こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第12主日(マルコ4:35-41)イエスは大事な場面で「向こう岸に渡ろう」と促す

2024-06-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/6/23(No.1302)
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年間第12主日(マルコ4:35-41)
イエスは大事な場面で「向こう岸に渡ろう」と促す
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イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言います。中田神父は「向こう岸に渡ろう」とだけ言っていることに注目しました。たとえば福江港から「向こう岸に渡ろう」とだけ言われたら、皆さんは戸惑うのではないでしょうか?一般的に考えれば、それは「久賀島に渡ろう」とか、「奈留島に渡ろう」とか、目的地があるはずです。しかしイエスは「向こう岸に渡ろう」とだけ告げています。

もちろん、向こう岸には「ゲラサ人の地方」があり、宣教するという目的もちゃんとあるのでしょうが、ここでは向こう岸に着いてからのことよりも、向こう岸に渡る中で経験することを強調していると考えられます。そのような見方で、今週の学びを得ることにしましょう。

幼い頃の話をさせてもらいます。私の父は、私が小学生の頃は遠洋漁業の巻き網船に乗る漁師でした。鯛ノ浦港を母港に持つ船団で、一度だけですが船を見せてもらうために連れて行ってもらったことがあります。「フェリーひさか」ほどの大きさの船がずらりと停泊していました。小学生にとっては圧倒される光景でした。

父親が、「船に乗ってみるか」と誘ってくれたのですが、岸壁から船に渡していたのは幅30センチくらいの板一枚でした。父が先に渡って、船から私に「こちらに来い」と言うのです。とてもではありませんが、狭い板の上を渡って行けそうにありませんでした。

見かねた父が私の所に戻ってきて、私を抱きかかえて船に乗せてくれました。そのとき板がゆさゆさ揺れたのは今でも覚えています。あの時狭い板を渡ったことは、のちに大いに役に立ちました。父が亡くなった後に赴任した浜串小教区で新船の祝福をしたとき、同じ幅の板を渡りましたが、幼いときの経験が無ければきっと渡れなかったでしょう。

福音に戻りましょう。イエスが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と呼びかけたとき、渡るまでの間に何が起こるか、イエスは十分理解していたと思います。突風が吹き、舟が水浸しになります。何も手を打たなければ、海の藻屑となって消えてしまうでしょう。イエスは艫の方で枕をして眠っています。御父への深い信頼を見せようとしたのでしょう。

弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(4・38)と叫びました。イエスが見せた御父への深い信頼は、弟子たちには伝わってなかったのです。しかし、イエス様と弟子たちが乗ったこの舟は、「向こう岸」に渡ることになります。

「向こう岸に渡る」とは、単に「ゲラサ人の住む地方に着いた」という意味だったのでしょうか。そうではありません。「イエスと一緒に乗った舟は必ず目的地へたどり着く」その経験を積むことを意味していました。イエスと一緒の舟に乗り、向こう岸に渡るとき、自分を見失うほどの恐れを感じる中でも、必ず目的地にたどり着かせてくれるのです。

小学生の時、狭い板を見て、これではどれだけ父親が渡ってきなさいと言っても渡れないと感じました。父親への深い信頼が無かったからです。当時の父親の年齢を超えて、今なら分かります。深い信頼が、渡れないと思った向こう岸へと人を渡らせてくれるのです。

人への信頼がそうであるなら、父なる神とイエス・キリストへの深い信頼はなおさらです。神への深い信頼は、人を憎しみから愛のあるところに渡らせてくださいます。争いから和解へと渡らせてくださいます。絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、暗闇から光へと渡らせてくださるのです。

イエスの「向こう岸に渡ろう」という呼びかけを聞いて、私たち長崎教区民は、具体的に何を思い浮かべたら良いでしょうか。いろいろあると思いますが、たとえばそれは、「小教区再編」の動きだと思います。人間の考えだけでは「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びたくなります。

けれども乗りかかったこの舟は、イエスと一緒に乗る舟です。必ず、目的地へたどり着くのです。司祭・信徒・修道者が一同に集まって、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけるイエスに深い信頼を寄せましょう。その時初めて、次の段階に移って宣教・司牧が続いていくのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日(マルコ5:21-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼梅雨の合間の晴れ。晴れているけれど、なかなかすることが思い付かない。そうだ。バイクを動かそう。今週玉之浦教会に向かう途中、自分の前に一台の車がいて、長い間その車に付き合わされた。
▼どこに行くのかな~と思っていたら、井持浦教会を少し過ぎたあたりで、狭い、急な上り坂を登っていった。よく見ると、先には教会墓地のようだった。今から走って、教会墓地をお参りしてこよう。

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今週の1枚
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第909回目。田平修道院の墓にまた一人納められた。田平時代は6人見送った。

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† 神に感謝 †
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