こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ルカ11:1-13)探しなさい。そうすれば、見つかる

2007-07-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/07/29(No.309)
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年間第17主日
(ルカ11:1-13)
探しなさい。そうすれば、見つかる
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「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。今週の福音朗読のこの箇所から、神は必ず与えてくださるという信頼を深めるきっかけをつかみましょう。2つの、違った形で与えられた例を紹介したいと思います。

結婚講座でのことです。カトリック信者とカトリック信者でない方とが教会で結婚式を挙げるためには、特別な書類が必要です。カトリック信者がカトリック信者でない方と結婚することは「教会法」の中では結婚の妨げ、「障害」となっています。この障害を免除するには書類を申請し、法律上の妨げを取り除かなければ、結婚することはできません。書類は2枚作成します。1枚は、宗教が異なる婚姻、異宗婚障害を免除する「婚姻障害免除書」という書類、もう1枚は、2つの約束を宣言する「約束書」です。

「約束書」の2つの約束は次の通りです。1つは、カトリック信者が自分の信仰をこれからも忠実に守るということ、もう1つは、生まれてくるすべての子供が、カトリック教会で洗礼を受け、宗教教育されるよう、最大限努力することです。私はこの2枚の書類を提出してもらってから、カトリック信者のがわに「これからもカトリックの信仰を恒に忠実に守る」ということについて考え方をただします。納得できる返事をもらえるまで、問い詰めて答えさせるのです。

今から話すのは、男性がカトリック信者、女性がカトリック信者でないカップルの勉強会で実際にあった話です。その日も、いつものようにカトリックの信仰をつねに忠実に守ることについて、しつこく尋ねました。カトリックの信仰を守るということは、大人として義務を果たすということに通じます。カトリック信者の義務、それは分かりやすい部分で言えば、十戒と教会の掟を守り、隣人愛を実践するということです。

掟を守るのは信者の義務ですが、もしも掟を覚えてなければ、守ることもできません。ですから、カトリック信者のほうに「これからも信仰を守るというのであれば、十戒と教会の掟を覚えて、生活の中で守る必要があります。もちろん、覚えていますよね。どうぞ唱えてください」と迫るのです。

ほとんどのカトリック信者は、十戒のうち「父母を敬うべし」とか、いくつかは唱えることができるのですが、ある日の勉強会の参加者は一つも答えることができませんでした。十戒も、教会の掟も、どれ一つ言うことができなかったのです。「どうするの?」私はますますしつように答えを要求します。神父さまは厳しいなぁと思っているかもしれませんが、掟を言えずに信仰を守り通せるとはとても思えませんので、私はこの部分は絶対に譲れないのです。

掟について脂汗をかいてもらったあとに、今度は「ふだんの生活で信仰を保つためには何が必要なのですか」と聞くと、「祈りです」と答えてくれました。「その通りです。では、祈りを何も知らなくても、祈りはできるでしょうか、できないでしょうか」。「祈りを知らなければ、祈れないと思います」と答えが返ってきました。

「普通は祈りを知らないと祈ることは難しいと思います。ふだんの生活で信仰を保つために祈ることが必要だと答えてくれたのですから、何か一つ二つの祈りは知っているのでしょうねぇ」。私はこの人から、「主の祈り」と、「聖母マリアへの祈り」と、「詠唱」を引き出したかったのです。ところが、祈りについてもまともな返事は返ってきませんでした。

「どうするの?」また私から絞られることになります。さんざん絞り上げたあげくに、カトリック信者でない相手の方にこんなふうに尋ねたのです。「○○さん、あなたの結婚相手は、今話したような信仰の面での務めがあるのですが、結婚相手としてあなたは彼の信仰を支えてあげるために、何をしてあげられるでしょうか」。

彼女は、しばらく考えたあと、こう言いました。「わたしが洗礼を受けて信者になれば、彼を支えてあげることができると思います」。中田神父は彼女の言葉に心を打たれました。彼女のこの言葉で彼は信仰について私から問い詰められるよりももっとたくさんのことを考えさせられたのではないかと思います。私は彼女の返事を聞いて、「それは彼を支えるすばらしい方法だから、住所がはっきり決まったら近くの教会に相談に行ってください。何だったらわたしが勉強させてあげてもいいよ」と励ましてあげました。

実は、中田神父には彼女に別の方法で支えてあげてくださいと言うつもりだったのです。それは、「『あなた、結婚講座で神父さまが信仰を忠実に守るために掟を守ることと祈ることと口酸っぱく言っていたでしょ。今日、祈りはしたのですか。日曜日、ちゃんと教会に行く時間を取っていますか。教会維持費は納めているのですか』と、毎日耳元で言い聞かせてください」と言うつもりだったのです。その上にさらに、「きっと今言ったようなことを毎日浴びせかけると彼も参ってしまうだろうから、よかったらあなたが洗礼を受けて、彼を支えてあげるといいですよ」と最後言い添えるつもりでした。

ところが、彼女は私が最後に言おうとしていた結論まで、彼女自身たどり着いたのです。私は、これこそ、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というイエスの言葉が実を結んだ姿だったと思うのです。私はどんなことをすれば、彼を支えてあげることができるだろうか。必死に探し求めたとき、答えをイエスに導いてもらったのではないでしょうか。

もう一つ、キーク・キルゴーというアメリカ人が残した詩を紹介します。彼は1970年代の元米国代表バレーボール選手でした。1976年1月に落馬し、首の骨を折り、重度の障害を負ったそうです。重度の障害と向き合う中で、この詩が生まれました。朗読します。

キーク・キルゴーの詩

大きな夢を実現するために強くありたいと願ったのに
神は私を謙遜な者とするために弱くなさった。

偉大なことをなすために健康を願ったのに
神は健康を理解できるように苦痛を与えられた。

何でも手に入れることができるように富を願ったのに
神は私がエゴイストにならないように貧しくされた。

人々が私を必要とするように力を願ったのに
神は私が人々を必要とするようにはずかしめを与えられた。

人生を楽しむために何でも神に願ったのに
神はいつでも喜んでいられるように命を残してくださった。

神様、あなたに求めたことは何一つかなえられませんでした
しかし、私に必要なことはすべて私の望みに反して与えられました。

神様は賛美されますように、
私は誰よりも恵まれた者だったのです。

一見すると、願ったことが何一つかなえられていないように感じられます。けれども、彼には求めたときに与えられたものがありました。探し求める中で、何かを見つけ出しました。思い通りの形ではなかったかも知れませんが、門をたたいたときに道が開けました。

求めるなら、与えられます。与えられる形はさまざまかも知れません。思い通りの形もあれば、思いがけない形のときもあるでしょう。いずれにしても、神は必ず与えてくださるのです。今週の福音について、実際にあった話に照らし合わせて、考えてみました。


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ちょっとひとやすみ
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▼なんだかこのコーナーにふさわしくない愚痴っぽい話ですが、今年のペーロン大会、馬込教会地区(正式には馬込地区)からチームは出さないのだそうです。事情は詳しく聞いていませんが、人数が揃わないとか、チームを引っ張るリーダーにリーダーシップがなくてまとまらなかったのだとかいろいろ聞こえては来ています。
▼私たちは何かに付け「応援する」ことのすばらしさを知っています。けれども、応援するのは何かをしているその人、そのチームを応援するのであって、何もしない、最初からあきらめている状態を見て応援してあげようとは思いません。当然のことです。
▼私たちは応援したいのです。チームがそこにいて、強いか弱いかは二の次で、懸命に努力している姿を応援したいのです。老若男女、応援する人には事欠きません。ですが応援する対象が今年はないのです。応援したいと言っているのに、なぜ出場できないのでしょうか。
▼さらになぜという思いに駆られる話が聞こえています。馬込地区は出場をあきらめたけれども、大明寺地区は久しぶりに出場すると言うではありませんか。いったいどういうことなのでしょう。頭を抱えてしまいます。人数的にも、練習環境も、馬込のほうが揃っていると思えるのに、なぜ・・・。
▼今年は、ちょっと拍子抜けです。あと一週間あるので、もう一度考え直して、体勢を立て直してチームを組んでほしいものです。それこそ、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」一週間、願い求めてみます。

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こうじ神父絵手紙
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第90回目。第85回で紹介した本に、すぐ2箇所の訂正が見つかりました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ルカ12:13-21)
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年間第16主日(ルカ10:38-42)ただ一つ必要なこととは何でしょう

2007-07-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/07/22(No.308)
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年間第16主日
(ルカ10:38-42)
ただ一つ必要なこととは何でしょう
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最近「カラダスキャン」という体重計を買いました。7千円くらいしました。それまでの体重計は980円でした。これまでのものは体重しか計ってくれませんでしたが、今回買った体重計は、体重、体脂肪率、基礎代謝、内臓脂肪レベル、骨格筋率、体の実年齢まで示してくれます。それによると、体重は78.5キロ、体脂肪率は25.0%、ほかにもいろいろ数字がはじき出され、最後に体の実年齢が50歳という判定でした。ショックを受けています。

幸い、学校は夏休みに入りますし、詳しく体の状態を教えてくれる体重計もあることですから、夏はしっかり体を鍛えて、もっとましな体を取り戻そうと思います。今度の体重計はごていねいに肥満かどうかも教えてくれて、男性の場合24%台までは「やや肥満」に入るのですが、25%になるととたんに「肥満」の判定を下されてしまいます。私も、新しい体重計から「『やや肥満』ではなく、『肥満』です」と言い渡されてしまいました。

これだけ体が重くなると、やはり何かを考えなければなりません。別に肥満だから今すぐ何か影響が出るということではありませんが、もしも糖尿病にでもなれば、病院通いで今まで通り説教の時間を確保することはできないかも知れないし、もっと心配なことは、糖尿病になったことで大好きな釣りに行けなくなったりしたら大変です。健康な体を維持して初めて本来の務めも自分の楽しみも続けられるというものです。今現在、私の中で特に気をつけなければならないことは、自分の体を健康的な体に造りかえるということです。

ただし、健康的な体を手に入れると言っても、私は引き締まった体に特別な愛着はありません。元々運動が苦手ですから、体が絞れたからといってそれを鏡に映して満足するような趣味はありません。何のために健康的な体が必要なのか、そのことを考えているだけです。何のためか。それは、司祭としてお役に立つため、健康的な体で「十分に働き、釣りも楽しむ」ために、必要な努力をするということです。

