こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)あなたの中の「当たり前」を切り捨てる

2009-09-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/09/27(No.437)
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年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
あなたの中の「当たり前」を切り捨てる
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金曜日に全国版のカトリック新聞を読んでいたら、「2009年10月11日に福者ダミアン神父が列聖される」という記事が新聞の見開きで掲載されていまして、びっくりしました。びっくりした理由は2つあって、1つは、このダミアン神父の列聖式が10月11日だというのに、わたしは9月25日の新聞を読むまで全く知らなかったということです。

わたしが知らなかっただけで、たとえば長崎教区の広報委員は知っていたかも知れないと思って尋ねてみると、2人の教区広報委員も全く知らなかったそうです。中央は、もう少し広報活動をしておいても良かったのではないかなぁと思います。

ダミアン神父について少しだけ紹介しておきますと、かつて病名がらい病と呼ばれていた、ハンセン病の人々に奉仕するためにベルギーからハワイのモロカイ島に宣教に行き、そこで病人の方々と共に暮らし、最後には自分もハンセン病になって、命をささげつくしたのでした。

そこでもう1つの疑問になるのですが、これだけのことをした立派な方が、福者になり、聖人になるのに120年もかかっています。なぜそんなに長い時間がかかったのだろうか、そのことも不思議に思いました。福者に上げられてからも列聖まで15年もかかっています。長い道のりなのだなぁと思いました。

ついでに、ダミアン神父についてもう少し皆さんに親しみを持ってもらうために、こぼれ話をしたいと思います。日本の有名な彫刻家で、舟越保武さんという方がおられました。西坂の、26聖人像を制作した方と言えばおわかりでしょう。この方が、かつてダミアン神父の銅像を制作したのですが、長崎で去年だったか、舟越保武展が開かれたときにそのダミアン神父像も展示されていました。

顔はできものだらけ、目もくり抜かれたようになっていましたが、迫力満点の銅像で、引き寄せられる魅力を持った像を見ることができました。このダミアン神父像と関連しての話ですが、舟越先生がイメージをふくらませる1つのきっかけになった話があります。

ダミアン神父は、モロカイ島のハンセン病患者のためにミサを捧げたり教えを説いたりしていたわけですが、ダミアン神父が健康だったときには、「あなたたちは」というような呼び掛けをして説教をしたり教えを説いたりしていたそうです。それが、彼自身がハンセン病になり、病を通じて自分も同じ兄弟姉妹になったと感じたときから、「わたしたちは」と話し掛けるようになったそうです。

比べるとはっきり分かりますが、「イエスの呼び掛けに答えて、あなたたちもこのようにしましょう」と話すのと、「イエスの呼び掛けに答えて、わたしたちもこのようにしましょう」と話すのでは、断然「わたしたち」と呼び掛けたほうが親しみがわきます。この境地に、ダミアン神父は病を得て、たどり着いたわけです。

さて話が長くなりましたが、このダミアン神父の偉大な宣教の足跡は、今日の福音朗読箇所を味わうのに役に立つと思います。イエスは、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」と厳しい要求をしています。

ダミアン神父がこのイエスのみことばを頭に置いて行動していたかは分かりません。ですが結果として彼は、ハンセン病の人々により近くいて宣教するために、自らの健康を捨ててしまって、同じ病気になることも受け入れて、人々の中、その心のいちばん深いところに、飛び込んでいったのだと思います。

健康だったときは、たとえばルカ福音書の「今泣いている人々は、幸いである」「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」(6・21,22)というような箇所は、ダミアン神父から語りかけるイエスのみことばであって、ダミアン神父も一緒に味わうイエスのみことばにまで変化していなかったかも知れません。それが、同じ病を与えられたことで、変わるきっかけを得たのでした。

ダミアン神父のような経験はなかなかわたしたちの人生には起こらないかも知れませんが、イエスが招いている幸いな生き方に入るためには、わたしたちもつまずきとなるもの、妨げとなっているものを取り除かなければなりません。

イエスが「切り捨ててしまいなさい」と言ったのは、常識的に考えれば両方あって初めて当たり前に機能する身体の一部分です。手や足や目は、片方あればまぁ何とかなるという代物ではありません。

それほど重大なものでも、場合によっては、わたしたちがイエスの示す幸せにどうしてもたどり着けなくなるのであるなら、未練を残さず、捨てなさいと言っているのです。どんな理解の仕方をすれば、このようなことができるようになるのでしょうか。

