こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(ルカ16:19-31)あなたの暮らしは神の目に留まっていますか

2013-09-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/09/29(No.671)
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年間第26主日
(ルカ16:19-31)
あなたの暮らしは神の目に留まっていますか
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先週24日(火)の司祭団ソフトボール大会、五島チームが、決勝戦3対10の劣勢を最終回の驚異的な集中力でひっくり返し、11対10で見事優勝しました。相手の長崎市内チームの張り切り神父さまは、相当悔しかったろうと思います。個人的には、連合チームに奉公に出されることもなく、7打数4安打、1ホームランでした。拍手(の予定)。

優勝できた今年は2つの幸運が重なったと思います。1つは、予選の相手が長崎市内チームでなかったことです。予選1試合、本戦1試合だけですから、予選で負けてしまえば決勝戦に回ることができません。

もう1つは試合会場です。今年の長崎市松山ソフトボール場は、外野が金網のフェンスで囲まれています。他の試合会場はいつもホームランラインを引いて試合をしています。この違いが大きかったかもしれません。

どういうことかと言いますと、ホームランラインを引いた球場だと、ゴロでホームランラインを越えていった時は、自動的に2塁打になって2塁ストップです。ところが、フェンスが設置された今回の球場の場合、ボールが転がっている間は打者走者がフリーで進むことができるのです。実際、4試合中3人がランニングホームランとなりました。ちなみにわたしは、歩いて帰ってくる文句なしのホームランでした。

さらに言うと、フェンスのある球場は大きな飛球が来た時にフェンスをかなり気にします。すると、フェンス直撃の打球はなかなか捕球できないわけです。ラインを引いているだけでしたら、ライン際でファインプレーの可能性があります。今回は金網のフェンスでしたので、それも難しい状況でした。

こうして、強打者のいるチームにかなり有利な展開になりました。しかしながら、わたしは今回の結果に浮かれることなく、48歳になる来年も厳しいレギュラー争いに挑戦です。司祭が元気であることは、小教区、また教区も元気になる源だと思っております。

お許しを頂きたいことが1つあります。優勝を祝して、大分の日田温泉に明日から1泊したいのです。月曜日に行って、火曜日の昼のフェリーで帰りますので、火曜日と水曜日は夕方5時のミサでお願いします。

さて今週は、「金持ちとラザロ」のたとえです。貧しい人ラザロは死んでアブラハムのすぐそばに連れて行かれ、金持ちは死んで葬られ、陰府でさいなまれるわけですが、わたしは今回、どんな人が、最終的に父なる神の目に留まる人なのかということについて考えてみたいと思います。

まず、地上での金持ちと貧しい人ラザロの生活について考えてみましょう。金持ちは、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(16・19)とあります。彼は地上で、多くの人の目に留まり、多くの人の注目を浴びていたのでしょう。一方のラザロは、誰の目にも留まらず、金持ちの門前にたたずんでさえも、だれからも見向きもされなかったのでした。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」(16・21)とあるのは、本当にだれも、ラザロに注意を払わなかったことが強調されているわけです。

この両者は、死後に境遇が逆転します。貧しい人ラザロは、天使たち、宴席の人たち、父アブラハム、ここには書かれていませんが当然父なる神に見守られています。これは神の国に住む者すべてに見守られているということです。

ところが金持ちは、死後はだれからも気に留めてもらえなくなりました。「炎の中でもだえ苦しんでいる」(16・24)と訴えているのに、父アブラハムにはその訴えが響かないのです。「指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」(16・24)と哀願しますが、それすら断られます。いつもたくさんの人にちやほやされ、取り囲まれていたのに、今はだれも気に留めてくれないのです。どんなに苦しんでいても、手を差し伸べてはもらえないのです。

アブラハムは言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」(16・25)貧しい人ラザロは生前だれからも気に留めてもらえなかったけれども、天の国の宴席にいる人々は皆、苦しんでいるラザロに注目していたのです。注目していたから、すぐに父アブラハムのもとに連れて行かれました。金持ちは、これほど天の国の宴席にいる人々が注目していたラザロに気付かなかったわけです。

なぜ気付かなかったのか。この問題はわたしたちにも深く関わってきます。旧約聖書の出エジプト記には、貧しい人に対する配慮を語った箇所があります。一般にユダヤ人は聖書を熱心に読んでいましたから、該当する箇所を十分承知していたはずです。次のように書かれています。

「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」(出22・25-26)

