こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

受難の主日(ルカ23:1-49)キリストがわたしたちの中心におられる

2010-03-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/03/28(No.466)
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受難の主日
(ルカ23:1-49)
キリストがわたしたちの中心におられる
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長い福音朗読でしたが、わたしは十字架上のイエスの姿を、今年の黙想会で感じたことと重ね合わせながら朗読し、同時に朗読に聞き入っていました。イエスは、犯罪人が右と左にはりつけにされる中、真ん中に張り付けにされました。この、イエスが真ん中におられる様子を、じっと黙想してみましたので、今週の説教としたいと思います。

今年の黙想会は、本田神父さまが指導してくれたおかげで、わたしは黙想会期間中のミサに出席するだけで済みました。2人で祭壇に上がってミサを捧げたのですが、本田神父さまに敬意を表してミサの司式をお願いし、わたしは本田神父さまの隣りに立って、一緒にミサを捧げたのです。みなさんもご承知の通りです。

4日間、わたしは本田神父さまの横でミサを捧げたのですが、最初の日から、ある思いがわたしの頭を巡っていました。わたしは、これまでほとんどの場合、祭壇の中央に立って、信徒全員の中心にあって、ミサを捧げていました。それが、今回本田神父さまが祭壇の中央に立ったことで、わたしは祭壇の中央からちょっと横に移動して、ミサを捧げ、同時にミサの様子を観察することになったのです。

すぐに感じたことは、わたしは今まで祭壇の中央に立つことや、信徒の中心に立つことを、疑いもなく当然なことだと思っていたのです。けれども、いざ中心から距離を置いてミサを捧げてみると、わたしが当たり前だと思っていたことが、実はそうでもないのだな、ということが分かってきたのです。

こういうことです。祭壇の中央に立ち、信徒の中心にいるのを当然だと思うわたしの中の意識は、少し強い言い方をすると、わたしが中央にいなければ馬込教会でのミサは成り立たない、わたしが中心にいなければ、馬込教会は成り立たない。そういう意識だったと思うのです。6年間にわたり、懸命に馬込教会を引っ張ってきたつもりでしたので、「わたしでなければ」という気持ちが無意識のうちに働いていたことは十分考えられます。

ところが、実際にはわたしが祭壇の中央に立たなくても、ミサは進んでいくのです。黙想会中は、わたしがいなかったとしても、ミサは可能だったわけです。同じように、わたしが信徒の中心に立っていなくても、馬込教会は成り立つのです。そのことを、瞬間的にですが、感じ取ったのです。

「ああ、実際問題そうなんだなぁ」これが、ミサの時に感じたことを思い返した感想です。わたしは、これまで自分がミサの中心にいなければ、馬込教会の中心にいなければ、ミサも、馬込教会も成り立たないのだと本気で思っていたのかも知れません。実際はそんなことはなくて、祭壇の中央に別の司祭がいて、その別の司祭が信徒の中心に立って、わたしは、その別の司祭のそばで一緒にミサを捧げても、ミサは成り立つのです。

何を今さら、と思われるかも知れませんが、馬込教会を離れることが決まったこの時期になってようやく、「わたし」という限られた人が中心にいなければミサが成り立たないわけではなく、ましてや、わたしが馬込教会の中心にいなければ馬込教会が成り立たないのでもないということ。そのことを、黙想会のミサではっきり知ったのです。

新鮮な発見でした。どこかで、わたしが馬込教会のミサのためにどうしても必要だ、馬込教会にはわたしがどうしても必要だと思っていたのです。思い込もうとしていたのかも知れません。それが、一歩自分の立つ位置を動かしてみることで、まったく違う答えにたどり着いたのです。中心に立つべき人は、必ずしもわたしでなくても良いということです。

この答えに導かれた後に、さらに2つのことを考えました。1つは、中心に誰が立つべきかということ、もう1つは、本当に中心に立つべき人は誰か、ということです。まず、中心に誰が立つべきか、ということですが、それは、馬込教会の主任司祭に選ばれた人が、馬込教会の中心に立つということです。

