こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(ルカ16:19-31)その生き方は父なる神の目に留まりますか

2019-09-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/9/29(No.1024)
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年間第26主日
(ルカ16:19-31)
その生き方は父なる神の目に留まりますか
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年間第26主日C年の福音朗読の頃は、決まって司祭団のソフトボール大会があっているようです。三年周期の主日の福音朗読を遡っていくと、大会直後は見事に金持ちとラザロの例えが朗読されています。まるでソフトボールの報告会をしなさいと言っているかのようです。

その司祭団ソフトボール大会ですが、4チームが出場しました。長崎からは、優勝を狙った選抜Aチームと、「その他」の神父様で構成するBチーム、上五島下五島合同チーム、佐世保平戸合同チームの4チームです。一回戦は第一試合が佐世保平戸チームと五島チーム、第二試合が長崎AチームとBチームでした。ここで勝ったチーム同士で午後は決勝戦、負けたチーム同士で三位決定戦が組まれます。

第一試合に出た佐世保平戸合同チームは五島チームと対戦し、練習をたくさんしたのであっという間に5対0とリードしました。「楽勝か?」と思ったのがいけなかったですね。試合は6対6の引き分けになりました。午後のために優劣を付けなければなりませんが、何と大会本部が「全員、打順で並んで、相手とジャンケンしてください。勝った人の多いほうが午後の決勝戦に回ります」と言うのです。運悪く、ジャンケンに負けてしまい、私たちは三位決定戦に回りました。

第二試合は長崎同士の対戦でした。まぁ、優勝を狙っているA選抜チームが順当に勝ちました。午後は第三試合が佐世保平戸チームと長崎Bチームで三位決定戦、最後の第四試合が長崎A選抜と五島チームで決勝戦となりました。三位決定戦で佐世保平戸チームは奮起し、「ヒットヒット、ホームラン」「ヒット、ホームラン」「満塁、ホームラン」みたいな感じで21対7で大勝しました。私も流れに乗ってホームランを打ちたかったのですが、2塁打止まりで、6打席3安打に終わりました。

最終結果はどうなったか?決勝戦に残ったチームが優勝と準優勝です。長崎A選抜が2戦全勝で優勝は当然ですが、五島チームはジャンケンで勝ち上がって決勝戦負けたので、1敗1引き分けなんですよね。それからすると三位決定戦で大勝した私たちは1勝1引き分けで三位。これには何となく不満が残りました。

今回私は初めてのポジションを守りました。キャッチャーです。何をするかというと、「締まっていこう」「おー、ワンナウト」「セカンド行くぞ」など声を出すことと、得点に絡む場面でホームを守るということです。声出しは必死にやりましたが、ホームでランナーをアウトにはできませんでした。

キャッチャーを初めてやってみて、困ったことがありました。メガネをかけてキャッチャーマスクをかぶるのは相当難しかったです。帽子までも邪魔になって、マスクがうまくかぶれません。そのうち帽子が邪魔になって、帽子を脱いでマスクをかぶりました。すると、大会終了後に何人かの先輩や神学院の院長をしている同級生から言われたのです。「お前、ちょっと頭見せてみ?あの暑い中、帽子かぶらずにマスクして、てっぺんに十字架の焼き印が付いてないか?」あれは心配して言ったのではなくて、きっと冷やかしで言っていたのだと思います。

ただ嬉しかったのは、必死に声を出してキャッチャーをしたことが、味方だけでなく相手チームや試合に関わっていない司祭たちの目にも留まっていたということです。正直に言いますと、私は今回どのポジションであっても「うるさい」と思われるくらいに声を出すつもりで乗り込んでいました。長崎市内の信徒の方が応援に来ていて、「あー、中田神父があそこにいるな」と意識させたかったのです。

観戦している人はどんなにか「うるさい」と思ったことでしょう。それでも、大声を出し続けました。私は応援の人を自分の意識から排除するために、大声を出していたのかも知れません。その甲斐あってか、最終打席はいちばん試合に集中できて、2塁打を打つことができました。

「この回押さえていこう!」私の叫び声はチームメートからも浮いていたかも知れません。それくらい大きな声を出して、できることを全力で果たしました。今年、ホームランは打てませんでしたが、やり切ったと思っています。

ここまで福音朗読にまったく触れなかったのですが、今回一点だけ触れたいと思っています。「その生き方は、父なる神の目に留まりますか?」ということです。金持ちで、毎日贅沢に遊び暮らした人は、父なる神の目に留まる生き方をしないで死にました。

