こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(マタイ24:37-44)今を大事に生きることが来臨の日の備えになる

2019-11-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/12/1(No.1033)
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待降節第1主日(マタイ24:37-44)
今を大事に生きることが来臨の日の備えになる
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待降節第一主日、三年周期のA年に典礼が変わりました。直前に待っているのは主の降誕ですが、「救い主を待つ」という大きなくくりで考えると「キリストの再臨を待つ」という意味合いもあります。「主を待つ人」の姿を福音朗読から探し求め、私たちの準備に当てはめることにしましょう。

待つことの素晴らしさを、今回ほど味わった年はないでしょう。私たちは教皇フランシスコの来日が正式に発表されてから二ヶ月間、どれだけ楽しみにして待ったでしょうか。教皇様のために祈り、折り鶴を用意し、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の訪日の様子を思い出し、一日千秋の思いで待ちました。

そして待ち望んだ当日は、最も心配していた雨でした。台風のなごりである温帯低気圧がいたずらして、朝方はほとんどの人が天気を恨んだはずです。仕方ないという気持ちで県営野球場に入ったはずですが、最後の待ち時間に奇跡が起こりました。待ち望んでいた、もしかすると諦めていた絶好の日和になったのです。

私たちは聖ヨハネ・パウロ二世教皇を「大雪をもたらした教皇様」と記憶していると思います。今回の教皇フランシスコはどのように記憶されるでしょうか。私は県営野球場でのミサが始まるまでは、「お目にかかるまでに本当に苦労させられた教皇様」として記憶に残ると考えていました。

ところが、実際は私の予想をはるかに超えて記憶に残る教皇様となったのでした。誰もが諦めかけていた悪天候を吹き飛ばし、天を恨んだ私たちの思いをくつがえし、感動を与えてくださったのです。

もし雨降りの中で教皇様が県営野球場に現れていたら、「やっと来たか」で終わったかも知れません。ですが実際はどうでしょうか。それまで雨に打たれて寒い思いをしたこともすっかり忘れ、疲れて座り込んでいたのも忘れて、立ち上がって遠くからでいいからお姿を見たい、私が手を振っている姿を届けたい。そんな気持ちになったのです。一瞬で、すべてが塗り替えられたわけです。

司祭団にもどよめきが上がりました。教皇様がミサをささげる祭壇の左右に司祭団席が設けられていましたが、祭壇右側はすでに強い日差しに照りつけられ、汗が出ていました。「暑いなぁ」「まだかなぁ」と思って待っておりました。それでもおいでになった瞬間、立ち上がってお姿を見つけようと人々の視線の先を追いかけたのです。「持ってる人は違う!」そんな印象を持ちました。これほど、「待った甲斐があった」と感じた瞬間を、私は思い出すことができません。

県営野球場にいる参加者はすべて、「今日ここに、教皇フランシスコがおいでになる」とはっきり理解しているわけです。それでも、雨が降り、やきもきして、すっかり天気になり、教皇様のお姿を見た瞬間、今日集まっている喜びを噛みしめたのです。当然お目にかかれる方ですらこの通りです。私たちが待降節を通して待つ救い主は、どれだけ待っても待ちすぎるということはないのです。今年のクリスマスのために、教皇フランシスコは「待つ喜び」「待つことの価値」を、はっきり教えてくださったのではないでしょうか。

「だから、あなたがたも用意していなさい。」(24・44)福音朗読は用意していなさい、準備を怠ってはならないと呼びかけています。二つの用意を考えました。一つは、おいでになる方の力と権威を全面的に認めることです。幼子としておいでになるお方は、命を狙われても命を落とすことなく、死を前にして絶望する人に希望をお与えになる方です。私たちのもとにおいでになる時、待ち望んだことを必ず与えてくださる。その力と権威を率直に認めましょう。これが一つ目の用意です。

もう一つは、救い主を待つ日々は、一日も無駄にしてはいけないということです。あと一日無意味に過ごして、それから救い主の準備に取りかかろう。ノアの洪水の時にどうなりましたか?人々は準備を怠り、一人残らずさらわれたと書かれています。あなたは「今日不注意なことをしても、明日仕事を取り上げられることはないだろう」と言うのですか。どこにもそんな保証はありません。「人の子は思いがけない時に来る」(24・44)のです。

