こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)永遠の命を養うイエスに弟子たちも仕える

2012-07-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/07/29(No.602)
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年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
永遠の命を養うイエスに弟子たちも仕える
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夏休み期間中、説教はなるべく堅信組の中学生に聞いてもらいたいので、堅信組の心構えと少し結びつけながら話しをしていきたいと思います。そして説教は必ずホームページやブログにも載せていますので、仮にミサに参加していなくても、「こうじ神父」という文字で検索をすれば、インターネットでわたしのブログやホームページが見つかりますから、そこで説教をチェックして夏休み期間中の補いとしてください。

今週の福音朗読は、「五千人に食べ物を与える」という奇跡物語です。この奇跡物語は、聖体の秘跡を考えるのにもってこいの話です。イエスは数え切れないほどの群衆を前にして弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6・5)と質問しました。

ここでイエスは、集まっている群衆はみんな食べ物が必要な人だと考えています。食べ物が必要な人、別に必要でない人、いろんな人がいるのではなくて、集まっているすべての人が、食べ物が必要なんだとフィリポに考えさせているのです。それは、大震災に遭った東日本の人たちとか、大雨で被害を受けた福岡熊本大分の人々のような状態です。

質問されたフィリポも、集まっているすべての人が食べ物を必要としていることを理解しました。けれども、買いに行ったのではまったく足りないことも感じています。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6・7)。

そこでイエスは、この数えることもできないような大群衆を食べさせるただ一つの方法は、ご自分が食べ物を与えることだと教えます。言葉ではなく態度で、「大麦のパン五つと魚二匹」(6・9)から、集まっているすべての人に食べさせることができるのはイエスただ一人なのだということを教えようとされました。

同じことは、今この時代にも当てはまります。日曜日の礼拝のために、わたしたちはここに集まりました。五人とか、十人ではありません。何十人も、あるいは百人以上の人が、ここに集まっています。そして集まったすべての人が、食べ物が必要なのです。

この集まったすべての人に食べさせることができるのはいったい誰でしょうか。主任司祭でしょうか。そうではなく、ここでもイエスが、ご聖体となってわたしたち全員の食べ物となってくださるのです。イエスがわずか五つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてくださることで、わたしたち皆に、食べ物を用意してくださるのです。

一つ、ここで触れていないことがあります。それは弟子たちの働きです。イエスが数え切れないほどの群衆の食べ物を用意してくださるのですが、食べ物が群衆に確実に行き渡るためには、弟子たちの働きが必要になります。人々は草の生えた原っぱに座らせたままです。食べ物は弟子たちによって運ばれる必要があるのです。

わたしはここに、堅信組の中学生の働きが示されていると思います。堅信を受けている人、これから堅信を受けようとしている人は、今週の福音朗読「五千人に食べ物を与える」奇跡物語で、イエスだけが、数え切れないような人に十分な食べ物を与えてくださることを知りました。

学んだことは、実は学んで終わりではなくて、知らせに行く必要があります。数え切れないほどの人が、みんな食べ物を必要としています。それぞれが買いに行って食べる食べ物ではなく、買いに行っても手に入らない、永遠の命を養う食べ物が必要なのです。

人々はイエスが座らせて食べ物を待っています。それを届けるのは弟子たちです。イエスが食べ物を与えてくれる方だと学んだ人が、イエスが与える食べ物を配る必要があります。堅信組の中学生が、永遠の命の食べ物は、イエスさまが与えてくださると、数え切れないほどの群衆に知らせに行く。中学生が今の時代にもこの教えを届けに行くことが、期待されていると思います。

永遠の命を養う食べ物はこれです。ここに集まれば、永遠の命の食べ物にたどり着きますと、堅信組の中学生が知らせに行くことを、イエスは今期待しているのだと思います。

パンは無駄にならないように集められました。そして集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになりました。この集められたパンは、今日この時間に集まることができなかった人々に届けるためのものです。健康がすぐれなくて自宅にじっとしている人、病院に入院している人、いろんな理由にがんじがらめになって日曜日に教会に集まれなかった人のためにあります。

弟子である堅信組の中学生が、残ったパンがまだありますと、どれだけたくさんの人がイエスに食べ物を求めても、イエスはご聖体の秘跡となって、永遠の命を養う食べ物をくださいますと、知らせて回る必要があります。これは、堅信組の中学生にもできる働きです。