金持ちがもし、自分がすでに何度も聞かされていた箇所を他人事と考えずに真剣に受け止めていたなら、父アブラハムはこの金持ちにも目を留めたことでしょう。金持ちが神の国の宴席にいる人々の目に留まり、将来招かれる可能性はいくらでもあったわけです。

わたしたちはどうでしょう。今の暮らしは、神の国の住人の目に留まる暮らしぶりでしょうか。地上で誰の目にも留まらない平凡な暮らしであっても、神の国のすべての人の関心の的になっている人も必ずいるはずです。

父なる神が目を留めてくださる生き方を目指しましょう。その姿が仮に誰の目に留まらなくても、神をよりどころとしている人を神は決して見落とすことはありません。今週のたとえは「誰の目に留まることを第一に考えて生きますか」とわたしたちに問いかけています。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(ルカ17:5-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼7打数4安打。トータルでは5割7分1厘ということになる。予選は4打数3安打だったので7割5分。決勝戦では3打数1安打なので3割3分3厘。総合的には奉公に出されずにレギュラーメンバーに残る6割までは到達できなかったが、予選の3安打が効いていたのか、決勝戦でもレギュラーメンバーで使ってもらうことになった。
▼アウトになる選手はたいてい決まっている。そういう気がした。わたしは7番打者で使ってもらったが、最初の打席は2アウトで回ってきて、簡単なファーストゴロに終わった。2アウトで回ってきて、仲間たちは内心「これでチェンジだ」と思ったに違いない。案の定、わたしは後ろに回すことができなかった。
▼2打席目以降は立て続けにヒット、予選の最終打席は3ランホームラン。ということはほかの誰かがアウトになる役回りになったということになる。アウトにならない選手はなかなかアウトにならない。これは不思議である。なんとなーくアウトになりそうな人はやはりアウトになる。その流れを断ち切った試合は、うまく点数を積み重ねている。
▼その典型的な例が、決勝戦だ。わたしは1打席目と2打席目、あっけなく凡退した。しかも2アウトの場面でである。明らかに試合の足を引っ張っている。いよいよ顔向けできなくなっていた時に、1塁のコーチャーをしてくれていた某先輩が、2打席目終わってから声をかけてくれた。
▼「お前の苦手な外角を攻められて、まんまと罠にはまっているぞ。今度は引っ張らずに、センターに返すように打ってみろ。」何でもかんでも引っ張って敵の術中にはまっていたのである。
▼最終打席、まっすぐに打ち返そうとバットを最後まで振り抜かずに押し出すようにしてボールに当てた。うまくセンター前に抜けてくれた。1塁に到達した時、コーチャーの某先輩から「それだよそれ。きれいにセカンドを抜いたなぁ」と結果を喜んでくれた。アウトになる予定の人間が後につなぐと次々に良い方に回っていく。7点差をひっくり返した時、五島チームに何とも言えない一体感を感じた。

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今週の1枚
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第278回目。激戦を勝ち抜き優勝した五島チーム。発行人は後列右から3人目。

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年間第25主日(ルカ16:1-13)すぐに行動し、迎えてくれる場所を確保する

2013-09-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/09/22(No.670)
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年間第25主日
(ルカ16:1-13)
すぐに行動し、迎えてくれる場所を確保する
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司祭団のソフトボール大会がいよいよ24日と近づいてきました。今年は長崎が会場です。今年も、どこかの地区に奉公に出されるかもしれないなぁと、覚悟はしているつもりですが、できれば奉公に出されず、自分の地区で暴れたいなぁというのが本音であります。

今年、上五島地区の堅信式が11月10日に入っています。浜串小教区からは、浜串教会の男子と福見教会の男子、合計2人が堅信の秘跡を受ける予定です。今年の受堅者にも筆記試験と口頭試験と2つの試験を課そうと思っています。

筆記試験は例年通りです。そう難しくはありません。口頭試験はわたしがこれまで課した試験の中ではもっとも難しいと思います。口頭試験の内容は1つ、ニケア・コンスタンチノープル信条を暗記して唱えることです。完全に暗誦できてなくても筆記試験を高得点でパスしたら堅信式は受けられますが、お楽しみの焼き肉はどうなるか分かりません。

さて、今週の福音朗読「不正な管理人のたとえ」は、わたしにとって興味深い箇所です。ルカ18章に出てくる「不正な裁判官のたとえ」と並んで、個人的に興味をそそられる箇所です。不正を働いていたとされる管理人が、その不正の源になっていた行為を通して、最後は主人にほめられる。実に面白いと思います。何より、「不正な人間」をイエスがたとえ話に登場させるところが痛快です。

