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↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80330.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
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こうじ神父
「今週の説教」
08/03/30(No.351)
‥‥‥†‥‥‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
暮らしの中で「わたしの主、わたしの神よ」と呼びましょう
‥‥‥†‥‥‥‥
昨日土曜日は、午前中「よきおとずれ」の編集・校正作業のためにカトリックセンターで仕事をしていました。午後は2時から、中町教会で4月5日結婚予定のカップルに結婚式のリハーサルをつけまして、3時半の船に乗って伊王島に戻りました。戻ってからはほかの雑用をしていたら夕ご飯の時間になりまして、魚料理をごちそうになりました。
さぁいよいよ日曜日の説教を書くぞと思い、「この点とあの点を話してみようかな」などと考えて、話を補強するために解説書を読んでいたら夜の8時半になりました。だんだん時間がなくなってきたなーと思ったら、どうやら居眠りしてしまったようで、次に目を開けてみたら何と夜中の2時になってたんです。サンテ40(目薬の名前)の世代になって、たくさんの仕事を短い時間でこなせなくなってきたんだなぁと実感しました。それから頭をもう一度回転させて説教をまとめ上げました。
ですから、今回の説教は出来としてはあまり良くないと思っています。だいたい夜中にすばらしいアイディアがわくとは思えませんし、残り時間を気にして書いても本当に考え抜いたものが書けるわけがありません。まあその程度だろうとおもってお聞きになってください。
復活節の第2日曜日は、「神のいつくしみの主日」という名前が付けられています。これは教皇ヨハネ・パウロ2世が付与したものですが、朗読箇所とか典礼に何か変更が加わったわけではなくて、これまでのものにより深い意味を与えてくれる呼び名で呼ばれるようになったということです。
たとえば福音朗読を取り上げると、トマスが再び弟子たちに現れた場面に同席していて復活したイエスに出会い、イエスのいつくしみに触れます。かたくなに信じようとしないトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20・27)と言いました。どこまでもトマスの立場に立ってイエスは復活を理解させようとこう言ったのでしょう。そこには、イエスの変わらぬいつくしみが示されています。
これに対してトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と答えます。きっと、トマスもイエスのいつくしみに触れたので、このように答えることができたのだと思います。こうして考えると、今日の復活節第2主日が、「神のいつくしみの主日」と呼ばれることになったのは自然な流れかなぁと思っています。
さて、今年「神のいつくしみ」を思うために、私はトマスの言葉「わたしの主、わたしの神よ」という言葉を取り上げてみたいと思います。トマスは、考え方によっては別段不思議でも何でもない呼びかけを復活したイエスに返したのですが、一方で見方を変えれば、この何でもないような呼びかけに、考えさせられる点もあるように思います。その再発見を、今年の糧としていきましょう。
トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えたことで、復活したイエスを主と認め、神とあがめたのでした。じつは一緒に暮らしていた3年の間にも、弟子たちは「主よ」とイエスに呼びかけています。おもにペトロが「主よ」と呼びかける場面が多いのですが、1番弟子のペトロがこのような呼び方をしたのでしたら、ほかの弟子も見倣ったということは十分考えられます。
トマスが呼びかけた「わたしの主、わたしの神よ」という言葉がこれまでの呼び方の繰り返しで、特別な思いがないとしたら、これは取り上げる価値がありません。ですが実際は、特別な思いで「わたしの主、わたしの神よ」と呼びかけたに違いありません。どんな思いがあったのでしょうか。
トマスが呼びかけた「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、当時使われていた尊敬の意味を越えて、最高の称号を受けるにふさわしい方、唯一のお方という意味があったと思います。例えばそれは、「ミスタープロ野球」と言えば長島選手ただ1人を表すような、あなたはたった1人の人ですというような意味合いです。
信仰宣言とも言える言葉によって、トマスはイエスを唯一の主とあがめたわけですが、私たちもトマスと同じ態度を復活したイエスに示しているか考えましょう。まずは、ふだんミサに参加して唱えている言葉が、「わたしの主、わたしの神よ」というほどの気持ちで唱えているのか考えてほしいのです。
いくつか取り上げましょう。ミサのはじめ、私たちは「主よ、あわれみたまえ」と唱えます。うわべだけの言葉になっていないでしょうか。私に、あわれみといつくしみを注いでくださるのはあなただけです。そんな思いで「主よ、あわれみたまえ」と唱えることがあるかなぁ、と考えてみてください。
また、聖体拝領の前に「神の子羊、世の罪をのぞきたもう主よ、われらをあわれみたまえ」と唱えます。聖体を拝領するのに、私は本当のことを言えば完全な者、ふさわしい者ではないのですが、世の罪を取り除いてくださる唯一の方であるあなたに、あわれみをこい求めます。そんな願いを込めて、ある時は平和の賛歌を唱えて欲しいなぁと思うのです。