今週イエスさまは、五千人に食べ物を与える奇跡の物語で、ご自分が数え切れないほどの群衆に永遠の命を養う食べ物を与えるかたであることを教えられました。堅信組の中学生は、イエスがご聖体の秘跡となって、すべての人の永遠の命を養うことを知らせに行く必要があります。永遠の命を養う食べ物がここにありますと、知らせに行くことをイエスさまは期待しています。

聖霊の賜物に強められて、堅信組の中学生がイエスの弟子としてすべての人にご聖体が行き渡るように働くことができますように。ご聖体の秘跡を受けた堅信組の中学生が、残ったパンを必要としている人にも働きかけに行くことができますように。このミサのなかで恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼たぶん何か書く予定があったのだと思うが、忘れてしまった。この次からは書くべきネタが思い付いたら、すぐメモを取るようにして、活用できるようにしようと思う。瞬間瞬間で、書きたいことが変わってくるし、書こうと思ったことよりも重いことが直前に発生するかもしれないから、柔軟に対応するためにはメモを取る。これしかない。
▼後輩の司祭が脳出血で手術を受けた。高度な手術は離島では受けられないのか知らないが、ヘリコプターで大村市に搬送されたそうだ。大村市には国立病院があるし、設備も離島より整っているのだろう。脳出血が人間の病気やケガのなかでどの程度重いものなのか分からないが、二三日ではとても帰って来られないことは確かだ。
▼病気にかかったことは確かに残念だし心配だ。ただ、「そういうこともあるだろうよ」と思われるとしたらどうだろうか。外見や、行動から推測して、「あの様子では、その病気にかかっても不思議ではない」と思われているとしたら、それは本人の責任も出てくるのではないだろうか。
▼後輩の入院と緊急手術で、該当する小教区はだれか他の司祭がカバーしなければならなくなる。当然協力はするが、「そもそもこうなった原因があるのではないか」という思いが頭の隅にあれば、負担の感じ方も違ってくる。はっきり言えば、それは本来回ってくるはずの負担ではないでしょうと思いたくなる。
▼もちろん今はいろいろ言ってはいられない。困っている小教区の人たちは、牧者のいない羊だ。今こそ手を差し伸べる時だ。8月5日には小学生のドッヂボール大会も控えている。11月11日には堅信式もある。それまで中学生の準備も必要だ。小教区の諸活動もあるに違いない。手分けして、分担してあげよう。
▼「お互いさま」「明日はわが身」そういう面もある。だから、せめてできる努力はして、「なぜあれだけ努力していたのに病気したのだろうか」と、その程度の自己管理は欠かさないようにしよう。利用できる検診は積極的に活用しよう。せめて牧者として任されている羊を置き去りにしないために、心を砕こう。

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今週の1枚
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第209回目。消火訓練・避難訓練を終えて。消防署の指導を受ける。

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年間第16主日(マルコ6:30-34)神の望みに答えるために、休む

2012-07-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/07/22(No.601)
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年間第16主日
(マルコ6:30-34)
神の望みに答えるために、休む
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「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(6・31)。イエスが弟子たちにねぎらいの言葉をかけています。弟子たちは初めてイエスに派遣されて宣教活動に出かけました。緊張の連続だったことでしょう。そしてイエスのもとに帰り、報告をすると、イエスは「しばらく休みなさい」とねぎらってくださいました。イエスが弟子たちにうながした休みを、今週は考えることにしましょう。

わたしは、イエスと弟子たちのあいだでの「休み」というとき、「永遠の安息」という意味と、「つかの間の安息」という意味の両方を考えます。イエスは、そのどちらも与えることができるお方です。しかしここでは、「つかの間の休息」を意味しているのだと思います。「しばらく休みなさい」と、「しばらく」という言葉がくっついているからです。

「つかの間の休息」ですが、大切な休息です。それは、休むことで本来の自分を取り戻し、次によい働きをすることに繋がります。

哲学を習っていた時代に、教えていた先生がレクレーションの意味について話してくださいました。カタカナでレクレーションと書いても特別な意味はありませんが、英単語のrecreationはラテン語のre-creatioの意味で、「再び創造する」「本来の自分を再び取り戻す」という意味があると教えてくださいました。

