こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)おいでになる主を準備して待つ

2009-11-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/11/29(No.446)
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待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
おいでになる主を準備して待つ
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もしかしたら、以前、話の例に挙がったかも知れません。浦上教会の助任司祭時代に、長崎原爆病院にいる病人のお見舞いに出かけていました。当時は訪ねていく時間が朝早くて、確か朝の7時頃に見舞っていた気がします。

いろんな人を見舞いましたが、その中で1人、今でも忘れない人がいます。寝たきりのおばあちゃんでしたが、この人はなぜか、同じ原爆病院内にいるカトリック信者の人を聞きつけては、わたしに連絡してくれていたのです。それも、同じ階の人ばかりではなくて、違う階の、おそらく本人とは会ったこともないのに、どの階に誰それという病人がいて、その人にもご聖体を運んであげてくださいと教えてくれていたのです。

今になって考えると、わたしが受け持つ必要のある病人かどうかという問題もありましたが、当時は20代でしたので、ただただ感心して、「よくまぁこのおばあちゃんは、新しい人を見つけてくるなぁ」と思っていたのでした。

わたしには、いまだにこのおばあちゃんが別の病人を探して、教えてくれる謎が解けません。まったく動けないのですから。ベッドで起き上がることすらできない人なのですから。もしかしたら、看護士にあれこれ尋ねて情報を集めているのかもしれません。

けれども、確認はどうやって取っていたのでしょう。わたしが、言われるまま訪ねて行ってみると、紹介された人がちゃんとそこにいました。若い人だったり、割合年配の人だったり、男性・女性、いろんな人をこのおばあちゃんから紹介してもらいました。あまりにも見事なので、手品でうまく丸め込まれているのではないかと思ったくらいです。

このおばあちゃんは、新しく紹介してくれた人のことも、どんな様子だったのか次の見舞いの時に聞いてきます。ある時などは、紹介してくれた人が最終的には亡くなられ、亡くなったことが言い出せずに、元気でしたよと嘘をついたこともありました。

わたしは、このおばあちゃんから何かを学んだ気がします。それは、福音宣教ということです。おばあちゃんは、ベッドからまったく起き上がれない人でした。それなのに、原爆病院内を縦横無尽に、宣教活動していたのです。

趣味の合う人を病院内で探しているわけではありません。見ず知らずの、男性女性分け隔て無く、折が良くても悪くても、探してくれていたのです。福音宣教の基本を、すべてわきまえていると思いませんか?わたしは今も、このおばあちゃんの態度が忘れられないのです。

1つ、このおばあちゃんに謝らないといけないことがあります。いつも通りお見舞いに行ったある日、おばあちゃんはそこにいませんでした。空きベッドになっていました。看護士の人に聞いてみると、おばあちゃんは亡くなっていたのです。いまだに、さようならを言えなかったことが心残りです。

わたしは、このおばあちゃんを活動に駆り立てていたものは何だったのだろうかと考えました。誰かを見つけてきてわたしに知らせても、彼女に何の得もないのです。もちろん神さまの前には功徳を積み上げているでしょうが、目に見えるメリットは何もないのです。

それでも、何のメリットもないのに何かをするはずがないのですから、何かがあったはずです。亡くなるまで、カトリック信者を訪ねて回っていたのですから。そこで2つ考えました。1つは、自分自身の生きがいを持つために、できることをしていた可能性があります。もう1つは、意識していなかったかも知れませんが、深い信仰が、彼女を動かしていた可能性があります。

自分自身の生きがいのために、病院内の信者を探していたと仮定しましょう。見つけるたびに、わたしに報告すると、わたしは喜んでいました。それがひいては自分の喜びにもなって、役立っているという気持ちが増していたかも知れません。寝たきりで、何にもできないのではないか、迷惑ばかり掛けているのではないかという気持ちに、大きな勇気を与えていたかも知れません。

もう1つ、彼女が知らず知らずのうちに信仰を土台にしてものを考えていたと仮定しましょう。彼女にはすでに、医学的なお世話はもはや何も残されていなかったかも知れません。ただじっと、生きている。そんな思いの中で、自分が生かされているのは、神の憐れみによると感じていたかも知れません。神の憐れみに、そのご恩に、どうにかして報いたい。そんな気持ちになって、何とかしようとして、思い付いた可能性もあります。

どちらの可能性にしても、彼女は困難をものともせずに、福音宣教をなし遂げたのでした。彼女に約束されているのは、父なる神からの「よくやった。主人と喜びを共にしてくれ」という慰めだろうと思います。

さて福音に入りたいのですが、朗読箇所はイエスが再びおいでになる時、「再臨」の時を描いています。不安と、恐怖が渦巻く中で、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくる」(21・27)のです。その時、解放の時が近づいている人々は身を起こして頭を上げることになります。不安と、恐怖は、すべての人が体験しますが、再臨の時に身を起こして頭を上げる人々は、再臨の時までに何かを準備していたのです。

同じように、福音朗読後半でも、「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(21・34)とあります。その中でも、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができる」(21・36)という人々がいるのです。何かを準備して、「その日」を迎えることができた人々です。

わたしは、再臨の日に準備ができていた人とは、少なくとも、自分の喜びのためではなく、周りの人の喜びのために何かをしてきた人だと思います。できれば、自分が今日を迎えることができるのは神の憐れみのおかげだから、神にどうにかして自分を使いたいと思って生きてきた人だと思います。

もっと短く言うと、再臨の日に準備ができていた人とは、再臨の主を待っていた人のことです。ただぼやっと待っているのではなく、神の憐れみにこうやって応えていこうと、何かを実行して待つことです。それはそのまま、今日お話ししたおばあちゃんに当てはまることでした。