救い主を待つ待降節を迎えました。今日一日無駄に過ごして明日から待降節に入るとか、神を試すようなことは一切考えないことです。すべての始まりと終わりをつかさどる方がおいでになります。「あなたは今日で終わり」と言われても、何も反論できない方を迎えます。その方のために一日も無駄にすることなく、「目覚め、わきまえ、用意して」救い主を待ち続けましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日(マタイ3:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会には大量の郵便物が届く。選別して、掲示板に貼るもの、教会で配布物として利用するもの、主任司祭が目を通して終わるもの、見もしないものなどがある。「見もしない」と言うと失礼だが、一度か二度目を通して、必要を感じないものはその後は見ていない。
▼カトリック・プロテスタント合同の取り組みとして、「キリスト教一致祈祷週間」は有名である。ただ有名だからと言って誰の目にも重く受け止められているとは限らない。「あ、これね」で終わっている教会とか、主任司祭も多くいるだろう。
▼かく言う私も、「あ、これね」で終わって、主任司祭が目を通すだけとか、せいぜい教会の入口四か所において終わり、という扱いだったのだが、今回の冊子は特に目を引いた。パウロが宣教旅行に行く途中船が難破してしまう場面が取り扱われている。その後マルタ島に上陸して、パウロは手厚くもてなしてもらうという話である。
▼きっと毎年すばらしいテキストと黙想のヒントを与えられていたのだと思うが、主任司祭の怠慢でそれが教会で活用されていなかった。今回は活用しようと思う。冊子は少ししかないので、まずは1月2日に予定されている「帰省した人の黙想会」の材料にしたい。
▼それにしても教皇フランシスコはタフなお方だ。どんなに疲れていてもそれでも私たちを勇気づけ、私たちにご自身を与え尽くしてくださる。並の精神力ではない。日本の教会はきっとそのことを受け取ったはずだから、これからの日本宣教に活かしていかなければならない。

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今週の1枚
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第640回目。教皇様の写真は個人撮影NG。代わりにクラシックカー来訪の様子。

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王であるキリスト(ルカ23:35-43)遠巻きにではなく、イエスと向き合って

2019-11-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/11/24(No.1032)
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王であるキリスト(ルカ23:35-43)
遠巻きにではなく、イエスと向き合って
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王であるキリストの祭日、年間の最後の週を迎えました。私たちは日本に来られた教皇様と一緒に祝う祭日となりました。教皇様を迎えることは、王であるキリストの代理を迎えることでもあると思いますので、少し関連付けて話そうと思います。

今週の説教は、聖週間の聖木曜日、聖金曜日くらいの短い説教となりますことをお許しください。教皇様のミサに参加するために、長い説教をしてはいられないという事情があります。よりコンパクトに、伝えたいことを伝えるように努力します。

福音朗読は、よく考えられています。「議員たちも、あざ笑って言った。」(23・35)最初に侮辱するのは、民衆と共に遠くで十字架のイエスを見つめている議員たちです。次に侮辱するのは兵士たちです。彼らは槍でイエスを突ける近い場所にいます。そして最後にイエスを侮辱するのは、一緒に十字架にかけられていた犯罪人の一人でした。

この描き方はよく考えられています。遠くから侮辱する人、近くで侮辱する人、目の前で侮辱する人です。距離だけで描き分けているのではありません。遠くの議員たちは指導的立場にある人、近くにいた兵士たちは一般人、目の前にいるのは犯罪人です。近くなるほど侮辱は甚だしく、近づくほど罪深いとされた人がいるという描き方です。

ところが最も近くにいて、まったく正反対の態度を示した人がいました。もう一人の犯罪人です。彼もまた、罪深いとされた人でしたが、イエスに誰よりも近づいたことで、罪深さを認め、運命をイエスに委ねる回心に導かれたのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)。王であるキリストの前に自分をさらけ出した時、誰よりも早く回心の道が開けたのです。

さて私たちは、長崎で教皇様のミサに参加します。私たちが陣取るのは指定された場所です。恐らくそこから動くことはできず、教皇様に近づきたくても無理なのです。けれども福音の学びから、いちばん近い場所に行き、王であるイエスの代理者である教皇フランシスコに照らしと導きをいただき、神へと心を開いてもらうことは可能なのです。

