こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(ルカ14:1,7-14)お返しのできない人が近くにいるはずです

2019-08-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/9/1(No.1020)
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年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
お返しのできない人が近くにいるはずです
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「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」(14・12)人を呼ぶことが喜びという人もきっとおられると思います。誰をもてなすことが、イエスの歩いた道に叶うのか考えましょう。誰が私にとってもてなす人かが見えてくると、私が本当に使うべき時間やお金も見えてくると思います。

わずかの時間ですが、実家で夏休みを過ごしてきました。上五島で赴任していたとき、車で走って30分の距離でしたが、そんな赴任時代でも、実家に長期滞在することはありませんでした。上五島に赴任していたときは「泊まって帰れば?」としばしば言われましたが、晩ご飯を食べて帰ることが多く、なかなか泊まって帰りませんでした。

理由があります。赴任している教会で何事かが起これば、すぐに駆けつけなければなりません。それを考えると戻っていたほうが都合が良かったわけです。むしろ今のように、実家を離れたところに赴任しているときのほうが泊まって帰るので喜ばれます。それでも年に三回も四回もは顔を出せないのが実情です。

家族の誰かをおささげすると、現実的にはこのような体験を受け入れなければなりません。たまに実家に帰ってきて、泊まってくれるのは嬉しいわけですが、すぐトンボ返りしてしまいます。それなのに家族はつねに「向こうで頑張りなさい」と送り出してくれます。その思いを背負って、派遣された教会で、皆さんが家族と思って働いています。目に見える形では家族に孝行できませんので、派遣された教会の人々を家族と思って、司祭にできるお世話をしています。

今年最初の帰省でしたが、田平教会で元気にしているところを見せることができて良かったと思っています。司祭や修道者になると、家族は近くて遠いと実感します。置かれた場所で出会う人が家族です。病人を見舞いながら、年取っていく親のことを思い出して、親に接するように接してあげたいし、兄弟同士励まし合うことを思い出して、可能な限り人々を励まし続けます。五島の家族にできないことを、なるだけ赴任先でできたらなぁというのが私の思いです。

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」(14・12)イエスが招いた人々はお返しのできない人々でした。「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」(14・13)

体が不自由でなければならないとか、そういうことではありません。お返しのできない人を、あなたたちはもてなしなさいと言っているわけです。たとえば命に関わる場面でお世話をすることは、お返しのできない人にもてなしをしたことになると思います。

人を神の子とする洗礼の秘跡、命の危険にさしかかっている人を強め励ます病者の塗油、決して誰にも打ち明けられない罪を赦す赦しの秘跡。これらの秘跡を執り行うことは、お返しのできない人をイエス・キリストの身分でもてなすことになります。司祭は秘跡を通して、お返しのできない人と向き合うことができます。

信徒はどうでしょうか。信徒も、お返しのできない人をもてなす方法を考えなければなりません。「放蕩息子のたとえ」が役に立つでしょう。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」私たちの身の回りに、教会とのつながりがなくなって、生きているのに死んでいる状態の人、教会とのつながりを諦めてしまって「いなくなっている人」がいないでしょうか。彼らを教会との交わりに連れ戻すことが、信徒の皆さんにとってお返しのできない人をもてなすことになります。ほかにも、海外への支援も、お返しのできない人へのもてなしにつながります。

私たちは、イエスの呼びかけに柔軟に対処すべきです。「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」そう言われて何も考えが及ばないというのは、柔軟さが欠けていると考えるべきです。イエスの言葉が今日も生きるために、私たちはイエスに遣わされた者として生きているのです。イエスの言葉を現代によみがえらせる。これが私たちにとっての「お返しのできない人をもてなすわざ」です。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日(ルカ14:25-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼少し前に沖縄の高校生が財布をなくし、見ず知らずの男性がお金を貸してくれて、その恩人と再会してお礼を言った話が取り上げられていた。とても美しい話だ。「お返しのできない人をもてなす」ということは、どんな場面でも美しいものだ。
▼きっと「お返しのできない人」に示した善意は、神様が報いてくださるのだろう。神にはその義務はないが、神の御心に叶う善意には、神も喜んで報いてくださるのではないだろうか。それがどんなに小さなわざであっても、神が報いてくださるときには溢れるほどにはかりをよくして、報いてくださるだろう。
▼お返しのできない人へのもてなしは、簡単にできるものではないが、お返しのできない人へのもてなしに気持ちが向かえば、同じ方向で私たちはイエスと出会うのだと思っている。イエス・キリストを送ってくださった神は、お返しのできない人間を憐れんでくださったのだから。
▼大人になると、お返しのできない人へのもてなしが純粋にできないようになるのかも知れない。計算してしまって、純粋なもてなしに影を差すことになる気がする。いつもイエス・キリストを人類に使わしてくださった父なる神が、私たちの模範である。

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今週の1枚
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第627回目。雨で何も撮れそうにないが、故郷の風景を何か一枚。撮れてるかな?