礼拝の中で「唯一の主」という思いが意識できるようになりました。私たちの最終到達点はそこにあるのでしょうか。そうではありません。生活の中で、「イエスはわたしの主、わたしの神です」という信仰告白ができることが、私たちの最終目標です。礼拝の中で自分の信仰を表明できても、生活に戻って同じ信仰が表明できなければ、それは半分くらいの影響しかないからです。
では生活の中でどのようなことに気を付ければよいのでしょうか。1つ挙げるとすれば、「あなたは唯一の主です」と本当に思っているのでしたら、私たちは主であるお方に見られたくない部分、見られてはまずいというような部分を作らないことです。復活したイエスが、「わたしの主、わたしの神」であるなら、主に照らされて白日の下に暮らすべきです。
トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を表明して、私たちの最終目標を示してくださいました。イエスに見られては困る部分を作らない、陰日向のない生活を生きようと決心する時、私たちはいつも神のいつくしみに触れることができるようになります。
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼説教の原稿を書こうと思った時、まだ夜の7時半頃だったので、「あー、これは12時前に眠れるな」と思いながら解説書を読んでいた。実際この時間なら、12時をまたぐことはないだろうと思っていた。ところが体は思った以上に参っていて、思いに体がついてきてくれなかった。
▼似たようなことはほかにもあって、天ぷら定食を頼んで、さあ食べるぞと思って天ぷらを箸に取り、つゆに浸したのだと思って口に運んでみると、何と天ぷらを冷たいお茶に浸けて食べようとしていたのだった。テーブルの向かいに座っていた人が、「いやー、お茶に浸けたあと、どうするのかなぁと思ったら、口に運んだなー」と、疲れている私をねぎらうように声をかけてくれた。
▼餃子を食べるために「餃子のタレ」を準備してみると、関係のないものを餃子のタレに浸けて口に運んだこともあった。「うー、酸っぱい・・・」そう思ったが口から出すこともできず、気まずさと、自分に対する腹立たしさで、餃子の代わりに惨めな思いを味わった。こんな自分が許せないが、「単なる間違い」では済ませられないのも事実である。
▼どこかで耳にした言葉だが、「人間は人生の半分は自由が利かなくなった体をだましだまし生きなければならない。自由が利く時間なんてあっという間に終わってしまう」のだそうだ。認めたくないが、現実は足もとまで忍び寄ってきている。
▼認めたくないものも認め、前に進むしかない。こんなはずではないと思っても、目の前にいる自分しか、ほかにはいないのだから。また朝が来れば、1日が始まる。午前中のミサ、午後の命日祭のミサ、夜の実行委員会会議。その他もろもろ。いつまでたってもどこまで行っても相変わらずの忙しさだが、何か慰めも待っているだろうと思いつつ、いったん布団に潜ることにしよう。
‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第24回目。励ますことが、いちばん効果的な指導だとつくづく思います。
詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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こうじ神父
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
暮らしの中で「わたしの主、わたしの神よ」と呼びましょう
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昨日土曜日は、午前中「よきおとずれ」の編集・校正作業のためにカトリックセンターで仕事をしていました。午後は2時から、中町教会で4月5日結婚予定のカップルに結婚式のリハーサルをつけまして、3時半の船に乗って伊王島に戻りました。戻ってからはほかの雑用をしていたら夕ご飯の時間になりまして、魚料理をごちそうになりました。
さぁいよいよ日曜日の説教を書くぞと思い、「この点とあの点を話してみようかな」などと考えて、話を補強するために解説書を読んでいたら夜の8時半になりました。だんだん時間がなくなってきたなーと思ったら、どうやら居眠りしてしまったようで、次に目を開けてみたら何と夜中の2時になってたんです。サンテ40(目薬の名前)の世代になって、たくさんの仕事を短い時間でこなせなくなってきたんだなぁと実感しました。それから頭をもう一度回転させて説教をまとめ上げました。
ですから、今回の説教は出来としてはあまり良くないと思っています。だいたい夜中にすばらしいアイディアがわくとは思えませんし、残り時間を気にして書いても本当に考え抜いたものが書けるわけがありません。まあその程度だろうとおもってお聞きになってください。
復活節の第2日曜日は、「神のいつくしみの主日」という名前が付けられています。これは教皇ヨハネ・パウロ2世が付与したものですが、朗読箇所とか典礼に何か変更が加わったわけではなくて、これまでのものにより深い意味を与えてくれる呼び名で呼ばれるようになったということです。
たとえば福音朗読を取り上げると、トマスが再び弟子たちに現れた場面に同席していて復活したイエスに出会い、イエスのいつくしみに触れます。かたくなに信じようとしないトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20・27)と言いました。どこまでもトマスの立場に立ってイエスは復活を理解させようとこう言ったのでしょう。そこには、イエスの変わらぬいつくしみが示されています。
これに対してトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と答えます。きっと、トマスもイエスのいつくしみに触れたので、このように答えることができたのだと思います。こうして考えると、今日の復活節第2主日が、「神のいつくしみの主日」と呼ばれることになったのは自然な流れかなぁと思っています。