当たり前のように聞こえるかも知れません。けれども、わたしは、次の任地の辞令を受けた時点でも、相変わらず馬込教会の中心に立とうとしていたわけです。中心に立つべきなのは、わたしではなくて、馬込教会の主任司祭に選ばれた人、具体的には後任に選ばれた主任司祭が、馬込教会の中心になるべき人です。中田神父という個人ではなくて、その時その時に選ばれた主任司祭が中心に立てば、それでよいのです。

実際には、これまで話したことは黙想会のミサの初日に、すぐに理解できたことでした。中心に、わたしが立っていなくても、ミサは成り立つし、馬込教会は成り立つ。事実、別の主任司祭が選ばれれば、その主任司祭に引き継ぐことで、新しい馬込教会、新しい馬込教会でのミサが始まる。そこまで、黙想会初日のミサで感じ取っていたのです。

ところが、頭でそのことを理解していても、実際に受け入れるのはそう簡単なことではありませんでした。6年間、当たり前のように味わっていた感覚でしたので、その考えを変えるのはなかなか簡単ではありません。残りの時間の中で、わたしが解決しなければならない問題です。

さてもう1つの、本当に中心に立つべき人は誰か、ということです。これはわたしの中では答えは決まっています。本当に中心に立つべきは、イエス・キリストです。あらゆる出来事の中心にあって、出来事を導いておられるイエス・キリストが、中心にいて初めて、物事の本当の意味が見えてくるからです。

ミサに、別の司祭が中心に立ち、わたしがその横に並んで立った時、中心に立っているのは目の前の司祭ではなく、イエス・キリストがそこに立っているような気がしました。このミサが、ミサとしての最高の意味と役割を持つためには、中心にイエス・キリストがいなければならない。じわじわと、その思いが高まってきたのです。

すべてのことについて、本質的には、中心にイエス・キリストが立つべきである。そのことに思いが向かった時、わたしの心は解放され、自由になりました。誰かが来て、わたしがどこかに追いやられるというのではありません。わたしは、いろんな任命を受けて、いろんな教会に派遣されていきます。けれども、わたしがどこに行こうとも、中心にイエス・キリストがおられる。その思いがわたしを満たし、心は晴れ晴れとなったのでした。

イエスの受難の場面、イエスが真ん中で、十字架に磔にされていることを思い巡らしながら考えたことでしたが、みなさんの生活を振り返るヒントになれば幸いです。みなさんも、中田神父と同じ経験をしたことがあるかも知れません。つまり、「わたしが、中心に立っていなければ、この集まりは成り立たないのだ。」そう思っていた組織や集まりがあったかも知れません。当然のことだと思っていたそのような組織や集まりも、一歩引いて考えてみたら、実はそうでないことに気づきます。

自分が中心にいなくても成り立つのだと気づいた時、悲しみや恐れ、絶望感に襲われるかも知れませんが、極端に悲しむ必要はありません。なぜなら、もっと先の大切なものにあなたが気づけば、本当に中心に立つべき人は、この世界のどんな人間でもなくて、出来事に本当の意味と価値を与える人だと分かります。それはイエス・キリストです。

自分が中心にいないことを、何も恐れる必要はありません。出来事の中心に立つ絶対的な存在など、この世界のどこにもいないのです。そうではなく、たった1人の、絶対的な存在が中心に立ってくださり、中心におられるイエスのそばに立って一緒に活動する。その姿を受け入れることができるなら、わたしたちはどこにいても、どこに送られていっても安心です。

