こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)だれもが神のいつくしみの中で生きるように

2019-04-26 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2019/4/28(No.1001)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
だれもが神のいつくしみの中で生きるように
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復活節第2主日は聖ヨハネ・パウロ二世教皇の時に「神のいつくしみの主日」と呼ばれるようになりました。朗読ではイエスが弟子たちに現れ、その場にいなかったトマスにも、さらに現れます。この物語をよく読むと、私たちに対する神のいつくしみも読み取ることができるように思います。

今日、ミサのあとに女性部の総会があります。それが終わると、私は休暇を取らせていただきます。大阪に行きます。栄実さんを訪ねてきます。甲子園球場も訪ねてきます。どちらも懐かしいです。楽しい訪問になればいいなぁと思っています。ということで、田平教会では平日は土曜日の朝だけ、ミサがあります。それまではお休みです。ミサは休みますが、呼吸は止めないでください。私を大阪から呼び戻さないように。

連休後半は、3日に教区評議会総会です。最終的に参加を決断しました。4日午後は平戸地区の転勤する神父様のお見送りとお迎えです。5日はクルシリヨ参加者との感謝のミサと参加者をねぎらう食事会です。戻ってきてからもいろいろ忙しくなりそうです。5日は長崎に留まりますので、6日(月)もミサをお休みさせてください。

一つだけ心配事があります。すでに危篤の状態にある人がいると報告を受けています。もちろん連休を越してくれることを願っています。それでももしも、連休にかかった場合は、お隣の先輩にお願いをしております。念のためお願いはしておりますが、連休を越してくれることを願っています。

さて復活したイエスは、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけてじっとしていました。家に鍵をかけるとは、もはやイエスが戻ってくることもないと考えていた証拠です。弟子たちは、そこまで恐れに支配されていたのですが、イエスの復活は彼らにも届きました。

この復活したイエスとの出会いに、立ち会えなかった弟子がいました。トマスは、「大事な場面に立ち会えなかった人」を象徴的に表しています。卒業式に風邪を引いて参加できなかった卒業生とか、受験の日にインフルエンザにかかって一年を棒に振った受験生とか、そうした人々を象徴的に表しているでしょう。

イエスの配慮は、どこまで届いたのでしょうか。少なくとも、トマスまでは届きました。つまり、その場にいるはずだったのに何かの事情で立ち会えなかった人たちまで、イエスの復活は及んでいくのです。その神のいつくしみがどのようにして、私たちにまで及んでくるのでしょうか。

今日の福音朗読は、結びにこのように書かれています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20・30-31)

弟子たちは最初に神のいつくしみにあずかりました。そこに居ようと思えば居ることのできたトマスにも、神のいつくしみは届きました。しかし物理的にその場に立ち会えない人々がはるかに多いのです。結びの言葉はそのはるかに多い人々のためにも、神のいつくしみは届くと言っているのではないでしょうか。

今年の聖週間に備えて、私は聖週間のミサの説教をプリントにした冊子を用意しました。50部用意したのですが、50部では足りなかったようです。予想外でした。「余る」と見込んでいたのです。このプリントは、聖週間、特に聖なる三日間にすべてあずかるのは難しい、そういう人の補いのために用意したものでした。ひょっとしたら、すべてあずかった上に、持ち帰った人もいるかも知れません。

今日は、神のいつくしみの主日です。神のいつくしみは、ミサの典礼に行こうと思えば行くことのできた人にも届くわけですが、物理的に、参加がまったく不可能な人にも届くはずです。ですがそのためにはもちろん協力者が必要です。たとえば今回用意した冊子を、私があと20部増刷する。ここから神のいつくしみを届けるリレーを始めることができます。

その上で、皆さんの中の誰かが、「あの人は物理的に聖週間のミサの典礼に参加できない人だから、私が届けに行こう」そういう人が現れれば、田平教会でも神のいつくしみに触れる人、復活したイエスとあの弟子たちが集まった家に集えない現代の人々にも、神のいつくしみは届くのだと、証明できるのではないでしょうか。

そうなればいいなぁと思って、案内所に今回の冊子をあらためて20部用意しましたので、皆さんは、神のいつくしみがあなたにも届きましたよと証しする証人になっていただければなぁと思います。

私たちが、物理的にどう考えてもイエスの復活の喜びに触れることができない人まで復活の喜びを届けるなら、今日の神のいつくしみの主日は皆さんのおかげでさらに実り豊かな日となります。鍵を握っているのは皆さんです。私はきっかけは作って上げますが、女性部の総会が終わったら消える人ですから当てになりません。そう思って、「神のいつくしみを私が届けることのできるのは誰だろうか?」このように思い巡らす一日といたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ヨハネ21:1-19△21:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭になったとき、浦上教会に放り込まれて、右も左も分からず、一週間は食べた食事の味も分からずに過ごしたことを懐かしく思い出す。人の輪に飛び込んでいくこともできず、先輩たちがたくさん信者に囲まれ、子供達に囲まれているのを見ては自分を恥ずかしく思っていた。
▼時が経ち、人の輪に入っていくこともできるようになった。それでも基本的ににぎやかな人ではないので、いつもエネルギーを必要としている。「自分の社交性の無さは、もともと司祭職に不向きだったのではないか?」そんな悩みをいくらかでも和らげてくれる出来事があった。
▼私は中学時代からの同級生がいる。その中でも特別に意識してきた同僚がいる。「張り合う仲間」と言ったら良いだろうか。お互いに決して「お前は俺のライバル」と言ったりはしないが、どこかで猛烈に意識して司祭生活を送ってきた。
▼思いがけないことで、その同僚から自分への評価を聞く機会があった。彼は私に「人を喜ばせる才能の持ち主」と評したそうである。私には全くの想定外だったが、彼は私を一言でそう言ったらしい。
▼その、彼によれば「人を喜ばせる才能」のおかげで、私は社交性の無さを埋め合わせ、教会家族に飛び込み、または組織を動かし、多少なりとも影響を与えてきた。私はただ懸命に努力しただけだったが、同僚はそれを「人を喜ばせる才能」と見切っていたわけだ。
▼この26年27年、その同僚と本音で話したことはない。今後もその予定はない。たぶん死ぬまでない。けれども、私を評価してくれていることを私も評価し直して生きようと思う。せっかく同じ時代に生き、一緒に叙階の恵みにあずかり、決して顔を見ないのに相手を意識し続けているのだから。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第608回目。神のいつくしみが、より多くの人に届けばと願い、作成した。

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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)イエスは必ず死者の中から復活する

2019-04-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/04/21 (No.1000)
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復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
イエスは必ず死者の中から復活する
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あらためてご復活おめでとうございます。ご降誕とご復活のお祝いは説教を別々に用意しています。朗読される聖書の箇所が違うからです。それで、皆さんご苦労ですが、ご降誕とご復活はそれぞれミサにあずかる意義があると理解して、どちらか片方に参加して良しとするのではなく、夜のミサも翌朝のミサも、両方あずかるようにしてください。苦労して別々の説教を作っていることにも共感してもらえたらと思います。

ところでイエス様は復活して喜ばしいですが、広島カープは復活しますかねぇ。復活すると思う人、手を挙げてください。復活すると思っている人はどうも少ないようですね。4月10日のヤクルト戦は参りました。9回終わった時点で3対3だったのに、10回表に12点入れられて、15対3で負けてしまいました。それ以前にも大差で負けたりして、復活の季節に復活をいまだ信じ切れない司祭であります。

与えられた福音朗読は、マグダラのマリアがイエスの納められた墓の様子を、ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子に報告に行くところから始まって、二人の弟子がイエスの死者の中からの復活を信じるに至ったという物語です。

物語をよく読むと、もう一人の弟子が先に墓に着いたのですが、墓の中に先に入ったのはペトロでした。それなのに、中の様子を見て、イエスの復活を信じたのは、そのあとに墓に入ったもう一人の弟子のほうでした。この違いはどこにあるのでしょうか。

ここにはっきりとは書かれていませんが、イエスの復活を信じることができたのは、もう一人の弟子が「イエスが愛しておられた弟子」とあえて書かれているので、イエスの愛が先にあって、人はようやくイエスの復活を理解し、信じることができるのだと思います。

今年は百人隊長の目線からという切り口でした。百人隊長がイエスの愛に触れ、愛に満たされたかどうか分かりません。「神を賛美して言った。『本当に、この人は正しい人だった』」この描写はありますが、イエスの愛に触れ、愛に満たされたとしたら、もう少し踏み込んだ声を上げたかも知れません。