十字架のイエスに最も近くいたのは、罪人とされた人でした。実際に、最も激しくののしった人でした。私たちが教皇フランシスコの熱意に比べればどれだけ生ぬるい信者であるかは明らかです。これまでの宣教への熱意の無さや、信仰を燃え立たせる努力の不足を嘆き、神に心を開いてへりくだるなら、指定の場所にいながら、心は教皇フランシスコの目の前に行くことができると思うのです。その時私たちは、新しい熱意を頂いて、新しい宣教に向かう力を得るのではないでしょうか。

もはや時間は残されていません。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(23・39)と教皇様に言いますか?「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いますか。これから数時間のうちに、自分で決めてください。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日(マタイ24:37-44)
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ちょっとひとやすみ
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▼十字架上でのイエスの最期は、「いけにえ」であり、「最後の晩餐」の中心的な部分である。十字架のイエスを、遠くから眺める人、近くであざける人、死にたくないので面と向かって命乞いをする人、様々な思いの人が交錯している。もちろんマグダラのマリアや母マリア、愛する弟子もいるし、回心した犯罪人もいる。百人隊長もいる。
▼様々な人が交錯し、様々な思いが渾然一体となっているのだ。それはまさに、私たちが11月24日に体験する教皇フランシスコとささげるミサそのものではないだろうか。最近はやりの「ワン・チーム」とか「ワン・ボイス」であれば幸いだが、そうとばかりは言えないだろう。この大きな行事に社運をかけている会社もあるだろうし、感謝と賛美の思いでミサにあずかっている人ばかりではないと思う。
▼それでも、ミサはささげられる。イエスが様々な思いの人を引き寄せ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)と叫んだように、すべての人を背負って救いのいけにえはささげられ、まっとうされたのと同じように。教皇フランシスコと共にささげたミサが、一度限りで、果てしない影響を日本にもたらすことになるだろう。
▼どんな条件の下でも、イエスの力は働く。今回は教皇フランシスコを通して、必ず働く。私たちがそれをこれからずっと思い巡らし、掘り下げて生きるなら、必ず収穫を得られる。できるだけ多くの人と見たこと体験したことを分け合おう。
▼「みことばの分かち合い」と口を酸っぱくして長崎教区は言ってきた。なかなか根付かない。言いたい人が言いたいことを言っているのが今の「みことばの分かち合い」の現状だろう。本当に誰もが、「私も感じたことを分かち合わせてください」という姿になっていなかった。
▼今回は違う。言い方は大胆すぎるかも知れないが、教皇フランシスコという「みことば」を、皆で分かち合う。口のなめらかな人だけが「私が分かち合います」と発言するのではなくて、誰もが、口下手な人もすべて、分かち合うことができる。きっと生まれて初めて、「本当のみことばの分かち合い」とは何か、今回の教皇フランシスコとの時間が教えてくれる。

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今週の1枚
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第639回目。信徒会館裏手に橋が架けられた。日本とバチカンにも橋が架かった。

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年間第33主日(ルカ21:5-19)対抗も反論もできない言葉と知恵を胸に

2019-11-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/11/17(No.1031)
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年間第33主日(ルカ21:5-19)
対抗も反論もできない言葉と知恵を胸に
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「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(21・15)「わたしがあなたがたに授ける」とイエスは言われたのですから、「あなたがた」とは誰なのかを考えてみたいと思います。「わたしがあなたがたに授ける」という言葉は、最終的に私たちにも繋がってくるでしょうか。

先週、頭ヶ島教会献堂百周年の記念ミサと式典のために上五島に渡りました。直接関連はしませんが、二つの知らせが耳に入りました。一つは、歴代の主任神父様の中で、岩村神父様が見えてなかったのですが、ちょうど同じ日にペースメーカーを埋め込む手術の日と重なったので欠席だったそうです。お祈りしたいと思います。