わたしたちの暮らしに、もはやなくてはならないものはいくらでもあります。水道、電気、ガス。こうした便利なものを、もし手放すことになるとしたら、どんな理解の仕方が役に立つでしょうか。また、バス、電車、船も、わたしたちの生活を最低限保証するために必要なものです。それらを永久に手放すことになるとしたら、どのように納得させたらよいでしょうか。

なかなかうまく言い当てることができませんが、イエスの呼び掛けに答える1つの理解の仕方は、「当たり前と思っている、その思いを捨てなさい」ということかなぁと思いました。「両手、両足、両目が与えられている。そんなこと当たり前じゃないか。」この思いがあなたのつまずきになっている。切り捨ててしまいなさいということです。

どんなに当たり前に思えることでも、与えられていることに感謝できるようにしておくべきです。当たり前と思ってしまうと、わたしたちにおごり高ぶりの誘惑が忍び寄ってきます。おごり高ぶりは、差別、偏見のもとになり、人をつまずかせることになるのです。

つまずかせる人に示された罰を思い描いてみましょう。「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(9・42)ついでですが、わたしも一度だけ、この罰を思わせるような怖い経験をしました。朝、目が覚めたとき、首が全く言うことをきかず、起き上がることができなかったことがありました。

もう2度とあのような思いはしたくありませんが、まさに石臼を首に懸けられているような気分でした。どうしても体を起こすことができず、腰から下を何とかベッドからずらして足を床につけ、体をひねって腹ばいになり、ベッドに手をついて床に正座したのです。あの朝は、もう一生起き上がることができないのではないかと思うくらい恐ろしい経験でした。

わたしたちは、偏見や、差別など、つまずきを与える考え方を知らず知らずに抱いている可能性があります。ないとは言い切れません。恐らく動物が挽く「大きな石臼」が実際にどれほどの大きさか、想像してください。その石臼を、イエスはつまずきを与える人の首に懸ける権限を与えられているのです。

ぜひ、わたしが本当に偏見や差別を持たずに人に接しているか、切り捨ててしまわなければならない悪い習慣を持っていないか、考えてみたいと思います。もし先延ばしにすれば、切り捨てる機会を失うかも知れません。


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ちょっとひとやすみ
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▼「ダミアン神父」外伝。この伝記を最初に読んだのは中学2年生の時。感激して、パウロ書店に行って個人的に買い求めに行った覚えがある。もう30年近くなるので、どんなに見積もっても時効だと思うので話すが、神学生だったわたしはこのころ一般学生の手引きで、ある中学生と文通をするようになる。
▼今となってはどこに住んでいたかも忘れてしまったが、文通は約1年続き、写真を交換することとなった。夏休み期間中で、自宅の郵便受けで今か今かと配達のおじさんを待ち続けたのを覚えている。配達のおじさんから手渡しでもらいたかったが、いちおう郵便受けに入れて立ち去るのを確認してから飛んで行った。
▼便せんと封筒は、キャラクターものだったかも知れない。中に写真1枚と、その写真の説明から書き始められている手紙が入っていた。想像でしかなかった文通相手だったが、説明に書かれてある通りの、右側の女の子を見てややムードが冷めた。湖畔で友だちの女の子と写った写真だったが、左の女の子がわたしにとっては好みだった。
▼それ以後、写真はお互い2度と交換することはなかった。趣味もまったく合わなかったし、神学生が入手できる話題が、相手の女の子に喜ばれるはずもなかった。そんなこんなで、文通は1年で途絶えた。ではたった1枚の写真はどうなったか?これが問題である。
▼当時は先輩の監視は厳しく、神学生が神学生にあるまじき行為をしたり、神学生が持つべきでない物を持っていたりすれば、弁解の余地なく没収されたり罰を受けたりしていた。当然、文通相手の女の子の写真を神学生が持っているはずがないわけで、見つかれば没収、下手すれば退学の可能性があった。
▼実際、当時「平凡」を隠し持っていた先輩がその本を没収され、泣く泣く買い直しに行ったらその本まで没収されたことがあるくらいである。そんなことなら実家に置いてくればよいものを、夏休みが終わったら持って帰ってきてしまい、どうやったら没収されないだろうかといろいろ悩んだ挙げ句、「ダミアン神父」の本のしおりにすることを思い付いたのである。
▼自分の机の上に堂々と並べて、たまに写真を眺め、先輩が来れば本を閉じて机に置ける。しかも、この本だったら検閲もない。これでしょ~。ということで、ずっとずっとずっと、「ダミアン神父」という本と一緒に、過去の文通相手と、その友だちの写真を手元に置いている。ちなみにこの話を書く前にさんざん探してみたが、目に付く場所には置いてなかった。恐らく、次の引っ越しの時でなければ見つからないだろう。

