こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第2主日(マルコ9:2-10)イエスのそばにとどまり続けることで体験することがある

2024-02-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/2/25(No.1282)
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四旬節第2主日(マルコ9:2-10)
イエスのそばにとどまり続けることで体験することがある
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「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」(9・5)ペトロの言葉は人間の知恵で出たものではなく、とっさに出たものでしょう。とっさに出る言葉はきっと素直な心の声です。自分の言葉を十分に理解していなくても、イエスのそばにいることがすばらしいと心から感じたのでなければ、声に出せるものではありません。

同じことは私たちにも当てはまります。自然に「イエスのそばにいることはすばらしい」と言えるのでなければ、信仰生活を維持することも、信仰を子どもたち孫たち、出会った人に伝えることもできません。

趣味やスポーツでも、喜びや楽しみが理解できていなければ、誰かを同じ趣味やスポーツに誘うことができないのと同じことです。「教えた人があとで辛い目に遭うかも知れない」そう思ったら積極的に教えたりしないはずです。

助祭時代の夏休みに、萩原神父様と鯛ノ浦小教区内の巡回教会を一緒にお手伝いして回った経験があります。楽しい時間でした。もちろん単純な楽しさではなく、苦労も味わうものでしたが、「ここに留まることはすばらしい」と、言葉に表せない何か感じたのを覚えています。

「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」この世の光景とは思えないような場面に出くわして、それをずっととどめておきたい。ペトロはそのように考えたでしょう。たとえそれが、未熟な理解から出てきた言葉であっても、あまりのすばらしさにどうにかして留め置きたいと思った気持ちは十分理解できます。

私は、父親が2009年に亡くなったあとで、ビデオをいろいろな場面で撮影しておけば振り返ることができたのになぁと悔やむことがあります。たった一つだけ、牛の品評会に参加したときの映像があります。しかしいつまでそれを眺めても、そこに父親をとどめようとしても、何かが違う。そう思えてなりません。

ペトロはどうでしょうか。ペトロも、当時見た「今この瞬間」にしがみつこうとしましたが、ペトロを助ける出来事がその先に待っていました。7節です。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」

光り輝くイエスを見てペトロは「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と叫びましたが、イエスのそばにいることで、留まり続けることで、もっとすばらしいことに出会うのです。光り輝く姿は一時的でしたが、イエスは復活して栄光に輝く姿となります。そしてイエスを信じる者にも復活の栄光にあずからせてくださるのです。

私はかつて、唯一残された映像の中の父親を、これ以上ない姿だと思っていましたが、その先があったのです。品評会で胸を張っていた父は、今はイエスのそばにいて、復活の希望に招かれている。かつて父親に誇りと輝きを与えてくださったイエスは、今も復活を信じてその日を待っている父に輝きを与えておられる。朗読箇所のペトロに自分を置き換えてイエスのそばに留まったことで、この理解が得られたのです。どこか別の場所にいたら、この理解は得られなかったことでしょう。

「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」私たちは今、みことばを通して、聖体の秘跡を通して、イエスのそばにいます。イエスご自身が、ここにいることはすばらしいことだと照らし、導いています。少なくとも私は、71歳で亡くなって、一つしか映像が残っていない父を悔やむ必要は無いと教えていただきました。イエスのそばにいたから、教えていただきました。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」黙想会も始まります。黙想会も、イエスのそばで過ごす学びの時間です。イエスがそばにいてくださることを体験する時間です。イエスご自身がそばで教えてくれたものは、決して消えることはありません。イエスは私たち皆に「わたしたちがここにいるのはすばらしいこと」と、必ず悟らせてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)
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ちょっとひとやすみ
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▼大神学院が2月23日の閉校式ミサをもって正式に閉じることになる。90年の歴史に幕を下ろす。その後の活用については「召命を考えるすべての人のため」の活用策が検討されている。もしかしたら、もっと早くその方向に舵を切っていたら、まだ生き延びられたのかもしれない。
▼挨拶と、ミサ説教を通して伝わってくるのは、90年の歴史は模索を続けながらであったが確かに長崎教会管区の司牧宣教に貢献してきた、神に感謝したいというものだった。しかし小教区司祭も、教区司教も、時代に応じた形で神学生を送り出せず、このような事態に至ったことは決して忘れることはない。
▼神学院の院長は、予想しない挨拶を用意していた。ここでは話せないが、参加した人は忘れないだろう。参加した全員が、いったん90年の歴史に幕を下ろす。いただいたすべての恵みに感謝します。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