待降節に入りました。わたしたちは救い主がおいでになることを確信を持って待ちます。街角ですでにクリスマスに浮かれている人々は、何の準備もせずにクリスマス気分を味わっています。わたしたちはそうであってはいけません。ぼやっとして待つのではなく、準備をして待ちます。身を起こして頭を上げる人々、人の子の前に立つ人々でありたいものです。

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ちょっとひとやすみ
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▼話をしてなかったかも知れないので、マリア文庫の30周年記念ミサのこと。マリア文庫とは、視覚障害者のために長崎を拠点にして音声サービスを行っているボランティア団体である。30周年の記念ミサを、11月18日に馬込教会でささげた。司祭がもう1人招待されていたが、高齢と健康上の理由で海を渡ることができなかった。
▼わたしは説教で、お祝いに2つのことを話した。1つは、30年の間に音訳養成講座の第27期卒業生を出したということ、1つは、30年を支えた功労者は、疑いもなく代表を務めているシスターだということだ。30年で27期生が卒業しているというのはすばらしいと思う。
▼もう1つの、シスターについての話は、こうじ神父の味付けをしてみた。シスターがのんびりした人だったので、30年も続いたのではないかと話したのである。前日から先発隊が来ていたが、その中にシスターも含まれていた。信徒会館でお祝いの品を小分けする作業をみなでしていたようだが、何か聞きたいことがあったようで、同行している信徒のケータイ電話を借りてこうじ神父のケータイに電話がかかってきた。
▼当然ながら、わたしはすぐに「もしもし、もしもし」と返事をする。ところが電話の向こうでは、ケータイ電話を手に持ったまま、「○○さん、この電話はどうやってかけるのかしら?」「電話をしてからシスターには渡してますよ」「あら、それなら、このケータイはつながっているの?」「つながっていると思いますよ」「じゃあ話し掛けてみようかしら。もしもし?もしもし?」
▼この間、わたしは15回くらい「もしもし!」と言ったと思う。それはいいとして、これくらい気の長い人でないと、何かの活動を円滑に回していくことはできないのではないかと思った。
▼30年を、30分であるかのように突っ走る気の短い人間、つまりわたしのような人間ではなく、30年を、300年であるかのようにゆったりと歩くシスターだったからこそ、30周年を迎えたのではないかと。もし興味があったら、「話の森ホームページ」の中の動画の説教を探してほしい。

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新企画今週の1枚
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第53回目。マリア文庫結成30周年で贈り物としていただいた胡蝶蘭。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
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王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)王であるキリストのもとで暮らす

2009-11-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/11/22(No.445)
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王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
王であるキリストのもとで暮らす
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今日は、「王であるキリスト」の祭日です。教会の暦(典礼暦)の考え方では、主の降誕を準備する「待降節」から1年の暦が始まって、今週「王であるキリスト」の週で1年が終わります。今週と、来週は、区切りとなる週です。できれば、覚えておいてほしいと思います。

ちなみに、先週は年間第33週でした。勘の良い方でしたら、「年間第30週あたりになってきたから、そろそろ教会の暦も1年の終わりだなぁ」と見当つくようになります。ぜひみなさん、勘の良い人になっていただきたいです。

最近よくたとえに使う話ですが、昔、勘の良くない人を「蛍光灯」と言っておりました。けれども、今の時代の蛍光灯は、スイッチを入れたらパッと点灯するのです。ですから、昔の蛍光灯ではなく、現代の蛍光灯くらいには、パッとひらめいて見当をつける人であってほしいと思います。

今年の教会暦の最後の週に、ヨハネ福音書のイエスの裁判の場面が朗読されました。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」(18・33b)と尋問しています。「ユダヤ人の王なのか」という呼び掛けには、いろんな意味合いが込められていたことでしょう。「ユダヤの国の支配者」「散り散りになっているユダヤ人を1つにまとめる権力者」「ユダヤ人が信じ、待ち望んでいる王による支配を実現する人物」そういう複雑な意味合いが含まれた質問だったと思います。

今述べたような意味合いで、ピラトが問いただしても、イエスはあまりそれには反応しませんでした。ピラトが聞きたいのは、ピラトの頭の中にある「王のイメージ」で描かれている姿かどうか、という点だったのです。

ピラトにとって、王とは1国の支配者、せいぜい、たくさんの国の支配者で、時の権力者でしょう。時の権力者であれば、権力争いに明け暮れ、ほかの国の王との争いや、内部分裂を避けることや、国民の理想をつねに気して力を示す人物のはずです。それなのに、イエスにはいっさいそのような雰囲気は見られないのです。そのため、「お前がユダヤ人の王なのか」という問いになったのでしょう。

イエスは国王のような王ではありません。ユダヤにはヘロデ王がいました。ましてや、ユダヤ人の力を結集して何事かを企む人でもないし、単純な「ローマの支配からユダヤ人を解放するために待ち望まれた王」でもなかったのです。

イエスの次の言葉が、ご自身の考えをよく物語っていると思います。「わたしの国は、この世には属していない。」(18・36)イエスは、尋問したピラトが考えているような、1国の王、またいくつかの国の王ではなく、「人類の王」「すべてのものの王」なのです。今日はこの点を考えてみたいと思います。

イエスの国は、「この世に属していない」と言います。「この世に属している国」は、どんな形をしているのでしょうか。まず、「この世に属している国」は、国境があります。隣の国や、対立する国とつねに領土争いをしています。「その島は、わたしたちの国のものだ」と言い合って、いつまでたっても解決しません。とても面倒で、不安定です。

