝領の列にいる。不思議な感覚です。

浦上では叙階式ミサの終わりに両親を祝福する場面があります。本来なら、祝福を受けるのは親ではなく、子のほうかも知れません。それをでも両親は「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(10・41)この言葉の通りに、新司祭の祝福をうやうやしく受けるのです。

最近思うことですが、司祭叙階の時まで家族が生きて、その場を見守ることができるのは本当に幸せなことです。司祭は自分が受けたもの、叙階の恵みも含めて、イエスからいただいた「命」をすべての人にもたらす使命があります。十字架を担うこと、何よりもイエスを愛する生き方を貫くことは、両親、祖父母が「預言者を預言者として受け入れる」その中で培われていくのではないでしょうか。

ただ、司祭になってみて、中田神父が迎えたくないと思っている場面が二つあります。一つは赦しの秘跡の列に両親が並ぶことです。赦しの秘跡の時に親の声が聞こえるのはあまり想像したくありません。もう一つは、病者の塗油です。すべての信徒の赦しの秘跡、病者の塗油を私は拒みませんが、父親母親が、赦しの秘跡に並ぶことと、病者の塗油を授けることになる、その場面だけは勘弁願いたいと思っています。

そう願ってきましたが、亡くなった父には病者の塗油を授けました。赦しの秘跡は、病者の塗油を授けた時点で告白を聴くのが困難だったので経験しておりません。しかしもし、そのような場面が母親を通して巡ってきたら、どうすれば良いのか。本当に困ると思います。

よくよく考えるとこれも「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」を体験する大切な場面なのかも知れません。司祭もまた、つねに司祭の務めの中で永遠の祭司イエスに近づいていくからです。

赦しの秘跡は司祭にとっても自分を謙虚にさせますが、自分の家族の赦しの秘跡を通してもっと砕かれる必要があるなら、それも受け入れなければならないと思います。本音を言うと、人間的には誰かに代わってほしいくらいです。

最終的には、「自分の十字架を担ってイエスに従う」この姿が必要になるのでしょう。皆さんが、「わたしよりも父や母を愛する」その場面はいつでしょうか。「わたしよりも息子や娘を愛する」その場面はいつでしょうか。

何かしらの特別扱いが、イエスを証しすることの妨げとなりませんように。その場面を乗り越えて、もっとイエスの弟子としてふさわしくなる。もっと砕かれてイエスに従う者となる。今週の担うべき十字架といたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日(マタイ11:25-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼「あらいごごろ」と聞いて、皆さんは何を思い出すだろうか。平戸地区でたいへんお世話になった先輩司祭に、一度で良いから喜ばれる御礼がしたいと思い、ペトロの霊名の祝いに合わせて贈り物を探していたときのこと。
▼先輩は日本酒を日頃味わう。あるときその先輩が、「日本酒の中で、『得月』はおいしいね。覚えていて損はないよ」と言っていたのを思いだした。そこでショップで検索。検索していると、「洗心」という銘柄が。
▼この「洗心」と「得月」は、送って喜ばれるに違いないと考えた。ただし、読み方を間違えたのが「あらいごころ」である。


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今週の1枚
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第851回目。最近作った料理2品。どちらの皿も助任の一人が食べてくれた。

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年間第12主日(マタイ10:26-33)あなたは行って、屋根の上で言い広めなさい

2023-06-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/6/25(No.1243)
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年間第12主日(マタイ10:26-33)
あなたは行って、屋根の上で言い広めなさい
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こちらへの4月23日正式着任からおよそ二ヶ月が経ちました。中田神父は未だに恐れと不安を抱えて生きています。誰も知らない中で、初めて果たす任務がこんなにキツいものだとは想像していませんでした。そんな中、今週与えられた福音朗読箇所は本当に考えさせられます。

「人々を恐れてはならない。」(10・26)イエスは「恐れるな」と三度も呼びかけます。恐れは、現在と未来に繋がっていきます。「これを言ったら、受け入れてもらえるだろうか。」「これを言ったら、あとで困らないだろうか。」誰に何を言われようが構わない。そんな時期もかつてはありましたが、今はやはり、恐れが先に来るのです。