イエスが弟子たちにうながした「休み」が、この「再び本来の自分を取り戻す」ことに繋がる「休み」だったのだと思います。ところでこの「再び本来の自分を取り戻す」という様子は、みなさんが頭で考えていることと同じでしょうか。もしかしたら、違うかもしれません。

「本来の自分を取り戻す」と言いましたが、みなさんが考える「本来の自分」とはどんな姿でしょうか。たとえば土曜日日曜日の自分なのか、月曜日から金曜日の自分が本来の自分なのでしょうか。また、会社にいるときの自分が本来の自分なのか、家庭や自分の住む家にいるときの自分が本来の自分なのでしょうか。いろいろ考えると、「本来の自分」とは何を表すのか、人によって少しずつ違いがあるかも知れません。

イエスが、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と仰って弟子たちに本来の自分を取り戻させようとしたとき、イエスが考えていた姿はどんな姿だったのでしょう。イエスが与えた指示のなかに、考えるヒントがあると思います。

まず「あなたがただけで」とあります。弟子たちがつながりを持っている人はいろいろいたかも知れませんが、イエスに派遣された者たちだけで休むように指示しています。「人里離れた所へ行って」というのは、神の前に自分を置いてという意味に取るとよいでしょう。人に疲れただろうから、人を避けなさいという意味ではありません。神とじっくり向き合うための時間が、イエスの与えようとする休息です。最後に「しばらくの間」です。弟子たちはイエスに派遣されている者です。イエスが新たに派遣するそのときまで、派遣に備えるための充電です。

こうしてみると、イエスが弟子たちに取らせようとしている休み、「本来の自分を取り戻す休み」は、神の前に自分を置いて、神とじっくり向き合うことで与えられるもののようです。わたしたちが、「本来の自分を取り戻す場所」「本来の自分を取り戻す方法」として考えていたこととは、ずいぶん違っていたかもしれません。

けれども、イエスが弟子たちに与えようとしている休みは、実はわたしたちに必要な休みでもあると思います。わたしたちは神に創られ、神に生かされて今生きています。わたしたちが本当の意味で充実した生活をするためには、神の望みにかなった生き方をすることがどうしても必要です。その、神の望みにかなった生き方を取り戻すために、神の前に自分を置き、神とじっくり向き合う。その時間が必要なのです。

それは家庭祭壇があるなら家庭祭壇の前での祈りとか、静かな時に教会に来て、特別何かを祈らなくてもいいから、しばらくのあいだ自分を教会の中に置くこと。そうすることで、わたしたちは本来の自分、神に生かされ、神に創られたことを感謝して生きる生活を取り戻すことができるのです。

金曜日、子供が3人司祭館にやって来て、シスターはいないかとずいぶん粘られました。シスターも休憩したいのになぁと思ったものですから、「神父さまが見張りをするから、海に泳ぎに行かないか?」と誘ったのです。すると子供たちはシスターを引っ張り出すことをあきらめ、一緒に泳ぎに行くと言い出しました。

泳いでいる子供たちの見張りをしながら、わたしはひさしぶりに何か違った休息を楽しんでいると感じました。うまく言えませんが、自分のしたいことをして休むのではなく、わたしが神に感謝して生きるために、子供たちの見張りをしたことが休みになったのです。イエスに次に派遣されていくまでの時間を、子供たちを見張ることで充電にあてることができました。

