こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(ルカ16:19-31)わたしが日頃遠ざけているものは何ですか

2016-09-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/09/25(No.848)
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年間第26主日
(ルカ16:19-31)
わたしが日頃遠ざけているものは何ですか
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年間第26主日C年は「金持ちとラザロ」のたとえが取り上げられました。金持ちはもっとも遠ざけていた出来事を死後に問われました。わたしたちも、日頃何を遠くに追いやってしまっているか問われているのだと思います。

火曜日は修道院のミサの日ですが、先週のミサ依頼は「敬老のお祝いを迎えた姉妹たちのため」でした。祭壇に上がって「本日のミサは敬老の祝いを迎えた姉妹のためです」と発表したのですが、わたしのメガネが合ってないのでしょうか。敬老者と思われるおばあさんは一人もいませんでした。明日にでもメガネ屋さんに行って、相談しようと思っています。

おばあさんつながりでもう一つ。秋分の日(木)に、信徒発見劇の上五島公演DVDの上映会を行いました。まずまずの参加人数で皆さん喜んでもらえたのですが、一つ残念なことがありました。上映を終えての帰り、一人のおばあさんが玄関で困った様子でした。靴を間違えられて帰れなくなっていたのです。

残っていたのはサンダル一足だけでした。皆さんの中に必ずいるはずです。来るときにはサンダルを履いてきて、帰りはすま~して靴を履いて帰った人。困っている人がいます。解決できることを心から願っています。

福音朗読に戻りましょう。「金持ちとラザロ」のたとえ話です。金持ちは生きているうちに自分の楽しみのためだけに時間とお金を使いましたが、神はそういう生き方のあげくに死んだ金持ちを拒みました。時間にもお金にも余裕があったのですから、時間もない、お金もない貧しい人々に手を差し伸べる必要があったのです。

そうは言っても、若いうちは自分の好きなことにしかお金をかけません。たとえば病院にお金を使うなんてもったいないと思っています。病院に千円払うくらいなら、焼き肉屋で上ロースを飛び越えて特上ロースを食べるほうがましだと思っています。

ところが自分の好きなことだけにお金をかけたツケは必ず返ってくるものです。わたしがそうでした。3年くらい前でしょうか。東京出張中に足の親指の付け根に今まで経験したことのない痛みが走りました。痛風でした。打ち身とか、切り傷の痛みではないのです。骨をボキッと折ったらこれくらい痛いだろうというような痛みでした。

ロキソニンという痛み止めを薬局で買って五島までは辛抱しまして、すぐ病院に飛び込みました。看護師さんが痛風を疑っています。診察した先生も驚いた様子もなく「立派な痛風です。尿酸値を下げる薬を処方しましょう。お大事に」ということでした。ここでようやく、健康のためにお金と時間を使う必要性に迫られたのです。病気の診断が下る前に考えるべきでした。

このように、人はしばしば、自分からいちばん遠い場所の痛みを分かろうとしないのです。わたしはそれまで病気らしい病気もしたことがなかったので、健康に注意するとか、健康のためにお金と時間を使うなどということは最も意識から遠い事柄だったのです。

たとえ話の金持ちにとっても、貧しいラザロの状態は自分から最も遠い生活でした。だれかの家の食卓から落ちる物で腹を満たすとか、ユダヤ人にとって不浄な生き物とされている「犬」が近寄ってきて、できものをなめている。こんなみじめな生活は、金持ちにとっては目の前で起こっていたとしてもいちばん縁遠い場所の出来事だったのです。

いちばん遠い場所で起こっていることを身近に感じない人は、いつまでたっても目の前の欲望に手を出します。ところがいったんいちばん遠い場所の痛みを知ると、お金の使い方、時間の使い方が変わり、社会全体が恩恵を受ける世の中に変わるのです。

「病気などまったく縁遠い」と思っていた人が痛みを知って初めて健康のためにお金と時間を使い、本当の豊かさをしみじみ感じる。たとえ話の金持ちも、いちばん遠い場所にいる貧しい人たちに富を分け与えて初めて、神の祝福を感じる豊かさにあずかれるのです。