イエスが、「恐れるな」と言われるからには、「あなたが心配している、現在に対しても未来に対しても、守ってあげるよ」と保障してくださるのだと受け取るべきです。見ず知らずの環境に置いてもらった、それをチャンスと受けとめ、自分のため、委ねられた人々のため、後ろを振り返らずに進んでみなさい。中田神父は今週イエスの呼びかけをこのように受けとめました。

「必ず守ってあげます。恐れないで。」イエスがそう仰るのですから、信頼して働きたいと思います。二つのことが期待されています。一つは自分自身が個人的に学んだことを、人々の前で言い広めなさいと命じています。イエスのもとに留まって得られた学びや喜びを、多くの人が必要としています。学んだことは個人的なものでも、分かち合う人の中には「それが聞きたかった」と思ってくれる人もいるわけです。

もう一つは、「人々の前で人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」(10・32)このことも期待されています。場面によって自分の身分を隠したりするのはふさわしくありません。いつでも、「私はイエス・キリストの仲間です」と言い表す人を、イエスも「天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(同)のです。

こんなことがありました。青年会と大村の「轟の滝キャンプ場」に出かけました。私は新米司祭、集まった青年は青年会の常連でした。キャンプの中で私の歓迎会がありましたが、私は飲み過ぎてしまいました。その後、風に当たろうと思って一人で外に出ました。ところが酔っていたために敷地の端から足を滑らせ、七メートルくらい下の沢に転落してしまったのです。

足を滑らせたことも、その後どうなったのかも記憶がありません。気づいたときには運ばれて横に寝かされていました。身体のあちこちを打ったようですが、幸いに足を滑らせた場所にはむき出しの排水パイプがあり、それを掴もうとしたらしく、命に別状はありませんでした。

あとで振り返るとゾッとしますが、あの時から、私の司祭職は神に無償で与えられたものだと自分に言い聞かせています。そして、「私は今日守られた。今日守ってくださる神は、明日も守ってくださるに違いない」と感謝したのです。現在も、未来にあっても、イエスは守ってくださるのだから、人々の前でイエスの仲間ですと証しすることにどうしてためらう必要があるでしょうか。

これは誰も味わったことのない、個人的な体験ですが、こうして分かち合うとき、「それが聞きたかった」と思ってくれる人がいるのかも知れません。偶然命拾いしたと考える人もいるかも知れませんが、中田神父にとってこの体験は、「わたしが現在も未来もあなたを守る」と、耳打ちしてくれた体験なのだと思っています。

私には、人々の前でイエスを「知らない」と言うことはできません。これほど圧倒的な関わり方をしてくださった方を、「知らない」とはとても言えません。イエスは私たちのそばを通るとき、決して道の向こう側を通る人ではなく、善いサマリア人として通りかかってくださる方なのです。

ぜひ皆さんも、「暗闇で語られたこと」「耳打ちされたこと」こんな本当に個人的な体験であっても、「私はイエス・キリストの仲間です」と語る、とっておきの道具にしてください。きっと話を聞く人の中に「それが聞きたかった」と応じてくれて、導かれていく人がいるに違いありません。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日(マタイ10:37-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭の黙想会に参加した。新しく「地区長」という任命を受けた人たちが、司祭黙想会の中でのミサ主司式をした。初日は中田神父。「なぜこの役を引き受けることになったのか、いまいち分からないのです」と切り出した。
▼二日目、上五島地区の地区長に指名された先輩。「前日の司式者も言っておりましたが、小心者の私がなぜここに立っているのか分かりません。胃がキリキリ痛んでおります。けれども、自分にもできることがあるから、この役を依頼されたのだと考え直しました。」
▼三日目、平戸地区の地区長に指名された先輩。「初日の福音朗読、『天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。』このみことばのまえに、おののいています。不完全な私がこの大役を依頼されたのですから。」なんだか、初日の説教が尾を引いているような気がするのは私だけだろうか。

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今週の1枚
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第850回目。長崎の海の玄関口「大波止」。この海が、五島と繋がっている。

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† 神に感謝 †
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年間第11主日(マタイ9:36-10:8)ただで与えるために、私たちは召された

2023-06-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/6/18(No.1242)
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年間第11主日(マタイ9:36-10:8)
ただで与えるために、私たちは召された
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年間の主日が再開しました。これから待降節まで、年間の主日が続きます。年間最後の主日が「王であるキリスト」であることは皆さんご存知と思いますが、今年はあと一回、日曜日に祝日が挟まっています。8月6日に、「主の変容」の祝日が挟み込まれました。

与えられた福音朗読は、イエスが群衆を深く憐れみ、弟子たちの中から特に十二人を使徒としてお選びになる場面です。名前が書き残されることで、特別に選び出された弟子であることが分かります。汚れた霊に対する権能を授けられ、あらゆる病気や患いをいやす力を与えられました。6月の第3日曜日は「父の日」ですが、イエスが深く群衆を憐れみ、弟子たちを派遣する様子は私たちに対する「父の愛」を感じます。

さて、十二人の弟子の名前を、マタイ福音書が紹介する順に皆さん言うことができますか?どなたか典礼委員に当ててみましょう。一瞬で顔色が変わったのでやめときます。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスとマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユダでしたね。名前を覚えておくのは、福音書でどんな登場の仕方をしていたかを思い出す呼び水になるので、非常に役に立つと思います。

ちなみに、聖書の書名も覚えておくとおおよその中身を思い出せます。「出エジプト記」と聞けば、「エジプトを脱出したんだな」と分かりますし、その前後も膨らんできます。名前・書名を覚えておくことは、暗記をあまり勧めない現代社会にあっても十分役に立ちます。

ここでは書名を並べませんが、中田神父は旧約聖書書名を「鉄道唱歌」に乗せて覚えました。新約聖書は運動会でよく流れる「クシコポスト」で覚えました。前任地の子どもたちにも、この歌で覚えさせました。今でも覚えてくれていると思います。楽しく覚えることができますので、皆さんには大人の黙想会の時にでも、教えてあげられたらなと思います。

イエスはこうして選んだ十二人を宣教のために派遣します。派遣するにあたって注意点や指示を与えています。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(10・5-6)

これは、マタイ福音書の最後の部分での派遣「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28・19)と矛盾するように見えるかも知れません。ここでは段階を踏んで、まずイエスはイスラエルの民に福音を伝えるよう弟子たちに指示し、復活後は異邦人宣教を指示したということでしょう。

ところで、「イエスはこの十二人を派遣するにあたり」ここからの部分で、指示とはちょっと違う部分があると思いませんか。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(10・8)これは、指示や命令とは少し違う気がしませんか。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」中田神父はこの言葉に、「感謝を忘れてはいけない」とか「初心を忘れてはいけない」そんな響きを感じました。長く務めを果たしていく中では、どこかで自分勝手になるとか、驕りが生じてしまうこともあるでしょう。きちんと初心に返り、ただで与えられた恵み深い務めを、感謝して果たしなさい。そんな戒めが、込められているのではないでしょうか。

父の日、母の日を迎えてあらためて思います。父となった喜び、母となった喜びは、神から、無償で与えられたもののはずです。ですから父として、子に対する務めを無償で果たしていく。それが今週のイエスの呼びかけに応える道だと思います。

それぞれ、報いとして与えられたものではなく、ただで与えられた恵みがあるはずです。無償で与えられたその恵みを、誰かに、何かに、無償で与えるよう心がけているでしょうか。いただいた恵みを与えることを、自分の喜びとしているでしょうか。

中田神父もこれまで手に入れたもの身につけたものを、出し惜しみしてはいけないと、心の底から感じています。もうすでに司祭生活31年です。今日仮に倒れて、これまで通りの奉仕ができなくなった場合に、「あのことを話しておけば良かった」「こんな方法で身につけたんだよと、教えておくべきだった」そんな後悔はしたくありません。

