こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(ルカ9:51-62)イエスをまっすぐ見つめ、後ろを振り向かない

2016-06-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/06/26(No.834)
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年間第13主日
(ルカ9:51-62)
イエスをまっすぐ見つめ、後ろを振り向かない
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今週の福音朗読は「弟子の覚悟」を問う場面が選ばれました。神の救いのわざを目の当たりにした人にイエスは覚悟を求めます。わたしたちもイエスの求めに答えることにしましょう。

最近司祭館で食器が見つかり、騒ぎになりました。わたしの歓迎会の日の晩、何人かのお父さんたちが司祭館に寄って、コップとか急須とかを使って帰ったのです。わたしは後片付けの様子を見ませんでした

水曜日に賄いさんが来てこう言ったのです。「いつも使っている急須がありません。どこに仕舞いましたか?」「知らないよ。」賄さんはわたしを疑っています。「そう言えば歓迎会のあとに食堂を使ったなぁ」と身の潔白を証明するのですが、それだけの数のコップや急須が消えるはずがないと、ますますわたしへの疑惑が深まっていました。

先週です。賄いさんが急須やコップが見つかったと報告してきました。なんと食洗器の中に2ヶ月、ずっと置いたままだったのです。わたしはこの2ヶ月白い目で見られたことを謝ってほしい気分でしたが、それにしても台所の食洗器を開けなかったのには驚きました。

聞くところによると食洗器は6年間使ってないそうです。「急須行方不明事件」が発生したおかげで食洗器が使えるのだと分かり、賄さんは急須ほかを食洗器に入れて帰ったお父さんたちに感謝しております。

伊万里マリーナでお金を払ってボートを借り、一人で伊万里湾を荒らしてきました。場所の見当を付け、タイラバでの釣りもしてみました。初めは小アジと間違えそうなサバがかかり、当然リリースすべき大きさでしたが、お金払ってボート借りて、もしもこれ一匹だったらという恐れがあったので、リリースしませんでした。

最終的にはスズキとコチも釣りました。スズキは竿がしなりまして、「オレの腕で釣れないはずがなかろうもん」とここまではよかったのですが準備が悪かった。タモ網を持って行ってなかったためにバラしてしまい、手元に残ったのは手のひらくらいの鯛2匹と小アジくらいのサバ2匹でした。もっと腕を上げてからまた報告します。

福音朗読に戻りましょう。イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(9・57)と言う人がいました。イエスの答えは、この人に対してだけではなく、従っている弟子たちにも言っているものだと考えるべきでしょう。

イエスがこの人に答えたのは、どんな生き物にも神が用意してくださった安らぐ場所があるけれども、わたしとわたしに従う者たちには安らぐ場所は期待してはならない、そんな厳しい宣教の旅であるということでした。すでにイエスに従っていた弟子たちにとっても、身の引き締まる言葉だったしょう。

また別の人にイエスが「わたしに従いなさい」と呼びかけると、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と条件を出してきました。家族の葬りは、何を置いても優先される出来事のはずです。従っていた弟子たちも、「それは致し方ない」と考えたことでしょう。

しかしイエスの宣教活動は一刻を争うものでした。イエスが救い主であると気付いた人は、父の葬りも理由にならないのです。家族の中でイエスが救い主だと理解できている人が自分一人であるならば、父の葬りはその他の家族に任せよ、そこまでの覚悟をイエスは求めるのです。

何かのプロフェッショナルを自認している人は、しばしば家族の最期に立ち会うことができないと言います。例えばプロスポーツ選手がそうです。そして家族も、家のことにかまっていないで、プロとしての仕事を立派に果たして欲しいと願うそうです。イエスに生涯を委ねた人は、その道のプロフェッショナルですから、イエスの招きを最優先するのです。そして家族もその選択を応援してくれるはずです。

また、別の人も言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(9・61)この願いも譲れないように聞こえます。弟子たちにも家族のいる者がいたでしょう。イエスはどのように答えるだろうか。注目していたのではないでしょうか。

イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9・62)と言われました。このイエスの答えを思い出させる面白い話を聞かせてもらいました。

長崎の神学校でお世話になった小島神父さまに、引退後聞いた話ですが、ある親子が神学校の入学式に臨むために長崎に出かけていきました。両親は親元を離れるわが子が、きっと不安でたまらないだろうと心配して付き添っていたのですが、建物の一階で無事に入学式を終えると、生徒は勉強部屋や小聖堂のある二階に上がっていきます。

その子は二階に上がるときに両親にこう言ったそうです。「入学式が終わったから帰っていいよ。」そう言って一度も両親を振り向くことなく、同級生や先輩たちと二階に上がっていきました。ちょっとくらい後ろを振り向くかと思っていた両親はガッカリして帰ったということです。彼が無事に司祭になったのか、その後のことは分かりません。

神学院に入学したこの新入生は、ルカ福音書の今日の箇所を知っていたのでしょうか。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9・62)知らなかったかもしれません。けれども、後ろを振り向くことも忘れるほど、入学式の中でイエス・キリストと出会ったのだと思います。神との出会いが強烈であればあるほど、自分の前を歩くイエスに引き寄せられていくのではないでしょうか。

誰もが、父母を持っています。誰もが家族を持っています。けれども福音宣教において大きな実りを得るためには、後ろを振り向くのを忘れるほどイエスに引かれて行く人が必要なのです。イエスをまっすぐ見つめてついて行く司祭になってみたいという子供たち、シスターになってみたいという子供たちが必要なのです。田平教会に手を挙げてくれる子供たちがいるなら、わたしは最後まで応援します。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼ゆうちょダイレクト。利用している人もいるかもしれないが、送金機能が重宝する。直接郵便局に行く必要もないし、ATMに設定されているような送金限度額を気にする必要もない。最近ゆうちょダイレクトに頼りっきりなのでよく知らないが、ATMによる送金限度額は10万円程度ではないか。
▼少なくとも長崎教区では、「教区費」というものを小教区から振り込む必要がある。教区費は中規模の小教区ともなれば月額10万円はすぐに超える。通常は窓口からの送金になるわけだが、主任司祭は面倒くさがり屋が多いわけで、年間12回も窓口に送金のお願いに行きたくはない。
▼ほかにも教区への送金が必要なものがいろいろある。年に6回の特別献金(例えば「聖ペトロ使徒座への献金」)、厚生年金の掛け金、司祭年金、聖職者費。さまざまあってそれを定期的に窓口送金、ATM送金いずれかで処理するが、少なくともわたしは「面倒くさい」と感じる。
▼そこで「ゆうちょダイレクト」だ。パソコン上で処理が完了する。振り込み用紙のように毎回払い込み人の住所氏名を書く必要もない。「振り込みに行かなきゃ。しまった、もう午後4時過ぎた!」このように時間に縛られることもない。基本的に面倒くさがり屋の長崎教区司祭にはぴったりだと思っている。
▼実は「ゆうちょダイレクト」機能が、どんな通帳に付加できるのかを調べたり尋ねたりしたことがなかったので、これまでは個人の通帳に付加していたゆうちょダイレクトで送金し、適当なタイミングで送金した分を教会名義の通帳から引き出していた。
▼ところが近くの郵便局窓口で思い切って尋ねてみると、説明すらなく、「この申込用紙で申し込んでポストに投函してください」という返事だった。説明くらいしてくれてもいいのにと思ったが、結果的に「カトリック○○教会」名義の通帳でも問題なくゆうちょダイレクト機能が付加できることが分かった。
▼一つ問題があるとすれば、教会名義の通帳は数年経てば代表者が変更になるということだ。今はわたしが代表者になっているカトリック田平教会名義の通帳だが、代表者が代わったら、ゆうちょダイレクトの変更届が必要になるだろう。ずっと先だが。

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今週の1枚
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第441回目。facebookでは公開済みだが、初めて伊万里湾でボートを出してみた。

