こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖霊降臨の主日(ヨハネ14:15-16,23b-26)聖霊体験で私たちはイエスをより深く知る

2007-05-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/05/27(No.300)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
聖霊体験で私たちはイエスをより深く知る
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今週の聖霊降臨の説教を準備するために、聖霊についての古い時代の説教を読んでいましたら、なるほど、かつての司教はこんなたとえから入っていったんだなあと、感心いたしました。今日は二人の司教、今から1600年も前の司教が残してくださった説教から、聖霊について考えてみたいと思います。

一人は、エルサレムの司教だった聖チリロです。彼は、聖霊を説明するために、イエスが井戸のそばでサマリアの婦人とお話なさった会話に目を付けました。のどの渇いたイエスは、サマリアの婦人に「水を飲ませてください」と話しかけたあと、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)と仰るのですが、実はここで言われた「水」とは、「聖霊」のことであったという注釈をしたわけです。

イエスが仰る「水」が、「聖霊」であれば、聖霊が汲み尽くすことのできない井戸のようなものだということになります。イエスが「聖霊」を与えてくださり、それは、永遠の命に至る恵みの泉となってわき出るようになる。のどを潤す水は何度も口から補う必要があるでしょうが、聖霊を受けた人、聖霊の溢れ出る恵みに気づいた人は、渇くことがないわけです。

今話した部分は、聖チリロ司教の説教で言うとほんのとっかかりの部分だけで、説明すれば時間はいくらあっても足りません。聖霊が、どのようなものなのかを考えるきっかけとして、まず取り上げてみました。

二人目の司教は、同じ頃にフランスの(ポワティエの)司教だった聖ヒラリオです。彼は、聖霊が、神様を知るために与えられることを、分かりやすく説明します。古代の司教の説教にはいつも感心させられるのですが、紙と鉛筆がなかった時代に、五感(目・耳・鼻・口・手足)でつかめるようなたとえをよく織り交ぜて話しました。

つまり、こういうことです。目は、もともと、ものを見る力を十分に備えています。ですが、外に光がなければ、十分備えている力も、力を発揮できません。それは、目にものを見る力がないからではなくて、「見える」ということは、まずは、「外が明るい・光がある」ということがあるから見えるということなのです。

念を押して言いますが、私たちがものを見るとき、自分で光を出して物を照らして見ているわけではありません。そこに人が立っていても、動物が横切っても、外からの光がなければ何も見えないのです。これは分かると思います。

耳も同じことで、耳は微かな音でも、敏感に聞き分ける力をもともと持っているわけですが、どんなにいい耳をしていても、外に音がなければ、何も聞こえないのです。テレビの音声を切ったままだと、テレビの中の人がどんなに口を動かしても、何も聞き取ることができないのと同じです。テレビの音が聞こえないとき、私たちは自分の耳を疑うのでしょうか、テレビを疑うのでしょう。当然、テレビだと思います。

こうしたことから、聖ヒラリオは、聖霊について考えました。神様は、人間に、ご自身を探し求め、ついにたどり着くだけの力をはじめから与えている。けれども、力を備えてくださっていても、それだけではたどり着けないのです。人間の五感は外からの刺激を必要としています。聖霊は、外からの光のように、あるいは音のように、先にわたしたちに働きかけて神に向かわせるのだと言うのです。

ここからは私なりのまとめなのですが、「何かが見えた」「何か聞こえた」という場合、それに先立って光や音があるように、イエスが仰っていることはこうではないだろうか、イエスはこう私に呼びかけておられるのではないだろうか、と感じるのは、確かに聖霊が働いておられるしるしではないでしょうか。イエスの教え、イエスが招いている呼びかけが分かったと言うとき、聖霊があなたの内にあって、光となり、音となって感じさせてくださっているのです。

つまり、神の愛やいつくしみ、神のご計画に私たちが気付くという場面で起こっていることは、聖霊があなたに降っている、聖霊が「降臨している」ということなのではないでしょうか。イエスが約束してくださった「弁護者である聖霊」は、イエスの思い・望みに私たちが触れる度に、私たちに降り注ぎ、あるいは私たちの中で働いておられるのです。

弟子たちに聖霊が注がれたことを記念する今日、私たちにもイエスは聖霊を注いでくださり、神を知り、愛する恵みを強めてくださいます。今日いただいた賜物を携えて、社会に戻っていきましょう。一人でも多くの人が、霊に満たされ、神をもっと身近に感じることができますように。