十字架のキリスト、中心に磔にされているキリストを眺めながら、恐れるものは何もないと、むしろ平安をイエスから受け取りたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼浜串小教区での生活をイメージしてみる。真っ先に思い浮かぶのは、主日のミサ。向こうでは、土曜日夕方5時に最初の主日のミサが始まる。引き続き夜6時半からもう1つの主日ミサ。明けて日曜日、朝7時から最初の主日ミサで、最後は朝9時のミサで終わる。
▼4つも主日のミサをすることになる。多いなぁ(泣)。もしも、この上にさらに日曜日に葬儀ミサとか入ったらどうなるのだろう?わたしには想像できない。しかし、現実にはあともう少しでその生活に飛び込むことになる。まだ、心の準備はできていない。
▼平日のミサも、ものすごく複雑。ここには書かないが、現状の「木曜日朝だけ、巡回教会のミサ」というふうにはならないらしい。わたしは前任地で、週の半分を巡回教会で、週の半分を本教会でという過ごし方をして、「もうやってられない!」と「頭の中でさじを投げた」経験がある。日程表とにらめっこしているが、どうやらそれ以上のようだ。
▼人間は移動しながら落ち着いた仕事ができるとは思えない。旅から旅に移動して暮らす羊飼いは、本能的にそのような環境でも落ち着いた仕事ができるようになっているのかも知れないが、わたしはそういうタイプの人間ではない。だから、一週間を旅回りのように暮らすのであれば、もはや何かを全力で追い求めるというのは断念せざるを得ない。
▼もちろん、現代の文明の利器は可能な限り使わせてもらうが、それでも1つのことを考え抜いたり、追い求めたりすることがどこまでできるのか、多少の心配はある。あるいはそういう固定観念も捨て去って、「世界一周旅行の豪華客船で●年間の旅に出た」と考えればよいのだろうか。
▼まだ、イメージが涌かない新生活。「案ずるより、産むが易し。」「大変らしいよ~」も、「百聞は一見にしかず。」まぁ、蓋を開けるまで箱の中身は詮索しないでおきましょう。

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新企画今週の1枚
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第73回目。秘蔵写真。いつ行ったの?
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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四旬節第5主日(ヨハネ8:1-11)どうやったら「罪に定めない」共同体になれるか

2010-03-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/03/21(No.465)
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四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
どうやったら「罪に定めない」共同体になれるか
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何の言い訳にもなりませんが、一昨日金曜日は純心高校2年生の黙想会指導をしてきて、「はぁ疲れた、今日は説教考えるのやめとこうかな」という誘惑に負けまして、金曜日は説教が進みませんでした。

そこで土曜日、昨日はどうかというと、朝になってから午前中に教区の本部事務局会議が入っていたことを思い出し、慌てて朝8時15分の船に乗ってカトリックセンターに向かいました。午後からは、今度は「よきおとずれ」の2度目の校正作業でして、司祭館に帰ってきたのが夜の6時半でした。

うーん、ご飯食べてから何とか書くぞと思いつつ、うたた寝をしてしまったらしくて、目が覚めたら深夜の1時になっていました。ひさしぶりに、深夜から原稿を書き始めて今朝を迎えています。

これもついでのついでなので話しますが、「よきおとずれ」の編集長としての責任は4月号まででした。どういうことかと言いますと、4月号までは発行人もわたしの名前、「ほしかげ」のコーナーもわたしが書いた内容でしたが、5月号からは発行人の名前が後任の下窄神父さまに代わり、「ほしかげ」も新しい編集長が書き始めるということです。

実はそのことをはっきりわたしは理解してませんで、ぼんやりと5月号まではわたしの責任分担なのかなと思っておりました。そのつもりで「ほしかげ」も少し余裕残しで書いたわけです。

つまり5月号できっちりあいさつしてさようならするつもりだったのですが、どうやらそれはわたしの勘違いだったらしく、ちょっと未練が残る交代劇となってしまいました。そういうことですから、4月号「よきおとずれ」の「ほしかげ」のコーナーは、最後の原稿と思って何度も読み返して欲しいですね。

さて福音の分かち合いに入りますが、イエスの前に、姦通の現場でとらえられた女性が連れて来られます。当時の宗教指導者たちが、どういう方法でこの女性の姦通の現場を取り押さえたのか知りませんが(男性をおとりに使って、罠に陥れたのでしょうか)、どうやら、宗教指導者たちは姦通の罪で引き出された女性にはあまり興味がないようです。

むしろ、イエスを裁判に訴え出ること、イエスを罠に陥れることだけが、彼ら宗教指導者の興味関心の的になっていた感じがします。女性の罪は免れませんが、イエスを訴え出るための単なる道具に使われたのですから、そういう意味では女性も迷惑をこうむったということになります。