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年間第12主日(ルカ9:18-24)苦しみを経て初めて知ることのできる絆がある

2016-06-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/06/19(No.833)
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年間第12主日
(ルカ9:18-24)
苦しみを経て初めて知ることのできる絆がある
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「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」ペトロの信仰告白が今週取り上げられました。ペトロは立派な信仰を言い表しましたが、それは十分だったのでしょうか、わたしたちも信仰の心構えを学ぶことにしましょう。

最近は無理ができなくなりました。1日1つ仕事を入れると、疲れてそれ以上はまともな仕事ができない日が出てきました。昔は3つ4つ会議を入れても平気だったし、日曜日に一番ミサ二番ミサ、結婚式、飛び込みでの納骨、評議会と重なったとしても平気だったのです。

ところが先週水曜日、平戸地区の司祭会議に午前中出席し、昼過ぎに帰ってきたら、ぐったりして何もする気が起こらないのです。どうしようもなかったので畳に大の字になってウトウトしていたら玄関のチャイムが鳴りました。郵便配達員でした。荷物の受け取りにやっとの思いで玄関に立つ有様です。以前と比べて粘りがなくなったと思います。

皆さんも経験されたことがあるかもしれませんが、「口だけは達者」という人がいます。物を運ぶ力もない、足もおぼつかない、けれども言うことだけは人の何倍も元気だという人を見たことがあるかもしれません。そこから見えてくるのは、「言うのは簡単だ」ということです。

福音朗読では、イエスが弟子たちに問いかけています。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(9・20)まずは言葉で、ご自分のことを何者だと考えているかを尋ねました。弟子たちは、どんな言葉でも選ぶことができました。言うだけであれば、どんな言い方もできたわけです。

そんな中で、ペトロは立派な言葉でイエスへの信仰を表しました。「神からのメシアです。」(9・20)これ以上ない、満点の回答でしょう。ただし、ペトロの答えは試練をくぐって清められる必要がありました。鉄が、火で精錬されて鋼になるように、ペトロの信仰、ペトロの言葉は、苦しみという炎を経て揺るぎないものに変えてもらう必要があったのです。それがイエスの死と復活の予告でした。

言葉だけの絆ではなく、苦楽を共にした人の絆は強いものです。「愛しているよ」と一日20回言葉をかけることも夫婦の絆かもしれませんが、言葉数よりも共に苦しみ、共に喜び合う夫婦の絆のほうがより強いはずです。

そのように、イエスは弟子たちに言葉だけが踊っている信仰ではなくて、苦しみを経て精錬された信仰を求めるのです。ペトロは苦しみを経て初めて、自分が口にした信仰「神からのメシアです」が本物に高められていくのでした。

イエスご自身予告した通り、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する」(9・22)お方です。ペトロは弟子の頭でありながら、三度イエスを知らないと言い、十字架のもとにとどまることもできませんでした。弟子を代表して「神からのメシアです」と答えたのに、受難と死の予告にさえしり込みしたのです。

ペトロの信仰は十分立派なものでした。しかし言葉で表した信仰は、苦しみを経て精錬され、完成される必要がありました。事実ペトロの信仰はイエスの死と復活によって完成されたのです。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」とも言ったペトロの信仰は、イエスの受難と死という現実に苦しみ、苦しみを経て完成されたのです。

わたしたちの信仰はどうでしょうか。自分の信仰を言葉で言い表すことができるかもしれません。自分も含め司祭たちは叙階の記念に用意した御絵に、しばしば聖書の言葉を引用します。わたしは2通り用意しましたが、そのうちの1つは使徒言行録でペトロとヨハネが宣教活動しないように脅された時に発した言葉です。

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使4・20)どんなに苦しくても、行き詰まっても、見たこと聞いたことを話さないではいられない。わたしもそう考えています。選んだ言葉は、逆境を経て、司祭としての苦しみを味わって、本物になりました。

それぞれが、約束した言葉や誓いの言葉を持っているでしょう。結婚した人々は、「生涯互いに、愛と忠実を尽くすことを誓います」と声に出して誓いました。言葉それ自体も素晴らしいと思いますが、夫婦が苦しみを通った時、重みは増してくるわけです。

また洗礼を受けた人は「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けています。「洗礼を受けると神の命をいただきます」そのように信仰を表明すれば、なぜ日曜日ごとにミサに行くのですか、なぜ十字架にはりつけにされたキリストを信じるのですかと洗礼を受けていない人に事あるごとに聞かれ、答えに苦しみ、逃げ出したくなることもあるでしょう。けれども、そうした苦しみを経て初めて、わたしたちの信仰は金銀よりも価値あるものに変わる、火で試されて清められるのです。

苦しみの先に、命があります。わが子を産んだお母さんは皆、そのことをご存知です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(9・23-24)日々の十字架という苦しみを経て、イエスの言葉はわたしたちに命をもたらす言葉となります。

言葉だけの絆ではなく、苦しみを経て初めて知ることのできる命の絆をイエスと保つべきです。この命、この絆は、日々の十字架を背負うすべての人に保証されています。希望をもって生きてまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
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ちょっとひとやすみ
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▼東京都知事が辞職した。辞職した知事を見て、ふと松坂慶子さんの歌で替え歌が浮かんだ。「これも公務、あれも公務、たぶん公務、きっと公務。」わたしはあの知事がしぶとく居座ってくれたらなぁと思っていた。そうすればわたしが週に3回釣りに行っても「これも公務、あれも公務、たぶん公務、きっと公務」と言い張ることができたのになぁと、残念でならない。もちろんこの通り実行するかは別だが。
▼「火事と喧嘩は江戸の華」だそうだが、これに「選挙」も加えていいかもしれない。都知事選挙はいつも全国民が見守る首長選挙になっている。お金も相当必要だろうが、話題性と、今後の活躍次第では、お金に見合う実を結んでくれることも考えられる。そうであるなら、たとえ急な選挙でも、日本中の注目を浴びて堂々と選挙を戦い抜いた人が職務を担ってほしい。
▼そろそろ、前任地の浜串に顔を出してみようかと考えているところ。理由は2つあって、1つは漁港に係留して出て行ったボートのこと。どうなったかなぁとちょっと気になっている。聞くところでは今は陸揚げされて使うことのないまま保管されているらしい。後任に名義変更をしたのでボートの所有者はわたしではないが、わたしが使わないと誰も使わないらしい。
▼もう1つは、積み残しになっていた仕事のこと。新しい聖櫃が無事に浜串教会聖堂に納められている。この聖櫃をわたしは見ることなく出発してしまったので、ぜひこの目で見たい。だいたいの想像はついているが、この目で見ないとやはり安心できない。それにこの聖櫃のために寄付してくださった方々もいて、写真を準備してもう一度報告をしたいからだ。
▼だがいざ出かけるとなると緊張する。もう2ヶ月も経ったのでよそ者なのだが、気恥ずかしいという思いもある。できればボートを利用できるタイミングで浜串にお邪魔したいが、この時期の天気は気まぐれだ。果たしてどうなることだろうか。

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今週の1枚
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第440回目。教会名義ゆうちょ銀行通帳に「ゆうちょダイレクト」機能を付加。

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年間第11主日(ルカ7:36-8:3)神の無償の恵みにわたしたちも心開く

2016-06-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/06/12(No.832)
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年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
神の無償の恵みにわたしたちも心開く
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今週の福音朗読は「罪深い女を赦す」物語です。罪が赦されるとはどういうことなのか、物語を通して学ぶことにしましょう。

先週の司祭叙階金祝記念ミサは皆さんの熱心なお祈りのおかげで、立派に終えることができました。萩原神父さまもとても喜んでおられ、帰りに皆さんへの感謝と、わたしへのねぎらいも添えてもらいました。ありがたいことです。次は何年後かに、浜崎神父さまのお祝いがあると思います。わたしはその頃には、次の神学生が誕生していればいいなぁと願っております。

さてこちらに赴任する前から飲み続けておりました薬が無くなったので、青洲会病院に薬を処方してもらいに行きました。この先は作り話なので落語だと思って聞いてください。高橋という内科の先生に一通り診察していただいて、聴診器を当てた時に「気管支炎の兆候があります」と言われました。

全く身に覚えがないと返事をしましたら、「最近、誰かの指示を無視したことがありませんか?」と聞かれ、「はぁ、ナイターソフトでコーチが三塁でストップ!ストップ!と言っているのを無視して二塁から一気にホームに帰ったことがあります」と答えました。
「それですよ、それ。」何のことですかと続けると、「それはですね、『言うこと聞かんし炎』という病気です。これからはコーチの指示に従ってください。いいですか?」わたしは返事をしませんでした。

最後に看護師が「先生、お薬を」と言うと先生が「第三の薬を処方しておきましょう」と指示を出すと、「先生、そのお薬はもう処方済みのようです」と看護師が答えたので「では第四のお薬を」「承知しました」というオチでした。九割がた作り話ですが、いかがでしたか。

福音朗読に移りましょう。物語に登場する女性は、「この町に一人の罪深い女がいた」と紹介されています。小さな町であれば、噂は誰もが知っていることでしょう。誰もが、その女性に冷たい視線を向けていたのだと思います。しかし女性は、そうした冷たい視線を一身に浴びながらも、イエスの足元にひれ伏しました。

イエスはこの女性がどんな気持ちを表そうとしているのかご存知だったでしょう。後ろ指さされる生活をしてきた自分であっても、イエスの憐れみにすがることができる。どこかで彼女はそのことを知り、自分がすでに憐れみをかけてもらっていると感じ、感謝の気持ちを表しに来たのです。彼女の行動は、「今からこれだけのことをしますので、赦してください」という態度なのではなくて、「すでに赦してくださっていることに感謝します」という態度だったのではないでしょうか。

先週、萩原神父さまが今週の福音朗読を予感していたかのように、「ゆるしの恵みは、カトリック教会にしかありません。神が人の罪を赦すという驚くべき御業に司祭はたずさわります。こんなにすばらしい仕事はありません。」そう繰り返し語っておられました。赦しは、神のいつくしみの最も発揮される部分と言えるでしょう。神にしかできないいつくしみの業に、人間に過ぎない司祭が関わることができるとは、司祭職はなんとすばらしい道でしょう。

物語を進めましょう。食事の席を設けたファリサイ派の人は、イエスの姿に神のいつくしみを見たはずですが、彼はイエスに心を開くことができません。ファリサイ派の人にとって、罪深い女を近づけることだけでも許しがたい行為だったのです。罪深い人には近づかない。交わる人に線引きをして遠ざける。それが、みずからを宗教上の汚れに晒さない唯一の方法と考えていたからです。

ところがイエスは、罪深い女性が足元に飛び込んでくるのをお許しになったのです。「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(7・38)これは、彼女の罪がイエスのいつくしみによって洗い流され、ぬぐわれ、ついには赦された者として香りを放つようになる姿そのものだと思います。

ファリサイ派の人が神のいつくしみを全く理解しないので、イエスは例えを示されました。現代であれば、一方は250万円、他方は25万円くらいの借金かもしれません。「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」(7・42)彼は正しい答えを返しました。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(7・43)

人はなぜ、正しい答えを出せるのに、正しい行動が取れないのでしょうか。ファリサイ派の人は、イエスとお近づきにはなりたかったのですが、罪深い女のように足元に跪くつもりはありませんでした。女性が示した愛と従順を、正しい立派な行いですと認め、彼女と共にイエスの前に跪く。そこまでイエスに近づくことはできなかったのです。

なぜ正しい答えを出せるのに、正しい行動が取れないのでしょうか。それは神の恵みは無償であると認めないからだと思います。神は正しい人には恵みを与え、罪深い人には恵みを与えない。頭のどこかにそのような考えがあるから、正しい答えを出せても正しい行動が取れないのです。イエスによって明らかにされた「正しい人以上に罪人を憐れみ、いつくしみと恵みで覆ってくださる神」は、認められないのです。

わたしたちはどうでしょうか。罪深い女性の罪を覆うほどの神の赦しの恵みを、認めることができるでしょうか。認めることができないでしょうか。認めることができないかもしれません。教会の決まりから大きく外れている人が神さまの赦しといつくしみをもらうのは虫が良すぎると、思っているかもしれません。

イエスは今日、わたしたちに「神の赦しは無償の恵みです」と示してくださいました。神さまが誰かの罪を寛大に赦してくださったとしても、正しいのは神さまであって、わたしたちではありません。洗礼・堅信・聖体・罪の赦しなど、神が与えてくださる無償の恵みを、わたしたちも心からたたえることができるよう、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(ルカ9:18-24)
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ちょっとひとやすみ
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▼メインのパソコンを支えているハードディスクが故障を抱えているという結論に達し、ハードディスクのクローンを作成して換装した。作業はそう難しいものではないが、「いよいよ換装する必要があるな」と断定するまで無駄な時間を消費したと反省している。
▼きっかけは先月に遡る。パソコンにいつものように電源を入れるがマウスが反応しない。パスワード入力の画面に移るワンクリックができない。マウスがだめならと、キーボードのエンターキーを押すがこれも反応なし。
▼滅多にしないことだが、電源スイッチを長押しして強制的に電源を落とし、再起動するといつものように動いた。だからハードディスクの異常を見落としてしまった。この時点でハードディスクを疑っておけば、無駄なストレスを感じなくてもよかっただろう。
▼次に問題が発生したのは説教作成中だった。司祭館のチャイムが鳴ったので玄関に行って対応して部屋に戻った。するとパソコンがフリーズしている。「何だこれは?」首をひねったが、保存するにもマウスが動かない。だがある程度書いた原稿を取り戻せなくなるのは悔しい。それでも背に腹は代えられず、電源スイッチの長押し。強制的に電源を落として再度立ち上げる。
▼今回はワード2013以上の標準機能でバックアップされたものを利用できた。だがこうした不審なトラブル・ちょっと目を離した隙のフリーズが頻発するようになり、だんだんパソコンの内部を疑い始める。まず考えられるのはハードディスクだ。だがここでも、だましだまし使うことを選んでしまう。
▼しかしだましだましでもハードディスクが言うことを聞かなくなってきた。そのたびに強制的に電源を落とす。何回も繰り返せば、ハードディスクに傷がついても不思議ではない。週に何度かだったトラブルは1日に何度か起こるようになり、しまいには1時間に2度3度パソコンが凍り付き、電源を落とすようになった。
▼ここまできてようやく、「ハードディスクを換装するか」と決心する。デスクトップパソコンの側面のカバーを取り外し、ハードディスクを取り出し、容量が同じでまっさらのハードディスク(なぜこんなものがあるかを説明する暇はない)にそっくりクローンコピーして換装した。
▼今のところ問題なく動いている。だが用心に越したことはない。このパソコンは少なくとも7年は酷使してきたのだから、そろそろ買い替え時である。次はオールインワンのタイプか、あるいは最新のノートパソコンを探しておこう。オールインワンが欲しいな。

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今週の1枚
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第439回目。ハードディスクをクローンしている最中。出来上がり次第換装する。

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年間第10主日(ルカ7:11-17)神のいつくしみは声なき者まで及ぶ

2016-06-05 | Weblog
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こうじ神父
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16/06/05(No.831)
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年間第10主日
(ルカ7:11-17)
神のいつくしみは声なき者まで及ぶ
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年間第10主日C年は、「やもめの息子を生き返らせる」という場面が選ばれました。この物語は、人間に対する神の特別ないつくしみを教えてくれます。神のいつくしみが人間のどのような姿に注がれるかを学び、お一人お一人、生活との結びつきを考えてみましょう。

わたしは現在、二つのボランティア団体に関わっています。一つは「カトリック点字図書館」です。点字という印刷物で目の不自由な方に情報をお届けするボランティアです。わたしは点字を読めませんが、自分のお小遣いで寄付を続けて、今も続いています。

司祭になり、浦上教会に赴任したとき、当時のカトリック点字図書館館長橋本宗明さんと後に館長になる高橋秀治さんが司祭館を訪ねて来ました。24年前のことです。この頃ようやく点字もパソコンでプリントできる時代になりまして、わたしは思い切って当時使用していたパソコンを寄贈しました。それが縁で、東京に出向いたときは今でもカトリック点字図書館に顔を出して帰るという付き合いを続けております。

もう一つは「声の奉仕会マリア文庫」です。こちらも目の不自由な方々へのボランティアですが、おもに書物や雑誌を録音して情報提供する団体です。出会ったきっかけは、マリア文庫が定期的に作成している月刊テープに、「宗教コーナー」として先輩神父さまがお話を提供していたのですが、後任に譲りたいということになり、マリア文庫の事務所からいちばん近い浦上教会で助任だったわたしに声がかかったのでした。関わりはその後ぐっと深まって、初代の代表でマリア文庫を25年引っ張ってくれたシスター野崎の後任として、現在は代表を務めています。

この二つのボランティア団体は別々の形でわたしを引き寄せたと思っています。東京のカトリック点字図書館は、ある意味何も働きかけはなかったのですが、わたしから心惹かれ、関わり続けています。寄付をしなければならない理由もありませんでしたが、寄付したいなと思ったのです。一方で声の奉仕会マリア文庫は、月刊テープ作成に協力してくれていた先輩神父さまが担当を降り、マリア文庫会員がわたしのところに来て、どうか手伝ってください助けてくださいとお願いされたので協力が始まったのです。どちらも手を差し伸べたことには変わりありませんが、きっかけはそれぞれ別のところにありました。

福音朗読に戻しましょう。ナインという町の門で、イエスは一人息子を亡くした母親に目を留めました。当時夫を亡くしたやもめの女性は働くすべもなく、とても不安な生活を強いられていました。さらに一人息子が亡くなったというのですから、彼女の置かれている状況は絶望的だったでしょう。町の人が慰めようとしていましたが、やもめの心を支えることはとてもできなかったはずです。

イエスはこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」(7・13)と言われました。先にわたしが二つのボランティアのことを話して、一方は何も働きかけがなかった、もう一方は「手伝ってください助けてください」と言われて手を差し伸べたと言いましたが、ここにも同じ場面が描かれています。一人息子を亡くしたやもめは、イエスに何も訴えかけなかったのです。叫ぶことすらできないほど哀れな姿だったのです。しかし、「主はこの母親を見て、憐れに思った」のです。ここに、神の憐れみといつくしみの頂点があると思います。

つまりこういうことです。イエスに出会った人々は、「どうか憐れんでください」と叫び求めて、願いを叶えられた人々と、願いの声すら上げられず打ちひしがれているのをイエスが一方的に憐れに思い、手を差し伸べた人々とがいました。「助けてください憐れんでください」と訴えかけて願いが叶えられるのは通常のやり取りです。ここでも神の深い憐れみといつくしみが示されますが、神はさらに、何も叫ばなかった人、何も叫べない人にさえ、無償で憐れみといつくしみを示すのです。

参考までに、何も叫びを上げなかったのに神が手を差し伸べたと考えられる場面が福音書に三つあります。一つは今週の「やもめの息子を生き返らせる」物語「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(7・13)で、一つは「善いサマリア人」のたとえ「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」とあり、このサマリア人はイエスと受け取ることもできます。あと一つは「放蕩息子」のたとえ「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(15・20)もちろんこの父親は父なる神です。

これらの物語はすべてルカ福音書のものです。こうしてルカは、一方的に人間を憐れに思い、駆け寄る神の姿を描くのです。もちろん「わたしを憐れんでください」との叫びに答えるイエスも描かれていますが、一方的に憐れみをかけてくださる姿に、わたしは神のいつくしみが特に示されていると思うのです。

ところで神が一方的に憐れみをかけ、いつくしみを示されたのは二千年前だけのことでしょうか。そうではありません。詩編第136編に何度も繰り返されているように、「慈しみはとこしえに」なのです。

わたしは初金曜日の病人訪問で、神が一方的にわたしたち人間にいつくしみを示す姿を感じます。足がかなわなかったりして見舞ってもらっている人がほとんどですが、なかには御聖体が本当に命をつないでいるのかもしれないと思う方々もいます。「この人を訪ねて、わたしは命を養いたいのだ。」イエスの一方的な憐れみ、いつくしみに突き動かされて、司祭は病める羊のもとを訪ねています。神の慈しみは今も命の危機にある人を養い、神は今も司祭を通して出向いて行くのです。

わたしたちもミサの中で聖体をいただいています。聖体に養われています。そうであるなら、出会う人に、神のいつくしみを形に表しましょう。助けてくださいと言われるまでもなく手を差し伸べるイエスに、わたしたちが倣う者となれますように。ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
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ちょっとひとやすみ
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▼こちらに来てからナイターソフトの「アンジェラス」というチームに加わり、試合に出ている。レベルの高いチームもそうでないチームも混ざったリーグ戦だが、アンジェラスチームは勝ったり負けたりの普通レベルのチームだ。
▼今年のリーグが開幕してアンジェラスは3試合消化した。わたしは初戦と第3戦に参加。第2戦はコールド勝ちしたそうだが、あいにく教区司祭黙想会で不参加。参加した2戦で味わったことを分かち合いたい。
▼まず、ナイターゲームに生まれて初めて参加したということ。守備も攻撃も、ボールの距離感がいまいち分からない。特に打席。ボールが自分の打てるゾーンに来る前に思い切りスイングして、初戦の第一打席は空振り三振してしまった。
▼結局初戦は3打席回ってきて、残り2打席はボールの上をこすったボテボテのゴロ。しかし懸命に走ったおかげでセーフになり、3打数2安打の結果となった。この日は接戦だったが、あと少しのところで試合を落としてしまい、残念な結果に終わった。
▼第3戦目。この日は初回にどちらも点数が入り、乱打戦の雰囲気だったが、実際はコールドゲームで大敗してしまった。わたしは守備で外野フライを一つ取り損ね、一つ好捕した。わたしの守備は試合の大きな流れには影響なかったが、相手は強打のチームだったらしい。ランナーをためてはセンター方向にこれでもかと長打を打ち、大量失点になる。その繰り返しで5回表には10対3で、5回裏に1点取らなければコールドゲームで試合終了である。
▼5回裏、先頭バッターでわたしは打席に立つ。初球、絶好球だったのに見逃し。「しまった」と思いつつ3球目を打つ。一塁強襲。一塁手がボールをこぼしたのが見えたので懸命に走ってセーフ。次の打者のファウルフライで三塁手が触った後にボールが客席に入る。ルールはよく分からないが「テイクワンベース」と宣告され、自分は二塁に進塁。
▼次の打者が内野を越えるヒットを打った。わたしは「1点取らなければ次の回に進めない。あとの打者がわたしを返してくれるとは限らない。」そう判断して三塁で止まらずホームに突っ込んだ。三塁コーチの、今年新司祭になった人のお父さんには「ストップ!止まれ!」と言われたが無視してホームへ。
▼結局ボールはホームに戻らず、余裕でセーフ。この1点でかろうじて次の6回に進んだのだが、相手チームにさらに5点取られ、1点しか返すことができず、15対4で大敗した。

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今週の1枚
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第438回目。巡礼者に頂いた田平教会写真。ここから22人の司祭を輩出した。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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