イエスの御国はどうでしょうか。きっと、領土など全く縁のない国なのだと思います。すべての人が温かく迎えられ、どこまで行っても、どこででもイエスの導きが行き渡っている国です。

また、「この世に属している国」は、その国によってさまざまな法律や習慣があります。自分の国では当たり前の規則でも、別の国に行けばまったく反対の規則だったりします。「この世に属している国」の規則や習慣は、しばしばその国特有のものに過ぎません。

イエスの御国では、規則はどこにいても、どこででも同じです。すなわち、イエスの望みにかなうか、かなわないかが、すべてのものの基準なのです。イエスの声に聞き従うことが、唯一の規則なのです。王であるキリストに従うこと。これだけが、イエスの御国で求められる決まり事です。

もう1つ考えてみましょう。「この世に属している国」では、王は国民から生活の糧を得ています。つまり国民から税を徴収し、国民が王を養っているのです。イエスは次のような問いかけをペトロにしたことがあります。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」(マタイ17・25)

イエスの御国では、誰も税金を取られることはありません。誰からも貢ぎ物を求めません。それどころが、イエスご自身が国民のために命をささげ、国民の命を救うのです。この世に属しているどんな国の王もなし得ない、驚くべきわざを、この世に属していない御国の王であるキリストがなし遂げます。

イエスの御国は、この世に属している国とは明らかに性格が違っています。国境のない国、唯一の規則で導かれている国、王が民のために命をささげる国です。そこでわたしたちに問いかけられていることを考えましょう。わたしたちは、王であるキリストから、何を問われているのでしょうか。

わたしはそれを、聖パウロの1つの言葉で説明したいと思います。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4・5-6)つまりわたしたちは、パウロの言う「すべてのものの上にあり、すべてのものの内におられるお方」を意識して、生きるようにと求められているのです。

人が、わたしたちの暮らしぶりを見て、「誰かがあなたたちの上におられる暮らし方をしている。あなたたちの上におられる方は誰なのか」と感じさせる暮らしが大切です。「誰かがあなたたちの内におられる暮らし方をしている。あなたたちの内におられる方は誰なのか」そう感じさせる暮らしが、わたしたちに求められている暮らしなのです。

ひとことで言うとそれは、「王であるキリストのもとで毎日を暮らす」ということです。わたしたちは典礼暦の最後の週を迎えています。この1年、「王であるキリストのもとで日々を暮らしてきたか、思い返しましょう。もし、ふさわしく過ごせてなかったとしても、せめて今週1週間、こうした意識を持って、暮らしを調えてみましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎教区では、11月の最終週あたりから、「ながさき巡礼月間」という期間を設定して、週ごとに長崎教区内の4つの教会を会場に、土曜日は巡礼、日曜日は講演とミサという形で、長崎の教会の魅力、キリスト教の魅力をアピールすることにしている。
▼今述べたような内容で、「ながさき巡礼月間」が設定されていることは間違いないのだが、本当の意味での成功を収めるかどうか、最後まで見守りたいというのが正直な気持ちである。わたしの思いが杞憂に終わってくれればそれに越したことはないが、踊りを踊って、イベントで終わってしまわないか、心配している。
▼司祭の代表が集まる「司祭評議会」という場があるが、ここで「ながさき巡礼月間」についてはその真意を何度となく質(ただ)されている。司祭も嗅覚は鋭いわけで、計画に「イベント」の匂いがすれば、本能的にそれを嗅ぎ分けるわけだ。この計画は、信仰に基づく、真に教会をアピールする場になるのだろうかと。
▼司祭評議会とすれば、本当にこの計画が、心の底から必要性を感じて、生まれてきた計画なのかを聞きたかったのだと思う。どこからか入れ知恵され、「長崎には秋のおくんち、年が明けてからは中国の旧正月(長崎ランタンフェスティバル)と、お祭りがあるけれども、その途中にカトリックのお祭りがあれば、盛り上がるのになぁ・・・そうだ!こんなイベントはどうでしょうか?」とか何とか囁かれて、それはいいと話に乗ったのではないかと、腹を探っている人がいるということである。
▼別に、そういう働きかけがどこからかあったとしても、わたしたちはその点には関知しない。ただ、ヒントはどこからかもらっても構わないが、それを熟考して、「そんな働きかけが欲しかった!」というものに練り直してほしいのである。もらったアイディアに乗っかって、波乗りサーフィンをしているだけでは、来年同じ波がやってくるとは言い切れない。
▼毎年続けようとしているらしいが、今年限りの冬の打ち上げ花火になってしまっては、時間も金ももったいないのである。波乗りサーフィンが得意な方ばかり上層部に揃っているとはとても思えない。亀のような歩みでいいから、こんな動きが欲しかったと、だれもが思えるような活動に育ててほしいと願っている。イベントのためのイベントは、もうウンザリなのだから。

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新企画今週の1枚
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第52回目。そうは言っても広報委員長ですから、「ながさき巡礼月間」の宣伝。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
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年間第33主日(マルコ13:24-32)だれも知り得ないからこそ、懸命に努力する

2009-11-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/11/15(No.444)
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年間第33主日(マルコ13:24-32)だれも知り得ないからこそ、懸命に努力する
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今週の説教の準備には苦しみました。苦労したのではなくて、苦しみました。結果的に、原稿を形に残すのは、今日のミサがすべて終わってから、午後からということになりそうです。その辺の事情も含めて、分かち合いたいと思います。

今週、1つの講話を仕上げて、達成感を味わいました。ミサのお知らせで紹介した、「マリア文庫」に関わる講話です。「マリア文庫」は、長崎レデンプトリスチン修道院のシスターが代表を務めているボランティアのグループで、視覚障害者に奉仕するための集まりです。月に1度、テープを作成して、何百名もいるであろう会員に毎月お配りしています。