もう少し踏み込んで考えましょう。私にとって健康的な体がなぜ必要か。仕事のためと言いましたが、単に仕事のためではないような気がします。つまりもう一歩踏み込んで考えると、「イエス・キリストのために、わたしは健康的な体で働くべきだ」ということになります。今週の福音朗読はマルタとマリアの姉妹の話なのですが、この物語の中でイエスがマリアの取った態度をこう説明しました。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10・42)。

「必要なことはただ一つだけである」と言っています。中田神父が健康的な体に造りかえる必要を感じたのも、「ただ一つの必要なことは何か」この質問に答えるためです。「ただ一つの必要なこと」それはこれからも健康で仕事を続けるといった表面的なことではありません。だれもが健康を与えられるわけではないし、長生きするわけでもありません。では、「ただ一つの必要なこと」は何か。それは「イエス・キリスト」です。

福音に戻りましょう。今日の物語の中で、「必要なことはただ一つだけである」とイエスが言っているのは何を指しているのでしょうか。少しずつその核心に分け入ってみたいと思います。ただ一つの必要なこととしてまず考えられるのは、「イエスが話す一つひとつの言葉」です。マルタもマリアもイエスの話は耳に入ってきてはいましたが、マルタは「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(10・40)そのため、マルタの心にイエスの言葉はじっくり根を下ろすことができなかったかも知れません。

マリアはと言うと、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(10・39)わけですから、イエスの言葉が根を下ろす良い環境にあったと思います。ただし、だれかがもてなしをしなければならないのですから、マルタとマリア、二人ともイエスの足もとに座っているわけにもいきません。いろいろのもてなしをするマルタにとっても、「ただ一つの必要なこと」を見失うことなく、もてなしに専念できる道もあるはずです。

そう考えてみると、結局「ただ一つの必要なこと」とは、「イエス・キリストそのもの」ということになります。イエスの言葉だけが、ただ一つの必要なことなのではなく、「イエス・キリストそのもの」が、人間にとって必要なただ一つのものだということです。

パウロは、「ローマの信徒への手紙」の中でこの点をはっきりと示しています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ4・7-8)。

パウロの最後の言葉に注目しましょう。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。パウロはここで、私たちが主のものとなることで、「ただ一つの必要なこと」を選び続けることができると言いたいのではないでしょうか。「ただ一つの必要なこと」は「イエス・キリストそのもの」なのです。

イエスは「必要なことはただ一つだけである」と言いました。マルタとマリアの姉妹のうち、マリアは「イエス・キリストそのもの」を選ぶためにイエスの足もとに座ることにしました。パウロが言っているように、私たちが主のものとなることで「ただ一つの必要なこと」を選び続けることができるとすれば、マルタも、「いろいろのもてなしを通してすっかり主のものとなる」そういう気持ちに向かっていけば、「ただ一つの必要なこと」を失うことなくもてなしを続けることができるのではないでしょうか。

そうすると、鍵となるのは次の点に落ち着きます。「わたしたちがすっかり主のものとなること」。そうすれば、「イエス・キリストそのもの」を失うことなく、それぞれの持ち場で人生をまっとうすることになるのだと思います。

私は昨日こんな考え事をしました。おそらく、生活を変えることなく人生を終える人が多いのかも知れない。仕事の忙しさを前にしてとうとう最後まで教会に来ようとしない人もいるだろう。いろんな教会の縛りごとを面倒に感じて、教会の門をくぐったけれども離れてしまう人もいるかも知れない。教会の誰かと衝突して嫌気がさし、背を向けてしまう人がいるかも知れない。

たとえそうしたいろんな事情で教会から遠のいている人がいるとしても、その人がどこかで「イエス・キリストそのもの」を「ただ一つの必要なこと」と考えて暮らして欲しいと願うのです。教会の六つの掟は大切ではありますが、「イエス・キリストそのもの」ではありません。日曜日に教会に来なくなったとしても、「ただ一つの必要なこと」である「イエス・キリストそのもの」を失って欲しくないなあと、そのことを願いました。

さらに願わくは、だれもが自分自身がイエス・キリストのものとなることを望む人であって欲しいと思います。家庭生活にある人、司祭・修道者、独身の人、配偶者を失った人、また病気を抱えて不安の中にある人、どんな人でも、置かれた場所で生活をそっくりそのまま主のものとなるように心がけて欲しい。昨日から今日にかけては、そのことだけを願って思いを巡らせていました。


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ちょっとひとやすみ
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▼「伊王島にキャンプに来た○○教会学校のみなさんこんにちは」「こんにちはーー!」久しぶりに耳をつんざくような甲高い声を聞いた。とある教会の子どもたちが伊王島にキャンプに来ている。いつも見ている子どもたち以外の子どもを見たので、新鮮な感動があった。
▼こうじ神父は高島に昼から出かけたので土曜日のスケジュールには付き合っていないが、夜に戻ってきてバーベキューに参加した感触では、かなり楽しんで1日目を過ごしたことが伝わってきた。引率をしてくれていた保護者、教会学校スタッフ、助任司祭の指導が行き渡っているのだろうと思った。
▼せっかく来てくれたのだから、十分に楽しんでいってほしいと思うが、明日は明日で教会の境内清掃があり、なかなか関わってあげられないのがもどかしい。子どもの名前も、1人でも2人でも覚えて、次につなげられればなお都合がよい。伊王島の子どもたちも、少しでもいいから交流させることができれば何か刺激を受けるだろう。
▼そうそう、写真を撮っていない。そうだった。短い時間だったけど、何かを与えてくれた子どもたちだったと思う。もう間に合わないけれども、今考えれば日曜日のミサの共同祈願に四番目を追加すればよかった。うーん。今からでも間に合わないだろうか?保護者か、教会学校のスタッフに作ってもらえば、日曜日のミサはすばらしい祈りをささげられる。お願いしてみよう。