イエスのたとえは地上の富にだけ注意を向けているのでしょうか。たとえ話は死後の世界にも及んでいます。そうであるなら、信仰と日常生活についても、目の前のことだけしか見ない生き方をせず、永遠の幸せにつながる生き方に気を配り、永遠の幸せにつながるはずのものを遠ざけたり追いやったりしていないか、考えさせるのです。

多くの人にとって、信仰は日常生活の中でいちばん遠ざけられている事柄かもしれません。一年に一度お墓参りをしてそれで終わりとか、年の初めに手を合わせて幸せを願うのが関の山だとか、そういう人も多いかもしれません。わたしたちの中にも、クリスマスにかろうじてミサに来て終わりという人がいるのかもしれません。

信仰と、それを支える祈り。これらは慌ただしい生活のいちばん遠い場所に追いやられている部分かもしれません。しかしその場所の大切さを知るようになると、お金の使い方、時間の使い方に変化が生まれ、本当の幸せを追い求める人に変われるのです。わたしの祈りを必要としている人を身近に感じることができるようになり、諸聖人の交わりが理解できる人になります。神に何かをおささげすることに意味と価値を感じ、時間とお金を使える人に変わっていくのです。

いちばん遠くに追いやっているものにも気を配る人が、本当の幸せにたどり着ける人です。健康寿命もそうでしょう。カトリック信者としては、信仰に根差した生活を身近に考えてこそ、真の幸せを味わうのです。自分の視界に置きたくない事柄、目を背けている事柄をもう一度よく考えてみましょう。神はこれまでわたしが目を背けてきたことを重大な事柄として最後に問う可能性があるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(ルカ17:5-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼広島教区司教として司教叙階を受けた白浜満新司教は、明確な目的を持っていると思ったし、きっと聡明な司教になると思う。機転の利いた挨拶をするし、新司教の見ている視点は弱い人の視線そのものだと感じた。
▼司教に叙階されると「様」になる人が多いと思う。それは司祭に叙階された人が「様」になるのと同じかもしれない。上から目線になり、仕えられることを気持ちよく感じ、そこから遠ざかろうとしない。次第にイエスの模範からも遠く離れていく。
▼新司教にはそんな懸念はみじんも感じられなかった。彼には弱い立場に置かれている人が居場所を感じる懐の深さがあった。「医者を必要とするのは病人」という自覚がそうさせるのだと思う。
▼大神学生時代に体調を崩して休学したことが、仕えられるよりも仕えることを、見失った羊を捜し回ることを学ぶ機会になったのかもしれない。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18・14)きっと、新司教の中でこの声が響ているのだろう。
▼そんな尊敬に値する白浜新司教の話からすれば低いレベルの話になるが、最近ようやく聖書の一節一節は、実際に読んで見つけてこそ、喜びを感じることができると思えるようになった。本当に恥ずかしい話だが、聖句は検索ソフトで見つけるのが手っ取り早いし、わざわざ聖書を開いて見つけなくても同じ聖句に行き当たるのだから変わりはないと思っていた。ところが実際はそうでもないのである。
▼「時課の典礼」の「旧約の歌」の中に申命記が採用されているが、創世記から聖書を読み続け、申命記までたどり着いてみて「あ、ここが聖務日課の箇所だったか」と実感できた。引用箇所が示されているから聖書の開き方を知っていれば造作もないことだが、引用を見て聖書を開くのではなく、出会うまでわざわざ聖書を読んで見つけ出してみた。
▼パソコンの検索ソフトで探せば数秒もかからないことだが、1か月読み続けてようやく該当の箇所にたどり着いたとき、時間をかけてみないと感じることのできない「到達の喜び」を感じた。聖書の通読は地味だが、探していた個所に出会った時の喜びをたまに味わう。その喜びはたとえようがない。

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今週の1枚
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第455回目。実はちょっとした時刻表オタク。公共機関で博多から戻れそう。

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年間第25主日(ルカ16:1-13)富を使い、天に宝を積む人と出会えるように

2016-09-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/09/18(No.847)
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年間第25主日
(ルカ16:1-13)
富を使い、天に宝を積む人と出会えるように
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「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(16・10)わたしたちは何に忠実を尽くすか試されています。今週、天に宝を積む事柄に忠実を尽くす生き方について考えることにしましょう。

わたしが主任司祭になって初めて赴任したのは西彼大島町の太田尾小教区でした。大島造船所という基幹産業があり、大島トマトも有名でした。隣の崎戸町ではダイヤソルトという会社が塩を作っていました。かつては炭鉱の島でしたが、炭鉱閉山後見事に生まれ変わりました。

赴任して間もないころ、わたしは外出しては司祭館に帰れなくなって迷子になっていました。同じ道を帰ってくるだけなのに、最後に教会に上がる道を通り過ぎてしまい、「ここはどこだ?」と、さんざん苦い思いをさせられたのです。

ある日、首回りにカラーを付ける司祭シャツを着て出かけ、例によって帰り道で迷い、教会にたどり着けなくなりました。まだ知り合いもいないし、同じ道をぐるぐる回るだけでどうしても戻れませんでした。峠に差し掛かり、車を降りて行先を書いた看板の前に立ち尽くしていると、一人のお父さんが声をかけてくれました。「どうかしましたか?」

「わたしは太田尾教会の神父なのですが、教会の入り口がわからないのです。」あとで分かるのですがそのお父さんは太田尾教会の信徒でした。本当はおかしくてたまらなかったのでしょうが、見知らぬ親切な人を演じてこう言ったのです。「すべての道は、百合岳に通じるのですよ。百合岳に行って全体を見渡してごらんなさい。」

言われるまま、島の中でいちばん高い百合岳に向かいました。全体を見渡して、ようやく地図が頭の中に収まりました。わたしが見落として教会に戻れなかった場所も、頂上から眺めると一目瞭然でした。迷子になって焦っていたので、全体が見えてなかったのです。

その時の経験は今も生きています。「すべての道は、一つの場所に通じる。」それが分かれば、道を間違えても目的地にたどり着けるはずです。いったん頂上に行けば、どこを間違ったのか自分で納得できるのです。そしてこの教訓は、人を真理へと導いてくれると思ったのです。

福音朗読に戻りましょう。ある金持ちの主人に重んじられていた不正な管理人は、主人から仕事を奪われようとしていました。彼は小作人が主人に払うべき分に、自分の分け前を上乗せして証文を作成していたようです。証文に油百バトスと書かれていても、管理人を通して実際に主人が受け取っていたのは五十バトスだったのでしょう。

同じように小麦を納める小作人の百コロスも、そのうちの二十コロスは管理人の取り分を上乗せしていた証文だったと思われます。本来の数字に書き直しても、主人は被害を受けないし、小作人には負担を軽くしてくれた情け深い主人であると思わせることに成功したのです。

管理人は、告げ口をする者の告発で解雇されます。それまでは「主人にお仕えする道」を悪用して、「懐を増やす道」にすり替えていたのです。しかし解雇されるに至り、「すべての道を主人に向ける」この決断をしたのです。管理人が生き残る道は、そこにしかなかったのです。

「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」(16・8)管理人がたどり着いた生き残りの最後の方法は、わたしたちに何かを教えようとしています。わたしたちにとって、「すべての道は神に通じる道」なのです。

もしそうであるなら、どれだけ神に背を向けていても、最後の行き止まりのところで神と向き合うことになります。最後に神と向き合う人生の道ならば、なぜ最後まで背を向ける必要があるでしょうか。一刻も早く神のほうに向きなおって、歩き始めるべきです。

それぞれの人生ですから、それぞれの好きなように使って結構だと思います。ただし、どのような使い方にせよ、天に宝を積むように工夫することを強く勧めます。あなたの持ち物のうち、いくらかは神の為に使うなら、財産全体が本当に価値あるものとなるでしょう。

友達を作るとき、その人がわたしを思い出して天の父にとりなしてくださるような人を探すように勧めます。わたしが道をそれても、わたしのことを天の父に祈ってくれる友達がいるなら心強いはずです。

わたしの持ち物、わたしが大切にしている友とこれから付き合っていくとき、最終的にどこにつながっていくのかを考えましょう。「すべては神に通じる。」そう思ってあなたの持ち物、出会う友達と接しましょう。もし最終的に神につながらない持ち物、神に向かう友達でないならば、距離を置くこともできます。