一方、できものだらけのラザロは、金持ちの門前で野垂れ死にしましたが、日々、神の憐れみにすがって、神の憐れみが金持ちを通して与えられたらと願いながら最期を遂げました。いつも、片時も忘れずに神の憐れみをこい求めていたラザロは神の目に留まり、アブラハムの懐に迎えてもらったのです。

人それぞれ、置かれた環境で神の目に留まる生き方をどう実践するか、違いがあるでしょう。金持ちも、毎日贅沢するほど豊かであれば、お返しのできないラザロや同じような境遇の人に惜しみなく施すこともできたはずです。一度でも「私の生き方は、父なる神の目に留まる生き方だろうか」と考えたなら、事態は違っていたでしょう。

今回私はキャッチャーという初めてのポジションを言われて、応援の観客も、相手チームの雑音も、バッターボックスの打者も、すべて追い出すくらいに声を張り上げました。それでやっと、自分の務めを果たせたのです。人の目に留まるためではなくて、人の目も雑音もすべて追い出した時に、仕事ができたのでした。

私たちも考えましょう。今の生き方は、父なる神の目に留まる生き方でしょうか。その生き方を、どんな雑音を耳にしても曲げずに貫けるでしょうか。雑音を追い出せるでしょうか。あなたの生き方を見た誰かが見えない神を捉え、「神の目に留まる生き方をこの人は貫いている。私もその生き方を見倣いたい」と考えるでしょうか。どこに置かれても、神の目に留まる生き方を追い求める人でありたいのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日(ルカ17:5-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼昔「笑うに笑えない話」を聞いたことがある。かつては「赦しの秘跡をお願いします」と司祭館を訪ねる人がいた(私も経験がある)。主任司祭はたまたま来客をもてなしていた時だった。ひとまず司祭は「よく糾明(自分の罪を振り返ること)をしておきなさい」と言付け、司祭館に戻った。
▼運悪く、来客の応対をしていた主任司祭は告解人が待っていることを忘れたらしい。来客と談笑し、送り出してから告解人のことを思い出した。慌てて聖堂に行ってみると、長い時間待たされたその人は辛抱強く司祭が来るのを待っていた。
▼ひょっとしたら、司祭が談笑している笑い声も聞こえていたかも知れない。それでも自分が忘れられているとは夢にも思わず、じっと糾明を続けていた。こういう場合、人にもよると思うが、「しびれを切らして帰る人」と「じっと待ち続ける人」とに分かれるだろう。ひょっとすると第三の可能性「待つには待つが、主任司祭に腹を立てる人」の可能性もあるだろうか。
▼皆さんは気の遠くなるほど待たされた場合、どのような態度に出るだろうか。感覚的には、私だったら腹を立てて待つと思う。だが腹を立てるのもそう長くは続かないだろう。腹を立てるのも通り越して、結果的に辛抱強く待てるかも知れない。
▼振り返って私は、「その時が来る」のを辛抱強く待ったことがあっただろうかと自問自答する。答えにたどり着くまで問い続けるとか、自分の血と肉になるまで掘り下げるとか、与えられるまで願い続けるとか。どれ一つ実践してこなかった。簡単に手に入る答えに飛びついて、その場しのぎの対処を繰り返して、与えられなければ目先を変えてきた。
▼神様は必要な体験があれば必ずそれを体験させる。「その時が来るのを辛抱強く待つ体験」は、きっと誰にでも必要な体験だ。それを避けてきたのであれば、神様は私を決して放っては置かない。「そのまま待て」と言われて、「よく待った。よろしい」と言われるまで待たせる体験を必ず要求する。
▼「そのまま待て」これがいったいどれくらいの時間なのか。一ヶ月か半年か一年か。誰にも分からない。だが私はただの一度も「辛抱強くその時を待つ体験」を積んでいないのだから、どれだけ待たされるか分からないけれど「よろしい」と言われるまで待つ体験をしてみようと思っている。
▼「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます。」(詩編123・2)実際には「時課の典礼(教会の祈り)」の翻訳が親しみがあるが、主人(女主人?)の手に目を注ぎ、その憐れみを待つ。「近くに来なさい。」

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今週の1枚
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第631回目。隣の松浦市は「アジフライの聖地」を宣伝しているらしい。面白い。

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年間第25主日(ルカ16:1-13△16:10-13)イエスを得ようとして友を作ってきたか

2019-09-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/9/22(No.1023)
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年間第25主日
(ルカ16:1-13△16:10-13)
イエスを得ようとして友を作ってきたか
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「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」(16・1)イエスのたとえ話の中に、神のあわれみをよく説明してくれるルカ福音書の中で「不正な人」が登場するのはここと「やもめと裁判官のたとえ」です。神のあわれみを説明するのに、不正な人をイエスが引き合いに出すということが、私には非常に興味深いです。

中村補佐司教様の叙階式、参加されたでしょうか?参列者があまりにも多くて、立錐の余地もないくらいでした。聖堂内に入ることができたとしても、通路や座席のさらに後ろで三時間立ちっぱなしでミサにあずかった人もいるそうです。それだけ期待されているということでしょうが、なかにはあっと驚くことをしてくれるのではないかと、半分怖いもの見たさでやって来た人もいるのではないかと思っています。

すべてを種明かしすることはできませんが、叙階式ミサが終わって場所を移動し、祝賀会の中で中村倫明補佐司教様の本性が現れました。17年前に髙見大司教様が補佐司教として司教叙階された際に余興で中村倫明当時の神父様が使った小道具を、今度はご自分の叙階式の祝賀会に持ってきていました。

私は、教区の牧者である司教の連続性と言いますか、継続性をそこに見た感じがしました。懐かしい太田尾小教区の皆さんも含め、たくさんの人が司教叙階式と祝賀会を盛り上げてくださったと思います。

中村補佐司教様の感謝の言葉を最後に聞くことができました。聖書の「宴会を催す時には」という場面を引用したあいさつでした。ちょうど9月1日、年間第二十二主日の朗読箇所です。聖書の中では、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」(ルカ14・13)とあるのですが、中村補佐司教様はこれにヒントを得て、「実は私が、お返しのできない者なのです。お返しのできない人を招いてくださったのは皆さんなので、皆さんこそ、幸いな人々なのです」と結ばれたのです。とても印象深いあいさつでした。

私は、中村補佐司教様の導き方が、あのあいさつの中に込められているのかなぁと思いました。教区で働く司祭、修道者、信徒が、誇りを持って働く。前を向いて働く。そのような気持ちにさせるために、補佐司教様は私たちを案内してくれるのだと思います。

さて今週の朗読に登場する不正な管理人は、素早い反応、主人をうならせるような行動を期待されています。「会計の報告を出しなさい。」(16・2)期間はどれほどでしょうか。小教区の予算決算書の提出書類が届くのはおよそ三ヶ月前です。実際に予算決算書を作成するまでには二ヶ月しかないと考えるべきです。

それからすると、このたとえ話に登場する管理人にも、二ヶ月程度しか時間の余裕はなかったかも知れません。この二ヶ月の間に、今後自分が生きていけるような道を切り開かなければなりません。同時にそれは、これまで雇ってくれた主人をうならせるような画期的な方法である必要があります。主人をうならせるような方策でなければ、これまで主人にお世話になって生きている人のところに転がり込もうとしても、「主人に睨まれたら生きていけないので、あなたを迎え入れるわけにはいかない」とつれなくされることでしょう。

ここで管理人は抜け目のないやり方を考え、実行するわけですが、ここで私は中村補佐司教様のあいさつで触れた聖書の捉え方を思い出しました。宴会を催す時、お返しのできない人を招きなさいとイエスが言われ、そのお返しのできない人に、まったく思いつきもしない視点を紹介してくれました。お返しのできない人とは、今日司教叙階を受けた中村補佐司教様だという視点でした。

私も同じようなことを考えます。イエスは今週のたとえ話の中で次のように言いました。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16・9)

私たちを永遠の住まいに迎え入れてくれる「友」とは誰のことでしょうか。主人に油を納めている小作人でしょうか。小麦を納めている小作人でしょうか。むしろ、それらを通して何とも抜け目のない奴だと褒めた主人の心が、管理人が生きていくことを可能にする唯一の「友」なのではないでしょうか。どこに行っても主人の息がかかっています。その中で生きていける方策を、短期間で不正な管理人は考えたのです。

私たちも、いざという時、短期間で永遠の住まいに迎え入れてもらえる方策を考えなければなりません。それは同時に、父なる神をうならせるものでなければなりません。どんな方策が両方を満たすでしょうか。私は、「イエスを友とする方策」これ以外に答えはないと思うのです。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」友達を作っても、この世界のどこにも父なる神の息のかかっていない場所はないのです。ですから自分が出会う人を友達とする中で、その都度イエスという「友」を作るようにしなければならないということです。あなたは多少なりとも「友」を作ってきたでしょう。その友との間に、イエスを手に入れてきたでしょうか。これが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という呼びかけの唯一の解答なのだと思います。

この世の出会いは変化し、移ろいやすいものです。長く続かない友人もいるかも知れない。仲良くなった時の何倍も憎み合って別れるかも知れない。けれども、いずれの友を得ようとした時でも、友を通してイエスを得ようとしてきたでしょうか。イエスを得ようとしてきた出会いであれば、この世ではまったく不毛だった友でも、天の国に迎えられる根拠に選ばれるかも知れないのです。

イエスを得ようとして出会った友が、私たちを永遠の住まいに迎えてくれるのであれば、この世でどんな結末を迎えようとも、感謝できる出会いに違いありません。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日(ルカ16:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼「ざんねんないきもの事典」という図鑑がある。絵本と言うべきか。初めて見たとき、「あー、こう言う見せ方はアリだな」と思った。確かにそういう面があり、動物の違った面を知ることができて興味深い。
▼実は人間が、どの生き物にもまさって残念な生き物なのではないかと思った。雄は求愛行動をして雌にふられても、涙を流したりはしないだろう。人間は思いっきりふられて涙を流す。なかには「死んでやる」とさえ言う奴もいる。生き物全般はふられても決して死なない。何もなかったかのように、次のチャンスを探すだろう。
▼先週の説教で、最後の最後に噛んでしまった。一人の人を意識して最後を結んだつもりだったが、意識しすぎたか。あまりの格好悪さに、説教後に沈黙の時間を持ちながら自分がいかに「ざんねんないきもの」か考えた。人間は噛むが、人間以外はきっと噛んだりしないだろうな。何とざんねんないきものか。
▼人間はざんねんないきものだが、他の生き物には到達できない領域にときおり到達する。ざんねんないきものである反面、自分を見つめ直し、自分を磨くこともできる。誰かを見返そうとか余計なことを考えるとざんねんないきものに逆戻りするから、過ぎたことに未練を残さず、自分を見つめ、自分の長所を磨く。すると自分を納得させることはできる。
▼いよいよ長崎教区は補佐司教をいただき、大司教と補佐司教の二人体制になった。叙階式ミサは、いったいどれだけの人が入ったのか、聖堂内に入りきれない人もいて、堂内に入れた人でも席がなくて三時間立ちっぱなしの人も出た模様だ。これからの長崎教区への期待の大きさが分かる。
▼私は叙階式のミサの中で、新司教の祭服がどうにも気になった。肩パットが入っているのではないかと思うほど、肩が盛り上がっていたからだ。ミサ中に何かやらかすために、仕込んであるのかも知れないと思ってしまったが、結局司教用のスータンのデザインが肩パッドのように見えたのかも知れない。どうかこれからは肩を怒らせず、自然体で。

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今週の1枚
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第630回目。新司教に心強い応援団。居ても立ってもいられず駆けつけたらしい。

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年間第24主日(ルカ15:1-32△15:1-10)人間の常識を超える神の忍耐

2019-09-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/9/15(No.1022)
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年間第24主日
(ルカ15:1-32△15:1-10)
人間の常識を超える神の忍耐
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今週の福音朗読は、長い朗読を選ぶと「放蕩息子のたとえ」までが含まれます。今回は、短い朗読を選んで朗読しました。ルカ15章の三つのたとえを通して、見失ったものを辛抱強く捜し回る神の姿、忍耐強く立ち返りを待つ神の姿が描かれています。

神の忍耐について考える前に、人間の忍耐について考えてみましょう。人間は、どこまで忍耐できるものなのでしょうか。どこまでだったら辛抱できるのでしょうか。一般的には、常識の範囲であれば忍耐するし、辛抱もすると考えます。

しかし限界を超えると忍耐できなくなります。私は未だに後悔する場面があって、大切なものが録音されている私のカセットテープを、四男の弟がカセットデッキで再生させていて、多分テープが機械に巻き付いたのだと思いますが、大切なカセットテープから茶色のテープを机に引き出して広げていたのを見たのです。

カセットテープから引き出されて机に広がるテープを見て、このテープは二度と使えなくなったと思った私に怒りがこみ上げ、私は四男の頭をこれでもかと殴ったのでした。何発も殴ったので、頭には何個もこぶができるほどでした。私はあとで親にひどく叱られましたが、四男の弟をどうしても許せなかったのです。もちろん今は和解しています。