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ちょっとひとやすみ
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▼5月の第3週は1つの家族から2つの葬式が出た週だった。そのうち、1つは長崎にあるカトリックの葬儀社を会場にして通夜と葬儀ミサをおこなった。葬儀社には30人くらい入ることのできるホールがあって、場合によっては会場として使わせてもらうことがある。
▼通夜が終わって翌日の葬儀ミサでハプニングは起こった。開祭にあたり、招きをした直後、葬儀社の職員が「ご聖体のためのホスチア(パン)は、わたしたちは準備していませんけど」と耳打ちをしてきたのだ。さすがにこれには青ざめた。
▼「何とかならないかなあ。わたしは動けないし」すると職員が「浦上教会に行ってきます」と言ってその場を離れた。浦上教会まで往復となると、最低でも30分は必要になる。説教が終わるまで、どう考えても25分。へたをすると20分で説教まで終わってしまう。どうする?何か話し続けておくか?そうこうするうちに職員が戻ってきた。無事にホスチアを用意している。大事に至らなくてよかった。
▼この出来事を機に、私のほうから葬儀社に緊急のためのホスチアを提供しておこうという気持ちになった。そこで、横浜の知り合いに頼んで東京からホスチアを取り寄せ、葬儀社に少し分けておこうと思っている。もちろん、こうじ神父が忘れたときのためであって、必ずその時はやって来ると考えている。

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こうじ神父絵手紙
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第81回目。今年は数が少ないそうで、かなり高値になるそうです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
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主の昇天(ルカ24:46-53)天に昇ってもイエスにつながっている

2007-05-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/05/20(No.299)
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主の昇天
(ルカ24:46-53)
天に昇ってもイエスにつながっている
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今日私たちは、ご昇天のお祝い日を迎えています。福音朗読では、「(天に上げられた)イエスを伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24・52)ことが記録されています。主の昇天は、私たちにとっても喜びとなります。どのような喜びとなるのか、考えてみることにいたしましょう。

イエスは天に上げられる前に、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」(24・48)と言い残しました。父が約束されたもの、それは聖霊です。弁護者(ヨハネ14・26)とか、真理の霊(ヨハネ16・13)と呼ばれる霊で、「真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16・13)お方です。

この聖霊の働きはある意味すでに始まっています。イエスが天に上げられたとき、弟子たちは大喜びでエルサレムに帰ったのです。つまり、聖霊はすでに弟子たちに働いて、イエスが天に上げられても大喜びしていられることを理解させてくれたのです。

なぜ、イエスが天に上げられても弟子たちは喜んでいられたのでしょうか。それは、イエスが言われた「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)という意味がはっきり理解できたからだと思います。イエスが意図していた「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という意味は、どんなものだったのでしょうか。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。このイエスの言葉は、「そこにいる」という物理的な意味ではありません。イエスは物理的に「いつも共にいる」のではありません。そうではありませんが、それでも確かに「世の終わりまで、いつも共にいる」のです。

つまり、イエスがそこにいなくても、聖霊がかつてイエスが話してくれたことを生き生きと説明してくださるので、イエスは「共に」いてくださるということを実感できたのではないでしょうか。

また、弟子たちはイエスの次の言葉を思い出したでしょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっているならば、その人は豊かに実を結ぶ」。弟子たちはこのあと聖霊降臨を受けて、あちこちで大胆に宣教します。多くの人がイエスを信じたので、主が共にいてくださること、自分たちがイエスというぶどうの木につながっているから、これだけの成果につながっているのだと実感したのです。

またこの「ぶどうの木と、その枝」というたとえを通して、弟子たちはイエスにつながって生きているなら、イエスの歩んだ道とその栄光は、枝である自分たちにも及ぶのだということを理解していました。ですから、イエスが復活したのであれば、つながっている私たちも復活するのであり、天に昇って行かれたのであれば、私たちもつながって天の国に迎えられる。その確信があって、弟子たちは大喜びしたわけです。私たちはイエスにつながって生きているし、喜ぶときも、悲しみを背負うときも、いつもイエスといっしょだ。そういう実感が、彼らに大きな喜びを与えたわけです。