わたしたちが大切にすべき相手、忠実を尽くすべき相手は、本当に価値あるものにつながる相手であるべきです。神につながっていく相手を大切にして、すべての道が神に通じるよう、生活全体を整えたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(ルカ16:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼広島カープの優勝で、続々と便りが来た。北海道から、芦屋から、浜串から、伊王島から、他にもいっぱいあるが、つながりを感じた。「七度舞う 季節はずれの 鯉のぼり」次は10月のクライマックスシリーズだ。
▼クライマックスシリーズの負け組だったので全く知らなかったが、セカンドステージ(つまり日本シリーズへの最後の挑戦権)は、リーグ優勝したチームのホームグランドで6戦するらしい。4勝すれば勝ち抜きなので当然6戦目まで行われない可能性もあるが、ホーム球場で戦うなら今年のカープは4敗もしないだろう。
▼この原稿を書いた前日、カープは阪神との一戦だった。甲子園球場すら赤く染めるカープ党は、中盤逆転されても慌てない。3対1でリードしていた試合を3対4とひっくり返されてから、風呂に入りに行った。「まあ、風呂上がった頃には再逆転してるだろう。」
▼案の定、9回の時点で6対4と再逆転し、おいしいビールにありつけた。過去のすべての記録を知るわけではないが、現時点で83勝、貯金36はカープを応援していて見たことも聞いたこともない。わたしならとっくに舞い上がって「しくじり先生」になっているところだ。
▼ところが緒方監督は「勝って兜の緒を締めよ。」昨日の阪神戦でもエラーで逆転されたことをずいぶん気にしていた。こんな監督だから、いくらファンが浮かれていてもきっといい夢を見させてくれるだろう。
▼いよいよそこまで来たが、相手はどこだ?ソフトバンクホークスでなければ10月27日に試合を観戦する可能性はほぼゼロに近い。10月25日から27日までたまたま福岡で研修を受けている。だから27日にソフトバンクと日本シリーズ第5戦というシナリオであってほしいのだ。
▼10月27日の研修が終わって、飛行機で東京、電車で千葉?あるいは飛行機で札幌、ドーム?いやいや、どちらも無理だろう。だから、だから。ソフトバンクが上がってきてほしいのだ。

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今週の1枚
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第454回目。高速バスで長崎から諫早に行く間、バスでWi-Fi利用できた。へぇ!

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年間第23主日(ルカ14:25-33)イエスの弟子は、何かをより少なく愛する

2016-09-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/09/04(No.845)
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年間第23主日
(ルカ14:25-33)
イエスの弟子は、何かをより少なく愛する
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「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(14・26)弟子の条件として示されたこの招きは一瞬ぎょっとするものです。誤解を解いてから、今週の学びを得たいと思います。

ようやく日曜日の「聖書と典礼」がすべて大判になりました。これなら多くの人が手にとって利用してくれるでしょう。これからは「字が小さいから使わない」とは言えなくなりました。わたしなんか目をつぶってでも読めます。この取り組みが、典礼の奉仕により多くの人を参加させるきっかけになればと思います。

しかし費用の負担は頭の痛いところです。3ヶ月に1回請求書が来ます。これまでの小型版での請求は47500円でしたが、一気に7万円以上になると思います。50円のお賽銭を入れている人はぜひ・・・何を言いたいかは汲み取ってください。

ところでお気づきかと思いますが、聖書と典礼の朗読聖書にはすべて振り仮名が振られています。これは、「わたしは漢字が苦手で、小さい文字は読めません」と言って典礼奉仕を断らないための予防線です。

ミサの様子を見ていて、「この人ずっと聖書を読んでいるなぁ」と思うことがあります。頼みづらくて、同じ人がずっと引き受けているのだと思いますが、これからはぜひ「聖書と典礼は大判になったし、神父さんもより多くの人が典礼当番をしてほしいと言っているから、引き受けてください」といろんな人に声かけてください。お願いします。

福音朗読に戻りましょう。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(14・26)「憎む」という言葉がどうしても引っかかると思います。この「憎む」を誤解しないで読む必要があります。

イエスが活動した地域で使われていた言葉は、アラム語と言ってヘブライ語の系統の言葉でした。日本語では「憎む」と訳されていますが、使われていた言葉の特徴を踏まえて考える必要があります。すると、次のようなことが考えられるそうです。

(a)ヘブライ語には比較級がないため、「より少なく愛する」と言う代わりに「憎む」を使うそうです。すると意味は「より少なく愛する」となります。(b)ヘブライ語の「憎む」には「放棄する」とか「脇に置く」の意味があるそうです。両方を考え合わせると、家族や自分の命のために弟子の覚悟が鈍るようなことがあってはならないとの呼びかけととることができます。

「より少なく愛する」という解釈を取るなら、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(14・27)という招きは、はるかかなたの理想ではなく、生活の身近な場所で実行できる招きとなってきます。家族、自分の命、自分の持ち物など、身近な場所で「イエスの弟子としてついていくために、より少なく愛する」という生き方は可能ではないでしょうか。

同じ時間に、いくつかの用事が重なれば、どれかを優先し、どれかを後回しにしなければなりません。その時「自分の十字架を背負ってついて来る者」となるために、より少なく愛するものが見えてきます。わたしたちは、今の生活の中で、何かをより少なく愛するようにすることで、「自分の十字架を背負ってついて来る者」となるのです。

9月4日、バチカンでマザー・テレサが列聖されます。2003年に列福された時も、死後5年という慣例を飛び越えて列福調査が始まり驚きましたが、今回の列聖も異例の早さでした。わたしが説明するまでもないですが、マザー・テレサはインドのコルカタで死にゆく人々のために生涯をささげ、希望のない人に希望を与えたのでした。

彼女の生き方には、イエスの弟子としての覚悟がすべて込められていました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」彼女は晩年健康を害してしまいましたが、自分の命よりも見捨てられた人、誰も頼る者のない人を優先したのです。

彼女の有名な言葉があります。「どんな小さいことであっても、大いなる愛を込めておこなうことは、人に喜びを与えます。そして人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるか。それが重要なのです。」わたしたちはマザー・テレサの言葉に倣って生きるなら、どこにいてもイエスの弟子であり、どんな生き方でも「自分の十字架を背負ってついて来る者」となれるのです。

イエスの弟子として生きるためには、どうしても何かをより少なく愛する必要が出てきます。わたしは、何をより少なく愛してイエスの弟子としての覚悟を示すことができるでしょうか。「まず腰をすえて」考えてみることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(ルカ15:1-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼小学生のまっすぐな気持ちは眩しいくらいに感じる。8月31日朝のミサ。「夏休みの思い出の絵をあげる」と持ってきた。画用紙一杯に、わたしがミサをして、そばで本人が侍者をしている祭壇の様子が描かれていた。
▼「夏休みの宿題に出そうと思ったけど、別の絵を出すことにしたから、これはあげる。」そういうことだった。この絵を学校に提出しても、学校の先生は夏休みのどの部分を切り取った絵なのか分からないに違いない。確かに、別の絵を提出したのは賢明だと思う。
▼それにしても、「夏休みの思い出」がミサの場面というのは、わたしは名誉なことだが、ほかにないのだろうかと思ったりもする。もちろん、本人が「この場面が今年の夏休みの思い出の場面だ」と考えているのだからそれは尊重する。きっと、この夏のいちばん貴重な時間が、朝のミサで侍者をした日々だったのだろう。
▼ミサの時間を大切な瞬間ととらえる思いは、いつまでも大切にしてほしい。できればこの思いを、神様の呼びかけととらえて、祭壇近くで奉仕する生き方に招かれてほしい。田平教会はまぁまぁ子供がいるのに司祭や修道者の召命が途絶えてしまっている。この子が召命の糸を再びつなぐ子供であってくれたらどんなにうれしいことだろう。
▼イエスは、魚が何も獲れなかったシモンに声をかけ、不思議な大漁を経験させた。何か獲れていたなら、シモンには声をかけていなかったかもしれないと思っている。そう考えると、召命がゼロとなった田平教会には、今こそ声をかけてくださるのかもしれない。

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今週の1枚
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第452回目。小学生女子の「夏休みの思い出」。夏休みを一枚の絵にしてくれた。

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