物語で目に付くのは、不正な管理人が、主人から最後通告を受けた後に、素早い行動に出ている点です。会計の報告をし、管理の仕事を取り上げられるまで、わずかな時間しかありません。このわずかな時間にできることを、迷わず実行した結果、彼は主人にほめられたのでした。

よいことをしたわけではありません。あいかわらず狡猾な、抜け目のないやり方で事態を切り抜けようとしたのです。ただし「迎えてくれる」場所は確保します。素早い行動で、迎えてくれる場所を確保する。これが今週わたしたちの考えるべきテーマと言えるでしょう。

まずは素早い行動です。お一人お一人自分のことを考えてみて、自分は素早い行動を取れる人間でしょうか。動きが速いか遅いかではなく、しなければならないと思ったことを、日を置かずに取りかかるかどうかということです。

食事の後に歯を磨きます。定期的に歯を磨く人でしょうか。何日も歯を磨かないことがあるでしょうか。食事の後先に祈りを唱える人でしょうか。何か教会行事で食事が振る舞われた時だけ、久しぶりに食前食後の祈りをするのでしょうか。

もしも神から「あなたの日常の祈りについて聞いていることがあるが、どうなのか。今すぐ報告を出しなさい」と言われた時に、わたしはどんな報告をするのでしょうか。

どんなことにもすぐに行動する、という人は少ないかもしれません。多くの人は、すぐに行動する得意分野があり、なかなか行動に移さない分野もあるというのが当たっているかもしれません。

例えば5月10月にロザリオの信心があり、わたしはそれまでにロザリオのカードを作り、最終的には出席者の数をまとめて、何か励みになるようなものを準備して渡すという一連の流れがあります。こういう準備が楽しみだという司祭は、いつもすぐに行動するでしょう。ですがわたしは準備大好き人間ではないので、「あーしまった、カードを作ってない。どうしよう」となってしまうわけです。

もう1つの考えるべき点は、自分の取った行動が「迎えてくれる」場所を確保することにつながるか、という点です。今週の主日のミサは、亡くなられた歴代主任司祭の追悼も兼ねていますが、それぞれの主任司祭に関わる思い出があると思います。お一人お一人、自分が関わった主任司祭に今すぐにできることが何かあるかも知れません。

亡くなった歴代の主任司祭のためにすぐに行動すれば、それはそのまま天に宝を積み、ひいては天に迎えられることになるはずです。亡くなられた歴代主任司祭のためにすぐに行動する。これはきっと、わたしたちが天に迎えられる場所を作る近道です。

すぐにできることが、本当に自分たちが天に迎えられる場所を用意してもらうことに結びつくか、心配な方もいるかも知れません。世の中には慎重の上にも慎重な人もいます。ただわたし自身は、すぐにできることは迷わず実行したいと思います。

考えてみてください。迷っているうちに、できることはどんどん遠のいてしまいます。それに「これは天に場所を作る働きで、これは天に場所を作る働きではない」と、いったい誰が判定できるでしょうか。それは神のみが判断できる事柄のはずです。わたしはすぐに行動できる時に、ためらう必要は無いと思います。

「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。」(16・2)それぞれの人生の決算報告を求められた時、わたしたちには一刻の猶予もありません。いつ決算を求められるかすら分かりません。

「そうだ、あの手があった」とか、「あの人がわたしを助けてくれる」そんな人がわたしと神との間にいるなら幸いです。思い当たらないなら、今のうちに、この世の富を使って、神と自分との間を取り持ってくれる人を見つけておきましょう。神は抜け目のないやり方にもほめることを知っておられるふところの深い方なのですから。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(ルカ16:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年のプロ野球は、期待が破裂寸前まで膨らんでいる(笑)。わたしは広島カープのファンだが、ペナント終盤で3位に踏みとどまっている。4位の中日、5位のDeNAはまだ油断できないが、何とかこのままシーズンを終われそうな雰囲気である。
▼3位でシーズンを終了すれば、CS(クライマックスシリーズ)が待っている。この仕組みがセリーグに導入されてから1度もお世話になったことがなかったので、楽しみで楽しみで夢が膨らみ、破裂しそうである。
▼もとより、それ以前から22年間優勝とは縁がない。だが、である。今年は、「もしかしたら・・・もしかする?」と思わせる頑張りを見せてくれている。その1つ、首位の巨人に9月14・15・16日の3連戦で3タテを食らわせたのだ。あの巨人(どの巨人?)にである。
▼こんなに調子良いのが怖いくらいだ。いざCSに入った時に、これまでの広島カープだと「あー、期待させるだけさせておいて、やっぱりかぁ」となるわけだが、巨人に3タテの実績を残しているから、「逆転優勝?」みたいなことを期待してしまう。
▼広島がまだ強かった1980年代、わたしは大神学院の学生で、山本浩二・衣笠祥雄・北別府学・大野豊と豪華なメンバーが揃った時代だった。楽しかったなぁ。日本シリーズの中継を観ながら、学生みんなの冷たい視線を浴びつつ、一人広島を応援してたっけ。だって大神学院生と言ったら、ほとんどが巨人ファンだったから。
▼1984年以来日本一には無縁だし、1991年以来リーグ優勝さえ果たしていない。だから楽しませてもらえればそれだけでもオッケーなのだけれども、仮に、阪神を叩いて、巨人も負かしてリーグ優勝できたら、広島対楽天(と仮定して)の日本シリーズだ。これってかなりビミョーかも?