それはあと20年仮に司祭生活が与えられても、考え方は同じです。私たちは皆、「ただで受けたものを、ただで与えるために」それぞれの使命に召されているのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第12主日(マタイ10:26-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼お決まりの、台帳整理をしている。今回は写真を撮って、PDFファイルにまとめ、それから表計算データを作成するというちょっと面倒な作業。原本がだいぶ傷んでいるので印刷所に出そうと思っているが、これも思ったように作業が進まない。
▼台帳整理をしていて、どうしても決断が必要な場面が出てきた。同じ番号が存在するのである。このままだと、マイナンバーカードに他人の情報が紐付けされている問題と似たことが起こる。堅信証明書が届いて、他人の台帳にそれを記入する危険があるわけだ。
▼中田神父が決断し、区別を付けることにした。脇に「主任司祭の責任において番号に注記を付ける」こんな感じの添え書きをした。三つの教会の台帳を預かる身なので、似たようなことがこれからも出てくるかも知れない。全小教区、点検をしてもらいたい。


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今週の1枚
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第849回目。目を閉じて、目を開いたらこの髪型になっていた。気に入っている

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キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)イエスが求める姿に造り変えられるのを受け入れますか

2023-06-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/6/11(No.1241)
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キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)
イエスが求める姿に造り変えられるのを受け入れますか
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キリストの聖体の祭日を迎えました。聖体を拝領することが何よりイエスが残された愛の記念に応える方法ですが、他にも聖体礼拝の時間を取って聖体に対する信仰を深めることもできます。個人的に聖体訪問をすることも、一日のふさわしい過ごし方です。今年は具体的な計画を考えておりませんでしたが、何が可能か考えてみたいと思います。

聖体は、ご承知の通り教会が保ち続けている七つの秘跡の一つです。「洗礼・堅信・聖体・罪の赦し・病者の塗油・叙階・婚姻」教会はこの七つの秘跡を通して、人生の始まりから終わりまで、信仰生活を豊かに過ごすことができるように配慮しています。

七つの秘跡は教会での要理教育でしっかり学んだことでしょう。小学生の時代にも学ぶ機会がありますが、やはり堅信組の時期に、暗記だけではなく理解させて、覚えてきたはずです。神の子供として生き始める洗礼の恵みに始まって、命の危険にさしかかったときに受ける病者の塗油まで、「人生の折々の場面に、恵みが受けられる」そのことを理解して、堅信組には覚えてもらうようにしていました。

そんな、ある教会の堅信組の出来事です。七つの秘跡を教えて、七つとも覚えたら中田神父の前で口頭で答えを確認します。一人の子が「洗礼・堅信・罪の赦し・病者の塗油・叙階・婚姻」とすらすら並べました。指を折って答えたのですが一つ足りません。聖体の秘跡を言い忘れたのです。もう一度言ってもらいましたが、なぜか「聖体の秘跡」を飛ばしてしまいます。

そこでヒントを出しました。「出血大サービス。これ以上のヒントは言えないからね。『キリストの御体』。」何と答えたと思いますか?そう言ったら堅信組のその子は「アーメン」と答えました。私は子どもの教育、指導にはあまり向いてないのかも知れません。

主イエスは、私たちにご自分の肉をパンとして食べることができるように与えてくださいました。御聖体は遠くから拝むものではなく、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)と約束してくださる食べものです。ミサの中で「みな、これを取って食べなさい」と唱えているのは単なる儀式ではなく、イエスが「わたしの体を食べなさい」と招く部分です。

パンとぶどう酒の形で、イエスはご自身を与えることをお望みになりました。食べもの・飲み物は、人が食すと完全に姿を無くします。形あるものは有限のものです。「永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」その食べ物は、形にとらわれない、形の向こうにあるものとなって私たちを養い、永遠の命と復活の希望を与えるのです。

