こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第12主日(マルコ4:35-41)恐れにあっても神はそばにいてくださる

2006-06-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/06/25(No.245)
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年間第12主日
(マルコ4:35-41)
恐れにあっても神はそばにいてくださる
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黙想会でしばらく伊王島を留守していました。月曜日に出て金曜日までわずか四日か五日のことでしたが、何だか皆さんの顔を見るのが久しぶりのような気がします。金曜日に戻ってきて夕方にミサをしたのですが、「浦島太郎になった気分です、月曜日に伊王島を出るときはみんな若かったのに、戻ってみたらみんなばあさんになってしまってますね」と言いましたら思いっきり笑われました。

今月の初めだったでしょうか。浦上教会で先輩神父様のお父さんの葬儀ミサが行われました。親を失うというのは大きな穴がぽっかり空いたような気持ちではないかと思います。私もその少し前、中田武次郎神父様が亡くなったときに同じような気持ちを持ちました。一つの屋根の下にいるわけではないけれども、生きていてくれる、元気でいてくれるというだけで親はありがたいのです。

誰にとっても、父母と呼べる人は一人なのですから、その父親母親と呼べる人がもうこの世にいないというのはショックであるはずです。今日はこの「大切な人がそばにいてくれる」ということについて福音から教えを受けたいと思います。

最初に話しましたが、黙想会が過ぎた週に行われました。説教師は新潟教区の司教に選ばれて二年目の菊池司教様でした。まだ48歳だそうで、司教様が48歳というのは大変お若いと思います。実際、日本の司教様の中で最年少の司教様だということでした。

お話しいただいた説教にここで触れる時間はありませんが、48歳の司教様を司教様たらしめているものはなんだろうかと、ふと思ったわけです。それは、40歳の中田神父を神父たらしめているものは何かということにもつながるわけですが、二つのことが考えられると思います。

一つは、「司教様だから司教様なのだ」ということです。もう少し分かりやすく言うと、自分で司教様になったのだから若くても司教様に変わりはないのだということです。もう一つは、「このかたが司教様であるのは、別の誰かのおかげ」という考えです。もっとはっきり言うと、「このかたが司教様であるのは、イエス・キリストのおかげ」という説明です。

二つの考え方のうちどちらがより正解に近いでしょうか。ご本人の立場になって考えるとどちらかはっきりすると思います。司教様方は、「自分で司教になったのだから、誰が何と言おうとも司教なのである」と考えているのか、「わたしが今日司教でいられるのは、イエス・キリストのおかげである」と考えるか、どちらなのでしょうか。

私は後者ではないかなと思います。今日私が司教であり続けるのは、ひとえにイエス・キリストのおかげであると、司教様みながお考えだと思います。福岡教区の松永司教様がお亡くなりになったときつくづく感じたことですが、全国の司教様がその場に参列しておられましたが、司教様にはやはり誰かがそばに付いているという雰囲気を持っています。ただ単に荘厳な雰囲気とか、威厳とかだけではなく、教区民を導く牧者としての雰囲気が司教様には備わっている。たとえその司教様が年若いとしても、司教としてその場にいるときの雰囲気は独特のものを持っているなと思いました。

威厳とか風格とかいったものは、もしかしたら若い司教様よりも年配の神父様のほうが重々しい雰囲気を持っているかも知れません。それでも、教区民の代表者としての雰囲気は、司教様に備わった独特のものだと思います。それは、教区民のまことの牧者であるイエス・キリストがそばにおられることから来る雰囲気なのではないでしょうか。

もしもですが、誰も知らない教区に行って私が司教の杖と帽子をかぶって登場したとしても、きっとそこに集まった人は吹き出すことでしょう。私がどんなに大まじめな顔をしていても、誰も認めてくれないと思います。それは、司教様というのは自分で努力してなれるものではなくて、イエス・キリストがそばにいてその人を司教の恵みで包んでおられるからです。

そこで福音に入りたいのですが、激しい突風を受けてイエスを乗せた舟は水浸しになるほどだったとあります。それなのに、イエスは艫の方で枕をして眠っておられたのです。ちょっと普通では考えにくいことですが、こうして出来事が書き残されたからには、相当強烈に弟子たちの記憶に残っていたのだと思います。弟子たちみなが恐れに包まれているのに、イエスは全く恐れを感じておられない。この差は一体何だったのでしょうか。

それは、ここまで話してきた例で触れたように、イエスのそばには誰かが付いておられて、どんな場面に置かれても絶対に恐れを感じない、それほど深い信頼に包まれていたということです。イエスにとってそれは言うまでもなく父なる神のことですが、イエスはいつも父なる神とともにおられたので、まわりがどんなに大騒ぎになろうとも全く動じる必要がなかったということです。

反対に、弟子たちは自分たちがイエスとともにいる、父なる神とともにいるということに全く気づいていませんでした。弟子たちが置かれているのは嵐のまっただ中、危険と恐怖の中に投げ込まれている、ただそれだけしか感じられなかったのです。たとえ危険と恐怖の中に投げ込まれているとしても、神がともにいてくださるという揺るぎない信頼があれば、危険と恐怖はその信頼を打ち破ることはできないはずです。弟子たちにはまだそこまでの信仰が育っていませんでした。

私たちはどうでしょうか。家庭の中で様々な問題が発生する、また職場の中で大きな問題にぶつかる。日々いろんな難問がのしかかってくるかも知れません。それでも私たちが、「わたしの信じる神は、どんな問題に直面してもわたしから離れることはない」という強い信念があれば、問題が山積していても失望してしまうことはないと思います。私にとっていちばん近くにいてくださるのは神であり、日々起こる難問は、私の信じる神を追いやったりはしないのです。そのことをあらためて確認することが、今週私たちに求められていることなのです。

船が沈みそうになる嵐の中でも、神は私のそばから離れることはありません。たとえ船が沈んだとしても、神は私のそばから離れない。そのことを信じることができるかどうか、私たちの信仰が試されていると思います。最後に神がそばにいてくれることを信じられなくなる人ではなく、最後になっても神は決して私から離れないと固く信じるための力を、今日のミサの中で願いましょう。浮き沈みの激しいこの世で本当に必要な救命浮き輪は神であるということを、あらためて確認しましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼過ぎた一週間は黙想会の週だったが、「○○は□□でなければならない」という決めつめのような思いが自分の中に巣くっていると感じた。ある取り組みについて「こう取り組むべきだ、ほかには考えられない」というような融通の利かない態度がまん延しているのである。
▼たぶんそれは、自分自身の中に変革の余地が少なくなってきている、はっきり言えば歳を取ってきているということの明らかな兆候だと思う。いろいろな方法を受け入れられない、いろんな存在様式を受け入れられない、そのような「硬直化」が随所に現れ始めている。
▼その一方で、ある面については「お前さ、そろそろ歳考えたほうがいいんじゃない?もうそんなことをする歳じゃないよ。若いなあとは思うけど」と言われた。年齢の離れていない人にそんなことを言われると「考え方が年寄り臭いなあ」と思う。
▼だがあくまでそれはほんの一面であって、全体的には「あ!あんなことは受け入れられない。あんな取り組み方は考えられない」と、多様性を受け入れられず、心の中で拒絶し始めている。何かきっかけを見つけて、自分の中で変えられないと思っている部分が本当に変えられないのか考えてみたい。

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こうじ神父絵手紙
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第31回目。しばらく地図をシリーズで描いてみたいと思います。遅くなったらゴメン。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(マルコ5:21-43)
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キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)キリストは無限にご自分をお与えになる

2006-06-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/06/18(No.244)
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キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
キリストは無限にご自分をお与えになる
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「取りなさい。これは、わたしの体である」(14・22)。今日お祝いしている「キリストの聖体」の祭日をいちばんよく表している言葉です。イエスはご自分を神と人との和解のためのいけにえとして十字架の上に渡し、命の糧として分け与えてくださいました。今も私たちにご自身を食べ物として与え、「取りなさい。これは、わたしの体である」と仰る聖体の豊かさについて考えてみましょう。

過ぎた週は毎日何かしら予定があって、長崎と伊王島を行ったり来たりしていました。途中では400ccまでの普通自動二輪の検定試験を受けに行ったりもしました。土曜日になって説教の原稿を書かなければならなかったのですが、午前中は別の用事に時間を取られ、午後からは長崎さるく博覧会と連携して行われている「市民セミナリオ」の取材に出かけて、ほとんど説教の時間を取ることができませんでした。

この市民セミナリオはテレビコマーシャルも出していましたのでご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、長崎の高名な宗教家による講演会を聞き関連する音楽コンサートを組み合わせたものです。月1回、午後7時から始まって午後9時くらいまでの企画になっています。

この催しの取材のために昨日は午後4時ちょっと前の船に乗ったのですが、取材の道具は忘れずに持って行ったのに入場のチケットを忘れてしまい、仕方なく折り返し船で入場チケットを取りに行き、あらためて船に乗り込んで取材に出た次第です。チケットに気付いたのは船の中でしたが、車ではありませんので引き返すこともできず、ずいぶん時間を無駄にしてしまいました。

こんな調子で取材を終えて夜9時5分の船で帰っているわけですが、本来ならもうこれ以上何もしたくないところですが、説教が何もできていません。仕方なくそれから考え始めたのですがそうそう簡単には浮かんでこないのです。結局何か書けそうだなあと思って書き始めたのが夜中過ぎでした。

司祭は自分自身を信者のみなさんに分け与えることが務めですからその勤めに全力を尽くすわけですが、今週のように用事が重なると、自分自身を分け与えるのにも限界がやってきます。睡眠時間を削ってはみても、本当に良いものが用意できているかは怪しいものです。精一杯自分を与えるつもりですが、やはり限られた時間の中では、限界も感じます。

そのような一週間を過ごした後で、イエスが弟子たちに呼びかけた「取りなさい。これは、わたしの体である」という言葉は、特別な響きをもって私に届いたのです。中田神父は、ある程度まで自分を与えるとぐったりして限界を感じてしまったのですが、イエスはご自分にいっさいの限度を付けず、「取りなさい」と言うのです。

「取りなさい。これは、わたしの体である」イエスのこの言葉は、12人の弟子たちだけに言われたものでないことは明らかです。なぜかというと、この最後の晩さんの場面も含め福音書全体はイエスの復活の後に書かれています。そうすると、福音書を書いた時点では、「取りなさい。これは、わたしの体である」という言葉は、イエスを信じるすべての弟子たちが意識されているわけです。福音書が書き記された当時、イエスを信じる新たな弟子は最初の弟子たちの数倍、数十倍となっていたことでしょう。

さらに、この最後の晩さんの場面は、ミサの中にそのまま織り込まれました。そのことで、イエスはご自身をさらに多くの人にお与えになります。すなわちイエスを信じてミサに集まる私たちに、「取りなさい」と言うのです。

こうして考えてみると、イエスは際限なく自分を与え続ける方で、どれだけお与えになってもなくならないし、減ることもないお方です。それに比べ、弱い人間に過ぎない奉仕者たちは、自分自身を民に分け与えることは分かっていても、疲れてしまってもはや与えることができないという状況に陥りがちです。無限にご自分を与え続けるイエスに、生身の人間である奉仕者たちはどのようにして倣っていくことができるでしょうか。

限度を付けずに与え続けるイエスに倣うこと、それは今日の聖体の祭日を生きるということにつながっていきます。キリストの聖体の祭日に学び、聖体となって与え続ける姿を私たちが生きるために、何が必要でしょうか。

私は、違いを見つけたならばその違いを補う方法を考えることがいちばん大切だと思います。イエス・キリストは減ることもなくなることもない豊かさをお持ちですが人間は気をつけなければすり減ってしまうし、底をついてしまいます。そうならないうちに自分自身に必要なものを補いつつ奉仕に向かうこと。これが違いを補う道ではないでしょうか。

幸いに、今週は司祭の黙想会に当たっています。この黙想会を通して、自分自身に減ってきたものを補い、新たな奉仕に力を蓄えることができるでしょう。司祭、修道者に限らず、信徒のみなさんも典礼に奉仕したり教会運営に奉仕したりしています。疲れ果ててもう奉仕に尽きたくなくなるかもしれない。その前に必要なものを補うことです。

では、私たちが奉仕に心を向ける力をどこからくみ取るのでしょうか。この世の何かからでしょうか。そうではありません。私たちが奉仕の務めに必要な力は、イエスからしか得ることができないのです。こうしてミサにあずかり、「取りなさい。これはわたしの体である」と仰るイエスからしか、奉仕に必要な力を得ることはできないのです。この点、見誤ってはいけないことだと思います。

無限に与え続けるイエスは、今も聖体にとどまって同じ恵みをあふれるほど与えてくださいます。キリストの聖体の典礼を生きるために、私たちも奉仕の務めを通して自分を与えます。この力の源はミサの中でいただくご聖体です。このミサにあずかることです。私たちもキリストの聖体の典礼を生活の中で生きることで、イエスの与え続ける豊かさを学ぶ者となることができるように、ミサの中で願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼限定解除の審査のために教習に行った。5時間の教習で先生から「卒業検定を受けてみてください」と言われ、多少不安もあったが卒検を受けたところあっけなく受かってしまった。卒検の日と、5時間の教習のあいだに面白い光景に出くわしたのでここで書いてみる。
▼一つは、55歳くらいの女性の生徒のこと。この人はまだ習い始めだったが、何と自分たちと同じ400ccで教習に来ていた。感心だなあと思って尋ねてみると、「旦那と一緒にツーリングしたくなったので受けに来ました。乗りたくなったから仕方がない」ということだった。
▼当時はバイクにしがみついているといった表現が当てはまるくらい見ていても危なっかしかった。教習が終わって横一列にバイクをそろえるときにも勢いよくやってきて「あぶない!」といいながら生徒は飛び退き、先生は必死に飛び込んできたバイクを取り押さえていた。それでもそのチャレンジ精神がすばらしいと思った。
▼卒業検定の日、思いがけない人と再会した。2月に小型限定を受講していたときに同じく小型限定を受けに来ていたちょっと年上の男性が、何と大型バイクの卒検に臨んでいた。自分が小型バイクを乗り回しているうちに、この男性は大型バイクの教習にせっせと通っていたのだろう。見事に合格して、一緒に写真に写ることになった。
▼前回の合格者の写真は、みんなでバイクにまたがって写真に写っていたので、今回も当然そうするものだと思い自分はバイクにまたがってポーズを取ったところ、後で渡された写真を見てみると自分一人がバイクにまたがり、残りの卒業生は自分の後ろで気をつけをして立っているではないか。何だか親分とその子分みたいで、ちょっと恥ずかしかった。

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こうじ神父絵手紙
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第30回目。バイクにまたがって、はいポーズ。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(マルコ4:35-41)
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三位一体の主日(マタイ28:16-20)イエスはすべてを示そうと近寄って来られます

2006-06-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/06/11(No.243)
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三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
イエスはすべてを示そうと近寄って来られます
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今日三位一体の主日を迎えています。父と子と聖霊が唯一の神でおられるという神秘について、与えられた朗読箇所から少し触れてみましょう。まず考える突破口として、だんだん暑くなってきましたから冷たさを感じる物を例に引いて考え始めたいと思います。

暑くなってきますと、誰でも冷たい物を欲しくなってきます。自宅の冷蔵庫の中にある冷たい物と言ったら、私はまず、氷を考えます。氷を作る製氷皿に水を均等に入れて冷凍室に置くと、数時間もすれば冷たい氷ができあがります。一つ口に含めば、どんなに暑い中でも一時の冷たさを楽しむことができるでしょう。

ところでこの氷ですが、もともとの水がどうして固まるのでしょうか。私も専門的なことは知りませんが、冷やされると水を形作っているものがぐっと近づいて、動かなくなるので氷になるという仕組みです。水の温度では水の分子はまだ動くことができますが、それが0度を下回ると動かなくなり、お互いがくっついたようになるわけです。

氷の大きな固まりを見たことがあるでしょうか。一つ10キロも20キロもあるような大きな固まり、この大きな氷はまるで一つの物のように見えます。けれどもよく考えると、この氷の固まりもたくさんの水の分子がゆっくり冷やされて互いに近づき、動かなくなったものなのです。砕けばバラバラになりますし、熱を帯びてくればもとの水として液体に戻ります。

今氷の話をしましたが、まるで一つの物のように見える氷は、水の分子同士がこれ以上近づけないところまで近づくことで現れる現象でした。互いに近づくということが、一つであるかのように結びつく原因となっています。この原理は、三位一体の神の一面を現しているのではないでしょうか。つまり、父と子と聖霊は、互いに近づき、これ以上近づけないほどに近くいるので、全く一つであるということです。

もちろん、たとえで引いた氷の話の延長線に、そのまま三位一体の神様の姿が当てはまるわけではありません。たとえから出発して三位一体の神様に少しでも触れようという試みですから、不完全な説明です。それでも、唯一の神を父と子と聖霊として示された神の、ある一面には触れるのではないでしょうか。それは、父と子と聖霊が互いにバラバラであったなら、決して唯一の神であるとは言えないのです。むしろ、思いも望みもすべてがこれ以上ないほど互いに近くあることで、神は唯一であるという結論になると思うのです。

父と子と聖霊が互いに近づいて、隙間なく近づくものはすべてくっつくのですから、父と子と聖霊はくっつくというよりも一つでおられるのです。氷は一時的にくっついても熱を帯びたり大きな力が加わったりすれば離れていくものですが、父と子と聖霊は決して離れません。ただくっついているのではなく、一つになっておられるので、別々となることがないのです。

福音ではこの「近づく」ということがどのように描かれているのでしょうか。復活したイエスが弟子たちに「近寄って来て言われた」(28・18)とあります。イエスはみずから近寄って来る方であることをはっきり示してくださいました。弟子たちはイエスに会ったとき、ひれ伏したと書かれています。王が民を支配する当時の生活の中では、王がひれ伏している民に近づくことは考えられないのです。

このような場面であれば、「近づいてよろしい」と命令し、民を王の近くに寄せるというのが一般的です。それなのに、弟子たちからひれ伏すほどの方であると理解されているイエスみずからが、弟子たちのもとに近寄ってくださったのです。この点についてはもう少し詳しく考えますが、ひとまず、イエスはみずから弟子たちに近づくことで、近づくことを望む神であることを示したといって良いでしょう。三位一体の神ご自身が、思いも望みも近づくことで完全に一つであるように、弟子たちにもご自身と思いや望みを一つにしてもらいたくて、近づいてこられるのです。

もう少しイエスが弟子たちに近寄って来られる場面を踏み込んで考えましょう。十一人の弟子たちはイエスが指示しておかれた山でイエスに会い、ひれ伏します。しかし、疑う者もいたとあります(28・17)。疑うというのは、「これは現実のことだろうか」とわが目を疑うということでしょう。このように完全には信じ切れていない弟子たちに、イエスは近寄って来られました。

弟子たちのほうからは不完全な状態を乗り越えることはできません。そこでイエスみずからが、近寄って来られ、ご自分を完全に受け入れるように、思いも望みも完全に自分と一つになってくれるように、近寄って来られるのです。

私たちにも弟子たちのためらいはよく分かります。しばしば経験することですが、何か少しでも躊躇するようなことがあれば、人はその場から手を引くものです。たとえば何かの甘い誘いがあったとして、何か少しでも怪しい点を見つけたら、こんなおいしい話は何か罠があるに違いないと敬遠するだろうと思います。私たちは少しでも疑いがあれば、その疑いを明らかにすることを考えるのです。怪しいけど引っかかってみようとは思わないのです。

弟子たちが、「これは現実だろうか」と思ったとすれば、二の足を踏んだというのはよく分かります。この溝を埋めることができるのは人間の側ではありません。大きな力で、人間がためらっているものを取り除く神の側の働きかけが必要なのです。イエスはそのために、近づいてくださいました。ためらいのある弟子たちに、全面的に身を委ねて思いも望みも一つになってもらうために、近寄ってくださるのです。父と子と聖霊の神が、思いも望みも近づいて全く一つであるように、弟子たちもその交わりに招くために、近づいてくださったのです。

私たちはどうでしょうか。生活の中に、どうしても乗り越えられない不安や疑いがないでしょうか。力を貸してあげたいけれども今ひとつ信頼できない。手を差し伸べてあげたいけれどもどうしても心の引っかかりがためらわせてしまう。そんなあなたの心を開くために、イエスは近寄って来られます。すべてを受け入れてあげたいのだけれども、心のどこかでその人を疑っている。そんな人間の弱さを覆ってくださるために、イエスは近寄って来られるのです。

家族が一つになる。兄弟姉妹が一つになる。教会共同体が一つになる。どうしても必要なことです。それなのに人間はどこか弱くて、一つになれない。その弱さを、近寄って来られるイエスが変えてくださいます。一つになるための大切な道を教えるために、イエスは近寄って来られる。今こそ私たちも、ためらっていた人に近寄りましょう。思いを一つにするためには、その人に近寄るしかありません。イエスが教えてくださった道を、三位一体の神秘につながっていく道を、私たちも生活の中で実践できるように、力を願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼鼻の中に指を入れていたら痛いと思った次の瞬間鼻血が出た。生きているんだなあと実感。それはどうでもよいことだが、絵手紙がどうも間に合わない。描こうと思っているし、描いているときはいつも喜々としているのだけれども、心の余裕がないのか、なかなか向かおうとしない。
▼机の上にかわいそうな年賀状が転がっていた。なぜかわいそうかというと、年賀状がメモ書き代わりに使われて、送った人の思いも付かない形で使われているからだ。処分もできず、引き出しに押し込もうとして差出人を見たところ、あるシスターからの年賀状だった。
▼「あー、馬込出身のシスターだな。」そう思って引き出しにしまおうとしたとき、シスターの住所に釘付けになった。「○○○○女子修道会」と書くべき所を、「女子柔道会」と印刷していたのだ。間違いないか、あらためてよく見るけれども、何度見ても「柔道会」となっている。
▼かなり、強い修道会らしい。もしかしたら、あいさつ代わりに背負い投げをするのかもしれない。そう思って振り返ると、何となく強そうな気がしてきた。今年出した年賀状すべてに同じような印刷であいさつしたのだろうか。ますます強そうな気がしてきた。

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こうじ神父絵手紙
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第29回目。紫陽花(あじさい)が雨を欲しがっています。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
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聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23 ABC年共通)私たちの聖霊体験を証ししよう

2006-06-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/06/04(No.242)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23 ABC年共通)
私たちの聖霊体験を証ししよう
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聖霊降臨の主日を迎えました。選ばれた朗読箇所は、復活したイエスが弟子たちに現れ、「あなたがたを遣わす」と仰り、「聖霊を受けなさい」と言って権限を授ける場面でした。ここにはっきりと、今年の聖霊降臨に向けたメッセージが込められていると思います。イエスによって派遣されていく弟子たちの中に、聖霊降臨が描かれているということです。

まず朗読箇所で取り上げた二つの点についてもう少し考えてみましょう。イエスは弟子たちを次のように言って派遣しています。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20・21)。「父がわたしをお遣わしになったように」とは、父なる神が、人間へのあふれる愛に駆られてイエス・キリストをお遣わしになったということです。そのように、イエスは弟子たちをあふれる愛を込めて人々の中へと遣わします。

ここで「愛に駆られて」とか「あふれる愛を込めて」と言ったその愛は、実は聖霊のことではないでしょうか。人間の救いのために、父なる神はイエス・キリストを遣わし、弟子たちを遣わす。その姿には、神に背く人間をそれでも愛してくださる深い憐れみがそこにあると思います。イエスによって遣わされていく弟子たちの目の前には、それでも神に背き続ける人間の現実が待ち受けていることでしょう。

続けてイエスは、「聖霊を受けなさい」と言います。派遣によってこの世に来たイエスの中に、聖霊が満ちあふれています。さらに、人類の救いを完成させるほとんど唯一の方法として、イエスは人類にゆるしを与えます。そのように、イエスに聖霊のいぶきを受け、世に遣わされていく弟子たちにも、人々を心からゆるすことが求められています。背き続けるこの世に、聖霊を注がれて派遣されていることを証明するほとんど唯一の方法は、「ゆるす」ということでした。

「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(マルコ2・7)。かつてイエスの振る舞いを見て、律法学者たちはつぶやきました。罪をゆるすことができるのは確かに神お一人のほかにいません。その上でイエスは弟子たちに、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20・23)と言い切りました。つまり弟子たちには神おひとりのほかにはだれにもできない権限が委ねられたのです。これではっきりと、弟子たちには聖霊が注がれていることが分かります。

この一連の流れからすると、聖霊体験を確かめる方法が導き出されることになります。それは、イエスから遣わされているということと、イエスに委ねられている権限を持っているということです。この二つが、ある人やある集まりの中に確かめることができれば、その人、その集まりは聖霊の注ぎを受けているということができます。

では、具体的にどんな人、どんな集まりが聖霊降臨の恵みを受けた人、聖霊の注ぎを受けた集まりなのでしょうか。罪がゆるされるという点から考えると、司教と司教によって叙階の秘跡を受けた司祭は、聖霊体験をした人と言うことができるでしょう。司祭はどの時代にあっても信者の告白を聞き、罪をゆるす権限を授かっていましたから、教会の歴史が始まってからずっと、日本での迫害の時代にも、そして現代でも司祭はキリストによって遣わされ、聖霊降臨を経て人々の中に遣わされているということができます。

けれども罪のゆるしだけに限ってしまえば、聖霊が注がれて世に遣わされていく人の数はほんのわずかということになってしまいます。このミサに参加している私たちは今日の出来事とどのように関わっているのでしょうか。

そこで第一朗読の出来事を少し補って考えてみましょう。第一朗読は聖霊が炎の舌のような形で現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまって全く新しい言葉で語り出したという場面でした。私たちが社会に遣わされ、新しい言葉で語るとすれば、私たちもすでに聖霊降臨を体験していると言って良いと思います。私たちにこの二つの条件はそろっているでしょうか。

まず一つ目の、社会に遣わされていくということですが、ここにこうして集まった私たちは、ミサの終わりに次のような言葉を聞きます。「ミサ聖祭を終わります。行きましょう。主の平和のうちに」「行きましょう」とは、疑いもなく派遣の言葉です。つまり私たちは聖霊体験の条件の一つ、派遣されていくということをすでに繰り返し経験しているのです。

それではもう一つの、「新しい言葉を語る」ということはどうでしょうか。これも、いくつかの例を挙げれば、私たちがすでに新しい言葉を語っていることに気が付くと思います。たとえば、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」。この短い祈りの言葉は、すでに新しい言葉です。洗礼の勉強をしたことのある人なら分かると思いますが、「アーメン」という言葉は「そうなりますように」という意味であると習ったと思います。

「父と子と聖霊のみ名によって何かを始めます。神様のために働きます。または、父と子と聖霊のみ名によって賛美いたします。そうなりますように」この短い言葉には、いろんな意味が込められているわけですが、そのどれもが、キリスト教を知らないすべての人にとって「新しい言葉」なのではないでしょうか。

また、私が口を酸っぱくして言っている「出かけた先で食事をするときに食前の祈り食後の祈りをしなさい」というのも、そのような習慣のないすべての人にとって全く新しい言葉だと思います。このように、私たちは多くの人の前で、新しい言葉を語ることができるのです。

こうして考えると、すべてのキリスト信者がすでに聖霊体験をしていると言って良いと思います。その勢いをかって最後にもう一つ考えて欲しいことがあります。私たちは新しい言葉を語ることができるのですから、ミサの派遣の言葉を受けて、大胆に世の中にあって証をすべきだと思います。それこそが、現代にあっても聖霊体験が繰り返され、引き継がれていることを証明する確かな方法になります。

ぜひ一人ひとりが、小さな祈りでもいいから、祈る場面を逃さずに唱えて欲しいのです。そうすれば、新しい言葉を聞いた人の中に、特別に親しみを持ってくれる人が現れ、また新しい神の家族に招き入れることができるかも知れません。聖霊降臨は、私たちが今の社会に証を立てなければ、また次の世代に確実に受け継がせる努力をしなければ、過去の出来事で終わってしまうのです。

私たちの聖霊体験を、日々の生活の中で社会に示していきましょう。遣わされている者として、また聖霊の照らしを受けた者として、ちょっとのことですが証を立てる。そうして聖霊の働きを活発にする決意を、今日のミサの中で新たにすることにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼亡くなられた福岡教区教区長松永久次郎司教様のためにお祈り申し上げます。最近集中力がないのか、説教案を準備してからパンフレット「聖書と典礼」を確認してみると指示された箇所と違う箇所で説教の準備をしていたりする。気が付くのは土曜日夕方の高島教会でのミサ。福音朗読に望んでみると準備したテキストと違う箇所が。
▼当然有効な手段もなく、ううう、とか言いながら土曜日夕方のミサを終えて伊王島に船で帰って来るなり説教を考え直し。何時間も費やして説教を考えたのに、テキストが違っていたためにもう一度やり直し。しかも失った時間は次につながる時間ではない。その損失感というか、喪失感は言葉では言い表せない。
▼こんな時、自分に思いつくことは二つ。逃げるか、逃げないけど目を背けるか。どっちも同じじゃん。それでもメルマガ配信の時間がやってくるので、仕方なく正面向いて考え直し、ギリギリまでかかって配信。いつもいつも自転車操業。お金を借りまくっている人って、こんな感じなんだろうか?
▼結局、自動車学校にも再入校。二輪課の部屋に行って、「ちわっす。また戻ってきました」って挨拶したら、「おー、中田さんじゃないですか。きっと戻ってくると思ってましたよ」と言われた。歓迎されているのか、「だから言わんこっちゃない。最初から普通自動二輪を受けていれば良かったのに」と言われているのか。後者のような気がする。

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こうじ神父絵手紙
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第28回目。自動車学校で今度から習うCB400SFを書き取ってきます。木曜日以降かな?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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