わたしたちがイエスに派遣されている場所や形はさまざまです。派遣の呼びかけによりよい形で答えるために、休息は必要です。神に創られたわたしたち、神に生かされているわたしたちが、今日という日を使って神の望みに答える。そのために必要な充電を神に求めましょう。神が招いてくださる場所で充電を完了して、ためた電気で神さまのためによい働きができるよう、ミサのなかで願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼子供たちの夏休みが始まった。さっそく「泳ぎたいので、監視をしてください」と頼まれ、目の前の海に連れ出された。3人の子供たちが浮き輪1個を取り合いながら、まったく足の届かない海に何度も入っては上がり、キャーキャー声を上げて遊んだ。
▼何度も何度も「神父さまは泳がないの?」と聞かれた。「まだ海の水は冷たそうだし、今日は遠慮する」と、オジサンは弱腰。泳いでもいいかなぁ、と思ったりもしたけれども、そのあと日課のランニングをするつもりだったし、夜にはミニバレーがあるわけだし、そんなにクタクタに疲れては仕事にならないからと、遠慮したのである。
▼しかし「あの時泳いでおけば・・・」なんてことにならないかと、今になって心配になってきた。気まぐれな子供たち、「神父さまは泳いでくれない」と決めつけられ、次はお呼びがかからなくなるかもしれない。そうなるとこの夏を台無しにすることになる。
▼この泳ぎに誘われた日、うっかり忘れていたが修道会経営の保育園が夏祭りを催していて、誘いがかかっていたのだった。「夏祭り、行きますか?」と確認されてようやく思い出したが、行ってみると毎年恒例の「ケアレンジャーショー」が祭りの終盤に組まれていて、毎年のことながら演技のまずさ、それでも園児たちが興奮するその素直さに、心を洗われる。
▼この書き込みが社会福祉協議会に届くとはとても思わないが、正義のメンバー「ケアレンジャー」よりも、悪のメンバー「ヨンナカッチェ」(よんなか=「良くない」「悪い」)に特別惹かれる。悪のメンバーに入隊できるものなら、今すぐに入隊したい。今年さらにその気持ちが高まった。

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今週の1枚
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第208回目。夏祭り、ケアレンジャー、ヨンナカッチェ。

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年間第15主日(マルコ6:7-13)何も持たないあなたをイエスが支える

2012-07-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/07/15(No.600)
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年間第15主日
(マルコ6:7-13)
何も持たないあなたをイエスが支える
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7月3日の霊名聖トマスのお祝いをしていただきましたが、巡回教会の福見教会からもらったランニングウェアの背中に面白い文字がプリントしてありました。「この夏走った距離は裏切らない」ですって。面白いでしょ。霊名の祝日以降、昨日までで58キロ走っていますが、結果に結びつけばいいなぁと思っています。

みなさんの中には、わたしが走っている姿を見て、「ぜんぜん走ってないじゃないか」と疑う人もいるかも知れません。確かに、トボトボ足を出しているといった感じですが、先は長いですので、温かく見守ってください。

これは来年1月末の司祭マラソン大会に向けていろいろ調整しているのものですから、いきなり夏から全力で走るわけにはいかないのです。今の速さは、最後まで走っても息が上がらないことを目安にしています。まだ1キロ8分くらいです。

もちろん7分で走ることは可能ですが、それだと最後のほうは息が上がってしまい、口ではぁはぁ息をしてしまうのです。そうではなく、最後まで鼻で呼吸できる速さ、それを気をつけています。まぁしだいに力が付いてきたら、ペースも上げるでしょうし、後浜串までの坂道も練習に入れていきたいと思っています。

もしみなさんがやる気があれば、わたしが賞品を準備するので、浜串地区内で健康マラソン大会をしても構いません。一般10キロの部、小学生3キロの部、歩け歩けの部、それから、20分なら20分とタイムを申告して、申告したタイムにいちばん近い人が賞品をもらう組とか、いろんな参加できる形を用意したら、楽しめるのではないでしょうか。

今週の福音朗読はイエスが十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わす様子です。弟子たちが遣わされていく時の特徴は、とにかく「何も持たない」ということでした。

何も持たずに遣わされていく弟子たちを想像してみました。弟子たちは、きっと不安だっただろうなぁと思います。「パンを持たない」というのは、今日食べることができるか分からないまま遣わされたということです。日本の諺では「腹が減っては戦はできない」と言われ、力を出そうという前に食べ物に不足していることは良い状態とは思えません。

また、「袋も持たないように」とあるのは、お布施をしてもらうための袋を準備するなということです。日本のお坊さんが、修行のために町の中で袋をぶら下げて祈っているのを見たことがあります。なかには祈っているお坊さんの袋に、お金を入れて立ち去る人もいました。そうしたお布施は、修行しているお坊さんをきっと元気にしてくれるでしょう。ところが、イエスはご自分の弟子たちに袋を持たせませんでした。