イエスは宗教指導者たちの主張をしばらく相手にしませんでしたが、最後に態度を明らかにしました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8・7)

イエスは宗教指導者たちの幾重にも積み重なった罪を暴きます。宗教指導者たちは、イエスを訴え出る口実を見つけるためなら、手段を選ばないという態度でした。目の前に連れ出された女性は、訴える口実を見つける手段に過ぎません。人を人とも思わない扱いをしています。

そこでイエスは、この女性の人としての権利を守ることと、宗教指導者たちの心にある隠れた罪を暴くことの、両方をなし遂げてご自分の権威を示します。「権威を示す」と言いましたが、宗教指導者たちのようにではなく、謙遜と、誰にも覆せない真実をもって、その場にいるすべての人に、神の子としてのご自分の権威を示したのでした。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」イエスの答えには、目の前に連れ出されたあわれな女性を、人として大切に扱おうとしている様子がうかがえます。同時に、イエスだけがこの場面では罪を犯したことのない人なのですから、誰にも覆せない真実を突きつけているのです。

このイエスの配慮のおかげで、その場にいる人々は去っていきます。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(8・9)

わたしはこの場面を、次のように考えました。罪を犯した女性の前には、イエスひとりしかいないのです。それはつまり、罪を犯した女性に必要な答えは、イエスの取った答えしかない、そういうことではないでしょうか。人間が考えつくような解決法ではなくて、イエスが取られた態度、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8・11)これだけが罪を犯した人に対して人間に許される態度なのではないでしょうか。

罪を見つけて、裁きで処理するという方法も世の中にはあるでしょう。それを否定はしませんが、イエスが取られた態度、「わたしもあなたを罪に定めない」という態度は、裁きで答えを出す方法よりもすぐれているのではないでしょうか。

イエスの望みにかなった共同体を造り上げる、イエスの望みにかなった社会を造り上げるためには、「罪ある人間が、誰かを罪に定めない」という方法をできる限り探る必要があるのではないでしょうか。

今週わたしたちに問われているのは、イエスが最後に言われた、「わたしもあなたを罪に定めない」ということだと思います。ある人をじゃまもの扱いして取り除いたり、押さえつけたりするのではなくて、だれもがもう一度立ち帰って生きていけるような共同体、立ち直れる社会をめざす。そのために梶を切ることができるよう、主に願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼(説教では名前を出したが)女子のミッション校の黙想会に行ってきた。こういうお手伝いも、しばらくはお休みということになろう。行ってみると、2学年同時に黙想会が組まれていたようで、前任地だった太田尾教会の主任司祭も応接室に通されていた。
▼黙想会のテーマはそれぞれなので、待ち時間に話題には上らなかったが、実は2人とも上五島に転勤するという共通のテーマがあり、そのことで待ち時間は盛り上がった。どちらも上五島は初めての赴任、どういったことが想定されるだろうかとああでもない、こうでもないといろいろ話して話題は尽きなかった。
▼わたしたちの待ち時間に、わたしの受け持ちの生徒が1人、司祭のいる応接室に通されて来た。聞けば、浜串教会から高校生活をミッション校で過ごしなさいと親から勧められたらしく、下宿して学んでいる生徒だという。「神父さまがおいでになると聞き、あいさつに来ました。よろしくお願いします。」かわいいなぁ。あいさつに来るのだから、立派な生徒なのだろう。
▼高校2年生に話した内容は、近いうちにホームページに掲載しようと思っている。身近な所に、宝物があることを、「開く」と「喜ぶ」という言葉を鍵に考え抜こうというものだった。経験上、高校2年生はいちばん扱いが難しい学年だが、よく話を聞いてくれて、さすがだなと感心させられた。中には問題を抱えている生徒もいるのだろうが、わたしには全員まぶしい生徒たちだった。
▼深夜に説教など書くものではない。集中力は続かないし、考えも途切れ途切れになる。金曜日、もっと言えば木曜日に、とっかかりを見つけておくべきだったなぁ。反省しています。この反動で、日曜日はノビノビ太だろうなぁ。でも夕方5時には、大明寺の評議員会だ。なかなか厳しい世の中だ。

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新企画今週の1枚
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第72回目。デジカメを忘れ、写メールで取った黙想会の1コマ。
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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
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四旬節第4主日(ルカ15:1-3,11-32)御父のあふれる愛を学ぼう

2010-03-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/03/14(No.464)
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四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
御父のあふれる愛を学ぼう
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説教に先立って、皆さんに報告しなければならないことがあります。わたしは2月14日付で転任の辞令を受けまして、上五島の浜串教会に転任することとなりました。4月18日までには新しい任地に着任しなければなりません。後任の神父さまと相談し、4月16日(金)に、いっせいに入れ替わることを申し合わせています。

それに伴い、引越しの準備とか、出発の日にスムーズに入れ替わるためにどうすればよいかとか、いろいろ助けてもらいたいと思っております。最後まで、ぜひご協力をお願いいたします。まだちょっと早いですが、行き先の浜串小教区の住所、連絡先を書いたメモを置いています。参考にしてください。

それから、後任の神父さまですが、わたしが名前まで言って良いものか、転任の辞令を読んだだけでは判断できません。ただ、わたしの後輩で、わたしがこちらに着任した時と同じ年齢の神父さまであると、そこまでは言っておきます。

浜串教会と言っても予備知識はないでしょう。隣の小教区はわたしの出身鯛ノ浦小教区です。鯛ノ浦の実家から、車で30分くらいだと思います。九州商船のフェリー、ジェットフォイルの着く奈良尾港からは、車で20分くらいです。

どんなつもりで故郷の隣の小教区に転任なのか計りかねますが、行きませんとは言えないので、腹を決めて残りの期間の務めを精一杯果たしたいと思います。まだ時間はいくらか残されていますが、4月以降の日程でいろいろ相談してくださった人に、「うーん、それはちょっとー」と言ってはぐらかしていたのは、喉まで出かかっていたのですが、今日まで公表できなかったためでした。申し訳ありません。

では福音の分かち合いに入りましょう。今週の福音朗読は、おそらく福音書のたとえ話の中で、いちばん親しみを持っているのではないでしょうか。弟は、財産を無駄遣いしてしまい、そのことがきっかけで父の家に帰ります。父にゆるしを願おうとすると、父親が先にゆるしを与えました。

兄は、父の寛大さをどうしても受け入れることができません。受け入れられない口実として、「友達と宴会をするために、子山羊1匹すらくれなかったではありませんか」(15・29)と言っています。ただ、宴会のために子山羊が必要であれば、兄子山羊1匹くらいは自分で用意できただろうにと思います。ですから、単なる文句を言う口実だったかもしれません。

さて、この物語に、味を付けている人物は誰だろうかとわたしは考えます。寛大な父親が、物語を面白くしてくれているのでしょうか。あるいはやっかいな弟が、物語のアクセントになっているのでしょうか。わたしはむしろ、兄の存在が、この物語の重要な鍵を握っているのではないかなと思います。

つまり、兄が、どういう態度に出るのかで、この物語の形が決まってくるのではないかと思うのです。もし、兄が「そうか。それは良かった。弟が無事に帰ってくるなんて、こんなに嬉しいことはない」と答えていたら、物語は何かを考えさせるたとえ話にはなっていなかったでしょう。

実際には、たとえ話にあるように、弟のしでかしたことがゆるせない、また父親の寛大さにも納得いかない、そういう態度だったので、何かを考えさせる物語に仕上がったのだと思います。兄が、この物語から学びを得る鍵だと、わたしは思いました。

まずは、兄と弟が、父親のことをどのように思っているか、この点から出発したいと思います。弟が、我に返って次のように言ってます。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(15・17)弟は、父親が大勢の雇い人に、寛大に振る舞っている様子を思い出しました。父親の懐の深さ、寛大さを今さらのように尊敬します。

一方兄からは、父親の懐の深さ、寛大さにつながるような言葉は見られません。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(15・29)これは、「わたしには責められる非は全くない」という言い方ですが、父親への尊敬の念は感じられません。

兄と弟、この2人の違いは何だろうと考えたとき、わたしは、父親の愛を「あふれるほどの愛」と受け取ったか、そう取らなかったかの違いではないかと思いました。弟は、雇い人にも、おなか一杯食べさせてくれている、そんな父親にあふれるほどの愛を感じました。

兄は、弟をゆるす父親の中に、あふれるほどの愛を見ることができなかったのだと思います。父親を理解できなかった兄の愛をたとえて言えば、それは「すりきり一杯の愛」です。父親に返す愛として、不足ではありませんが、あふれてはいません。そんな愛しか父親に返せなかったので、弟を見る目も、「すりきり一杯の愛」でしか量れなかったのだと思います。

弟は、もちろん立ち返りが遅かったわけですが、兄には見えなくなっていた父親のあふれるほどの愛に気づいています。自分も、これまであふれるほどの愛で育てられたに違いない。どうしてこんなことをしてしまったのだろう。今からでも、父親が示してくれたあふれるほどの愛を見習って、生きていくことにしよう。これが、弟の立ち返ったいちばんのポイントだと思います。

父親のあふれるほどの愛を理解した弟は、自分が雇い人の1人として扱われても構わないとまで考えます。父親の深い愛を、今は理解しているからです。自分がどんな身分であっても、父親の愛を失うことはないと、理解しているからです。それはまるで、一度死にかけた人が、命を取り戻したあと、もはや恐れるものはないと感じているようなものです。自分が実の子どもという身分を失っても、愛を失わないと知っているので、恐れるものがないのです。

兄はまだ、弟のこうした心の成長を理解していません。まだ、父親のあふれる愛を理解し、自分も父親に倣おうという気持ちになれません。兄に今、答えが求められているのは、「あなたは、父親のあふれる愛を理解し、自分も父親に見習って、あふれる愛を人に示す人になってくれますか?」という問いです。

今週のわたしたちの学びも、兄への問いかけからです。「あなたは、父なる神のあふれる愛を理解し、自分も父なる神に見習って、あふれる愛を人に示す人になってくれますか?」すりきり一杯の愛で量ろうと思えば、自分たちの周りには不足とみなされる人もいるかもしれません。その人を理解しようというとき、わたしのほうがあふれる愛で量り返す必要があります。

また、すでにあふれる愛を学んで生きている人を、そんな生き方は認めたくないと拒否すべきではありません。すでに、あふれる愛に生きている人には、わたしも共に喜び合うのです。こうしてわたしたちは、父なる神に倣って生きる人になるのです。先週の説教と重ね合わせて考えると、このような生き方を選び取って初めて、わたしたちは回心を遂げるのです。

わたしたちには、いつも置かれた場所で、あふれる愛を学ぶ機会が与えられています。わたしのこれまでの6年間の生活もそうでしたし、これからもそうです。今ここで、今このときが、父なる神のあふれる愛を学ぶ場です。生活に信仰を根付かせていくために、ミサの中で恵みを願うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼天使のお告げに答えたマリアの言葉。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)。単純明快な答えの中に、主に対する尊敬と従順の完全な姿が示されている。マリアの答えをすばらしいと思いながらも、簡単ではないよなぁと今さらのように声に出してしまう
▼長崎教区内の異動は、女子修道会から先に始まる。そのあとに司祭の異動が続く。時には自分自身の異動が決まっているのに、修道女たちを見送ったり、迎えたりしなければならない。この修道女たちも、「お言葉どおり、この身に成りますように」と自分に言い聞かせているのだろうなぁと思うと、最近は胸が詰まる
▼公表すべき日が明示されているけれども、どうしても評議会の議長にだけは心の準備をしてもらうべきだと判断して、自分は異動するのだと伝えた。腰を抜かしていた。しかし、その議長はやっとの思いでこうわたしに返事した。「み言葉どおりに成りますように」。小教区のために、たいしたこともできなかった主任司祭だったが、愛されていたことがよく分かった
▼マリアも、一言だけは天使に尋ねている。わたしも、一言だけは尋ねてみた。返事も受け取った。そしてこう理解した。「司祭は、愛される場所に、いつも派遣されていくものだ」と。だから司祭は、後ろを振り返らず、新しい任地に出かけて行く。

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新企画今週の1枚
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第71回目。黙想会がおこなわれました。写真中央は指導司祭です。
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‥次の説教は‥‥
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(ヨハネ8:1-11)
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四旬節第3主日(ルカ13:1-9)すべての人に「悔い改め」が求められている

2010-03-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/03/07(No.463)
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四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
すべての人に「悔い改め」が求められている
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長く信仰を保ち続けるということは、それなりの意味があるのだと思います。ある通夜の席で、「苦しみ」について思う所を素直に話したことがあります。その時、喪主を務めたご主人が、「妻は苦しい思いをして亡くなって、どうしてこんな思いをしなければならなかったのだろうかと思い悩みましたが、今日、神父さまの説教を聞いて、苦しみの意味が分かりました」と、参列者に話したのです。

まだ30歳にもならないわたしが、苦しみの意味を説き明かしたりできるはずがありません。むしろ、わたしが通夜で話したことを通して、神さまが奥さんを亡くされたご主人に、苦しみの意味を教えてくださったのだと思います。それは、長く奥さんと信仰を共にして連れ添ったことへの報いだったのかも知れません。

今週の福音朗読で、わたしにも長い時間かかっての発見がありました。3月12日にはわたしも44歳になりますが、ここまで信仰を保ってきて、与えられた朗読箇所の中に、ようやく見えてきたことがあります。それは「悔い改める」という言葉の意味です。

今週の福音朗読は前半と後半とに大きく分かれます。前半で、ピラトに殺害されたガリラヤ人たちが、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったと言えるだろうかとイエスは問いかけます。同じように、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと言えるだろうかと問うています。

イエスの問いかけは、意味を考える必要があります。イエスはただ問いかけているのではありません。あなたたちは、「自分たちは殺害されたり事故の巻き添えになったりする運命にあるような人間ではない」、もっと言うと、「悔い改めの必要な人間ではない」と、思い違いをしているのではないか、とイエスは人々に言いたいのです。

イエスは、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13・3,13・5)と告げて、悔い改めの必要のない人間などどこにもいないと言い切ります。すべての人に、悔い改めの必要があるのです。

すべての人が悔い改める必要があることを、前半部分で考えさせました。悔い改めの必要が理解できたところで、「では悔い改めとはどういう態度を指すのか」を後半の部分で教えようとします。

「罪がある人が、罪を認めて立ち帰る」この姿勢を、イエスは「悔い改め」として示しているのでしょうか。後半の朗読をもう一度読み直してみましょう。いちじくの木が、実を付けないことを、ぶどう園の主人は不満に思っています。どうして実を付けないのに、切り倒さないのか。ぶどう園の主人が言っていることももっともです。

ぶどう園の主人の要求は、はっきりしています。自分は、どんな果樹からも、実りを求めるということです。ある果樹にだけ、実を付けることを要求しているのではなくて、すべての果樹に、結果を求めるのです。

同じことを「悔い改め」に当てはめてみましょう。悔い改めは、ある限られた人に要求されているのでしょうか。今週のたとえからすると、すべての人に「悔い改め」は要求されています。そうであれば、「悔い改め」とは、罪を自覚している人だけのものではないということです。イエスが教えようとする「悔い改め」は、すべての人に要求されている態度なのです。

すると、わたしたちが考えがちな、「罪があるから、悔い改める」という理解では、イエスの問いかけの答えにはなっていないことになります。イエスの言う「悔い改め」とは、どんな態度を指すのでしょうか。

ここで、去年の黙想会のことを思い出してみましょう。聖パウロの回心というのが黙想会のテーマでした。聖パウロは、罪深い生活から回心したのではありませんでした。誰よりも、律法に忠実な生き方をしている中で、生き方を改めるように呼び掛けられたのです。抜きん出て、正しいことを実践していた最中に、です。