90分のテープには、視覚障害者が必要としている日常の役立つ情報や、話題になっている本の朗読、また中田神父が担当している「宗教コーナー」など盛りだくさんの内容で構成されています。わたしの担当である「宗教コーナー」は、15分と決められていて、その中で毎回違った内容で心に働きかけるような講話をしています。これまで7年以上続けておりますので、もうすでに80回くらいは原稿を作ってそれを録音して、お届けしています。

今月提出分も、無事に作成しました。土台になっている経験は、インターネットの掲示板に、「○日に伊王島に行きます。昼食をホテルで食べ、温泉につかります。時間があったら、教会にも立ち寄りたいと思います」という書き込みが入ったことでした。この書き込みから始まった出来事を膨らませて、15分の宗教講話に仕上げます。

訪ねてくるという書き込みをした人は、予想に反し、午前中もおいでにならないし、午後になっても来る気配がありません。ずっと司祭館を離れないように気を付けて一日を過ごしたのですが、とうとうお会いできませんでした。時間が無くなって、教会までは足を延ばせなかったのかな。そんなことを思っていたのです。

その日の晩、インターネットの掲示板を何気なくチェックしてみたら、昼1時の時点で、「今日は風が強いので伊王島行きは中止しました」と当人の書き込みが入っているではありませんか。ちょっと残念な気持ちになりました。

ここから話が少し広がります。その日は確かに風が強くて、五島列島行きの船は、全便欠航していたのです。伊王島行きの船は運航したのですが、あの日船に乗って伊王島においでになっていたら、間違いなく船酔いしていたに違いありません。天気に対する受け止め方が、訪ねてくるその人と、わたしとでは違っていたのだなぁとあらためて感じました。

こういうことです。長崎の大波止に、伊王島にお出かけしようと思っている人と、島に帰ろうと思っている人とがいるとしましょう。伊王島にお出かけしようかなという人は、海上が荒れていると聞けば、船酔いが心配だなぁ、延期しようか、そういう気持ちが働くと思います。今日行かなければ次に行く機会を失ってしまうという人以外は、またの機会でも構わないわけです。

一方、伊王島にいる人は、海上が大荒れであっても、いったん出かけた先からは、何が何でも出てきた伊王島に戻る必要があります。伊王島が、その人が出て来て戻る場所であるか、単に出かける先の場所であるかで、間に横たわる荒れた海をどう受け止めるかは、大きく違ってくるわけです。わたしは、全面的に伊王島に住んでいる人間の立場に立って、何とかして来てくれるのだろうと判断してしまったのです。

そこから思い付くことは、行き先が、出かける場所であるか、出て来て戻る場所であるかで、行き先に対する気持ちの強さは違ってくるということです。伊王島に立ち寄りますと明言したとしても、その人にとって伊王島は出かける場所ではあっても、出て来て戻る場所ではありません。辛い思いまでして行こうとは思わないというのはもっともな話です。

さらに、話を展開します。わたしたちの生活の中にも、似たようなことはたくさんあるのではないでしょうか。病院に行くのが嫌い。そんな辛い思いまでして病院のお世話にはなりたくない。こんなに辛いのだったらもう家に帰りたい。病院を嫌う理由は探せばいくらでも出てくるでしょう。

けれども、病院が、命をつなぐ場所だとしたらどうでしょう。ある人は、透析を受けていて、週に1回の透析を続けなければ、命を落としてしまいます。こんな人にとって病院は、単に出かける場所ではなくて、命をつなぐために、出て来て戻る場所なのではないでしょうか。病院が、透析患者の自宅という意味ではありませんが、自宅でもとの生活を取り戻すための、出て来た場所に戻るための、必ず必要な通り道なのです。

もし病院嫌いのすべての人が、本来の健康な生活に戻るために、その通り道に病院があると考えるなら、これまでとは違った対応を考えるようになるでしょう。わたしも歯医者は大嫌いですが、本来の健康な歯を取り戻すために、途中立ち寄ってしっかりアドバイスを受ける場所と考えると、やはり嫌い一辺倒ではいられなくなることがよく分かります。

わたしたちにとっては、「出て来て、本来戻る場所」こそが、何より大切な場所だと思うのです。もちろんすべての人に単純に当てはまる話ではないでしょう。施設に暮らしている人に、今いる施設があなたの戻るべき場所だと、そう簡単に言うつもりは決してありません。一人一人が、「出て来た場所に帰る旅路」を生活の中で見つけてほしいのです。

そして話の結論です。「出て来た場所に帰る旅路」は、わたしは一人一人の人生そのものだと思っています。わたしたちは愛深いお方から命をいただいて、命を与えてくださった方のもとに戻るまで、地上の旅をしているのではないでしょうか。そして、この旅は命を与えてくださった方のもとに帰るためにどうしても必要な旅なのです。命を与えてくださった方がどれほど素晴らしい方か、どれほど愛深いかを、今この旅で知るためです。

こうして、11月分のマリア文庫に依頼されている原稿は出来上がりました。とても満足しています。じつは今日のミサのための説教も、そうなる予定だったのです。それが、結婚式の仕事を終えてから原稿作成に取りかかった夕方、夜、夜遅くになっても、いっこうに書けそうな気配がしませんでした。

今日の福音朗読箇所の最後のみことばの通りです。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(13・32)今週の仕事として、マリア文庫の原稿はすらすらと書けたのです。

けれども日曜日のための説教は、今週に限っては、どんなに時間が過ぎても、頭を絞っても、何も出てこなかったのです。「夕方から時間を目一杯使えば、何とかなるだろう。」わたしはこの時点で、「その日、その時」を自分で設定していたわけです。

イエスは今週わたしに、苦しみを与えてくださったのだと思います。「その日、その時は、だれも知らない。」そのみことばを前にして、思い上がりを砕いてくださったのだと思います。まぁ何とかなるだろう。何ともならない経験をさせて、わたしにみことばへの真摯な態度を要求なさったのだと思いました。

わたしたちは、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。」そう言われてしまうと、つい、だったら何をしてもしかたない、意味が無いじゃないかと思ってしまいます。そうではなくて、「その日、その時」は確実に救いの日なのだから、わたしたちは今、今を大切に、過ごしていく必要が出てくるのではないでしょうか。その時がいつかは分かりませんが、救いのその時が来ることは確実なのですから、今を懸命に生きること、今を信仰とうまく結び付けて生きることが、わたしたちに求められていることだと思います。

最後に、わたしたちにとって、いちばん関心のある「その日、その時」はいつでしょうか。おそらく、「わたしはいつまで生かされているだろうか」という「その日、その時」ではないでしょうか。それについて最後に考えて、今週の説教を終わりたいと思います。

もちろん、わたしの人生はいつ「その時」を迎えるのか、だれにも分かりません。だれにも分からない出来事について、人間は2通りの態度を取ることを考えました。だれにも分からないのだったら、気ままに過ごしていいじゃないか。それも1つの生き方でしょう。

けれども、「だれにも分からない、だからなおさら、今、今を大切に生きる」この生き方もあります。もちろん、どちらを選んで生きるべきかは明らかだと思います。そのことに加えて、今を懸命に生きる1つの心がけとして、「出て来た場所に帰る旅路」と捉えて生きてみてはいかがでしょうか。

愛深いお方から命をいただいて、命を与えてくださった方のもとに戻る「その日、その時」まで、地上の旅をしているのです。今、この時を懸命に生きて、信仰に結び付けながら生きて、命を与えてくださった方がどれほど素晴らしい方か、どれほど愛深いかを、今この旅で知ることは、賢い人生の選択に違いありません。


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ちょっとひとやすみ
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▼14日に結婚式を司式した。馬込教会の教会籍の信者なのだが、365日教会に来たことはない。本人だけではなく、家族そろって、である。なぜわたしが結婚式を引き受けたかという話だが、結婚相手の女性の母親が、「ある教会」のご年配のシスターとつながりがあって、そのシスターを頼って「ある教会」に結婚式を依頼し、準備を進めていたのだった。
▼こういう場合、わたしが基本的に関わることは、書類上の手続きだけである。「貴教会の誰それが、当教会で結婚することになりましたので、これこれの書類を送って下さい」。はは~ん、馬込教会では挙式しないんだなぁ。いいですよいいですよ、書類くらい造作ないことです、それっきり結婚式のことなど忘れていた。
▼結婚式の3週間前に、その「ある教会」の主任司祭から電話が掛かってきた。「中田神父さん、結婚式を引き受けてくれないかなぁ。わたしはその日、これこれの用事で留守なんだよねぇ。もともとおたくの信者だし」。
▼その先輩の用事は、はるか前から決まっていたことだ。電話の主は、平気でダブルブッキングをしてしまう先輩なので、「そう来たか」と思いつつ、一方では「回ってきたなぁ。365日教会に来たことない人に。さぁて、どんな説教をするかな」と、電話の応対はそっちのけで展開を考えていた。「これはおもしろくなってきたぞ」と。
▼8日、リハーサルの日。365日教会に来たことのない家族が勢揃いである。ある意味壮観だった。「こんな巡り合わせになるとはねぇ」。そう父親に言ったら、恐縮しきって、「よろしくお願いします!」ときた。こんなこともあり得るのだから、365日のうち、少しはミサに来ておけば問題ないのに。
▼リハーサルをしている最中だった。携帯電話が鳴り、席を外して電話に出てみると、宮崎から見知らぬ人が「結婚式をしていただきたいのですが」と言う。「結婚相手は太田○○の妹です」。その時すぐには飲み込めなかった。取り込み中で、頭が回転してなかったので電話の相手に「申し訳ないけど、夜の8時にもう一度電話してちょうだい」とお願いして切った。
▼夜8時20分、電話が掛かってきた。今度は結婚相手の女性だった。「太田です。姉も、弟も、結婚式ではお世話になりました」。あー、なるほど。あの太田さんかぁ。ようやく話が飲み込めた。「ごめんごめ~ん。男性の電話の時は、宮崎の青年に知り合いはいないけどなぁみたいな応対をしてしまったよ。あなただったのね~」。
▼「弟の結婚式の時に神父さまがわたしに、『結婚のご用命はいつでも承りますよ』って言ってたので、おもしろいなぁって覚えていたんです。せっかくだから、お願いしてみようかって思いました」。嬉しいことを言ってくれるじゃないか。こんな相談だったら喜んで聞いてあげたい。
▼この8日の晩は、14日挙式のカップルにリハーサルをしたこともあり、その人たちの薬になる話を考えようと思っていたのだったが、夜の電話で気分良くなって、懇々と説教するのはどうでもよくなった。いよいよ困った時には、教会においで。

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新企画今週の1枚
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第51回目。毎年11月に聖職者の追悼ミサをします。雨のため、大司教館でした。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
‥‥‥†‥‥‥‥
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年間第32主日(マルコ12:38-44)まだすべてを委ねて働いてなかった

2009-11-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/11/08(No.443)
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年間第32主日
(マルコ12:38-44)
まだすべてを委ねて働いてなかった
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今週の福音は、歳を重ねるごとに、難しい呼び掛けに聞こえる箇所だと感じます。「やもめの献金」について取り上げられている箇所ですが、イエスはやもめの態度を高く評価して、「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12・44)と仰っています。

