こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マルコ10:46-52)従うことで神の働きの目撃者だと証しする

2015-10-25 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/151025.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/10/25(No.793)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
従うことで神の働きの目撃者だと証しする
‥‥‥†‥‥‥‥

「そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10・52)道端にいたバルティマイに、イエスは目が見えるようになる奇跡と、歩むべき道を示してくださいました。今週の物語に学び、わたしたちの取るべき態度を見いだすことにしましょう。

物語に登場するバルティマイは道端に座り、人々の憐れみにすがって生きるしかない人物でした。目が見えないという不自由だけでなく、自分で人生を切り開く方法も与えられずに生きていたのです。けれども「ナザレのイエス」だと聞くと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10・47)と叫びました。

バルティマイは、チャンスに恵まれなかったけれども、彼自身は活力に満ち、行動的な人物だったのかもしれません。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」(10・48)となっています。

さらにバルティマイは、ナザレのイエスがそばを通りかかった時、すでに自分が歩くべき道に気付き始めていたかもしれません。それはイエスによって完全に開かれる道、イエスを信じ、イエスに従って生きるという道でした。

それまでは、Aという人が憐れみをかけてくれればその人にすがり、Bという人が憐れんでくださればその人にすがる、そうした不安な日々を過ごしていました。どのようにしてナザレのイエスを知ったかは書かれていませんが、バルティマイの中でついに、信頼して一生涯ついていける人、運命を委ねることのできる人に出会ったのです。

バルティマイはイエスに呼ばれ、上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来ました。ここで「上着を脱ぎ捨てた」とありますが、この上着はただ単に着ていたものを脱ぎ捨てたという意味ではなさそうです。バルティマイにとって「上着」とは、彼の身につけるものすべて、もしかしたら家財道具すべてだったかもしれません。

彼はイエスに呼ばれたことの喜びで、身につける唯一のもの、自分のたった一つの財産を捨てて、イエスに従ったのです。これからはイエスが自分の生きるすべてであり、イエスの示す道が歩き続ける唯一の道になったのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちはある時点でイエスに呼ばれ、イエスに示された道を選ぶかどうかを尋ねられています。たとえば結婚を機に洗礼を受けた人は、イエス・キリストを信じて道を歩くという決心を自分で立てている人です。これからの人生、喜びも悲しみも、イエス・キリストに信頼して生きていくと、信仰を表明して今に至っているはずです。

今、洗礼を受けてからの歩みを振り返って、これまでよりどころにしてきたものを脱ぎ捨ててでも、イエスに信頼を寄せて生きてきたという実感があるでしょうか。イエスがわたしを呼ばれたのに、わたしが最後に信頼するものは、何か別のこの世のものでしょうか。

またここにいる多くの人が、堅信の秘跡を受けてイエスに呼ばれた人々のはずです。洗礼の時に受けた恵みを、人々の前で強くあらわしなさいと、イエスになり代わって堅信を授けてくださった大司教さまに促され、これからは大人の信者として歩みますと決意表明したはずです。

その歩みは、今も変わらず保っているでしょうか。あるいは堅信の恵みに強められたのに、イエスに従って歩むと表明した時の熱意は冷めて、消えていくはかないものを追いかけて生きているのでしょうか。

イエスは今も、バルティマイの前にいて、道を進まれるお方です。バルティマイが歩まなければならない道、困難ではあってもイエスを信じて生きるという道を見失わないように、先を進んでおられるのです。それはわたしたちにとっても同じで、イエスに従いますと表明した人々が道を逸れないように、今も先を歩いて案内してくださいます。

イエスの向かう先には、十字架があり、イエスはそこで命をささげることを知りながら歩いていますが、それはわたしたちがイエスを信じて生きることで生じる困難に恐れて逃げ出さないためなのです。

バルティマイは、なお道を進まれるイエスに従いました。自分が、信頼して一生涯ついていける人、運命を委ねることのできる人に出会ったことを証明し続けるためにイエスに従っていきました。