もう一つは、数日前から容態を悪くしていたお告げのマリアの藤澤ハルエシスターが亡くなって、百周年記念の日の晩に太田尾教会で通夜、翌12日に葬儀ミサを行うという知らせでした。私は日曜日に五島に入って、火曜日に帰りの船を予約していましたが、急遽百周年のミサの日は実家に泊まらず太田尾修道院にシスターの顔を見に行くことにしました。

ただ、どんなに頑張っても通夜の時間に間に合いませんし、次の日の葬儀ミサの時間帯は長崎に留まって定例会に参加する予定でしたので、通夜の晩に、遅い時間でしたが顔だけでも見て帰ろうと思ったのです。今考えると、定例会を欠席することも選択肢だったかも知れません。

とにかく、太田尾修道院のチャペルに横たわっているシスターは、本当にすべてを果たし終えた顔をして眠っていました。紐差からでしょうか、太田尾修道院の立ち上げのために呼ばれていった三人の姉妹たちの一人だったと聞きました。私はこのシスターに太田尾小教区赴任中6年間まるまる賄いさんをしてもらったわけですが、本当にたくさんのことを教えてもらいました。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」今週のイエスの言葉は、藤澤シスターにきっと当てはまると思いました。

太田尾小教区は、私が生まれて初めて主任司祭になった小教区です。着任して荷物を運び入れてもらいながら、現実にすぐ直面しました。荷物を搬入するお父さんの一人が、「こんなにたくさん本が必要なのですか?」と言ったのです。それは質問ではなくて、「必要ないでしょうに」という響きでした。そんな人にも、働きで納得してもらうしかないと思ったのを覚えています。

賄いの藤澤シスターは、私に何かを指摘したり忠告したりはしませんでした。それは6年間同じ姿勢でした。ただ自分が見てきた司祭、自分がお世話になった司祭との思い出を語ってくれて、その中で「あーシスターはこういうことを伝えたいのかな、こうあって欲しいと願っているのかな」そういったことはよく伝わりました。

特別なシスターではありません。高尚な話をするわけでもありません。けれどもシスターが経験から語る言葉は、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」を備えていたのです。きっとそれは、シスターに言葉を授けたイエスが、シスターを通して語っておられたのだと思います。しばしばシスターの体験談は、私に慎重な判断とか、迷っていた決断に最終決断を下す貴重な手助けになりました。

イエスは他の箇所でこう言いました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(ルカ10・21)

私は藤澤シスターの最期の姿を見ながら思ったのです。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」は、下手に知識や学問に頼ろうとする人にではなく、素直で神のほかに頼る者を知らない人に授けられるのではないでしょうか。「わたしがあなたがたに授ける」と言った「あなたがた」とは、イエスのほかに頼る者を知らない人々のことだと思ったのです。

本来、司祭修道者は、「イエスのほかに頼る者を知らない人々」のはずです。ところが中田神父は、まだその境地に達していないのです。自分に頼ろうとするし、最新技術や成功体験に頼ろうとするのです。本来の「イエスのほかに頼るものがない姿」を取り戻せば、飾らなくても人の心を打つことができるでしょう。人に、イエス・キリストを届けることができるでしょう。

2年くらい前に田平教会で開催されたお告げのマリア佐世保地区平戸地区の修養会「四季の静修」が藤澤シスターと会った最後でした。その時シスターから「まぁこんなに立派な神父様になって~」と言われたのが最後の会話でした。けれども立派になっていたのはむしろシスターのほうだったと思います。太田尾を出た時よりも小さな体になっていましたが、私が頭が上がらないほど大きな存在になっていました。シスターを乗り越えることは、とうとう最後まで叶いませんでした。

難しい理屈や説明に、神が宿るのではありません。「反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」は、イエスしか頼るものがない人の素朴な言葉に宿るのです。思い返せば私の祖母もそうでした。父方の祖母は鯛ノ浦キリシタン六人斬りの事件を記憶する生存者の家系です。この世のものは何一つ相続しませんでしたが、永遠の命を保つ信仰と日々の祈りを、祖母から受けたのです。

この世の言葉と知恵は、過ぎ去っていきます。「メガ」という単位が「ギガ」になったのもつかの間、今は「テラ」という単位が身近なものになりました。何一つ、永遠に続くものはありません。これとは違って、イエスが授ける言葉と知恵は、反対者を恥じ入らせ、その言葉は50年後、100年後に人々の口に上るようになるのです。