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年間第21主日(ルカ13:22-30)私の召命どこへ行くにも「片道切符」でした

2019-08-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/8/25(No.1019)
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年間第21主日
(ルカ13:22-30)
私の召命どこへ行くにも「片道切符」でした
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イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(13・23-24)イエスはご自分に従おうとする人々に覚悟を求めます。「狭い戸口から入るように努めなさい」という呼びかけが覚悟を求めるものであるなら、各自が自分に当てはめやすいたとえで、覚悟を問うようにすると今日の福音もより深く理解できるはずです。

ごく最近を含め、生涯記憶に残る忘れ物事件が三度あります。いちばん近いものから始めます。8月21日の田平町ナイターソフトで珍しく「ホームラン」と「二塁打」を打ちました。第一打席も出塁したので「ナイスバッティング」ならぬ「ナイスバット」だったわけです。本来ならこのまま鼻を高くして日曜日の説教の「小ネタ」にできるわけですが、その殊勲のバットを試合後にグランドに忘れてきてしまいました。

不安になり取りに帰ろうかと思ったのですが、すぐに戻れば「忘れ物」と気づかれます。それが嫌で、グランドに残っている人がいないか期待して、メンバーの一人に電話をかけました。この人もグランドをあとにしていましたが取りに行ってくれました。愉快な話が水の泡です。

二つ目は、先週のリュックサック事件ですね。侍者を連れて天草の教会巡礼旅行に出かけたときのことです。車三台に分乗して、島原の口之津からフェリーで車を運び、天草の鬼池港に渡し、上陸後一時間走った場所に崎津教会があります。渡辺主任神父様の貴重なお話を聞き、信徒会館をお借りして昼食を取り、教会を背景に集合写真を撮りました。

帰りながら、岬に立つ聖母を眺め、大江教会では純心聖母会のシスターに教会の説明をしてもらい、最後に大江教会のふもとにある「ロザリオ館」という資料館を訪ねて鬼池港に戻りました。順調にきた旅行日程でしたが、一人が「リュックサックが見つからない」と言い出すのです。目の前のフェリーに乗り込もうという時に忘れ物です。話の流れでお気づきかと思いますが、リュックを忘れたのは子供ではなく、中田神父であります。

ロザリオ館の職員に電話してみますが「見つからない」との返事。大江教会のシスターに連絡するも「ないですね~」と力ない返事。シスターは自分のことのように心配してくれて崎津教会にも電話連絡。「崎津にもありませんでした。」15人の巡礼グループのうち13人はフェリーに乗せ、あきらめが付くまでと中田神父と同伴の典礼委員長で来た道を引き返しました。

そこへシスターから電話。「崎津では集合写真か何か撮りましたか?玄関先に無造作に置いてあったそうです。今は預かって、ロザリオ館の前でお渡しできます。」これからはシスター方と天草に足を向けて寝ることはできなくなりました。

最後は、大学生時代。慶応大学の通信の学生だったので、夏のスクーリングで神学校が提携している「トマス寮」に下宿していました。その年のスクーリングも無事に終了。大きな荷物は宅急便で先に五島に送って手ぶらで仲間の神学生と新宿駅に向かいました。何とそこで私が長崎までの特急券と乗車券がないと言いだしたのです。

隅から隅まで身体を探りましたがありません。結局、同僚にもお金を協力してもらい、再度購入する羽目に。実家に帰り、恐る恐る宅急便の箱を開けると、そこにJRの切符が入っていました。この片道切符は今も記念に残っています。

つねに私の旅行は「片道切符」でした。召命の道も、片道切符でした。前もって往復を用意していても、「復路」は何も分からない旅でした。忘れ物事件もそのことを痛いほど教えてくれています。「つねに片道切符だと思って目の前のことに集中しなさい。」そういう注意を与えてくれていました。

神学校時代、何度も五島から長崎行きの二等フェリー切符を買いました。片道切符でした。大神学校に行くとき、長崎博多間の片道切符を買いました。初めて赴任した浦上教会、その後転任していった教会、現在の田平教会。すべて、後戻りのできない「片道切符」で赴任しました。どんなに過去が懐かしくても振り返らず、片道切符を握りしめて、行った先で結果を出す。それが私の召命の道でした。

すべての人に召命の道があります。後戻りを考えてしまうと、召命は完成しません。つねに片道切符のつもりで、励む。これが、中田神父が考える「狭い戸口から入る」覚悟です。

あなたはイエスに従っていく覚悟を、どのようにたとえるでしょうか。人に話して聞かせることができるくらいに要領よくまとめると、それはあなたの宣教の道具になります。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日(ルカ14:1,7-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼珍しく他の人をボートに乗せて釣りに行った。きっかけは中学生の侍者に「釣り、好きだよね。ボートに乗って釣ってみないか?」と誘ったことだった。すると中学生の侍者は二つ返事で「行きます」と答えた。
▼数日して中学生の保護者が「中学校の友達も行きたいと言っているのですが、誘っても大丈夫でしょうか?」「いいよ」と返事。ちょっと、準備する道具が増えるが、船の上は楽しくなる。22日(木)を予定していたが天候が荒れたので一日ずらして23日(金)に変更。簡単に変更できるところが中学生。
▼半袖半ズボンで待っていたので「長袖長ズボンを用意しなと私は乗せることはできない」と初っぱなからきつく言ってしまった。それでも従ってくれて、いざ出港。少し出たところで仕掛けを準備し、扱い方を説明して練習。
▼現場に移動して釣り開始。40mから50mの場所で海底に仕掛けを落として10mから15m巻き上げる。この繰り返し。最初に侍者の同級生のAくんに当たったらしく、「あっ!」と声を上げるもそれっきり。
▼まもなくBくんに強烈な引き。本人は鯛と思ったようだったが走り方からして青物。無事取り込んでみるとブリの子で長崎では「ヤズ」という大きさの青物だった。すぐにA君が反応。「それ、僕がばらした魚だと思うな」このあとA君は5回連続でばらし、自力ではついに釣ることができなかった。
▼侍者の子は最終的に「ナベタ(学名:イラ)」を釣る。中田神父はキジハタと塩焼きサイズの鯛をかけ、その竿をA君に渡して釣り上げさせた。何とか船頭の務めを果たし、中学生も皆、ボートでの釣りに興奮した釣行だった。

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今週の1枚
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第626回目。中学生は飲み込みが早い。ドラグを緩める理由も十分熟知していた。

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年間第20主日(ルカ12:49-53)火を熱源として持つなら分裂も乗り越えられる

2019-08-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/8/18(No.1018)
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年間第20主日
(ルカ12:49-53)
火を熱源として持つなら分裂も乗り越えられる
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「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(12・49)今週は、イエスがこの地上に投げる「火」について、考えてみたいと思います。

イエスがもたらす「火」を考えるために、「火」についてすでに知っていることをつなぎ合わせたいと思います。まず、「火」は燃えている状態を指しているので、触れようとするものを燃やす力を持っています。海外では、山林で自然に発火し、火災が発生することがあります。

また、火を使って、物の形を変えることができます。鉄は、火によって熱せられ、ものすごい温度の溶けた状態から、いろんな形に変わっていきます。刀を作る鍛冶職人は、火を使って思い通りの刀を作り上げます。

また火は、熱も持っていますので、近くにいる人から遠くにいる人まで、熱を伝えます。適切な距離にいれば、熱の恩恵を受けますが、近すぎるとやけどします。その他にもあるかも知れませんが、おおまか、こうした特徴を火は持っているわけです。

今挙げたような特徴を当てはめて、イエスがもたらす「火」を考えてみましょう。イエスが投ずる「火」には、触れようとするものを燃やす意味合いはあるでしょうか。聖書の出来事を探ってみましょう。