わたしたちも、なぜあなたはこの道を歩くのですかと問われたら、「この道の先におられる方は、わたしが一生をかけてついて行く価値のある方だからです」といつでも証明できるように心の準備をしておきましょう。

どこに置かれていても、どんな状態にあっても、「わたしは今、生涯をかけて信じ続ける人をわたしの生活で証ししているのです」と言える勇気を持ちましょう。証をするチャンスがない人も、わたしにもチャンスを与えてくださいと、このミサの中で願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
諸聖人
(マタイ5:1-12a)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼出張が入り、日曜午後から留守となる。遠方に出張だが、ただでは出張しない。この時期日本シリーズなのだから、どうにかして雰囲気でも味わいたい。そこで月曜日9時から2日間あるまじめな会議に遅刻することを重々承知で、日曜日夜は福岡に1泊することにした。
▼日曜日に出張先に行けば、月曜日朝9時からの会議には十分間に合う。しかし日曜日に出張先に行くためには、かなりの無理を強いられる。先ず五島列島を脱出することから始まるから、出張先に到着するのはおそらく夜10時だろう。
▼そこまでして、2日間あるまじめな会議だけ参加して帰って来るのは、高い交通費に対して非効率ではないか。会議のメンバーには小一時間迷惑をかけるが、前日は福岡でソフトバンク対ヤクルトの日本シリーズ第2戦を観戦することにした。翌朝早くに移動を開始し、会議には1時間遅れの午前10時に到着予定である。
▼非難を浴びるかもしれない。会議に遅れてまで日本シリーズを観る必要があるのか。だがわたしが今後日本シリーズを観戦できるか考えると、今年を外したらもう二度とチャンスは巡って来ないかもしれない。そういうまたとない「ついで」のチャンス。少々非難を浴びようが、観戦を決行することにしている。
▼話変わるが、長崎の教会群が世界遺産にいよいよ登録か?となって、五島列島への巡礼客はウナギ登りである。先日大阪の大司教さまご一行が五島列島の教会巡礼にやって来ていた。もともと上五島出身の大司教さまでもあり、どの教会に行っても歓迎を受け、またご自身もそれぞれの教会への思いを分かち合ったりして精力的に巡礼をこなしたようだ。
▼わが浜串小教区にも大司教さまご一行がおいでくださった。福見教会を訪問後に浜串教会を訪問してくださったのだが、大司教さまは愛用の帽子を忘れていったようで、主任司祭のところに届いていた。わたしがこの帽子をお借りしてかぶれば、「司教帽をかぶった」ことになるのだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第400回目。大司教巡礼団を写真撮影すればよかったが。湯引きにして食べた。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第29主日(マルコ10:35-45)神の前に偉くなる道を胸を張って生きる

2015-10-18 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/151018.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/10/18(No.792)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第29主日
(マルコ10:35-45)
神の前に偉くなる道を胸を張って生きる
‥‥‥†‥‥‥‥

「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10・43-44)イエスは弟子たちに彼らの歩くべき道を示されました。支配者や偉い人たちが目指すこの世の道ではなく、神の前に偉くなるための「別の道」を弟子たちに示します。イエスが示された「別の道」はわたしたちにも関わりがあります。考えてみましょう。

先週金曜日、いつもの通りの準備でボート釣りに出て12キロの青物を釣り上げてしまいました。ブリだろうと思いますが、ヒラスかもしれません。日曜日のソフトボール大会の打ち上げに使う予定で、浜串漁協の冷蔵庫に預かってもらっています。特大ホームランを打った気分なので、ソフトボール大会でのホームランはもうどうでもよくなりました。

今回は運が良かったと思っています。たまたま、買って来たばかりの糸を買ったばかりの3000番のシマノリールに巻いて出かけていました。0.8号のPE300メートルに3号のリーダーを5メートルです。竿は、いつもと違う柔らかめの、よくしなる竿を持って行きました。