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今週の1枚
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第277回目。このTシャツを堂々と来て街を歩く日が来る!かも?

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年間第24主日(ルカ15:1-32)イエスの導きのもとにまことの命がある

2013-09-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/09/15(No.669)
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年間第24主日
(ルカ15:1-32)
イエスの導きのもとにまことの命がある
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木曜日と金曜日にかけて、九州全域から集まった視覚障害者に情報を提供する施設の大会に参加してきました。今年は九州全域から490人の参加がありました。この大会は正式には九州視覚障害者情報提供施設大会と言いますが、今年は長崎県が主催になっていましたので、長崎県内で視覚障害者に情報を提供している2つの施設、すなわち長崎県視覚障害者情報センターと、わたしが代表を務める声の奉仕会マリア文庫が今回の大会の主催者となって2日間の大会を切り盛りしてきました。

ただ、主催した2つの施設と言っても、声の奉仕会マリア文庫と長崎県の施設である視覚障害者情報センターとでは活動の規模も組織の大きさも比較になりませんので、わたしたちは長崎県視覚障害者情報センターにおんぶに抱っこの状態でお手伝いをさせていただいたという状況です。具体的には、閉会式の部分を引き受けさせていただいて、わたしも主管施設の代表として終わりの挨拶をさせていただきました。

大会期間中の講演会と研修会の内容はここでは省略しますが、毎年この大会のために苦心して先生を選んできて、参加者が実りある研修を受けられるように配慮してくださるのには本当に頭の下がる思いです。今回の研修を受けて、視覚障害者への声による情報提供と点字での情報提供に、さらに心を込めて務めることができるようになると思います。

さて今週の福音朗読はルカ福音書の第15章です。第15章と言っただけで「あー」と気づく方は相当聖書に親しんでおられる方です。3つのたとえがありまして、「『見失った羊』のたとえ」、「『無くした銀貨』のたとえ」、「『放蕩息子』のたとえ」の3つです。皆さんの手元にある「聖書と典礼」にはそのうちの「『見失った羊』のたとえ」と「『無くした銀貨』のたとえ」が掲載されていますから、いちおうこのうちの1つのたとえに絞って、話をまとめたいと思います。

「『見失った羊』のたとえ」の中で、百匹の羊のうち一匹を見失ったとあります。聞いた話では羊は方向音痴の動物のようで、羊飼いに導かれなければすぐに迷子になってしまうのだそうです。何らかの事情で一匹の羊が迷子になったのでしょう。羊が迷子になると、それはそのまま「死」に直結してしまいます。羊飼いの導きのもとにあることで、羊の命は守られています。羊が、安心して生き続けるためには、羊飼いの目の届く所にいる必要があるのです。

しかし、羊がいったん迷子になると、羊のほうから羊飼いのいる所に戻って来ることは不可能です。ですから、羊飼いは「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで」(15・4)捜し回ることになるのです。

羊飼いのそばに置いて、安心して生き続けられる状態にしてあげることは、羊飼いの務めです。イエスはこの羊飼いの使命を、ご自分の使命と重ね合わせて語っています。つまり、わたしたち人間と、救い主イエス・キリストとの関係です。