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こうじ神父絵手紙
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第89回目。これが何を意味するか。この夏ブートキャンプの必要がありそうです。

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年間第15主日(ルカ10:25-37)行って、あなたも同じようにしなさい

2007-07-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/07/15(No.307)
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年間第15主日
(ルカ10:25-37)
行って、あなたも同じようにしなさい
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今週の福音書の朗読箇所は「善いサマリア人」のたとえです。今年、初心に返って次の2つの言葉を比べながら糧を得ることにしました。比べたいのは、1つは「わたしの隣人とはだれですか」(10・29)という律法の専門家の言葉、もう1つは「行って、あなたも同じようにしなさい」(10・37)というイエスの言葉です。

イエスが言った「行って、あなたも同じようにしなさい」とは、前後の流れから考えると、「行って、あなたもだれかの隣人になってあげなさい」という意味でしょう。ですから比べて考えたいことは、「わたしの隣人とはだれですか」ということと、「だれかの隣人になってあげること」この2つの違いを考えるということです。

2つの違いを考えるために、私が思い付いたことを例にしてみます。それは、「祈りについて」です。2つの違った言葉を並べてみます。1つは、「わたしが祈る相手はだれですか」という言葉、もう1つは、「とにかく、だれかのために祈ってあげること」この2つの違いです。

「わたしが祈る相手はだれですか」。この問いかけには、終わりはないと思います。私に家族がいるなら、家族のために祈るべきでしょうし、身近な人で病気にかかっている人を知っていたら、その人のために祈ってあげたほうがよいと思います。また、私自身のために祈ることも、考えておいたほうがよいでしょう。

このようにいろんな相手を思い浮かべて、「わたしが祈る相手がだれなのか」を見極めたとしましょう。ただしここには、1つ落とし穴があると思うのです。それは、「いくら祈る相手がだれか分かっても、だからといって実際に祈るとは限らない」ということです。

家族のために祈るべきです。病気の人のために祈るべきです。大好きな人のためとか、自分自身のために祈るべきですが、祈る相手が分かって、それがそのまま実際の祈りにつながるとは限らないのです。祈る相手が分かったというのに、家族のために結局祈らなかった。病気を抱えている人のためにとうとう最後まで祈らなかった。一度も祈ることなく大好きな人を失ってしまった。こんなことはめったに起こらないと言い切れないのです。

一方、「とにかく、だれかのために祈ってあげること」こちらは必ず目標にたどり着きます。終わりのない話し合いや議論ではなく、必ず結果を出します。家族のために主の祈りを1回祈った。病気のあの人のために、聖母マリアへの祈りを1回唱えた。私自身のために、自由な言葉で祈ってみた。どれも無駄が無く、必ず結果に結びついています。そこには「考えてはみたけれども祈らなかった」という落とし穴もないのです。

どちらが、意味があり、結果をともなうでしょうか。疑いもなく、「とにかくだれかのために祈ってあげること」のほうが意味のある考え方です。私も、最近1つの経験から、「とにかく、祈ってあげることが必要だ」とあらためて考えさせられました。それは、電話で相談を受けた病人との出会いです。

私はこの病人とは1度も直接会ったことがありません。ところが、向こうは私を知っているらしくて、現在の自分の病状や、何を必要としているか、どんなことをかなえてほしいと思っているか、事細かにメールで相談をなさるのです。私は最初、「何について祈ってほしいのかとても具体的だなあ」と思ってそのたびごとにその人のために祈ってあげていたのです。

ところが、少し考えているうちに、私は「わたしが祈る相手はだれなのか」を目の前に示されて祈っていたのではないだろうか、ただ言われたからそれに従って祈っただけで、私のほうから「行って、その人の隣人になってあげる」という気持ちではなかったのではないかと感じたのです。

原因はどこにあるのか。おそらくそれは、こまめにだれかのために進んで祈ってなかったからではないかと思います。毎日のミサ、司祭や修道者に義務づけられている教会の祈り、洗礼・堅信・罪の赦し・病者の塗油・婚姻などの秘跡、通夜での祈りや、納骨、火葬の前の祈りなど、さまざまな場面で「はい、ここで祈ってください」と示されて祈ることがあまりにも多いので、私は個人的にだれかのために祈るとか、ある一定の人々のために祈るということがおろそかになっていたのではないか。そんなことを考えたのです。

