当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/190901.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2019/9/1(No.1020)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
お返しのできない人が近くにいるはずです
‥‥‥†‥‥‥‥
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」(14・12)人を呼ぶことが喜びという人もきっとおられると思います。誰をもてなすことが、イエスの歩いた道に叶うのか考えましょう。誰が私にとってもてなす人かが見えてくると、私が本当に使うべき時間やお金も見えてくると思います。
わずかの時間ですが、実家で夏休みを過ごしてきました。上五島で赴任していたとき、車で走って30分の距離でしたが、そんな赴任時代でも、実家に長期滞在することはありませんでした。上五島に赴任していたときは「泊まって帰れば?」としばしば言われましたが、晩ご飯を食べて帰ることが多く、なかなか泊まって帰りませんでした。
理由があります。赴任している教会で何事かが起これば、すぐに駆けつけなければなりません。それを考えると戻っていたほうが都合が良かったわけです。むしろ今のように、実家を離れたところに赴任しているときのほうが泊まって帰るので喜ばれます。それでも年に三回も四回もは顔を出せないのが実情です。
家族の誰かをおささげすると、現実的にはこのような体験を受け入れなければなりません。たまに実家に帰ってきて、泊まってくれるのは嬉しいわけですが、すぐトンボ返りしてしまいます。それなのに家族はつねに「向こうで頑張りなさい」と送り出してくれます。その思いを背負って、派遣された教会で、皆さんが家族と思って働いています。目に見える形では家族に孝行できませんので、派遣された教会の人々を家族と思って、司祭にできるお世話をしています。
今年最初の帰省でしたが、田平教会で元気にしているところを見せることができて良かったと思っています。司祭や修道者になると、家族は近くて遠いと実感します。置かれた場所で出会う人が家族です。病人を見舞いながら、年取っていく親のことを思い出して、親に接するように接してあげたいし、兄弟同士励まし合うことを思い出して、可能な限り人々を励まし続けます。五島の家族にできないことを、なるだけ赴任先でできたらなぁというのが私の思いです。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」(14・12)イエスが招いた人々はお返しのできない人々でした。「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」(14・13)
体が不自由でなければならないとか、そういうことではありません。お返しのできない人を、あなたたちはもてなしなさいと言っているわけです。たとえば命に関わる場面でお世話をすることは、お返しのできない人にもてなしをしたことになると思います。
人を神の子とする洗礼の秘跡、命の危険にさしかかっている人を強め励ます病者の塗油、決して誰にも打ち明けられない罪を赦す赦しの秘跡。これらの秘跡を執り行うことは、お返しのできない人をイエス・キリストの身分でもてなすことになります。司祭は秘跡を通して、お返しのできない人と向き合うことができます。
信徒はどうでしょうか。信徒も、お返しのできない人をもてなす方法を考えなければなりません。「放蕩息子のたとえ」が役に立つでしょう。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」私たちの身の回りに、教会とのつながりがなくなって、生きているのに死んでいる状態の人、教会とのつながりを諦めてしまって「いなくなっている人」がいないでしょうか。彼らを教会との交わりに連れ戻すことが、信徒の皆さんにとってお返しのできない人をもてなすことになります。ほかにも、海外への支援も、お返しのできない人へのもてなしにつながります。
私たちは、イエスの呼びかけに柔軟に対処すべきです。「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」そう言われて何も考えが及ばないというのは、柔軟さが欠けていると考えるべきです。イエスの言葉が今日も生きるために、私たちはイエスに遣わされた者として生きているのです。イエスの言葉を現代によみがえらせる。これが私たちにとっての「お返しのできない人をもてなすわざ」です。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第23主日(ルカ14:25-33)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼少し前に沖縄の高校生が財布をなくし、見ず知らずの男性がお金を貸してくれて、その恩人と再会してお礼を言った話が取り上げられていた。とても美しい話だ。「お返しのできない人をもてなす」ということは、どんな場面でも美しいものだ。
▼きっと「お返しのできない人」に示した善意は、神様が報いてくださるのだろう。神にはその義務はないが、神の御心に叶う善意には、神も喜んで報いてくださるのではないだろうか。それがどんなに小さなわざであっても、神が報いてくださるときには溢れるほどにはかりをよくして、報いてくださるだろう。
▼お返しのできない人へのもてなしは、簡単にできるものではないが、お返しのできない人へのもてなしに気持ちが向かえば、同じ方向で私たちはイエスと出会うのだと思っている。イエス・キリストを送ってくださった神は、お返しのできない人間を憐れんでくださったのだから。
▼大人になると、お返しのできない人へのもてなしが純粋にできないようになるのかも知れない。計算してしまって、純粋なもてなしに影を差すことになる気がする。いつもイエス・キリストを人類に使わしてくださった父なる神が、私たちの模範である。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第627回目。雨で何も撮れそうにないが、故郷の風景を何か一枚。撮れてるかな?
ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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(ルカ14:1,7-14)
お返しのできない人が近くにいるはずです
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「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」(14・12)人を呼ぶことが喜びという人もきっとおられると思います。誰をもてなすことが、イエスの歩いた道に叶うのか考えましょう。誰が私にとってもてなす人かが見えてくると、私が本当に使うべき時間やお金も見えてくると思います。
わずかの時間ですが、実家で夏休みを過ごしてきました。上五島で赴任していたとき、車で走って30分の距離でしたが、そんな赴任時代でも、実家に長期滞在することはありませんでした。上五島に赴任していたときは「泊まって帰れば?」としばしば言われましたが、晩ご飯を食べて帰ることが多く、なかなか泊まって帰りませんでした。
理由があります。赴任している教会で何事かが起これば、すぐに駆けつけなければなりません。それを考えると戻っていたほうが都合が良かったわけです。むしろ今のように、実家を離れたところに赴任しているときのほうが泊まって帰るので喜ばれます。それでも年に三回も四回もは顔を出せないのが実情です。
家族の誰かをおささげすると、現実的にはこのような体験を受け入れなければなりません。たまに実家に帰ってきて、泊まってくれるのは嬉しいわけですが、すぐトンボ返りしてしまいます。それなのに家族はつねに「向こうで頑張りなさい」と送り出してくれます。その思いを背負って、派遣された教会で、皆さんが家族と思って働いています。目に見える形では家族に孝行できませんので、派遣された教会の人々を家族と思って、司祭にできるお世話をしています。
今年最初の帰省でしたが、田平教会で元気にしているところを見せることができて良かったと思っています。司祭や修道者になると、家族は近くて遠いと実感します。置かれた場所で出会う人が家族です。病人を見舞いながら、年取っていく親のことを思い出して、親に接するように接してあげたいし、兄弟同士励まし合うことを思い出して、可能な限り人々を励まし続けます。五島の家族にできないことを、なるだけ赴任先でできたらなぁというのが私の思いです。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」(14・12)イエスが招いた人々はお返しのできない人々でした。「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」(14・13)
体が不自由でなければならないとか、そういうことではありません。お返しのできない人を、あなたたちはもてなしなさいと言っているわけです。たとえば命に関わる場面でお世話をすることは、お返しのできない人にもてなしをしたことになると思います。
人を神の子とする洗礼の秘跡、命の危険にさしかかっている人を強め励ます病者の塗油、決して誰にも打ち明けられない罪を赦す赦しの秘跡。これらの秘跡を執り行うことは、お返しのできない人をイエス・キリストの身分でもてなすことになります。司祭は秘跡を通して、お返しのできない人と向き合うことができます。
信徒はどうでしょうか。信徒も、お返しのできない人をもてなす方法を考えなければなりません。「放蕩息子のたとえ」が役に立つでしょう。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」私たちの身の回りに、教会とのつながりがなくなって、生きているのに死んでいる状態の人、教会とのつながりを諦めてしまって「いなくなっている人」がいないでしょうか。彼らを教会との交わりに連れ戻すことが、信徒の皆さんにとってお返しのできない人をもてなすことになります。ほかにも、海外への支援も、お返しのできない人へのもてなしにつながります。
私たちは、イエスの呼びかけに柔軟に対処すべきです。「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」そう言われて何も考えが及ばないというのは、柔軟さが欠けていると考えるべきです。イエスの言葉が今日も生きるために、私たちはイエスに遣わされた者として生きているのです。イエスの言葉を現代によみがえらせる。これが私たちにとっての「お返しのできない人をもてなすわざ」です。
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▼少し前に沖縄の高校生が財布をなくし、見ず知らずの男性がお金を貸してくれて、その恩人と再会してお礼を言った話が取り上げられていた。とても美しい話だ。「お返しのできない人をもてなす」ということは、どんな場面でも美しいものだ。
▼きっと「お返しのできない人」に示した善意は、神様が報いてくださるのだろう。神にはその義務はないが、神の御心に叶う善意には、神も喜んで報いてくださるのではないだろうか。それがどんなに小さなわざであっても、神が報いてくださるときには溢れるほどにはかりをよくして、報いてくださるだろう。
▼お返しのできない人へのもてなしは、簡単にできるものではないが、お返しのできない人へのもてなしに気持ちが向かえば、同じ方向で私たちはイエスと出会うのだと思っている。イエス・キリストを送ってくださった神は、お返しのできない人間を憐れんでくださったのだから。
▼大人になると、お返しのできない人へのもてなしが純粋にできないようになるのかも知れない。計算してしまって、純粋なもてなしに影を差すことになる気がする。いつもイエス・キリストを人類に使わしてくださった父なる神が、私たちの模範である。
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今週の1枚
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第627回目。雨で何も撮れそうにないが、故郷の風景を何か一枚。撮れてるかな?
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† 神に感謝 †