私は、どんなものを頼りにして生きているのでしょうか。88歳で天国に召されたシスターは、88年間、神様しか頼るもののない生活をして旅立っていきました。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト(ルカ23:35-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年すでに2回、バイクのバッテリーを放電させてしまい、押しがけをしている。何とも恥ずかしい話だ。しかも短い期間で2回目のバッテリー上がりを起こした。自力ではどうにもならない時、バイクを車にロープで坂道の上に引っ張ってもらい、押しがけをしてもらう。
▼今年最初のバッテリー上がりの時、田平出身の神父様のお父さんに助けてもらった。車とバイクをロープでつなぐのにやや苦労したが、無事坂道までたどり着く。ギアをセカンドに入れて坂道でギアをつなぐとエンジンが回った。念のため30分走って帰る。
▼ところが一週間すると、またもや動かない。この日は11月15日、10時半から保育所の園児がやって来て七五三の行事がある。それまでに何とかしようと今度は自力でバイクを坂道の上まで押し、押しがけの態勢に入る。すると運悪く、そこへ園児のご一行がやって来るではないか。
▼急いで坂道に進入し、ギアを入れるが、回りそうだったがかからなかった。二段坂になっているのでそのまま次の坂に進入。これでかからなければまたロープで上げてもらう羽目に。幸い二段目の坂でエンジンが回り、しばらく教会敷地をぐるぐる回る。
▼私はただでは転ばない。七五三の「神父様のお話」では「さっきバイクに乗ってたのを見たでしょ。あれはね、動かなくなってたのをやっと動くようにしていたの。自分でバイクは動けないから、お世話する人がお世話しないとダメだよね。」
▼「みんなもそうだよ。さくら組のお兄さんお姉さんは、自分ではしたいことができない小さなお友達のお世話をしてあげてね。」バイクが自分で走り回れず、世話すべき人が世話をして走ることができるともっともらしい話につなげて七五三の話を乗り切った。
▼土曜日は何とかバイクは動いてくれた。「やまびこロード」をどこまで走れるのか走ってみた。すると降りた場所はなんと松浦警察署のすぐそばだった。福岡方面に抜ける時、利用できるのか田平教会の若いお父さんに聞いたところ、「信号がないぶん、少し早いですよ」ということだった。

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今週の1枚
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第638回目。ということで松浦警察署。念のため、お世話になってはいないので。

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年間第32主日(ルカ20:27-38)神の喜びにあずかる生き方を私たちは選ぶ

2019-11-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/11/10(No.1030)
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年間第32主日(ルカ20:27-38)
神の喜びにあずかる生き方を私たちは選ぶ
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年間第32主日C年の福音朗読は、復活を否定するサドカイ派の人々との問答です。わたしたちキリスト者にとって復活の信仰はなくてはならないものですが、当時のユダヤ人にとっては、復活を信じる決定的な出来事を持ち合わせていませんでした。復活したイエスをよりどころとするわたしたちとは違っていたわけです。

今週の説教、なかなか切り口が見つかりませんで、以前の説教を過去15年分合計5つ読みました。その中でも出色の出来だったのは田平に赴任してすぐのものでした。上五島に出張することも頭にちらついてうまくまとまりませんでしたので、今年は三年前のをそっくり使いたいと思います。

田平に赴任したその年の文化の日に、福岡の大神学院で行われた神学院祭に子どもたちを8人連れて行きました。広島教区の新しい司教様、白浜司教様が、召命の実りのために神学院のグランドで野外ミサを司式してくださいました。司教様は説教の中で自分が神学校に入るきっかけとなった出来事をお話しくださいましたが、その時の説教は今も鮮やかに思い浮かぶほど心を揺さぶられる説教でした。

白浜司教様は中学2年から長崎の小神学校に編入しました。町村合併前の新魚目町の小学校を卒業した時、神学校への憧れはあったものの神学校に行かないかと勧めてくれる人は誰もいなかったそうです。中学校は地元の中学校に進み、バレー部で部活動をしていましたが、同級生の中にただ一人、部活動を断った友達がいたそうです。

中学校に入ったら部活動で汗を流すのが当たり前と考えていた白浜少年は、なぜ彼が部活に入らないのか知りたくて、部活が休みだった学校帰りに、彼の家を訪ねました。すると彼は、学校から帰るとすぐに家で飼っていた山羊を放牧から連れ帰り、薪で風呂を沸かし、炊飯器でご飯を炊いて共働きの両親の帰りを待っていました。しかもその作業を一日も欠かさず、毎日続けていると言うのです。

ところが同級生は、高熱にうなされる病気になってしまいました。上五島では治療できる病院がなかったので、本土に運ばれましたが、懸命の看病も報われず、13歳でこの世を去ってしまいました。白浜少年はいのちのはかなさに衝撃を受け、同級生の分も生きるため、そして後悔しない生き方をするため、中学2年生から神学校に編入したそうです。

白浜司教様は説教中何度も声を詰まらせていました。その様子にわたしは思わずもらい泣きしたのです。わたしは白浜司教様の中学1年生の時の同級生のことを思うのです。彼はどうなるのだろうか。もし本日朗読された福音書のサドカイ派の人々が考えるように、復活などないと言うのなら、彼が黙々と果たした両親を助ける奉仕は誰が報いてくれるのでしょうか。

わたしは、13歳で亡くなった白浜司教様の同級生も含め、善人も悪人もいっしょくたになってどこかに置かれているとはとても思えません。神が十分に報いてくださり、復活して、喜びの宴でいつまでも神とともに住む。そういう姿を信じたいです。白浜司教様は、自分が道をそれないために、あの同級生は天国からいつもわたしを見守っていてくれると信じている。そう言いました。きっとそうなのだと思います。

もちろん、当時のユダヤ人の疑問にはきちんと答えなければなりません。サドカイ派の人々が持ち出した難問は、復活後の人間の姿を、今の姿を物差しにして考えたために誤解していたのです。

この世にあって人が自分の名を残していくためには、子孫が与えられなければなりません。そのため、子孫を残さず家系を絶やしてしまうことは決して認められなかった。そこで今回のような問題が起こってしまいました。

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」(20・34-36)次の世では、家系を土台にした人間関係ではなくなり、神とわたしの関係が何より大切にされる状態に移されるのです。

このことを決定的に明らかになさったのはイエス・キリストです。復活についての問題は、人類に先だって最初に復活されたイエス・キリストの啓示を待つほかはなく、イエス・キリストに耳を傾ける以外に答えを見つけることはできないのです。アブラハム、イサク、ヤコブやモーセも、復活されたイエス・キリストが生かしてくださるのです。

わたしたちの復活の信仰を持っています。この信仰を人に自信をもって語るために、わたしたちにはよりどころがあるでしょうか。身近な司祭・修道者は復活の信仰を人に語るよりどころになると思います。

司祭・修道者はこの世に名を残しません。それでいいのか?と問われるなら、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と答えることができます。今この世にあってすでに、復活にあずかる者として生きている人なのです。司祭・修道者は復活を信じて生きる信仰者のよりどころだと思います。

もしわたしたちキリスト者の復活が夢物語だとしたら、名を残さない司祭・修道者はこの世でいちばんみじめな生き方です。しかし事実は違います。復活はイエスが約束してくださった、わたしたちの希望のみなもとです。この世に死んで、神のいのちに生きるキリスト者の生き方は、必ず報われる生き方となりました。わたしたちはもっと力強く、証しする必要があると思います。