わたしたち人間は、つねに命の与え主イエス・キリストの導きのもとにあって生きることができる存在です。自分で自分の命を守り、生き続けることができないか弱い存在なのです。どんなに人間が強がっても、眠っている間に心臓がほんの僅か止まっただけで明日は無くなってしまいますし、脳の血管が1cm詰まっただけで、これまでと同じ生活ができなくなるのです。自分ではどうすることもできないさまざまな危険を、神が見守ってくださっているので、今を生きています。

イエスは、こんな弱い存在である人間を、いつもご自分の導きのもとに置きたいと願っているのです。それはわたしたちを支配するのではなく、わたしたちがのびのびと、本来の人間らしい活動ができる自由を守ってあげるために、導いてくださるのです。体のことだけではありません。罪によって、神の導きに背を向ける場合も、わたしたちは「死」に直面することになります。人間があらゆる意味で死なないために、イエスは「見失った一匹を見つけ出すまで」捜し回ってくださるのです。

イエスが見つけ出そうとして捜し回るのは、職務上の務めとして自衛隊や消防や警察が行方不明者を捜すのとは根本的な違いがあります。職務で捜索をしてくださる方々は、日没になれば捜索はいったん中断し、また明け方になってから再開します。イエスが見失った一匹を見つけ出そうと捜し回るのは、命を賭けて、最終的には十字架上で命を投げ出して捜してくださるのです。それは見失った命が、ご自分の導きのもとにいなければ命がないと知っておられるからです。

わたしたちの命は、イエスが命を賭けてご自分の導きのもとに置いていただいている命です。イエスが十字架上に命を投げ出して、捜し回ってくださったことで、イエスの導きのもとに置かれている命です。いったんイエスの導きからそれてしまうと、自力では戻って来ることのできない弱い命です。

それなのに、いつしか自分を見失い、イエスの声の届かない場所に迷って、死の危険に身をさらすことがあります。こんな時わたしたちにできることは、悔い改めることだけです。聖書と典礼に掲載されていない「『放蕩息子』のたとえ」の中で、弟は悔い改めましたが、兄は悔い改めた弟を喜ぶことができませんでした。

人間は、自力では命の与え主であるイエス・キリストの元に戻ることができず、悔い改めることしかできないのですから、わたしたちはだれも、悔い改める罪人を非難してはいけないのです。事の大小はあるかも知れませんが、悔い改める罪人を喜んで迎える羊飼いイエス・キリストの姿を、わたしたち教会家族も表していく必要があると思います。

わたしたちの毎日の生活の中に、神の導きのもとにいることを感謝するきっかけを持ちたいと思います。生活の中で感謝できる人は、悔い改める人を喜ぶ人にもなれると思います。イエスの導きにすべての命が置かれるよう願いながら、このミサを続けてまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(ルカ16:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼夏休みに切符の変更などで何枚かの切符は無駄になってしまった。31日の高速船の最終便に間に合うように、JRの切符と船の切符を前もって購入していた。しかし31日の長崎-五島間の船は30日に早々と全便欠航となり、切符を切り替える必要があった。
▼31日に長崎-五島間の船が動かないとなると、31日に上五島に帰り着くただ1つの方法は、「博多-五島」間を運航しているフェリーになる。
▼ただしこのフェリーは夜11時半に出港するため、運航するかしないかを決定する時間には、すでにJRの切符も長崎-五島間の船の切符も無駄になってしまう。運航決定を確認せずに見切り発車で切符の払い戻しに行くことも可能だが、そうした場合もしも運航しないという決断がくだれば、さらにひどい目に遭う。
▼そういうわけで、払戻にも行けず、いくつかの切符は無駄になってしまった。台風接近にもかかわらず自分の計画を優先させたのだから、その結果は甘んじて受けなければならない。高井旅教会の土曜日夜のミサだけ、どうしても行くことができず、上五島に1人助祭がいるので「みことばの祭儀と聖体拝領」をお願いした。
▼五島はとても住み良い土地だが、ときどき不便さを痛感する。それでも、五島に生まれ育ったことは感謝の気持ちでいっぱいである。九州視覚障害者情報提供施設大会でも、五島の出身であることを知った人から五島のことをあれこれと聞かれた。ついでの話だが、鹿児島のカトリック信徒の人から「毎週ブログを見ていますよ」と声をかけられた。

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今週の1枚
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第276回目。無駄になった切符。

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年間第23主日(ルカ14:25-33)どのような執着も捨てて敬老者になる