「帯の中に金も持たず」とあるのは、もしものためのお金さえも、持ち回らないようにという指示です。ここまで「何も持たないように」と命じられると、「いったいこれで、何ができるというのですか」と言いたくなるかも知れません。

イエスさまは、当時の弟子たちには何も持たないようにと命じて二人ずつ組にして遣わしましたが、同じことを今の時代にも要求するのだろうかと考えてみました。わたしにも、同じことを要求しているのでしょうか。

わたしは、イエスは今も、弟子たちに同じ要求をしながら遣わすのだろうなぁと考えました。たとえば、日曜日の説教をするのに、説教の準備として少し使った参考図書や事典を説教台に持ち込んで並べたら、皆さんは驚いて身構えてしまうことでしょう。

たとえ、準備のときにいろんな資料を使っていたとしても、いざ説教台に遣わされて立っている時は、参考図書や事典で勝負するわけではありません。わたしの声で、わたしの中でかみ砕いて消化したもので、語りかけなければなりません。

最近よく走り込みをしているのですが、中田神父だと明らかに分かる何かを身につけて走ることは不可能ではないと思います。けれども、何も持たないで走ることは、それだけの意味があると思うのです。

本当に何も持たずに走ると、道の途中で出会う人と一対一で出会うことになります。相手がわたしと分からずに通り過ぎることも考えられます。それでも、「わたしをだれだと心得る。畏れ多くも」と宣伝しないで、ありのままの姿で、わたしだと分かってもらうことが、とても大切だと思います。

イエスさまは、何も持たせずに遣わす代わりに、汚れた霊に対する権能を授けています。霊に対する権能、それは、霊魂のお世話ができる権能ではないでしょうか。「持ち物は何もなくても、霊魂をお世話する権能があるから、あなたは十分に働くことができる。わたししか授けることのできない権能を与えているから、あなたはその部分でお世話しなさい。」イエスはそう仰っているのだと思います。

何も持たないでイエスに遣わされるということは、身を守るものも、自分が何者であるか証明するものも、理解されない時に言い訳をするものも、何もないということです。ただあるのは、イエスが授けてくださる権能、霊に対する権能だけです。あとはすべてをイエスに頼って働きます。

何ものにも頼らないで、イエスにだけ頼っている姿、だれも身構えさせないありのままの姿で人と向き合うことが、遣わされる弟子に期待されています。司祭・修道者に限らず、信徒の皆さんも、二人一組で証しする生活に遣わされます。結婚生活であるとか、地区評議会であるとか、クルシリオとか、他のいろんな使徒的活動です。

どうぞその中で、持ち物ではなく、手にしている資格でもなく、ありのままでイエスに信頼して生きていることを証ししましょう。イエスはそこでも、霊魂に働く権能で支えてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マルコ6:30-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼あれれ?という感じで600号を迎えた。600号と言っても、メルマガの600号であって、主日説教は1000回くらいはしていると思う。特に感想はないが、600号になってネット環境がずいぶん変わってきたので、その辺を少し話しておきたい。
▼まずはツイッター。読者の中にもツイッターを楽しんでいる人がいると思うが、ネット上で思いを伝える道具がホームページ、ブログ、メールの3種類だったのに、このツイッターと後述するフェイスブックの登場で地図が塗り変わってきている。
▼ツイッターで情報の取っかかりを得た人たちが、ブログやホームページやメルマガを利用するようになる。ホームページを見てメルマガを知る人だけだったのが、ツイッターでメルマガを知るようになると、速くしかも多くの人に広がる可能性が出て来た。
▼もう1つの大きな変化はフェイスブック(facebook)の登場だ。原則実名での交流だから、ツイッターでつながる人よりも近い人、言ってみれば足もとの人たちがつながることになる。2重3重のつながりが出てくるので、メルマガには大きなメリットだ。
▼こうしたネットでの環境の変化は、若い世代には確実に受け入れられている。あとは、上の世代の人たちだ。未だパソコンでなくワープロ専用機を手放さない人たちに、どうやったら今のツールを身近に感じてもらい、使用してもらえるようになるだろうか。
▼ワープロ専用機は、それ自体としては完結していて便利だと思う。ところが外部との接続ができないし、新しい機能を追加することができない。中身を一新することもできない。そうしたことが、「変化」を阻み、「変化を好まない人種」に作り上げていると思うのだが、どうだろうか。