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新企画今週の1枚
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第44回目。動物はあまり好きではありませんが、ネコは好きです。実家にて。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マルコ10:2-16)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第25主日(マルコ9:30-37)まず「あと1人」に仕えてみる

2009-09-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/09/20(No.436)
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年間第25主日
(マルコ9:30-37)
まず「あと1人」に仕えてみる
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先に、13日の教会周辺の清掃と、敬老会についてねぎらっておきたいと思います。13日の清掃は、当日出席が難しい人が結構出た中で、本当によくやってくれました。7月26日が中止になってからずいぶん経っていたので、機械が入れないほど伸びていたにもかかわらず、献身的に協力してくださった皆さんに感謝します。

また、19日の敬老会は、これまた多くの人の気持ちよい協力によって、予想よりもずっと楽しい会になりました。演目が予定よりも増え、わたしもしたいわたしもしたいという状態になって、しかも切り替えもだいたいスムーズに行われたおかげで、12時に無事に終わることができました。

この場にいませんが、踊りの会の方々、園児の皆さん、デイサービス「ふるさと」の方々はじめ、協力くださったすべての方に感謝申し上げます。何よりも、今年も敬老会を楽しみにして出席してくださった招待者の方々に、御礼申し上げます。

では福音の学びに入りましょう。今週の福音朗読でイエスは、「いちばん偉い者」についての意味深い教育を弟子たちに施しています。「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(9・35)上に立つ人になるよりも、すべての人の後に仕える者になることのほうが、本当に偉い人なのだと言い切っています。

そこで、「上に立つことを目指す工夫」ではなくて、「すべての人に仕えるための工夫」を考えてみたいと思います。どのようにしてそれは可能でしょうか。

考えるヒントとして、司祭が2人いて、ミサをささげてくれている時を想像してください。2人の司祭のうち、どちらかは祭壇の中心に立って、主司式を務めます。もう1人の司祭は、主司式の司祭の右か左に立って、一緒にミサをささげます。

そばで一緒にミサをささげる司祭をよく観察すると、しばしば、侍者と同じような手伝いをしているのを見ることがあると思います。たとえば、パンとぶどう酒の奉献を準備する中で、侍者が1人しかいない場合、司祭が侍者と一緒に手伝うわけです。

ぶどう酒と水を1人の侍者が持つ代わりに、そばにいる司祭がぶどう酒を持ち、侍者は水を持つ。あるいは中央の司祭が手をすすぐときに、脇の司祭が手洗いの水を持ち、侍者が手ふきを持つ。司祭が2人いてミサをしているときは、こういう場面がしばしば見られます。

問題は、2人の司祭の本来の立場と、そのミサの中での役割が逆転しているときです。たとえば、主任司祭と助任司祭が一緒にミサをしていて、その日は助任司祭が主司式をしているとします。そうすると、主任司祭が助任司祭のためにぶどう酒を渡したり手洗いの水を持ってあげたりするわけです。

皆さんは、どう思われるか分かりませんが、そういう時って助任司祭はものすごく緊張しているんです。知らなかったでしょう?主任司祭が、30歳にもならない新米司祭のためにぶどう酒を差し出してくれたり、手を拭くために手ぬぐいを持ってくれる。こういう時主任司祭は敬虔な面持ちでお仕えしてくれています。そういうお顔を見ればますますなのですが、助任司祭は緊張するものなのです。

わたしはその経験を2つの教会で通ってきました。浦上教会では、平日のミサは当番で主司式をする役割が回ってきます。新米のわたしが主司式をすれば、ほかの先輩司祭はそばにいて仕えてくれるのです。滑石教会の時もそうでした。主任神父さまが、わたしのそばでぶどう酒を持ってくれたり、手洗いのための器を持ってくれたりして仕えてくれたのです。

