こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(ルカ18:9-14)神により頼む心を保ち続ける

2013-10-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/10/27(No.675)
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年間第30主日
(ルカ18:9-14)
神により頼む心を保ち続ける
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先週の説教で、研修を東京で受けてきたという話をしたのですが、話さなかったことが1つあります。それは右足親指付け根の痛みのことです。東京に行くその日、つまり13日(日)の朝、突然痛みが始まりました。何の痛みかまったく思い当たることがないのに、東京に着いた頃にはもう横断歩道を青信号で渡りきれないほど足を引きずって歩いていました。

それはもう、足を切って捨てたいくらいの痛みだったので、知り合いのカトリックの医者にメールで症状を説明し、外反母趾だろうかと尋ねたところ、痛風の疑いもあるという返事で、痛み止めの薬を買って飲み、五島に戻ってから必ず病院で診てもらうようにと指示を受けました。

それなのに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、戻ってから1週間、痛み止めも飲まずに放置していたのですが、先週の木曜日の夜にまた痛みだし、痛くて眠れなかったため翌朝慌てて奈良尾病院に連絡を取りました。

実は戻ってきてから、生活習慣病検診を受けようと有川病院に相談に行ったのです。すると12月26日まで空いてないと言われ、12月26日の申込はしたものの、こっちとしてはそれまでに何かあったらどうするのかと、イライラしながら週末過ごしていたのです。

不安は的中し、木曜日の夜中2時に、毛布をそっと載せることもできない状態になりました。奈良尾病院ではてっきり血液検査をしてくれるものと思っていましたが、「12月26日に生活習慣病検診を受けるのでしたら、慌てなくてもよい」とあっさり断られ、レントゲンを撮って、「骨の異常は何も無いから、さしあたって痛み止めを出しておきます」と言われて診察は終わりました。きっと、12月26日の検査では、尿酸値がどうのこうのと言われて、「病人」という診断が下るのでしょう。とうとうわたしも、病人の仲間入りということになりそうです。

今週の福音朗読は、「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえですが、ファリサイ派の人の祈りは、わたしのこれまでの生活と重なると感じました。「神様わたしは、これこれの者でないことを感謝します。」つまり、「神様わたしは、毎日酒を飲むわけでもないし、美食家でもないし、また、すでに何人もいる糖尿病や痛風の司祭でもないことを感謝します」と考えていたのです。自分にはまったく関係が無く、これからも決してそういうグループには含まれないと、本気で思っていたのです。

ところが今回のこの痛みです。まだ診断が確定したわけではありませんが、いろいろ話を総合すると、痛風の疑いが濃厚です。ここにきて初めて、わたしのこれまでの生活は、弱い立場の人を見下していたのではないか、見下していないとしても、自己管理をして、病気を抱えるような司祭には陥らないと考えていたかも知れないと思ったのです。

次に徴税人の祈りを自分に重ねてみます。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(18・13)今のわたしでしたら、「神様、痛風のわたしを憐れんでください」となるでしょうか。頂いた大切な体を壊してしまった申し訳ない気持ちで遠くに立ち、顔向けもできないので目を天に上げようともせず、「憐れんでください」と祈る。

今まで、「憐れんでください」という祈りはわたしの祈りになかったのに、横断歩道もまともに渡れず、「病気になったわたしを憐れんでください」と祈るしか言葉が見つからない。弱い立場になってみてやっと真剣に神と向き合った気がしました。

あらためて福音朗読を読み返す時、「義とされて家に帰った」(18・14)というのは、神とどのように向き合えばよいのかを正しく理解しているということではないでしょうか。わたしは意識的ではないにせよ、「これまで病気一つしなかったことを感謝します」と神に祈っていました。健康であったがゆえに、「あなたに頼るしかないのです」という気持ちに欠けていたのです。

反対に、「神様、病気のわたしを憐れんでください」そうとしか祈れない時は、「あなたに頼るしかないのです」という気持ちが充ち満ちています。今まではどこか、わたしは弱い立場のグループではないということを自慢していました。