イエスは明らかに、やもめの態度を例に引いて、神に信頼して、すべてを委ねなさいと呼び掛けているわけですが、わたしたちはおそらく、歳を重ねれば重ねるほど、この呼び掛けに抵抗を感じるのではないでしょうか。理屈では分かっていても、呼び掛けに応じられませんと、こちらの事情を並べてしまうのではないかと思うのです。

きっと、若い時代であれば、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れるというようなことも、実行可能かも知れません。貯金を全部はたいて、裸一貫でやり直す。それはそれで冒険に満ちた、夢のある話です。けれども、そんな冒険も、歳を取ってからでは無謀に思えるのです。

店を構えたり、会社を興したりするのに、貯金も、家も、土地も、カネになるものは全部売り払って、次の夢にかけてみる。それは、若いからできるのであって、長く愛着のある土地や家を手放すことは、歳を取ってからでは絶対に無理。苦労もしてきたし、自分たちの歴史が刻まれている。だから、誰にどう促されても手放せない。きっとそうだと思います。

それでも、イエスはやもめの献金に目を向けさせます。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」(12・43)やもめが入れたお金は、額としてはゼロに近い額です。それでも、どんなお金であったかを考えれば、大変勇気の要る行為でした。

彼女の勇気は、神への信頼から生まれた勇気です。わたしを見守っておられる神は、わたしを決して見捨てたりはしない。わたしが無一文になっても、誰に笑われても、神はわたしを見捨てたりはしない。こうした神への絶対の信頼があったので、彼女は生活費を全部入れることができたのです。生活費を全部入れるということは、明日の運命を全部神に委ねたということです。

さてここまでのことは、わたしたちも子どもではないのですから、理屈は分かっているのです。理屈は分かっているのですが、じゃあわたしも真似してみよう、わたしなりに神に明日を委ねて、持ち物を手放そうと思っても、そう簡単にはいきません。現実はそう簡単ではないのです。手放してしまえば失ってしまう。その恐怖は、そう簡単にはぬぐえないのです。

簡単ではないですが、それでもイエスの呼び掛けに背を向けるべきではないと思います。わたしたちは神に信頼することを優先するために、失う恐怖と向き合わなければなりません。そこで、身近な所で起こった2つの体験から、何か感じ取っていただけたらと思います。

最近の話ですが、わたしが知っているある人のことである情報が耳に入りました。その人が、教会に行かなくなったそうです。わたしはビックリしました。わたしがその教会にいた時、顔を見ない日はないくらいだったのに、教会に行かなくなっているというのです。一体どうしたんだろう。何があったんだろうと思いました。

いろいろ聞こえてくる中で、わたしが1つ心配しているのは、何があったにせよ、教会に行かなくなったら、解決にならないのではないかなということです。その人の中で筋の通らないことがあって、もうついて行けないと感じ、教会に行かなくなったのかも知れません。その人にはまだ、何か神さまに委ねることができないものがあったのではないか。どうしても委ねきれない何かがあったのではないか。そのことが気に掛かります。

もう1つの話をします。わたしは教区の広報委員長を務めており、その任務も4年が過ぎました。4年過ぎてみるとどこかでわたしの中に油断とか、隙ができてしまい、知らないうちに迷惑を掛けているのではないかなぁと感じたのです。たとえば、原稿の依頼も最初の頃のようにていねいに頼まず、頭ごなしに押しつけるようになっていたのではないかと感じたのです。

最近気になった原稿の依頼があります。わたしは1人の依頼者に、いつものように内容を分かりやすく書いたFAXを送って、原稿の依頼をしたのですが、引き受けてはもらえたのですが広報の事務の人から、「一声掛けてもらいたかったようですよ」と言われたのです。これは失礼なことをしてしまったかも知れないと、あとになって考え込んでしまいました。

時間をさかのぼって、電話で声を掛け、お願いし直すということもできません。実際に引き受けた時の様子を聞いてはいないのですが、やはり、礼を尽くしてなかったかも知れないなぁと、事務の方の報告を聞いて申し訳なく思ったのです。

そこで、わたしは何かしなければと思い、行動を起こすことにしました。お願いの仕方が今ひとつ十分でなかったことを、直接行って気持ちを伝えることにしたのです。それこそ、電話を掛けてお詫びを言うこともできましたが、もっと直接気持ちを伝えた方が良いと思い、その人のもとに出向くことにしました。

やはり、行動を起こして良かったと思いました。わたしは、今回原稿を依頼した人のもとへ出かけて気持ちを伝えるまでは、今日の福音朗読の「大勢の金持ちがたくさん金を入れていた」という、そんな態度だったのだと思います。つまり、「毎月の教区報を作るため、ごらんなさい、こんなに努力しているんですよ。協力してくれるのが当然でしょう」そういう気持ちがどこかに隠れていたのではないかと思ったのです。

けれども、わたしにはまだ自分をすべてさらけだす勇気が足りなかったのだと思いました。原稿をお願いする人には、ちゃんと依頼の内容が分かるようにお願いしたのだからそれで十分だ。それ以上骨折る必要はない。自分は正しいんだと言い張ろうとする気持ちが、どこかにあったのだと思います。

わたしのほうは、すべきことをちゃんとやった。これでは金持ちが有り余る中からお金を投げ入れているのと同じです。わたしがどう思われるかよりも、教区報が本当に教区民に喜ばれる広報紙となるように、自分の持っている物をすべて、できる努力を惜しまずいっさいを入れる。その努力が足りなかったと今回感じたのです。

わたしは頼む立場で、相手は引き受ける立場だ。その思いがあったかも知れません。いったん広報委員長と呼ばれてしまうと、無心で原稿をお願いしていた純粋な気持ちは失われ、原稿を依頼したのだから書いてくれるのが当たり前だというような気持ちが、どこかで捨てきれなかったのだと思います。

原稿の依頼をした人の自宅に直接出向いて、本当の気持ちに触れることができました。すべきことをすれば、それで十分だという、閉じこもっていた自分の殻を破って、気持ちよく相手に原稿を書いてもらうために、できるすべてをつぎ込む。その必要に、あらためて気付くことができました。

「努力してるでしょ。見て分かるでしょ。」こんな密かな考えが、隠れていたかも知れません。すべてを神への信頼に委ねて、残さず全部努力をささげる。十分と思い込んでいた努力をまた一からやり直す。そのための力を、登場したやもめから学び取りたいと思いました。


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ちょっとひとやすみ
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▼高島教会の主日のミサのローテーションが、「冬時間」に切り替わる。高島教会の主日のミサに関して、わたしは「夏時間」と「冬時間」を設定し、夏時間には土曜日の夕方主日のミサをささげて土曜日の夜に伊王島に帰り、海上が荒れてくる冬時間には日曜日の10時から主日のミサをささげて昼過ぎに帰ることにしている。
▼高島のローテーションによって、伊王島での週末の過ごし方が変わってくる。夏時間の時には土曜日の昼過ぎ、高島に船で移動し、夕方のミサに備える。夕方ギリギリに間に合う便で行くことも可能だが、そうすると高島の信徒の方はわたしとゆっくりふれ合う時間が無くなってしまう。込み入った話を聞くために、3時間前から島に行くわけだ。
▼すると、土曜日は昼からほぼ自由は制限されることになる。これが高島の冬時間になると状況が少し変わり、朝6時半に大明寺教会のミサ、朝8時に馬込教会のミサ、そして10時から高島教会のミサとわたって、朝食と昼食の中間のような食事を高島の信徒に用意してもらうことになる。
▼馬込教会は冬時間は日曜日にゆっくり司祭にふれ合う時間が無くなってしまい、午後からあらためて用事を相談に来る必要がある。一方で高島教会の信徒は冬時間には十分に主任司祭と歓談したり、相談に乗ってもらうことができる。一長一短である。この辺の所、正直上司には体験してみてもらいたいものだ。
▼冬時間、土曜日は主日のミサのために高島に行く必要が無くなる。すると、怠け者のこうじ神父は、土曜日がすっかり自由時間になったと大喜びして、つい羽目を外し、説教を考えるのが深夜にまで及ぶことにもなりかねない。
▼実際、ちょうど切り替わった今週は、説教のおおもとは金曜日にできていたにもかかわらず、配信は日曜日朝の4時を過ぎてしまっていた。これでは健康を損ねたりいろいろ問題が生じて当然である。次の週は、十分注意して過ごしたい。

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新企画今週の1枚
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第50回目。母親の看病をするため通信教育を選択した大学生と眺めた夕日。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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諸聖人(マタイ5:1-12a)すでに世にあって変わらない生き方がある

2009-11-01 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/91101.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
09/11/01(No.442)
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諸聖人
(マタイ5:1-12a)
すでに世にあって変わらない生き方がある
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今日、諸聖人の祭日です。そして、馬込教会では11月最初の日曜日なので、馬込共同墓地で、追悼ミサを計画しました。典礼上の「死者の日」を記念するのは、明日2日が正式な日です。

今年の説教は、諸聖人ということを少し頭に置いて、話したいと思います。まず、教会が誰かを聖人や福者として尊敬するようになるのは、必ず死者に対してのことです。生きている人を教会が聖人とか福者と認めることはありません。ここに集まっているわたしたちは全員生きておりますので、生きている限り、わたしたちは誰も聖人でも福者でもありません。念のため、聞いておきますが、もし死んでいる人がいたら、手を挙げてください。いませんよね。

もう少し話を進めましょう。教会はすでに亡くなった誰かを、聖人や福者として尊敬します。つまり、墓に眠っている人、すでに眠りについた人たちの中のある人たちが、神によって聖なる人々とされているのです。

なぜ、亡くなった人々の中に聖人や福者が存在して、生きているわたしたちは聖人や福者に選ばれないのでしょうか。わたしはこう考えます。生きている人は、今後、置かれている状態が変わる可能性があります。流動的です。一定の生活をしてはいますが、がらっと変わる可能性があるわけです。

飲んでばかりで、朝になると起きられず、前の日にはミサに行くと約束していた人が朝になるといつも起きることができなかった。そういう人が、ある時からがらっと変わり、家族の先頭に立ってミサに行くようになった。こういったことが、ないとは言えません。変わることがあり得ます。

これに対し、すでに亡くなった人々は、置かれている状態が変わることはありません。すっかり心を入れ替えたりとか、道を誤ってしまうなどのことは起こらないのです。ですから、亡くなった人々に対して、神ははっきりとその人の状態を宣言することになります。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(マタイ25・34)

わたしたちには、神からのこのような宣言はまだ先のことですが、今わたしたちがミサの中で心に留めている人々、追悼ミサの中で思い出している、すべての亡くなられた人々は、先の話なのではなくて、今の話、今まさに神からの宣言を受けているに違いありません。ですから、わたしたちがミサの中で心に留めている人々は、今、幸いな人々なのです。

福音朗読に入りましょう。イエスはご自分を取り囲んでいる群衆を前にして、山に登り、教えます。「口を開き、教えられた」(5・1)とあるのですが、教えると言うよりも、すでに幸いなのだと、勇気づけ、喜びを与えようとしているかのようです。