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今週の1枚
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第207回目。アップは遅くなると思うが、上五島地区の聖書講座の様子。

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年間第14主日(マルコ6:1-6)預言者はどこにいても預言者

2012-07-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/07/08(No.599)
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年間第14主日
(マルコ6:1-6)
預言者はどこにいても預言者
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聖トマスの霊名のお祝い日以降、またちょっと走り始めています。教会前のバス停から、岬のマリアさまに行く手前の広場まで、6往復して8キロです。ミニバレーの日は半分の4キロ、土日はいろいろあって休もうかなぁと思っています。

走り始めたのはいいのですが、わたしとすれ違って声をかけても、わたしだと分からないおばさんがいて困ります。わたしだと分かるおばさんもいますが、分からない人はこんにちはと声をかけたあとに「どこの兄ちゃんかと思ったよ」と言っています。お願いですから、わたしの姿が完全に見えなくなってから「どこの兄ちゃんかと思ったよ」は言うようにしてください。全部聞こえているんですから。

もちろん、ミサのときに会うわたしの姿形からすれば、半袖半ズボンに、ランニング用の帽子をかぶって「こんにちは」と言われても、「だれかしら」と思うのは無理もありません。ただ、「この兄ちゃんはだれ」と思ったなら、目の前に見えている姿の向こうにある真の姿を見ようとしてください。すると、見えていなかったことが見えるようになります。

たとえば、この昼日中に浜串で走ることができる人は、勤め人ではないはずです。また、走っている最中に名前で人を呼ばず、単にこんにちはと声をかけながら走っているのでしたら、浜串で生まれ育った人ではないでしょう。それらを考え合わせると、もしかしたら神父さんではないだろうか。そう思い当たるはずです。

これから何度かわたしの走る姿を見ることになるお嬢さまがた、真っ赤なシャツを着ていても、鮮やかな青いシャツを着ていても、あるいは上下真っ白を着ていても、「どこの兄ちゃんかしら」と言わずに、見える姿の向こうにある真実を考えるようにしてください。いつまでも「どこの兄ちゃんかしら」で済ませるおばさんは、すぐ頭の衰えが来ますよ。

さて福音書は、イエスが会堂で教え、その姿を見た人々がイエスにつまずいてしまう話です。イエスが授かっている知恵と、その手で行われる奇跡に驚きつつも、周囲の人々はイエスを「どこの兄ちゃんかしら」と思ったわけです。さらに悪いことに、「大工の兄ちゃん、マリアの息子、兄弟親戚もすべて知っているあの兄ちゃんじゃないか」とイエスを決めてかかったのです。

思い込みを持たずにその人を十分理解するのは非常に難しいことです。「あー、あそこのほら、ヨセフの家の大工の兄ちゃん」そう思い込んでしまうと、会堂や神殿の境内で聖書を読み、人々に教えるイエスの姿はまるで別人に見えたことでしょう。別人に見えたイエスの向こうにある真の姿を見ようとしなければ、見えるはずのものが見えないのです。

イエスを理解しようとしない人々に、イエスは次のように言います。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(6・4)。ここで言う預言者とは、民の心を神に立ち帰らせるために、神のことばを預かって語る人です。

預言者はいつも、民の心を本来のあるべき姿に戻すために働きました。しかし、民は神の望みよりも自分たちの望みを優先し、神に逆らい続けました。神に立ち帰らせようとする預言者を目障りだと感じ、ことごとく退けてきたのです。

イエスも、父から授かった知恵を語り、奇跡をその手で行いましたが、それはかつての預言者のように、人々の心を父である神に向き直らせるためでした。けれども人々は、自分たちが良い扱いを受けることをイエスに望み、イエスの預言者としての働きを認めなかったのです。自分たちに都合の良いことを話せば歓迎するけれども、神に立ち帰るために厳しい道を説くなら、イエスを拒むのです。

イエスは、人々のこのような態度に驚きました。「人々の不信仰に驚かれた」(6・6)とあります。預言者として働いているイエスを見ても、イエスが自分たちの心を神に立ち帰らせようとしていることに気付きませんでした。会堂で話すイエスの姿を見ても、人々はイエスへの信仰に導かれませんでした。