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今週の1枚
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第889回目。勝手な撮影なので問題があるかもしれないが閉校式ミサの様子。

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† 神に感謝 †
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四旬節第1主日(マルコ1:12-15)イエスのそばで仕えるというおささげ(犠牲)

2024-02-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/2/18(No.1281)
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四旬節第1主日(マルコ1:12-15)
イエスのそばで仕えるというおささげ(犠牲)
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四旬節、償いの季節が始まりました。四日前の灰の水曜日には、四旬節を意識するために、大斎・小斎という「断食」を使って、償いの季節を体に感じさせました。断食をどのように実行したでしょうか。

中田神父は、水曜日は本来休日です。しかし先週灰の水曜日は、前からお願いされていた一時間の講話のため休日返上でした。3月20日に助祭叙階を予定している神学生の準備のための講話でした。長崎教区で将来働くこの神学生に、司祭生活32年で、こんな喜び、こんな苦しみがあったよという体験談を分かち合いました。休日を返上したので、すでに犠牲ですが、断食の務めも可能な範囲で果たしました。

一日の食事をおよそ半分に減らす大斎の務めは、18歳から59歳までです。前もって宣言しておきます。60歳、還暦を迎えたら大斎の務めの義務はありませんので、たとえ助任司祭が灰の水曜日に腹が減って死にそうな顔をしていても、お構いなしに食べようと思います。

さてこれからの四旬節、どのように各自の償い・犠牲のわざを果たしていけば良いでしょうか。今週の第1主日の福音朗読を参考にしたいです。荒れ野での四十日間、「天使たちが仕えていた。」(1・13)これが四旬節の過ごし方のヒントだと思います。

しかしこの四十日間、サタンも登場しています。四十日間イエスが誘惑と闘ったことを実写版にするためにサタンと天使が描かれているのだと思いますが、サタンもイエスのすぐそばまで近づくことができる。これはあらためて考えさせられました。

誘惑する者・悪も、イエスに近づくことができる。イエスの働きを妨害し、失敗させる誘惑が近づくことができるのであれば、なおさら、人間が正しく生きようとすることを妨害し、失敗させようとする誘惑も、人間に近づくことができるわけです。

それ以上に天使はイエスのそばで仕えています。「イエスのそばで仕える」このために四十日過ごすことが、私たちにできる償い、犠牲なのではないでしょうか。たとえば365日続けることは難しいけれども、この四旬節の期間だけは実行する。期間を決めて実行する。四旬節はイエスのそば近くで仕える。そうすることが、私たちの本当の償いです。

四十日間だったら続けられる。そういうことはないでしょうか。祈ること、何かを断ち切ること、献金を四十日間だけ増やすこと、後回しにしていた教会のことをこの期間だけは真っ先に果たすなど。何か、イエスのそば近くで仕えることができるはずです。

私たちがイエスのそば近くでお仕えしようとするとき、実はサタンも、その志を諦めさせよう、良い機会を台無しにしてやろうと、近くで待ち構えています。あなたの良い心がけを食い物にしようと野獣も一緒にいるかもしれません。イエスのそばで仕える。このとうとい犠牲のわざが無駄にならないように、ミサの中で助けを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日(マルコ9:2-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼福岡のカトリック大神学院に最初に来てくれたカナダ人スルピス会司祭の一人は、四旬節にタバコをやめて、そのお金をグランド整備、具体的には芝生を購入し、植えるために使ったそうだ。その芝生の緑鮮やかな大神学院も、2月23日の閉校式で閉校となる。その後どのように活用するのか、あるいは手放すのかまだ聞いていないが、また一つ歴史が終わることになる。
▼大神学院の規則を破って夜にラーメンを食べに行ったことがある。勝手口から抜け出して、「約束の時間」にまた勝手口を開けてもらうことになっていたが、無断外出から帰ってきたときに勝手口に立っていたのはカナダ人のスルピス会司祭だった。
▼「どこに行ってましたか。」私はとっさに「ゴミを捨てに行ってきました」と嘘をついた。するとそのカナダ人司祭は「あなたは立派です」と行って中に入れてくれた。正直に言っていたら、ずっとこの司祭から「ナカダさんは規則を守りません。司祭にふさわしくありません」と言われ続け、召命の道を続けられなかっただろう。全能の神と、兄弟の皆さんに告白します。