中田神父は最近しみじみと思うのです。私たちの周りでは、たくさんの出来事が立派に行われます。特に記念行事は、長い期間準備してその日を迎えます。その中で、名前が残る人はごく僅かです。けれども、名前が全く残らない人たちの奉仕や努力がなければ、その記念行事は果たして成功しただろうかと。形も、名前も、何も残さず、自分を無にして協力してくれた人たちの働きが、何倍も尊いのではないか。そんなことをしみじみと思うのです。

キリストの聖体も、私たちが拝領すれば形は完全に無くなります。聖体の秘跡を残されたイエスは、自分を無にして、誰も与えることのできない尊いものを与えようと考えたのです。何も残さず与えるからこそ、尊い恵みなのではないでしょうか。

パウロは、イエスが私たちのためにおいでくださったことをフィリピの信徒への手紙の中でこう言っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2・6-7)ご自身を無にしたことが、誰も与えることのできない「まことの食べ物」「まことの飲み物」を与える源となりました。

幸いにも私たちは、キリストの聖体の恵みをしばしば受けることができます。時間と都合がゆるせば、毎日でもミサに参加して聖体をいただくことができます。ところで聖体拝領をすることは、何かが増えることなのでしょうか。買い物に行ってポイントがたまって、たくさん増えたら先で買い物に使える。聖体拝領にあずかることって、そういうものでしょうか?

私は、むしろ日々自分を謙虚にする、自分の名前や功績を何も残さない、その積み重ねをさせてくれる恵みなのではないかと思っています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(6・56)このイエス様は聖体拝領のたびにご自身に似る者となるように、造り変えてくださるのです。

食べられ、飲み干され、完全に姿がなくなる。キリストの聖体の有様が私たちをイエスに似る者となるように招いています。名前を残したい気持ちも少なからずあるでしょう。この仕事はこの人のおかげと語り継がれたい気持ちもどこかにあるでしょう。

しかし聖体の恵みは、私たちをこの世が欲しがるものには向かわせないのです。それでもあなたは、今日聖体を拝領したいですか?一人ひとり、問われています。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日(マタイ9:36-10:8)
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ちょっとひとやすみ
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▼近いうちにこのネタを声に出して言うかも知れない。本当に小さな、小さな巡回教会を、休暇の曜日にしている水曜日に訪ねた。その巡回教会を管轄する本教会が内堂拝観できなかったのでここもそうかなと思いつつサッシに手を掛けたらすんなり開いた。
▼さらに中の木製扉を開けると、20人座れるだろうかどうか、という小さな聖堂だった。この日は「毎日のミサ」の6月18日「年間第11主日」の頁を開き、思い巡らしながらしばらくお祈りをした。本当に静かな、祈りのひととき。
▼しばらくして、軽自動車の音が聞こえたかと思ったら、サッシの戸を開ける音がする。おそらくこの巡回教会の信徒、ふだん管理を任されている人かも知れない。おひげの、小柄ではあるが私よりもはるかに存在感のあるおじさんだった。
▼「暗くなかね?」「はい。大丈夫です。」「だいやろかと思うて。ビックリしたよ。」「どうもすみません。」ドラッグスターで乗り付けて、赤いチェックのシャツのおっさんでは、怪しまれても仕方がない。まだ私の存在感はかげろうのようなものだ。

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今週の1枚
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第848回目。初めてたどり着いた教会。ここで深く祈りと黙想ができた。

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三位一体の主日(ヨハネ3:16-18)父と子と聖霊の溢れる愛を私も受けた

2023-06-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/6/4(No.1240)
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三位一体の主日(ヨハネ3:16-18)
父と子と聖霊の溢れる愛を私も受けた
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三位一体の主日を迎えました。父と子と聖霊の神を身近に感じられるようになりたい。その思いで与えられた朗読に耳を傾けましょう。短い朗読の中で、「御子を信じる」ということが四回も出てきます。これは御子を信じることがどれほど大切かを考えさせためです。