わたしはあのときの体験を思い出しながら考えるのですが、わたしが指導を仰いだ2人の主任司祭が本当に偉い人だったなぁと思わせるのは、上に立つ場面でそのように感じさせたのではありませんでした。主任司祭ですから、当然上に立つ場面はいくらでも出てきます。

そうではなくて、主任司祭でありながら、まだ見習いに過ぎない助任司祭が主司式をしているミサでそばに立ってミサをささげているときに、かいがいしく世話を焼いてくれる姿に、わたしは感動を覚えたのです。

ある時はこんなこともありました。主任と助任の関係ではありませんでしたが、大先輩の司祭と一緒にミサをささげた時のことです。その日、たまたまわたしが主司式をしていたのですが、福音書の朗読に、大先輩が向かおうとするとき、司式の司祭が座る椅子に就いているわたしに、「祝福をお願いいたします」と言ってひざまずいたことがありました。

皆さんも、大司教さまが主司式をしておられるミサで、福音朗読をする司祭や助祭が大司教さまの前にひざまずくのは見たことがあると思います。そのように、大先輩がわたしの前にひざまずいて祝福を求めたのです。

「主の福音を告げるために、全能の神が、神父さまを祝福してくださいますように。」わたしはかろうじて、それだけの言葉をひざまずいている大先輩司祭の前で唱えました。わたしの足は震えていました。それは恐ろしさから来る震えではなく、いわば聖なる場面に立たされてその崇高さに震えたということです。若造に過ぎない、わたしの前にひざまずいている大先輩司祭を見たときに、聖なるものを見た気がしたのです。

こうした経験から、1つわたしにも言えることがあります。「すべての人に仕える者になりなさい」とのみことばを実践する確かな方法は、「今日、あと1人に仕えてみる」という姿勢だと思います。主任司祭が、当番で主司式を果たしているひよっこの助任司祭に嬉々として仕えているのは、「今日、あと1人に仕えてみる」という最高の模範だと思いました。

朝、目が覚めてから、あなたはきっと多くのことで人に仕えて1日を過ごしてきたことでしょう。ほぼ1日が終わろうとしている時間になれば、あなたは「あーやっと終わった」と、胸を撫で下ろしていると思います。もう、仕える必要はない。自分の好きなようにできる時間になった。そう思っている瞬間に、考えて欲しいのです。「今日、あと1人仕えてみる。」

今日果たすべき事を終えたあなたに、「あと1人仕える」ということは納得できないかも知れません。その必要を理解できないかも知れません。けれども、イエスが「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と仰っているのを実現させる時間は、すべてが終わったと思っているその時から始まるのではないでしょうか。

今日すべき事はすべて終わった。だから、わたしはもう誰に仕える必要もない。そう思っているときに、「あと1人に仕えてみる」それが、あなたをすべての人に仕える姿に造りかえてくれるのだと思います。

助任司祭を抱えて指導してくれた先輩の神父さまは、わたしの見る限りたくさんの若い司祭をご自分のもとに受け入れ、鍛えてくれました。おかげで、長崎教区の今の中堅司祭が存在するのだと思っています。

それと同時に、この大先輩の神父さまは、巣立っていくまで教育したそのすべての若い司祭に、ある場面では仕えてくださっていたのです。わたしはそのことに今ようやく気がつきました。

人の上に立つことの多かったその神父さまたちの何が偉かったかと言って、それは、見えないところで仕える人であったということだと思います。人の上に立つことは、自分にその気がなくてもその場に立つことはできます。けれども、人の上に立つ身分の人が、人に仕えるというのは、心がけがなければ絶対にできないことなのです。