朝8時、ふだん釣りをしているマリアさまと見附島(みつけじま)を直線で結んだ真ん中あたりでイトヨリを釣ろうかなくらいの感覚で開始しました。何回かバラシが続いたので今日はボウズかもと諦めていたら満潮の午前10時、今まで体験したことない重さが竿に伝わりました。内心「うわっ、サメがかかったか」と悪い方に考えてしまいました。

まあいずれにしても、掛かってしまったのだから、引きちぎられるかハリから外れるかするまではやり取りしなければなりません。ボートの周りをゆっくり回る相手とかなりの時間格闘した結果、ようやく姿が見えまして、青物だと分かった時は緊張しました。最後の最後逃げられでもしたら、サメは諦めがついても、青物は諦めきれないからです。

片手に竿、片手に網を持って最後の取り込みをしようとしましたが頭は入っても尻尾が入りません。竿は投げ捨て、尻尾を掴んで何とか引き上げたのが掲示板に貼ってある魚です。もう、釣りに関しては何も思い残すことはありません。あとは釣った魚を皆さんにお配りして、仕えられるためではなく仕えるために、この趣味を活かしたいと思います。

福音に戻りましょう。イエスが弟子たちに示された道は、偉くなるために支配者が目指す道のりと比べると遠回りのように見えます。実際はどうでしょうか。わたしは、イエスが示された道こそ、神の前に偉くなる近道であり、王道であると思います。なぜなら、神の子みずからがこの「皆に仕える者」「すべての人の僕」になられたからです。神の子が選ばれた道は、きっと近道であり王道であるに違いありません。

では弟子たちは、イエスが示された道を躊躇なく選ぶことができたのでしょうか。ヤコブとヨハネの願いが、弟子たちの中に潜む名誉心や出世欲を抑えきれないでいたことが伺えます。イエスが直接選ばれた12人の弟子たちでさえも、イエスに示された道をまっすぐに歩むことは難しかったのです。

しかしまったくついて行けなかったわけではありません。よろめきながらも、ためらいながらも、弟子たちはイエスがたどった道をついて行きました。すなわち、すべての人に仕える道、イエスを憎み、命を奪おうとする悪人にも仕えて命をささげようとする道です。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」(10・39)ここで言う「洗礼」は殉教を指しています。弟子たちも、キリストを信じる者の集まりである教会を迫害する人たちに深い愛を示し、自分たちの命をささげて仕えたのでした。

わたしたちも、イエスの示された道を歩むべきです。すべての人に仕える道は、イエスに倣う道ですから神の前に偉くなる近道であり王道です。しかし生身の人間です。どこでイエスに倣う道を歩む決心を固めることができるでしょうか。

わたしたちがイエスの示された道を自分の歩むべき道にするためには、これまでの信仰の先輩を参考にすることが助けになります。迫害する人にも仕えるというこの険しい道を歩んだ先輩たちは、ある人は殉教者として、ある人は証聖者として神の前に名を残しました。

また名前は残さなくとも、神の国にその名を刻むことができました。わたしたちの信仰の先輩たちは、「皆に仕える者」「すべての人の僕」になる道が、神の前に偉くなる道であることを雄弁に語っています。

もう一つわたしは、次のように考えることでイエスが示された道を自分の道とする決心が固まるかもしれないと思っています。それは、「仕える」という道は、多くの場合だれかの役に立つ道でもあるということです。

わたしたちは人の役に立つことを大いに喜びます。人の役に立つ人物のことを「あの人は使える人だ」とも言います。わざわざ名誉心や出世欲を満足させる必要はありませんが、自分が人の役に立っている、そこそこ使える人間であるという思いは、喜んで人に奉仕する、お仕えするきっかけになるのではないでしょうか。

時には、仕えることの難しい相手もいるかもしれません。同級生でありながら、自分は平社員で相手は局長であるとか、同級生でありながら自分は一介の主任司祭、相手は大司教であるということも考えられます。それでも、仕える者になることで、イエス・キリストのお役に立てるとすれば、これ以上望むことはないはずです。