イエスが求める「悔い改め」も、このパウロの体験をもとに考えるべきです。人間的に見て、正しい生き方をしている人はたくさんいるでしょう。自慢まではしなくても、自分の生き方に満足できている人はたくさんいると思います。

それでも、イエスはすべての人に「悔い改め」を求めるのです。それはすなわち、「神に照らしを求めて生きる」この生き方に変わっていくことです。イエスの言う「悔い改め」とは、「正しく生きる」こと以上に、「神により頼んで生きる」そういう人に根本から変わることを指しているのです。

ここまで考えると、人間はすべて、「悔い改め」が求められていることが分かります。わたしたちは、この社会を生きていく中で、「自分で努力して自分を守る」「自分のことは自分でする」そんな生き方に完全に支配されて生きています。また自分の努力が、道を切り開いてきたことも確かです。

それでも、イエスはわたしたちに、「神に照らしを願いながら生きる人に変わりなさい」と求めるのです。どんなにうまくいっている人にも、中心に神の照らし、導きを置く人に変わることを求めているのです。

このような「悔い改め」が、今週わたしたちに求められています。「まだまだ、神さまに助けてもらう必要は感じない」。教会との関わりを面倒だと思う人は、態度で、「わたしは悔い改めません」と言っているようなものです。

態度を改めない人には何が待っているのでしょうか。「もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(13・9)これが「悔い改めの実を結ばない人」の末路です。とてつもなく寛大な主人と園丁ですが、それでも、最後の最後「切り倒そう」と決断する権限を持っているのです。

わたしたちの学びを得ましょう。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。これは罪人からの立ち帰りだけを言っているのではありません。わたしが、神への信頼を中心に据えて生きるように生まれ変わること。これがイエスの求める「悔い改め」です。

イエスの求める「悔い改め」が見えてくれば、出会う人との接し方も変わってくるのではないでしょうか。自分を中心に据えて生きている人が、いかに多いことでしょう。親しい友人にも、「自分がいちばん大事」と信じて疑わない人ばかりです。そんな、たくさんの友人に、「神が、生きる中心になるべきです」と、あなたは語り掛けなければなりません。その心の準備はできているでしょうか。

すべての人に、「悔い改め」が必要です。神を中心に据えて生きる「生き方の大転換」が必要です。この「悔い改め」の必要性に目覚め、自信を持って同じ生き方を証しできる人に生まれ変われるように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼ワンキン、ツーキン、スリーキン、フォーキン、ファイブキン、シックスキン、セブンキン、・・・あとはご想像にお任せします。このカタカナのオチが分かった人は、メールアドレス k.nakada@bridge.ocn.ne.jp までお便りください。「意味が分かりません」という人も、メールください。答えは来週分かります。
▼2月14日バレンタインデーの日、「説教本文」に「ちょっとひとやすみ」を加えて自費出版した本が出来上がった。1冊3700円、限定10冊なので、何人かの人にしかプレゼントできない。だいたい1年半で1冊にまとめている。今回がシリーズ5作目ということになる。メルマガも8年続いた。
▼説教にも書いたが、ここまで何かしらを継続してくると、「自分を中心にして生きる」人間になる可能性が高い。「わたしのしていることは正しい」「わたしのしていることを誰にも文句言わせない」そんな、「悔い改め」の必要な罪人に、自分で自分を仕立ててしまう危険がある。
▼「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2・20)この言葉の意味は分かるけれども、この言葉を生きているかと問われれば、そうでもないとしか答えられない。「わたし」を無にするのは、なかなか難しい。いつまでたっても、わたしを忘れられたくないからだ。
▼来週、女子のミッションスクールに黙想会指導に行くことになっている。原稿はできているが、自分の言葉で話せるまで、もっと読み込む必要がある。担当する学生は高校2年生。多感な時期の生徒たちに、わたしの思いは伝わるだろうか。

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新企画今週の1枚
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第70回目。これも、「ちょっとひとやすみ」のヒントですけど。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100307.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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