御子を信じることができれば、御父を信じることができます。「子」がいらっしゃれば「父」がおられるのは当然のことですね。そして「御子」を信じることができれば、御子自身が約束してくださった、弁護者として遣わしてくださる「聖霊」も信じることができます。御子を信じることができるか。そこにすべてがかかっているわけです。

中田神父は、御子イエス・キリストを信じることのできる十分な理由が聖書の中にあると思っています。神は、私たちのためにその独り子をお与えくださいました。神は人類の救いのために、その独り子を示してくださるだけで十分だったはずですが、それだけで終わらず、御父は御子を人類に与えてくださったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(3・16)

神はその独り子を、一度だけ与えてくださったのでしょうか。人となって私たちのためにおいでくださった。この時だけでしょうか。そうではありません。人類は神が人となっただけでは心を神に向け直すことができませんでした。そこで神はもう一度、独り子をお与えになったのです。十字架上で、そして祭壇の上で、罪の赦しと救いの完成のために、再び与えてくださったのです。

たとえを用意しました。比べて考えてみましょう。私たちが少し大きな買い物をして、支払いを済ませたとしましょう。間違いなく支払いを済ませたのに、お店から「支払いをお願いします」と言われたとします。お店の言い分は正しいでしょうか?

確実に支払ったのですから、支払う理由はありません。二度支払う、二度与えるというのは、これと同じ体験です。買い戻すために、二重になってしまうと分かっているのに、もう一度支払った。これと同じことを、神は人類のためにしてくださったのです。私たちを罪から解き放つため、罪に支配されている状態から買い戻すために、二度も御子を与えてくださったのです。

これが聖書が示してくださる御子イエス・キリストを信じることのできる理由です。私たちには決して支払えない代償を、父なる神は御子を通して支払ってくださった。神はここまで私たちを愛してくださったのです。御子がご自分を二度与えることで愛を示してくださったのです。この世のすべてが信じられなくなったとしても、神が示された愛は十分信じることができます。

そして、世を愛してくださった神は、今も人類を愛し続けておられます。そのしるしは聖霊です。神はいつも、いつまでも人類を愛し続けるため、恵みを与え続けるために聖霊を与えてくださったのです。父と子と聖霊がそれぞれの働きを通して、人類を愛し続けていることを証明してくださっています。これは「神が人類を愛してくださっている」という一つの働きの、三つの側面なのです。

三位一体の神様は、つねに豊かで、愛に溢れておられます。愛が溢れているなら、それはどこかへ注がれるはずです。神の愛は、人間に注がれました。御子を通してこれ以上無いほどに注がれましたが、この神の愛は今も、聖霊を通して注がれています。父と子と聖霊の、これほどの愛を、今日特に感謝しましょう。

三位一体の神の、溢れる愛を私たちが受けているなら、私たちの中でも、神の愛は溢れることでしょう。溢れるほどの愛は、次はどこに注がれるのでしょうか。あふれるほどに注がれた愛を、心に浮かぶあの人に届ける。三位一体の神様が、今週私たちにお与えになる使命だと思います。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)
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ちょっとひとやすみ
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▼ここ福江に来て、木曜日に小学二年生の要理を手伝っている。「代用教員」をしている。小学二年生を受け持ったのは生涯初めてではないだろうか?中田神父にとっては「孫」のような存在なので可愛いのだが、二年生の生徒からはどのように見えているだろうか。
▼「小さな命」なのだが、先週は微笑ましい場面があった。一年生のクラスの横を通りかかると、担当のシスターが一年生の手帳か何かにシールを貼っていた。「自分たちが一年生の時は、シールとか貼ってもらえなかったよね。」
▼そうぼやいたのですかさず私が「もう二年生になったから、過去のことは忘れよう」と言うと「そうよね。私たちはもう二年生だし」そう言っていた。目を丸くするような応答だった。

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今週の1枚
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第847回目。市役所の駐車場敷地から福江教会を撮影。伸びた木が遮っている。

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ホームページもご覧ください。
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† 神に感謝 †
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