こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)見えるしるしを通してぶどうの木イエスに繋がる

2024-04-26 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240428.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/4/28(No.1294)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
見えるしるしを通してぶどうの木イエスに繋がる
‥‥‥†‥‥‥‥

新年度から主任司祭と助任司祭と助祭の組み合わせでスタートしました。ミサの割り当てには、司祭が三人の時よりも慎重になります。福江教会、井持浦教会、浜脇教会の三小教区に、二人の司祭が偏らずに担当できているか。

助任司祭の負担が重くなってないか。助祭は単調な奉仕ばかりになっていないかなど、考えることがいっぱいあって日々綱渡りです。主任司祭は管理職なので多少のストレスは覚悟の上ですが、助任司祭や助祭にはストレスを抱えさせたくないのが本音です。

そんな中、平日に久賀修道院のミサに行ってきました。久賀修道院のミサは「修道院担当」が回ってきた司祭が当番になります。13時35分福江港出発の船に乗って、14時前に上陸して、16時にミサをして17時半に奥浦港に到着です。福江港から出発して奥浦港に戻ります。

14時に久賀島に上陸ですから、修道院の16時ミサまで2時間あります。2時間は結構な時間ですので、この時間で日曜日の説教でも考えてみようと思い、少し材料を持ち込みました。最高に静かな環境の中で日曜日の福音朗読をしっかり読み味わえるな、と思っていました。

いざ読み込もうと思ったとき、予想外のことが起こりました。司祭館周辺に人影が見えるのです。磨りガラス越しなので誰かは分かりませんでしたが、たしかに人がいます。そうこうしているうちに今度はチェーンソーの音が聞こえ始めました(音真似)。どうやら、教会と司祭館周りの木を切って、日曜日のミサの時に気持ちよく参加できるよう作業に来てくれていたのでしょう。

作業している信徒の方はご苦労さまなのですが、可哀想に主任司祭は当てにしていた静かな環境は諦めなければなりませんでした。ただ、文字にはまとまりませんでしたが、周辺で伐採作業をしている音を聞きながら、与えられた朗読箇所のうち、響いてくる箇所がありました。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(15・4)中田神父は自分への呼びかけとして受けとめたのですが、浜脇で日曜日に信徒の皆さんが気持ちよくミサに参加できるよう平日に作業に来てくれた。その信徒の方はご自身の働きを通して教会と教会におられるイエスに、繋がってくれたのです。一人の人の働きが、多くの人のミサ参加を快適なものにしてくれました。イエスに繋がって、多くの実を結んだのです。

それに比べて、司祭館にじっとして人影に気付きながら様子を見に行くこともせず、声もかけなかった主任司祭は、作業に来てくれた信徒を通してイエスに繋がる良い機会だったのに、機会を逃してしまいました。日曜日の説教を準備しようと静かな環境を当てにしました。むしろ私は、作業に来てくれた信徒にすぐに会いに行って声をかけていれば、もっと早くに説教もまとまったのだと思います。後になって気付いたことでした。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」

イエスの呼びかけは、十分理解できる内容です。しかし、「実を結ぶ枝」はいきなりぶどうの幹に繋がっているわけではありません。ぶどうの幹にすでに繋がっている枝があって、その枝を通して幹に繋がっています。作業に来てくれた信徒は、教会敷地の景観を通して、ぶどうの幹であるイエスに繋がった。中田神父も、作業に来ていた信徒を通して、ぶどうの幹であるイエスに繋がることができたのです。

私たちは、ぶどうの木であるイエスに繋がることで豊かに実を結びます。実を結びますが、イエスに繋がるせっかくのチャンスを見落とす危険もあります。あなたのすぐそばにいる人が、ぶどうの木であるイエスに繋がる確かな枝かもしれません。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼天気予報を見るとき、海上の波とか、もっと言うと自分が住んでいない地域の天気とか、そういうのが気になる。五島市も狭いようで広く、島の東側と西側、北側と南側とでは天気に違いが出る。
▼五島にいて長崎の天気を気にするとか、福江にいて田平(平戸)の天気を気にするとか。済んでいる実感がないわけではないが、転勤族の宿命とでもいおうか。電話の応対で前任地の教会の名前を言うまではよくある話だが、「まだ行ったことのない教会」の名前をうっかり口にした。行ったことないし行こうと思わないのになぜその名前が出たのか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第901回目。写真を撮ってくれた方の腕にはいつも惚れ惚れする。人が見える。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)羊飼いイエスはすべての羊のために命を置く方

2024-04-20 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240421.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/4/21(No.1293)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
羊飼いイエスはすべての羊のために命を置く方
‥‥‥†‥‥‥‥

新しく迎えた助祭様、よくやってくれています。ミサの中で、「お互いに平和のあいさつを交わしましょう」それと「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに」を聞くと、私にもこんな時代があったのだなぁと身が引き締まります。頑張りすぎて、疲れてしまわないか心配です。

金曜日でしたが、小学校の遠足と思われる長い行列を見ました。先生方が一定の間隔で導いていました。先頭の列は上級生なのか、ほとんど先生の手を借りずに颯爽と歩いています。後ろの方になるにつれて、小さなお友だちが、先生の手厚いサポートで遅れないように歩いていました。

しかし、一団についていけない子供たちもいました。ある子供は上級生が手を握ってくれていました。ある子供は、先生が一人つきっきりで歩き、その子を励まし続けていました。どの子供たちも、目的地まで無事に着いてくれよと、願わずにはいられませんでした。

福音朗読を読み返しましょう。イエスはご自分を「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10・11)また、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10・14)と仰っています。

この羊は黙っていてもついてくる。この羊は時々迷うので時々声を掛ける。この羊はつきっきりでお世話をしなければ、見失い、命を落とす。どの羊のこともよく知っています。羊も、羊飼いに全面的に信頼しています。イエスと、御父からイエスに託された人々との間には、深い信頼関係があります。

羊飼いであるイエスは、羊の囲いに入っていない羊も含めて、すべての羊を導こうとします。手のかからない相手も、つきっきりでいなければならない者も、命を捨てる必要がある者も、どんな相手もかけがえがないのです。

どんな人間も、イエスにとってはかけがえがない。それは、自分の力では正しく生きることのできない人間に対する神の愛が、常に無償だからです。どんなに手のかかる人も、反対に手のかからない人も、あふれるほどの愛で愛されています。その証拠が、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ということです。

日本語訳の「命を捨てる」という部分は、ギリシャ語聖書にそって訳せば「命を置く」となるそうです。すると10章18節「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」は、「わたしは命を置くこともでき、それを再び受けることもできる」となります。命を置くことができる方は、神であるイエス・キリストお一人だけです。

良い羊飼いであるイエスは、時に、見守るだけでよい私のために命を置いてくださいます。時に、九十九匹を野原に残してでも、私のために命を置いてくださいます。ご自分の羊のためなら、どんなことでもする。それが羊飼いイエスであり、信徒・奉献生活者・聖職者の模範なのです。信頼をもって、ついていくことにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼昨年度は朝一番でウォーキングに出ていたが、考えるところがあり、夕食後に小一時間ウォーキングをすることにした。助任も助祭も了承してくれた。何かあったらすぐに戻って対処する。
▼ウォーキング前にお湯をためて出発。県道・国道だけでなく、「この先はどうなっているのだ?」という細道を歩くことにしている。「あー、こうなっているのか。」そういう発見を楽しみにして。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第900回目。結婚式が行われた。もし可能なら、結婚式の様子を。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第3主日(ルカ24:35-48)イエスを真ん中に迎えるとき、平和が与えられる

2024-04-13 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240414.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/4/14(No.1292)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第3主日(ルカ24:35-48)
イエスを真ん中に迎えるとき、平和が与えられる
‥‥‥†‥‥‥‥

復活節第3主日は、長崎教区の司祭が異動して、新任地で最初の主日ミサをささげる日です。中田神父も何度も経験してきました。福江小教区では洪助祭様が、初赴任の福江教会で福音朗読と説教をなさいます。前晩のミサでデビューしました。緊張したことでしょう。上手に話そうと思うのではなく、誠実に語ってくれることを期待しています。

今週の福音朗読を、説教する司祭や助祭に当てはめると、「イエスが彼らの真ん中に立ち」(24・36)という場面がどれほど大切であるかを教えてくれます。説教者によって、聞いていて飽きない説教をなさる人、7分から8分の説教が、10分にも15分にも感じる説教の人、いろいろだと思います。

その違いはどこから来るのか。私は、説教者の真ん中にイエスが立っているかどうか。そこが分かれ目だと思っています。いくら楽しい話をたくさんしても、ミサに参加している修道者・信徒の皆さんの目は節穴ではありません。「説教の中心で、イエスが語られているか」そこを見抜きます。いくら笑いの絶えない話でも、真ん中にイエス様がいない説教を聞かされれば、「早く終わってくれ」と思うに違いありません。

今週の福音で、イエスは弟子たちの真ん中に立ちました。場所としての「真ん中」という意味だけではありません。失意の中にあって、頼るもののない弟子たちの真ん中にイエスが立ってくださった。拠り所となる中心に、イエスが来てくださったのです。真ん中にイエスが来てくださるとき、私たちには平和が訪れるのです。

ただ避けて通れない事実もあります。イエスは私たちの真ん中に立ち、「手とわき腹とをお見せになった」(24・40)のです。手にはおそらく釘跡があり、わき腹には槍で刺された傷があるはずです。イエスを置いて逃げた罪、イエスが苦しみを受けても何もすることができなかった罪を、もう一度見なければなりません。人類の罪がイエス様を十字架にかけた事実と、しっかり向き合わなければならないのです。