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今週の1枚
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第888回目。2023年11月21日、神学院感謝祭の校内。芝生はどうなるだろうか。

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† 神に感謝 †
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年間第6主日(マルコ1:40-45)イエスは深いところで私たちに触れてくださる

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こうじ神父
「今週の説教」
2024/2/11(No.1280)
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年間第6主日(マルコ1:40-45)
イエスは深いところで私たちに触れてくださる
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浜脇教会は一日黙想会を含む年間第6主日です。与えられた福音朗読の中で、「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れた」(1・40)この場面が目を引きました。もっと短く言うと、「イエスが触れた」ということです。イエスが触れると、清くなるのです。

「心に響く」ことを、日本の独特の表現で「琴線に触れる」と言ったりします。イエスが触れてくださったのは、先にイエスの御心に重い皮膚病を患っている人の言葉が触れたので、イエスがその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われたのです。「深く憐れんで」とあるのは、その人の言葉がイエスの心に触れたことの何よりのしるしです。

イエスは心を揺さぶられて、その人に触れ、重い皮膚病は去り、清くなりました。皮膚病は目に見える部分ですが、「清さ」は目に見えない部分です。激しく心を揺さぶられたイエスは、重い皮膚病を患った人の内面にまで触れてくださったのです。

しかし、イエスがその人の深いところまで触れてくださったとしても、その人自身が深い内面でイエスと出会ったかは別の話です。イエスはそれを察知して、「この人は表面的にしかわたしと出会っていない」そのことを御存知だったので、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(1・44)と言われたのです。

心配していたことが現実になります。表面的にしかイエスと出会わなかったこのいやされた人は、イエスの忠告に従わず、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(1・45)とあります。イエスの忠告に聞き従っていたら、違った人生を歩んでいたでしょう。

この人がもし、深い場所でイエスに触れていたら、いやしの場面で表面的な出会いに終わっていたとしても、イエスの忠告をこれから先何度も思い返して、自分は静かな生活の中でそれを感謝すべきだと気付いたかもしれません。

この人の体験を、私たちは同じように体験することができるでしょうか。実は体験できるのです。それは聖体の秘跡とゆるしの秘跡においてです。聖体の秘跡もゆるしの秘跡も、深いところで、内面で、イエスと触れる秘跡だからです。

ミサで聖体拝領をするとき、キリストが私たちに触れてくださっています。表面的には、手のひらに触れて、舌に触れたと考えるかもしれません。もしそれだけのことならば、あの小さなパンよりも、もっと大きくて、口の中をいっぱいにしてくれるもののほうがよほど嬉しいでしょう。

表面的な感覚で終わらせず、いただいた恵みを思い巡らすと、これが私たちのために裂いて分け与えられたイエスの御体であることに気付くでしょう。そのとき、私たちはイエスと深い場所で触れるのです。「あなたの糧になります。」そう言ってイエスが先に、私に触れてくださった。イエスは深いところで、私たちに触れてくださっています。

またゆるしの秘跡を受ければ、「あなたの罪をゆるします」という言葉が耳に届くでしょう。耳に届くだけで終わるのではありません。罪は内面深くに巣くっています。そして罪のゆるしのために、イエスは十字架にかかり、私の罪を担ってくださいました。

十字架上でいのちをささげたイエスが、私の内面深くに触れてくださった。何よりも、イエスが先に、私の罪に触れて、十字架の上で罪を背負ってくださったのです。

イエスが私たちに触れてくださるのは、実に深い場所においてです。いつそれが分かるようになるでしょうか。イエスはあなたの人生全体を使って、いつか分かるように完成させてくださいます。イエスが私に触れてくださる。そのことが分かるときは必ず来ます。完成への道のりを歩んでいけるように、ミサの中で恵みを願っていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日(マルコ1:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼連続休暇をいただいた。助任二人は先に連続休暇を入れていたので、最後になった。五島列島から出ることはほとんど無いので、たまの休暇も新鮮だ。長距離バスに乗ったり飛行機に乗ったり、楽しく過ごせた。
▼何より幸いだったのは、緊急の連絡が無かったことだ。おかげで目一杯の休暇を使うことができた。緊急の問い合わせ(誰かが亡くなって洗礼名が分からないとか)があっても、スマホで返事ができる態勢はできているが。休暇は楽しいが、業務が1ミリも進んでいないのが、残念と言えば残念。

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今週の1枚
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第887回目。飛行機は雲の上を飛ぶ。当たり前のようで、新鮮だったりする。