2013-09-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/09/08(No.668)
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年間第23主日
(ルカ14:25-33)
どのような執着も捨てて敬老者になる(2012年説教案参考)
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今週、敬老者のためにミサをささげています。歳を重ねることは、人生に重みを増すことだと考えています。最近わたしは3月12日の誕生日を迎えるたびに、生まれ年のワインを1本購入して祝っています。生まれ年、つまり1966年(昭和41年)に生産されたワインですが、年を追う毎に探し出すのが難しくなっています。値段も、年に1回しか買えないくらいの値段になってきています。

たとえばこのワインのように、敬老者の方々の積み重ねた年月は、徐々に重みを増してくるのです。重みを増してきたのですから、周りの人はふさわしい敬意を払う必要がありますし、敬老者本人は、毎日の生き方が、より福音の勧めに沿った生き方となるように期待されていると思います。

そこで、与えられた福音朗読から、敬老者だからこそたどり着ける境地、敬老者に期待されている姿を拾ってみたいと思います。鍵となるのは、「○○でなければ、わたしの弟子ではありえない」という表現です。3回繰り返されています。

「これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」「ついて来る者でなければ、わたしの弟子ではありえない。」「捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」繰り返すことで、どのような執着心も捨てて、イエスに従うよう求められています。

まず求められているのは、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら」ということです。家族や身内が、いちばんわたしたちにとって執着のもととなる相手だと思います。

家族や自分の命に執着しないということで、わたしは今でも、ある一人のお父さんを神さまのもとに送る告別の説教を思い出すことがあります。そのお父さんは定年まで造船所で働きましたが、定年を機に故郷の家に戻りました。ところが半年もしないうちに夜釣りに出かけたボートで転落し、命を落としたのです。

わたしはとても親しくさせてもらっていたので、その人の葬儀ミサに出席して説教するのは簡単ではありませんでした。いろいろ考えた中で、このお父さんは、家族の元に戻るための綱と、神の国に入るための綱の二つの綱のうち一つしか選べない難しい場面で、神の国に入るための綱を両手で掴んで、神にいのちを引き上げてもらったのだと話したのです。とても信仰厚い方でした。家族への愛着もあったでしょうが、神にすべてを委ねることを最後は選んだのだと思います。最後の最後まで、イエスに従う人生をまっとうしたのでした。

次にイエスが求めているのは、自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」と言います。十字架は重荷です。初めから、避けて通りたい重荷ですから、その十字架を背負ってイエスについて来るのは簡単ではありません。それでも、十字架を背負ってついて来る者に、イエスは目を留めてくださいます。

敬老者にとっての十字架は何でしょうか。すぐに思い当たるのは、記憶の衰えやからだの衰えではないでしょうか。今日お祝いを受ける敬老者の方々は、思い通りに生きることを少し控え、思い通りにならない頭と体を日々担ってこられました。それは、敬老者の立場で、十字架を背負ってイエスに従う生き方だと思います。考えようによっては十年前二十年前よりも、もっとイエスの望みに従って生きることができるようになっているのです。

最後に、「自分の持ち物を一切捨てないならば」と招きます。しばしば自分の持ち物は、努力して手に入れたもの、苦労して手に入れたものです。それらを捨てるのは大変勇気の要ることです。

自分の持ち物によって安心できていた人は、イエスが自分を安心させてくれるから、わたしの持ち物を手放すことができると、自分に言い聞かせることになります。年齢を重ねていかなければ、イエスが安心させてくれると納得するのは難しいでしょう。

ときには、どうしてわたしの持ち物を手放さなければならないのかと悩むこともあるかも知れません。けれども年齢を重ねて、思い通りにならない道は、イエスが模範を示した十字架の道なのだと理解できるようになります。わたしたちも、思い通りにならない道を通って初めて、意味深い信仰告白ができるようになるのだと思います。

今日のこのミサには、敬老者を祝う人々も集まっています。子供たち、敬老者を家族に持っておられる方、教会家族で敬老者のお祝いのために集まっています。敬老者を祝うわたしたちも、敬老者の生きたお手本から自分の振る舞いを見つめ直したいと思います。