イエスは御自分の死と復活を通して私たちを救ってくださいました。イエスは私たちにも、生活の真ん中に復活したイエスが留まることを期待しています。拠り所のない生活をしている人、社会生活の中で競争を強いられている人。どんな人でもイエスへの信仰を生活の真ん中に置くならば、復活したイエスがいつも「あなたがたに平和があるように」と力づけ、励ましてくださいます。

例えるなら、それは「芯の通っている人」です。信仰生活の真ん中に「復活したイエス」という芯の通った生き方をする人です。説教をするときに「復活したイエス」という芯の通った説教をする人です。私たちが、真ん中にイエスが立ってくださることを受け入れるなら、私たちの一つ一つの働きが復活したイエスを証しすることになります。復活したイエスへの信仰が私たちの中心にあるなら、証しの力が与えられます。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24・47-48)のです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼人事異動が完了し、これから新体制。頭のリセットが必要。年齢を重ねると頭のリセットはだんだん難しくなる。経験を積むと、経験を持ち込んでしまう。新しいことへのチャレンジも、そのための頭の切り替えも難しくなる。
▼「芯の通った信仰」を説教の中で考えてみた。芯の通った考え方があれば、貫いていける。私にとって、貫いていきたいことは何か。それが、「中心にイエスへの信仰がある」と証明する行動に繋がっているか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第899回目。下五島にも韓国からの巡礼団が増えてきた。案内を工夫したい。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立った

2024-04-06 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/24◎◎.mp3

http://ss104313.stars.ne.jp/voice/240407.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2024/4/7(No.1291)
‥‥‥†‥‥‥‥
神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立った
‥‥‥†‥‥‥‥

今週は、転任する助任司祭に福江教会の日曜日6時と9時の司式を譲りました。前晩はローテーションなので、もう一人の助任司祭の当番と理解していましたが、直前に確認したら主任司祭になっていました。失職したかと思いましたが復職しました。明日は共同司式で何も話さないので、このミサで神のいつくしみについて考えることにしましょう。

さて、復活したイエスが弟子たちに現れる場面です。一度目は、トマスがいないときでした。二度目は、トマスもいるときでした。どちらも戸には鍵をかけていました。トマスが一緒にいたときはわざわざ「戸にはみな鍵がかけてあったのに」(20・26)と書かれています。そこへ復活したイエスが入ってきます。

復活したイエスは、「あなたがたに平和があるように」そして「聖霊を受けなさい」と仰いました。トマスが一緒にいたときに「聖霊を受けなさい」と繰り返されていません。トマスは聖霊の賜物を受けるチャンスを逃したのでしょうか。

そうではありません。トマスもほかの弟子たちと一緒に、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20・22-23)この賜物を受けたのです。本人の努力で受けたのではなく、神のいつくしみに触れて、罪を赦す聖霊の賜物を受けたのです。

トマスは真っ先に、神のいつくしみに触れたのだと考えています。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(20・25)と心を頑なに閉ざしました。神のいつくしみは、誰よりも心を閉ざしている人に先に届けられ、ゆるしといやしの恵みにあずかることになったのです。神のいつくしみは、頑なに心を閉ざしている人に、真っ先に向けられるのです。

私たちにも、神のいつくしみの働きは同じです。トマスが一緒にいたとき、「戸にはみな鍵がかけてあった」のでした。鍵をかける場所は、家の戸だけではないでしょう。私たちは自分の心に鍵をかけて、誰も入れないようにすることがあるのではないでしょうか。頑なに自分の中に閉じこもり、人との関わりを拒んでいるあなたに、神のいつくしみは先に届けられるのです。

しかしどうやって、誰にも心を開かない人に、鍵がかけてある心に入ることができるのでしょうか。それは聖霊の力です。「聖霊を受けなさい」との呼びかけに、すべてが委ねられているのです。聖霊を受けようと心を開く人にはもちろん、「戸にはみな鍵がかけてあった」そんな人にも、聖霊はおいでになり、神のいつくしみを届けてくださいます。

すべての人に、特に、心の扉に鍵をかけている人に神のいつくしみが届きますように、ミサの中でお祈りいたしましょう。主任司祭も、日曜日は共同司式の中でお祈りいたします。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日(ルカ24:35-48)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼何もかも初めてのことだ。助任司祭を送り出すこと。新しく助祭を迎えること。これまでの司祭三人で三小教区の担当を、司祭二人と助祭一人で三小教区を切り盛りすること。とにかく模索の日々である。
▼中田神父がこちらに来たとき、ミサの当番表を今回異動する助任司祭が割り振っていた。それがこれから主任司祭の割り振りとなる。しばらく司祭は二人なので、体調を崩したりしないか、当番表がそもそも不可能な配分になっていないか、昨年度よりも気の抜けない一年となりそうだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第898回目。プロ野球が開幕した。綱渡り時間割の中、カープを応援し続ける。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/


† 神に感謝 †
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする