こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第18主日(マタイ14:13-21)このパンを食べる人は永遠に生きる

2011-07-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/07/31(No.545)
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年間第18主日
(マタイ14:13-21)
このパンを食べる人は永遠に生きる
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先週今年の初泳ぎをしました。去年もそうでしたが、小学生の子供たちが司祭館のチャイムをピンポンピンポン鳴らして、「神父さま、一緒に泳ぎに行きましょう」と誘いに来ました。この小学生たちは保護者同伴でないと泳げないので、わたしは自分たちが泳ぐための「道具」だったんですけど、それでも誘ってもらったおかげで泳ぐことができました。

小さな子どもたちがほとんどで、浮き輪が頼りという状態でした。5人のうち浮き輪なしで泳ぐことができたのは1人だけ、その割には浮き輪2個に対して4人が群がる状態でした。次の時までに、わたしが浮き輪を2個買って、1回50円で貸そうと思います。

来週、小学生たちは上五島の11の教会が集まってドッヂボール大会です。保護者の方、地域の方々も、応援に来てください。わたしはつい口を滑らせて、「優勝したら、ハウステンボスに行こうか」と言ってしまったので、決して優勝しないように、応援に来てほしいと思います。

今週朗読されたのはイエスが五千人に食べ物を与える奇跡物語です。ご存知かもしれませんが、このパンの奇跡の物語は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、四つの福音書すべてに記録されている物語です。その中で、マタイよりも早くに書き残された、マルコ福音書のパンの奇跡物語と読み比べると面白いことがわかります。

ほとんど、マルコとマタイの記述は共通しているのですが、イエスが五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えた後、マルコは「パンを裂いて弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(マルコ6・41)となっているのですが、先ほどわたしたちが聞いたマタイ福音書では、「パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。」(マタイ14・19)となっていて、魚のことは省略しているのです。

よくよく観察しているなら、パンのことと、魚のこと両方を書くのが自然だと思います。この違いは最後の結果にも表れていて、マルコは「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。」(6・43)ときちんと書き残していますが、たった今読んだマタイ福音書は、「残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」(14・20)と、ここでもまたパンのことだけ書いているのです。

これは、次のように考えるのがよいでしょう。福音書の中でいちばん早い時代に書かれたマルコは、出来事に即して物語を書き残し、マタイは何か考えがあって、パンのことだけを強調して、魚のことは省略した、ということです。パンに、特別に注意を向けている点が大事です。

皆さんも、パンに集中する場面を知っているはずです。それはミサ、イエスが残された最後の晩餐の再現の場面です。祭壇の上には、パンとぶどう酒がささげられ、イエスの御体と御血になります。司祭はそれを両方とも拝領します。信徒の皆さんは、御体のみの拝領となります。御体に集中していると言ったほうがよいでしょう。

イエスさまが五千人に食べ物を与えた奇跡の場面、マタイはあえてパンだけを強調し、パンに人々の注意を向けさせようとしました。それはきっと、最後の晩餐、イエスがわたしたちのために残された決してなくならないいのちのパンのことをこの時からすでに考えて物語を書いたのだと思います。

つまり、マタイはこのパンの奇跡を通して、人を満たすのは「町や村」に行って見つける食べ物ではなくて、イエスが与える食べ物こそが、人を満たすのだと教えたいのです。パンや魚が要らないと言っているのではなく、たとえ「人里離れた所」であっても、イエスがそこにおられることで人を満たすことがお出来になる。イエスによって、わたしたちは本当の意味で満たされるというのです。

わたしたちは日々こう考えています。「食べていかなければ、後のことは何も始まらない」と。本当にそうでしょうか。わたしは小学生の時、食べ物は切り詰めているなぁと感じることがありましたが、学ぶためには、ほかのすべてを切り詰めても工面してもらいました。

祈祷書を読み、祈りの難しい漢字を学び、漢字の試験では他の生徒より頭一つ抜けていました。「いととうとく」とか、「とこしえにしろしめしたもう」とか、小学生が誰も知らない言葉の意味を教わっていました。

学校以上に教会から考え方や生き方を学び、道徳の時間に「人間は何のために生きるのですか」という題で話し合いになって、「人間は神さまの喜びとなるために生きています」と答えて、先生から変な顔をされました。

当時のことを振り返ると、わたしは神さまに育ててもらったのだと思います。栄養状態は良くなかったかもしれません。バランスの良い食事はなかったかもしれません。けれども、同学年の半分以上の人が知らないこと、さらには先生も知らないことを教会で学び、天の国の秘密を学んだ学者に育っていたのだと思います。

その少年時代を踏まえて言いたいと思います。イエスは共に手伝ってくれる人を通して、「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。」(14・16)と仰るのです。イエスのもとに、本当の意味で人間を養う食べ物がある、なければないで構わないものではなくて、絶対に必要な食べ物は、イエスのもとにあるのです。

ただ、上手に手分けして与えなければなりません。大人の方々には教会の評議会を通して、特に子どもたちには要理部を通して、食べ物をイエスから受け取って、与えなければなりません。さらに「すべての人が食べて満腹した」(14・20)となっています。わたしたちのお世話に問題があって、食べても満足できなかったから、ほかに食べに行こうと言われるようではいけません。工夫が必要です。

最後に、「残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」(14・20)とありますが、これはイエスをまだ知らない人のために残った食べ物ではないでしょうか。一人一人、さらに熱意を持って、イエスしか与えることのできないパンを、より多くの人に届けましょう。そのための力をミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(マタイ14:22-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週言いたい放題のことを並べてしまったが、今週は弁明しておきたいと思う。実はこの内容は先週の「ちょっとひとやすみ」に続けてすぐに書いておいたものである。だから、先週の内容と同時に、今週の「ちょっとひとやすみ」の内容も、考えていたということを弁明しておきたい。
▼小学生合同黙想会のミサはすばらしかった。祭壇を囲み、一つのパンから分かち合い、感動的な平和のあいさつをした。わたしは頭では子どもたちが祭壇を囲んでミサをする様子を描くことはできるが、それを実践しようという気持ちにまではなれない。
▼ところが、先週から話している先輩司祭は、こともなげにこの「祭壇を囲むミサ」を実行した。わたしの頭の中には、「まじめで頭の固い先輩が、そんな大胆なことをするはずがない」という頭があったのだが、実際には大胆だった。これまで一度でも、子どもたちに祭壇を囲ませてミサをしたことがないわたしは、あっけにとられた。
▼子どもたちは、祭壇を囲んだあの日のミサのことを忘れないだろう。もし一時的に忘れたとしても、もう一度祭壇を囲む日が来た時、自分たちが小学生の時に同じことをしたと思いだすだろう。それほど、この日の出来事は子どもたちに焼きついたと思う。
▼では、次に子どもたちが祭壇を囲む日はいつか。小学生合同黙想会で共通の体験をした地元の司祭たちが、それぞれの教会で同じことをしてあげる時がその時ではないだろうか。ただ人数が・・・いや、いろいろ考えていてはいつになってもそのチャンスは巡ってこない。わたしはどうも尻込みしそうだが・・・。

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新企画今週の1枚
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第152回目。子どもたちが祭壇を囲み、握手で平和のあいさつを交わす。
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年間第17主日(マタイ13:44-52)あなたの生活の中に、宝が隠されている

2011-07-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/07/24(No.544)
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年間第17主日
(マタイ13:44-52)
あなたの生活の中に、宝が隠されている
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今週イエスは、天の国を宝物を探す様子に例えています。畑に宝が隠されていて、宝を見つけた人は持ち物をすっかり売り払って、その畑を買います。または、商人が良い真珠を探していて、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をすっかり売り払い、それを買います。あるいは、網が湖に投げおろされ、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てます。

いずれも、貴重なものを見分け、見つけたら他のすべてをなげうって手に入れようとしているのが特徴です。わたしたちは、同じような体験をどこかでしているでしょうか。わたしは、いろんな立場の人が、すでにたとえに出てくるような経験を積んでいると思います。

結婚する人は、似たような経験を積んだかもしれません。宝である配偶者を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、配偶者だけを選んだことでしょう。修道者も、宝であるイエス・キリストだけを選びとって、持ち物をすっかり売り払った人々です。司祭も、イエス・キリストに従うことのすばらしさを理解し、ほかのものは投げ捨てた人々です。

こうして、いろんな立場にある人が、宝を見つけ、地上ではその宝が喜びとなり、この世を去ってからは宝を見つけたことで天の国に招かれることになります。ところで、地上にいる間に隠された宝をみつけ、天の国に招かれる人は、今話したような生き方だけなのでしょうか。

それは違います。もっとたくさんの人が、宝を見つけ、天の国に招かれます。わたしが思い付いたものを3つ紹介しておきましょう。1つは、聖書を読む方法です。ほかの1つは、祈る生活です。ほかの1つの方法は、聖歌を歌って賛美をささげることです。

今、浜串小教区内の3つの教会は、いずれも主日のミサ前に、聖書朗読にいそしんでいます。通常ロザリオが唱えられている時間に、聖書朗読の集いが開かれています。朗読CDを使って、ずっと新約聖書を読み続けています。この、読み続けている新約聖書は、いわば広大な畑です。この畑の中に、宝が隠されているのです。

わたしはこれまでに、わたしにとって大切な宝となったイエスの奇跡物語を2つ見つけました。1つは、生まれつき目が見えず、道端で物乞いをしていたバルティマイのいやしの物語です。ここで詳しい説明はしませんが、大声で、イエスに助けを求める場面が、わたしにとって大切な宝となりました。

もう1つは、ベトザタの池で38年間病気でいた人が、イエスによっていやされる場面です。イエスは38年間病気だった人に、「良くなりたいか」と尋ねました。この一言が、わたしの宝物となりました。

このように、広大な砂漠のように見える新約聖書でも、読み続ければ、聞き続ければ、きっと価値ある宝物を見つけることができます。ですから、今取り組みをしている聖書朗読の集いに、もっとたくさんの人の参加をお願いしたいと思います。

祈りの生活も、宝を見つける畑だと思います。わたしたちの小教区では、朝の祈りとして「朝の祈り二」を唱えていますが、なかなか味のある祈りです。「恵みのうちに生きる」という祈りを例に取ると、「わたしたちがきょう一日、愛のわざに励み、すべてにおいてみ旨を受けとめ、恵みのうちに成長することができるよう導いてください」とあります。わたしはこの部分だけでも、汲みつくせない宝が見つかると思いました。良くできている祈りです。

ミサの中で聖歌を歌い、賛美をささげることも、宝を見つける畑です。最近は、典礼聖歌集だけでなくて、一般の聖歌もありますし、また、短いことばを繰り返して歌う方法もあります。最近歌っているか知りませんが、「父よゆだねます、わたしのすべて。父よゆだねます、あなたの御手に」などは、繰り返しているうちに心の底から自分をゆだねてみようという気持ちになるのではないでしょうか。聖歌という畑は、確実に宝が隠されています。

まとめると、わたしたちの生活は、イエス・キリストを見つけるための広大な畑なのです。結婚によって、かけがえのない人を見つけることも、司祭や修道者になって、自分をおささげすることも、聖書の中に宝を見つけることも、祈りの生活も、ミサの聖歌も、どれもイエス・キリストを見つける畑なのではないでしょうか。

わたしたちがそれぞれの畑の中で、持ち物をすっかり売り払って、大切なものを手に入れる生き方をしていることを今週学びました。わたしたちの生き方はきっとイエス・キリストを知らない人に影響を与えます。ぜひ、イエス・キリストを知らない人にも、畑に宝が隠されていることを、生活を通して証ししましょう。証しのための力を、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(マタイ14:13-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の夏の始めは、「小学生合同黙想会」から始まった。説教でも少し触れたが、とても真面目な先輩が合同黙想会の指導をした。浜串教会は、主任司祭がただただ黙想会を楽に終わらせたい一心で合同黙想会に参加したのだが、小学生に気の毒な思いをさせたかもしれない。
▼5つの教会が小学生合同黙想会に参加した。浜串、青方、大曽、青砂ヶ浦、曽根である。その中の1つの教会の先輩が指導をした。内容は「ミサのすばらしさについて」といった感じで、ミサの構成がイエス・キリストの生涯全体と重なるというとても明快な説明があり、さらにミサはわたしたちの生活全体と結びついていることもきっちり説明してもらった。
▼論点は明快、説明も十分であったが、小学1年生から6年生まで合計120人いる今回の参加者を前にしては、いささか力が入りすぎていたかもしれない。子どもたちもそうだが、一緒にいた保護者にも、40分の話が80分に聞こえていたかもしれない。
▼ただ、ソフトな語りをするとか、楽しく話すとか、そのあたりは持ち味があったり、得手不得手があったりするので、今回の先輩にあれこれ言うのは酷だろう。むしろ、先輩らしいと言うのが正しいかもしれない。わたし自身は論点も説明をつくした内容もすべて吸収したので、いつか真似して話すことはできる。それはありがたかった。
▼心配なのは、来年の小学生合同黙想会だ。今年みっちり絞られた子どもたちが、はたして来年も参加したいと言ってくれるかどうか。また、今週は小学生に続いて中学生が同じ話を聞いての黙想会になっているが、昼食までは辛抱して聞いても、昼食を食べたらボイコットをするのではないか。心配の種は尽きない。

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新企画今週の1枚
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第151回目。初の小学生合同黙想会。これから回を重ねて大きな実りを期待。
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年間第16主日(マタイ13:24-43)忍耐の道を教えるために、神は御子を遣わされた

2011-07-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/07/17(No.543)
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年間第16主日
(マタイ13:24-43)
忍耐の道を教えるために、神は御子を遣わされた
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先週は「マリア文庫」、「よきおとずれ」と公務が立て続けに入って、まともに説教を準備する時間が取れませんでした。皆さんにお配りした説教集「とって食べなさい」をもう一度読み返して、今週は説教しております。

今日の朗読で関心を引いたのは、イエスがお話しになったたとえ話の中で、「敵が毒麦を蒔く」という場面を置いていることです。イエスが「敵の仕業」について触れたというのは、イエスの中で「敵の仕業」というものは十分にあり得ると考えておられるということではないでしょうか。

たとえばそれは闇の力とか、悪の力と言ってもよいかも知れませんが、そうしたものが力を振るうことがあるということなのでしょう。今日は少し、この「敵の仕業」という切り口から福音の学びを得て、わたしたちの信仰生活に活かしてみたいと思います。

たとえ話の流れからすると、よい働きに混じって敵は自分たちの悪い行いを仕掛けてくるということになります。イエスがこの世においでになっても変わらずに「敵の仕業」は形になって現れます。しかし神が御子イエス・キリストをお遣わしになったということは、たとえ「敵の仕業」が存在するとしても、神は決して敵の業を放っておいたりはしない、必ず焼き払われるということでもあるのです。

そうであれば、わたしたちの時代が抱える矛盾にも、今日のイエスのたとえは一定の答えを与えてくださるのではないでしょうか。イエスがおいでになってからすでに2000年が経ちました。

こんなに長い時間教会共同体は途絶えることなく、信仰は受け継がれてきたのに、悪は絶えません。現代でも「敵の仕業」はそこここで行われています。けれども神は、この時代にあっても決して悪をお許しにならず、お認めにならないのです。悪を許さないのですから、それらは必ず焼き滅ぼされるのです。

この点を理解し、受けとめるのに、わたしたちの信仰が試されていると思います。神さまが試すということではないのですが、信じる力を鍛える必要が出てくると思います。僕たちの言葉「行って抜き集めておきましょうか」をよく考えて、もっと適切な答えを出すように求められているのです。わたしたちは、よくよく注意が必要です。それは、神よりも早く裁きを下したり、神よりも出過ぎたことをして、それでいて自分のとった態度は神に当然喜ばれると思う危険があるからです。

「毒麦のたとえ」で登場する主人は、父である神を写している人物です。主人が取った唯一の方法は、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」ということでした。「忍耐し、最後の日まで様子を見届けなさい」ということです。ですが僕に代表されているわたしたち人間は、どうしても早く手を打ち、結果を見たがるのです。先回りして、神に任せられていることにさえも手を出してしまいがちです。

ここで、主人が取った方法、「最後まで忍耐し、結果を見届ける」態度をあらためて考えましょう。主人が取った態度は、本当に正しかったのでしょうか。唯一の、適切な方法と言えるのでしょうか。ほかにもっと良い方法、たとえば僕が提案したように、早めに抜き取ることは考えなかったのでしょうか。

たとえの説明と照らし合わせて考えてみましょう。父なる神は一つの決定的な形で、これが唯一の方法であり、神が選ばれた道であることを示されました。それは、御子イエス・キリストをこの世に遣わすということでした。

神は御子イエス・キリストに人間の救いを託されたのですが、イエスが取られた道はまさに、「忍耐し、赦すことで人間を救う」という道でした。十字架での最後の場面がその極みです。十字架は人間を救うために示された最高の忍耐の証・赦しの証でした。

ほかに取るべき方法があったかも知れませんが、一切の方法を脇において、イエスは十字架にかかって、どこまでも忍耐と愛を示してくださったのでした。こうして、父なる神は人間の救いのために、「最後まで忍耐し、結果を見届ける」道が唯一の方法であると、示されたのです。

「忍耐の道」は、ともすると「弱い者の選ぶ道」「最も愚かで見込みのない手段」と受け取られるかも知れません。ですが、わたしたちがどう説明づけようとしても、父なる神が御子イエス・キリストを通して示された「十字架を通しての救い」のほかは、正しい答えは見つからないのです。

この道は、いったんは御子イエス・キリストが「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と避けようとした道でしたが、最終的には受け入れました。考え抜いた挙げ句に、最後まで忍耐することを選ばれたのですから、わたしたちがこの道を別のものに置きかえることはできないのです。

ここに、わたしたちの信仰が問われています。忍耐し、最後まで見届ける方法は回りくどいように思えるのですが、これがわたしたちの信じるイエスによって示された唯一の道であれば、わたしたちも受け入れよう。この信仰が必要になってきます。

活動が実を結ばないと結果を見守る気持ちになれないものです。最後まで忍耐するよりも、被害を最小に食い止めたいと思うこともあります。人間として思うことはいろいろあるでしょう。ですが、忍耐によって努力を積み上げることが、まずは神が示された道であるし、わたしたちにも必要な心構えなのです。

神は悪をほうってはおかれません。忍耐しておられるのです。神の変わらぬこの態度がわたしたちの限られた心の広さではなかなか理解できません。忍耐して努力し続ける大切さと、悪を最終的には焼き尽くされるのだという固い信頼を保つことができるよう、ミサの中で願いましょう。主はわたしたちに、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:19)と招いておられます。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(マタイ13:44-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガで発行している内容は、ほとんどそのまま、ブログで掲載している。ブログはひと頃は5誌か6誌発行していたと思うが、現在は「gooブログ」「BIGLOBEウェブリブログ」「AutoPage(TeaCupブログ)」「はてなブログ」の4誌である。
▼4誌も掲載してどうするのかと思われるかもしれないが、4つのブログで情報を集めている人はそんなにいない。だからどれかのブログだけしか利用していない人が、毎週カトリック教会の説教に触れる機会をだれかが作ってあげることは今のネット社会にあっては大切な使命だと思う。
▼もちろん、もっと優れたものがあればそれに越したことはないが、出来は良くないとしても、毎週懸命に準備してアップしている。「家を建てる者の退けた石」かもしれないが、ブログを通してイエスへの信仰へと道が開かれるかもしれない。そういう願いで、ずっとずっと続けている。事情が許す限りは、いつまでも続けていたいと思う。
▼そのブログだが、「gooブログ」は管理人に過去7日間の閲覧数を把握できるサービスが与えられている。延べの閲覧数と、IP閲覧数とがあるが、確実に何人閲覧したかを知るためにはIP閲覧数が適している。7月1日から7日まで7日間のIP閲覧数を見ると、120・165・131・106・106・85・90となっている。
▼データから分析すると、週末から週明けが最も多く、いちばん少ない数の85で考えても、85人はブログを読んでいるということになる。これはgooブログに限った話だから、実際にブログを読んでいる人はそれ以上、100人はいるだろう。
▼そしてこの人たちは、おそらくメルマガを必要としない人たちだから、メルマガを受信して読んでいる人に、ブログを閲覧している100人を加えた人数が、「こうじ神父今週の説教」の利用者ということになる。メルマガは、もはや頭打ちだが、これからはブログの閲覧者が増えていくようになるかもしれない。自問しなければならない。「聞く耳のある者は、聞きなさい。」

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新企画今週の1枚
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第150回目。地元で地曳網が行われた。かかった魚の説明に食い入る子どもたち。
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年間第15主日(マタイ13:1-23)イエスの御言葉はわたしの中で100倍になる

2011-07-10 | Weblog
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こうじ神父
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年間第15主日
(マタイ13:1-23)
イエスの御言葉はわたしの中で100倍になる
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本日から、ミサ前のロザリオの時間に聖書の朗読CDを流し、お一人お一人は手元に聖書を用意して、目で追っていくという形で、聖書愛読マラソンの取り組みを行うこととしました。これから約半年間、日曜日ごとに続けていきますので、ふだんよりも早めにおいでになって、聖書を続けて読む取り組みに参加してもらいたいと思います。

浜串教会の場合は、5月の平日に少し取り組み始めていましたので、今日朗読した箇所はマタイ福音書の最後あたりから、マルコ福音書に入る朗読となっていました。マルコ福音書から始めたのだと思っても結構ですし、最初から参加している人は、半年でどこまで読み続けられるか、楽しみにしていてください。

では福音の学びに入りましょう。今週の、種蒔きのたとえから、「良い土地」について考えてみたいと思います。「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」(13・8-9)

「良い土地」について考えてみようと思った理由があります。実を結ばなかった土地については、割合具体的な事情が書かれていました。道端に落ちた種が、鳥に食べられてしまうとか、石だらけで土の少ないところに落ち、根がないために枯れてしまうとか、茨の間に落ちて、茨が伸びて種をふさいでしまうとかです。

これに対し、実を結んだとされる「良い土地」については、「良い」と書かれているだけで、どのように良いのか書かれていないのです。たいへん興味をそそられました。そこで、この「良い土地」について詳しい説明をしてくれる本を探しましたが、あいにくそのような本が見つからないのです。

目の付けどころは悪くないと思うのですが、どうしても「良い土地」について手っ取り早い説明が見つからないので、自分なりに考えることにしました。「良い土地」を考えるために、まず「百倍、六十倍、三十倍」について考えを示しておきたいと思います。

給料で考えてみましょう。月収15万円の人は、珍しくないと思います。その30倍となると、月収450万円です。もしかしたら、町内に1人はいるかもしれません。60倍となると月収900万円ですが、町内にはいないとしても、県内にはいるかもしれません。100倍だと月収1500万円で、こんな人は国内に数人しかいないかもしれません。でも、いないわけではありません。

今話したのは、人間が手に入れることのできる収入で、ある人と別の人では、収入に100倍の差が開くことがあり得るということを考えてみました。では、ある人と別の人で100倍の差が開くのは、環境によるものなのか、本人の努力や素質によるものなのかを考えてみましょう。

100倍の収入を得る人は、必ず都会に住んでいるのでしょうか?わたしはそうは思いません。地方に住んでいて、都会に住んでいる人の何十倍も収入を得ている人はいると思います。ところが、努力と才能のない人で、けた外れの収入を得ている人はいないのではないか。わたしはそう思いました。

つまり、イエスが話したたとえ話で、種が「良い土地」に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなったというのは、人間の努力とか、持っている才能のことではないかと思ったのです。

まとめると、イエスが蒔いてくださる種は、どんな環境であっても、努力する人、才能を持っている人の中に蒔かれると、豊かに実を結ぶ。そういうことなのではないでしょうか。

「努力する人、才能のある人」と言いましたが、才能は、注意力や、判断力、分析力と置き換えてもよいでしょう。注意深く観察するとか、なぜこうなるのだろうかと考えることは、だれにでもできることです。

ただ、どれくらい注意深いかは、人によって違うと思います。100倍注意深いということもあり得る話です。マリアは、イエスの話を注意深く聞いて、心の中で思い巡らしました。マリアの注意深さは、わたしたちの100倍であっても不思議ではありません。

こうしてみると、イエスが蒔いてくださる種は、わたしたちが注意深く聞くならば、100倍の実を結ぶ可能性があると思っています。これから、日曜日のミサ前は聖書朗読が続きます。わたしたちが注意深く聞くならば、イエスの蒔いた種のどれかが、あなたの中で100倍の実を結ぶはずです。

注意深く聞き、自分にとってどういう意味があるのかを慎重に判断し、驚くほど実を結んだ姿をイエスに報告することができるよう、このミサの中で照らしと導きを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マタイ13:24-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼教区報「よきおとずれ」の記事のために、巡回教会の写真を撮影して原稿をまとめた。特別念入りに取材して原稿を書いたわけではないが、福見教会は再来年100周年を迎え、高井旅教会は今年6月に50周年を迎える教会である。
▼高井旅教会については、大々的なことは計画しないことになっているが、教会役員との話し合いの中で、希望していることがいくつか出ていて、それらを形にして未来の世代に残してあげたいと思っている。
▼問題は福見教会で、こちらは100周年でもあるし、大司教さまをお呼びして、何か記念行事を計画したいと願っている。ただ、上五島では青砂ヶ浦教会の100周年などをすでに経験しているが、とてもあのような盛大な行事は実行不可能であり、何が可能かと頭を悩ませている。
▼福見教会紹介の原稿をまとめるとき、教会が海岸の丸石で石垣を組んだ土地の上に建っているということに触れているのだが、何か、この丸石がヒントにならないかと個人的には思っている。波に洗われて丸くなった石を、石垣に用いているわけだが、石が丸くなるためには、いったいどれだけの時間が必要なのだろうか。
▼石が丸くなるのに、仮に100年かかるのだとしたら、丸い石を積み上げて造られた石垣は、すでに100年前の石を使用しているということだ。その上に教会を建設し、100年が経過しているのだから、石は200年経過していることになる。ひょっとすると、それ以上の年月を経ているかもしれない。
▼基礎が、200年の時を刻んでいるとしたら、それはみんなで考えてもらうきっかけにすればよいと思う。200年前に何があったのか、200年の間に何が起こったのか、そうしたことを考えると、わたしたちの信仰の歩みはわたしたちだけのものではなくて、次の世代につないでいく価値があるものだと気づくかもしれない。大げさだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第149回目。福見教会。石垣は、丸石で積み上げられている。
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年間第14主日(マタイ11:25-30)軛はイエスが共に担ってくださる

2011-07-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/07/03(No.541)
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年間第14主日
(マタイ11:25-30)
軛はイエスが共に担ってくださる
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復活節と、その後のいくつかの主の祭日が終わって、年間の主日が巡ってきました。また、今年に限って言えば、今日は7月3日、使徒トマスの祝日で、わたしの霊名の祝日でもあります。後でお祝いしていただけるそうで、ありがたいなぁと思っています。

ちなみに、「聖トマ」と言ったり「聖トマス」と言ったりするのは、どっちが本当かと聞かれたりしますが、ラテン語聖書は「トマ」ギリシャ語聖書は「トマス」と表記しますので、どちらも間違っていません。いちおう、教区には「トマス」と届けています。

3年前からわたしは、霊名のお祝いの少し前に、健康診断を受けるようにしました。社会保険に加入しているので、健康診断を受けるのは当然と言えば当然なのですが、実際には健康状態に気を配らない司祭が多いのです。わたしもそうでした。ですが、父が亡くなってからは健康診断を受ける気になりました。