今は病気を認めなければなりません。ここに至ってようやく、神により頼んで生きることが義と認められ、神により頼むより自分により頼む人は義と認められないという今週のたとえが理解できたのです。

もちろんたとえに登場するファリサイ派の人は立派な人です。当時の律法に求められている以上の努力を喜んで果たしているからです。立派な人かどうかというのであれば、徴税人は立派な人とはほど遠い生き方をしていました。ですが負い目があるから、顔も上げられない生き方をしていたからこそ、神により頼む心を失わなかったのです。

神により頼む心を失わないこと。神により頼む心を保ち続けること。これが今週わたしたちに求められていることです。それは例えて言えば自転車に乗っているようなものです。自転車はずっとペダルを踏み続けなければ倒れてしまいます。わたしたちも、ずっと神により頼んでいなければ、立っていられない生き物なのです。健康だから自分で立っていられる、病気だから神により頼んでいるのではないのです。

痛み止めを飲まなければ耐えられないほどの痛みを味わいました。いつまでも自分の健康には頼れないことがよく分かりました。唯一、頼り続けることができるのは神のみです。

徴税人が胸を打ちながら言った「神様、罪人のわたしを憐れんでください」をわたしたちの祈りの出発点にしましょう。自分の努力を並べ立てても、神はその声を放置なさいます。「神により頼むわたしなりのきっかけを持っているだろうか。」今週考えてみることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(ルカ19:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼不摂生をしているから今回のような痛みが発症するのだろうか。必ずしもそうとは言えない。自己管理をするに越したことはないが、真面目に取り組んでいても痛くなる人もいるだろう。今回のことで1つだけ分かったのは、すぐに問い合わせることのできる人(医師)を知っておくことだ。
▼東京で激痛に襲われた時、最初に打ち明けたのは東京で面会した2人の恩人だった。そのうちの1人から「連休中ですが、診察してくれるところはいろいろあるので、どうしても耐えられない時は受診してください」とアドバイスを受けた。しかし、道行く人すべてが他人の東京で、どうやって病院を見つけたらよいだろうか。恩人には申し訳ないことをしたが、結局病院はさがさなかった。
▼次に問い合わせたのが、カトリックの医師である。遠方ではあったが、メールで東京に来てからのことを思い出す限りメモして伝えた。その後のことは先週の「ちょっとひとやすみ」に書いたので省略するが、やはり困った時に頼れる人を持っていなければならないことを痛感した。
▼なぜか司祭は医者嫌いである。例外もいるのかも知れないが、わたしは例外の司祭を知らない。手遅れになって医者に診察してもらい、ご丁寧に「手遅れです」と宣告される司祭が多い。長崎教区に100人くらいの教区司祭がいて、何らかの不安材料を抱えている人の割合はどれくらいだろうか。
▼一般企業でも、社員の健康管理には相当気を遣っていることだろう。そういう一般企業と比較するなら、長崎教区司祭の危険度は何倍も高いはずである。長崎教区司祭の何人が、身体の異常を感じた時すぐに問い合わせることのできる医師を知っているのだろうか。

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今週の1枚
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第282回目。体を動かす機会はたくさん。ナイターソフトバレー。ぺこちゃんず。

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年間第29主日(ルカ18:1-8)気を落とさずに絶えず祈るなら結果になる

2013-10-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/10/20(No.674)
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年間第29主日
(ルカ18:1-8)
気を落とさずに絶えず祈るなら結果になる
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東京に行ってきました。教区広報担当者の会議でした。新潟の菊地司教さまが基調講演をしてくださいました。福音宣教のために、現代社会で人と人とをつなぐ道具になっているものを、特性をよく見極めながらも、積極的に使い、福音宣教に役立てるように呼び掛けてくださいました。

現代社会で人と人とをつなぐ道具として特に目立っているものは、ソーシャルネットワーキングサービスという枠に含まれるもので、たとえばフェイスブックやmixiや、ツイッターなどを指しています。

これらの道具はもちろん危うさを含んでいます。こうしたネット上の道具で出会った人同士がトラブルになるケースもありますので、賢明な使い方が求められますが、恐れているばかりではこれだけ社会に浸透している場をみすみす逃すことになります。経験のある人などに教えてもらったりすると、福音的な価値観を広める場にしていくこともできます。

さて福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教える」というねらいで、「やもめと裁判官」のたとえが取り上げられています。やもめは、相手を裁いて、守ってもらうために、裁判官のもとにひんぱんに通っています。この裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(18・2)として取り上げていますから、強い者にこびへつらい、弱いものを踏みつけるような態度を取っていたのでしょう。時代劇で言えば、水戸黄門に成敗される悪代官だったのだと思います。

しかし、悪代官であっても自分の主張を取り上げてもらう人が他にいないやもめにとっては、どうしてもこの裁判官の心に訴えかけて、自分を守ってもらう必要がありました。やもめにできるたった1つの手段は、「うるさくてかなわない」「さんざんな目に遭わす」そう思わせるほどひっきりなしにやって来て求め続けたのでした。

わたしたちも、絶対にあきらめないで願い続ける、期待し続けるという体験を、わたしたちと神との間で持ちたいものです。そのために、自分に身近なところで、あきらめないでよかったなぁ、この日をずっと待っていてよかったなぁという体験を積むと、それが役に立つと思います。

先週の東京出張で、わたしは広島教区から来ていた2人の広報担当者と知り合いになって帰って来ました。中田神父は広島カープのファンなので、今年はかなり期待して野球を見ているという話を別の人と話していたのです。するとその話に広島の広報担当者のかたが大変興味を持ってくれまして、すっかり意気投合して話に花が咲きました。

話は脱線してしまいますが、わたしの応援しているチームは16年ぶりにAクラスに入り、ようやくクライマックスシリーズを勝ち上がってセリーグの優勝チームに挑戦できたのです。16年もこの日を待っていました。夏の蝉でさえ、7年地下に潜っていれば1週間地上で大声で鳴くことができます。わたしは16年間、応援しているチームの話を地下に潜って話していたのですが、今年ようやく話すことができたのです。

けれどもわたしはその間決してあきらめたりはしませんでした。わたしの中には、応援し続ける理由がいくつもあって、あきらめる理由は一つも無いからです。わたしの名前は中田輝次(なかだこうじ)ですが、下の名前の「こうじ」というのは往年の名選手「山本浩二」から取ったと聞かされています。そして、父はわたしを膝に抱いて、「こうじ頑張れ、こうじ頑張れ」と言いながら野球観戦をしていました。

ほかにもわたしが今なお日本シリーズに20年近く出たことのないチームを応援する理由はあるのですが、そうしたことをさんざん話していたら、今年出会った広島の広報担当者のかたから、「広島教区の司教さまに『長崎には熱烈カープファンの司祭がいます』とお伝えしておきます。ぜひおいでください」とまで言われてしまいました。わたしも心から長崎教区を愛しておりますが、どうしても広島に来てほしいと言われたら、広島だったら考えてもいいなぁと思っています。

つい脱線してしまいましたが、わたしにとっては応援している球団が「あきらめないでよかった、この日をずっと待っていてよかった」という体験になっています。16年この日を待つことができるのですから、イエスが気を落とさずに絶えず祈らなければならないと励まし続けることをもっと身近に考える材料を、わたしたちは持つ必要があると思います。

わたしたちには、それぞれの体験の中で、「気を落とさずに、願いが叶うまで待ち続ける」具体的な例がきっとあると思います。その、自分でしか経験していないような貴重な体験を、もっと周りの人を力づけるために役立てて欲しいです。

気を落とし、もう神に願うのはやめよう、もう神に祈ってもしかたがないと感じている人がいるかも知れません。そうした人に、もう少し祈る努力を続ける気持ちに向かわせることができるなら、わたしたちの個人的な体験は自分だけのもので終わらずに、人に役立つことになります。

イエスは最後に、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(18・8)と言っています。一人でも多く、生活の中で祈り続ける人、信仰が生活の土台になっている人がイエスの再臨の日まで立っていることを願いたいと思います。昼も夜も主に叫び続ける力を、今日のミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(ルカ18:9-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼東京に出発した日曜日は、浜串での朝のミサの時から右足の親指付け根に痛みを感じ、ミサ中は悟られないようにがまんしていたが、荷物を抱えて移動し始める時にはすでに痛みが隠せないほどになっていた。スーツケースにはローラーが付いているにもかかわらず、スムーズにケースを押して歩くことはできなかった。
▼痛みは東京に行くともう限界にまで達していた。東京で会いましょうと連絡を取っていた人には正直に現状を話すと、「それは痛風ではないでしょうか」と言われ、東京をあちこち歩く間もずっと気遣ってくださり、申し訳ないことをした。
▼痛みが引く様子もなく、メールで連絡を取れるカトリックの医師に現状を報告すると、痛み止めのクスリを買い求めるようにとの指示。「ロキソニン」という錠剤を毎食後に飲む。すると、痛みがうそのように軽くなり、東京での教区広報担当者会議を無事にこなすことができた。
▼夜8時からの懇親会で、なぜわたしが広島カープを応援するのかを力説した。名前がそもそも「山本浩二」からもらっていることは話したが、人には赤い血が流れており、本性的に広島カープのファンになることができるように神から創造されているのだとホラを吹いた。
▼研修会の最終日は、聖イグナチオ司教殉教者だった。殉教者だから祭服は赤である。最近サッカーで「日本を青く。世界を青く」というキャッチフレーズを耳にするが、それをもじって、「今日と明日(聖ルカ福音記者)は、世界中の教会が赤の祭服でミサをします。今日と明日(セ・リーグ巨人対広島のファイナルステージ)、日本を赤く染めましょう!」とまくし立てた。
▼以前の「ちょっとひとやすみ」で、広島カープの試合を、広島で応援する方法が1つあると言ったことがある。それは、わたしが広島で働くことだと内心思っている。ただし自分から手を挙げることはしない。それは神が決めることだから。でももし、もしそういうことになれば、考えてみる価値はある。

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今週の1枚
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第281回目。少し遅くなると思いますが、東京駅正面(雨模様でした)

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年間第28主日(ルカ17:11-19)あなたはその出来事から何を見ますか

2013-10-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/10/13(No.673)
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年間第28主日
(ルカ17:11-19)
あなたはその出来事から何を見ますか
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10月9日の水曜日、この日は夕方のミサで、説教は小学生を相手に話すことにしているので、いつもの通り小学生の席まで降りていって話をしました。毎回、いろんなことを質問して、子どもたちの反応を見ています。質問されるのが恐ろしくて、この日のミサに子どもが行きたがらないという噂も聞いていますが、わたしは何と言われようが水曜日のスタイルは変えないつもりです。

さてこの日の質問はこういう内容でした。「昨日、10月8日(火)の台風はすごい雨風だったねー。屋根が吹き飛んだ人いますか?車がひっくり返った人いますか?そうかー。被害は少なかったんだね。なぜ被害が少なかったと思う?」子どもたちは思い思いの返事でした。「偶然そうなった」「奇跡が起こった」「分からない」でもわたしが期待する答えではありませんでした。

わたしが期待したのは、「神さまのおかげで被害が少なかった」「わたしたちが神さまにお祈りしたから、被害が少なかった」という答えです。実際、8日の火曜日は朝6時のミサを始める時に、「台風の被害が少なくて済むように、ミサの中でお祈りいたしましょう」と呼び掛けてからミサを始めました。

わたしはこう思うのです。大きな台風が上陸して、大変な被害が予想される中で、結果的に被害は少なくて済みました。台風の進路がどうだとか、科学的な説明は後からいくらでもできるでしょう。けれども、そんな説明はつまらないし、天気図の説明は東京に住んでいる気象予報士でもできることです。

わたしは台風のただ中で過ごし、そして感じたのです。台風が無事に通過してくれた。「これはわたしたちがミサの中で祈ったおかげだ。」わたしの考えは非科学的でしょうか。子供じみているでしょうか。

確かに今回の24号台風は、都合よく通過していってくれたのでしょう。ですがただ単に幸運だったというだけでしたら、いったい何に感謝するのでしょうか。感謝することもなければ、被害がなかった、あーよかったで、台風が来たことも忘れてしまうのではないでしょうか。わたしは、台風が無事に通過したその向こうに、感謝する相手を見つけました。これは神に感謝すべきだと、心から思いました。

さて今週の朗読箇所は、「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」物語です。この重い皮膚病を患っている人々は、時代が違えば、イエスに憐れみを求める必要も無かったかもしれません。重い皮膚病と言われている病がハンセン病であれば、いまは特効薬が発見されていて発病している人でも完治しますし、日本でこの病気にかかる人はゼロです。

ただし、当時は重い皮膚病にかかった人は社会から切り離されて暮らす必要がありました。重い病でも、社会に取り残されずに暮らすことができるなら、まだ慰めもあるでしょう。けれども彼らはその慰めを期待できませんでした。

イエスは憐れみを求めるこの十人に、深い憐れみを示してくださいます。イエスはこの場面で人間社会が与えることのできなかった憐れみを与えることができるお方です。しかも彼らに、救いの喜びをも与えるため、重い皮膚病という鎖から彼らを解いてくださいました。

ところが、「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」(17・15)のは一人のサマリア人だけでした。確かに十人とも重い皮膚病はいやされたのですが、「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(17・16)のはサマリア人だけでした。

思い出してください。わたしは説教の始めに、なぜ24号台風の直撃を受けたにもかかわらず、被害が少なかったのでしょうかと子どもに問いかけました。わたしの答えはどんな答えだったでしょうか。「これはわたしたちがミサの中で祈ったおかげだ」というものでした。

わたしは、福音に登場する重い皮膚病を患っている人々のいやしにも、同じことが言えると思うのです。理論的に、あるいは医学的に、これこれこのようにして重い皮膚病が治ったと説明することは可能かもしれません。けれどもそんな説明は、つまらないと思うのです。何の感動もないし、そこから感謝の気持ちも湧いてこないと思うのです。

実際に、十人のうち九人は、清くされたはずなのにその後のことは何も触れられていません。彼らは自分の病がいやされ、清くされたことを理解していたはずです。それでも感謝の気持ちが湧いて、神を賛美するということには繋がらなかったのです。重い皮膚病がいやされたことに自分なりの説明は付いたかも知れませんが、自分たちが体験した奇跡の向こうに、感謝する相手を見ることができなかったのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは奇跡的に災難を免れて、生き残った体験がないでしょうか。助からないと言われるような病気を背負って、それでも生かされている人がいないでしょうか。あなたが体験したことは、「大声で神を賛美し」「イエスの足もとにひれ伏して感謝」してよい出来事ではないでしょうか。

わたしたちは奇跡的な出来事の向こうに神の働きを見て、神に感謝することがあまりに少なくなったのかもしれません。そうした考えを子供じみていると考えているのでしょうか。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18・17)というイエスの御言葉は、もはや時代遅れなのでしょうか。