さんざん祈りの場に引き出されていながら、私は「行って、だれかの隣人になってあげる」ということが本当はできてなかったのではないかと反省させられました。先週の福音朗読のなかには、「『この家に平和があるように』と言いなさい」(10・5)とありましたが、本当にその人のためだけを思って、素直に祈ることがいったいどれくらいあっただろうかと、つくづく考えさせられたのです。

私は、たくさんの祈るための場を与えられる中で惰性に流されたり機械的になったりして、いつの間にか「わたしが祈る相手はだれですか」という態度を取っていたかも知れません。これは私の反省ですが、みなさんもお一人おひとり、「わたしの祈る相手とはだれですか」という落とし穴に落ちているかも知れません。

たとえば、どれだけ考えても話を聞いても、実際には主の祈り一つ唱えようとしないのは、態度で「わたしの祈る相手とはだれですか」と返事をしているようなものです。「わたしの祈る相手とはだれですか」「わたしの隣人とはだれですか」これらの問いかけにはたどり着く目標など無く、無意味な議論を重ねるだけなのです。

むしろ、「とにかくだれかのために祈ってあげる」「行って、だれかの隣人になってあげる」文字通りに実行してみることです。例えば、今日の説教を聞いて、ミサの中で祈ってあげる必要を感じる人が思い浮かんだとしましょう。ミサの終わりに十字架のしるしをしてアーメンと唱えます。そのあとすぐに席を立つのではなくて、席を立つ前に、実際にだれかのために祈ってあげることです。それが、意味のない議論から抜け出す唯一具体的な方法ではないでしょうか。

教会を出る前に、実際に祈ってあげる必要のある人はいくらでも思い付くはずです。私のことを告白するなら、過ぎた一週間の中で「あの野郎」と思った人が実はいまして、思ってはいけない言葉を心の中で言ってしまったわけです。そこで、私はこのミサが終わってひざまずくときに、「『あの野郎』と思ってしまった人のことをゆるしてください」と祈りたいと思います。私は気が短いため、「あの野郎」と思うことがしばしばあるのです。ぜひゆるしてもらいたいと思っています。

「だれかのために祈ってあげること」「だれかの隣人になってあげること」。実行するための力の源はどこにあるのでしょうか。それは、先に私のために祈ってくれたイエス、私の隣人になってくれて、私の救いに必要なことはすべて配慮してくださったイエスに力の源があります。

だれかのために自分を使おうと、何度も実行しようとして失敗したり挫折したりするかも知れません。それでも、いつも私に手当をして立ち直らせてくださる「善いサマリア人」であるイエスに力を願い、今日も「だれかのために祈ってあげる」「だれかの隣人になってあげる」この生き方に自分を向けていくことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼今、肺炎をこじらせて入院し、人工呼吸状態に陥っている人がいます。今、癌が末期の症状にさしかかり、積極的な治療を受けられずに最後の日を待っている人がいます。今、臓器の癌におかされ、それでも未来に希望を持って今日を生きる青年がいます。うっかり海に落ちて救急車で運ばれ、寝たきりになっている人がいます。私は今日、この人たちのために祈ります。
▼これまでに、司祭であるがゆえに出会い、秘跡の仲介をし、ある場合には転勤で別々になり、ある場合には最後に立ち会って神さまのもとに送り出した人々がいます。今、思い出せるだけの人々を心に留め、その人々のために祈ります。
▼私の過ちで、苦しめてしまった人のためにも祈ります。思い出せる人もいますが、気付かずに苦しめてしまっている人もいることでしょう。謙虚にゆるしを乞い、いやしが与えられますように祈ります。どんな形で償いをするのがよいのか、探し続けます。
▼今日の説教で例に挙げた家族、大好きな人、そして私自身のためにも祈ります。務めが課されている祈りはたくさんしてきましたが、本当に祈ってきたのだろうかと考えると疑問です。まだまだ祈りの道は長く、健康を取り上げられて本当に祈ることができるのか、誤解され、裏切られ、憎まれても祈ることができるのか分かりませんが、とにかく、だれかのことを主に祈ってみたいと思います。

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こうじ神父絵手紙
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第88回目。録音聖書。旧約聖書続編は、個人で録音したものです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(ルカ10:38-42)
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年間第14主日(ルカ10:1-12,17-20)イエスは一人ひとりに「行きなさい」と呼びかけます

2007-07-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/07/08(No.306)
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年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
イエスは一人ひとりに「行きなさい」と呼びかけます
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朗読された福音で、イエスは七十二人を選んで、先にお遣わしになりました。今日は、イエスに送られていく弟子の気持ちになって味わってみたいと思います。初めに、弟子たちの気持ちを探るいくつかのポイントを紹介しておきます。

イエスは、送り出すに当たって、「それは、狼の群に子羊を送り込むようなものだ」と仰います。どんなに腹の据わった人でも、こんなことを言われると不安になるのではないでしょうか。弟子たちの不安は想像に難くありません。

「財布も袋も履き物も持って行くな」これは、自分たちを送り出したイエスに、全幅の信頼をおいて出発しなさいということです。安易に頼りたくなるこの世の便利なものを一切頼らず、イエスだけがよりどころなのだとあらためて思い直した弟子たちは、おおいに気を引き締めたことだと思います。