イエスは、どこにいてもわたしたちを父なる神に向かわせるかたです。イエスがどんな姿をしていても、たとえどんなに弱々しくても、わたしたちを父なる神に向かわせる預言者です。そのことに気がつかず、徴税人や罪人と一緒にいて食事までしている、断食を弟子たちにあまり求めない、安息日に働いているなど、目先のことに人々はつまずいたのです。

司祭がこうしてミサをしている。司祭はミサに参加したわたしたちを、父である神に向かわせようとしている。では司祭はどういう人なのでしょうか。考えてくださると幸いです。わたしも、できるだけ、どこにいても、何をしていても、人を神に結び合わせる働きを忘れないようにしたいと思います。

浜串地区でランニングをしていても、「どこの兄ちゃんかしら」と思われるのではなく、「神父さまはいつまでも良い働きができるように、体づくりをしているのね」と思ってもらえるようになりたいと思います。

どこにいても、何をしていても、イエスはただ一人のイエスであったように、祭壇に立つ中田神父も、ジョギングをしている中田神父も、ただ一人の中田神父と思ってもらえるように、日々精進したいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼facebookというのをご存知の方もいると思う。ご存知なくても、懐かしい人を探すのに威力を発揮するものと思ってこの先の話を読んで欲しい。まだわたしは使い切れていないけれども、友だちがもしかしていないかと思って検索をしてみた。
▼検索の絞り込みのために、「長崎南山高校」と「慶應義塾大学」を条件にして絞り込んだ。すると4人がヒットして、少なくとも2人は名前を見てだれかすぐに分かる人だった。あえて名前は伏せておくが、1人は「あ~、今はここで働いているんだ」と懐かしくなった。1人は、「この人は、本当に活用しているとしたら、見直したなぁ」という人だった。
▼ほかにも、「長崎南山高校」だけで検索すると、「あー、この人は元神学生だ」という人が目に付いた。友だちになろうかなぁ、という気持ちも少し働いたが、友だちになるほど友だちでもなかったような気がするので、やめておいた。
▼しかし、先に紹介した2人のうち前者は、ちょっと友だちになってもいいかなぁと思いつつ、にがい思い出もあったりして、判断が難しいところだ。友だちになれば、あれからどうしてましたかと懐かしい話が聞けそうな気がするが、一方ではにがい思い出を蒸し返されそうな気もして、ちょっと微妙なところ。
▼だが、もしも相手からも「長崎南山高校」「慶應義塾大学」と条件を付けて検索をかけてもらえば、わたしに行き当たるわけだから、あえてわたしから動き出す必要もないかも知れない。もしかしたらもう検索したかもしれないし、それでいてわたしをスルーしたかもしれない。そう考えると、今回見つけた2人は、これからも目が離せない。

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今週の1枚
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第206回目。最近バランスボールに座って生活している。

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年間第13主日(マルコ5:21-43)希望は神の愛によって信仰のうちに芽生える

2012-07-01 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120701.mp3

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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
12/07/01(No.598)
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年間第13主日
(マルコ5:21-43)
希望は神の愛によって信仰のうちに芽生える
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金曜日に生活習慣病検診を受けてきました。ちょっと苦しい内視鏡検査もありました。おおむね、結果は良好だったのですが、悪玉コレステロールが一昨年から去年にかけて数値が減っていたのに、今年になって極端に増えていました。悪人から善人になりかけていたのですが、また悪人になったかもしれません。

さて今日の福音朗読は、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女のいやしの物語ですが、はっきりしている点があります。それは、人間的には手の施しようがなくなってしまった場面で、イエスは力を発揮してくださったということです。

会堂長のヤイロの娘は、死にそうな状態にあってイエスに願い求め、さらに向かっている途中で亡くなってしまい、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(5・35)と周囲の人から言われてしまいました。

イエスの服に触れる女性も、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(5・26)とありますから、人間的にはまったく希望がなかったのです。

それでもイエスは、人間的には希望の持てないところに、希望をもたらしてくださいます。ところで、この希望にあずかった人々には共通するものがありました。それはイエスへの信仰です。

イエスの服に触れる女は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と思ったとあります。ヤイロは、苦しんでいる娘に代わって「恐れることはない。ただ信じなさい」(5・36)というイエスのことばを信じました。

信仰のあるところに、希望が生まれます。会堂長の家に着くと、人々は大声で泣きわめいて騒いでいました。彼らは信仰を持って出来事を見ることができませんので、希望にあずかることもありません。むしろイエスをあざ笑います。いやしの奇跡が起こっても、人々は驚きのあまり我を忘れた状態で、奇跡がイエスへの信仰に結びつきませんでした。

ここからが肝心です。イエスは、信仰を保った人々に何をしてくださったのでしょうか。イエスの服に触れたのは女性のほうでイエスではありません。会堂長は娘の上に手を置いてくださいと願いましたがイエスは娘の手を取っただけです。

イエスのおこなった一つひとつのしぐさに気を取られずに考えてください。何をしてくださったのでしょうか。イエスは、愛を注いでくださったのです。神の愛こそが、奇跡を起こし、いやしの出来事を起こしてくださるのです。イエスは人々に愛を注ぎます。イエスを信じる人々の上にイエスの愛は実を結び、希望のないところにも希望が生まれます。イエスを信じない人にもイエスの愛は注がれますが、信じない人には実を結ばず、希望に導かれないのです。

ここに、わたしたちの学びがあると思います。信仰と希望と、愛。この3つは、関わり合って働くのです。イエスはすべての人に愛を注がれます。わたしたちからは信仰が必要です。信仰を持ってイエスの愛を受けると、希望が芽生え、生きることができるのです。

わたしたちの生活は、病気や、この世からの別れという悲しみを避けて通れません。それでも、希望のうちに生きていくためには、イエスを信じる信仰が必要なのです。イエスだけが、神の愛を注いでくださって、避けられない出来事の中でも希望を持たせてくださるかただからです。

病気を抱えて生きる人にも、死の危険と隣り合わせの人にも、イエスによって神の愛は注がれています。神の愛が実を結び、希望を持って生きていけるかどうかは、わたしたちの信仰にかかっています。

「イエスはどんなときにも信じるに値するかた。」ヤイロの娘とイエスの服に触れる女の出来事から、信仰の必要性を確認し、イエスへの信仰に留まる決意を新たにしましょう。神の愛がわたしたちの上に実を結び、生活の中に決して失われない希望が芽生えるよう、ミサの中で願っていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マルコ6:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼土曜日の朝7時半は、とある民放を決まって見ることにしている。トーク番組で、毎週司会者がいろんな分野の人と対談し、ゲストの魅力に迫る。そういう番組。毎週楽しみにしているが、6月30日の男性ゲストは妙に親近感を覚えた。
▼そのゲストは50歳の俳優で、最近は日本の映画、ドラマに欠かせない存在になっている。少し前、倉本 聰(くらもと そう)脚本のドラマに主人公で出演していて、ますますこの俳優が好きになった。その俳優が、最近の心境として、「無理して人に好かれようと思わなくなった」というようなことを言っていて、そうかぁ・・・と感心してしまった。
▼それまでは、人に好かれる俳優でありたいと、余計な力が入っていたという思いがあったのかも知れない。「わたしのこと嫌いですか?結構ですよ-。嫌いで。」そこに至るまで、いろんな回り道をしたのかもしれないが、堂々としているなぁと惚れ惚れした。
▼番組を見る時、だれでもゲストに集中しがちだが、わたしは司会者がどうやってこのゲストの魅力を引き出すのだろうかということにも興味を持って観ている。ゲストの飾らない自然な言葉を聞き出すには、司会者の腕がどうしても必要だ。収録は自分をさらけ出さなくても終わるわけだから、短い時間にどこまで引き出すか、他のトーク番組も含めて大いに勉強になる。
▼わたしは話すことが多い仕事だが、それでも聞き出す務めにもしばしば回る。その人が、言いたくないことをすべて司祭に言わなければならない場面があるし、今まで一度も、だれにも打ち明けなかったことを洗いざらい聞くこともある。すべてを話し終えるためには、わたしが緊張させたり、ためらわせたりしない配慮が必要だ。そうしたことをトーク番組はいろいろ教えてくれる。みなさんがよく観るトーク番組は何だろうか。

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今週の1枚
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第205回目。よく写ってないが、長崎黙想の家から観た稲佐山の夜景。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120701.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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