私たちは空の墓の向こうにある真実を知り、理解し、信じています。イエスは死の枷を打ち砕き、栄光に入られました。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」(20・9)私たちの信仰です。

エマオの弟子たちのように私たちが希望を失いかけたとき、復活した主はそばにいて力づけてくださいます。ユダヤ人を恐れて家に閉じこもっていた弟子たちのように、素晴らしいカトリックの信仰を固い殻の中に閉じ込めている私のそばに、復活の主はともにいてくださいます。勇気を出して、イエス・キリストを告げ知らせる宣教者となりましょう。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼話のネタを新聞から拾う人がいる。司祭も話のネタを新聞から拾うこともあるが、最終的に司祭が語る材料を拾う場所は聖書である。聖書、特にイエス・キリストの生涯を綴った福音書が、私たち司祭の話の引き出しだ。
▼司祭はまとまった話を求められるとき、当然準備が必要になる。材料を拾ってくる。新聞もあるかもしれない。テレビもあるかもしれない。しかしそれらをまとめる中心線は、やはり福音書であり、イエス・キリストの言葉である。一度時事ネタを満載した講話を聞いたことがあるが、最後に思ったのは「結局何が言いたかったの?」ということだった。
▼私たち司祭がいくらかでもお役に立てることがあるとすれば、それは福音を語るときである。福音を語らなければ、もっとお金になる話も、もっと生活が便利になる話も、専門家は世の中にいる。司祭が太刀打ちできるはずがない。そこで司祭は、司祭でしか活きてこない分野を深く掘り下げるのである。
▼27年目に突入した。なんと27年である。同じことを、同じように、である。それでもよい。引き出しは豊富になっている。深く掘り下げた実感もある。司祭の働きで死にかかった人が明日に希望を置いてみると、前を向いて帰って行ったこともある。それだけでよい。

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今週の1枚
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第607回目。スマホの防水カバー。釣りには必携。でもiPhone8には小さい。

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復活徹夜祭(ルカ24:1-12)イエスは復活し、助けが必要な人のそばにおられる

2019-04-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/04/20 (No.999)
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復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
イエスは復活し、助けが必要な人のそばにおられる
‥‥‥†‥‥‥‥

主のご復活おめでとうございます。今年の聖週間は、百人隊長の言葉にヒントをもらって福音朗読を黙想してきました。引き続き、百人隊長の視点で復活の出来事を切り取ってみたいと思います。

「本当に、この人は正しい人だった。」(ルカ23・47)百人隊長はイエスの十字架の場面で、「群衆の目に映っていたイエス」ではなく、「真実のイエス」を見抜いていました。今日の福音朗読では天使が同じように婦人たちの目に映ったイエスではなく、真実のイエスを紹介しています。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(24・6)

百人隊長が見抜いたイエスは、「苦しみの中でも人々と共におられるイエス」でした。群衆はイエスを罵り、死へと向かわせました。自分たちから遠ざけたい罪人にしてしまいました。しかしイエスは、死の間際まで、苦しむ人と共に苦しまれる方となられたのです。

「十字架から降りて自分を救うがよい。」望めばそれも可能だったでしょう。しかしあえてイエスは、苦しみと死を受け入れ、かたわらで一緒にはりつけにされた犯罪人など、誰もそばにいてあげられない死の淵にいる人々に寄り添う方となられたのです。百人隊長は、あえて降りることをしなかったイエスに、「本当に、この人は正しい人だった。」(ルカ23・47)と自分に正直に語ったのです。

今私たちは、婦人たちと同じように空の墓の前に立っています。目の前の事態と、真実の事態とは違います。イエスは常に、そばにいてくださる方でした。今、空の墓の前に立って、どのように「常にそばにいてくださる方」を想像すれば良いのでしょうか。天使がそれを教えてくれました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

イエスは常に、そばにいてくださいました。そうであるなら、死者に結びつけられた姿を探してはなりません。今この時点で、イエスが常に共にいてくださる場所を探さなければなりません。どこにイエスを探しに行けば良いのでしょうか。

そのヒントは、婦人たちがイエスの遺体のお世話をしに来ている同じ時に、飼い主のいない羊のように打ちひしがれているのは誰か考えれば分かります。イエスは常に、共にいてくださる方でした。今この時点でもそうであるなら、イエスは、弱り果て、打ちひしがれている人のそばにいるはずです。そこでイエスと会えるはずです。

この時点で最も弱り果てているのは弟子たちでしょう。打ちひしがれ、家の戸に鍵を閉めて、閉じこもっていたのです。天使の言葉は復活したイエスを捜し当てるヒントとなりました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(24・5-6)生きておられるイエスは、常に、共にいてくださる方なのです。

私たちも、今日の復活の喜びを自分の中にとどめるだけではなく、かつて百人隊長がみずからの言葉で信仰表明したように、信仰表明しなければなりません。百人隊長は、「はりつけにされたイエス」という目の前の事態の向こうにある真実を見抜きました。

私たちも、目の前に見えているのは十字架にかけられたイエスです。復活したイエスを見ることはできません。けれども、イエスが常に、そばにいてくださる方であるなら、今いちばんそばにいて助けを必要としている人を訪ねてみてください。私たちはそこで、復活したイエスに出会うでしょう。

そして体験を通して、「イエスは復活し、いつも共にいてくださる」と信仰表明しましょう。私たちの声で届けられる信仰表明を必要としている打ちひしがれた人、弱い立場にある人が、新しい元号が始まろうとするこの日本に、まだまだたくさんいらっしゃるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼広島カープは復活するだろうか?延長戦1イニングでの12失点はプロ野球新記録だとか。開幕から4カード連続で負け越した場合の優勝の確率は0%だとか。気になる材料には事欠かない。四月にこれだけ出尽くしたら、もう不安材料はなくなるでしょ。
▼復活の主日までのささやかな楽しみは、朝が遅いこと。聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日朝のミサをしない。聖金曜日はもちろん終日ミサができないけど。だから朝7時までゴロゴロするのだ。ゴロゴロというのは、悲しいことにどうしても目は覚めるので、それでも布団から出ないということだ。
▼今年の運は、4月8日(月)にすべて使い果たした。7キロの鯛の話はすでに触れたが、さすがにこれ以上はなかろう。大鯛の実績のある場所に誰か連れて行ってくれれば別だが、自力であれ以上の魚に巡り会うのは無理だと思う。そういうことで、運を使い果たしたので残る8ヶ月は運ではなく実力。もしくは運ではなく運命。
▼どうやら今年は、聖週間の説教をプリントにして小教区で配れそうである。ただプリントにして配って、喜んでくれる人がいるのかどうか疑っている。誰かは喜んでくれると思うが、その「誰か」が誰なのか、皆目見当が付かない。
▼何通りかの冊子を考えている。A5サイズとか、B5サイズとか、PDFの形も同時に作るか。たとえば20部用意してすべて無くなれば、来年は40部くらい作ってもいいと思う。ただ、私のアイディアは独りよがりなのか、歓迎されない場面に出くわす。
▼「預言者は故郷では歓迎されない。」私がここで考える「故郷」は「教会」である。このメルマガ、ブログでもカトリックで読まれている人からの反応よりも、カトリック以外の人からの反応が目立つ。もちろんカトリック、それも身近な人もいるが、思いがけないカトリック以外の人の反応には驚く。復活のイエスの働きを届けることがまず第一で、誰に届くかは問題ではない。

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今週の1枚
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第606回目。田平教会は「毎日のミサ」を36冊利用。写真は配布者へのラベル。

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聖金曜日・主の受難(ヨハネ18:1-19:42)神は愛のほかに与えることができない

2019-04-19 | Weblog
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「今週の説教」
19/04/19 (No.998)
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聖金曜日・主の受難
(ヨハネ18:1-19:42)
神は愛のほかに与えることができない
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主は私たちのために命をささげてくださいました。私たちが正しく、善良であったから死んでくださったのでもありません。聖パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5・8)

主イエスは今、十字架の上で命をささげ、亡くなられました。たしかに亡くなられた、死んだのです。けれども聖パウロは、「そのことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と説明したのです。

こう考えました。神は愛を注がれる方、愛を示してくださる方ですが、イエスの死でさえもわたしたちに対する神の愛だとしたら、神は私たち人間に、愛のほかは示すことができないのではないでしょうか。

神は私たちに、愛のほかは示すことができないとしたら、目にするものすべてを見直すきっかけになります。私たちは神から身体を与えられました。与えられた身体を喜ぶことができず、不平不満を漏らしているかも知れません。心臓や他の臓器に欠陥があったり、知的障害を抱えていたり、もっと違う身体を願って不満に思っているかも知れません。

けれども神が人間に愛のほか示すことができないのだとしたら、私たちが与えられた身体を受け入れる気持ちが芽生えてくるのではないでしょうか。この身体を通して、生まれた状態を通して、神が私たちにご自分の愛を示してくださっている。もしそのように受け止めることができれば、抱えている不平不満は解消するかも知れません。

誠実に生きているのに、これでもかというような困難にぶつかり、投げやりになっている人がいるかも知れません。出会う人、向き合っている出来事、そのどれも自分にとって喜びが感じられない。そんな人がいるかも知れません。

しかし神は、私たちに愛のほか示すことができないのだと思います。御子イエスを十字架に差し出すことは、御父にとってどれほどの痛み悲しみでしょうか。それでも御父はイエスの十字架上の死によって、私たちに愛を示してくださったのです。

人は言うかも知れません。「教会はなぜ、十字架にはりつけにされたイエスを聖堂の中心に据えるのですか?」あなたは答える必要があります。「イエスの十字架上の死によって、神は私たちに愛のほかに示すことができないと仰っているのです。十字架のイエスは、御父が私たち人間に示された最大の愛です。」

揺らぐことなく、私たちは神が愛のほかに示すことができないのだと人々に伝えましょう。神の示された愛が、私たちの人生に起こるさまざまな出来事の意味を良いものに変えてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼皆さんにも、「今年こそは」という何かがあるのではないだろうか。私が今思いつくのは、「今年こそはエアメールをフランスに送るぞ」ということ。ここ田平に来てから復活祭とクリスマスにフランスから手紙が届いている。それなのに一度も、返事を出していないのである。
▼相手は、田平出身の幼きイエズス会のシスター。几帳面に手紙を書いてくださるのだが、フランスの住所を見るたびに「あー、自分が書いた住所で届くだろうか」とひるんでしまい、今まで出せずじまいなのである。ただの言い訳だが。
▼そのシスターが一度、ふるさとに帰ってくる機会があって、お目にかかったことがある。高齢ではあるが、気骨のあるシスターで、フランスでもバリバリ活躍していそうな雰囲気を持つ方だった。私はどうしても、今年の復活祭には手紙を届けたい。
▼幸いに、親戚には私の後輩に当たる司祭もいて、いよいよとなればこの神父様に住所を書いてもらえば済む。そんな大船に乗った気持ちで、「今年こそは」手紙を届けるのだ。
▼「今年こそは」ですでに達成していることもある。ルームランナーで身体に刺激を与え続け、体重はここ数年で一度も到達していない77キロ台になっている。体脂肪率がまだ23%台、まれに22%台の時もあるが、こちらもできれば20%台に持っていきたい。健康的な身体、もっと言うと「おじさん体型」を脱したいのである。すでに脱しつつある。
▼皆さんの「今年こそは」は何だろうか。イエスは死んでいる人に「出てきなさい」と言い、三十八年間寝たきりの人に「起き上がり、床を担いで歩きなさい」と呼ぶ。だから不可能と思える目標でも、イエスに信頼を寄せて始めよう。イエスが声をかけてくだされば、不可能も可能となるはずだ。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第605回目。洗濯のための三種の神器。大斎・小斎で気を紛らわせるのに、洗濯。

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聖木曜日・主の晩さん(ヨハネ13:1-15)正しい生き方を超えて愛を注がれた

2019-04-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/04/18 (No.997)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日・主の晩さん
(ヨハネ13:1-15)
正しい生き方を超えて愛を注がれた
‥‥‥†‥‥‥‥

聖木曜日、弟子たちの足を洗う場面が取り上げられました。イエスの行動は、「正しい生き方」を超越した生き方でした。私たちもそれぞれの分に応じて、「正しい生き方」を超える生き方が求められています。「正しさの物差しを超えた生き方」を学ぶことにしましょう。

過越の食事は、ユダヤ人が伝統的に受け継いできた食事の形式でした。かつてイスラエルの先祖たちがエジプトを脱出するとき、指示された通りに準備をして食事をしたことで、エジプト全土で広がった災いを過ぎ越し、無事に約束の地にたどり着いたことを食事と家長の解説を聞きながら子孫に受け継いできた儀式でした。

イエスはこの過越の食事を、神の民が滅びを過ぎ越して救われる、新しい「過越の食事」に当てはめて行いました。この食事で主人が食事の席に招かれた人の足を洗うことはもちろん要求されていませんし、その上さらに、食事を中断してまで行う理由もどこにもありませんでした。

ですから「正しく伝統の食事を執り行う」という意味で考えると、イエスが弟子たちの足を洗うことはまったく必要のないことでした。

けれども、イエスはこのわざを「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と仰っています。これが以後弟子たちにとっての規範になるわけです。

ここで、食事を途中で中断して足を洗って上げる行為が大事なのでしょうか。今の典礼で言う「洗足式」が大事なのでしょうか。儀式書を見ると、「洗足式」は「任意」と書かれています。つまり、聖木曜日の典礼に欠かせない、義務的な所作というわけではないのです。もっと大切なことがあるのだと思います。洗足式はその「大切なもの」を学ぶためのものなのでしょう。

私はその答えを、「正しい生き方を超えた生き方」としてみました。正しいかどうかに生き方の物差しを置くのでは不十分で、イエスに倣うためには、「正しい生き方を超えて、愛を注ぐ生き方まで成長する」この考え方が必要です。

私たちはどうしても、「ちゃんとやっている」ということを物差しにしてしまいがちです。主任司祭がミサの説教を準備することは「ちゃんとしている」という物差しには叶っているでしょう。けれども愛を注いでいるかというと、足りないかも知れません。

イエスは愛を注ぐ生き方を「模範として示した」のです。「ちゃんとしているか」を気にする生き方はイエスの物差しではありません。ここに至ってもイエスを裏切ろうとしているユダに愛を注いだイエスの生き方を私たちは模範とします。いつからそうしますか?答えは明らかです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖金曜日・主の受難
(ヨハネ18:1-19:42)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼NHK総合、日曜日朝の番組で「演芸図鑑」というのがあって、三遊亭圓歌師匠の落語が披露された。だが三遊亭圓歌師匠は亡くなったはずだが、と思っていたら四代目が決まり、七月に襲名披露を行うとのこと。それを周知するために、各地を回っているのかなと思いつつ、新しく三遊亭圓歌を襲名する師匠の落語を聞いていた。
▼人情話というジャンルなのかなと思った。演目は「母のアンカ」というもので、幼い頃母親の太ももに足をくっつけて寝ていた少年に、生計のために大阪に出稼ぎに出ている母親から電気アンカが届く。これで寒い日も温かくして眠った少年がのちに大人になり、母にこう尋ねる。
▼「お母ちゃん。当時は新婚旅行は宮崎鹿児島がブームだったよね。どうしてお母ちゃんは宮崎鹿児島の温泉に就職しなかったの?どうして大阪の紡績工場に行ったの?遠かったから二年に一回しか会えなくて寂しかったよ。宮崎鹿児島だったら、毎週会えたのに。」
▼母はこう答えた。「サトシ。お母さん知恵が足りなかったね。ごめんね。」涙を絞り出すような落語でもらい泣きした。たしかに宮崎鹿児島に就職していたら、毎週でも会えたかもしれない。だがそうなっていたら、この落語は完成せず、四代目襲名の日もまた違っていたかもしれない。
▼すべては出会うべくして出会っている。起こるべくして起こっている。神はやはり、愛のほかに与えることがないのだと思う。神の愛に応えて、私たちも愛に背くものを願ったり人に与えたりしてはいけない。

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今週の1枚
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第604回目。復活賛歌(抜粋)。司祭(助祭)が朗々と歌う。見せどころ?

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受難の主日(ルカ23:1-49△22:14-23:56)百人隊長さえもイエスに心動かされた

2019-04-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/04/14(No.996)
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受難の主日
(ルカ23:1-49△22:14-23:56)
百人隊長さえもイエスに心動かされた
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受難の主日、聖なる一週間が始まりました。受難の朗読が読まれました。できれば聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭聖なる三日間をあずかって再び場面を思い返してください。聖なる三日間を連続して参加できない方々のために、今日の受難の朗読があると考えてほしいと思います。

私はこの聖なる一週間を、百人隊長の目で眺めながら、考えてみたいと思いました。今日の受難の朗読の終わりに百人隊長は登場し、「この出来事を見て、神を賛美して」言います。「本当に、この人は正しい人だった。」(23・47)

百人隊長の置かれている立場はどんなものでしょうか。彼はまず、百人の兵士を束ねる隊長です。百人の命をあずかる責任者です。さらにローマ軍の兵士ですから、どのような命令であれ、命じられたことが実行されるように動かなければなりません。不当な命令であっても、それを拒むことは許されない立場でした。

また、彼はイエス・キリストに特別な感情を持っていません。彼はユダヤ人ではないからです。イエスに同情するわけでも、イエスに敵対するわけでもないのです。言ってみれば、不正な裁判でイエスが死ぬことになっても、心に何の感情も湧かないはずの人なのです。その百人隊長が、「本当に、この人は正しい人だった」と漏らしました。

この百人隊長の言葉から、私は二つのことを考えました。一つは、イエスの死の出来事は、何の関係もないローマ軍の兵士にも、何が正しくて、何が間違っているのかを理解させる圧倒的な力を持っていたということです。死のうが死ぬまいがどうでもよい他人でさえも、イエスの死に心を動かされた。それは当時も、のちの時代も、今の21世紀でも変わらない説得力があるということです。

もう一つは、これだけのことが起こりながら、ユダヤ人は「本当に、この人は正しい人だった」と理解できなかったということです。仮に理解したとしても、人間的にはイエスが亡くなってようやく理解したのでは手遅れなのです。理解するなら、もっと早く気づいて、イエスが死刑の宣告を受けることのないようにしなければならなかったはずです。

この百人隊長の言葉を、今年の聖週間を黙想する鍵にしたいと思っています。イエスの死は、どんなに縁遠い人にも心を動かす力があるのに、なぜ身近な人が、イエスを死に追いやったのでしょうか。私たちも含めて、なぜイエスの死をただ黙って見ているのでしょうか。気づくのが遅くて、もはや手遅れになっているとして、私たちはイエスとどのように向き合うべきでしょうか。

私たちはこれらのことをこの一週間かけて思い巡らしましょう。私たちを救うイエス・キリストと真剣に向き合う一週間としましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日・主の晩さん
(ヨハネ13:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼「逃した魚は大きい。」これは釣りの定説?だが、分からないでもない。私は二度、ラインをぶち切られて魚を逃したことがある。どちらも経験不足と言えば経験不足だが、もう少し考えると準備不足、心の準備不足である。
▼一度は伊王島港の目の前で。想像だが、あれはスズキとか、シーバスと言われる魚だったのではないか。みるみるうちに竿が海中に突き刺さり、建て直す暇もなくブチッと糸を切られた。あの日はアジ釣りをしていて、アジの仕掛けにスズキがかかったとしたら、ひとたまりもない。
▼もう一度は浜串で。こちらもタイラバで経験を積み始めている頃。しかも竿は本来スズキなどを強引にたぐり寄せる固い竿だ。もう少し柔らかめの竿であったなら、また違ったかもしれない。さらに悪いことに、ラインを引き出されたくないものだからそのままなら取り込めたはずのドラグのテンションを強くしてしまった。綱引きとなり、あっけなく引きちぎられた。
▼魚を逃がすのは「予想していないときに釣れた」からであり、「予想や見立てが甘い」からであり、最終的には「何が釣れるか分からない」という心の準備が足りないためである。これらのことを総合して、「逃した魚は大きい」のだ。
▼それからすると、今回仕留めたタイは運が良かった。準備は良かった(1キロ未満の魚を想定して道具のセッティングをしていた)わけだが、格闘し始めて「ショックリーダーに傷がなかっただろうか?頼むから切れないでくれ!」この一念で格闘して仕留めた。あとでぶら下げる秤にかけたところ、7キロの大物だった。浜串時代の4.3キロを楽々越えて新記録となった。
▼オチがさらに面白い。私はタイラバ釣りでは基本的に300円~400円の疑似餌を使っている。しかしこの日は、釣るつもりが端からなかったので、5個入り260円のタコベイトを結んで釣りをしていた。だからあのタイは、人生(人じゃないが)最後に口にしたのが52円のタコベイトだったわけだ。これは残念。すべて無駄なく食べた。安らかに。

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今週の1枚
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第603回目。金曜日。肉を食べずに過ごすか。しかしこのたらいの魚はいったい?

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四旬節第5主日(ヨハネ8:1-11)イエスひとりと、真ん中にいた女だけ

2019-04-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/04/07 (No.995)
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四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
イエスひとりと、真ん中にいた女だけ
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四旬節もこの一週間で聖なる一週間「聖週間」へと向かう大切な時期です。与えられた福音朗読を通して、十字架上の死と復活に向かうイエスの思いを知り、イエスに付き従う心の準備を整えることにしましょう。

黙想会が終わりました。皆さんにとってどのような収穫があったでしょうか。私は三日間、司教様の接待をして気疲れをしました。本当は気疲れと言うほどのものではありませんが、司祭館に家主よりも身分のある方をお泊めして、接待したのですから気を遣ったことは確かです。

この疲れは大型連休のときに休みを頂いて、疲れを取りたいと思います。ですから大型連休中、司祭館のチャイムを鳴らしたり電話を掛けたりしないでください。そこに私はいません。居留守なんか使ったりしません。大阪の風に、大阪の風になって、あの甲子園の空を吹き渡っています。大阪では、田平から転出した人に会ってこようと思っています。

福音朗読箇所は、「姦通の女」という物語ですが、一つ私たちが陥っている思い込みのようなものを指摘したいと思います。朗読には次のような部分があります。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(8・9)

この場面で、「イエス一人と、真ん中にいた女が残った」とあり、二人きりのはずです。けれどもいつの間にか、私たちは立ち去らずにその場に留まっていないでしょうか。ここに疑問を持ちました。私もまた同じ過ちに陥って今日の朗読で二人きりの場面のはずなのに、私はそのまま残っているつもりだったのです。

「私たちがその場に残っていたとして、それが何か問題なのでしょうか。」問題があるのです。二人きりなら話せることも、そこに読者が立ち会っていたら、話せなくなるのです。

たとえば赦しの秘跡の場面は、「イエスの身分で執り行う司祭と、罪を告白するその人との、二人だけのはずです。誰か別の人がその場にいたら、告白をする人は告白できません。朗読の場面もまさに、姦通の罪を犯した女性をゆるす言わば初めての「赦しの秘跡」の場面だったかもしれないのです。

もう一度、イエスと姦通の罪で突き出された女性とを、二人きりにさせてあげましょう。その時初めて、イエスの深い憐れみに触れるかも知れません。イエスのことばを、イエスに突き出された女性だけが受け取る。その時やっと、イエスのことばの本当の意味にたどり着きます。 

イエスと目の前にいる人、二人きりになったとき、見捨てられた人を見捨てないイエスの愛に私たちも触れるのではないでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49△22:14-23:56)
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ちょっとひとやすみ
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▼司教様と暮らす日々は、想像した通りではなかった。ふだん大司教と毎日暮らす秘書とか、関係者の方々の思いに初めて触れた三日間だった。たいして気を遣わない私でも気を遣ったのだから、ふだん神経の細やかな人は、どれほどだろうか。
▼大阪に大型連休は足を伸ばすことにした。とは言え連休後半には「クルシリヨ」という錬成会が長崎黙想の家で計画されていて、少なくともその感謝のミサには参加しなければならないと思うから、大型連休の計画は大阪行きとクルシリヨ感謝ミサ・茶話会の2つを予定している。
▼事務的なことでは、教区評議会総会が5月3日の日付指定で行われるので本来は参加すべきだ。ただ今回は異動する司祭たちの日程もあり、流動的だと思う。私に届いた参加案内には「欠席(委任します)」と出したが、場合によってはあらためて教区評議会に「出席します」で出し直す必要があるかもしれない。
▼大阪では人に会う。田平を離れて子供達に引き取られたご老人だ。私が田平に来て出会った恩人である。田平がよほど懐かしいのか、大阪に来てからは元気がないと聞いている。私はイエス・キリストではないが、元気が出るきっかけになればと思い、田平教会報「瀬戸山の風」を届けに行く予定。
▼「予定はそれだけ?」勘ぐられるのも当然である。なぜなら別のときに「野球観戦のチケットを買うため、不本意ながらタイガースファンクラブに入った」と触れたことがあるから、「この連休で大阪に行くなら、それだけではないでしょう」と言われて当然なのだ。
▼ご推察の通り。ただ広島阪神戦(ビジターゲームだから阪神広島戦か?)は自由に観戦させて欲しい。

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今週の1枚
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第602回目。宴の残り。強炭酸水、氷、ウイスキー、焼酎。一部は出番なし。

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† 神に感謝 †
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