これが、人間の忍耐とか辛抱の限界だと思います。限界を超えることがあると、もはや忍耐できない。常識の範囲でという制約や、限界があるのが人間の忍耐というものです。一方で、神の忍耐を教えるのが今週の朗読箇所であるルカ15章です。私の体験を踏まえて考えるなら、常識を超える忍耐を示す、限界を置かずに忍耐し待ち続ける。これが神の忍耐の姿だと分かります。

人間の常識で考えれば、九十九匹を置いていなくなった一匹を捜しに行くのは割に合わない行動です。銀貨を一枚見失っても、家を引っ越しでもしない限り、そのうちに見つかることもあるでしょう。家中を掃いて捜すのは労力の無駄のように思います。弟を無条件にゆるす父親に対して、人間の常識だったらこう反応するだろうと登場しているのが兄です。人間は、やはり人間の常識の範囲でしか行動しないものなのです。

けれども神の忍耐は人間の常識を超えます。なぜ人間の常識を超えて行動するのでしょうか。それは、人間が本来の輝きを取り戻すために行動するからです。途方もない罪を犯した人でも、人間本来の輝きを取り戻すなら、その人は生き返るはずです。けれども人間は常識にとらわれてしまい、途方もない罪を犯した人に猶予を与えることなどできないわけです。

私が、途方もない罪を犯したなら、相手に「輝きを取り戻すまで猶予をください」とはとても言えません。処分されるのは当然で、相当の罰を受けてしかるべきだと考えるからです。実際「放蕩息子のたとえ」に登場する弟は、僕の一人になることすら覚悟していたのです。人間の常識の範囲で行動していたのでした。

人間の常識の範囲で救えない人がいます。常識を超えた行動でなければ、その人の本来の輝きを回復できない場面もあり得ます。けれども人間が常識を超えて行動することは難しいのです。常識を超えた行動を示す神が、先にお手本を示して、人間はようやく神のなさり方を知ることになるのです。

実はすべての人間が、常識を超える神のなさり方によって救われたと言って良いでしょう。ですから互いに、「こんなことはゆるされるはずがない」「こんな人が立ち帰りの努力をしても受け入れはできない」という常識を打ち破る覚悟を持ちたいのです。人間には不可能ですが、神は常識を打ち破る恵みを注いでくださいます。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日(ルカ16:1-13△16:10-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼「夏の名残」がまだ残る。今年は夏の西日を避ける「ゴーヤーカーテン」を早めに用意してもらい、それが功を奏したのか、大きなゴーヤーが実り、何度も料理に出してもらった。
▼食事のお世話をしてくれる賄いさんも、「今年はたくさん実っていますから、司祭館だけでは食べきれません」と言う。それで修道院にもお裾分けすることができた。実家にも持ち帰ったかも知れない。
▼ゴーヤーは苦いので、なかなか「大好きだ」という人はいないかも知れない。ただ夏バテをせずに乗り切ったことは食事に依るところが大きいと思うから、ゴーヤーは貢献したのではないだろうか。
▼もう一つ去年と違うのは、ゴーヤーの葉が西日をほとんど通さないくらい栄えたと言うことだ。ある日は夕暮れかと思うほど部屋が暗くて、外を見たらカンカン照りになっていた。これはすごい。
▼ゴーヤーつながりでもう一つ。月に一度家庭訪問している信者のおばあちゃんと、野菜談義をする。今年は「ゴーヤーがしげったよ!」これでおばあちゃんと楽しい会話になる。このおばあちゃんがいなければ、ひょっとしたらそこまでゴーヤーカーテンにこだわりはなかったかも知れない。

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今週の1枚
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第629回目。ゴーヤーとカーテン。真面目なある人から「メガネ」を指摘された。

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年間第23主日(ルカ14:25-33)持ち物を一切捨てるのはたやすいことではない

2019-09-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/9/8(No.1021)
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年間第23主日
(ルカ14:25-33)
持ち物を一切捨てるのはたやすいことではない
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「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(14・27)「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(14・33)イエスの言葉が歳を重ねるごとに重みを増してきます。歳を重ねても身軽になり、イエスに付き従うことを最優先したいものです。

高校野球にちょっと興味のある方は、清峰高校の元監督が、現在山梨学院大附属高校の野球部の監督を務めていることはご存知でしょう。この監督がなぜ高校を移ったのか、事情は知りませんが、環境が大いに変わったことは間違いありません。かつては長崎県内のライバル校がどこで、相手の長所短所よく知っていたでしょう。県内の有望な中学生も把握していて、数年後のチーム構想を練るのも難しくなかったでしょう。

何より、今現在のチームの状態を把握するのにも、これまでの積み重ねで生徒の力を発揮させる方法も見えていたでしょう。それが学校を変わる、しかも他県に移ると、すべてを手放さなければならなくなります。ふつうなら、今まで育ててきた選手を置いて、新しい学校の選手を育ててみようというのは、冒険の域を超えて危険ですらあります。

例えとして、長崎県民によく知られた監督を使ってみましたが、今週の福音朗読の結びにある「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」という招きは、先の監督が経験したくらいの環境の変化を言っているわけです。

自分の持ち物を一切捨てると言っても、例えば県内の別の高校の監督に就任するというのであれば、清峰高校の野球部選手も含め、自分の手の内にあるようなものです。けれども九州も離れ、他県に行く。これくらいの行動であれば、自分の持ち物を一切捨てる行動でしょう。同時にそれは、これまで背負っていた物が一切無くなるのですから、より確実に、「自分の十字架を背負ってついて来る」自分の十字架を背負ってイエス・キリストについて行くことも可能になるのだと思います。

「私と私の後継者に、尊敬と従順を約束しますか」「約束します」1992年の3月17日、司祭叙階式の中で島本大司教様に返事をしました。この約束はこれから自分の十字架を背負いますという約束と言っても良いでしょう。この日から背負い始めた自分の十字架は、今は背負い始めたときよりもはるかに重く、責任あるものになりました。

最近特に思うのは、転勤しても「前任地の知識も含めて積み上げた財産があり、新任地で働くために役に立っている」ということです。田平教会は献堂百周年を去年迎えましたが、皆さんには初めて経験した百周年かも知れませんが、私は二度目でした。以前の経験が、ある場面では役に立ち、ある場面では足を引っ張ったかも知れません。

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」私にとって、このイエスの言葉は歳を重ねるごとに難しくなっています。難しくても、いつかイエスの弟子となれるように、自分の持ち物を一切失ってもそれで自分がイエスに自由に従うようになれるのであれば構わない。そういう心境に達したいと思っています。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日(ルカ15:1-32△15:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼無くした物を見つけるのは何にもまして喜ばしいものだ。四年前、転勤の時に六年間行方不明になっていたカッターナイフが見つかった。もらい物であまり使用しないハンドバッグの中に入っていた。六年間使用しなかったが、六年間探していた物でもあった。
▼半径80cmの傘が二度無くなったことがある。半径80cmはとても大きな傘で、納骨の時に大いに役立っていた。雨の日、納骨をしていると儀式書を持って傘を持つのは不可能である。だれかに傘を持ってもらうと、二人同時に入ることができず、申し訳ないが持ってくれる人は傘の恩恵にあずかれなかった。
▼そこで探し求めたら、8千円くらいしたと思うが、二人同時に入れる大きな傘が見つかり、愛用していたわけだ。ミサの後にこの傘を持ってあいさつすると決まって「大きな傘ですね」と聞かれる。ただ聞くだけでなく「何に使うのですか?」と聞く人もかなりいた。
▼そのたびに「これは納骨の時の苦労から探し求めた物で・・・」と説明する。途中からは面倒になり、「大きいことはいいことだ」とはぐらかしていた。この傘を二度無くしたのだが、一度目は浜串で、二度目はここ田平に来てからだ。平戸ザビエル祭のミサが平戸ザビエル教会で行われ、天気が心配で大きな傘を手に取って出発した。待ち時間があり、司祭館で待たせてもらおうと、司祭館にお邪魔するときに傘を置いてしまった。
▼平戸ザビエル教会の司祭館にお邪魔するのは月に一度、多くて二度。傘が見つからないと探し始めるが、平戸ザビエル教会の司祭館に置いてきた傘が、田平教会の司祭館にあるはずがない。どこをどう探しても見つからない。諦めかけたところ、定例の地区司祭会議で平戸ザビエル教会の司祭館におじゃました。何事もなかったかのようにそこにあるではないか。
▼見つけたのは見つけたが、もしかしたら平戸ザビエル教会の主任司祭、一学年先輩、地区長神父様の傘かも知れない。恐る恐る尋ねてみた。すると「いや、自分のじゃない。三回使わせてもらったけど。」安心した。二度失った傘を持ち帰りながら、愛着はさらに深まったのである。

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今週の1枚
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第628回目。ボートをつないでいる岸壁。干潮時の接岸離岸は十分な注意が必要。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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