復活を信じるわたしたちは、本当の意味で生きている生き方を選びました。この選びは自分のためだけではありません。「滅びるいのちに生きるのではなく、復活して永遠に神の喜びにあずかる生き方を選んでみませんか。」今週わたしたちが持ち帰り、伝えるべき言葉です。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第33主日(ルカ21:5-19)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼11月、死者の月だからか、ミサ依頼が増えている。先祖のためが多いが、中には「田平小教区のすべての死者のため」「田平教会墓地に眠るすべての死者のため」こうした依頼もある。これらの依頼には意味がある。
▼誰しも、先祖のためにはお墓も建てるし祈りもささげる。しかしそこまで手が回らない人や、すでに身近な縁者がいない人たちもいる。先祖のためにミサをお願いしない、そこまで手が回らない人に代わって、寛大にミサをささげてくれているのである。
▼だから、「田平教会墓地に眠るすべての死者のため」というミサの依頼を受けると、この人がどれほど寛大な人か、すぐに分かる。自分の先祖のためにももちろんミサを依頼してくれるが、それだけに終わらない人が田平教会にはいる。
▼頭ヶ島教会の献堂百周年の祝いに出席するため、日曜日から五島に行くことにしている。五島に行くので、釣り竿を持っていきたいところだが、残念ながらその時間はなさそうだ。「頭ヶ島教会の記念行事を口実に釣りか」と、知っている人に言われたら元も子もない。ここは大事なポイントだ。
▼頭ヶ島には、大事な思い出がある。幼きイエズス修道女会のシスターがこの頭ヶ島教会から出ているが、その子が中学生のときに「○○。君がシスターになったら、神父様は逆立ちでも何でもするよ」と言ったのだ。
▼私は「ふしあな」だった。彼女は立派にシスターになり、今も働いている。私は逆立ちの約束を果たしていない。もし今、逆立ちでもしようものなら手首は骨折して病院送りだろう。野球ではたとえ9番打者でもバットを持って打席に立っているのだから、クリーンヒットを打つ可能性はある。彼女は神様が私に見せてくれたクリーンヒットだ。

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今週の1枚
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第637回目。歳を取ったのか、見向きもしなかった夕焼けが目に留まった。

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† 神に感謝 †
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年間第31主日(ルカ19:1-10)「捜す人」を「捜す方」が見つけてくださる

2019-11-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/11/3(No.1029)
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年間第31主日(ルカ19:1-10)「捜す人」を「捜す方」が見つけてくださる
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年間第31主日C年は「徴税人ザアカイ」の物語です。ザアカイは興味があってイエスを捜しましたが、イエスはザアカイに「どうしても会わなければならない」と考えていました。「捜す人」は実は「捜されている人」であったというのが、この物語に隠された鍵だと思います。

物語の中で、ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとした」(19・3)とあります。この時点では「品定め」のような気持ちだったかも知れません。どんなタイプの人だとか、どんな話題を取り上げる人だとか、それを品定めするために行ったのかも知れません。こちらがイエスを捜す側であり、気に入ったら付き合ってあげよう。そういう構えをしていたのでしょう。

ところで、イエスを捜しに行ったザアカイの行く手には、いくつかの障壁がありました。一つは「背が低い」ということです。私は野球観戦に行って、前の座席にいる人が立ち上がって応援するものだから「見えないなぁ」と感じた経験があります。見ようとして妨げがあると、何か工夫をしなければ見たいものも見ることができません。

もう一つの障壁は、意外に思われるかも知れませんが、彼が「徴税人の頭で、金持ちであった」ということです。人から良くは思われていなかったでしょうが、地位を築き、名誉も手に入れていたのです。そうなるとイエスを見たくても、周りの視線を気にして木に登ったりできなくなります。これら二つの障壁がザアカイの前にありましたが、ザアカイはそれを「乗り越えるべき壁」ととらえました。「なんのこれしき」と考えたのです。

イエスを捜すザアカイは、「品定めしてやろう」その程度で行動を起こしたかも知れませんが、障壁を乗り越えるうちに、「何としても見てみたい」そういう気持ちに変化していったことがうかがえます。けれども、「見てみたい」というだけでは、せっかくの出会いもイエスを見ただけで終わったかも知れません。記憶に残らず、人生に影響も与えないでしょう。ザアカイにとってイエスが記憶に残る人、人生に影響を与える人になるためには、イエスから先にザアカイが捜されていたと気づく必要があったのです。

「捜す人」はどれだけ時間がかかるにせよ、「捜している人」を見つけます。自分と同じ趣味の人、同じ目的のために協力できる人、価値観を共有できる人、ほかにも同じ欠点を持っている人を捜し当てるかも知れません。自分では認めようとしなくても、「捜す人」が出会った人は同じく「捜す人」だったということが多いはずです。