十人のうち九人が「これは理論的に説明できるから、だれにも感謝する必要がない」と言ったとしても、わたしは神に感謝したいと思います。神は今も「絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、暗闇のあるところに光を」届けてくれていると、言い続けたいと思います。出来事の向こうに神の働きを見る人は今日もイエスと出会い、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(17・19)と声をかけていただけるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週はお風呂のお湯を沸かすボイラーが壊れ、ずっとお風呂に入れなかった。と言ってもまったく体を洗わなかったわけではなくて、巡回教会の福見教会司祭館に行ったり来たりして風呂に入った。
▼この原稿を準備している段階では電気店の人が新品のボイラーを取り付けているので、出張から帰ったら不便は解消されているはずだ。何でもそうだが、不便になった時、それまでいかにありがたい暮らしをさせてもらっていたかが分かる。
▼出張は「教区広報担当者全国会議」という長ったらしい名前のもので、これを読んで反応するだろうなぁと思う人が数名いるのだけれども、予定が詰まっているので、予定を立てている人以外には個人的な声かけはせずに行こうと思っている。「言ってくれればいいのに」と言われそうだなぁ。
▼出張の名目に偽りはないのだが、わたしは「教区広報」の委員長ではない。そこだけが気が引ける。代理だから、ちゃんと報告を委員長にしなければならないなぁと出かける前から出かけた後のことを考えてしまう。
▼それでも、ちょっとした旅行だから、まったく違う環境で、長崎のことを考える機会になるかもしれない。あるいは、長崎のことをたくさん尋ねられて、長崎の良い所を見直す機会かもしれない。
▼12日(土)大学院生のインタビューがあるようだ。11日(金)の朝に電話があり、1週間かけて上五島の教会を訪ねてまわり、論文の研究テーマを深めるのだそうだ。どうやらあちこちの教会でインタビューを断られ、電話の声では藁にもすがる思いが伝わってきた。
▼わたしは足で稼いで資料を準備する論文を用意したことがないので、こうした論文を準備している人の苦労を十分理解してあげることができない。ただあっちでもこっちでも断られて意気消沈して自分に電話する学生をほうっておくのはちょっと可哀想である。
▼もちろん他の教会がていねいにお断りするにはそれなりの理由があるだろう。だからなおさら、最後に困り果ててやって来る人に協力する。何だか最後の砦みたいだ。最後の砦と言うと聞こえは良いが、最後の砦は善人かもしれないし、悪人かもしれない。

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今週の1枚
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第280回目。半年も経ってしまったが、百周年の時の集合写真。

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年間第27主日(ルカ17:5-10)多い信仰ではなく、揺るぎない信仰を願う(2)

2013-10-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/10/06(No.672)
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年間第27主日
(ルカ17:5-10)
多い信仰ではなく、揺るぎない信仰を願う(2)
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土曜日朝から、頭が痛くて起きているのが辛かったです。思い当たることは、金曜日に婦人会ミニバレー大会の練習に参加した後、ボイラーが作動せず、しかたなく水でシャワーを浴びたことです。これが効けたのかもしれません。でなければ、たまに悩まされている気圧の変化で起こる頭痛かもしれません。どうにも頭を働かせることができなかったので、今回の説教はかつて文庫本で出した2004年のものを参考にしました。

福音は、信仰を増してくださいと、弟子たちが願うのに答えて、イエスはからし種一粒ほどの信仰があれば、あなたにとって十分だ。問題はそれが揺るぎないものかどうかなんだよと教えてくださる場面でした。信仰はいかに小さなものであっても人をあっと言わせる大きな働きができるのです。

ここでもう一つ考えてみたいと思います。それは、信仰を増してくださいという弟子たちの願いは、少し的はずれだったようで、やんわりと断られたということです。つまり、人が神に願うことはいつも適切かというとそうでもなくて、的はずれな願いは取り上げてもらえないということもあるのです。

わたしたちの願いごとのうち、ある願いは、的はずれな願いに終わっています。信仰は願う人すべてに種として蒔かれます。からし種ほどの信仰で十分働く力を持っていると諭されたところを見ると、信仰を増してくださいという願いはおそらく的はずれだったのでしよう。むしろ「不信仰から立ち直らせてください」と願うべきだったのだと思います。