私たちもそうです。イエスと切り離されていないなら、いまの暮らし、いまの喜びや悲しみにあっても、私たちもイエスの昇天を心から喜ぶことができます。イエスが共に担ってくださるからです。共にいてくださることを理解できたとき、栄光に入られたイエスの姿は、もう他人事ではなくなっているのです。私にいちばん身近な出来事になっているのです。

ところで、弟子たちはすぐにこのような心境にたどり着いたのでしょうか。先に考えたように、弟子たちとて、最初は「天を見上げて立っていた」のです。み使いは、「なぜだまって突っ立っているのか」というような言葉を弟子たちにかけています。この招きは、時を移さずに行動しなさいという励ましの言葉のはずです。宣教、つまり人々に伝えるという行動を起こすことで、私たちが主から喜びをいただいたように、新しい人々が主の昇天を喜び合うことができます。

主の昇天は主ご自身と出来事を目撃した人々には説明の必要すらないかも知れません。けれども、イエスの生涯を知らない人にとってはていねいに説明してもらわないと理解できない神秘です。ですから、昇天を含めイエスの生涯の出来事は宣教活動を通して初めて共有できるようになるのではないでしょうか。

「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24・46-48)。宣教活動を通してこそ、「わたしにとっても、あなたにとっても、主は復活され、昇天された」と喜び合うことができるのです。

ところで、出来事の証人になる人々は一部の目撃者だけではありません。今も、イエスと出会う喜びに触れていない人が大勢います。今の日本で、証人になるのは私たち一人ひとりです。そして証言する力の源は「大喜びで」「神殿の境内にいて」「神をほめたたえる」(24・52-53)この3つです。これらが私を動かして宣教へと駆り立ててくれます。

大喜びで。まずは私たちがイエスの一つひとつの神秘に喜びを覚えることから出発します。次に教会に集まって祈りと恵みに満たされること。これが力を蓄えることになります。この恵みに満たされることが宣教する力を養う食べ物です。そして最後に賛美が口からあふれ出ることです。こうして、さらに多くの人がイエスの復活、昇天を知り、触れることになるのです。

次のご復活、ご昇天までこれから一年の時間があります。一年かけて、私の働きかけをきっかけにして共に喜び、神殿に集い、神をほめたたえるようになる仲間を得ることができたら何とすばらしいでしょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼結婚式の中での話。「人間はどんなに才能ある人でも一つずつしなければならないことをこなしています。解決しなければならない問題も一つずつ解決します。緊急事態になり、対処しなければならないときはなおさら、最優先の問題、次に優先すべき項目、落ち着いてからでもできる課題と順番を決めて取りかかります。」
▼「朝起きてから、すべてのことを一つずつこなします。朝起きたときの最優先事項は何でしょうか。私は、『祈ること』を最優先事項にしていただきたいと思っています。朝起きた。そのことだけでも、実は感謝すべきことだからです。目が覚めたことを感謝するために、なにがしかのお祈りをする。ぜひ考えていただきたいのです。」
▼「今日一日が無事に終わった。このこともまた、当然のことではありません。防弾チョッキを身につけていても、命を守れるとは限らない時代です。家族が、夫婦が、今日一日無事に過ごせた。十分感謝することができるはずです。どうぞ、祈ることを優先課題に取り入れてください。」
▼「参列者の皆さんも、どうぞ新たな生活に入る二人のために、祈ることをもう一度考えてください。どこにいても、いつでも、お二人のためにすぐにできること、必ず役に立つことです。どうぞ、結婚した二人に、あふれるほどの祝福を願って、これからも祈ってあげてほしいと思います。」

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こうじ神父絵手紙
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第80回目。夏に向けて最近ようやくまじめに取り組み始めました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ14:15-16,23b-26)
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復活節第6主日(ヨハネ14:23-29)イエスの平和を保ち、届けよう

2007-05-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/05/13(No.298)
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復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
イエスの平和を保ち、届けよう
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「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。今日私が、皆さんと一緒に考えたいイエスの言葉です。

すべての人が、平和を願っていると思います。家庭の平和、社会の平和、国の平和など、その人が考えている平和は、一人ひとり違うかもしれませんが、平和を必要ないと思っている人はいないのです。

でも、私たちは、平和な社会と、平和でない社会と、両方を見ています。両方を知っています。喜びと、笑いに満ちている家庭・社会があるのに、新聞やテレビを見ていると、事件・事故もたくさんあります。私の考えですが、ニュースを見ていて、事件・事故のない日を探すのは、難しいと思います。

平和だと感じている人たちと、平和を見つけることのできない人たちと、本当に違っているのは何でしょうか?それとも平和を見つけるかどうかは運命によって決まっているのでしょうか。あの人は平和を見つけることができる、この人は平和を見つけることができない、というようなことがあるのでしょうか?