イエスはわたしたちに、「皆に仕える」という神の前に偉くなる道を示してくださいました。それは同時に、人の役に立つ道、使い物になる道でもあります。キリストを信じない者からはどう言われようとも、神の前に偉くなる近道、王道を胸を張って生きていきましょう。そのための恵みを、今日のミサで願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼木曜日、巡回教会での子どもミサのときだった。10月に「幼きイエスの聖テレジアおとめ教会博士」(1日)と「イエスの聖テレジアおとめ教会博士」(15日)が祝われるが、この両聖人に触れながらその日のミサの話を子どもたちに聞かせた。
▼「今月、2人の女性を『おとめ教会博士』として祝っています。たまたま2人共に『テレジア』という名前でした。『教会博士』という呼び名は、イエスさまのことをとても深く学んだ人で、わたしたちにイエスさまのことを詳しく説明してくださった方々のことです(わたしの説明は厳密には不十分だと思う)。
▼「ところで今日は『おとめ』という呼び名について考えたいです。『幼きイエスの聖テレジア』は24歳くらいで亡くなりました。『イエスの聖テレジア』は67歳で亡くなりました。ところで、『おとめ』ってどんな人のことを言うのでしょうか。」この質問をしながら、自分が少し意地悪な話をしようとしているという罪悪感があったが、もはや引き返せない状況にいた。
▼「○○君、どう思う?」小学5年生の男の子がすぐに「20歳から30歳くらいの女の人だと思います」と答えた。「○○君はそう思ったんだね。教会が考えている『おとめ』は、イエスさまのために結婚せずに一生涯をささげた人のことを言うんだよ。」
▼「後ろを見てごらん。シスターが3人いるでしょう。このシスターたちはイエスさまのために結婚せずに一生涯をささげているから『おとめ』なんだよ。おばあさんでも、おとめなの。」わたしは笑わないようにとがまんするのに必死だったが、わたしから指摘された2人のシスターは、おかしくて大笑いしていた。
▼教会は「おとめ」という称号を大変重んじている。「おとめマリア」がその最たるものだ。神にすべてをささげて生きた「おとめ」は、それだけで聖人としての称号に値する。自分のためだけに生きた人を「おとめ」と呼んでいるわけではない。教会が考える「おとめ」はイエスのためにまっすぐに生きた女性だ。「おとめ」の生き方をあらためて評価すべきではないだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第399回目。竿の選択、仕掛けの結び、リールのドラグ調整、すべてが良かった

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第28主日(マルコ10:17-30)イエスは「それからわたしに従いなさい」と呼ぶ

2015-10-11 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/151011.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/10/11(No.791)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第28主日
(マルコ10:17-30)
イエスは「それからわたしに従いなさい」と呼ぶ
‥‥‥†‥‥‥‥

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10・7)今週の福音朗読に登場する金持ちの青年は、先の問いを、イエスのもとに走り寄り、ひざまずいて尋ねました。真剣に、永遠の命を受け継ぐ手段を知ろうとしていたのです。なぜ、この人は永遠の命を受け継ぐ道を選べなかったのでしょうか。

先週火曜日から水曜日にかけて、秋の司祭研修会に参加してきました。3つの研修がありましたが、その中の「新しいローマ・ミサ典礼書の総則」に基づく変更箇所の学びはわたしたちの日々のミサと関わってきますので、かいつまんで報告したいと思います。

「ローマ・ミサ典礼書の総則」というのは、ローマの典礼にしたがってミサをささげる場合、次のようにしなさいということが事細かに定めてある指示書のようなものです。従来の指示書にさらに今回変更が加えられ、今年11月29日の待降節第1主日からは一斉に指示を守ってミサをささげる必要があります。徐々に慣れていくために、今日は次の3つを守ってもらうよう、お願いをしたいと思います。