イエスは、信仰を多いか少ないかで考えている使徒たちに注意を促します。イエスは違う答えを示します。少ないと思われる「からし種」ほどの信仰で十分です。なぜでしょうか。それは、信仰は突き詰めると「神様を信じているかどうか」「信頼しているかどうか」だからです。

神を信頼している人はすでに十分な信仰を持っています。信仰とはその人が自力で何でもできるということではありません。その人には、神が信仰に答えて働いてくださいます。信仰が神を信じることと言い切ることができるのであれば、少なめに神を信じていますとか、多めに神を信じていますというのはどこか的はずれだと思います。

では、信仰について何を願うことができるのでしょうか。わたしは、すでに信仰を持っています。神を信じているからです。信じていないという人は別として、もうすでに信じています。ですから、わたしどもの信仰を磨いてください。ふらふらしないようにしてください。こんな願いが適当かもしれません。

次に、善良で忠実な僕を紹介しながら、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(17・10)という呼びかけをしました。これはじつは信仰を増してくださいという前半部分で考えた答えと深く関わっていると思います。

信仰が揺るぎないものとなるように、信仰に磨きをかけていただくように願うなら、その願いは取り上げてもらえると思います。結果、わたしたちがいただくものは、さらに磨かれた、ふらふらしない確信のようなものだと思います。そして、今日の朗読の結びでイエスが勧めている態度も、神が評価してくださるという確信がなければそれは言えない言葉だと思うのです。

「しなければならないことをしただけです」。わたしたちは多くの場合、自分がしたことを並べたがります。覚えてもらうため、自分のことを良く思ってもらうためです。これもしてきましたあれも続けました・・・それは、裏を返せば、自信がないからそう言うのかもしれません。「しなければならないことをしただけです」とは、よほどの自信がなければ言えないせりふだと思うのです。

せっかく願うのであれば、ふらふらしない信仰を願いましょう。イエスの前で「わたしは生きている間、しなければならないことをしただけです」と、信頼のうちに自分をゆだねることができるように生活を整えていきましょう。それを可能にするのは、ふらふらしない信仰だと思います。そしてこの揺るぎない信仰こそは、わたしたちが願い続けてよいものではないでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
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ちょっとひとやすみ
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▼ここのところ、自分で自分にため息をつくことが多くなってきた。以前だったら自分に腹が立っていた所だが、血圧が上がるのではないだろうかと心配して、腹を立てることは少なくなってきた。しかしため息をつく場面には事欠かない。
▼婦人会のミニバレーの練習を終えて司祭館に戻って来る。着替えて風呂に入ろうとしていると、紙ゴミが目に留まったのでそれを手に取り、ゴミ箱に投げ込む。だが実際に投げ込んだのはこれから洗濯する着替えだった。
▼病人訪問。1人目の自宅に到着し、家庭祭壇で対面。その瞬間に「しまった。ご聖体を持ってきていない」と気づき、「おばあちゃん、このままちょっと待っててね」と言って聖堂にもどり、聖櫃からご聖体を取り出す。考えられないと思いつつも、事実忘れたのである。
▼先週も味噌汁を鍋にかけて黒焦げにしてしまった。いろいろ考えると、自分自身の行動でありながら、自分自身で責任を持てなくなってきている。それは否定しようがない。しまいには自分で握っている車のハンドルも、責任を取れなくなる時期が来るのかもしれない。
▼車の運転は、そういう危険を感じたらすぐに免許を返納しようと思う。わたしは車に未練は無い。さまざまな車に乗る機会が与えられたが、どの車も何かしらトラブルに見舞われた。事故であったり違反であったり、あまりいい思い出がない。だから未練は無い。
▼自分にため息をつく生活は楽しくない。もっとここ最近の変化を楽しみながら、自分を受け入れながら暮らしていこう。これ以上若くなることはないのだし、これ以上の記憶力を望むこともできないのだから。

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今週の1枚
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第279回目。登山が趣味のかたにお借りしました。先月登った御嶽山の紅葉。

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