まず思い出されるのは、聖霊降臨の出来事です。使徒言行録第1章で、聖霊が弟子たちに注がれた時、炎のような舌の形をして、弟子たちに聖霊が降ったとされています。

ここでは、ものを燃やす火ではありませんが、弟子たちの心を燃やして、宣教へと駆り立てる火として働いています。イエスの投ずる火は、人の心を燃やす働きがあります。

また、物の形を変える火の働きはどうでしょうか。ここでは、いくつかの秘跡を考えてみましょう。洗礼の秘跡は、人を神の子とする働きがあります。また堅信の秘跡は、洗礼の恵みを強め、聖霊の七つの賜物で大人のカトリック信者に強めます。さらに叙階の秘跡は、もう一人のキリストと言われるほど、叙階を受ける人をイエスの生き方、働き、恵みを人々に分け与える者に変えます。

ここまで考えると、イエスの投ずる火は、秘跡の恵みとなって人を今までとは違った存在に変える力を持っていることが分かります。他のどんな力も、人を神の子に変えることはできません。イエスが、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と仰ったことは、秘跡の中でとくに当てはまります。

火は、同時に熱も伝えることを考えました。イエスが投じる火に、同じ特徴は見られるでしょうか。イエスによって火が投じられ、その火によって変えられた人が、だれかにその熱を伝えることができます。近くにいる人はより大きな熱意を伝えますし、遠くにいる人にも、何が起こっているのか知りたいと感じるような熱意を伝えることができます。イエスの投ずる火は、熱を伝えることにも当てはまっているのです。

ところで、イエスが投ずる火は、「分裂」をもたらすことにもなると仰います。この「分裂」は、熱を伝えるたとえを考えると少し分かりやすくなるかもしれません。もし、家族の中でイエスの火によって熱意を与えられ、イエスに変えてもらった生活に喜んで身を置く人と、そうでない人がいるとしたらどうでしょうか。

イエスの火を受け入れた人は、熱心にイエスの生き方を取り入れていきますが、同じ家族の人がイエスの火を耐えられない熱さだと嫌うなら、そこにはどうしても分裂が生じてしまうでしょう。

分裂は、イエスの火を喜んで受け入れるか嫌うかで生じます。イエスは、分裂が生じることを予見しています。イエスの火を嫌って、分裂した人々はどうなるのでしょうか。とくに家族の中で、分裂してしまった場合はどうなるのでしょうか。

わたしは、イエスの火を受け入れるために、長く時間を必要とする人もいると考えました。家族の中でさえ、今はイエスの火を受け入れられない人が現れて、分裂してしまいます。けれども、イエスの火はどんな人にも必要な火です。その人の中で熱源となって、その人を動かすからです。

私の知っている家族は、純心高校に通ったことでお嬢さんが先に一人だけ洗礼を受けました。その人はのちにシスターになりました。長い時間をかけて、父上が、母上が、最終的には弟さんが、洗礼を受けました。イエスの投じた火が、その人を長い長い時間かけて温めました。その間親子の関係は分裂に見えたかも知れませんが、最後は家族のすべてに必要な火だったと理解できたのです。

今は受け入れられない家族がいても、時間をかけて、イエスの投ずる火によって、変えられ、動かされることを願いたいと思います。「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(12・53)とあります。分裂は辛い現実ですが、距離ができたことが、イエスの火を理解できるきっかけになるかもしれません。

わたしたちの心と体は、イエスの投ずる火によって神の望む形に変えられ、イエスの火が自分を動かす熱源となります。イエスの投ずる火によって生かされていることに感謝できる人でありたいと思います。そして、周りの人にイエスを感じさせる熱源となれるように、このミサの中で祈り求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日(ルカ13:22-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼最終的に責任を持つ人と、最終的な責任を負わなくてよい人とは違う。24日にカトリックでない人同士の結婚式を控えているが、18日にはリハーサルを予定している。リハーサルでは「責任は私が取るので、結婚式で間違ったらどうしようとか、心配なさらずに当日臨んでください」と必ず言うことにしている。
▼ただ、その責任を負う人がミスを犯せばそのミスは取り返しが付かなくなる。たとえば、教会での挙式に必要な書類が不備のまま結婚式に臨んだとか、あるいは必要な許諾(主任司祭許可証とか)を得ていない司祭が挙式したとなると、場合によっては結婚式の有効性に疑義が生じることになる。
▼これはたとえだが、責任を持つ人がミスを犯して大笑いを一つ。侍者を連れて(金)(土)の一泊二日で旅行に出た。車三台で、総勢15人。巡礼先は鉄川与助が手がけ、世界遺産集落の教会となった天草の「崎津教会」。当地の主任神父様に貴重なお話をいただき、信徒会館をお借りして昼食もいただいた。
▼この日の最初の訪問地。記念に集合写真を撮って天草の一日巡礼が本格的に始まった。岬のマリア様を見学し、大江教会の巡礼、ロザリオ館で館長の解説まで付けてもらった資料見学。無事に天草の日程を終え、鬼池港からフェリーで天草をあとにしようとしたその時だった。
▼主任司祭が「リュックサックが見つからない」と言い出した。「よく考えてみて。」みんなが心配する。訪ねた場所に電話をかける。いずれも「見当たらない」という悪い返事。これはすべて行程をさかのぼってしらみつぶしに当たるしかない。残りのメンバーはフェリーに乗せ、主任司祭ともう一人が残った。
▼「良い連絡が入る前に、動き出して探さないと帰りの船に乗れなくなる。」返事ももらえないままにもう一度崎津へ。そこへ大江教会に常駐するシスターから電話があった。「青いリュックでしたね?崎津教会の入口に無造作に置いてあったそうです。大江教会にはなかったので、崎津教会に移動してみたら保管してくれていました。」
▼電話の内容で思い出した。崎津教会をあとにするとき、最後に集合写真を撮って帰ろうという話になった。リュックを無造作に地面に置いて集合写真に写り、そのまま車に乗った。「リュックをその場に置いたのを確かに思い出した。」本人の弁である。責任者のミスは取り返しが付かない。

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今週の1枚
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第625回目。拡大図には確かに集合している皆の左後ろに私のリュックが見える。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)現代にあってもわたしは神をあがめる

2019-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/8/15(No.1017)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
現代にあってもわたしは神をあがめる
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暑さが頂点まで達するこの時期に、私たちは聖母の被昇天を祝います。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(1・48)。私たちも「マリアを幸いな者と言う」その人々の一人に加わりたいと思います。

「マリアの賛歌」と呼ばれるルカ1章47節から55節は、前半と後半に分かれると考えられています。前半47節から50節は、マリアの個人的な体験に基づいています。すなわち、「救い主である神」と「わたし」との関係を述べています。

最初に、どんな流れで「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言う」のか、確かめておきましょう。「わたしの魂は主をあがめる」「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」というのは「今」の出来事です。「今」あがめる、たたえるためには、過去に何かがあったはずです。

それが、主の「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」という出来事です。主が先に働きかけた、それにマリアが気づいて主をあがめ、たたえます。

「神が先に人に働きかけ、人が神の働きに気づいてたたえる」この昔から続いてきた偉大な出来事を忘れない人たちがいます。イエス・キリストによって救われた人たちです。イエスの時代にいた人々は、イエスを通して「神が先に働きかけ、人がそれをたたえる」そんな場面を目撃したのです。目撃した人たちは神の働きにあずかった人々を未来に向けて「幸いな者と言う」人々です。

未来に向けて「幸いな者と言う」人々は、イエスと同時代の人々だけではありません。「神が先に働きかけ、人がそれに気づいてたたえる」場面は、イエスの復活後も続いたからです。その大いなるわざは使徒たちによって受け継がれ、さらにのちの時代にも引き継がれていきました。

当然、神が先に働きかけ、人がそれに気づいてたたえる場面を目撃する人たちもそれぞれの時代に現れることになります。

1886年、ラゲ神父様が黒島から三家族、ド・ロ神父様が出津から四家族を横立に移住を促しました。将来の見通しが明るかったから移住を勧めたわけではありません。困難も予想されましたが、田平の地に神様の働きが先にあった。宣教師の神父様たちはそれを感じて信徒に移住を促したのです。

先に移住した人々は、困難を乗り越えてこの地に根を張りました。目に見えない神の働きではあっても、信仰を確かに守り続けることのできる今を神に感謝し、たたえます。やがて神の民は増え広がり、神が先に働きかけて、神の働きに気づいた人々がいたことを後世に伝えるために、聖堂を建設するのです。

神の働きにあずかった人々を未来に向けて「幸いな者」と言う子孫たちの歴史は百年受け継がれてきました。「今から後、いつの世の人も先祖たちを幸いな者と言う」私たちに託された使命だと思います。

先に神の働きがマリアに現れました。マリアは神の働きに気づきました。そして神をあがめます。神の働きにあずかったマリアを幸いだと理解できる人は、自分の生活の中でも先に神が働きかけ、神をあがめるきっかけを与えてくださっていると気づくのです。

あとは、私たちが神の働きにどのように答えるかです。同時に神の働きに答えて神をあがめる素晴らしさを、どのように受け継がせるか考える必要があります。マリアの賛歌を、私はどのように神をあがめ、神の救いを喜びたたえたら良いだろうかと思い巡らしながら唱えましょう。

今を生きる私たちが、神をあがめるマリアの生き方を写し取らなければ、信仰が次の世代に受け継がれることは難しくなります。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日(ルカ12:49-53)
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ちょっとひとやすみ
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▼8月10日(土)の午前に聖母の被昇天の説教を書いた。午後からは8月11日の「年間第19主日」の説教を書く。いかにも綱渡りな準備だ。どうしても聖母被昇天の説教は年間第19主日の説教の前に済ませておきたくて、少し無理をしながら準備した。
▼8月15日はカトリック信徒の家では「ふくれまんじゅう」を作って祝うのが風習である。「酒まんじゅう」みたいなものだ。たいていどこでも「ふくれまんじゅう」と呼んでいるが、長崎市伊王島町では「ぼんと」と呼んでいた。不思議な呼び方だが、理由がある。
▼喜びを表現するのに「盆と正月が一緒に来たような喜びだ」と言うことがある。この「盆と正月」の頭だけ取って、「ぼんと」なのだそうだ。甘い物がなかった時代に、それだけ重宝されていたということだろう。
▼その土地土地に行って、「ふくれまんじゅう」をご馳走になる。味は確かにすばらしい。それでも「家庭の味」が一番だと思っている。母の「ふくれまんじゅう」には祈りが練り込まれていた。単にふくれまんじゅうを作るだけでなく、信仰の伝達を行いながら作っていた。田舎ではこうして信仰が受け継がれていたのである。

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今週の1枚
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第624回目。ふくれまんじゅうが手に入らず。台風通過後に田平教会の聖母一覧。

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年間第19主日(ルカ12:32-48△12:35-40)主人は全財産を管理させる

2019-08-10 | Weblog
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2019/8/11(No.1016)
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年間第19主日
(ルカ12:32-48△12:35-40)
主人は全財産を管理させる
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「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。」(12・42)私はイエスのたとえを、自分自身に当てはめてみました。主人は教区長の大司教様、管理人は主任司祭です。主任司祭は小教区の管理人として選ばれました。主人は管理人が「忠実で賢い人」であることを期待しています。

この前初めてOKホーム&ガーデンに行ってきました。家具の取っ手を買ったのですが、レジで古いものを見せて「この古い取っ手の代わりに今回これを買おうと思っています。大丈夫ですよね?」と何気なく尋ねたのです。

するとレジのお兄さんが、「うーん、どうでしょう?」と返事をします。私は内心「どうでしょうはなかろう」と思ったのですが、すぐに放送で「四番レジにスタッフお願いします」と呼び出しをかけてくれました。

すぐに店員が飛んできました。飛んできた店員が面白い。一人は田平教会の青年、もう一人は西木場教会の青年でした。私と知っていたわけではないでしょうが、「よお!」とあいさつしました。こんなこともあるのですね。

イエスがたとえで示したのは、「時間どおりに食べ物を分配させる」ということでした。ここで言われている「食べ物」を小教区で考えると、「秘跡の恵み」かも知れません。「時間どおり」とありますが、必要な時に、ということでしょうか。

洗礼を受けた人が必要な恵みは、おもに聖体と罪の赦しです。ミサを一年通して欠かさずできているかと言うと、これは不十分かも知れません。今週でも、土曜日の朝ミサは都合によりお休みを予定しています。さらにミサの中では聖体拝領だけでなく聖書朗読と説教があります。ミサはみことばの食卓と聖体の食卓とがあるわけです。みことばの食卓に私の説教は十分奉仕しているでしょうか。これも不十分かも知れません。「忠実で賢い管理人」となるために、これからも生涯努力し続ける必要があります。

洗礼を受けた人のもう一つ重要な恵みは赦しの恵みです。私は、ミサの前に告白場に座る時間が少ないと反省しています。どうしても聖堂に行くまでに時間がかかってしまい、赦しの秘跡を後回しにしていると思います。日曜日もそうですし、平日もそうです。

大きな祝い日の前にはまとまった時間を設けます。このまとまった時間は、まずは皆さんのためですが、同時に主任司祭のためでもあります。主任司祭はこの長い時間を使って、自分自身の糾明と痛悔の時間にもなっているからです。どうぞ、利用して欲しいと思います。

祝い日の前の赦しの秘跡に参加する人、また黙想会の赦しの秘跡に参加する人は、神様が私たちを赦してくださることが恵み深いことだということをゆっくり考える機会にするとよいと思います。私たちは小さなことでもゆるせなかったりしますが、神は私たちを赦すためにご自分の御子さえも差し出したのです。

ですから神の恵みを確実に届ける「忠実で賢い管理人」は、何よりもまず神ご自身です。恵み深いことなのだと、ゆっくり思いを巡らしてみるとよいでしょう。

最後に、「忠実で賢い管理人」に約束された報いは何でしょうか。「確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」(12・44)財産とは何でしょうか。まさか小教区の会計とか、お賽銭とかではないでしょう。「全財産を管理させるに違いない。」全財産とは何でしょうか。

主任司祭には一つの答えがありますが、答えを言わずに終わろうと思います。説教は答えをすべて言うだけが説教ではありません。考えさせ、その人が答えにたどり着いたり、その人が道を切り開いたりするために聖書をひもとき話すのが説教です。

「主人は彼に全財産を管理させるに違いない。」非常に重みのある言葉です。説教の最初に触れたように、教区長が管理人として主任司祭を小教区に派遣しました。「忠実で賢い管理人」に全財産を管理させます。私も、全財産を責任を持って、誠実に管理したいと思っています。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼台風が気になる。15日から妹夫婦が五島の実家に帰省予定だが、果たして飛行機、船は運航するのだろうか。甥っ子に18日に長崎空港を出発する前に会えればと思っているが、それも無事に五島に帰省していればの話だ。
▼田平教会でも台風の動きが気になる。侍者を連れて16日天草に巡礼に出かけたい。だが島原と天草を結ぶフェリーは運航するのだろうか。台風10号に命じる。日本に近づく前に弱い台風になってくれ。
▼8月11日の夜に祝い日前の赦しの秘跡の時間を組んだ。お知らせは田平小教区限定で実施した。しかしどこで聞きつけたのか、違う教会からも来ているような気がする。来年からは、地区全体にお知らせしてみようか。
▼8月9日、長崎に原子爆弾が炸裂した。11時2分、浦上で赦しの秘跡の最中であった。司祭も、信徒も犠牲になった。私は11日の赦しの秘跡の最中、そのことを思い出すと思う。何の予告もなく、秘跡を授けている最中に天に召される。
▼罪の赦しを受けている最中に天に召される。そして、順番を待っている最中に天に召される。考えさせられないだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第623回目。面白そうだからと買ってすでに一年。初めて箱を開けてみた。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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† 神に感謝 †
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年間第18主日(ルカ12:13-21)溢れるほどの持ち物の中にはないのだから

2019-08-03 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/190804.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/8/4(No.1015)
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年間第18主日
(ルカ12:13-21)
溢れるほどの持ち物の中にはないのだから
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「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(12・15)今週のイエスのたとえに思いを巡らすために、この忠告にまず耳を傾けましょう。

それにしても暑いですね。暑さを気にしないようにと思って過ごそうと考えましたが、あるとき勉強部屋にいて気分が悪くなり、首を冷やしました。その時はおかげで少し持ち直しました。あれが熱中症の予兆だったのかも知れません。この暑さです。室内で熱中症にかかる危険も十分ありますから、私がテレビで野球観戦しているところで病院から呼び出しがかかったりしないように、十分健康には気をつけてください。

「フランシスコ」が、8月6日にも長崎県にやって来そうです。驚きました。まさかの「フランシスコ」直撃で、予定が大幅に変更になるかも知れません。いつも通り月曜日の5日には釣りに行こうかなぁと思っていたのですが、「フランシスコ」が来るとなれば、釣りどころではなくなりそうです。話の内容について行けない人は、どうぞついて行けないまま、説教の続きを聞いてください。話が理解できず、どうしても気になる方は、教会役員か、NHKに問い合わせてください。

「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(12・15)私たちは日本語訳からイエスの忠告を考えざるを得ません。原点のギリシア語聖書を理解できないからです。現状ではフランシスコ会訳か、新共同訳聖書からです。ひょっとしたら他の言葉の翻訳であれば、少し見え方が違うかも知れません。

たとえば、同じ箇所から英語で直訳したものを日本語に戻すと、「人の命は、その人の持ち物の満ち溢れの中にはないのだから」となります。この英語の直訳のほうが、私はピンとくるものがあるなと思いました。私たちは「あなたの命は私の手の中にある」という表現を理解できます。相手が自分の命を握っているという意味です。同じように、「人の命は、その人の持ち物の満ち溢れの中にはない」となれば、「人の命を握っているのは、溢れるほどの持ち物なのではない」という意味でしょう。

この表現で、イエスは何を言おうとしているのでしょうか。突き詰めるとそれは、「人の命を握っているのは神なのだ」ということでしょう。エアコン付きの部屋を持っていても、緊急の時に救急車を呼ぶ非常ボタンを取り付けていても、人の命を握っているのはエアコンでも非常ボタンでもなく、神なのです。私たちの命は神の手の中にあるからです。

私たちは神の手の中にある者として日々生きるべきです。つい先ほど、「母のためにミサをお願いします」と家族がミサを依頼に来ました。初金曜日に御聖体を授けに病人訪問に行ったときのお母さんの様子を伝えました。「病院で長期入院をしているにもかかわらず、私が訪ねていく時間は必ず眠らずに起きて待っています。私が祈りをしているあいだ目を合わせて祈りにじっと耳を傾けます。」

そういうことを話すと、家族の方から「少し前に病者の塗油を受けてから、危機を脱してすっかり良くなりました。神父様ありがとうございました。当時は、いよいよのことも覚悟しなければと思っただけに、回復ぶりには驚いています」と喜んでおりました。

私はこの方の生き方は、神の手の中にある者の生き方だと思っています。確かに病院で入院生活をしていますから、病院のお世話を受けて生きている人です。薬や、さまざまな医療に助けられているでしょう。ただそれらは、言わば溢れるほどの持ち物を意味しています。人の命は溢れるほどの持ち物の中にはないのです。医者でさえ、「全力を尽くしました。最後は本人の気力次第です」と言ったりします。「私の手の中にあります」などと決して言わないのです。

この病人は、初金曜日の聖体拝領を何より大切にしている人です。御聖体を待ち望むその姿勢は、「自分が神の手の中にある」ということを忘れない姿です。中には訳あって御聖体を拝領できない病人もいるでしょう。けれども司祭がやって来て、祝福を受けて、自分が神の手の中にあることを確認するのです。

自分の命がどこにあると考えているのか、その違いで人の生き方は違ってきます。倉を壊してもっと大きな倉に穀物をため込み、持ち物の満ち溢れの中に命を置くのか、この世の持ち物はこの世にいる仲間と分け合ったり施したり、礼拝のためにおささげしたりして、自分をつねに神の手の中に置くのか、大きく違ってきます。神から「愚かな者よ」と呼ばれることだけは避けたいものです。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日(ルカ12:32-48△12:35-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼あまり褒められた話ではないが、「教会の祈り」(時課の典礼)を唱えていて、「第一唱和」を終えるときに「栄唱」が指示されていないことがたまにあって、「なぜだろう」と本気で思っていた。最近解決した。
▼本当に恥ずかしい話だが、「第二唱和」が「第一唱和」の続きである場合は、「栄唱」が指示されていない。ああそうだったのだと最近気づいた。まったく気づかずによく唱えていたものだと呆れる。
▼「教会の祈りの唱え方を説明してください」という人がいるので、説明してあげたら意外と説明することで自分が理解できていなかったことがあったと気づく。理解してはいたが、面倒に思ってサボっていたことも説明をしたことでもう一度正確に唱えるようにした部分もあった。
▼長く務めを果たしていると、25年に一度しか出会えない人や、50年に一度しか出会えない人に出会うものだ。「教会の祈りを教えてください」など、一生現れるとは思えない部類の人だ。
▼その人は私の説明でおおよそのことを理解したと思うが、その後自分で教会の祈りを唱えるのだろうか。また、25年に一度しか会えない人、50年に一度しか会えない人は、今後新たに現れるだろうか。

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今週の1枚
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第622回目。昼食から帰って。パソコンが壊れたか?とこの画面を見て思った。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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