敬老者が生き方で示す信仰に謙虚に耳を傾けることで、年配の方々を敬う人でありたいと思います。敬老者の方々と共に、イエスに従って歩む道を見つめ直しましょう。思い通りにならないことを数多く通り抜けた先に、輝く信仰者の生き方があります。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(ルカ15:1-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼さまざまな健康補助食品がテレビのコマーシャルで紹介されている。ヒアルロン酸を宣伝する商品、ビルベリー(ブルーベリー)を宣伝する商品、ほかにもたくさんあるだろうが、以前はこれらのコマーシャルを「関係ない」と思っていた。
▼だが最近は、自分にもこのコマーシャルが訴えかけているのではないかと思うようになってきた。当然コマーシャル自体は不特定多数の人に向けて呼びかけているのだから、自分に思い当たることがある人だけが「自分に呼びかけているのではないだろうか」と思うわけである。
▼どうでもよいコマーシャルと思っていたのが、妙に気になるコマーシャルになっている。さまざまな否定しがたい症状が、コマーシャルに目を留めさせるのだ。前日に婦人会とのソフトバレーをして、翌朝起きてみたらとても体が重いとか、それでなくても朝スッキリしないとか、睡眠時間は足りているはずなのに目覚めが良くないとか。
▼それでもたぶん、健康補助食品の世話にはならないと思う。たとえ親にはそれらを買ってあげたとしても、自分は買おうとは思わない。「だまされたと思って・・・」という宣伝文句もあるが、わたしは買わない。
▼理由ははっきりしている。毎月数千円の出費をしたくないのである。毎月出費するなんて耐えられない。ほかに無駄な出費が毎月あったとしても、健康補助食品の出費はわたしには納得がいかない。
▼だからもしそれらの補助食品を同級生が使い始め、「これいいよ。使ってごらん」と言うのなら、わたしにも毎月プレゼントして欲しい。それだったら使っても構わない。まぁそれでも、あちこち無理の利かない部分が出てきていることは確かだ。いたわりながら毎日を過ごそう。

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今週の1枚
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第275回目。修学旅行写真。原爆ドーム、路面電車、広島カープ。
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年間第22主日(ルカ14:1,7-14)神の前に自分を無にする人は高められる

2013-09-01 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
13/09/01(No.667)
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年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
神の前に自分を無にする人は高められる
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今年に入って3回、鍋を焦がしました。すべて、味噌汁の鍋です。いちばん最近は8月26日の月曜日です。朝ご飯を食べる時に、味噌汁の鍋に火をかけて、温まるまでと思ってテレビを見ていたら味噌汁のことを忘れてしまい、最後にデザートでも食べようかなと台所に戻ったら、煙が充満していました。

隣の台所で火をかけていながら、忘れてしまうのですから、あまり気にもかけていないのか、テレビを見ていて気を取られているのか、いずれにしてももう火をかけながら食べるのは無理だと思いました。

鍋を焦がして、イエスのみことばを実感しました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(15・11)たぶん1度目、2度目には「今度は失敗しない。するはずがない」と思っているわけです。でも、また失敗した。それは、人間のおごりや高ぶりを、神が低くする典型的な例だったのだと思います。

イエスのみことばは、神が人間を低くし、あるいは高めるということを教えてくれます。その上でわたしは、高ぶる人間を神が低くするのは、いつか神がその人を高めてくださるためではないか、そういうことを思いました。いつかすべての人を、神が高くしてくださる。そのために、高ぶる者を低くされるのではないかと考えました。

人間のおごり高ぶりというのは、ある意味終わりがないのかも知れません。いくら高慢な態度を取って失敗しても懲りない。場所が変わり、環境が変わると、今まで収まっていた高慢心が頭をもたげてくる。その繰り返しではないでしょうか。

そこで、高ぶることをやめようとしない人間を、神が低くするわけです。神が人を低くする時、人はそれから逃れることができません。そして、神が人を低くするのは、理由があるのです。

今テレビのあちこちで、かつて人気歌手だった人が再起を賭けている様子が取り上げられています。皆さんもどれかの番組で見たかも知れません。歌姫と言われ、宣伝しなくてもトップセールスを続けていた歌手でしたが、いったんすべてを失って、ゼロからのスタートとなりました。自分でお金を払って練習場所を見つけ、どんなに小さな仕事でも喜んで引き受けています。

復帰後も、周囲の厳しい目にさらされます。「あの子、クスリをやってた子でしょ」と陰口を言われたり、「だれ?あの人」と冷ややかな言葉を浴びせられたりしたそうです。それでも、前を向いて、もう一度歌う舞台に立っています。今の姿を見ていると、わたしは、神が今の姿に立ち直るためにいったんその歌手を低くされたのかなぁと思いました。

繰り返しますが、神が高ぶる人を低くされるのは、へりくだる体験をした後に、その人を高めるためだとわたしは考えています。神の目にかなう人に造りかえるために、高ぶる人を低くしているのです。神の目にかなう人、へりくだる人に変えられたなら、神は喜んでその人を高く上げてくださるのです。ここまで話して、みなさんの中には「よきおとずれ8月号」を思いだした人もいるはずです。8月号の1面は、ユスト高山右近を取り上げた記事でした。ここで思い出すために、引用したいと思います。