そして、もっと重大なことがあります。生きている人に、イエスは「幸いである」と呼び掛けているのです。状態が変わるかも知れない、明日どのようになるのか分からない、そうした生身の人間に、イエスは「幸いである」と呼び掛けるのです。この点に、注目したいと思います。

わたしは、亡くなった人々は状態が変わらないので、神は聖人や福者にふさわしい人々にはその幸せを宣言すると、そう言いました。何か、イエスが今週の福音で呼び掛けている人々と、共通する点があるのでしょうか。生きているわたしたちがはっきり「幸いである」と呼び掛けられていることと、天の国での幸いと、何かつながっているのでしょうか。

わたしは、つながっていると思います。このように考えてみました。イエスが仰った「幸いな人々」は、その生き方を変えずに生きていくことができる人々です。すべて、拾い上げてみましょう。「心の貧しい人々は、幸いである。」「悲しむ人々は、幸いである。」「柔和な人々は、幸いである。」「義に飢え渇く人々は、幸いである。」

「憐れみ深い人々は、幸いである。」「心の清い人々は、幸いである」「平和を実現する人々は、幸いである。「義のために迫害される人々は、幸いである。」「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。」

世を生きているわたしたちが、ずっと変えないで生きていける道が、ここに示されているのではないでしょうか。物持ちになっている時期があったり、そうでない時期があったりします。健康に恵まれ、順調そのものである時期もあれば、健康を害したり年齢による衰えを感じたりして今日生きるのが大変だという時期もあります。すべての例を並べてはいませんが、わたしたちの人生にはあらゆる浮き沈みがあるわけです。

それでも、どんなに人生の浮き沈みがあっても、イエスが示した生き方は、ずっと変えないで生きることができるのではないでしょうか。今生きている時に、イエスが「幸いである」と呼び掛けてくれるのは、この、変わらない生き方を選ぶ人々なのです。浮き沈みの激しい世にあって、変わらず、変えずに保つことのできる生き方は、まさに天の国の生き方の先取りなのではないでしょうか。

そこで最後に、わたしたちが今日のミサの中で心に留めている人々のことを思い出しましょう。あなたの心にあるその人は、イエスが示した生き方に倣って生きた人々ではないでしょうか。人生の激動を生き抜いて、どれか1つでもいいから、イエスが示した生き方に沿って歩んでいたなら、その人は天の国の生き方を先取りしていた人です。

わたしはその人々に、イエスに倣って「幸いである」と呼び掛けたいと思います。もしさまざまな人生の浮き沈みに振り回されていても、深い海の底の部分では、生き方を変えずに、イエスの呼びかけに応えた人生が流れていたはずです。

わたしはその深い部分での流れを、信じたいと思います。その人を思い返す時、振り回された表面の部分ではなくて、変わらず、変えずに生きたイエスの示す生き方を、神も見てくださっていると、信じたいと思います。

わたしたちが心に留めているすべての死者が、諸聖人の列に連なる生き方、すなわち浮き沈みのあるこの世にあっても変えずに生きることのできる生き方を持っていた。小さな事でもいいから、ぜひそのような点を思い起こして、神に感謝しましょう。

そしてわたしたちも、変わりやすい世の中にあって変わらない生き方ができることを、一人一人の生活の中で体験しましょう。その生き方は尊いのだと、周りの人に自信を持って伝えることができるよう、証しの力を願いましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼今週何を書こうか、迷うほどいろいろあったが、まずはサクラダファミリア教会の主任彫刻家・外尾悦郎氏の講演会の「横道」から。心に響くステキな講演を聞かせていただいた。質問コーナーが用意されていたので、最初に思い切って手を挙げてみたら、女性が指名された。どうやらガウディファンの人だったようで、建築に関する質問。
▼次の質問を、というのでさっと手を挙げたが、またもや別の人が指名された。時間は夜8時20分。夜9時5分の船に乗るために、タクシーで20分は必要だ。次こそは指名してもらおう、勢い込んで手を挙げたがまたも空振り。「では最後の質問を受けましょう。はい、あなた。」最後に指名されたのは別の司祭だった。
▼泣きながら、タクシーを拾える場所まで走り、急いで大波止へ。最後はどんな質問だったのだろうか。外尾先生はどう答えたのだろうか。ちなみにわたしの質問は、「建築は重力に逆らっている、ガウディは重力を利用する発想をしたという話はとても興味深く聞かせていただきました。外尾先生にとって、これまでの歩みは重力に逆らうものでしたか、重力を受け入れるものでしたか。重力に逆らう歩みでしたら、どこかで重力を受け入れる瞬間というのはありましたか」。今となっては幻となってしまったが、どんな答えをもらえたのだろうか。
▼マリア文庫という、視覚障害者のためのボランティアのグループが長崎市にある。朗読していろんな書籍や雑誌、情報などを視覚障害者に提供している。このグループが発足30年を迎え、馬込教会で30周年の感謝ミサを計画することとなった。写真を掲載しているが、写っているのはそのマリア文庫の代表を務めているシスターと、主な会員のうちの1人である。
▼この食事の時に、腹を抱えて笑い合った話をした。プライバシーと本人の名誉のためにここでは詳しくは話せないが、おかずにされた人にはゴメンなさいと謝っておきたい。わたしにとっては切っても切れない人である。話のきっかけになったことだけ触れておくと、カトリック新聞に「受難劇」の記事が載っていて、東京の大司教がはりつけにされたイエスを熱演していた。この記事から話は膨らんで、ということである。

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新企画今週の1枚
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第49回目。美味しい食事に笑顔。「はいチーズ」。シスターは顔を隠された。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マルコ12:38-44)
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