さて、今年「神のいつくしみ」を思うために、私はトマスの言葉「わたしの主、わたしの神よ」という言葉を取り上げてみたいと思います。トマスは、考え方によっては別段不思議でも何でもない呼びかけを復活したイエスに返したのですが、一方で見方を変えれば、この何でもないような呼びかけに、考えさせられる点もあるように思います。その再発見を、今年の糧としていきましょう。
トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えたことで、復活したイエスを主と認め、神とあがめたのでした。じつは一緒に暮らしていた3年の間にも、弟子たちは「主よ」とイエスに呼びかけています。おもにペトロが「主よ」と呼びかける場面が多いのですが、1番弟子のペトロがこのような呼び方をしたのでしたら、ほかの弟子も見倣ったということは十分考えられます。
トマスが呼びかけた「わたしの主、わたしの神よ」という言葉がこれまでの呼び方の繰り返しで、特別な思いがないとしたら、これは取り上げる価値がありません。ですが実際は、特別な思いで「わたしの主、わたしの神よ」と呼びかけたに違いありません。どんな思いがあったのでしょうか。
トマスが呼びかけた「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、当時使われていた尊敬の意味を越えて、最高の称号を受けるにふさわしい方、唯一のお方という意味があったと思います。例えばそれは、「ミスタープロ野球」と言えば長島選手ただ1人を表すような、あなたはたった1人の人ですというような意味合いです。
信仰宣言とも言える言葉によって、トマスはイエスを唯一の主とあがめたわけですが、私たちもトマスと同じ態度を復活したイエスに示しているか考えましょう。まずは、ふだんミサに参加して唱えている言葉が、「わたしの主、わたしの神よ」というほどの気持ちで唱えているのか考えてほしいのです。
いくつか取り上げましょう。ミサのはじめ、私たちは「主よ、あわれみたまえ」と唱えます。うわべだけの言葉になっていないでしょうか。私に、あわれみといつくしみを注いでくださるのはあなただけです。そんな思いで「主よ、あわれみたまえ」と唱えることがあるかなぁ、と考えてみてください。
また、聖体拝領の前に「神の子羊、世の罪をのぞきたもう主よ、われらをあわれみたまえ」と唱えます。聖体を拝領するのに、私は本当のことを言えば完全な者、ふさわしい者ではないのですが、世の罪を取り除いてくださる唯一の方であるあなたに、あわれみをこい求めます。そんな願いを込めて、ある時は平和の賛歌を唱えて欲しいなぁと思うのです。
礼拝の中で「唯一の主」という思いが意識できるようになりました。私たちの最終到達点はそこにあるのでしょうか。そうではありません。生活の中で、「イエスはわたしの主、わたしの神です」という信仰告白ができることが、私たちの最終目標です。礼拝の中で自分の信仰を表明できても、生活に戻って同じ信仰が表明できなければ、それは半分くらいの影響しかないからです。
では生活の中でどのようなことに気を付ければよいのでしょうか。1つ挙げるとすれば、「あなたは唯一の主です」と本当に思っているのでしたら、私たちは主であるお方に見られたくない部分、見られてはまずいというような部分を作らないことです。復活したイエスが、「わたしの主、わたしの神」であるなら、主に照らされて白日の下に暮らすべきです。
トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を表明して、私たちの最終目標を示してくださいました。イエスに見られては困る部分を作らない、陰日向のない生活を生きようと決心する時、私たちはいつも神のいつくしみに触れることができるようになります。
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ちょっとひとやすみ
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▼似たようなことはほかにもあって、天ぷら定食を頼んで、さあ食べるぞと思って天ぷらを箸に取り、つゆに浸したのだと思って口に運んでみると、何と天ぷらを冷たいお茶に浸けて食べようとしていたのだった。テーブルの向かいに座っていた人が、「いやー、お茶に浸けたあと、どうするのかなぁと思ったら、口に運んだなー」と、疲れている私をねぎらうように声をかけてくれた。
▼餃子を食べるために「餃子のタレ」を準備してみると、関係のないものを餃子のタレに浸けて口に運んだこともあった。「うー、酸っぱい・・・」そう思ったが口から出すこともできず、気まずさと、自分に対する腹立たしさで、餃子の代わりに惨めな思いを味わった。こんな自分が許せないが、「単なる間違い」では済ませられないのも事実である。
▼どこかで耳にした言葉だが、「人間は人生の半分は自由が利かなくなった体をだましだまし生きなければならない。自由が利く時間なんてあっという間に終わってしまう」のだそうだ。認めたくないが、現実は足もとまで忍び寄ってきている。
▼認めたくないものも認め、前に進むしかない。こんなはずではないと思っても、目の前にいる自分しか、ほかにはいないのだから。また朝が来れば、1日が始まる。午前中のミサ、午後の命日祭のミサ、夜の実行委員会会議。その他もろもろ。いつまでたってもどこまで行っても相変わらずの忙しさだが、何か慰めも待っているだろうと思いつつ、いったん布団に潜ることにしよう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
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