「途中で誰にも挨拶をするな」弟子たちは先を急ぐのだから、途中で油を売っている暇はないということですが、行った先で上手くやって行けるだろうか、自分は受け入れてもらえるだろうか、周囲の人に抱えている心配を話せば一人ひとり違ったことをアドバイスされて、余計に不安になるかもしれません。もしかしたら、そうした不安を途中で持ち込まないためのイエスの配慮だったのかも知れません。

一通り眺めてみましたが、振り返って、弟子たちに言われた諸注意をこれまでの自分の体験と重ね合わせてみたとき、初めて主任司祭になったとき、ちょうど同じだったなあと感じました。ただイエスにのみ信頼を置いて出かける、イエスの勧めがこの時ほど身にしみて感じたことはありませんでした。

浦上教会で5年、滑石教会で1年、合計6年の助任司祭を経て、初めて主任司祭としての辞令を受けました。責任重大だなぁと何となくは思っていましたが、まだ見たこともない神の家族の言わば家長となるということの重さは、辞令を受けてから日増しに高まっていきました。

初めて主任司祭として赴任したのは太田尾教会だったわけですが、その日まで私は、勉強不足で太田尾教会がどこにあるのかさえ知りませんでした。祝日表に書かれている住所を見ると、西彼杵郡とあります。あー、街の教会ではないのだなとすぐ思いましたが、それでどんな苦労を背負うことになるのか、見当も付きませんでした。

辞令が確実なものとなってから、一度当地の主任司祭と引き継ぎをするために下見に行きました。今でも忘れませんが、車を走らせている間、畝刈、黒崎、出津、大瀬戸までは何とか長崎市の周辺だなあという景色だったのですが、大瀬戸を越えると突然景色が変わり、完全にこれから先は田舎なのだと思い知らされたのでした。当時は、6年間街中の教会にお世話になっていたので、便利な教会、大きな教会を物差しにして考えていたのは確かです。これは間違った見方でしたが、当時は「田舎は不便」と、だんだん家も何もない景色に変わっていく中でションボリしたものです。

イエスは弟子たちを派遣するときに、「イエスにのみ信頼を置いて出かけるように」と形を変えて何度も念を押しています。私自身は、その意味が今ひとつ分かっていなかったのですが、太田尾教会に主任司祭として赴任したときに初めてああこういうことかと実感できたのです。この世の何者にも信頼を置かないようにと言うイエスは、弟子たち、またのちの司祭たちにこう励ましていたのです。「あとのことはすべてわたしが準備する。あなたに絶対になくてはならないのは、主であるわたしがすべてを補ってあまりあるということを決して疑わない信頼の心だ」。

確かにそうでした。世間の荒波に揉まれている信徒のなかには、びくっとするようなものの言い方をする人もいます。「おー、神父、お前が何を知っているというのか」。その中に初めて主任司祭になった私が飛び込めば、どぎまぎするに違いありません。そんな時でも、イエスは私に力を貸して下さり、勇気を持ってその人と向き合うことができるようにしてくれました。

「財布も袋も履き物も持って行くな」。私はたくさんの荷物を抱えていましたし、財布も袋も履き物も持っていました。ただ、ここで言う「財布も袋も履き物も」という意味は、教会活動を支える予算のことかも知れません。行った先が心配だから予算の目処が付くだけの資金を工面するかどうか。結果としてその心配は全く必要ないことでした。行った先の小教区で予算に余裕はありませんでした。けれどもこうした必要さえも、イエスに全幅の信頼を置くことに比べれば、たいした心配ではなかったのです。

「途中で誰にも挨拶をするな」というのもその通りです。新しい任地に向けて、まっしぐらに向かい、しっかり新しい土地で根を張り、実を結ぶ。そのためには新しい任地のことだけを心に留めて、昔への懐かしさをいっさい横に置くことがイエスに信頼を寄せる証しになります。こうしてどんな面から見ても、イエスにのみ信頼を置いて活動するという基本を徹底的に身につけるすばらしい体験ができました。

今、太田尾教会での経験を経てこちらの小教区に来て3年3ヶ月、初めての主任司祭の時よりも頭を抱える問題もたくさんありましたが、一つひとつ解決することができています。この3年で学んだことは、イエスに徹底的に信頼を寄せることは、すべてに解決の道を見いだすことができるということです。

ところで、弟子たちの派遣に目立っている特徴は、「はっきりした使命を持って飛び込んでいく」ということです。それは、出かけた先でキリストの平和を願い、神の国がやってきたことを、言葉でも態度でも、つまり生活全体で表すということです。この一点に、弟子たちの働きは集中します。

決して、成功するかどうかではありません。気に入られるかどうかではありません。その土地にキリストの平和がみなぎるように、言わないといけないことを言い、取り組まないといけないことを取り組む。それが遣わされた弟子たちに求められていることでした。

そう考えてみると私自身、謙虚に反省すべきことは反省したいと思います。神の国がここまでやって来ましたよ、神様はここにも来てくださって、救いを知らせておられますよ。そう触れ回るために、惜しまず自分を与えているだろうか。反省ばかりが目に付く気がします。

もちろん、引き締めたりリラックスしたりもします。なかなか釣りにも行けませんでしたが、この前7月3日聖トマスのお祝いの日には、自分でお祝いするために魚を釣りに行きまして、大きなアジを6匹釣りました。そういうリラックスも入れますが、それでも全体としては「神の国がわたしたちの馬込小教区にもたしかにやって来ている」と、皆さんに伝えることのできる司祭でありたいと思ってはいるのです。どうも、趣味でのリラックスが本業に結びついているか、疑わしいところもありますが。