私は、こう考えます。本当の平和は、一人ひとりの心の中、いちばん深いところに神が与えてくださるものです。そして、神が与えてくださる平和を持っている人は、家庭の平和・社会の平和・国の平和を作ることができる。私はそんなふうに感じています。

そうは言っても、平和を保つ人はそう多くないかも知れません。ある人は、心の中に、怒りをいっぱいためています。私のことを理解してくれないと思っています。誰も友達になってくれないと考える人もいます。怒りを心の中にためている人は、心に平和を持っていないのです。そしてその人は、平和を運ぶ人になることができません。

けれども、イエスは今話した人、「心の中に怒りをためている人」にも平和を与えることができます。イエスはこう言いました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。イエス御自身が言ったことです。イエスは、自分で話したことは、必ず実行します。できないことを話したりしません。心の中に怒りをためている人にも、「平和」を届けてくださるのです。

ところで、「イエスの平和」と言っていますが、それを具体的に説明するのは難しいですね。いくつか、例を使って考えてみましょう。一つ目。悲しみを感じても、希望を失わない人は、イエスの「平和」を持っています。その人は、イエスがきっと私を立ち直らせてくれると信じているからです。悲しみのために、希望を失う人と、悲しみを感じても、希望を失わない人の違いは、イエスの平和をもっている人と、イエスの平和を持っていない人の違いだと思います。

二つ目。悲しんでいる人、困っている人を助け、励ます人はイエスの平和を持っています。悲しむ人に希望を与える本当の力は、イエスの平和からやって来ます。悲しむ人を励まし続ける力は、人間の力だけでは足りません。あまりの悲しみのために、悲しむ人が私の助けを拒むかも知れません。それでも励まし続ける、希望を持ち続けて人を助けてあげる。その力は、イエスの平和から来ます。だから、人を励まし続けることのできる人は、イエスの平和を持っています。

三つ目。人を、心からゆるすことのできる人は、イエスの平和を持っています。ある人が、言葉や行いで私に悪いことをしても、イエスの平和をもっている人は、ゆるしてあげることができると思います。イエスの平和を持っていない人は、ゆるすことができないで、感情のままに憎しみを感じたり、仕返しをしたりするでしょう。

三つ考えてみました。私たちは、三つの例のどれかに当てはまることがあったでしょうか?もし、一つも当てはまっていなくても、悲しむ必要はありません。あらためて、イエスの平和を願ってください。きっとイエスは与えてくださいます。イエスが平和を届けることのできない人は、いないからです。

最後に、もう一つのことを考えてみましょう。イエスが、私に平和を届けてくださいました。平和をいただくのですから、私たちは嬉しさが満ちあふれます。ですが、私たちはその喜びに留まっていていいのでしょうか。それだけでは足りないと思います。もう一つ大切なことがあります。それは、「他の人にイエスの平和を届ける」ということです。

今日、紹介した三つの態度「希望を失わないこと」「困っている人を助けること」「人をゆるしてあげること」これらの生き方を人に示して生きる人は、必ずイエスの平和を届けることができます。仮に、十分な働きかけができなくても、イエスの平和が必要な人はこの世界にたくさんいるので、その人々のために祈るなら、遠い人にも、ほかの国の人にもイエスの平和を届けることができます。

イエスの平和を保って生きる人になりましょう。そして、イエスの平和を届ける人になることができるように、今日のミサの中で祈っていくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼三男の弟を訪ねて諫早に母と出かけた。三男の弟は障害者福祉施設にいる。昼食を終える頃に施設に到着し、一通り施設を案内してもらった。職員室で母親はこれまでの弟の生活の様子の報告を受け、外出の許可願いを出し、昼の時間と、夕食を食べて帰ってくることを申し出て弟と出かけた。
▼初めは、諫早駅前の大型店で買い物をし、それから時間があったのでどうするか考えた挙げ句に大村空港に行き、飛行機の離発着を見に行くことにした。楽しく過ごせるかどうか自信はなかったが、これが思いのほか気に入ったようで、空港の屋上では身じろぎもせず、瞬きもせずに飛行機を見入っていた。
▼いろんな場所に行ったことがないだろうからと思って空港に連れて行ったのだが、最終的に屋上への登り口を発見したのは弟だった。本能のような嗅覚があるのか、屋上への通用口にまっすぐに向かっていった弟を見て、教えられている自分がひどくうろたえていたのが分かった。
▼施設に戻ると、弟は一目散に通常の生活に戻り、私たちを見送ることもなく施設の中に消えてしまった。それでも、その日の外出はひどく嬉しかったらしく、次の日も空港に行ったことを先生に話していたのだという。何かわだかまりが解けて、弟と心を通わせることができるようになったかも知れない、そう思った一日だった。

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こうじ神父絵手紙
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第79回目。さて、これは一体なんでしょう。使うとすごく気持ちいいよ。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(ルカ24:46-53)
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復活節第5主日(ヨハネ13:31-33a,34-35)「与える」ことに神の愛を知る

2007-05-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/05/06(No.297)
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復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
「与える」ことに神の愛を知る
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土曜日の昼、十二時直前に、小学校1,2年生の子供かなあ、と思う男の子が司祭館の玄関に立って、「こんにちはー、こんにちはー」と声をかけてきました。いかにも精一杯の勇気を出して、おそるおそる、といった感じでした。

司祭館の二階にいた私は、一階に下りずに二階の廊下から、「はい、こんにちは。教会でお祈りするんですか」と聞きました。ちなみに私は、基本的には「お祈りに来た人」には最大限協力するつもりなので、観光に来た人にも「お祈りの方ですか」とわざと言って、教会でお祈りをするように促して教会を開けることにしています。

私が男の子に、「お祈りに来たんですか」と聞きましたら、「ここは教会ですか」とその子が返事をしました。「そうですよ」と言ったら、司祭館の玄関をあがって、応接室に入ったんです。慌てて、「ちょっと待ってね。教会を開けるから」と言って家族の元に戻しました。子どもがたくさんいる家族で、「どうもすみません」とお父さんが挨拶して教会の中に入っていきました。

おもしろかったのはここからです。おそらくさっきの男の子はお父さんに言われて司祭館にお礼を言いに戻ってくるに違いないと思いまして、たまたま手元にあった三笠山の箱を開けて、その子が玄関に来るのを待っていたんです。案の定、男の子は玄関にやってきました。

「お菓子をあげるよ。兄弟何人いるの?」その子は目を輝かせて「何人兄弟です」と言うのも忘れて三笠山に手を出しました。「1つ2つ3つ4つ5つ6つ」。両手に三笠山を一杯抱えて、最後に男の子はこう言いました。「今度この教会に来たときも、またお祈りします」。そうかぁ。お祈りに来てくれるか。その時はまた三笠山を上げるからね。私は心の中でそう言って、家族を見送りました。4人兄弟のようだったので、三笠山を2つ損しましたが、気分は悪くありませんでした。

さて今週の福音に入っていきましょう。朗読箇所から、「与える」という動作に注目してみました。2つの「与える」様子を拾うことができます。1つは「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」(13:32)。もう1つは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)。です。

この朗読の中で神が御子に栄光を与えることと、イエスが弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」こととは、一見してあまり共通点がないように思えるかも知れません。一方は「栄光を与える」と言っているし、他方は「掟を与える」と言うからです。本当のところは、どうなのでしょうか。

私は、この一見して似ていないものが、実は共通の土台に立っていると考えています。「与える」という姿に、「栄光を与える」のも「掟を与える」のも変わらない部分があると考えたのです。それは、「喜んで与える」ということです。栄光を御子に与える御父の場合も、掟を弟子たちに与えるイエスの場合も、どちらも「喜んで与える」気持ちは変わらないのではないかと思っています。

ここで、皆さんは考えることでしょう。「父である神が御子に栄光をお与えになる場合、喜んで与えるのはよく分かるけれども、イエスが弟子たちに掟を与えることが、どうして喜んで与えることになるのでしょうか」。確かにそう感じるかも知れません。

この疑問を解決するために、私たちが日頃経験していることを思い出してみましょう。私たちは何かの立場で、誰かに物事を教えたり指導して育てたりすることがあると思います。例えば、親が子に、はじめは本当に小さな事を言いつけて、その子がうまく頼まれたことを果たしたとき、今度は喜んでもう少し難しい課題を与えるのではないでしょうか。

こうして少しずつ難しい課題を与えていくとき、親は子に対して、かわいそうだとか、心配だとか思ったりするのでしょうか。むしろ、喜ばしく、誇りを持つのではないでしょうか。自分の子供が、さらに難しいことをこなせるところまで来た。だから、喜びと誇りを感じながらもう少し高い課題を与える。イエスが、弟子たちに掟を与えたのは、そのような心だったのではないでしょうか。

弟子たちは、3年間の教育を経て、はじめは全く分からなかったことでも少しずつ理解できるようになり、徐々にイエスの期待に応えられるようになってきました。そこでイエスは、喜びをもって、1つの掟を弟子たちに与えたのです。「互いに愛し合いなさい」という掟です。

私は、土曜日の昼にやってきた子供が、お祈りのことを分かっていたかどうかは知りません。カトリック信者だったかも知れないし、そうではなかったかも知れません。けれども、教会から戻って司祭館にお礼を言いに来たとき、三笠山をもらった返事に「今度この教会に来たときも、またお祈りします」と言ったのです。

普通なら思いがけなくお菓子をもらった嬉しさでお礼を言うことを忘れてしまっても不思議ではない場面です。二度と会わないかも知れない家族にお菓子を与えましたが、私は喜びで一杯になったのです。その男の子は、喜んで与えるに価する子供だったのですから。

神は、何かを与えるにあたって喜んで与えるのだと思います。この世界を作ったときも、この世に人間を形作ったときも、喜びに満たされて、すべての被造物を良しとされたのでした。今もさまざまな命をこの世界に与え続けています。豊かに与え続ける神は、喜びで一杯なのではないでしょうか。命に限らず、人間に掟を与えるときも、戒めを与えるときも、神は人間を掟や戒めに価する存在としてお認めになり、喜んで与えるのだと思います。

イエスもまた、父なる神の与える姿に倣って、病気の人に健康を与え、迷っている人に道を示し、喜びをもって与え続けました。これらのことを考え合わせるとき、私たちもまた、何かを与えるときに、神のいつくしみの心に触れることができるのではないでしょうか。それぞれ、自分の子供に、自分が関わった人に、自分自身を喜んで与えるときに、私たちは神の愛に触れるのではないかと思います。

「今度この教会に来たときも、またお祈りします」。あの男の子の言葉を聞いて、三笠山を上げたのは失敗ではなかったと、今確信しております。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼以前助任司祭で赴任した教会の信徒と、その教会で奉仕しているシスターが伊王島にやってきた。対岸の港から、プレジャーボートでやって来た。雨の日、カッパを着て、60馬力の船外機を積んだボートで25分くらい。馬込の港に入ってきたとき、しびれて失神しそうにかっこよかった。
▼午前中は雨。まったく晴れる見込みのない雨。午前中に教会と灯台と灯台記念館をぐるっと回り、昼食はホテルのバイキングがちょうど予約できたので食べに行き、1人温泉に入って残りはこうじ神父のリクエストで伊王島周辺をボートで遊覧してきた。
▼イサキが連れそうな灯台下のポイント周辺では船をスローにして、じっくり下調べ。ボートの船長も喜んで付き合ってくれて、おかげで本当に自分で行くときの参考におおいになった。これから梅雨時期になれば、イサキがバンバン上がるようになる。その時の楽しみが増えた。
▼船長は大変ユニークなアイディアの持ち主だった。以前からこういう明るくてユニークな人だったのだろうが、当時はそこまでの記憶はない。いちばんおもしろかったのは、家庭ミサの日、ミサの中の先唱(あわれみの賛歌、感謝の賛歌、平和の賛歌など)をどのタイミングで声に出したらよいか分からずに、こうじ神父がタイミングを計って小さく合図をするからその時に言いなさいと打ち合わせをしたのだと打ち明けてくれたこと。そういうこともあったかなあと今になっては懐かしい。
▼本当は、もっと違うことを話したかったかも知れない。また、他の参加者もたくさん話したいことがあったかも知れない。シスターも、シスターとして話したかったことがあったかも知れない。でも、一日いっしょに過ごして、みんな思いっきり休日を楽しんだことに変わりはない。

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こうじ神父絵手紙
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第78回目。来週書きますが、三男の弟を訪ねて諫早に行ってきました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
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