こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神のいつくしみの主日・暮らしの中で「わたしの主、わたしの神よ」と呼びましょう

2008-03-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
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こうじ神父
「今週の説教」
08/03/30(No.351)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
暮らしの中で「わたしの主、わたしの神よ」と呼びましょう
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昨日土曜日は、午前中「よきおとずれ」の編集・校正作業のためにカトリックセンターで仕事をしていました。午後は2時から、中町教会で4月5日結婚予定のカップルに結婚式のリハーサルをつけまして、3時半の船に乗って伊王島に戻りました。戻ってからはほかの雑用をしていたら夕ご飯の時間になりまして、魚料理をごちそうになりました。

さぁいよいよ日曜日の説教を書くぞと思い、「この点とあの点を話してみようかな」などと考えて、話を補強するために解説書を読んでいたら夜の8時半になりました。だんだん時間がなくなってきたなーと思ったら、どうやら居眠りしてしまったようで、次に目を開けてみたら何と夜中の2時になってたんです。サンテ40(目薬の名前)の世代になって、たくさんの仕事を短い時間でこなせなくなってきたんだなぁと実感しました。それから頭をもう一度回転させて説教をまとめ上げました。

ですから、今回の説教は出来としてはあまり良くないと思っています。だいたい夜中にすばらしいアイディアがわくとは思えませんし、残り時間を気にして書いても本当に考え抜いたものが書けるわけがありません。まあその程度だろうとおもってお聞きになってください。

復活節の第2日曜日は、「神のいつくしみの主日」という名前が付けられています。これは教皇ヨハネ・パウロ2世が付与したものですが、朗読箇所とか典礼に何か変更が加わったわけではなくて、これまでのものにより深い意味を与えてくれる呼び名で呼ばれるようになったということです。

たとえば福音朗読を取り上げると、トマスが再び弟子たちに現れた場面に同席していて復活したイエスに出会い、イエスのいつくしみに触れます。かたくなに信じようとしないトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20・27)と言いました。どこまでもトマスの立場に立ってイエスは復活を理解させようとこう言ったのでしょう。そこには、イエスの変わらぬいつくしみが示されています。

これに対してトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と答えます。きっと、トマスもイエスのいつくしみに触れたので、このように答えることができたのだと思います。こうして考えると、今日の復活節第2主日が、「神のいつくしみの主日」と呼ばれることになったのは自然な流れかなぁと思っています。

さて、今年「神のいつくしみ」を思うために、私はトマスの言葉「わたしの主、わたしの神よ」という言葉を取り上げてみたいと思います。トマスは、考え方によっては別段不思議でも何でもない呼びかけを復活したイエスに返したのですが、一方で見方を変えれば、この何でもないような呼びかけに、考えさせられる点もあるように思います。その再発見を、今年の糧としていきましょう。

トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えたことで、復活したイエスを主と認め、神とあがめたのでした。じつは一緒に暮らしていた3年の間にも、弟子たちは「主よ」とイエスに呼びかけています。おもにペトロが「主よ」と呼びかける場面が多いのですが、1番弟子のペトロがこのような呼び方をしたのでしたら、ほかの弟子も見倣ったということは十分考えられます。

トマスが呼びかけた「わたしの主、わたしの神よ」という言葉がこれまでの呼び方の繰り返しで、特別な思いがないとしたら、これは取り上げる価値がありません。ですが実際は、特別な思いで「わたしの主、わたしの神よ」と呼びかけたに違いありません。どんな思いがあったのでしょうか。

トマスが呼びかけた「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、当時使われていた尊敬の意味を越えて、最高の称号を受けるにふさわしい方、唯一のお方という意味があったと思います。例えばそれは、「ミスタープロ野球」と言えば長島選手ただ1人を表すような、あなたはたった1人の人ですというような意味合いです。

信仰宣言とも言える言葉によって、トマスはイエスを唯一の主とあがめたわけですが、私たちもトマスと同じ態度を復活したイエスに示しているか考えましょう。まずは、ふだんミサに参加して唱えている言葉が、「わたしの主、わたしの神よ」というほどの気持ちで唱えているのか考えてほしいのです。

いくつか取り上げましょう。ミサのはじめ、私たちは「主よ、あわれみたまえ」と唱えます。うわべだけの言葉になっていないでしょうか。私に、あわれみといつくしみを注いでくださるのはあなただけです。そんな思いで「主よ、あわれみたまえ」と唱えることがあるかなぁ、と考えてみてください。

また、聖体拝領の前に「神の子羊、世の罪をのぞきたもう主よ、われらをあわれみたまえ」と唱えます。聖体を拝領するのに、私は本当のことを言えば完全な者、ふさわしい者ではないのですが、世の罪を取り除いてくださる唯一の方であるあなたに、あわれみをこい求めます。そんな願いを込めて、ある時は平和の賛歌を唱えて欲しいなぁと思うのです。

礼拝の中で「唯一の主」という思いが意識できるようになりました。私たちの最終到達点はそこにあるのでしょうか。そうではありません。生活の中で、「イエスはわたしの主、わたしの神です」という信仰告白ができることが、私たちの最終目標です。礼拝の中で自分の信仰を表明できても、生活に戻って同じ信仰が表明できなければ、それは半分くらいの影響しかないからです。

では生活の中でどのようなことに気を付ければよいのでしょうか。1つ挙げるとすれば、「あなたは唯一の主です」と本当に思っているのでしたら、私たちは主であるお方に見られたくない部分、見られてはまずいというような部分を作らないことです。復活したイエスが、「わたしの主、わたしの神」であるなら、主に照らされて白日の下に暮らすべきです。

トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を表明して、私たちの最終目標を示してくださいました。イエスに見られては困る部分を作らない、陰日向のない生活を生きようと決心する時、私たちはいつも神のいつくしみに触れることができるようになります。



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ちょっとひとやすみ
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▼説教の原稿を書こうと思った時、まだ夜の7時半頃だったので、「あー、これは12時前に眠れるな」と思いながら解説書を読んでいた。実際この時間なら、12時をまたぐことはないだろうと思っていた。ところが体は思った以上に参っていて、思いに体がついてきてくれなかった。
▼似たようなことはほかにもあって、天ぷら定食を頼んで、さあ食べるぞと思って天ぷらを箸に取り、つゆに浸したのだと思って口に運んでみると、何と天ぷらを冷たいお茶に浸けて食べようとしていたのだった。テーブルの向かいに座っていた人が、「いやー、お茶に浸けたあと、どうするのかなぁと思ったら、口に運んだなー」と、疲れている私をねぎらうように声をかけてくれた。
▼餃子を食べるために「餃子のタレ」を準備してみると、関係のないものを餃子のタレに浸けて口に運んだこともあった。「うー、酸っぱい・・・」そう思ったが口から出すこともできず、気まずさと、自分に対する腹立たしさで、餃子の代わりに惨めな思いを味わった。こんな自分が許せないが、「単なる間違い」では済ませられないのも事実である。
▼どこかで耳にした言葉だが、「人間は人生の半分は自由が利かなくなった体をだましだまし生きなければならない。自由が利く時間なんてあっという間に終わってしまう」のだそうだ。認めたくないが、現実は足もとまで忍び寄ってきている。
▼認めたくないものも認め、前に進むしかない。こんなはずではないと思っても、目の前にいる自分しか、ほかにはいないのだから。また朝が来れば、1日が始まる。午前中のミサ、午後の命日祭のミサ、夜の実行委員会会議。その他もろもろ。いつまでたってもどこまで行っても相変わらずの忙しさだが、何か慰めも待っているだろうと思いつつ、いったん布団に潜ることにしよう。

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今週のセンテンス
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第24回目。励ますことが、いちばん効果的な指導だとつくづく思います。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)私たちにも空の墓の意味を教えてください

2008-03-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/03/23(No.350)
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復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
私たちにも空の墓の意味を教えてください
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今日の祝いは、復活徹夜祭の喜びとはまたひと味違います。昨日は婦人たちの行く手にイエスが現れて復活の出来事を強めてくださいましたが、今日、日中の典礼で朗読されているヨハネ福音書の朗読箇所は、直接にはイエスの復活を見ない中で復活の出来事を信じる様子が描かれています。直接イエスの姿を見ない中で復活の信仰に導かれるさまは、私たちにとって学ぶことが多いと思います。昨晩の復活徹夜祭にも皆さん参加していますので、説教を手短にまとめ、その中でしっかり糧を得て生活に派遣されていきましょう。

今日選ばれた朗読に登場するのは三人です。マグダラのマリアとシモン・ペトロ、それにイエスが愛しておられたもう一人の弟子です。この三人の中で、共通しているのはイエスの遺体を収めた墓の様子を見たということです。この登場人物の中での違いは、マグダラのマリアは空の墓を見たけれども「遺体が運び去られた」と見誤ったのですが、シモン・ペトロともう一人の弟子は、空の墓の状況を見て、イエスが復活したのだと信じたということです。

登場人物の共通する部分から、なぜ違った結果が導き出されたのかを考えてみましょう。私はその理由の一つは、マグダラのマリアは個人として墓の様子を判断したけれども見誤ってしまい、シモン・ペトロともう一人の弟子は、集団で物事を考えた、聖書の別の箇所を引用するなら、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・20)という、神の民として起こっていることの意味を考えようとしたので、正しい答えにたどり着いたのではないでしょうか。

つまりそれは、人間一人ひとりの判断には誤りが生じる可能性があるけれども、神の民である教会として判断しようとする時、復活したイエスが共にいて、正しい判断に導いてくださるということではないでしょうか。

シモン・ペトロともう一人の弟子はイエスの復活に理解が及びました。目撃したのは空になった墓でした。空の墓を見た時、イエスの死を、どうしても認めなければならなかった。ではイエスが確かに死なれたのであれば、「三日目に復活することになっている」(マタイ16・21)、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24・26)この答えにたどり着いたのです。まさしく、二人の弟子がイエスの名によって集まっていたので復活したイエスが二人を正しい答えに導いたのです。

ここで一つの糧に結び付けてみましょう。次の言葉で表してみたいと思います。「わたしたちにその意味を教えてください」という言葉です。イエスの遺体を収めていた墓を見に行きました。墓は空でした。「わたしたちにその意味を教えてください」と真剣に求める時、復活したイエスが共にいて、照らしと導きを与えてくださいます。「わたしたちにその意味を教えてください」と願う時、私たちは復活したイエスに出会うのです。

中田神父は3月12日で42歳になりました。過ぎた1年は、司祭としても、人間個人としても、辛いことや難しい問題をたくさん経験しました。「わたしたちにその意味を教えてください」と、今は問いかけながら振り返っています。個人的な問題への答えなのですから、「わたしにその意味を教えてください」と願っても良いわけですが、同僚の司祭と相談したり、すでに同じような困難を乗り越えた友人知人に悩みを打ち明けたり、人生の先輩である両親と顔を合わせる時、家族で心を一つにして祈ったりして、「わたしたちにその意味を教えてください」と願いたいのです。きっと、復活したイエスが共にいて、出来事の意味を説き明かしてくださると思います。

今日こうして礼拝に集まっている私たちも、「わたしたちにその意味を教えてください」とともに祈り、願う相手がきっといるはずです。「わたしは天涯孤独の身です」と言い張っても、必ず、あなたのことを思い、心配してくれる人がいるはずです。そんな誰かと、「わたしたちにその意味を教えてください」と願ってみてはいかがでしょうか。

空の墓は、シモン・ペトロともう一人の弟子が「わたしたちにその意味を教えてください」と願った時、イエスの復活に思い至りました。彼らが心を一つにして集まった時、復活したイエスに触れたのです。私たちも、空の墓しか見ることができないわけですが、それでも復活したイエスに出会う道は与えられています。今も、願う人に復活したイエスが出会おうとしている。この希望を胸に、日々の生活に派遣されていくことにいたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼あー、朝の5時半。昨晩11時に復活徹夜祭が終わり、それからちょっとだけ乾杯して、うー、それでも明日の説教を考えなきゃーと思って机に向かったものの、30分ほどでダウン。布団に潜り込み、気が付いたら3時半。ひぇー!それからうなり声を上げながら考えあぐねた結果が今日の説教です。
▼助けられたーと感じたのは、3時半に目が覚めたこと。6時までぐっすり眠る可能性もあったわけだから、神さまは優しいなぁと思いました。けれども神さまは厳しさも持っているわけで、目が覚めたらあっという間に書けましたとはいかず、今日は寝不足です。
▼「わたしたちにその意味を教えてください」という部分では、説教の準備を再開した時自分一人で何とか形を付けようとあくせくしていた時間にはいい答えは見つからず、「このままだと信徒の皆さんに申し訳ないなぁ」という気持ちになった時、それが「(馬込の)わたしたちにその意味を教えてください」という願いとなり、答えが見つかったのかも知れない。そう思った。
▼まだ、まだまだ息の抜けないことばかり。15日の締め切りを過ぎてできていないものがあるし、25日の締め切りのものが2つ控えている。これは何かで気分転換でもしなければやってられないと思っていたら、ステーキが長崎本土から海を渡ってやって来た。うー。これを食べて気分転換しよう。でも、700kcalだなぁ。

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今週のセンテンス
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第23回目。ストレスは注意信号です。この信号に気を付けないと大変なことに。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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復活徹夜祭(マタイ28:1-10)復活のイエスが行く手に立っています

2008-03-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/03/22(No.349)
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復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
復活のイエスが行く手に立っています
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主の復活、おめでとうございます。説教の後、1人の女性の洗礼式を予定しています。縁あって中田神父からご家族のお父様が洗礼を受け、今度はお母様がほぼ1年後の今日、洗礼を受けることになりました。伊王島に住んでいるわけではありませんが、洗礼を受けるお母様にはご家族のシスターが立ち会ってくださっています。こちらのシスターは、見かけたことがあるかも知れません。

今年のご復活のメッセージは、婦人たちと復活したイエスとの最初の出会いから取り上げてみました。稲妻のように輝き、雪のように白い衣をまとった主の天使が空の墓の側にいて、婦人たちに「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(28・6)と復活の事実を告げます。

すると「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(28・8)のです。そしてその直後に、イエスと婦人たちは出会うことになります。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」(28・9)。私はここに、今年の復活のメッセージを読み取りました。

2つの点を特に強調したいと思います。1つは、婦人たちがイエスの復活を弟子たちに知らせるために走って行った中で出来事は起こったということ、もう1つは、婦人たちの行く手にイエスがおられ、出会ったということです。それぞれについて、さらに考えてみましょう。

婦人たちは、イエスの復活を主の天使から知らされ、それを弟子たちに知らせに走りました。ここには、イエスの復活が、「知らせに行くべき内容だ」ということが含まれています。イエスは、今この時にも、私たちと共にいてくださる。その事実は、自分一人でしまっておくべきものではなくて、知らせに行くべき事柄である。これが、最初のメッセージです。

婦人たちは弟子たちに復活の知らせを届けに行きました。ただし、この知らせを弟子たちがどう受け止めるか、信じてくれるのか信じてもらえないのか、不安が残ります。ルカが書き残した記事によると、「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(24・10-11)とあるのです。女性の社会的な立場が弱かった当時とすれば、なおさらのことでしょう。

そこで、イエスは婦人たちの証言の後ろ盾をするために、婦人たちの行く手に立って、「おはよう」と声をかけたのです。墓で主の使いから「急いで行って弟子たちにこう告げなさい」(28・7)と命じられた時、途中でイエスと出会うことなど知らされていませんでした。婦人たちには間違いないと思えるほどの確信はなかったでしょう。そこでイエスの復活を知らせに行く婦人たちの歩みを強めるために、イエスは婦人たちの行く手に立ってくださったのです。これが、今年の復活徹夜祭の2つめのメッセージです。

この2つのメッセージを生活の中で体験してみましょう。私自身の体験を通して考えるきっかけにしたいと思います。私が司祭になって2年目か3年目の頃ですが、結婚のために相談に来たカップルがいました。この方々との最初の面会の時に、いつも通り結婚式までに必要な勉強会のことと、手続きのことをお伝えしました。

それからしばらくして、新郎側のお父さんからこんなことを言われたのです。「息子の結婚のために何ヶ月も勉強が必要だなんて初めて聞きました。以前いた神父様はそんなことはなかった。あなたはどうしてそんなに高圧的に勉強を強要するのですか。あなたはそれでも神父ですか」と、かなりの剣幕だったのです。

その時の電話の応対では、私も少し向きになっていたのか、勉強はどうしても必要です、みんな勉強会を受けていますと、そんな押し問答をしばらく交わしました。その日私は電話のことで気が立っていて、よく眠れませんでした。私の印象では、相手の言い分が一方的だったと思ったからです。

けれども、私もよく考えてみました。いずれにしてもこれは、解決しなければならない問題です。このカップルの結婚式は、おそらく自分が引き受けなければなりません。準備の仕方でいがみ合ったまま結婚式を迎えたら、大変なしこりを残すことになるでしょう。ここは一つ、謝った方がいいという気持ちになったのです。

せっかくだから、その家庭を訪ねて電話でのことを謝りに行こうと思いました。そこは商売をしている家でした。私が電話でのきつい応対を謝りますと、玄関に出てこられたお父さんは、こっちもつい向きになって言い過ぎたと理解してもらうことができました。後にその家の息子さんの結婚式も、無事に終えることができました。

私は当時のことを振り返ってみて、こう思ったのです。ある時自分から行動を起こさなければ、問題を解決できないような場面に出くわします。ところが、行動を起こし、出かけていっても、必ず事態がよい方に向かっていくとも限らないのです。それでも行かなければならない。こういうことがまれに起こるのです。

そんな時、行く手にイエスが立っておられ、声をかけてくださる。訪ねて行ったとしても私の力で解決できるか心配しながら重い足を進めていると、イエスが行く手に待っていてくださり、声をかけてくださるのです。司祭として、あるいは信者として、動かなければならない時、イエスはその行く手に立ってくださり、力を与えるのではないでしょうか。

婦人たちは、復活の出来事を知らせに行く務めを十分理解していました。「確かに、あなたがたに伝えました」(28・7)と、使命を託されたのですが、果たしてうまくいくだろうか、それは心配していたかも知れません。イエスの復活を伝えなければならない。今私は行動しなければならない。けれども、私の力だけでは心配だ。そんな時、イエスは行く手に待っていてくださり、力を貸してくださるのです。

私たちにも、婦人たちは経験したことを教えようとしています。あなたが、信者としてどうしても行動しなければならない時、復活したイエスはあなたの行く手に立って、あなたを力づけ、励ましてくださいます。信頼して、行動しなさい。あなたのすべきことを、誠実に果たしなさいと、促していると思います。

兄弟姉妹で、まだ仲直りできていない人たちがいるかも知れません。教会の中でのわだかまりがあり、あの人がいるなら協力しないとか、まだどこかに問題を抱えているかも知れません。けれども、だれかが信者として行動してくれたら、その行く手にイエスが立っておられ、解決のための力を貸してくださると思います。

今日、復活してくださったイエスに、私たちも信頼を寄せましょう。婦人たちに力を貸してくださったように、また右も左も分からなかった若い神父の問題解決に力を貸してくださったように、復活したイエスは今日も、あなたの行く手に立って、「恐れることはない。行きなさい」(28・10)と声をかけてくださいます。


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ちょっとひとやすみ
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▼一度行き違うとなかなかもとには戻れないものだ。電話の応対で、私が話をややこしくするようなことを尋ねたことで、すぐに受話器を置ける話が10分以上のやりとりになってしまった。今になってみると私の方に非があるのだが、すぐに分かってもらえると思っていただけにいまだに残念な思いに駆られている。
▼くれぐれも念を押しておくが、この話がもとで復活徹夜祭の説教ができたわけではない。結果的に同じ話になっただけである。その電話の相手とは翌日すぐに会うことになって、司祭館で会うこともできたが、司祭館までの道が分からないかも知れないと思い、ターミナルまで迎えに行った。
▼3人で船を下りた一行を車に乗せ、車の中で電話がうまく伝わらなくてと言って、島は初めてですかと尋ねたら、「神父さん去年わたしたちは司祭館に来て、お願い事をしていきましたよ」と言われた。何も覚えていない。その瞬間にこれは失礼なことをしたと思い、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
▼ところが行く手にはちゃんと復活したイエスが立っていてくださるもので、気を悪くしたであろうことも顔に出さず、和やかに接してくれた。次に会うのはいつかも分からない出会いでは、その瞬間にしくじってしまうともう取り返しがつかない。イエスはそんな時にも行く手に立って、力を貸してくださる。
▼ようやく、聖週間のゴールが見える所まで来た。このメルマガが349号、明日の復活の主日が350号となる。2002年の3月10日付第1号から概算で、6年間メルマガを続けてきたことになる。まだ長いフルマラソンの序盤だと思っているが、これからも何度も復活の喜びを迎えながら、メルマガと付き合っていきたい。読者の皆さんの応援を、よろしくお願いいたします。

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今週のセンテンス
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お休みします

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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
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聖金曜日・十字架上のイエスに、自分を変えてもらいましょう

2008-03-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/03/21(No.348)
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聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
十字架上のイエスに、自分を変えてもらいましょう
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昨日の説教で私は、イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれたことを深く心に刻むように呼びかけました。今日もその呼びかけが響き渡ります。聖金曜日、主の受難の出来事は、神が人間をこの上なく愛し抜く、その極みだと思っています。イエスの十字架上の死が、人類をこの上なく愛し抜かれた証しであることを、3つの点から確かめ、感謝の心を呼び覚ますことにしましょう。

ヨハネ福音書は、神がこの世を愛されたことを次のように書き残しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。

父である神は、独り子を世に与えてくださったというのですが、ヨハネ福音書が「世」と言う時は、必ずしも良い意味ばかりではありません。信じない民のことも「世」と表現したりします。そのことも含めて考えるなら、父である神は、独り子を信じる人々にだけ与えたのではなく、神を信じない人々、神に背く人々にも与えてくださったことを意味します。

神は、独り子をこの世に与えてくださいました。その姿は、はじめに幼子の姿で与えられましたが、最後には、十字架上で、その最後の血の一滴まで、与えつくしてくださいました。信じる人、信じることができなかった人、すべての人のために命のすべてを与えてくださったので、世を愛していることがさらに際立ちます。

神は、人間がよい人、信じる人々だったので独り子を与えてくださったのではなく、信じない人々もいることを覚悟の上で与えてくださったのです。独り子を与える神の愛を私たちが知り、感謝する必要があります。特に、信じようとしない人々にまで神の愛が及んでいることを、私たちは忘れてはいけないのです。

次に、命を捨てるほどの愛についてイエスはこう言っています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。人間は神に創られた存在であるのに、神は人間となられ、友と呼んでくださいました。そして神は、人間を深く愛しておられることを示すために、友である人間のために命を捨ててくださいました。これ以上の愛はないと言われるほどの愛を、人間に注ぐことをためらわなかったのです。

最後に、パウロが書き残した手紙から、神の愛の深さを読み取りましょう。ローマの信徒への手紙の中で次のように言っています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5・8)神は、人間には不可能とも思えるような愛の示し方をなさったのです。

パウロは同じローマの信徒への手紙に、次のようにも書いています。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」(ローマ5・16)。イエスは十字架にはりつけになって、すべての人に恵みをもたらす道を選びました。

裁きをもたらす道を選んだとすれば、私たちは一つの罪で有罪だったのです。けれども、十字架の上で父である神に赦しを求め、十字架の上から人類に恵みをもたらす道を選びました。十字架上のイエスによって恵みが働いていると信じるなら、いかに数多くの罪があっても、私たちは無罪の判決をいただくのです。福音朗読のイエスの受難の場面に立ち会って、十字架上のイエスから恵みが働いていることを信じ、感謝したいと思います。

イエスは十字架の死によって、ご自身のすべてを与えること、友としてこれ以上ない愛を注いでくださったこと、この十字架の出来事は恵みをもたらす道であることを示しました。私たちは今日の出来事を深く心に刻み、生活の中で何かを変えていきましょう。

あれこれ条件を付けて与えたくない人を思い描いていた自分、友として接することを拒んでいた自分、イエスが歩んだ道が恵みをもたらす道だと固く信じて人々に語るだけの勇気を持てなかった自分。そのいずれかを、変えていくことにしましょう。

十字架の場面に最後まで立ち会った中に、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、最後にはイエスの遺体を取り下ろしたいと、ピラトに願い出ました。彼は最後に変わったのです。私たちも、アリマタヤのヨセフに倣って、生活の中であいまいだったことを変える勇気を、十字架上のイエスに願うことにしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖なる三日間の典礼も、時代の流れなのか、参加できる人が限られてきている。日曜日に欠かさず出席する人でも、夜7時からの典礼になると参加できない人がいる。おそらく、その人は夜7時20分の船に乗って島に戻ってくる人なのだろう。5時きっかりに仕事を終えることができる人は参加できるのだろうが、そんな職場に勤めている人はごくわずかである。
▼そうであれば、夜8時からに変更すればいいのかというとそういうわけにもいかない。高齢者の人は夜8時に組めば帰りが遅くなると心配して来ることができなくなる。やはり夜7時に組むしかないということになる。聖金曜日などは、午後3時に典礼を組むのが原則だが、そんな時間に受難の典礼を組んだりしたら、本当にその場で受難に遭う人くらいしか参加できないということになるかも知れない。
▼いろんな矛盾や悩みを抱えながらも、聖なる三日間は進んでいく。それは、イエスが十字架に張り付けになったその時の事情と重なるような気がする。あの日、全世界がイエスの出来事に注目していたわけではない。全世界にテレビ中継されていたわけでもない。ごくごく限られた場所で起こった出来事だった。
▼その日のその時間に、すべての人が同席することはできないし、その必要もないかも知れない。けれども、その日その時間の出来事が、誰にとっても大切な意味があることは、時間がかかっても、手間がかかっても、見返りがなくても、告げ知らせるべきである。そうして、あの日あの時の限定的なニュースは、今全世界で知られるようになった。
▼だから、すべての人が参加できるような算段は、無理する必要はないと思えるようになってきた。この日の出来事を意識している人は、午後3時に何をしていようとも思い出すだろう。それが話題に上れば、立派な出来事の参加者ではないだろうか。そう自分に言い聞かせて、しっかりと目の前の典礼に集中したい。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥

お休みします

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)私たちには今は分からないままです

2008-03-20 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
08/03/20(No.347)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
私たちには今は分からないままです
‥‥‥†‥‥‥‥

今日の福音朗読箇所で、イエスの2つの言葉を思い巡らしたいと思います。1つは、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)という箇所、もう1つは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)という箇所です。

前もって考えておきたいのは、ペトロとのイエスの不思議なやりとりです。イエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが」と言っていますが、「わたしのしていること」とは、弟子たちの足を洗ってくださったことだけに留まらないのではないかと思っています。

直前の、イエスが弟子の足を次々と洗っていることもペトロには理解できなかったことでしょうが、もっと全体を見てみると、ペトロがイエスを三度知らないと否定してもそれを責めなかったこと、イエスが十字架にはりつけにされて命をささげ、弟子たちは散り散りになってその場にいなかったこと、復活すると言っていたにもかかわらず、ユダヤ人を恐れて家に閉じこもっていたこと、婦人たちが復活を証言してもすぐには信じることができなかったことなど、イエスのことばとわざについてその時にはまだ理解できてなかったことがたくさんあったのです。

それは、いちばん深い所ではイエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれたということについても、ペトロをはじめとする弟子たちが分かっていなかったということではないでしょうか。「わたしのしていること」つまり、世の終わりまで「イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれている」その愛が、弟子たちには計り知れなかったのではないでしょうか。

私は、イエスが、今日の最後の晩さんの食事から始まって、十字架への道のり、十字架上での最後、復活の出来事までなさったすべてのことが、弟子たちを愛し抜かれたという答えだったと思うのです。ペトロが三度イエスを知らないと言ったのに、イエスはペトロを愛し抜きました。弟子たちが最後の場面にいなくても、弟子たちを責めませんでした。復活の証言を最初信じることができなかったにもかかわらず、イエスは咎めることをせず、愛し抜かれたのです。

ペトロを筆頭に、弟子たちはイエスのしていることが理解できなかったわけですが、それは、イエスがどれほど自分たちを愛し抜かれたのかが理解できていなかったということでもありました。目の前で起こっている出来事、足を洗う出来事さえ理解できていませんでしたが、本当は、もっと大きな出来事についても、今は理解することができなかったのです。ただ、イエスがはっきり言っているように、後で、分かるようになるということも確かなことです。今は理解できなくても、後で理解できるのは、弟子たちのすばらしさだと思います。

そこで、私たちが今日の典礼を通して考えたいのは、イエスが「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」このイエスの深い愛についてです。私たちは弟子たちと違って、イエスがどれほど自分たちを愛し抜かれたのかちゃんと理解できる、そう言い切ることができるでしょうか。

いいえ、私たちもやはり、イエスがこの上なく愛し抜いてくださるということが分からない弱い人間なのです。私たちはどこかで、人を愛するにしてもほかのことにしても、限度を付けてしまうのです。「この上なく愛し抜く」というイエスのなさり方を、すばらしいなさり方とは思ってもすべてを見倣うことはできないと感じています。では、私たちには何ができるのでしょうか。

私たちには、今はイエスの愛し抜く姿を理解できないことを素直に認めること、これくらいしかないのだと思います。後に私たちにも聖霊の恵みが注がれ、もっとよく理解できるようになるでしょう。それまで、私たちの弱さをあわれんでくださいとひたすら願いましょう。私たちにはどうすることもできないことがあると知ることが、今は必要です。私たちにできないので、イエスが私たちのためにすべてを成し遂げてくださいます。十字架の最後の場面まで人類すべてを愛し抜かれる、その愛の深さと広さを、今日からの聖なる三日間、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の中で学ぶことにしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖週間(受難の主日)が始まると、たいていの司祭は説教で大忙しになる。本来は、ふだんよりももっと静かな時間に自分をおいて、黙想を深めるべき日々だが、結果としては説教を木・金・土・日の4連続続けるのでそのことで頭はいっぱいになり、たくさんの時間が奪われることになる。本末転倒のような気がする。
▼準備のことで私は深く考えさせられたことがある。神学科3年生の1年間だったと思うが、助祭に進むかどうかの判断を迫られた時、自分はよく準備ができなかったからためらっていると指導司祭に言ったことがあった。
▼すると指導司祭は私の顔を見ながら、「あなたの気持ちでは準備ができていないかも知れない。けれども、神さまはあなたの考えとは違った方法で準備を進めてくださったのだと思います。あなたは助祭に進む準備ができています」と言ってくれた。そう言われて背中を押され、嘆願書を出した思い出がある。
▼準備は、受ける対象についての準備である。洗礼を受ける準備、堅信を受ける準備、復活祭に向けての準備。さまざまあるだろう。けれども、私たちが準備している対象は、じつは神がその恵みを与えてくださるのであり、突き詰めれば人間の準備に左右されたりはしないとも言える。神が恵みを与えるために、神が準備もしてくださるという考えである。
▼そう思えるようになれば、私たちはできることを精一杯しておけばそれでよいのだと言える。準備が足りなくても、人間が人間に恵みを与えるのではないから心配しなくていい。そう考えると、188殉教者の準備も、あまり力まなくてもよいのかも知れない。福者の恵みを与えるのは神であって、完璧な準備をすることで人間が恵みを創り出すのではないのだから。浮き足だってはいけない。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥

お休みします

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主日
(朗読箇所)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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受難の主日(マタイ27:11-54)百人隊長は何かを見つけ、信仰告白します

2008-03-16 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
08/03/16(No.346)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日
(マタイ27:11-54)
百人隊長は何かを見つけ、信仰告白します
‥‥‥†‥‥‥‥

人間はたくさんの所有しているものがあったり身につけているものがあります。それら自分の持ち物は、多くは人に分け与えることができます。人に分け与えることができないものは数えるほどしかありません。これは分けてあげられないというものでも、よく考えれば手放すことができるのであって、本当に分け与えられないものは、自分の命であるとか、本性に関わるものくらいしかないのです。

なるほど命は、これはどう考えても分け与えることはできないに違いありません。私たちは命を与えてしまったら、生きていけなくなるからです。私自身が存在しなくなるからです。ところが、第2朗読によれば、神は自分自身を、人間の救いのために与えたと言っています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・6-8)。

まずは神の身分に執着せず、人間と同じ者になられました。誰からも脅かされるはずのない方が、ヘロデに命を狙われてエジプトに避難し、ヨセフとマリアの保護を必要とする小さなか弱い命になられたのです。さらに神は、死ぬはずのないお方ですが、十字架にはりつけになって、人間の救いのために命を手放したのです。

はじめに私たちは、人間の本性に関わるものは手放すことができないと言いました。それは、手放せば二度と取り戻すことができないからです。取り戻すことのできない、無力な存在だからです。ところが、神のひとり子は、私たちのために神の身分をなげうって人となりました。私たち人間を救うために命をかけるしかないとなった時、命をなげうって救いのわざを完成されました。

こうしたことがおできになるのは、神のひとり子、イエス・キリストだけは、命を投げ出しても取り戻すことができるからです。神の身分も含めて、人間のためにすべてを差し出しても、それをすべて取り戻すことがおできになるからです。

福音書に入りましょう。朗読されたマタイ福音書の箇所は、イエスの受難の場面です。登場人物のほとんどは、今まさにイエスが死に向かっている場に立ち会っていて、イエスが命を投げ出しても、取り戻すことができるお方であることはまったく理解していません。

ただし、百人隊長と一緒に見張りをしていた兵士たちは、「本当に、この人は神の子だった」(27・54)と告白しています。百人隊長と兵士たちは、他の人々とは違う何かを見抜いたのではないでしょうか。この点を確かめて、今日の糧として持ち帰りたいと思います。

百人隊長と兵士たちが実際に見たのは、黙って死にゆくイエス・キリストの姿です。人々が、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27・41)とののしる場面も、祭司長、律法学者たち、長老たちが「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(27・42)と侮辱するのも見ています。それでも黙って死んでいくイエスの中に、いったい何を見たのでしょうか。

もしかしたら、百人隊長と兵士たちという身分のおかげで見抜くことのできたものがあるのかも知れません。百人隊長は自分の命令のためには命さえも捨てるという勇敢な兵士百人を束ねる隊長であったと言います。そうであれば、命を捨てることも恐れないイエスの中に、なぜ死を恐れないのか、その理由を探したに違いありません。

勇敢な人間が命を捨てるには何かしらの名誉が必要です。ところがイエスの死は、誰が見てもみじめな死です。何の名誉も残りません。ただの勇敢さでは説明できないイエスの最期を見て、どのような方法かは分からないけれども、この人は命を取り戻すことができるから、命をささげるのだろう。そう理解したのだと思います。

私たちにも、イエスは問いかけています。十字架の死の姿を見て、あなたは私を神の子だと信じますか、私を救い主だと信じることができますかと、問いかけられています。私が、頑なな心のままこの場を去ることがないように照らしの恵みを願いましょう。第2朗読にあるように、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えに」(2・6)なったことを見失わないように、信仰の恵みを願うことにしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼連続テレビ小説「ちりとてちん」に出てくる「四草兄さん」が得意にしている(と思っているが)「算段の平兵衛」は、私にとって非常に興味深い人物。考えてみれば「算段」を駆使するさまは、自分自身の日常生活に重なる所があって他人事とは思えない。
▼黙想会中のことだった。説教師に招いたのはかつてこちらの小教区の主任司祭をしていた神父さま。懐かしい信者は喜んでもらおうととびきりおいしい魚を差し入れに来る。おかげで平目(ヒラメ)はじめ、さまざまな海の幸に舌鼓を打った。
▼ただし料理をさせられる賄いはたまったものではない、毎日「鯛や平目の舞い踊り」となれば、目も回る忙しさになる。つい愚痴もこぼれる。「包丁が切れなくて、困ったわ」。それを聞いて私はまず一言。「包丁が切れれば包丁が切れて怖くて使えないと言うし、包丁が切れなければ切れなくて困ると言う。いったいどっちなの?」
▼さすがに言いすぎたかと思い、包丁をすべて砥石で研いであげることにした。そこで一計。包丁を研いだふりをしたらどう反応するか、様子を見てみることに。砥石を十分ぬらし、包丁をすべてその脇に置いて、次の料理を待った。案の定、こんな答えが返ってきた。「包丁研いでもらったおかげで助かりました。よく切れるようになっています」。
▼「包丁が切れるようになったね。それ、研いでないよ」「え!じゃあどうしてこんなに並べて置いてあったんですか」「本当に包丁を研いでいるかどうか、使って分かるかなと思って。分からないようなので、これからはまじめに包丁を研ぎます」。これからは違いが分かるようになるだろうか。「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ。イェー」。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第22回目。地球の誕生から今までを24時間で表すと、人間は誕生してまだ1分?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
‥‥‥†‥‥‥‥
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四旬節第5主日・イエスは「出て来なさい」と呼びかけます

2008-03-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/03/09(No.345)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第5主日(ヨハネ11:3-7,17,20-27,33b-45)イエスは「出て来なさい」と呼びかけます
‥‥‥†‥‥‥‥

今週は、「イエスが愛しておられた者」(11・3)とあえて説明が加えられているラザロのよみがえりについて感動的な場面が朗読されました。一連の出来事の中から、イエスの3つの言葉を手がかりに今週の糧を得ることにしましょう。

イエスの3つの言葉を先に並べておきます。この言葉で私が言いたいことがすぐに分かった人もいるかも知れません。ぜひその人は、予想したことがズバリ正解だったかを楽しみにして話を聞いてください。3つの言葉は、「どこに葬ったのか」(34節)「その石を取りのけなさい」(39節)「ラザロ、出て来なさい」(43節)です。

まず、「どこに葬ったのか」という言葉から探っていきましょう。「どこに?」と言っているのは、単に場所を知りたいのではありません。イエスはラザロの所に行きたいのです。ラザロの葬られている場所に行って、直接働きかけをしたいのです。

それはどういうことでしょうか。イエスがラザロの葬られている場所に行きたいと言っているのは、ラザロに限りませんが、イエスはご自分が愛しておられるすべての人のところに、直接足を運んでくださる、顔と顔を合わせてイエスは愛する人の願いに応える方だということです。

「ああ、そんな人がこの近くにいるのですか。覚えておきましょう」というような態度ではなく、イエスは愛するすべての人を心にかけて、その人はどこにいるのか、どんな状態なのか、何が必要なのかを完全に理解してくださっているのです。

ラザロに向けられたまなざしは、私たちにも向けられています。「その人はどこにいるのですか。私はその人のもとを訪ね、必要に応えたい」。イエスは今この時代にも、ラザロに向けたまなざしを私たち一人ひとりに向けているのです。私は、イエスがそこまで私のことを心に留めてくださっていると考えたことがあるでしょうか。イエスが一人ひとりを意識して心にかけてくださっていることに、感謝しているでしょうか。

次に、「その石を取りのけなさい」について考えてみましょう。この石は、見た目には墓穴をふさぐ石に過ぎませんが、よく考えると、死んだラザロと生きている人間とを隔てる石です。ラザロを死の世界に閉じこめる石です。ラザロをイエスから遠ざけている石とも考えられます。

この石を、イエスは「取りのけなさい」と言ったのです。つまりイエスは、「ラザロを生きた人間から遠ざけ、死の世界に閉じこめ、イエスからも引き離そうとする妨げを今取り除きます」という宣言と言えます。同時に「その石を取りのけなさい」という宣言は、イエスが自分とラザロとを隔てるものを取り除く力を持っているということです。

ここでも、ラザロに向けられた宣言は、私たちにも響いてきます。私たちの生活に、または一人ひとりの心に、何かしら石が置かれていて、私たちは閉じこめられているかも知れません。自分の殻に閉じこもっているとか、人間不信の闇に閉じこめられてしまっているとか、歩むべき道を見失い、絶望を味わっているとかです。

イエスはそんな私たちのところに来てくださり、周りにいる人の手足を使って、隔ての石を取りのけてくださいます。周りの人々に、「その石を取りのけなさい」と命じて、私を隔てている場所から引き出して、イエスの前に立たせてくださいます。イエスが私の上に置かれている隔ての石を取り除き、暗闇に光が入るようにしてくださるのです。光が入ってきたなら、私たちの解放のときはもうすぐそこまで来ています。イエスが最後の言葉をかけてくださり、私たちは自由になるのです。

最後のイエスの言葉は「ラザロ、出て来なさい」でした。イエスがラザロにこう言ったのは、ただ墓の中から外に出て来なさいと命じただけではないと思います。そんなことであれば、「ラザロ」と呼ぶだけでもかまわなかったでしょう。イエスがあえて声に出して「ラザロ、出て来なさい」と呼んだのは、人々の目に、ラザロがイエスの前に出る様子を焼き付けたかったのではないでしょうか。

今、死者の世界に閉じこめられていたラザロが、イエスに呼び出され、イエスが与える命を受けてイエスの前に呼ばれている。ラザロを閉じこめられていた死者の世界から呼び出すことができるのはイエスしかいない。ラザロを生きている人々から遠ざけていた隔ての外に出し、自由と解放を与えてくれるのはイエスしかいない。出来事を目撃したすべての人がはっきり理解したはずです。

ラザロに起こった出来事は、イエスの復活の前触れです。死の世界に閉じこめられた人を復活の命に呼び出すことができるのは、ご自分で死者の中から復活したイエスただ一人です。イエスは、人間を悲しみと絶望に閉じこめる石を取りのけ、解放してくださる唯一の救い主なのです。私たちに「出て来なさい」と命じて、誰も呼び出せなかった悲しみから、希望のない世界から、私たちを呼び出すことのできる方なのです。

イエスの言葉を通してラザロに起こったことを、私たちも希望することができます。イエスは今も、「その人はどこにいますか」「石を取りのけなさい」「出て来なさい」と呼びかけます。かつてそうであったように、今も私たちを神の命に招くイエスに信頼しましょう。イエスは私たちを確かな希望へと招く方であることを、ご自身の復活によってまもなく証明してくださいます。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼2月25日から、一定のカロリーの中で一日の食事を収めるように努力している。だいたい2100kcal。あまり運動しない30代40代男性の摂取カロリーから150kcal差し引いた量だ。これまでが活発な運動習慣を維持している人のカロリー分食べていたところからドーンと落としたので、常にお腹が空いている。それでイライラしている時すらある。
▼最近単品のおおよそのカロリーが分かるようになってきた。ご飯一膳252kcal、パンにバターを載せると233kcal。皿に盛りつけた野菜が50kcal、トマト半分、キウイ半分、いずれも15kcal。素うどん350kcal、パスタメニューはおおよそ650kcalなど。カレーやカツ丼は、おいしいだけにかなりのカロリーになる。
▼最近までもりもり食べた上に間食を無制限にしていたことを思うと、早めにセーブしようと決心して正解だったと思う。生活習慣病になってからしぶしぶ食事制限を強要されるのでは悲しすぎるからだ。満腹まで食べたい気持ちはあるが、もうそれは思い出にしまってしまおうと思っている。
▼そろそろ体重も落ちなくなってきた。はじめは1kgストーンと落ちたのだが、今はそれっきり見える変化はない。ところが、船の乗り降りの時、巡回教会に籍を置いているある信者が、隣にいる友だちとひそひそ話をしているのが聞こえてそれが嬉しかった。「神父様ちょっと痩せてきたんじゃない?」ひそひそ話で言っているのだから、お世辞でないことは確かだ。
▼「分かるー?砂糖を一袋、置いてきたんだ」そう言いたかったが自分一人で喜びをかみしめることにした。自分で決めている範囲内で、どうやって楽しく食べるか。今はパズルのように楽しんでいればそれでいいと思う。単に体重が減ったから健康になったというわけでもないし、そういうものはいちいち気にせずマイペースで続けたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第21回目。私に喜びと報いを与えてくれるもの。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マタイ27:11-54)
‥‥‥†‥‥‥‥
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四旬節第4主日・迫害は、イエスに見つけてもらうまたとない機会です

2008-03-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/03/02(No.344)
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四旬節第4主日
迫害は、イエスに見つけてもらうまたとない機会です
‥‥‥†‥‥‥‥

誰でも人は、心で思っていることが言葉になるものです。寒いなぁと思っているから寒いと言うし、今日は春の陽気だなぁと思っているから春のようですねと言うのです。私たちはめったなことで心にもないことを言ったりはしません。

中田神父が皆さんに語りかけるいちばんの場所は説教です。ですから、中田神父にとっては、何よりもまずこの説教が、思っていることを語る場所だと考えています。思っていると言っても、説教はただ単に朗読した福音の感想を述べる場所ではありませんので、イエスは私を通して、会衆の皆さんに何を語りたいのだろうか、どのような導き、指針を今週示そうとしているのだろうか、そういうことをいつも頭に置いて話をすることになります。

その中でも、私が大切にしたいなと思っていることがあります。それは、「なるほどね」とか「そういうことか」という何か納得したことを話す、ということです。新しい発見であったり、納得したことでなければ、うまく伝わらないし、うまく話すこともできないからです。

今週も、私にとってのちょっとした発見がありました。今週の福音朗読は、目の見えない人がイエスによっていやされる奇跡物語です。イエスは「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗り」(9:6)、シロアムの池に行って目を洗うと見えるようになります。シロアムとは、「遣わされた者」という意味(9:7)の池ですが、まさにこの人は、イエスによって準備を調えられ、遣わされた人となって戻ってきたのです。

ところが、目が見えるようになり、遣わされた者へとすっかり変わって帰って来ると、人々は前に盲人だったこの人を寛大には受け入れてくれません。人々は癒されたこの人をファリサイ派の人々のところに連れて行き、ファリサイ派の人々もさんざん彼を質問攻めにしたあげくに外に追い出したのでした。この「外に追い出した」(9:34)という部分が、今年中田神父にとっての新しい発見となりました。

ファリサイ派の人々が前に盲人だった人を「外に追い出した」というのですが、「どこから」外に追い出したのでしょうか。ファリサイ派の人々は、律法という掟の解釈をし、人々から宗教指導者として認められていた人々です。彼らが「外に追い出す」という場合、それは当時のユダヤ社会からの追放、会堂に集まって律法を読み聞きしてつながっている宗教的な交わりからの追放を意味していました。単に人の家の玄関から追い出されたという意味ではなかったのです。

これがどういうことか、私たちにはなかなか理解できませんが、私たちの理解できる言葉で言えば、村八分にされたと言うことです。ちなみに村八分とは、家が火事になった時と、葬式以外は、いっさい関わってもらえなくなるということを言うのだそうです。あの人はイエスを信じてユダヤ教の会堂から追い出された人だから、関わらないようにしよう。あの人と関わったら、私たちまで会堂から追放され、共同体の中にいられなくなるかも知れない。そう思って、人々は前に盲目だった人を遠ざけていきました。

ところがイエスは、彼が外に追い出されたことを聞き、彼を見つけに行きます。たまたま出会って別れた人ともう一度会うのは簡単ではないと思うかも知れませんが、彼はユダヤの共同体から追い出されていたので、むしろ見つけ出すのは容易だったかも知れません。会堂での律法の学びを中心に形づくられていた共同体からはじかれたこの人は、頼るものが何もない状態だったでしょう。見えるようにしてくださったイエスだけが唯一の頼りでした。

イエスはこの人を見つけ出します。それは、ご自分と同じ境遇にある人をさがして見つけ出すようなものです。イエスはかつて弟子たちに、ご自分がどのような目に遭うかを示してこう言いました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9:22)。

たとえその時代の人々から迫害を受けても、イエスはその人を見つけ出してくださいます。それは、イエスが長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されても、御父によって復活の栄光にあげられたのと同じです。見つけ出して、イエスを信じ続けるための力と勇気を与えてくださいます。「あなたは人の子を信じるか」(9:35)「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(9:37)。

登場人物は、「主よ、信じます」(9:38)と答えています。彼は、人々から迫害を受けても、イエスがわたしを見つけ出して力と勇気を与えてくれるという体験をしました。この姿は私たちにも当てはまります。私たちがイエスへの信仰を公にすることで、受け入れられずに外に追い出された気分になるかも知れません。そんな時イエスは必ずわたしを見つけ出し、力と勇気を与えてくださいます。

さらにこうした経験は、イエスの十字架への道を共に歩むことにもなります。この四旬節、私たちがイエスを信じる信仰を公にして、たとえそれが人々に受け入れられないことがあっても、十字架への道を共にしていることを忘れずにこの信仰の道を歩み続けましょう。外に追い出された時こそ、イエスがわたしを見つけ出してくださるまたとない機会なのです。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼昨晩、愛する妻を亡くした人の通夜に参列した。その方は、長い闘病生活をまっとうし、若くして神さまのもとに旅立っていった。妻を亡くしたご主人の2つの姿を見た。通夜の式中見た夫であり子どもの父親としての背中と、参列者に挨拶をしている時の涙の溢れる姿。
▼どちらも偽りのない姿だと思う。もっともっと長く一緒にいたかったという気持ちと、これからは子どもに母親の分も愛情を注いでいこうという父の姿が痛いほど伝わってきた。私はなかなか言葉が見つからなかったが、「知らなかったとは言え、お見舞いにも行けずにごめんなさい」と喪主であるご主人に声をかけた。
▼「10年間病と闘いました。一時は快方に向かっていたのですが、最近再入院してそのまま逝ってしまいました。もっと長く一緒にいたかったんですけど」。ご主人は最愛の妻と一緒にその長い10年間を病と闘ってくださったのだろうと思った。だから、奥さんはきっと感謝の言葉を残して神さまのもとに旅立ったに違いない。
▼亡くなった奥さんは、神さまのもとで生きていると思う。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。来週の福音の箇所だ。この神の命は来世で与えられるのではなく、今この世で与えられ、それが神のもとで完全に満たされると私は信じている。
▼父親が、母親の役もこれから果たしていく。大変だなぁと思う。子どもさんが愛情をいっぱい受けて、この悲しみをいつか思い出として語ることのできる日が来ればと願う。生きておられる間に奥さんを見舞うことができなかったが、日曜日の11時15分からの葬儀ミサに合わせて、永遠の安息をミサの中で祈ろうと思う。もし、祈ってくださる方がおられましたら、一緒に手を合わせていただければ幸いです。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第20回目。私はよくものを忘れます。科学的にはどのように説明付けるのでしょう。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ11:3-7,17,20-27,33b-45)
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