そこでわたしたち皆、「今日、あと1人に仕えてみる。」そういう心がけで今週を過ごしてみましょう。きっとその心がけが、イエスのみことば「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」の意味を分からせてくれるきっかけになると思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼心配していた「敬老会」も、ふたを開けてみれば大盛況のうちに終了することができた。何より、気持ちよく協力してくれた多くの関係者の温かさに感動した。利害関係もない、損得も発生しない場面が、いちばんすばらしい「喜びの時間」を生み出すのだなぁと思った。
▼踊りの会の方々は、日曜日に踊りの大会が控えていたそうである。それなのに、土曜日の敬老会に時間を都合つけてくれた。本来なら大会の練習で、教会の行事などに構っていられないと断られても仕方ない状況だったのである。
▼デイサービスの方々も、入所者にうまく役割分担をさせて「女大相撲大会」を演出してくれた。スタッフの方は体に敷き布団を巻き付けて関取になり、入所者の「呼び出し」で土俵入りし、入所者の「行司」のはっけよいで大相撲になるような取り組みを演じてくれた。
▼思いもかけなかったのは、小学校の教職員が友情出演してくれたことだ。教会の行事だから、学校が招待されるということはあっても、進んで演目をこなしてくれるなどとは予想だにしなかった。地域の方々が教会に温かい理解を示してくれているのをひしひしと感じた。
▼たくさんの、しかも中身の濃い演目が目白押しだったので、かぶり物を準備して登場したわたしの「オバマ大統領」は、これまででいちばん拍手をもらえなかった。パラパラの拍手の中、「イエス・ウイ・キャン」も消え入りそうな声だった。オバマが悪かったのか、わたしの演出が悪かったのか。それとも敬老者には、誰だか分からなかったのだろうか。

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新企画今週の1枚
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第43回目。敬老会の一コマです。チョットダケヨ~

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
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年間第24主日(マルコ8:27-35)信仰告白は表明した瞬間から深まっていく

2009-09-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/09/13(No.435)
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年間第24主日
(マルコ8:27-35)
信仰告白は表明した瞬間から深まっていく
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土曜日に、大浦天主堂を結婚式のためにお借りして、一組のカップルの結婚式をしました。馬込教会のミサの参加者には、実際に結婚式に出席した人もいるかも知れません。その結婚式の説教で、結婚する2人に次のような話をしました。

「人は、完成に向かって進んでいく生き物です。まず初めは、お腹の中の赤ちゃんです。赤ちゃんはお腹の中で、自分の体の完成のために進み始めます。まだ、社会とのつながりも始まっていませんが、体の完成のために、お母さんの愛情の中で着実に進んでいきます。」

「次に、この世に生まれ落ちると、その時から人生の完成のために進み始めます。しつけを学び、教育を受け、基礎を固めてもらいます。あとでは仕事に就き、自分で生活するための糧を得るようになります。」

「そして、自分の人生の完成の中に、今日の結婚式もあると思うのです。配偶者を見つけ、この人と、自分たちの人生の完成に向かって力を合わせて進んでいきます。あるいは、必要なときにお互いに助け合って、人生の完成のために協力を惜しまないのです。」

「結婚した夫婦に、『結婚して良かったですか』と尋ねるとしましょう。結婚したての夫婦が『結婚して良かった』と答える場合と、結婚10年目の夫婦が『結婚して良かった』と答える場合とでは、その答えは重みも、深みも明らかに違いがあると思います。結婚生活10年のうちには、困難を解決する経験も積んだことでしょうし、喜ばしい出来事にもたくさん出会ったはずです。『結婚して良かった』という言葉には、はるかに重みがあると思います。」

「さて、こうしてたくさんのことをきっかけに人生を完成させようと進むのですが、人間は人間の力だけで人生を完成できるものなのでしょうか。わたしはそうは思いません。人間が、その人生を本当の意味で完成させるためには、信仰心がどうしても必要だと思うのです。わたしはカトリックの司祭という立場で話していますので、人生を完成させるためには、神の導きと照らし、力が必要だと思うのです。」

「もちろん、すべての人がキリスト教を信じているわけではありませんので、それぞれの信仰の中で結構ですが、信じているお方と、親しいつながりを保って、人生の完成のために力を願う、つまり祈りを通して力をいただくようにしましょう。夫となる○○さんは、カトリック信者ですから、これからも教会とのつながりを保ち、家庭での祈りを忘れないようにして、神に人生の完成のための大きな導きを願うようにしてください。」

ざっと、こんな話をしました。人は、完成を目指して、自分の人生を歩いている。これが昨日の結婚式の説教の中心点でした。実は今週の福音朗読を読み解くために、今紹介した話を使いながら学びを得たいと思うのです。

イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねました(8・27)いろいろな声を弟子たちは耳にしていたようです。そしてイエスは、さらに踏み込んで尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが代表して答えます。「あなたは、メシアです。」(8・29)

このペトロの信仰告白を、最初に話した結婚式での説教、「人は、人生の完成に向かって進んでいる」ということに照らして考えてみたいのです。つまり、ペトロの人生の中で、あのペトロの信仰告白は、どういう意味を持つだろうか、ということを考えたいのです。

ペトロは、イエスと3年間行動を共にしてから、その後おそらく35年くらいは生き続けました。ローマで殉教したのが68年か69年で、イエスの死と復活の出来事がおよそ30年の頃に起こったとすれば、35年くらいは生きたという計算になります。このペトロの人生の中で、「あなたは、メシアです。」という信仰告白は、きっと完成に向かって、より洗練された意味を持ち、初めてイエスに信仰告白したときよりもはるかに重みのある、深まりのある答えになっていったと思うのです。

それは、たとえとして話した「あなたは結婚して良かったですか」という答えに、新婚の夫婦が答えるのと10年共に歩んでから答えるのとでは重さが違うというのと同じです。ペトロの信仰告白「あなたは、メシアです。」というイエスへの単純な答えも、その後の35年以上の人生の中で、深まっていったと思うのです。

わたしは今、ペトロの信仰告白について話したわけですが、信仰告白が深まっていかなければならないのはペトロに限ったことではありません。わたしたちもまた、イエスを信じる弟子なのですから、イエスへの信仰を告白し、その信仰告白が人生の歩みの中で完成に向かっていかなければならないと思うのです。

わたしたちは皆、イエスを信じる弟子ですが、その生き方はさまざまです。家庭の中にある人、一人暮らしの人、さまざまです。社会にあって信仰を守っている人もいれば、生活のすべてをイエスへの信仰のために明け渡している修道者や聖職者もいます。それぞれの置かれている場があるのです。その中で、一人ひとりは何かの信仰告白をイエスに表しているはずです。

たとえば、「朝晩、必ず祈りをしないと、何だか落ち着きません。」という人がいるでしょう。あなたは、イエスに向かって、「朝晩、必ず思い出すお方です」と信仰表明しているわけです。この信仰は、どの程度深まっているでしょうか。どの程度の重みを、今持ち続けているでしょうか。

朝晩忘れないと言っても、眠たいときは忘れますという程度でしょうか。それとも、わたしが酸素マスクをする羽目になっても、それでも忘れませんという程、真剣なものになっているでしょうか。イエスに対するあなたの思いは、ほんの少しでもいいから、完成に向かっているでしょうか。

また、わたし自身に当てはめると、イエスとの関わりは「24時間、切っても切れません」ということになるでしょう。朝早くであろうが夜中の1時であろうが、急な事態が発生すれば求められたところに飛んで行きます。飛んで行きますが、すべてを置いて飛んで行くか。そこまで深まっているか、重みが増しているかと自分に問うと、もしかしたら完成に向かう途中でわたしの信仰告白は停滞しているかも知れません。

どういうことかと言うと、現実問題、いろんな予定や計画がわたしの手帳には書き付けられていますから、その予定や計画を調整して、うまくやりくりして緊急事態の場所に行っているというのが実情です。すべてを横に置いて行く、イエスのために、いっさいを横になげうつ。そこまで完成されていないのです。

こうしてみると、すべての人がペトロの信仰告白を聞いて、自分自身に当てはめて考える必要があると思います。ペトロはイエスに、「あなたは、メシアです。」と信仰を表明して、その信仰告白はその後のペトロの人生の中で深まっていった。わたしはどうだろうか。この点を、今週は考えてみたいのです。

すべての人が、完成に向かって人生を歩んでいます。そしてすべての人が、自分の力だけでは人生を完成できません。イエスに、わたしたちの信仰告白が一歩でも二歩でも完成に向かって進むように、照らしと導きを願いたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼日本も、新型インフルエンザのことを真剣に考えるべき時が来ていると思う。素人がジタバタしてもどの程度意味があるのか疑問だが、カトリック教会もきちんと対応すべき時期に来ているのではないだろうか。
▼日本の教会全体で指針が出るかどうかは分からないが、長崎教区はぜひ指針を出すべきだと思っている。何と言っても東京と並んで信徒の数が多いのだから。それなりの果たすべき責任があると思う。ちなみに、東京教区は早くから詳細な指針を打ち出している。
▼指針が出るとしたら、どのようなものだろうか。「予防のための呼びかけ」「感染者への呼びかけ」「感染の規模が拡大し、不特定の人が危険にさらされる事態になった場合の呼びかけ」などが考えられる。
▼今現在でも指針が出てもおかしくないと思うが、現時点で長崎教区としての指針は発表されていない。予防策、たとえば「聖水器に聖水は入れず、使用しない」とか、「聖体拝領は口で拝領するのはしばらく控え、手で受け取る」などである。
▼もしかしたらゆるしの秘跡の場所も、感染拡大の温床になるかも知れない。ということで「ゆるしの秘跡はしばらくお休みです」とお知らせすることもあり得る。ただし、信徒から「すでになが~いあいだ休んでますから」という答えが返ってくるかも知れないが。

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新企画今週の1枚
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第42回目。最近、帽子をかぶるようにしました。ハゲ隠し。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マルコ9:30-37)
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年間第23主日(マルコ7:31-37)イエスは「エッファタ(開け)」と言う

2009-09-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/09/06(No.434)
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年間第23主日
(マルコ7:31-37)
イエスは「エッファタ(開け)」と言う
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今週の福音朗読は、耳が聞こえず舌の回らない人がいやしてもらう奇跡の場面です。イエスの前に連れて来られた人は、自分が置かれている辛い状況から解放されたいと心の底から願っていたはずです。

こんな中で、イエスは動き出しました。指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れます。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ(開け)」と言いました。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったとあります。

イエスが「エッファタ(開け)」と言って開いたものは何だったのでしょうか。それは、誰も開くことのできないもの、人間の力では決して開くことのできないものでした。今回は、耳が聞こえず、舌が回らないという深刻なハンディでしたが、ほかのことでも当てはめてよいと思います。

たとえば、死者を生き返らせるために「ラザロよ、出てきなさい」(ヨハネ11・43)と呼びかける場面であるとか、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」(マルコ5・41)と命じる場面なども、イエスにしか開くことのできない扉を開く偉大なわざだと思います。

わたしは、イエスが仰せになった「開け」ということばに、もっと広がりをもって考えることで、イエスのこの呼びかけと自分たちを具体的に結び付けることができるのではないかと思いました。イエスが「開け」と仰せになるとき、それはわたしたちの具体的な生活、しかもあらゆる部分で、閉ざされていたものを開くように求めているということです。

わたしたちには、生活の中でイエスによって開いてもらう必要のある部分が、まだたくさんあるのではないでしょうか。たとえば、わたしたちの中のある人は、あきらかに目上の人の前では自分をよく見せようと振る舞い、自分よりも下の立場にある人に対しては横柄な態度を取っています。

イエスはそのような人に、すべての人に公平に振る舞いなさいと呼びかけます。目上の人、目下の人で振る舞いを変えるのではなく、心を開いて、だれに対しても寛大に振る舞うように、「開け」と仰せになっているのだと思います。

また、ある人は権威を振り回しています。責任者という立場を全体の利益のためではなく自己満足のために使うのです。権威を振り回すことは、周りの人にとっては暴力をふるわれているのと同じです。自分以外のすべての人を傷つけてしまいます。むしろ、権威を全体の利益のために、奉仕のために活用しなさい、「開け」と、イエスは呼びかけるのです。

ある人は、家庭の中で暴力的になっています。夫が妻に対して、父親・母親が子供に対して、あるいは子供が父母に対して、暴力をふるってしまいます。誰も、家庭の中で暴力をふるうことなどゆるされていません。親の子に対する威厳は、子を育てるために神から委ねられたものです。決して言いなりにするためのものではないはずです。夫と妻の関係も同じです。どちらも、配偶者に対して支配する立場にはないのです。イエスは今日の出来事を通して、家庭の中にも「エッファタ(開け)」と言っておられるのではないでしょうか。

まだあります。ある人は、生活に表と裏があります。人に見える部分では社会に貢献していますが、見えない部分で悪事を働いている人もいます。イエスはこれらの人々にも「開け」と命じ、闇から抜け出すように呼びかけるのです。

ここまでは、社会生活に目を向けてみましたが、もはや社会だけではなく、教会の中でも問題が起こっているかも知れません。もしかしたら、教会の中では社会生活以上に深刻な問題が起こっているかも知れないのです。

なぜかと言うと、この部分に関してすでに一歩も二歩も取り組みが進んでいるので、社会の中ではいつか問題が表に現れて、社会的な裁きを受けることになります。ところが、教会の中では問題が表に現れにくく、表沙汰にしないようにしよう、できるだけ隠そうという傾向にあるからです。

もうすでに、悩みを抱えて打ち明けられずにいる人がいるかも知れません。自分さえがまんすればいい、自分が一人で問題を抱えればいいと思い詰めて、一般社会以上に問題が深刻になっている可能性があります。教会の中での権威を使っての言葉や態度での暴力など、成熟した社会であればとっくに訴えられているようなことさえも、まだまだ隠れて表に出ていないかも知れません。

わたしはもはや、これは他人事ではなくなっていると思います。問題を抱え、解決策を探して苦悩している教会共同体、神の家族に対しても、イエスは「エッファタ(開け)」と命じているに違いありません。

信者同士で何気なく言ったこと、たとえば「結婚信者のくせに」というような言い方は、本当は相手を深く傷つけるのです。相手はたまったものではありません。

いちばん注意が必要なのは司祭自身です。司祭が、信徒を言葉で追い詰めたり、不快にさせたりしていることがきっとあるだろうと、正直に認めるべきです。「こんなことも知らないのか」と態度に表して相手の方を失望させたりしていたら大変なことです。イエスは教会の立場ある人たちにも、「エッファタ(開け)」と仰せになって、本来の姿に立ち戻るように迫っているのではないでしょうか。

特に、教会生活での問題を、もっと考える必要が出てきていると思います。差別、虐待、抑圧、どれをとってももはや教会と無縁とは言えなくなってきているのではないでしょうか。

弱さや未熟さ、誤解や偏見、傲慢さなどで本来の姿が見えなくなっているわたしたちに、イエスが今日「エッファタ(開け)」と仰せになっている。真剣にそのことを受け止めて、問題を抱えている部分があるとしたら、どうかイエスによっていやしていただけるように、恵みを願いたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎弁で「何(なん)ばしよっとや」も、アクセントや、使用する状況によって意味が違ってくる。興味津々でのぞき込んで「何ばしよっとや」であれば、「わたしにも教えて欲しいなぁ。何をしてるの?」という意味になる。
▼ところが、「こんなことして、いったいどういうつもり?」という意味でも「何ばしよっとや」と言う。ここから具体的な話。メジナという魚を料理するのに、沸騰したお湯をメジナの皮に注いで臭みを取り、キンキンに冷えた氷水にくぐらせて霜降り状態にして刺身に切って食べる方法がある。
▼メジナは海藻を好んで食べるため、皮には独特の臭みがある。好きな人はこの臭みがたまらないわけだが(自分もそう)、上品に食べる方法として、霜降りにするのはわりとよく知られていると思う。そこで料理長に、「クロ(メジナ)はお湯をかけて、刺身で食べよう」と指示を出した。
▼ところが料理長は、半信半疑のままクロの身の部分にお湯をかけ、皮を包丁で取り除いて刺身にして出した。あえて表現すると、「湯引き」のような状態で食卓に並んだわけである。そこでついこういう言葉になった。「何ばしよっとや」。
▼料理長の性別は想像にお任せする。ガミガミ叱られてなお何かを吸収するのは男性だろうか。女性だろうか。反対に、優しく説明してはじめて学習するのは男性だろうか。女性だろうか。料理長はその日、メジナの霜降り状態での刺身を学習しなかった。
▼またとない絶好の機会がやってきた。メジナを再び手に入れたのである。今度は実演をして、沸騰したお湯を皮にかけ、直後に氷水にくぐらせて、皮付きのまま刺身にして料理長に味見させた。料理長曰く。「あっ、コリコリしてとても美味しい」。
▼当たり前じゃと思ったがここはがまんして、「でしょ~。これが霜降りよ」と付け加えると、「てっきり身のほうにお湯をかけて、皮を取り除くのだと思ってました」と言われた。実際そうやって出したことを気にしていないようである。あり得ないが。
▼ここでわたしが料理長のことで学習したこと。ガミガミ言っても、萎縮するだけで絶対に学習しません。まったく耳に入っていません。反対に、優しく説明すれば、ガミガミ言って鍛える場合の数倍早く学習してくれます。これ、ほんとの話。

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新企画今週の1枚
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第41回目。ムーンライト。最近のお気に入りの1枚です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マルコ8:27-35)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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