(ユスト高山右近は)1553年摂津国は高山に生まれ、1615年フィリピンはマニラで閉じられた63年の人生。その後半の29年は追放の身だった。戦乱の世に身分ある家柄の子として生まれ、20歳で大名となり、下克上の熾烈な競争社会の中、もって生まれた才能で頭角を現し、時の権力者織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が目をとめる存在にまで登りつめていく。成功者と目された若者の洋々たる前途は開けていた。

しかし、右近は人々の期待とはまったく違った生き方を見せていくことになる。伝えられたことを生きる信仰は、右近に「降りていく生き方」を選ばせた。34歳で大名職をはく奪、改易追放。世の力におもねない人。心細く生きる人を大事にし、礼を失せず、清さを求める人。そうして残ったのは、「十字架の死にいたるまで従順に生きる」お方を追い求める人の姿だった。こうして、いちばん低い所からいのちの方角を示す右近は、新たな輝きを放つことになる。神は、過酷な競争社会の中で信仰のために「負け組」に身を落とした右近を通して、ご自分の福音を差し出した。競い合うことの先に確かな幸せを求める現代社会――今、教会が右近を記念する理由がここにある。

右近はなぜ、あえて「降りていく生き方」を選んだのか。高山右近という生き方には何が宿っているのか。キリストの3つの神秘が右近の人生を包んでいたことがわかる。神が人の間に宿る「出会いの神秘」。み旨を求め続ける「苦しみの神秘」。そして、すべてがついえた闇と沈黙から生まれる「復活の神秘」。洗礼の恵みを徹底的に生きた時、ユスト高山右近という生き方になった。それはまた、「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」と公言した信徒発見の教会が受け継いだ信仰でもある。右近は遠い昔の人ではない。競い合う現代社会――降りて、仕えて生きる右近は今も確かないのちの方角を指し示している。

結局、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」というのは、イエスがこの地上で最も低くされ、いのちの道を示したことで、父なる神に高められた、その同じ道を歩む呼びかけなのです。わたしたちがへりくだる生き方にいのちを見つけなければ、神に高めてはもらえないのです。

低くされ、へりくだる生き方を自分の生きる道と納得できるまで、神は何度でもわたしたちを低くするのでしょう。そして、心からへりくだる生き方を受け入れる時、十字架を背負って生きるわたしたちを御子イエスと同じように高めてくださるのです。

わたしの今の生活は、神に低くされる生活か、高められる生活か、考えてみましょう。わたしたちがいつも神に高めてもらう生き方を選び取るキリスト者でいられるように、ミサの中で聖霊の助けを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(ルカ14:25-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼休暇に入る前、司祭団ソフトボール大会の練習が上五島地区・下五島地区の司祭団合同で行われたが、少し落ち込むことがあった。去年もそうだったと思うが、去年以上に打撃に力不足を感じた。
▼左打者は上五島地区・下五島地区の司祭団合わせて2人しかいない。2人そろって練習に参加することが少ないのでこの目で確かめたのではないが、どうやらわたしの打力のほうが劣っていて、いざ試合になると控えに回される可能性がありそうなのだ。
▼やはり、レギュラーメンバーには力のある選手を使いたい。守備が際立っていれば話は別だが、わたしの守備は外野のライト、他の選手でも十分守れる守備位置である。そうなるとやはり、打力のあるなしが、メンバー入りの条件になるだろう。
▼休憩時間に、もう1人の左打者の打力の話が出た。「フェンス直撃したからねー。」自分はフェンスどころか、外野に飛んだ球はすべて捕球された。それはつまり、パワーがなくなってきたことを如実に物語っている。これはまずいことになった。
▼あと1ヶ月後には試合である。1ヶ月で筋力をアップするとか、飛距離を明らかに伸ばすとか、そんなことはまず無理だと思う。すると、後は何が残っているか?うーん、後は確実性か。
▼3割打者では司祭団では強打者とは言わない。5割でも足りないだろう。おそらく6割打者で強打者と認められるのではないか。確実に捉える練習だったら、あと1ヶ月でも間に合うかもしれない。最後までボールをよく見て、強い打球を飛ばす。このための素振りの練習を、地道にするしかない。

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今週の1枚
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第274回目。浜串の信者さんのフランス巡礼写真から。モンサンミシェル。

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