伊王島・高島の信者すべてが「カトリック信者でよかった」と思える日はまだ完全にはやって来ていないと思います。日曜日に集まり、神のことばから学んだことをこれからも糧にして、互いに神の国を言い広める者となっていきましょう。一人ひとり、これからも精進したいものです。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼結婚式の説教。再婚のカップル。年金受給世代。男性はベテラン溶接工。私はこのカップルに、次のような話をした。「溶接の仕事は、まことの愛を学ぶすばらしい職業です。溶接した金属は、『表面上』くっついていても、外から力が加わればあっけなく折れてしまいます。夫婦の愛も、『表面上』くっついているように見えるだけでは、外から思いがけない力がかかったときにもろいのです。
▼確実に、金属が溶接されている状態は、『表面も、内部も、完全に一つに解けてつながっている』のです。夫婦も、『内部まで、つまり心も固く一致している状態』が、まことの愛で結びあわされている状態です。このように確実につなぎ合わされているとき、金属であれば力をどれだけ入れても柔軟に曲がって力を受け止め、決して折れたりすることはありません。夫婦のまことの愛も、心までつなぎ合わされているとき、外部から仮に力がかかっても柔軟に受け止め、折れることはないのです。
▼さて、夫婦の心の中までつなぎ合わせるものは何でしょうか。心をつなぎ合わせるものは、表面をつなぐようなこの世の物ではありません。心をつなぎ合わせるもの、それは『信仰』です。どうぞ、これからの生活、しっかりとつなぎ合わされた夫婦であるために、信仰を大切にしていってください」。
▼この説教がよほど良かったのか、高島から船を下りて伊王島のターミナルに戻ったとき、入れ違いで船に乗って長崎の大波止に向かう一行から「やぁ神父さん、今日の結婚式の説教はとても心に響きました。神父さんとてもユニークですなぁ。あー、俺も溶接工になっていれば、あんな説教で結婚式をしてもらえたのになぁ」と声をかけられた。ありがたいお褒めの言葉に、しばらくは長崎に向かう交通船を見送った。

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こうじ神父絵手紙
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第87回目。可能性があれば、昨日結婚した若いカップルのほうの写真を入れてみます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第13主日(ルカ9:51-62)イエスを前に見てともに進む

2007-07-01 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/70701.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
07/07/01(No.305)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
イエスを前に見てともに進む
‥‥‥†‥‥‥‥

今日、二つのことを前置きとして話したいと思います。1つは、大浦教会で四人の中学生が合同堅信式に参加するということ、もう1つは、江袋教会の復元についてです。

幼児洗礼を受けている中学生にとって大切な堅信式がやってきました。この場に中学生はいないのは、8時15分の船に乗って大浦に9時に集合し、一通り直前練習をして大司教さまのミサにあずかって堅信の秘跡を受けるためです。堅信を受ける子どもたちには、少なくとも3つの質問に答えられるか確認して、堅信を受けさせることにしました。

第1に、堅信の秘跡を授けてくださる司教さまの名前を覚えているか、ということです。もちろん、ヨセフ「たかみ」三明大司教ですが、紙にちゃんと書けるかどうかも必要です。実は、「たかみ」三明の「たか」は、ちょっと面倒な漢字でして、「はしごだか」と言われる「たか」なんです。

これはちょっと難しいだろうなあと思っていましたら、中学生からこういう声が出ました。「あー、中学生にその漢字の子がいます。だからちゃんと書けますよ」。ちょっと難しい漢字で困らせようと思っていたのに、期待はずれでした。

第2に、使徒信条をきちんと言えるかです。ミサの説教のあとに、皆で唱えていますね。信仰を宣言するあの祈りが、祈祷書を見なくても言えるかどうか。私は常々こんなことを言い聞かせています。「あなたが、カトリック信者として、何を信じているかを人に知らせるいちばん手っ取り早い方法は、使徒信条を唱えてみせることです。祈祷書を見ながら唱えるのでは不合格です。

もし祈祷書がなかったら、あなたは信じていることを言い表せないことになります。信じているということも証明できないことになります。だから、しっかり覚えるのです。祈祷書が使徒信条を覚えていても意味はありません。あなたが覚えて、あなたが信仰を言い表せなければならないのです」。

第3の質問は、堅信の秘跡で受ける聖霊の七つのたまものです。今の言い方では次のようになります。「知恵、理解、判断、勇気、神を知る恵み、神を敬う恵み、神を愛する恵み」の7つです。堅信の秘跡で何が与えられるかは知っておくとためになります。堅信の秘跡を受けたのだから、一人ひとりは七つのたまものがきっと与えられると信頼し、自信を持つことができます。どんなたまものが与えられるか知らなければ、自信も付くはずがありません。

これら3つの質問に難なく答えることができるところまで子どもたちは成長してくれました。残念ですが、堅信を受けさせてあげることにします。本当は喜んでいるんですけど。

もう一つの前置きは、江袋教会のことです。教会が火事で焼けてしまったことはとても残念なことでした。ただ、建物はまた建て直すことができます。雨風をしのぐだけの教会をこしらえることもできるでしょう。自分たちの信仰生活に十分活用できる、そこまでの建物にすることもできるでしょう。

ただ今回は、大司教さまの「もとの教会に戻す=復元」という意向が働いて、信徒側の意見は前の教会を建てるという思いまではなかったかも知れませんが、結果として復元することになりました。このため、教区に復元基金が設けられることになり、私たちも今日のミサの献金で協力することになりました。

いろんな方面の協力を仰ぐことは、ありがたいことであると同時に自分たち自身の覚悟も必要になると思います。地元の信徒も、必ず善意の人々の恩に報いようと考えるのではないでしょうか。

堅信を受ける中学生と、資金の援助を受ける江袋教会の信徒の人々。私は共通点があると思います。それは、堅信を受けた信徒であるということです。これから、大人の信者として歩いていく中学生も、それなりの覚悟を持ってこれから歩き出します。また、江袋教会の信徒も、多額の資金援助を受ける責任を受け止め、大人の信者として前を向いて歩いていくことでしょう。その姿を想像していると、今日の福音の様子に通じるものを感じます。

朗読箇所は、イエスがいよいよエルサレムでの最後の日々を迎える決意を固める出来事です。エルサレムでの日々とは、イエスの受難と復活を通して救いのわざが完成されるまでの日々です。今日の出来事から、前に進むイエスの強い気持ちが伝わってきます。

前に進むイエスをはばむ事件が起こりました。サマリアの人々は、イエスを歓迎しませんでした。弟子のヤコブとヨハネは、イエスをはばむ人々を取り除こうという熱意に駆られますが、イエスはそれを制します。実は彼らはイエスに対して何もできません。イエスにとって必要なのは、困難が待ち受けていても前に進むことでした。父なる神に栄光を帰すことにすべての注意を傾け、先へ先へと進むのです。

イエスの思いは、他の人々にも決断を迫ります。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(9・57)。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」(9・60)「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9・62)。私たちもこのイエスに日々従って歩むのです。

今日の出来事で言えば、堅信を受けた中学生も、しっかりとイエスを見つめてついていきます。江袋教会の信徒も、私たちの今日の献金を受け取って、必ず教会を維持していきますという思いを新たにして、イエスについていくことでしょう。

強い決意で、前に進まなければ、イエスの歩みから遅れてしまいます。将来の生活の保障(枕するところ)を心配すれば、従おうという決心は鈍るでしょう。父を葬りに行きましたが、残された家族の心配に支配されれば、埋葬を済ませても戻っては来ないでしょう。後ろが気になってついに前に向き直らなければ、もはやイエスの姿は見えなくなってしまうでしょう。私たちはイエスに従う決意をしたならば、強い気持ちでそれを保つ必要があるわけです。

堅信式も、江袋教会復元のために資金の援助を受けることも、あらためてイエスに従う決意を作らせる出来事だと思います。イエスが今日の出来事で求めている「弟子の覚悟」は、当時の12人の弟子にだけ求められているのではありません。イエスは私たちすべてに、「覚悟」を求めます。

教会の焼失にも決して失望することなく、信仰を次の世代に伝えるために、または自分がいじめられることを恐れていじめに手を貸すように強要されるのをきっぱり断るときも、あるいは自分の信仰をつい隠そうとする誘惑に打ち勝つためにも、私たちには「最後までついていく」強い決意が必要なのです。

イエスを前に見て歩み出そうとしている中学生、教会の復元に信仰を後世に伝える固い決意をしようとしている江袋教会の信徒の人々。この両者を、今日ミサの中で心に留め、応援してあげることにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼インターネット上にホームページが現れてから10年くらいになるだろうか。それ以前にもあったかも知れないが、10年以上前には専門的な技術者でなければページ作成や作成したページの更新はできなかった。それがようやく10年前くらいから、素人でも制作・サイト転送・更新作業ができるようになった。
▼初めの頃は<HTML><HEAD><TITLE>ようこそ「話の森」ホームページへ♪</TITLE></HEAD></HTML>みたいなことをひたすら覚えて記述していたのだ。信じられないかも知れないが、それができなければホームページなど作れなかったのである。今は、記述の文法を覚える必要は全くない。進歩したものである。
▼文法を知らなくてもよくなった反面、いったん思い通りにいかなくなるとなぜそうなのかは全く分からなくなってしまう。最近気付いたことだが、過去の説教を一覧する頁に音声もリンクさせていたつもりが、実際クリックしてみると全く聞こえない。なんてこった。分からないから、結果として音声が聞こえる状態に、過去にさかのぼって300回修正をし始めている。文法が英語のほかにも必要になるとは思いもしなかった。
▼おそらく、現時点では今週の説教からさかのぼって50週分くらいは録音説教が聞こえる状態になっていると思う。確認したので、こうじ神父のパソコンからホームページにアクセスした限りでは問題なく聞こえるようになっている。以前の方式でも聞こえていたはずなのに、何がどうなっているのやら。大規模な修正作業は、時間を取られる割りに報いは少ない。猫の手も借りたいくらいだ。

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こうじ神父絵手紙
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第86回目。「はしごだか」について一言。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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