今年は、去年厳しく注意された数値が目に見えて改善されていまして、診察してくださった先生から「続けて健康維持のために食事と運動に気を配ってください」と言われました。食事を考えてくださるシスターと、ミニバレーに誘ってくださる婦人会の皆さまのおかげだと思います。感謝しております。

さて今週の朗読箇所から、「軛」(くびき)について考えてみたいと思います。「軛」は簡単に言うと、「牛や馬のくびにあてる横木」のことです。この軛を動物に取り付けて、人間は動物を操り田畑を耕します。動物を苦しめたりはしませんが、ちょっと不自由を味わうことになります。

この軛を例にして、イエスはわたしたちを導こうとします。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(11・29)

ここには2つのことが言われています。「わたしは柔和で謙遜な者である。」イエスが柔和で謙遜であると言うとき、それは人柄として柔和謙遜であると考えるよりも、御父の前にひれ伏して教えを請う態度を表します。

ですから、続く「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と呼び掛けるわけです。もし素質のことなら、たとえば「わたしは運動神経が良いから、わたしに倣って運動神経が良くなりなさい」という招きになり、お手本にできなくなります。そうではなく、イエスが率先して、御父に謙虚に教えを請う姿を学びなさいと言っているのです。

軛が、イエスに倣って御父の前にひれ伏して教えを請うということであれば、この軛は何をもたらすのでしょうか。人間を自在に操り、ある程度の不自由を強いるということでしょうか。そうではありません。御父の御旨にまっすぐに従い、父なる神が望むように生きる真の自由が与えられます。

最後にイエスは、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11・30)と仰いました。「負いやすい」「軽い」とはどういうことでしょう。軛は、いつの場合でも負い難く、重荷なのではないでしょうか。

ここでもう一度、軛を負う姿を考えてみましょう。イエスが求める軛につながれているのは、わたしだけでしょうか。御父に教えを請う謙虚な姿を軛と言うならば、イエスが先に、軛を負ってくださっているのではないでしょうか。

わたしの軛には、わたしだけではなくて、イエスがそばにいてくださる。イエスが共に、軛を担ってくださる。それが分かれば、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言っているのも分かります。御父のお望みのままに生きようと望むのは、わたし一人の努力なのではなく、イエスがそばにいて、一緒に担ってくださっているのです。

今日わたしは、霊名の祝日を迎えて、もう一度「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と招くイエスさまの声に耳を傾けたいと思います。自分に都合のよいことばかりではなく、イエスと一緒に、御父に教えを請う生き方を歩き通すことができるように、ミサの中で願いたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マタイ13:1-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼大分の司教叙階式にはとうとう行くことができなかったが、参加者から詳細な様子を聞くことができた。また別の人には、写真も提供していただいた。直接参加にはかなわないが、それでも雰囲気はうかがうことができた。
▼そういうわけで、先週の写真は送っていただいた叙階式の写真を掲載している。「フェリー太古」については、また機会があれば紹介したい。この船は夜11時30分には方を出港し、6時間かけて青方、9時間かけて福江に到着する。ずいぶん長い航海だと思うかもしれないが、6時間睡眠すると思えば、上五島の青方には実際にはロスなく到着することになる。
▼このフェリーを活用するとしたらこういうプランだろう。上五島を出発し、長崎(または佐世保)での予定をこなす。今回のように大分に向かってもよい。夕方に福岡に移動し、食事と、ショッピングを楽しむ。博多港のすぐそばには入浴施設があるので(調査済み)、ここでゆっくり疲れを取り、船に乗り込む。
▼上五島で降りる人は、朝6時に青方で下船する。さらに旅を続けるなら、福江に朝9時に下船して、レンタカーを借りる。この際、三菱自動車の電気自動車「アイ・ミーヴ」を借りるのが良い。電気自動車の特性を試すまたとない機会になる。
▼上五島から出発したと仮定しているので、上五島に戻るために11時50分福江発のフェリーか、または夕方の16時30分のジェットフォイルに乗船し、奈良尾で下船する。仮に鯛ノ浦から長崎に出ていたとしても、その後は何とかなるだろう。何とかならなかったらお許しを。

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新企画今週の1枚
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第148回目。予定では、霊名のお祝いの様子。
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