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† 神に感謝 †
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年間第5主日(マルコ1:29-39)悪霊の居場所は神の国に存在しない

2024-02-04 | Weblog
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「今週の説教」
2024/2/4(No.1279)
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年間第5主日(マルコ1:29-39)
悪霊の居場所は神の国に存在しない
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既に結果をご存知の方もおられると思います。1月30日の司祭団マラソン大会は穏やかな天気の中、無事に全員ゴールしました。一般参加の方にも盛り上げてもらいました。堂崎教会から神父様は13人、9キロ走りました。浦頭教会からは7人が5キロのウォークで、ともにゴールの福江教会を目指しました。

中田神父は直前ふくらはぎに違和感を感じ、浦頭教会からの5キロウォークに変更して参加しました。全力で歩いた結果奇跡が起きました。なんと主任司祭が全体一位でゴールテープを切ったのです。なぜ歩いたのに走った人より早くゴールするのか?そう思っているでしょう。

理屈はこうです。堂崎からのランのトップは42分でゴールしました。1分間に215m進む計算です。私は全力で歩いて1分間に125m進みました。当然1分ごとに90m距離が詰まってきます。それでも、4キロメートルのハンデがあったので、ランの先頭がゴールしたとき中田神父は追いつかれなかったわけです。

あと1キロコースが長ければ追い付かれていたでしょう。実際には一度も後ろに付かれることなく真っ先にゴールテープを切りました。気持ちよかったです。まぁ、こういうことは二度と無いでしょう。

2月4日(日)ちょっと無理をして二十六聖人殉教記念ミサに参加しようと思っています。たくさんの人の目に留まる場所で、26人は神の国の福音を告げ知らせました。彼らにとって、イエス・キリストが生きるすべてでした。悪霊はこの世への未練を役人を通して持たせようと試みましたが、26人は悪霊にわずかの隙も見せませんでした。

26人の中には少年も老人も含まれていました。彼らはいのちをかけて、自分たちが神の国の住民であると証明したのです。私も、ミサに参加しながら、どこに行ってもどこにいても、イエス・キリストは私のすべてですと信仰を表す覚悟を受け取って帰りたいです。

福音朗読ですが、イエスの働きは生活のあらゆる場所に染み渡っていきました。日中、シモンとアンデレの家にいるシモンのしゅうとめがいやしを受けます。これは個人生活の中で起こったことです。さらに夕方、町中の人が戸口に集まる中、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやします。これは人々が集まる公共の生活での出来事です。

翌朝も、イエスは会堂を巡回して宣教し、悪霊を追い出されました。会堂は人々が祈り、律法を学ぶ宗教生活の場所です。こうして、ことばとわざで神の国を告げ知らせるイエスの宣教活動は、個人の生活、公共の生活、宗教上の生活と、あらゆる場所に染み渡っていきました。

一方で、悪霊はあらゆるところから追放されていきます。公共の場所からも、宗教活動の場からもです。イエスの働くところ、どの場所にも悪霊の居場所はなくなります。神の国に、悪霊の居場所はないと、はっきり示そうとするのです。

私たちも、「神の国に、悪霊の居場所はありません」これを今週持ち帰る糧としたいと思います。私たちは病気をいやしたりはできませんが、一人一人、自分に対して、出会う人に対して、社会全体に対して、「神の国に、悪霊の居場所はありません」と言うことはできます。

物語の中で家の戸口に集まった人たちは、野次馬のようにイエスの働きを眺めに来ただけかもしれません。一方でシモンのしゅうとめは病気をいやしていただいたあとに一同をもてなしました。受けるだけでなく、行いで返したのです。

私たちも、ミサに来てみことばと聖体を受けました。受けたものを一週間の中でお返ししましょう。神の国が、個人の生活にも、社会生活にも、宗教生活にも行き渡るように、何か一つイエスの宣教活動のお手伝いをして、悪霊の居場所を作らせないように努力しましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日(マルコ1:40-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼二十六聖人が近づくと、45年前中学生だったとき、「朗読劇」を聞かせてもらったのを思い出す。毎年、同じカセットテープを流していたと思うのだが、あのカセットテープは今どこにどうしているのだろうか。
▼二十六聖人の劇は、有名俳優(女優)を使った作品があると思う。これも、いつか手に入れて観てみたい。

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今週の1枚
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第886回目。10年ぶり?15年ぶり?二十六聖人ミサ。近い日曜日に実施している

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† 神に感謝 †
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