もちろん、「捜す人」が出会った相手が完全に同じものを捜しているとは限りません。一人一人に求めている度合いがあるし、求めているものが同じでもお互いの性格や気質まで同じとは限りません。ですから「捜す人」が「確かに出会った。これは偶然ではない」と思っても、3ヶ月、6ヶ月と経つとすれ違いを感じるかも知れません。「捜す人」が捜しているものを正直に打ち明けた時、「お互い探しているものが少し違うね」となることもあるでしょう。そうなると本当に捜しているものを共有できるように、お互い何かを決断しなければならないかも知れません。

さてザカリアは、自分を捜し求めてくれる人を捜していました。表面上は、イエスの見物に来たのですが、イエスにかけられた声で気づいたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19・5)イエスが先に、ザアカイを捜し求めていたのです。今日、救いが訪れる人を捜していたのです。

ザアカイはすぐに気づきました。自分が、イエスに捜し求められていたこと。心の中で、「徴税人の頭、金持ち」としてではなく、ありのままの自分を受け入れてくれる誰かを、捜し求めていたことにです。徴税人の私にも、救いが訪れることを宣言してくれたイエスに、自分が握りしめていたものを手放し、自分を委ねて生きることにしました。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19・10)イエスが物語の最後に語ったこの言葉は、ザアカイのためだけではありません。「捜す人」を、イエスは捜し続けているのです。人を捜す中で、「この人が私の捜している人だ」と思ったけれどもすれ違ってしまい、傷つき、人を信じられなくなる。それでも本当に自分が捜している人に会いたくて捜す。こうした辛い体験を何回か味わうでしょう。そんな「捜す人」を、イエスは先に捜しておられます。最終的に、「捜す人」が「捜している人」に出会うのは、「先に捜しておられたイエス」に出合った時なのです。

「捜す人」が「捜している人」に出会った。それが本物の出会いかどうかは、「先に捜しておられたイエス」に、お互い感謝できるかどうかで分かります。もし本物の「捜す人」と「捜していた人」との出会いであれば、お互い神に感謝をささげ、感謝のしるしをささげるでしょう。そして誰もがそのような出会いを必要としています。

ザアカイが、イエスの前で「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19・8)と宣言できたのは、本物の出会いをしたからです。

誰もが「捜す人」です。長い人生の中で何度か近づいたり離れたり、何としてもこの人が捜している人と思い込みたいこともあるでしょう。本物に導いてくれるのはあくまでも先に捜しておられるイエスです。「捜している人」が本物であるなら次のことができるはずです。その人のために、神に感謝をささげているでしょうか。神に何か感謝のしるしをささげているでしょうか。

「捜す人」であり続けるなら「捜している人」にいつか出会います。それは、先にイエスが「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」忠実にこのことばの通りに働き続けておられるからです。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日(ルカ20:27-38△20:27,34-38)
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ちょっとひとやすみ
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▼自分に背を向けて生きてきた。53歳なのに、53歳を認めない行動をとり続けていた。たとえば24時間のうち6時間睡眠に充て、18時間活動時間があるとして、18時間目一杯計画を入れる。頭も体も相当がまんしているのに、それを認めようとしなかった。
▼時間の使い方だけに終わらない。人生は一度きりだから一人の人生を生きるのでも手一杯のはずなのに、一人何役も演じて生きてきた。一人芝居をして、何人分もの人生を演じて、何人分もの人生の時間割を組んできた。これでは時間も足りないし、一つの人生すら完結できない。
▼一つの人生を完成させる生き方を選び、完結させるべきだ。そう気づいた。しかし現実は酷なもので、日本人の平均寿命で考えると、平成29年度のとある統計で男性81.09歳、女性87.26歳だという。すでに私の年齢で当てはめれば残り28年、ひょっとすると27年しか残っていないかも知れない。
▼すでに背を向けて生きてきた時間がかなりあり、それを挽回するころには余命宣告を受けているかも知れない。そう考えると今53歳とは言えない。「もう53歳で、一刻の猶予もない」と考えるべきだ。
▼人にできなくても自分にできることがある。人がしてこなかったことで自分が続けてきたことがある。身近な世代がすでに失っている部分で自分に残されている部分がある。それらを総動員して、一人の人生を、完成させ完結すべきだ。

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今週の1枚
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。
† 神に感謝 †
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