1つは、ミサの初めにもお願いしましたように、第一朗読、第二朗読者は、朗読が終わったら自分で「神のみことば」と答えてください。今回変更された「ローマ・ミサ典礼書」は、朗読者自身が「神のみことば」と唱えることが明記されました。ご注意願います。

2つめは福音朗読で、たとえば「マルコによる福音」と告げます。会衆の皆さんは司祭と同じように、額と唇と胸と3回小さな十字を印してください。ここには「みことばをよく理解し、人々に宣べ伝え、心に深く刻んで生きる」という思いが込められています。

3つめは、パンとぶどう酒の奉納です。これまで全員立った状態で奉納していましたが、今週からは会衆は座って奉納者が奉納するのを見届けてください。なぜそうするかと言うと、「みなさんこのささげものを、全能の神である父が受け入れてくださるように祈りましょう。」この呼びかけを活かすためです。「受け入れてくださるように祈りましょう」と呼びかけて会衆全員の願いが祭壇上に集められます。

「ローマ・ミサ典礼書の総則」に加えられた変更点の適用について、まだいろんなことがありますが、少しずつ実施しながら待降節までに調えたいと思います。

さて福音朗読ですが、イエスが金持ちの青年に「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(10・21)と告げたとき、青年は立ち去ることになります。イエスと青年の間で、どのようなやり取りがなされたのでしょうか。

金持ちの青年の真剣な態度に、イエスも正面から向き合っています。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」(10・21)この様子から明らかです。この時イエスは「わたしが言いたいことは、分かっているよね」と、見つめながら思っていたことでしょう。それは単に持ち物を売り払い、貧しい人々に施すわざを求めたわけではないということです。

わたしたちは、もしかしたらイエスの言葉を読み違えているかもしれません。「持ち物を売り払い、貧しい人々に施せば、一文無しになるではないか。」わたしはそうは思いません。若くしてすでに金持ちになることができた青年です。

その気になれば、まったくの一文無しからまた財産を築くだけの才能は持っていたでしょう。だからこそ、持っている物を売り払い、貧しい人々に施すようにイエスも言ったのです。問題はその先、「それから、わたしに従いなさい」(10・21)この段階に進むことができるかどうかなのです。

いったん持っている物を売り払い、貧しい人々に施しました。しかしこの青年が、「また一から財産を築き上げよう。わたしにはその才能も時間もある」と考えるなら、彼の状態は元に戻り、金に執着し、財産に信用を置く生き方に戻ってしまうでしょう。そうではなく、これからはイエスに信頼を置いて生きることを求めたのですが、彼の考えはおそらく変わらなかったのだと思います。

イエスはまずチャンスを与えたのです。生き方を変えるチャンスを与えて、「その後わたしに従う生き方に変えてほしい。もちろん生き方を変えないという道もあるが、わたしが望んでいるのはどちらか、分かっているよね。」イエスと金持ちの青年の間には、このような何往復ものやり取りが込められていたに違いありません。

わたしたちは、簡単には自分の生き方を変えられません。そうかと言ってほかの人から強制的に変えられてしまうこともこのみません。イエスはこうした人間の心をよくご存知なので、人生のどこかで決定的な場面を用意してくださるのです。

わたし自身は、大神学生時代に追突事故を起こして免停になった時に自分を神さまに預ける決心ができたと思います。もちろんその時から100%実現できているわけではないですが、イエスについて行こうと決めるか、悲しみながら立ち去るかの分かれ目であったことは確かです。

イエスが求めているのはすべてを無くしてしまえという単純なものではありません。今置かれている生活や環境がガラッと変わった時に、わたしを頼りに生きてくれますか。それともこの世の何かにすがり続けますか。そういう問いかけです。

無くしたくないものを無くすこともあります。かけがえのないものさえ失います。誓ったことも守れなくて失意の底に沈むかもしれません。それでも、イエス・キリストを拠り所として生きてくれますか。それが今週わたしたちに問われています。よい答えを導き出せるように、このミサの中で取り次ぎを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マルコ10:35-45)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼毎日数え切れないほどの体の細胞が死に、新陳代謝が起こる。そして数年ですべての細胞が入れ替わるらしい。神が造られた人間の体は奇跡の被造物である。言わば人間は細胞レベルでは、これまでの自分を捨ててまた新たな自分を手に入れながら、神が計画された神秘を受け入れて生きているわけだ。
▼人間が作ったものは、どのような最先端の建築も、または伝統的な建築も、細胞が入れ替わるなどということは起こらない。建て替えるか、部分的に入れ替えるかしなければ、完成したその時から滅びへの道を歩んでいく。ここに神の被造物と人間の産物の決定的な違いがあるのかもしれない。
▼ところで、人間の細胞はこのように「死」のプログラムが埋め込まれていて、以前の細胞が死に、新しい細胞にとって代わられるというのに、例外的に死なない細胞がいる。それがガン細胞だ。この細胞は「死」のプログラムが欠けているために、死なないようにいつまでも体から栄養をもらい続け、悪さをし続ける。
▼「あなたも、死ななければならない。」だれかが、あるいは何かの指令が、ガン細胞にこのように理解させ納得させなければ、ガン細胞が消滅することはない。医学的にはわたしの説明は幼稚だろうが、なぜガンを克服できないのか、ということではわたしの意見で十分だろう。
▼ガン細胞が悲しみながら去っていく。そういう仕組みを早く確立してほしい。そうでないとわたしの周りでも、多くの人がこの世を去ったり去ろうとしていたり、辛い思いを繰り返している。ガン細胞に言いたい。あなたの持っているものをすべて売り払いなさい。その上で神が定められた細胞本来のプログラムに従いなさい。これで、言うことを聞かないガン細胞は悲しみながら立ち去るに違いない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第398回目。長崎くんち。9日の大波止付近12時ごろの様子。長崎も祭り好き。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第27主日(マルコ10:2-16)神は彼に合う助ける者を与えてくださる

2015-10-04 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/151004.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/10/04(No.790)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第27主日
(マルコ10:2-16)
神は彼に合う助ける者を与えてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」(10・5)ファリサイ派の人々は「モーセが離縁状を書いて離縁することを許しました」(10・4)と主張しましたが、モーセがこのような考えに至ったのは人間の頑固さに妥協したからというより、人間の頑固さを告発するためだったとイエスは説明します。

ファリサイ派の人々は結婚を掟の立場からしか見ていません。結婚の意義や尊さを見ず、結婚した人が掟に触れずに妻を離縁する抜け道までも議論していたのです。

イエスは結婚の意義や尊さこそ大切にされるべきであると反論しました。イエスは旧約聖書の創世記を引用しながら、結婚が本来わたしたちに求めていることは何か、考えさせようとしています。わたしたちもイエスに導かれて結婚の意義や尊さを再確認しましょう。

9月29日の司祭団ソフトボール大会、長崎司祭団チームが力を十分に発揮して優勝しました。全体では3チームで総当たり戦を行い、長崎チームが2勝、佐世保平戸チームが1勝1敗、五島チームが2敗という結果に終わりました。

今年の五島チームは弱かったのかなと思われているかもしれませんが、試合の流れもあるし、勝負は紙一重という場合もありますので、わたしは特別弱かったとは思いません。ただ、大会の運営(参加費の徴収、審判の確保、女性部の奉仕の依頼、飲み物の買い出し、当日大会終了までのさまざまな雑事)そういうことに気を取られて本来の力を発揮できなかったかもしれないなぁとは思っています。

わたしの結果は、2試合でヒット1本と、タイムリー2塁打1本でした。ホームランは、今年はどの神父さまもだれも打ちませんでした。こういう時にわたしが一人だけ打てば目立ったのですが、残念です。

イエスが結婚の意義を再確認するために引用したのは創世記2章です。その中で神は「彼に合う助ける者を造ろう」(創2・20)とお考えになりました。その男と女が力を合わせて生きる者となるとなることについて「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(同2・24)と宣言しました。この部分をイエスは引用していると思います。

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マコ10・6-9)

ここから読み取れるのは、結婚の意義と尊さは、男女のカップルが対等に向き合う者として描かれているということです。男性を支えるためだけに女性が与えられたわけではありません。また、二人は一体となって結婚生活のさまざまな場面を体験し、ときには難局を乗り越えていく。そこに結婚生活の意義と尊さがあるということです。

人が前に向かって歩いていくためには、さまざまな問題を判断し、選択し、行動する必要があります。自分一人の判断ですべてを決めることは危険な場合もあります。そこに「向き合って助けてくれる者」がいて、力をもらえるのはどんなに有難いことでしょう。すぐそばに、助ける者がいる。それが、結婚生活なのだと思います。

また人間の成長のためには、苦しみの道を避けては通れません。苦しみがどんな意味を持っているのか、なぜこのような苦しみを通らなければならないのか、自分一人では背負いきれないこともあるでしょう。苦しみの道を通って、人間として成長する。結婚した男女は、避けて通れない苦しみを、もはや二人ではなく一体となって、乗り越える力を互いに与えるのです。

もしかしたら、興味や関心は次第に薄れていくかもしれません。毎日聞く同じような話は退屈かもしれません。また、次第に衰えていくことを互いに受け入れることは不可能と思えるかもしれません。

けれども、結婚した二人は、神が結び合わせてくださっているのですから、神はたえず、必要な力と恵みを与えてくださいます。こうして結婚は、単に人間に求められている掟の一つにとどまらず、互いに成長し、互いの完成のために関わり合って生涯を全うするのです。

結婚を掟の一つと見るファリサイ派の人々は律法が求めている心を忘れて形式主義に陥り、形式に触れないような抜け道にまで議論が及んで行きました。イエスは結婚を定めた神の思いに目を向けさせました。結婚の意義や尊さにあらためて気づけば、夫婦で担っていく苦しみさえも尊いものに変わります。神が与えてくださった恵みに感謝する一週間といたしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マルコ10:17-30)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼浜串教会に限らないと思うが、教会堂を美しく維持管理するために、教会女性部の方々には本当にお世話になっている。浜串教会女性部が毎週の教会掃除のために班分けを作り、各班が週替わりで教会清掃と花飾りを手伝ってくれている。
▼ところで、3年ほど前からは「教会は女性部だけで守っていくものではなくて、全世帯で守るべき建物。だから教会清掃も、各世帯から出すのが望ましい」という考えにたどり着き、男性女性分け隔てなく毎週の教会清掃を受け持つことが評議会で了承された。
▼ただそうは言っても、長椅子を拭いたり床を拭いたりするのに、男性が果たして協力してくれるのだろうか、という疑問が、主任司祭にはあった。残念ながらわたしは司祭館の清掃を教会女性部にまかせっきりにしていて、自分から掃除を手伝ったことがない。
▼そういうわけだから、「本当に男性が掃除を手伝ってくれるのだろうか」という疑念があったのだが、3日(土)に驚くべき光景を見た。教会正面の水汲み場からバケツに水を汲み、聖堂内ではモップ掛けをしている壮年の男性がいらっしゃるではないか。
▼この日の掃除の班を思い返してみたが、少なくとも1つの世帯は奥さんではなくご主人が掃除に出ていた。わたしの印象では、奥さんの方が掃除当番出席が想像できるような世帯だったので、この日は奥さんの出席が難しく、ご主人に頼んで出席してもらっていたのかもしれない。
▼あるいは、ご主人が積極的に掃除は引き受けるよと言って、いつもたくさんのことで教会のお手伝いに出ている奥さんを労わっているのかもしれない。当然すべきことをしているというような顔で取り組んでいる男性の方々に、心から敬意を表したい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第397回目。運営側の上五島地区司祭団は大変。気を遣い過ぎたか・・・

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする