こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第18主日(ルカ12:13-21)神の前に豊かになるために

2016-07-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/07/31(No.839)
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年間第18主日
(ルカ12:13-21)
神の前に豊かになるために
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年間第18主日C年は「愚かな金持ち」のたとえが選ばれました。「神の前に豊かになる生き方」とはどのようなものでしょうか。わたしたちはどんな生き方をすべきでしょうか。

夏休み中は朝6時のミサ後にラジオ体操をしています。「頑張って来てくれた子供たちには史上最大のプレゼントをあげます」とお知らせしたのが効いたのか、よく頑張って来てくれています。まだ来てない子供たち、一度は来たけれども挫折してしまった子供たち、まだ夏休みは一ヶ月ありますから、どうぞ来てください。「史上最大のプレゼントを確かめたい」とお父さんお母さんにお願いしてみてください。

福音朗読に戻りましょう。金持ちが登場します。畑が豊作だった時、「もっと大きい納屋を作り、もっと穀物や財産をため込む」ことを考えました。自分の持ち物ですからどう使おうが勝手ですが、少なくともこの金持ちの行動は神には「愚か」に見えたということになります。

お金を使えば財布の中身は減りますし、食べ物を消費すれば保管していた倉庫に空きができるでしょう。もろもろの活動で空間ができた時、その欠けたところをどのように満たすか。この差が「愚かな者」か「神の前に豊かな者」かの分かれ目になるのです。

ではわたしたちは何によって自分の欠けたところを満たせばよいのでしょうか。今月旅立っていった一人のシスターを紹介しますので、彼女の生き方を例に考えてみましょう。そのシスターの名前は小林三枝と言って、わたしが小学生のころ、郷里の鯛之浦教会で奉仕しておられてお世話になったお告げのマリア修道会のシスターです。

小林シスターはわたしにとって大恩人のシスターです。生まれたとき助産師に取り上げられた人たちは、その助産師さんを「この世に取り上げてくださった方」として恩を感じることでしょう。そのように、小林シスターは、わたしが司祭職への道を意識していない頃からわたしに声をかけ、司祭職への道に取り上げてくださったのでした。

当時わたしは小学4年生くらい、小林シスターは堅信組のけいこを担当していました。当時は一問一答形式でまとめられた「公教要理」という本で学んでいました。先生役の小林シスターが問題を読んで、生徒のわたしたちは答えを繰り返して暗唱するという勉強でした。

記憶力がよかったわたしは、答えを暗唱するだけの勉強が次第に退屈になり、勉強会に行かなくなりました。その時間はカトリックでない友達と小学校のグランドで遊び、カトリックの友達の勉強が終わるころに示し合わせて自宅に帰ることを繰り返していました。

堅信組は学期ごとに主任司祭の試験がありました。試験はいつもその場を切り抜け、のちに長崎の神学校に入学しそこで堅信式を受けます。小林シスターは勉強会に来ないわたしをずっと心配していたはずです。もしかしたら、ずっとわたしのために祈っていたかもしれません。旅立ってしまい、もはや確認できませんが、まじめに勉強に来ている子供たちよりも、ある意味、心の中で気にかけてもらっていたかもしれないのです。

堅信組に加わるころ、けいこに来ないわたしに小林シスターは「侍者」をさせました。そば近くで司祭がミサをささげているしぐさを見て、司祭へのあこがれを持つように願ったのでしょう。侍者デビューするまで小林シスターは付きっきりでミサの時の動作を教え、指導してくださいました。

6年生になると身長が伸びて、小学生用の侍者服が入らなくなり、中学生用の侍者服を着なければならなくなりました。小林シスターはこの中学生用の侍者服をわたしに着付けさせながらこう言ったのです。「小学生でこの中学生用侍者服を着た子供は誰もいない。だからあなたは、神学校に行きなさい。」長崎の学校は丸刈りにしなくてもよいとも聞いていましたので、これ幸いと思い「神学校に行ってみよう」と思ったのです。

付きっきりで面倒を見てくれた小林シスターのおかげもあり、わたしは長崎の神学校に入り、何とか司祭になりました。前任地の浜串教会に赴任した時です。偶然にも小林シスターの妹さんが、山口さんという人と結婚して住んでいました。山口さんから、姉小林シスターは歳を重ね、静かに晩年を過ごしておられると聞き、思いきって訪ねることにしました。

訪ねてみてびっくりしました。小林シスターは認知症を患い、会話の途中何度も「中田神父様は、いまどちらの教会ですか?そうですか。浜串教会でしたか」「中田神父様は、いまどちらの教会ですか?そうですか。浜串教会でしたか」と繰り返しているのです。

小林シスターは、間違いなくわたしを司祭職への道に導こうと、人々の中から取り上げてくださった恩人です。少しは自慢しても、誇ってもいいはずなのに、小林シスターは記憶を失い、ご自分がわたしを司祭職の舞台に上げてくださった恩人であると思い出せなくなっていたのです。

記憶が欠けてしまい、記憶を満たそうと繰り返しわたしに尋ねますが、満たされません。しかしシスターを満たしてくださる方はほかにおられるのです。聖書の次の言葉を思い出しました。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ6・3)徹底的に、わたしのためにしてくれた施しを「隠れた施し」にして天国に旅立って行った。小林シスターの欠けたところは、神がすべて満たしてくださっているはずです。

わたしはこのシスターの生き方を振り返りながら、自分の欠けたところを神に満たしてもらう生き方は尊いと、改めて思いました。この世の活動はすべて、自分の持ち物を使い、減らしながらの生活ですから、何かが欠けていきます。その欠けたところを、この世のもので満たすのではなく、神に満たしてもらう生き方が、神の前に豊かな生き方です。

心と体の欠けた場所がある。欠けていると感じる。その時こそ、神に欠けたところを満たしてもらうまたとないチャンスです。何によって満たそうとするかを誤ることなく、神の前に豊かになる道を選びましょう。そのための知恵と照らしをこのミサで願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ルカ12:32-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼狐につままれたような気分である。使い物にならなくなった事務用のパソコンを廃棄処分して、代わりにノートパソコンを購入して仕事にとりかかることにした。まだすべてが軌道に乗っているわけではないが、いちおう文書作成と表計算のソフトが入っているので仕事は始めることができると思っていた。
▼パソコンをセットアップしたのが7月21日。ところが7月27日になって事態が急変した。文書作成ソフトと表計算ソフトが、「ライセンスのない製品」と表示され、ファイルを開いても何も操作できないのである。7月27日、朝9時にこの現象を確認し、それからあれこれ2時間、ネットを調べたり認証させるにはどうすればよいのかあちこちいじったが、解決できなかった。
▼呆れ果て、「オフィス製品付属のパソコンを買ったのは間違いだったのか」と、どこに怒りをぶつけてよいのかわからないまま数時間怒りをためていた。不本意ではあったが、互換性のあるソフトを入手し、2万円近くしたオフィスソフトを諦めることにした。
▼諦めたのだが、本心は諦めがつかない。そこでホームページ上で何度も見ては手を出さなかった「再インストール」の項目に沿って作業をすることにした。ADSL回線のため、この作業は避けたかったのだが、すでに何時間も時間を無駄にしているので、ダメでもいいやという気持ちでインストール用のファイルをダウンロードし始めた。
▼あちこちいじっているうちにもう一つの問題に気が付いた。Windows10の登録である。わたしはそう理解したが、Windows10も登録が必要なようなので、こちらの登録も済ませた。それと同時進行でオフィスの再インストールを進めたのだが、数時間後、あっさりライセンス登録も完了した。今日の労力は何だったのだろうか。何の意味があったのだろうか。

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今週の1枚
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第446回目。冷房をかけた部屋でバランスボール。10秒で終了。

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年間第17主日(ルカ11:1-13)しつように頼めば何でも与える

2016-07-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/07/24(No.838)
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年間第17主日
(ルカ11:1-13)
しつように頼めば何でも与える
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「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(11・1)。祈りを教えてくださいと願った弟子たちは最終的に何をいただいたのでしょうか。考えてみたいと思います。

先週書籍販売にパウロ会の修道士(たぶん)が来てくださいましたが、いろいろ売っている中で、祈祷書を買っている人がいてちょっと声をかけたくなりました。案内書に置いてある祈祷書は400円で販売しています。あの日400円以上の値段が付けてあったとしたら、もったいないなぁと思ったのです。声には出しませんでした。少なくともわたしがいる間は、案内書の祈祷書は400円にて販売します。

福音朗読に戻りましょう。イエスの弟子たちは「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。ヨハネの弟子たちが祈りを教わる姿がカッコよかったのかもしれません。そしてヨハネがその弟子たちに教えた祈りよりも、もっとカッコいい祈りを授けてもらえる。そう考えたかもしれません。

イエスは弟子の願いに答えて「主の祈り」を教えてくださいました。しかもイエスは、どのように祈るべきかも添えて教えてくださったのです。すなわち、「しつように、粘り強く願う」ということです。

わたしは小神学生時代に、この「しつように、粘り強く願う」ことを体当たりで経験したことがあります。中学3年生でした。当時神学生は100人近くいて、食堂にはテーブルが15台も並び、1つのテーブルに6人掛け、7人掛けしてぎゅうぎゅうになって食事をしていました。

テーブルはすべて縦割りの班でして、学期ごとに班の入れ替えがありました。台ごとに「台長」と呼ばれる最上級生がいました。この台長が思いやりのある人であれば食事は楽しいし、思いやりのない人、意地悪な人の場合は食事は楽しくないので、楽しみの少ない神学校生活で「台長に恵まれますように」というのは誰もが願うことでした。

中学3年生の新学期、自分が割り振られたテーブルの台長は「意地悪番長」といった感じの人でした。夕食は6時からでしたが、部活などで中学生は遅れて戻ってくることもありました。遅れると必ず台長に遅れた理由を言って、許しが出たら食事の席に着くのですが、その台長はなかなか許してくれず、ずいぶん困らされていたのです。

そんなある日、事件が起こりました。その日の食事に「わかめスープ」が出ていました。焼肉屋さんで出るような「わかめスープ」が、学校給食で使うような大鍋に入れてテーブルに置いてあるのです。この日全員がそろって食事ができたので、無事に食事が始められると思っていたのですが、わたしたちの班にいた中学1年生が運悪くワカメが嫌いだったようです。「食べられない」と言い出しました。

台長の顔色が変わり、テーブルは凍り付きました。「なぜ食べられない?お前が食べるまで、この夕食は終わらないからな。」台長は好き嫌いを決して認めず、何時になっても食事を終わらないと言うのです。そうなると夕食後の自由時間も奪われるし、それ以上に宿題をするための自習時間も無くなってしまいます。

テーブルの仲間たちは誰も「先輩。勘弁してください。無理を言わないでください」そんな助け舟を出してくれる人はいませんでした。もちろんわたしも恐ろしくて言えませんでした。

そのときわたしは一つのことをひらめいたのです。「台長はわかめスープを食べ終わるまでと言っているのだから、後輩の中学1年生が食べるはずのわかめスープが全部無くなれば、台長も無理は言わないだろう。だったらわたしが全部食べてしまおう。」それでわたしは大鍋にいっぱい入ったわかめスープを、どんどんお代わりし始めました。

5杯、7杯、10杯、13杯。15杯。もう腹から吐き出しそうにありましたが、鍋にはワカメは見えなくなりまして、その時ようやく台長がこう吐き捨てたのです。「お前はよっぽどワカメが好きなぁ。」そしてその日の夕食をやっと終えることができました。

当時わかめスープが食べられないと泣いていた中学1年生がどうなったかは分かりません。台長として威張り散らしていた先輩は、高校を卒業すると神学校を辞め、ガソリンスタンドに勤めたと聞いています。わたしの思いが先輩に伝わっていたのか、今でも知りたいと思います。

当時の台長は一切の事情を汲んでくれませんでした。しかし、願い求めなければ事態は動かなかったので、わたしは恥も外聞も捨て、粘り強く願ったのです。言葉ではなく態度で。そのなりふり構わない態度が台長に届き、渋々ではあっても求めに応じてくれたのだと信じたいのです。意地悪な人間でさえそうであるなら、いつくしみの神が粘り強く願う人間に答えてくれないということがあるでしょうか。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(11・9-10)わたしは自分の体験からこう思っています。イエスの言葉は信じる価値がある。しつように、粘り強く願う。イエスが教えた「主の祈り」は、この「しつように、粘り強く願うこと」とセットで与えられたのだと思うのです。

イエスは祈りを教えてくださいと願う弟子たちに、「主の祈り」と「どのように祈るか」をセットでお与えになりました。それは言い換えれば、「必ず聞き入れられる祈り」を与えてくださったということです。

わたしたちは「主の祈り」を、どのように受け止めているのでしょうか。しつように、粘り強く願う祈りとして、また願いが必ずかなう祈りとして受け取りましょう。人々に、「わたしは主の祈りを唱えて与えられた。見出した。開かれた」と証しできる体験を与えていただけるよう、このミサの中で願い求めることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ルカ12:13-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼後日談。説教で出てきた「意地悪番長」は実は心優しい先輩だった。神学校は去ることになったが、ガソリンスタンドに就職し、最初にもらった給料をそっくり神学校に寄付してくれたそうだ。
▼そうやって恩を返すことはなかなか思いつかないものだ。最初にもらった給料だから、自分の夢のために使ってみたいはずだ。それを、育ててくれた神学校に寛大に寄付してくれた。わたしは、その一つのエピソードだけでこの先輩の過去は水に流していいと思う。
▼しかしながらあの時のわかめスープはきつかった。15杯は嘘でも何でもない。「早く気づいて、俺に免じて許してくれ。」そう思いながらひたすら流し込んだ。しかし他の先輩たちも、この怖い台長を心変わりさせるために何かできなかったのだろうか。少なくともわたしと一緒にわかめスープを飲んでくれていたら、わたしは15杯もお代わりする必要はなかったのに。
▼後になって、その人の本当の姿がわかるということはよくあるものだ。わたしは中学1年生の時に、規則違反を犯したという理由で、2時間以上正座させられたことがあった。高校3年生の生徒会長だった先輩が座らせたのだが、「自分の間違いを認めたら許してやる」と言われたが、身に覚えがないのに座らされたと思っているわたしは最後まで間違いを認めず、正座から解放してもらえなかった。
▼最後には先輩がしびれを切らし、「もう自習室に帰れ。強情な奴め。」と言われた。その先輩は福岡の大神学院に入学したが、わたしが入学した時にはもう辞めていて、いつか懐かしい人に会おうと面会に来た。大神学院の面会係は新入生の仕事で、わたしが玄関に行ってみるとかつての先輩が立っていて「おう。久しぶり。元気か」と声をかけてきた。
▼わたしはなぜか怒りがこみあげてきて、「気安くあいさつされる覚えはありません」と吐き捨てた。わたしは中学1年生の時の仕置きを忘れていなかったのである。自分で自分の醜さを見た思いだった。

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今週の1枚
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第445回目。召命フェスティバルin田平。司祭と志願者のバンドで歌を披露。

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年間第16主日(ルカ10:38-42)それを取り上げてはならない

2016-07-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/07/17(No.837)
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年間第16主日
(ルカ10:38-42)
それを取り上げてはならない
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「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(10・42)年間第16主日C年の朗読に選ばれた「マルタとマリア」の物語の最後の場面です。ここに注目して今週の学びを得ることにしましょう。

水曜日の雷は怖かったですね。賄さんの雷が落ちたのかと思いました。怖いだけならまだしも、精密機械に影響が出ました。電話とパソコンです。電話と、ADSLモデムはレンタルなので業者が取り換えに来てくれたことで解決しましたが、パソコン本体はそうはいきませんでした。

どうやらパソコンからインターネットにつながるLANケーブルのコネクタがショートしたらしく、ケーブル接続でのインターネットが使えなくなりました。今のところ、Wi-Fiという無線接続でインターネットにつないでいます。場合によっては主任司祭の賽銭会計から新しいノートパソコンを購入して、司祭館備え付けにすることも考えています。

福音朗読に戻りましょう。お手元に年間第16主日のパンフレットをお持ちの方は挿絵をご覧ください。お持ちでない方は入り口近くにある小さなパンフレットをご用意ください。ちなみにパンフレットは大きなものに取り換えると言っておりましたが、催促の連絡をしてみると4月に入れていた連絡に行き違いがあり、先週いただいた返事では9月のパンフレットから大型版に変更してもらえるそうです。

パンフレットの挿絵は、第一朗読で読まれた「三人の客をもてなすアブラハムとサラ」が挿絵となっています。昔の人たちは挿絵が聖書を学ぶ助けになっていました。なぜかと言いますと、かつては識字率が非常に低かったので、文字の聖書を理解できる人が少なかったのです。

参考までに、教会を飾っているステンドグラス、ここ田平教会も立派なステンドグラスがはめ込まれていますが、ステンドグラスの本来の目的は教会の装飾ではなく、文字を読めない多くの人に聖書を学ばせる助けとして、教会での授業の教材に使われていたのです。

福音朗読は、姉のマルタがせわしく立ち働いて客であるイエスと弟子たち一行をもてなす場面です。パンフレットの挿絵のように、いろんなものを並べてごちそうしたことでしょう。姉の考えでは、妹のマリアはぼおーっとしてイエスの話を聞くだけで手伝おうとしないのです。なんと気が利かない妹だろうと、姉マルタの目には映ったことでしょう。妹マリアを手伝わせるように、イエスに催促しました。

ところがイエスの反応は違っていました。妹マリアには見どころがある。お姉さんのマルタもそこに気づいてあげなさい。そういう返事でした。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(10・41-42)

ここで一つ、翻訳の問題を取り上げたいと思います。わたしたちが読んでいる日本語の聖書、ミサの朗読では新共同訳聖書が読まれていますが、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」という部分は、実はかなり踏み込んだ翻訳をしております。今回はできるだけ元の意味に近い翻訳を知っておいたほうが良いと思います。

新約聖書が書かれたのは本来ギリシャ語です。ということはギリシャ語の聖書から元の意味に近い翻訳を引き出すのが理想ですが、わたしの勉強不足でギリシャ語はチンプンカンプンです。英語の翻訳でしたら少しは分かるので参照しますと、”Mary has chosen the better part and it will not be taken from her.”となっています。この翻訳に沿って日本語訳を考えると、「マリアはより良い方を選んだ。そしてそれは、彼女から取り上げられることはないだろう」と読めるでしょう。日本語新共同訳聖書のかなり踏み込んだ翻訳「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と比べると、説明が必要なことが分かります。

日本語としてはぎこちないですが、「それは彼女から取り上げられることはないだろう」この解釈に沿って考えてみましょう。妹マリアはイエスのもとに座って一心に話を聞いていましたので、イエスの言葉が彼女の心の中にしっかりと刻まれました。姉のマルタは、イエスの話を聞きつつ、もてなしにも心を砕いていましたので、イエスの言葉がしっかり刻み付けられるところまで至ってなかったかもしれません。

「彼女から取り上げられることはないだろう。」これは未来のことを言っています。神の言葉がいったん心に深く刻まれたなら、それは、もう取り上げられることはない。この先どんなことがあっても誰からも取り上げられることはない。」そういう意味ではないでしょうか。

物語のその後は描かれていません。おそらく、姉マルタの求めに応じて、マリアはイエスと弟子たち一行をもてなすがわに回ったのかもしれません。けれども、すでに深く心に刻まれたイエスの言葉は、姉と一緒にもてなしに忙しく立ち働いても、取り上げられることはないのです。

ここに、イエスがマルタとマリアに求めている思いがあると考えています。わたしたちは、まず神の言葉を心に深く刻む必要があるのです。それからそれぞれの本分を果たしなさいと促します。初めに神の言葉を深く心に留めるなら、その後にどんな仕事に入っても大丈夫。神の言葉はあなたから取り上げられることはないだろう。こういうことです。

もしその順番を間違ってしまえば、神の言葉は深く心に刻まれず、いつかはこの世の忙しさに紛れて取り上げられてしまうのです。イエスは言います。「マリアは良い方を選んだ。」効果的に神の言葉を深く心に刻み、それから生活に入っていく。イエスはこのリズムをわたしたちにも期待しています。その助けになるのは日曜日のミサです。

わたしたちがどんなに忙しくなってもみ言葉が心の中から取り上げられることのないように、ここに集い、ミサにあずかることを大切にしましょう。周りの人に対しては、「神の言葉が取り上げられてしまうような生活の組み立て方をしてはいけない」と、はっきり言える人でありましょう。そのための力をミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ルカ11:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼7月16日夜、地域の「夏祭り」が開催され、保育園は園児たちの太鼓の披露を依頼されているそうで、駆り出されるという。そのあおりを受けて、わたしは久しぶりに小学1年生の要理の代用教員を務めることになっている。どうなることやら。
▼「夏祭り」は天気が大いに影響する。16日の朝ミサの帰り、典礼委員長の男性とこの日の晩の天気の話になり、「どうせ雨だろうよ」とわたしが切り捨てたところ典礼委員長はとっさに顔色を変えた。
▼「だめですよ神父さま。そんなことを平気で言っちゃ。こんな時は『晴れるといいですね』とお世辞でも言うもんです」と言われた。しかも保育園に勤めるシスターのところに飛んで行って、「晴れるといいですね」とわたしに聞こえるくらいの声で言っていた。そんなごまをすっても、天気が変わるはずもないのに、と思う。
▼説教でも触れたが、ノートパソコンのLANケーブルを差し込むコネクタがショートしたらしい。なんと恐ろしい雷だろうか。無線LANでつながることはつながるが、速度が落ちるのではないかと心配している。ただでさえADSLの速度にへきえきしているのに、それ以上に速度が落ちるなら、もうネット上の宣教活動である音声のアップロードはできなくなる可能性がある。もちろんメルマガには影響ない。
▼どうやら雷で年に1度とか2度、被害の出る地域らしい。毎度毎度パソコンを破壊されていてはたまったものではない。電源につながないことで、おそらく被害は最小限に抑えられると思うから、仕事を後回しにしてでもパソコンを守ることにしよう。

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今週の1枚
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第444回目。直射日光でしばらくiPhoneが使えなくなった。放置にご用心(汗)。

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年間第15主日(ルカ10:25-37)行って、あなたも同じようにしなさい

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「今週の説教」
16/07/10(No.836)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
行って、あなたも同じようにしなさい
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年間第15主日C年の朗読として「善いサマリア人」のたとえが選ばれました。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(10・37)と呼びかけます。きっとそれは、わたしたちにも向けられた言葉です。どのように理解し、消化すべきか、考えることにしましょう。

参議院議員選挙投票日となりました。国民の義務を果たすため、確実に一票を投じに行ってください。ちなみにわたしは期日前投票をしに新上五島町に行ってきました。選挙区選挙の投票用紙には3人の候補者のうちの1人を投票しました。比例代表選挙の投票用紙には「ん党」と書いて出してきました。皆さんの想像にお任せします。

福音朗読は「善いサマリア人」のたとえです。わたしは皆さんの期待を裏切るような話から始めようと思っています。「善いサマリア人」は滅多に現れない。わたしの経験から学んだことです。それを物語る2つの経験を紹介します。

わたしは以前、スズキの250ccKATANAに乗っていました。当時は今以上に運転技術が未熟でしたが、このバイクにどうしても乗りたくて普通自動二輪免許を取りに行った手前、乗りこなせないのは承知の上で、KATANAを乗り回していました。都合6年くらい乗ったでしょうか。

このバイクでわたしは二度転倒事故を起こしました。一度はいわゆる「立ちごけ」です。これは大した怪我ではなかったのですが、もう一度は道幅の狭い下り坂で砂にタイヤを取られてのスリップ事故でした。バイクは道路脇の溝にはまり、想像がつくと思いますが、すねから太もも、腰にかけて思いっきり擦り傷を負いました。

事故は司祭館からKATANAで出発し、峠を越えてあと少しで国道に出ようとする場所で起きました。このとき後ろから、パジェロがずっとついてきていたのです。司祭館を出た直後からついてきていたので、おそらく教会の信者だったと思います。砂にタイヤを取られ、転倒して溝にはまった時、「痛い」より「恥ずかしい」という気持ちでした。

わたしのすぐ後ろをついてきていたパジェロはどう思ったでしょうか。減速して、そーっと脇をすり抜けてしまいました。声もかけてもらえませんでした。わたしもいつまでもそこにいたくなかったので何とか起き上がり、エンジンがかかることを確かめてから、溝から引きずり出し、この後どうするかを考えたのです。その間あと一台見知らぬ車が素通りしました。とうとう「善いサマリア人」は現れませんでした。

もう一つの例は、溝にはまっている車をわたしが目撃した体験です。当時わたしが赴任していた教会はつづら折りの坂を下りて行った谷底のような集落にある教会でした。その日は大雨で、車のワイパーをすごく早く動かしながら運転していました。また月夜間の期間でもあり、遠洋漁業の仕事から帰ったお父さんたちで賑わっている時期でした。

その日の朝、巡回教会のミサを終え、いつものように上の道路から谷底の集落の教会へと帰る途中、一台の軽自動車が道の脇で止まっていました。大雨の中、タイヤを溝に落として身動き取れずにいたようでした。わたしは運転手を見ませんでしたが、こう考えたのです。

「あー。誰かお父さんが前の晩に一杯ひっかけて運転して、操作を誤ったか。かわいそうに。」ここで車を降りて動けなくなっている人に近づいていれば、わたしは「善いサマリア人」になれたはずです。ところがわたしは、「まぁ、誰か船の友達が助けに来るでしょう」そう考えてそのまま立ち去ったのでした。

ここで話は終わりませんでした。司祭館の賄シスターの報告で急展開します。賄シスターがこう言うのです。「いやぁ、参りました。この大雨の中、タイヤを溝にはめてしまい動けなくなったんです。どうしようかなぁとじっと待っていたら、船員さんが声をかけてくれました。その人はすぐ仲間の船員さんたちを呼んできて、たった今助けてもらいました。」わたしはその場を通りかかったとは言えませんでした。

結論を申し上げますと、「善いサマリア人」はそうやすやすとは現れないのです。わたしが困難にあえいでいた時、すぐ後ろからついてきていた人、しかもおそらく当時赴任していた教会の信者が、素通りしていったのです。反対にわたしが「善いサマリア人」になれるチャンスが巡ってきたときは、「誰か仲間が助けてくれるでしょう。」そう言って助けようとしなかったのです。

しかしこれで終わったのでは、イエスのたとえは何の意味も持ちません。イエスは最後に「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(10・36)と問いかけ、正しい答えを選んだ律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい。」(10・37)と言われたのです。この「行って、あなたも同じようにしなさい」は、当然わたしたちにも向けられているのです。

現実には、「善いサマリア人」は滅多に現れません。統計上もそうです。日本全体でカトリック信者は100人に1人しかいないのです。車が100台通って、やっと1台巡ってくる確率なのです。だからこそわたしたちカトリック信者は、その「滅多に現れない『善いサマリア人』」であるべきです。

アパートに住んでいても、隣の人は誰なのか知らない。そういう時代にわたしたちは生きています。そんな時代にあって、わたしたちは滅多に現れない人、滅多にいない「報いを求めずに手を差し伸べる人」となりましょう。それこそが、聖書を開いて街頭で大声で叫ぶよりも、イエスキリストを確実に告げ知らせる効果的な宣教だと思います。

一人でも多くの人が、わたしの差し伸べる「報いを求めない手」を通して、イエス・キリストを知ることができますように。そのための力を、このミサの中で願い求めましょう

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(ルカ10:38-42)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼転勤して初めて前任地の教会に行った。期日前投票を名目にして、釣りも楽しむためである。浜串では喜んで会いに来てくれる人がいて、懐かしさと、人のやさしさに触れた。お土産ももらい、いつまでも覚えてくれて心にかけてくれる人たちがいるのだと感心した。
▼前もってお願いしていた人にボートを海に浮かべてもらっていたので、ギリギリまで釣りを楽しむことができた。勝手知ったる、という感じの海で、イメージ通りの釣りができたが、マダイを釣ることはかなわなかった。最終的にイトヨリを10匹くらいと、その他の魚を釣っただろうか。
▼「レンタカーを魚釣りに利用しないでください」と、貸主からきつく言われていたので、せめて臭いを極力残さないようにと、釣りを終えてからすぐに司祭館に立ち寄り、着替えさせてもらい、道具類も手早く水洗いして、臭いがこもらないように注意した。ローカルルールなのか、レンタカーを借りる条件に「魚釣りの使用禁止」という話は初めて聞いた。
▼前任地に行ったのはもちろん釣りだけではない。在任中に終わらせることができなかった「故障した聖櫃を新しいものに入れ替える」計画が無事に終えているかを確かめるためだった。聖櫃は立派なものが納入され、聖堂内に設置されていた。三か月前までここにいたわけだが、新しい聖櫃の前にひざまずいてみると、やはり違う土地からやってきたような気分になった。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第443回目。新しい聖櫃が無事に納められていた。寄付してくださった方に感謝。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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年間第14主日(ルカ10:1-12,17-20)あなたがたの名が天に書き記されている

2016-07-03 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/160703.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
16/07/03(No.835)
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年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
あなたがたの名が天に書き記されている
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年間第14主日C年の朗読として、七十二人の任命と宣教活動への派遣の様子が選ばれました。今週のように福音朗読が長い形と短い形を用意しているときがありますが、わたしは、短い朗読の形では省略される七十二人が宣教から帰ってきて報告し、イエスがさらに言葉をかける部分に注目したいと思います。

田平小教区で初めての霊名の祝いを迎えることができます。「霊名の祝いを迎える主任神父さまのために祈りましょう」という声を聞くたびに、何かくすぐったい気持ちを覚えながら、この日を迎えました。皆さまのお祈りに心から感謝いたします。病人訪問に出かけたときにも、「霊名のお祝いおめでとうございます」と声をかけてもらいました。

こんなに気にかけてもらい、本当に幸せだと思います。個人的にお祝いをくださる方もいらっしゃいました。これからの働きでお返しできればと思っております。なおわたしのポケットは若干の余裕があります。

新上五島町から、参議院議員選挙投票所への入場券が郵送されてきました。説明の紙には(1)当日新上五島町に投票に来るか(2)新上五島町に期日前投票に来るか、(3)いろいろ面倒くさい手続きを新上五島町にお願いして投票用紙を郵送してもらい、近くの投票所で不在者投票をするか、いずれかにしてくださいと書いてありました。

長崎教区の司祭たちは基本的に面倒くさいことを嫌う人種です。不在者投票を田平でするための手続きを新上五島町に申請するくらいなら、浜串生活館の投票所に投票に行ったほうがおもしろそうだなとわたしは思いましたので、火曜日に期日前投票のため五島に行くことにします。

予定では火曜日午後のフェリーに乗るのですが、せっかく五島まで行くのに投票所の紙一枚だけ手に持っていくのはあまりにももったいない。ということで、釣り竿も持って五島に行ってこようと思います。ただし五島で魚が釣れたら、実家に置いて来るつもりです。

福音朗読に戻りましょう。長い朗読の形では、七十二人が喜び勇んで宣教から帰ってくる様子が描かれています。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(10・17)驚くような体験をしてきているので、イエスに報告したくてたまらないという雰囲気が伝わってきます。

七十二人はイエスが「そうかそんなことがあったか。それは見てみたかったなぁ」こんな迎え方をしてくれるものと思っていたでしょうか。思っていたかもしれません。しかしイエスは、この弟子たちの興奮から少し距離を置いて話しています。

「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(10・20)どんな華々しい奇跡よりも、名前が天に記されていることを喜べと言うのです。天の父に名前が記憶されていることが、何より大事だということです。

先週わたしは広島に行き、引退してすでに名誉司教となっておられた三末司教さまの葬儀ミサに参列してきました。もともとは野球観戦のためにこの日を押さえていたのですが、不思議なめぐり合わせで名誉司教の葬儀ミサにも参列することができました。

大阪教区大司教の前田司教さまが葬儀ミサの主司式を執り行いました。説教は三末名誉司教の人柄をしのばせるすばらしいものでした。その中で「神のなさることは時にかなって美しいと言うけれども、本当だなぁ」と思わせるエピソードを紹介してくださいました。

三末司教さまがお亡くなりになったのは6月28日未明です。その2日前、6月26日にフランシスコ教皇さまは、広島教区の次の司教として白浜 満師を第七代の教区長に任命されました。そして、その通知は日本におられる教皇大使を通して、手紙で三末名誉司教にも届いていたそうです。

28日名誉司教が亡くなり、部屋に入ってみると、次の教区長が決まったという手紙が、開封されて机の上に置かれていたのでした。つまり引退された三末名誉司教は、後継者が決まったことをその目で確認して、安心して神さまのもとに旅立ったわけです。

神さまのご計画は、筋書きのないドラマだと思います。いつ後継の司教さまが指名されるか、いつ名誉司教さまが天に召されるか、誰にもわかるはずがありません。それなのに、確かに後継の司教さまを見届けて、名誉司教が旅立った。司教叙階という恵みによって天にその名が記されている人々だからこそ、起こる出来事なのだと思いました。偶然そのようになったのだと説明するには、あまりにもでき過ぎた話だと思ったのです。

わたしたちの人生で確実に喜ぶことのできるものは本当に限られています。給料が上がったと喜んでいても、次には半分の給料を提示され、しぶしぶ受け入れなければならないかもしれません。目の前に起こる出来事は、生じては消え、絶えず流転していくのです。

そんな中にあって、わたしたちが洗礼によって堅信によって叙階によって、一度天にその名を刻まれれば、その喜びは決して奪われることがないのです。今日わたしが霊名のお祝いを受けているのも、わたしの霊名が、天に記されていることを皆さんに喜んでもらっているのだと思います。

「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」秘跡は、皆さんの名が天に書き記される確実な体験です。この世でどれだけのことを残したり成し遂げたりしたかを喜ぶよりも、秘跡によって自分の名前が天に記されたことを喜ぶ人となれますように。このミサの中で恵みを願ってまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼土曜日。一日のうちに面白いことがいくつも重なった。朝9時、太田尾(大島崎戸)時代の信徒からの電話があり、「どうしてる?観光バスの運転手をしていて、今日そっちに行くからね。船にはなかなか乗れてないだろう?」とねぎらってもらった。
▼その10分後、田平の信徒から「釣りが好きで、船に乗るなら、わたしの船を今日見に行かないか?」という電話。「渡りに船」とはこのことだ。「喜んで見せてもらいます」と返事をして、午後から船の視察に行く約束をした。
▼その10分後。前任地の浜串に今度はわたしから電話。「期日前投票を名目に釣りに行くので、○○さんにお願いして船を降ろしてもらってほしい。」「いいですよ。」これで選挙以外にも五島に行く楽しみが増えた。家族の顔を見て、浜串の人たちの顔を見ることにしよう。
▼7月3日が聖トマスの霊名の祝い。わたしは2日に子供たちから前祝いを受け、顔が緩みっぱなし。50歳にもなると小学生は孫のようなものだ。目に入れても痛くないと言うらしいが、さすがにそこまでは感じなかった。

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今週の1枚
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第442回目。小学生と。この子たちは将来わたしを覚えているだろうか。

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