こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

【特別講話】「ひとりひとりが(各事業所を)築く人」~語り合い分かち合おう~

2014-06-30 | Weblog
「ひとりひとりが(各事業所を)築く人」~語り合い分かち合おう~

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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/kowa20140629.mp3
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(1)ひとりひとりが貴重な体験を持っている。分かち合おう(1887文字)

●こんにちは。中田輝次神父です。今回の講師の依頼を受けてから、時間はあまりありませんでした。わたしが講師選びをするなら半年前から依頼をします。ただ、電話で依頼してきた方が同じ故郷「鯛ノ浦」の出身でして、「断りきれないよねぇ」と思いながら電話に耳を傾けていました。
●本来わたしたちは、ひとりひとり貴重な体験を持っているのだと思います。ところが、その貴重な体験に気付いていなかったり、貴重な体験だと思っていなかったり、貴重な体験なのにだれにも分かち合わなかったりして、埋もれているのではないでしょうか。わたしも、忘れられない体験をいくつかしていますが、メモを取らなかったことで失ってしまっているものがいくつもあると思っています。
●かつてわたしは、体験の分かち合いを軽んじていました。他人に対して、あまり興味がなかったのかもしれません。そのため、もっと豊かになれたはずなのに、小さくまとまってしまったかも知れないなぁと後悔しています。今わたしは48歳ですが、もっと他人に興味を持ち、周りの人の体験に耳を傾けていたら、自分の中にもっとたくさんの引き出しを備えることができただろうにと思うのです。
●わたしが、いかに他人に興味を持っていなかったかという苦い体験からまず入りたいと思います。保育園での出来事です。5月だったと思います。5月はカトリック教会では「聖母月」と言って、聖母マリアに特に捧げられた月という理解があります。そのため、ロザリオの祈りに代表される「聖母マリアに対する信心」が勧められています。ロザリオの信心は、「アヴェ・マリアの祈り」を50回唱えながら聖母マリアの生涯、イエス・キリストの神秘について黙想する祈りです。
●さてこの「アヴェ・マリアの祈り」を園児たちが積極的に唱えてくれるよい方法はないものかと考えて、園児たちに次の話をしました。「みなさんは、くしゃみをしたことがありますか?くしゃみって、どんなときにしますか?」太陽を見たときとか、コショウが鼻を刺激したときとか、当然予想されるような答えのほかに、もう1つ答えを期待しました。ただその答えは、わたしが解き明かすまで園児たちからは出てきませんでした。
●「もう1つ、くしゃみをする時があると思いますよ。それはね、だれかが自分のことを噂している時です。太陽も見てないし、コショウも近くにない。それなのにくしゃみをした。その時『あれ、だれかがわたしの噂をしたかな』と思いませんか?わたしは、そんなときが時々あります。いったいだれが、噂しているのかな。いろいろ考えます。」
●「マリア様は、くしゃみをすることがあるのでしょうか。太陽を見たときするのかな?コショウが近くにあってくしゃみするのかな?わたしは、皆さんがたくさん『アヴェ・マリアの祈り』を唱えたら、マリア様はきっとくしゃみをするに違いないと思いますよ。本当にくしゃみするかなぁ?と思う人は、ぜひ『アヴェ・マリアの祈り』をたくさん唱えてくださいね。」
●さて月日は流れ、1年後の同じ5月、わたしは同じ保育園に呼ばれて園児たちにお話しをしました。話の初めに、何気なくこんなことを問いかけたのです。「去年もお話をしに来ました。去年の話を覚えている人?」去年の話です。覚えている人などいるはずがない、とわたしは思っていました。
●ところが、1人手を挙げた園児がいたのです。年長組の男の子でした。去年は年中さんだったのでしょうか。手を挙げているのですから、答えを聞かないわけにはいきません。しかしこの場面で、わたしは去年どんな話をしたのか思い出せずにいたのです。園児が何かを言った場合、それが正解かどうかも分からない状態で、その子に「どんな話でしたか」と恐る恐る尋ねたのでした。
●幸いに、その子は「くしゃみの話をしました」と答えてくれました。よくぞ、わたしが思い出せるような適切な答えを言ってくれたと感謝しました。これが、「マリア様の話をしました」といったあいまいな答えだったら、わたしはその答えが正解だったのかどうかも分からなかったことでしょう。
●この時から、どんな小さな子供でも、興味を持って接してあげようと心に誓ったのです。この子はわたしに、どんな出会いであっても、出会った人に深く興味を持てば、その出会いは人生を豊かにすることを教えてくれたのです。そして今、わたしが皆さんに何の変哲もない体験を分かち合うことで、わたしだけの体験から、皆さんとの共通の情報に変わったのです。どんな小さなことでも、どんな小さな人々とも、人は体験を分かち合うことで豊かになれます。

(2)貴重な体験はしばしば向こうからやってくる。探しに行かない(1989文字)

●次に、貴重な体験はどこにあるのでしょうか。もし、貴重な体験が「ここにある」「あそこにある」というものでしたら、わたしたちはそれを探し求めなければなりません。わたしの経験上、貴重な体験は「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、(神の国は)あなたがたの間にあるのだ」(ルカ17;21参照)と言いたいと思います。
●わたしが赴任している浜串小教区には、浜串教会・福見教会・高井旅教会の3つの教会があって、福見教会のすぐそばには「福見の園」という特別養護老人ホームがあります。老人ホームの詳しい区別は知りませんが、ここに入所している人からは、いろいろ学ぶことがあります。月に2回訪問するだけのわたしが学ぶことがあると言っているわけですから、毎日入所者と接している職員の皆さんはもっと感じていることでしょう。
●福見の園を、ショートステイで利用しているおじいちゃんがいます。太郎さんと、仮に呼ぶことにします。この太郎さんは、ふだんは自宅でおばあちゃんと夫婦2人暮らしで、自宅にいるときは月に2回太郎さんをお見舞いしています。お見舞いして何をするかと言いますと、短いお祈りをして、カトリック信者がミサのときにいただく聖体を拝領させています。
●自宅にいるときは短い祈りと聖体拝領なのですが、太郎さんがショートステイで福見の園に入ると、福見の園はカトリック信者を2回お見舞するうち1回目はチャペルでミサをささげています。どうやら奥さんがこのミサに合わせてショートステイをお願いしているようで、福見の園を利用することで、太郎さんはミサにあずかることができています。
●どうして自宅にいるときに、教会のミサに行かないのか不思議に思う人もいるでしょう。太郎さんは脳梗塞を何度か発症して、体が不自由です。さらに奥さんも体が弱っています。教会まで連れて行ってくれる人がいないのです。自宅でミサというのも難しいです。すると、福見の園チャペルでのミサが、太郎さんにとってイエス・キリストに最も深くつながる最後のよりどころになっているわけです。
●わたしは太郎さんが何回か福見の園チャペルのミサにあずかるようになってからふと考えるようになったのです。福見の園に常に入所している人は、毎月1回チャペルでのミサに参加しています。けれども太郎さんは、ショートステイなので、ミサのタイミングで福見の園を利用していなければ、教会のミサに行くこともできないし、もちろん自宅でミサにあずかることもできません。ましてや病状が悪化し、入院でもするようになると、もはやミサにあずかることは不可能になってしまいます。
●すると、もしかしてだけど、もしかしてだけど、今回のこの日のミサが最後になるかもしれません。最後のミサに太郎さんが参加しているかもしれない。そう思う時に、わたしの心構えも少し変るのだと思います。わたしは、太郎さんにとっての人生で最後のミサをささげていることになるからです。
●司祭がミサをささげている時、すべての場面、すべての瞬間全力が注がれているかと問われると、残念ながらそうでもないと言わざるを得ません。人間ですから、疲れていてミサをささげている時もあるし、ミサが終わってからのことを少し考えながらミサをしていることだってあります。
●けれども、太郎さんが福見の園チャペルでのミサに参加するようになってから、ミサのささげる心構えをもう一度考えることができました。この貴重な学びの場は、わたしが探しに行って見つけたものではありません。わたしがふだん生活している中で、わたしの日常の業務の中で、この貴重な学びを得たのです。
●わたしはこう考えます。貴重な学びは、探しに行って見つけることもできるでしょう。そのような学びは確かにあると思います。ただ、探しに行って見つけた学びは、探しに行った場所にはあっても、日常の業務の中には見つからない学びなのではないでしょうか。もし、日常の業務の中に学びを見つけることができれば、その人はわざわざ探しに行かなくても、日々その貴重な学びを得ることができるのではないでしょうか。
●わたしは、「貴重な体験はしばしば向こうからやってくる」と思っています。向こうからやってくるので、わたしから探しに行く必要はありません。必要がないと言うよりも、探しに行かないほうが、日常の業務の中で得られる貴重な体験に出会う確率が高くなると思っています。
●太郎さんの件では、奥さんの配慮に何より敬服いたしました。ご主人がミサに参加する場所は、もはや福見の園のチャペルしか考えられないわけです。その、月に1回だけの貴重な日のために、できる最大限のことをしてくださったのは奥さんです。わたしが太郎さんを通じて貴重な学びを得たのも、もとはと言えば奥さんの配慮からです。本当に、立派な奥さんだと思いました。

(3)あなたの苦労が、最高のぶどう酒に変わると信じてほしい(4179文字)

●これからしばらく、新約聖書のヨハネ福音書第2章に取り上げられている「カナでの婚礼」という物語を題材に話したいと思います。「カナでの婚礼」という物語のタイトルを紹介しただけで、「あ、イエスが水をぶどう酒に変える奇跡を取り扱った物語だな」と察しが付く方は、相当に聖書をお読みになっている方だと思います。
●実際、キリスト者の方々でも、「カナでの婚礼」の場面が「イエスが水をぶどう酒に変える奇跡の物語だ」とすぐに関連付けることができる人はそうそういないと思います。ふだんから聖書に親しんでいれば難しいことではないのですが、キリスト者だから聖書を生活の中で読み続ける、その実践までたどり着いていない人が多いのだと思います。
●さて、場面を少し思い描くために、該当する箇所を朗読したいと思います。ヨハネ福音書第2章1節から11節です。どなたかにお願いしてあると思いますので、依頼されている方はどうぞ朗読をお願いします。

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

●いくつか、出来事に親しみを持つために説明を加えたいと思います。婚礼の場面ですから、喜びを分かち合うためにぶどう酒は欠かせないものでした。また、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあり、いずれも二ないし三メトレテス入りのものであるとあります。これは、ユダヤ人が日常生活で清めに関して大変神経質であったことを伺わせます。
●ユダヤ人は、自分たちの宗教上の清さを何よりも大切にしていていました。たとえば市場に買い物に行くと、違う宗教を信じるユダヤ人以外の人も商売をしに来ていたりします。その人たちと交わることでも、宗教上汚れると考えていたのです。それで、市場から帰ると、彼らは全身を水で洗い、宗教上の汚れを取り除こうとしたのです。そのため、大きな水がめが必要になったのでした。
●水がめの単位についても説明を加えておきましょう。メトレテスという単位は、大きな単位で、39リットルに当たるとされています。すると、それぞれの水がめは、約80リットルから120リットルの水が入るかめであったことになります。参考として、半身浴をするためにお風呂にお湯をためる、そういう量を考えるとよいと思います。
●この奇跡物語はいろんな取り上げる場所があるわけですが、今回召し使いの人たちに注目してみたいと思います。彼らは前もってイエスの母マリアに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とお願いされていました。婚礼の客の依頼です。「快く引き受けます」と返事をしたことでしょう。
●ところが、イエスが実際に召し使いに頼んだことは、召し使いの想像をはるかに超える悩ましい依頼でした。イエスは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じたのです。ぶどう酒がなくなり、場合によってはぶどう酒を買い求めに行かなければならない場面、よりによってこの緊急事態にまったく関係ないと思われる指示を受けたのです。宴会のお酒がないのに、どうして水が必要なのでしょうか。
●イエスの命令を、召し使いたちはしぶしぶ引き受けています。決して喜んで水がめに水を満たしたのではないことが、福音記者のちょっとした表現に暗示されています。「召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」という表現です。これは、一生懸命指示に答えたという意味ではなく、当てつけ、嫌がらせのためにかめの縁まで水を満たしたのです。講師のためにコップに入れた水がここに用意されていますが、水をコップの縁まで満たすと、かえって水を飲むのが難しくなると思います。それと同じように、かめの縁まで水を満たすと、水をくむのが難しくなってしまうのです。
●イエスは召し使いたちの小さな反抗を感じ取っていたはずです。それでも構わず、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。自分たちの仕返しとしてかめの縁まで水を満たしたのに、今度はまたその水をくみ出して、宴会の世話役のところに持って行く羽目になりました。結果的に水は最上のぶどう酒に変わっていて、この窮地をイエスが救ったのはご承知の通りです。
●物語に登場する召し使いを通してわたしが言いたいのは、次のことです。イエスは、水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。味も何もない、喜びも感じられないものを、喜びを分け合うすばらしい材料に変えたのです。別の言い方もできます。イエスは、しぶしぶ協力した召し使いの働きを、皆が喜ぶ結果に変えたのです。働きに価値を見いだせず、命令だから仕方なく行った。そうした働きを、すばらしい結果に変えたのです。
●わたしはここに、水がぶどう酒に変わる奇跡のおもしろさがあると思うのです。召し使いたちは、全くの徒労になるに違いないと思った作業をイエスに命じられていました。「ぶどう酒がなくなって慌てている時に、水をくんで来いと言うか。冗談じゃない。」そう思っていたことでしょう。
●パレスチナ地方ではしばしば水の出る井戸は遠いところにあり、水くみは重労働ですから、腹いせにかめの縁まで水を満たしたのでした。さらにその水をくんで、宴会の世話役のところに持って行きます。「もうどうなっても知らないぞ」と、最悪の事態さえ想像していたことでしょう。
●悪意さえ感じられる召し使いの仕返しが、イエスによって婚礼の客を喜ばせる最上の働きに変わりました。イエスは、ただ単に物理的に水をぶどう酒に変えるだけでなく、強いられて、嫌々ながらした働きでも、人々に喜びをもたらすわざに変化させることができるのです。
●水がぶどう酒に変わるだけでしたら、イエスが魔術師と勘違いされることも起こりえます。ところが「カナでの婚礼」の奇跡の中心にあるのは、不本意ながら行った人の働きを、多くの人に喜びをもたらす結果に変えることでした。ここに、イエスの奇跡の最大のポイントがあるのではないでしょうか。
●わたしたちの日常にも、似たようなことが起こっていないでしょうか。面白くないことを頼まれた。本心では、したくない作業だけれども命令だから仕方なく行った。あるいは個人的な感情をぶつけるために、仕返しのつもりで行った。そうしたわざが思いがけず人を喜ばせ、窮地を救い、感謝されたことはないでしょうか。
●そのような偶然とも言える出来事は、少なくともわたしの思いとは違っています。わたしがしたことは、望まないことをさせた人に迷惑が掛かればよいのにと、そこまで思っていたことでした。そこから良い結果が生まれた。それはもう、わたしのおかげではあり得ません。もしこうした体験を一度でも持っているなら、あなたはすでに、聖書の奇跡物語、「カナでの婚礼」を体験していると思うのです。
●イエスの奇跡は、遠い二千年前の出来事に閉じ込めておくべきものではありません。わたしは今でも、イエスが働いてくだされば奇跡は起こると思うのです。水がぶどう酒に変わる物理的な奇跡ではなく(それを否定するわけではありませんが)、わたしがだれかに対して仕返しのつもりで行ったことが人を喜ばせたとか、悪意をもって行ったことがピンチを救ったとか、そうした場面にはイエスの奇跡が起こっているのではないでしょうか。少なくともその場面で、悪を善に変えることのできるのは人間を超えている方の働きのはずです。
●参考までに、聖書のことでお話ししたいことがあります。わたしは、聖書を読むたびにさまざまな問題の答えを見つけます。なぜわたしだけが苦しまなければならないのか。なぜわたしの仕事は評価されず、努力していないと思えるあの人の働きが評価されるのか。なぜわたしの意見は聞き入れられず、うまく立ち回る人の意見が取り上げられるのか。ゆるしがたいことを、どのように受け止めればよいのか。答えの見えない問題はさまざまあるでしょう。
●わたしはこう言いたいのです。今目の前で展開している不思議な出来事、悩ましい出来事は、聖書に目をやると答えが見つかるということです。聖書はおよそ2000年前に書かれた書物でありながら、現在まで当時のまま、忠実に受け継がれてきています。
●世界中の言葉に翻訳されていますが、どの翻訳も原文にできるだけ忠実に翻訳しています。新しい読み方で、新しい翻訳を出せば、評判は良くなるかもしれません。ところがそんな小細工は一切行わず、今に語り継がれているのです。
●なぜ聖書は原文のまま、原文に忠実に2000年間受け継がれてきたのでしょうか。それは、2000年前に真理が語られたからです。現代の諸問題をも解き明かす真理が、イエス・キリストによって語られた。だから、そのまま、一字一句曲げることなく語り継がれているのです。
●聖書に真剣に目を注ぎ、耳を傾けるなら、どうしても解決できなかった目の前の不可解な出来事に答えを見つけることができる。わたしは何度もその体験をしてきました。この信じられない出来事を説明できる人は誰だろうか。このゆるし難い出来事をゆるす力をどこに見いだせるだろうか。そう思った時に、聖書を思い出してもらえたり、イエス・キリストを思い出してもらえると嬉しいなと思います。

(4)あなたの奉仕は、だれに向かっていくのでしょうか(2068文字)

●わたしたちの日々の働きは、必ず誰かのために行われているものです。自分のためという場合を除き、必ず誰かのための働きであるはずです。そうであるなら、できる限りその人(子供たちかもしれません)のために時間と労力を使う、そのことに心を砕かないといけないと思うのです。
●ただ、「その人のために」という気持ちではいても、それも限界があるかも知れません。引き受けたけれども、自分の心に余裕がなくなってくると、引き受けたものの、苦痛になるかも知れません。
●どこかで、自分の働きに限界を感じるときには、いったん立ち止まって何かを考えてみる必要があると思います。たとえば、見方を変えて、「その人のために」という目的とは違うことをわたしの目的、心構えにしたらどうでしょうか。
●その人のために、という気持ちでは限界が来るかも知れませんが、その人の向こうにおられる方に(中田神父にとってそれは、目の前の人の向こうにおられるイエス・キリストということになりますが)奉仕するという考えに立つと、限度を乗り越えられるのではないかなと思います。
●ある人のために時間を費やす場合、その人がわたしの働きをちゃんと理解してくれるのか、どれくらい喜んでくれるかも分からないでしょう。たいていの人は働きを評価されないことを嫌いますので、反応が戻ってこない場合などは働きていること自体が耐え難いかも知れません。
●けれども、その人の中にとどまっておられるキリストに自分の働きが届くのだと考えれば、いろんな問題を乗り越えていけるのではないかと、わたし自身は考えています。
●聖書の中でイエスのたとえ話に次のようなものがあります。人々にお世話した人が、実は人々の中におられるキリストにお世話していたのだという内容のものです。マタイによる福音書第25章31節から45節です。今度はわたしが読みたいと思います。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」

●今読み上げられた物語で、目の前の人にお世話していたことが、知らず知らずに今目の前にいるその人の中におられる方、この場合はイエス・キリストに、お世話することになったのでした。反対に、お世話を拒んだ人たちというのは、その人たちの中にイエス・キリストがいることを理解しなかったので、知らないうちにイエスへのお世話を拒んだことになっていたというのです。
●もちろん、参加しておられる皆さんとわたしとでは信じているものが違う人もいらっしゃるでしょう。目の前にいるその人の中にとどまっておられる方をどのように理解するかは、おひとりおひとりでうまく当てはめていただけたらと思います。
●職場の中で、自分が向き合っている相手は、目の前のあの人この人から出発しているのだけれども、そこにばかり目が行くと向き合うことにも限度があるかも知れません。そういうときに、その人の中におられる方、その人の向こうにおられる方と向き合っている。そんな気持ちになれたら、行き詰っているときに状況を変えられるのではないでしょうか。そして、「この人のために働いている」という気持ちを、より良い状態に、より純粋に保つことにつながるのではないでしょうか。

(5)これまでの働きが手を離れていく。最後にできることは何でしょうか(3934文字)

●次に、自分がこれまで手掛けていた働きも、いつか自分の手を離れていく日が来ます。その時、ぜひ考えてもらいたい話です。わたしは、二度考えさせられる場面がありました。一つ目は、現在西海市大島町にある太田尾教会から長崎市伊王島町の馬込教会に転勤した直後のことです。
●太田尾教会出身の先輩神父様のお母様が亡くなられて、葬儀のミサにわたしも出席しましょうということで、転勤して離れて間もない教会に参列者の一人として出席したわけです。葬儀ミサはほぼ滞りなく進んでいたのですが、ある場面に差し掛かった時にトラブルが発生しました。
●太田尾教会に新しく赴任した主任神父さまは赴任してまだ間もない後輩司祭です。この場面でだれに指示を出せばピンチを脱することができるか、わたしには名前が思い浮かんでおりました。その名前をつい、口に出してしまったのです。仮に次郎さんということにしましょう。「次郎さん。これこれの道具をどこそこから出して来て。」
●ほどなく、その次郎さんが動いてくれてその場を切り抜けることができました。けれどもわたしは、直後に「しまった」と思ったのです。わたしはもはや、この教会の主任司祭ではありません。たとえだれを動かせばよいのか分かっていたとしても、わたしは現時点での主任司祭にそれを伝えて、わたしから直接人を動かしてはいけなかったのです。後で本当に後悔しました。
●何が足りなかったのでしょうか。配慮が足りなかったのは確かです。けれどもそれだけではないような気がします。わたしが手足を動かして、実際には急場をしのいだのです。けれどもそれは必ずしも良いことではありませんでした。むしろわたしは、あの場面で手を閉じて、目を閉じて、「祈る」必要があったのだと思います。
●どういうことでしょうか。みなさんの考える祈りはどのようなものか分かりませんが、わたしが思い描くのは「手を合わせている」という姿です。基本的に人間は活動するというとき、両手を使い、両手を開いて活動するものです。手がふさがっていては良い働きは何もできないというのが一般的です。
●ただし、一つだけ、手を閉じて、手を合わせた時に適切に行うことのできる活動があります。もうすでに皆さん分かっておられると思いますが、「祈り」だけは、手を閉じて、手を合わせて行う活動です。わたしはあの葬儀ミサでトラブルが発生したとき、どのようにふるまうべきか、手を合わせ、目を閉じて考えるべきだったのです。手を合わせて祈りのうちに考えることで、最善の答えを見つけることができたはずなのです。
●手を合わせて祈る。それは、一つの姿を現します。つまり、自分のためには何もしないで、神様のために活動するというものです。わたしの経験や知恵で答えを見つけ出すのではなく、手を合わせ祈ることによって神に適切な答えを示してもらうこと。手を合わせ、神のためにだけ活動することで、今何をなすべきかという問いに、神様にしか示してもらえない最高の答えを教えてもらうこと。手を合わせ、祈るときに、このような経験をさせてもらうのだと思います。
●確かに、人間の経験や勘はすぐに何をすべきかを教えてくれることがあります。わたしがこの教会での6年の経験をつぎ込めば、すぐに答えは導き出せます。けれども、それはわたしにとって満足できる答えかもしれませんが、必ずしも最善の方法ではないかもしれないのです。今おられる主任司祭に「余計なお世話かもしれないけれど、だれそれがここでは動けるよ」と言ってあげることは、もっと素晴らしい答えだったと思います。
●時に、ある仕事がわたしの手を離れていくことがあります。もしかしたら、「この仕事についてはわたしが誰よりもよく知っているし、だれよりも効率よく動かすことができる」という思いがあるかもしれません。
●それでも、もしその職務とか職場が一旦わたしの手を離れたのであれば、わたしは以前とは違う立場にあることをよくよく自覚すべきです。わたしの手を離れたのであれば、その仕事がこれまで通りにうまく回っていくことを願って、手を合わせ、目を閉じて祈ってみることをお勧めします。すると、「これから職務を引き継ぐこの人に、ぜひあたたかい声をかけてほしい。」たとえばこのような声が、心に響いてくるかも知れません。職務を任されていたこれまでのように手を出し足を出すのではなく、手を合わせ、祈ることで最高の知恵を持っておられる神が、自分がこれからなすべきことを示してくださることでしょう。
●まずは手を合わせてみること。そのことを考えさせられた体験が二度あると言ったので、もう一つの体験もついでに話しておきましょう。太田尾教会から馬込教会に転勤しまして、それから現在の浜串教会に赴任する辞令を頂いた頃の話です。カトリック教会では信徒のために年に一度「黙想会」という修養の期間を設けます。その黙想指導のために、後輩の司祭を招いておりました。黙想会の最終日、この後輩神父さんと共同でミサをささげました。
●2人の司祭で共同でミサをささげる場合、どちらかが祭壇中央に立ち、主司式を務めます。もう一方は主司式司祭の脇に立つことになります。わたしは黙想会の感謝のミサでもありますし、後輩司祭に主司式をお願いして、脇に並ぶことにしたのです。ある意味、生まれて初めて馬込教会で司式司祭を務めず、脇に並んだのです。
●すると、さまざまなことが頭をよぎりました。これまでずっと、わたしが祭壇の中央に立っていたわけですが、わたしが祭壇の中央に立たなくても、ミサは成立することを、身をもって感じました。
●わたしが中心にいなくても、この教会は成り立つ。何もわたしでなくても、この教会は神に賛美をささげる教会であり続ける。そんなことが頭をよぎり、ちょっと涙がこぼれそうになりました。そして同時に、これからは手を合わせ、馬込教会のために祈ることが、わたしのなすべきことだと感じたのです。
●馬込教会にも6年間お世話になりました。何かを成し遂げた、それなりの自負もありました。歴代の主任司祭がだれも手をつけなかった司祭館の建設に着手し、完成させました。司祭館を建設するに当たっては、わたしが責任をかぶらないといけない場面もありました。司祭館建設に必要な資金は、赴任した時点で1円もなかったのです。それで策を講じたりもしました。
●懐かしい思い出です。司祭館の現状を知ってもらうために、雨漏りの話をしました。「皆さんの家では、傘をさして暮らしているでしょうか。わたしは、司祭館の雨漏りがひどいので、傘をさして暮らしております。」するとその話を逆手にとって、あるご婦人はこう言いました。「神父さまも傘をさして暮らせば不自由で困るでしょうに。いっそのこと合羽を着れば両手が塞がらず、快適に暮らせるのに。」これには参りました。
●けれどもその話が功を奏したのか、「主任神父さまにあんなことを言わせてはいけない」「主任神父様にあんな暮らしをさせてはいけない」という機運が高まり、司祭館建設にこぎ着けることができました。本来なら、これはわたしが担う責任ではなかったはずですが、今となってはよい思い出です。
●喜びも苦労も、たくさん経験した6年間でした。けれども一旦、主任司祭の任を解かれることが決まれば、それは切り替えなければなりません。わたしが握りしめていては、新しい主任司祭に迷惑をかけることになります。開いていた手を閉じ、これからの馬込教会のために祈ること。手を合わせて祈れば、わたしを通して働いてくれた神が、次の主任司祭を通して働いてくれます。そう信じて祈ることが、わたしにできる最後の務めだと、祭壇で脇に立ってミサをささげながら思いました。
●手を広げ、あちこち足を運んで積み上げてきた今までの努力は、手を合わせ、目を閉じて祈るとき手放すことになります。人間的には寂しさもあることでしょう。けれども、それは通らなければならない道だと思います。いつまでもわたしの持ち物であるはずがありません。必ず、次の人に引き継いでもらう時がやってきます。
●その時に、わたしの開いていた手を閉じる勇気が必要です。ここでためらってはいけないと思います。手を合わせ、目を閉じて祈るとき、はるかに知恵に満ち、これから必要なことを完全にご存知でおられる方が、あとは計らってくださいます。職務を引き継ぎ、次の人にゆだねて自分は手を合わせて祈る。それは、すべてを良い方向に導いてくださる方への信頼の証しでもあるのです。
●人が変わり、職場の雰囲気がガラッと変わる。いろいろ思うこともあるかもしれませんが、その中でやってみるべきことは2つあります。1つは手を動かし、足を動かすことです。もう1つは、手を合わせ、目を閉じて祈ることです。常により良い職場環境を維持するためには、それぞれができる努力と、それぞれが知っている祈りを職場に傾注する必要があると思っています。
●職務や職場から離れても、手を合わせることはいつまでも可能です。もしかしたら、手を動かすことよりも手を合わせることのほうが大事かもしれません。なぜなら、わたしたちの手足が動かなくなっても、それでも最後にできることは祈ることだからです。
●職場の中で祈る場面を取り込めば、職員一人ひとりが自分の職務を全うするために祈る人であるなら、最上の知恵と最上のわざをお持ちの神が、働いてくださると思います。祈りの言葉はキリスト教の祈りの言葉に縛られなくても構いません。自由な祈りで結構です。何か自分を超える方に信頼して活動するその姿勢が、何より大事なのだと思います。

(6)答えを知っているのはわたしとは限らない。だから助け合おう(2358文字)

●今回のお話の結びとして、次のことを言い残したいと思います。人はさまざまな出来事を体験し、そこから何らかのことを学んでいきますが、答えを知っているのはわたしとは限らないということです。もちろん、わたしが体験したことの意味を、わたし自身が見つけ出すこともあるでしょう。けれども全く違う場合もあります。5年、10年、時には30年も40年も経ってから、その意味を分からせてもらうことだってあり得るのです。
●考えが正しかったのか、その答えを知るのに10年かかった例から始めましょう。太田尾小教区にいたとき、週に2回ミサに行っていた巡回先の教会がありました。そこには司祭が居住する司祭館も併設されていました。この司祭館で一つ気になっていることがありました。それはトイレを使用した時に流す水の量のことです。生活し始めて4年目に、会計係の信徒に相談したのです。
●わたしがトイレを使用して水を流す時、相当の量の水が流れて行きました。これは使いすぎだろうと思い、気になっていたのです。ですがなかなか話を切り出せませんでした。ある日そのことを会計係に伝えたのです。「トイレの水、流しすぎだと思うけど、調節してくれない?」
●わたしは、節約のためにそうすべきだと強く思っていました。主任司祭の頼み事です。むげに断れなかったその会計さんは、流す水の量を調整してくれたようです。ところがその10年後に、わたしの考えは間違っていたかもしれないと思うようになったのです。
●違う赴任先でも、同じことを感じ、伝えたことがありました。トイレの水を流しすぎてないかと言うと今回は、建物を維持管理している教会役員からはっきりと釘を刺されたのです。「このトイレはたくさん水を流さないといけません。たくさんの人が利用するトイレであれば構いませんが、このトイレは週に数回、神父さんが使うだけです。少しの水しか流さなかったら、トイレを清潔に保つことができなくなります。」
●その答えを聞いたとき、わたしは目の前のトイレのことではなく、10年前にトイレのことで注文つけたことを思い出していました。もしかしたら、わたしの言った言葉のために、後で大変な迷惑をかけたかもしれない。めったに使わないトイレを清潔に保つためには、むしろ大量の水が必要だったのかもしれないと。
●わたしは答えを知らなかったのです。わたしがいつでも答えを知っていると思い違いをしていて、「こうしなさい」と指示を出しましたが、間違っていた可能性があるのです。当時もっといろんな人の意見を聞いていたら、こんなに時間をかけずに自分の行動を改めることができたかもしれないのです。
●もう1つ例を挙げておきましょう。小学生の時の体験です。自然の中で思い切り遊んでいた時代です。あるとき幅の狭い川を、足を濡らすことなくジャンプして渡れるか、友達と競っていたことがありました。わたしは器用に川をジャンプできたので、みんなの注目を浴びて得意げになっていました。
●またあるとき、一人で川遊びをしていて、川底に割れたビンの欠片(かけら)があり、裸足だったわたしは深く足の裏を切ったことがありました。みるみる赤い血が流れて、自分でも怖くなりました。だれも近くにいなかったのですが、たまたま親せきの人が通りかかって、病院までわたしを運んでくれました。
●今でもその時のことを思い出すとゾッとするのです。一人で川に入って足を切った時に、出血多量で死んでいた可能性もありました。川をジャンプして渡って、渡った向こうにガラス瓶の欠片があって大怪我していた可能性もあったのです。そうした危険をくぐりぬけ、わたしが今あるのは誰のおかげだろうか?自分が用心深かったからだろうか?決してそうではありませんね。
●わたしは守られていたのです。あるときは遠くから神が見守り、あるときは身近な人を送って、守ってもらったから今があるのです。そんなことも、わたしは知らずにいたのです。だれかに守られて危険を回避していたのに、まるで自分が何者かであるかのような態度がどうしてできるでしょうか。
●自分の愚かさや、不注意を改めるきっかけとか、今感謝できる十分な理由に思い当たるとか、そうした自分を育てるチャンスがはるか昔にあったことに、わたしは30年も35年も経過してようやく気付かされたのです。
●だれかにヒントをもらったなら、もっと早くに気付いていたかもしれません。答えを知っているのはわたしとは限らないと、早くに考えを改めていたら、もっともっと成長できていたかもしれません。だからこそ、助けてもらう必要があります。だからこそ、同僚の言葉に謙虚に耳を傾ける十分な理由があります。自分の足りない部分に早く気付くことができるのであれば、年齢や経験に関係なく、どんな人に耳を傾けることもためらってはいけないと思うのです。
●職場の仲間は、互いに関わり合うことで成長していきます。皆がどこかで互いにつながることのできる枝であってほしいと思います。枝と枝とは、一見無関係のように見えるかもしれませんが、中心には一つの木があって、つながることができるのです。
●中心にある木を一つの言葉で表すこともできますが、個々人の向こうにおられるお方とだけ言っておきましょう。そのお方につながれば、一人ひとりに違いがあっても学びあえる相手だし、ゆるしあえる相手だし、苦労を分け合える相手になれます。
●今日、同じ話を聞いて、考え方を分け合った友として、また明日から同じ職場で力を発揮してください。もう一度、同じ話を話題に考えを出し合いたいときは、皆さんにお配りした資料の最後に、参考個所を示しておりますのでご利用ください。つたない話でしたが、最後まで耳を傾けてくださり、ありがとうございました。
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聖ペトロ聖パウロ使徒(マタイ16:13-19)使徒の生き方を鏡として生きよう

2014-06-29 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/06/29(No.716)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖ペトロ聖パウロ使徒
(マタイ16:13-19)
使徒の生き方を鏡として生きよう
‥‥‥†‥‥‥‥

聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日を迎えました。日曜日と、この日が重なるのは数年に1度しかなくて、わたしが司祭になってからの22年の間には今回で4回目です。

ちなみに次に回ってくるのは2025年なので、確実にこの場には立っていないと思います。両使徒の祭日にあたって、2008年の説教を参考にしながら「使徒の生き方を鏡として生きる」とまとめたいと思います。

黙想会に参加してきました。説教師は、フランシスコ会の桑田神父さまでした。近づきやすい雰囲気を持った神父さまで、共同の食事の時に近くの席に座って談笑しました。ふだんの黙想会でしたら、説教師の神父さまと雑談するなんてとんでもないことです。

小教区に戻ったので、これからゆっくり説教に耳を傾けるつもりですが、今パッと思い出せる内容を紹介しますと、黙想会を機に、わたしたちがどれほど神さまに愛されているかを考えなければならないのだと思い出させてくださいました。

考えるヒントとして、桑田神父さまはこの人生を終えて神さまの前に立たされると、2つの巻物を見ることになるというたとえを話してくれました。巻物の1つは、「自分が果たせた善い行いを綴った巻物」です。そこには、自分が全く記憶していない善行まで綴られています。

もう1つの巻物は、「犯した過ちを綴った巻物」です。善行ですら、記憶にないことが綴られていたのだから、過ちはそれはもう思い出せない過ちが数限りなく綴られているに違いないと推測できます。そして恐る恐る、犯した過ちが綴られた巻物を開いてみると、イエスの十字架上の贖いによって、巻物には何も書かれていなかったというのです。

これは、どんなに感謝しても感謝しきれないことです。わたしたちはこんなに愛されているのだと、黙想会のようなゆっくりとした時間の中で考えることは必要なことだと思いました。

ではここから両使徒について学びを得ることにしましょう。まず福音朗読から聖ペトロについて考えてみましょう。ペトロに期待されている1つの特徴は、「イエスの呼びかけに答える」「イエスの問いかけに答える」ということだと思います。今週の福音朗読では、イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(16・15)という問いかけに対して、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えています。

ほかにも、イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14・27)と話しかけた時に、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(14・28)と答えています。ペトロは、イエスに答えるという使命を受けた使徒でした。

ペトロはイエスの問いかけ、呼びかけに答えたわけですが、それはそのまま、イエスに最後までついて行ったということでもあります。ただ返事をしたということではなくて、ペトロは困難を感じた時も、イエスに信頼を寄せて、最後までついて行ったのです。そのことが、最後にはペトロの殉教につながっていきます。言い伝えによると、ペトロはローマで殉教したのですが、イエスと同じはりつけの形は自分にはもったいないことだということで、逆さにはりつけになったとされています。

そこでペトロの姿から1つの模範を学びましょう。それはイエスの呼びかけ、問いかけに、わたしたちも答えるということです。何も優秀な答えをイエスが求めているわけではありません。呼びかけに、「はい」とか「引き受けてみます」と答えることが大切です。ペトロは常に、答えは不十分かも知れないけれども、問われれば自分の言葉で返事をしたのです。1人ひとり、「わたしはイエスに問われたら答えてみます」という気持ちをペトロに倣って育てていきたいと思います。

次に、聖パウロについて、第2朗読を通して考えてみることにしましょう。第2朗読は「テモテへの手紙」ですが、選ばれている箇所からは殉教の時が近づいていることが分かります。「世を去る時が近づきました」(4・6)とあるからです。死を目前にしての手紙なのですが、落ち着いた、静かな心でその時を待っていることが伝わってきます。

人生の最期の時を、落ち着いた静かな心でいられるというのは、並大抵のことではありません。そこまでたどり着くためには、それなりの自信が必要でしょう。パウロはこれまでの歩みに自信があるので、静かな心でいられたのだと思います。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(4・7-8)。

パウロは「義の栄冠を受ける」と言っていますが、「義の栄冠」とは何なのでしょうか。殉教の後にあるものですから、それは「永遠の生命」ということになります。パウロは、なすべきことは果たしたし、「永遠の生命」が得られるので、心静かに過ごせるのです。

わたしたちは「永遠の生命が得られるので、心静かにいられる」ときっぱり言えるでしょうか。本当に、永遠の生命への希望だけで不安なく過ごせるでしょうか。わたしたちが迷いなくこの生き方を貫くには、日頃から永遠の生命が何にも代えがたい価値があると理解している、常々そう思っているのでなければパウロの心境にたどりつけないでしょう。

実生活は、さまざまなものに価値を見て、「永遠の生命」だけを見つめて生きているとは言えないと状態です。ですから、残念ながら、パウロのような心静かな状態で人生の最期を迎えるのは難しいのではないでしょうか。最後まで心残りに思うことがいろいろ浮かび、あーしておけばよかった、こうしておくべきだったと悔やむのではないでしょうか。

聖パウロの生き方は、「永遠の生命」をしっかり見据えた生き方でした。パウロから、わたしたちも同じ生き方を写し取りましょう。「わたしが持っているのは、棄てることができない教えです」ときっぱり答え、永遠の生命を見据えて生きていく。そのような信仰を目指して歩んでいきましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マタイ11:25-30)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼黙想会で、「説教師は皆さんを変えることはできません。皆さんを変えることができるのは皆さん自身です。」こう言い切る説教師に初めて会ったかもしれない。確かにその通りで、わたしたちが変わっていくためには、外からの力ではなく、中から、自分自身が納得して自分を変えなければ、変わらないのだと思う。
▼もっとも印象に残ったのは、次の問いかけである。「聖フランシスコはたえず次の問いをしていました。『主よ、あなたはどなたですか。主よ、わたしは何者でしょうか。』皆さんも同じ問いを自分に投げかけてください。」わたしの中に、生涯問い続けるテーマが植えられたと思った。「主よ、あなたはどなたですか。主よ、わたしは何者でしょうか。」
▼なんだったら、このテーマ1つで黙想会を組み立ててもよいくらいの大きな問いだと思った。この問いには、きっと一人ひとり別々の答えが見つかると思う。その答えは、どれが正解というものではなくて、その人にとっての正解が見つかればそれでよいものなのだと思う。そして一人ひとりが見つけた答えに、自分の生き方が逸れないようにすればよい。
▼わたしたちが見つけた答えは、きっと譲れないものだと思う。「主よ、あなたは○○です。主よ、わたしはあなたの○○です。」その譲れないものを生き方の中で表現していくために、黙想会というまとまった思索の時間はとても意義がある。わたしたちがたどり着いた答えをなかなか生活の中で表現できなくなってきたら、それは一旦歩みを止めて、黙想する時である。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第323回目。黙想会はいつも、感謝のミサで終了する。聖コルベ神父にそっくり?

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キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)キリストの思いを分け合う者として生きよう

2014-06-22 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/06/22(No.715)
‥‥‥†‥‥‥‥
キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
キリストの思いを分け合う者として生きよう
‥‥‥†‥‥‥‥

黙想会に行ってまいります。皆さんの平日のミサができなくなるのでご不便をおかけしますが、前にも話した通り、迫害の時代に信徒だけで260年間信仰を守り通した、長崎のキリシタンの日々を思いながら、信心業を通して信仰を維持し続けていただきたいと思います。

わたしが黙想会に行くと、ホッとする生き物がいるはずです。船隠しの沖と言いましょうか、神ノ浦の沖と言いましょうか、そこで悠然と泳いでいる真鯛は、一週間ほどは確実に生き延びることができるからです。ただし一週間だけですけど。

梅雨に入ってから、数えるのも面倒になるくらいの真鯛を釣りました。何人かは、お裾分けにあずかっているはずです。釣れたのはほとんど真鯛でした。どうしてほかの魚は釣れないのかなと思っていたのですが、先週はその原因の一端に思い当たりました。

それは、仕掛けを巻き上げる速さに原因があるのではと思っています。そこで、海底から10mは、これでもかというくらいの遅い巻き上げをしてみました。すると、今まで食いついてこなかった魚があれこれ釣れました。あの釣りは言わばパン食い競争の進化したもので、ぶら下がっているパンは一定の速さで移動しています。足の遅い魚はいつまでたってもパンに食い付けませんが、真鯛は足が速いので、毎回食いついてくるのだと思いました。他の説明があれば、あとで聞かせてください。

魚のおすそ分けにあずかった人は、食卓の一部を、わたしの釣った魚で分け合ってくれた人々です。一つの食べ物を、多くの人で分け合うということは、多くの人が、同じ一つの食べ物で、同じ喜びを味わうということになります。

食べ方はいろいろだったかもしれません。わたしは塩コショウをして、蒸し器で蒸して、ポン酢で食べました。皆が皆そうだったわけではないでしょうが、一つの食べ物が、多くの人に渡っていくと、喜びも大きくなる気がします。

今日はキリストの聖体の祭日です。イエスは、ご自分を食べ物として用意して、多くの人がその食卓にあずかれるようにしてくださいました。イエスがご自分を食べ物としてお与えになるとき、たとえば日曜日には、何億人もの人が一つの食べ物を食べ、喜びを分け合うのです。

わたしたちは、食べ物によって人間の体がある一定の方向に形作られることを知っています。肉を食べると言っても、鶏肉を中心に食べる人、豚肉を食べる人、牛肉を食べる人、それぞれが形作られていく方向は違ってくると思います。または、野菜を中心に食べる人、お米を多く食べる人、それぞれの体がある一定の方向に仕向けられていくわけです。

ではミサに参加して、聖体をいただく人々は、どのような姿に形作られていくのでしょうか。ご聖体は、小麦粉で作られたパンの小さなかけらです。ですから普通の食べ物のように、拝領したことで筋肉を作るとか繊維質を摂取するとかそういうことではありません。けれども、キリストの御体と御血は、すべての人にとって同じ一つの食べ物ですから、きっとすべての人がある一定の方向に形作られていくのではないでしょうか。それは、どのような姿でしょうか。

2つの考え方を示したいと思います。1つは、永遠の命を得、復活へと招かれていくということです。ご聖体をいただくことで、わたしたちの中には永遠の命が常に保たれ、この状態が保たれているので復活へと招かれることになります。わたしたちは時間と場所の制約の中でしか生きられませんが、その有限の体に、永遠の命が保たれるのです。それは、「キリストの体がそこにある」ということなのだと思います。

もう少し踏み込んで言うと、聖体を拝領するとは、キリストの体の一部を持つと言えるかもしれません。さまざまな人がいます。職業も、置かれている環境も、健康状態もさまざまです。こうした人が同じ一つの聖体をいただき、キリストの体の一部を持っているのです。理解できる人、どうしても理解できない人、受け入れることができる人、どうしても受け入れられない人、さまざまな人がいますが、同じキリストの聖体によって養われたキリストの体の一部なのです。

もう1つの考え方は、キリストの聖体を受けたなら、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛する」人に向かっていくのではないでしょうか。

しかしながらこの考え方は、先の考え方よりも理解するのが難しいかもしれません。「わたしはキリストのように考えているけれども、あの人はそうではない」このように考えてしまうからです。わたしと正反対に行動する人、考える人が、どうしてキリストのように考え、キリストのように行動している人だと言えるでしょうか。

正反対の考えや行動の人ですが、わたしたちは皆、イエスによってこの食卓に招かれました。そして間違いなく、この祭壇から、一つのパンをいただいています。それは、イエスが一人ひとりに、ご自分の御体と御血を分けているのと同じです。

イエスが食べ物となって、違う考えの人同士が一つの同じ喜びを味わえるようにしてくださったのです。イエスが可能にしてくださったことを、わたしのほうから「わたしとあの人とが同じ喜びを分け合うなど、そんなことができるはずがない」とどうして言えるでしょうか。

そこで今週は、お互い一つのことを思い巡らすことにしましょう。わたしたちは一つの祭壇から、同じ一つのパンを分け合っていますが、意見を出し合うと食い違うことがあります。対立することさえあります。どのようにしたら、同じ一つのパンを分け合った者同士、協力できるでしょうか。そのことを考える週にしてください。

キリストの聖体を受けて、およそ一週間聖体を拝領できないかも知れません。聖体を受けて永遠の命を与えられ、復活に招かれました。さらにキリストの思いを分け合う者同士、一致して神の国のために働くことができますように、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖ペトロ聖パウロ使徒
(マタイ16:13-19)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼黙想会はいつも喜びを神に感謝する期間となっている。わたしたちは司祭として、しばしば多くの教会で黙想会の準備をしている。黙想会に参加する人が、何かを得て帰るのをこの目で見ている。
▼その中でも、回心してもう一度教会とのかかわり方を見直す人がいることは本当に喜ばしい。これまで、何年も教会から遠ざかり、無関係に生きてきたという人が、何かのきっかけを得て、もっと神の恵みに近い場所で生活することを選ぶようになる。それを見ることができるのは司祭冥利に尽きると言ってよい。
▼ただ、その光景を見るのは司祭が小教区などの黙想会にいるときの話だ。これから司祭同士で、黙想会をすることになる。そこには、教会から何年も遠ざかり、これからはもっと恵みに近づいて歩んでいきますという姿は見られるのだろうか。
▼ちょっと、表現が適切ではないかもしれない。けれども、司祭同士で黙想会の中で自分を省みるとき、そこには回心があり、放蕩息子の例えが当てはまってもよさそうな気がする。実際に、そういう恵みが与えられる人がいるかもしれない。
▼黙想会は、さまざまな人にとって、恵みの時だ。ミサの中でキリストの聖体をいただくのが恵みの頂点だと思うが、ある意味、黙想会は違った形でキリストの聖体をいただく期間かもしれない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第322回目。7月3日、聖トマの霊名のお祝い。巡回教会からプレゼント。

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三位一体の主日(ヨハネ3:16-18)わたしたちの言葉で三位一体の神を伝える

2014-06-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/06/15(No.714)
‥‥‥†‥‥‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
わたしたちの言葉で三位一体の神を伝える
‥‥‥†‥‥‥‥

三位一体の主日を迎えました。「わたしたちの言葉で、三位一体の神を伝える」ということについて学びたいと思います。

ここ数週間小学生高学年と中学生に、主の昇天からの一連の祭日を覚えさせようと口を酸っぱくして言い続けています。一連の祭日は、「主の昇天・聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体・イエスのみ心」です。

ところが、子供たちは頭は柔らかいので覚えるのは簡単に覚えるのですが、覚えたことがなかなか定着しません。来年まで覚えているかといえば、おそらく全滅だろうと思います。覚えたことを、忘れないでもらうためには、どうしたらよいのでしょうか。

それに比べると、高齢者は一度覚えるとなかなか忘れません。新しい祈りが示されればそれを忠実に覚え、もはや祈祷書を開かなくとも、一生涯唱え続けることができます。その能力には頭が下がります。

きっと高齢者の方が復活されたイエスについての一連の祭日を覚えると、一生涯忘れないのだと思います。もしかしたら、高齢者の皆さんに先に覚えてもらって、高齢者から小学生中学生に教えてあげるほうが、子供たちは身につくのかもしれません。

小学生中学生にも、高齢者にも当てはまらない年齢層の方々がおられます。わたしもそうかもしれません。この中間の年齢層の方々の特徴は何でしょうか。特徴は、どのようにしたら記憶することができるか、見つけ出すことができる人々だということでしょう。

わたしが、頭の柔らかい時代をもはや過ぎてしまってから記憶したものが2つあります。旧約聖書・新約聖書の全巻の書名と、ニケア・コンスタンチノープル信条です。どちらも、もっと頭の柔らかい時代に覚えていたならば苦労はしなかっただろうにと思いますが、必要に迫られて、40代になってから苦労して覚え、暗唱できるようになりました。

もしも、中間の年齢層の方々が、さまざまなことを苦労の末に理解し、覚え方を見いだしてくださるなら、教会はもっと発展するのではないだろうかと思います。小学生・中学生までの頭の柔らかい世代、高齢者の世代、そして中間の世代。この3世代がそれぞれの特徴を生かして教会の教えを身につけ、切れ目なく信仰を生きてくださるなら、教会の未来は明るいと思うのですが、どうでしょうか。

福音の学びに移りましょう。朗読された部分は、ニコデモというファリサイ派の議員が夜にイエスのもとを訪ね、イエスの教えを受ける場面で語られたものです。イエスは、ご自分の父である神の、世に対する深い愛をニコデモに語って聞かせました。イエスが、父である神について語るとき、そこには必ず三位一体の神の神秘が示されていると考えるべきです。つまりイエスが父なる神について語るとき、そこには「父と子と聖霊」の三位のお姿が読み取れるのです。

けれども皆さんは不思議に思うでしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3・16)確かに御父と御子は読み取れるけれども、聖霊は読み取れない。聖霊はここでは示されていないのではないか。そう思うかもしれません。

聖霊はどこに示されているのでしょうか。それを知るために、聖霊の働きをもう一度思い起こしましょう。イエスは弟子たちのもとを去る前に、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14・26)と語られました。

御父が御子をお与えになったほどにこの世を愛しておられると教え、理解させてくださっているのは、実は聖霊の働きです。ですから、弟子たちを含めすべてのキリスト者が御父の世に対する深い愛を知ることができたのは、そこに聖霊がおられ、働いてくださるからです。ですから、御子イエスが御父について語る場面には常に聖霊が共におられ、わたしたちにイエスの言葉の意味を理解させてくださっているのです。

それでもある人は言うでしょう。「眼を皿のように見開いても、聖霊の『せ』の字も認めることができません。」わたしはその人にこう言いたいと思います。この聖書は日本語に訳された聖書です。もともとイエスは、お住まいになっておられた土地の言葉で弟子たちに語られたはずです。その言葉はアラマイ語だったと言われています。

イエスの言葉が、福音記者によってギリシャ語で書き記されました。この時点で、ギリシャ語を理解する人々にもイエスの言葉が届くようになります。しかも、一字一句間違うことなく、正確に届くのです。

正確に届くのは人間の努力でしょうか。そうではありません。確かに福音記者は最大限の努力を払ったでしょう。けれども最終的に、イエスの言葉を余すところなく伝えてくれたのは聖霊の働きだったのです。

そして時間が経過する中で、ギリシャ語の聖書はラテン語に翻訳されました。ローマ帝国がヨーロッパ全域に広まると、ラテン語の聖書も一気に広まりました。ギリシャ語からラテン語に翻訳するとき、イエスの言葉を漏れなく伝えたのは人間の細心の注意を払った上での、聖霊の働きです。その後も数限りない言語に翻訳されました。

日本語への翻訳にも聖霊が働いて、わたしたちにイエスの言葉を忠実に届けてくれたのです。わたしたちが手に取り、目にしている聖書は、御父が御子を与えるほどこの世を愛し、神の思いが聖霊によって全世界に誤りなく理解されていることの見えるしるしではないでしょうか。わたしたちが印刷された聖書を手に取り、イエスの言葉に耳を傾けるとき、そこには「父と子と聖霊」の三位一体の神がおられるのです。

わたしたちが信じる父と子と聖霊の三位一体の神を、わたしたちの言葉で人々に伝えましょう。「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と、日本語でためらうことなく十字を切りましょう。あなたが信じている神を十字架のしるしによって示す時、三位一体の神はわたしたちに働いて、見る人聞く人に神の神秘に触れさせてくださいます。恐れず三位一体の神への信仰を表明する恵みを、このミサの中で願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼二ヶ月半の内に、すっかり一本釣り漁師になってしまった。大きな魚が釣れるものだから、調子に乗って何度も釣りに出掛け、大した釣果でもないのに見せびらかすようになってきた。そろそろ趣味の自慢は卒業しようと思う。そう言いながら今回も釣り自慢だが。
▼鯛が入居している集合住宅を見つけてしまったようである。それは偶然のめぐり合わせだったのだが、手ほどきをしてくれた浜串のお父さんがあちこち教えてくれた場所ではなく、去年まで自分の実績を積んだ場所に近いポイントで、最初の真鯛がヒットした。
▼人にはさんざんA級ポイントを教えてもらいながら、この場所はちょっと人には教えたくない。大きな真鯛を釣り上げたとき、真っ先にしたことは周りを見渡したことだった。自分のいる場所をおおよそ推測できるような距離に、他船がいないか。欲深いというか、この場所を一人占めしたくて、つい周囲の様子を見まわしてしまった。
▼「鯛の集合住宅なんて、大げさだ。」皆さんそう思うかもしれない。しかし、その場所では今のところほとんど釣り上がるのは鯛なのである。「鯛だけ」とは言わないが、上がってくるほとんどが真鯛なので、「集合住宅」のほかに適当な表現を思いつかない。
▼3kgの鯛を釣り上げたときに、恐ろしくなった。経験が浅いと言えばそれまでだが、こんな魚は釣り番組でしか見たことが無かったので、いざ釣り上げると自然の脅威というか、そら恐ろしくなったのである。この広い海原にはいったいどれだけの大きな魚がいるのだろうか。
▼ぜいたくな話かもしれないが、3kgもある鯛を釣っても、わたしが全部食べることはとてもできない。そうなると、大所帯の修道院に魚は回ることになる。せっかく釣っても自分は食べないのである。そうであれば、中くらいの大きさの鯛を複数枚釣ったほうがよほど自分にはメリットがある。
▼だが大きさはこちらで選べない。弱肉強食の世界なのだろうから、強いものが先に食い付く。「強い」とはつまり「大きい」ということだ。周囲に大小さまざまの鯛がいても、魚体の大きなものが先に食いつくのは仕方がないのだろう。今回もそういうことで、3.6kgの鯛が周囲を蹴散らし、わたしの鯛ラバーにヒットした。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第321回目。初めて魚拓取ろうか重さを量ろうかと思える大きさの鯛が釣れた。

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聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまる聖霊

2014-06-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/06/08(No.713)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまる聖霊
‥‥‥†‥‥‥‥

聖霊降臨の主日を迎えました。出来事に親しみを持てるよう学びを得ることにしましょう。聖霊降臨の主日説教をまとめるテーマを「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまる聖霊」としたいと思います。

6月に入りました。月が変わった途端に梅雨に入りました。6月、長崎教区の信徒が意識してほしいことが1つあります。深刻な話ではないのですが、毎年6月に入る予定です。お分かりでしょうか。

答え合わせをしましょう。6月は、長崎教区司祭が黙想会に入る月です。それと関連して、シスターさんが賄いをしてくれている場合は、そのシスターも6月のうちに黙想会に参加することが多いです。

どういうことが起こるでしょうか。期間中は、皆さんの平日のミサができなくなります。よほどのことがない限り、司祭は戻りません。ちなみに最近の教区司祭黙想会は前半日程と後半日程に分かれています。

わたしも含め、上五島地区のほとんどの司祭が、再来週からの後半日程に参加します。どなたかお亡くなりになるとか、そういうことでもなければ、黙想会を抜け出すことはありませんので、第4週は司祭が1人もいなかった迫害の時代のように、各自で信仰を守り抜いてください。

6月は賄いをしてくださるシスターも黙想会に行ってしまいます。桐修道院から通っているうちの賄いシスターは11日から20日までの10日間黙想です。皆さんには直接影響はないですが、家庭で奥さんが10日間留守にするのと同じことが司祭館でも起こることになります。

わたしの場合、食事が問題です。毎年、女性部に食事作りでご迷惑をかけているので、今年こそは女性部の手を煩わせずに過ごそうと思っています。その代わり、頻繁に魚を釣りに行きたいのでお許しください。

さて先週、主の昇天の祭日の説教で、天に昇られたイエスは、天と地の一切の権能を持っておられるので、天のすべてをご自分の手の中に納めておられるように見守っておられると話しました。天におられるイエスは遠くに行ってしまったのではなく、むしろいつも共にいてくださると感じられる姿に移られたということでした。

そのイエスは、ご昇天の後十日目、五十日祭の日に聖霊を注いで、いつも共にいてくださることをより感じられるようにしてくださいます。第一朗読、使徒言行録によると、「霊」は「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使2・3)とあります。「一人一人の上にとどまった」とあるのが、出来事を身近に感じさせます。

弟子たちは、聖霊を受けた後にあらゆる国の人々にイエスの福音を宣べ伝えなければなりません。実際の宣教では、弟子たちが出かけて行った先で、それぞれの弟子たちにそれぞれの問題が待ち受けていることでしょう。その時に、一人一人の上にとどまってくださる聖霊が、イエスの話したみことばをことごとく理解させ、勇気を与えてくれるわけです。一人一人違った問題に直面していても、その一つ一つに聖霊が適切に助けをくださるので、弟子たちはイエスがいつも共にいてくださると強く感じたのではないでしょうか。

聖書の中で、聖霊はどのような助けを与えてくれるのでしょうか。第一朗読の使徒言行録では、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあり、話を聞いた人々は「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」(2・11)のを目撃したのです。

これは、聞く人が分かるように、神の偉大な業を語る力が与えられるということです。人は、わたしたちの信仰に興味を持った時に、「あなたの信じている教えはどんなものか」と尋ねることでしょう。けれどもわたしたちの言葉はつたなく、十分に伝えることができないかもしれません。聖霊はわたしたちを強めて、聞く人が分かるように、言葉を授けてくださるのです。

福音朗読のヨハネ福音書では、聖霊を受けると、赦しを与える力を受けるとイエスは教えます。今日の場面で「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20・19)とあります。十字架にはりつけにされているイエスを置いて逃げ出し、自分の命惜しさに隠れていたのです。彼らはイエスに何重にも過ちを重ねていたことになります。

けれどもイエスは、彼らを責めず、お赦しになりました。しかも、弟子たちがイエスの約束した聖霊によって、人を赦す権能を受けることになったのです。イエスが共にいてくださるとは、まずあなた自身が赦されているという実感を得られる体験であり、先に赦されたことを感謝して、人を赦す。赦しの恵みが周りの人に広がる体験でもあります。弟子たちは、赦されるはずのない過ちが赦され、さらに人を赦す道具として使ってくださることを知って、イエスが共にいてくださることを実感したのです。

わたしたちにも、弟子たちの体験は繰り返されます。イエスの教え・生き方を伝えるのにつたない言葉しか見つからなくても、聞く人がそれを理解してくれる。そこにイエスが約束された聖霊が働いています。とても赦してもらえないような過ちが赦されて、さらに人を赦してあげる力をいただいたと感じるなら、そこに聖霊が働いているのです。

今この時代にも、イエスが約束された聖霊は働き続けます。神の言葉を届けることや、赦された者として人を赦して、聖霊が今も働いていることを人々の前に証ししましょう。特に堅信の秘跡でいただいた聖霊の七つのたまものが、わたしたちの中で十分に働くように、このミサの中で取り次ぎを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼いつもと反対のことをするというのは、よほど意識しないと難しいものだ。野球で右バッターボックスに入って打つ選手に、左バッターボックスに入って打ってみろと言われても、体の動きをすべて反対に使うのだから、簡単なことではない。
▼わたしは週に2回ミニバレー(ソフトバレー)をしているが、アタッカーのポジションに入った時、利き腕が左なのでセッターにトスをしてもらうと左手で打つことになる。だがすべての球を左で打ちやすくトスしてもらえるわけではないので、とっさに右で打つこともある。その場合は打った球はかろうじて相手コートに入るだけで、決定力はないからほとんど拾われてしまう。
▼反対のことをしろと言われると、ほとんどのことが難しいのだから面白いとは感じないだろう。だが、わたしが体験した中で、反対の動作がおもしろいというものに出会った。鯛ラバーでの釣りである。ふだんと正反対のことを意識するのがこれほど面白いとは、体験するまで分からなかった。
▼ほとんどの釣りは、「誘いをかけ、竿先に反応(当たり)があったら、タイミング良く合わせを入れる」というのが基本中の基本である。10年ほど前に出会った人からは、「コツっとアタリがあってから合わせるのでは間に合わない。『コ』と『ツ』の間で合わせなければ魚はかからない」と言われたことがあった。それほど、タイミング良く合わせることが本来は求められる。
▼ところが、鯛ラバーでの釣りは、この原則から完全に外れている。まず誘いをかけない。普通であれば竿で仕掛けを上下して誘いをかけるのだが、この鯛ラバー釣りでは誘いはいっさいかけない。海底に仕掛けが届いたら間をおかずに一定の速度で仕掛けを巻き続ける。途中で糸を止めることすらしない。
▼次に、もっとも違和感があるのが「当たり」を感じたときである。釣り人は、当たりがあると反射的に合わせを入れようとするものである。針掛かりをさせようと本能的に動くのである。ところが、鯛ラバーの釣りでは合わせは禁物。合わせを入れることがむしろ魚をばらす(逃がす)原因になりうるのである。
▼反射的に出る反応を意識して出さないようにする。口で言うのはやさしいが実行するのは難しい。犬をペットにしている人は、犬に「待て」を教え込む難しさをよく知っているはずだ。大好きなおやつを前に、「待て」と命令して30秒、1分と待たせる。簡単でないのは飼っている人ならよく分かるだろう。嫌いなことを我慢しているのではない。大好きなことを我慢するのである。これはかなりの訓練が必要である。
▼犬と同じではないが、魚の当たりを感じて、とっさに合わせようとするのを「待て」と頭に命じる。最後まで合わせてはいけない。向こうから針掛かりするまで、一定の速度で糸を巻き続ける。「釣ろうとしない難しさ」が、かえって面白い。釣れるから面白いというよりは、この「いつもと正反対の釣りの難しさ」に、今ははまっている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第320回目。撮影できるか分からないが、親戚の結婚式を引き受けたので様子を。

ホームページもご覧ください。
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主の昇天(マタイ28:16-20)イエスはわたしたちといつも共におられる

2014-06-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/140601.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
14/06/01(No.712)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の昇天
(マタイ28:16-20)
イエスはわたしたちといつも共におられる
‥‥‥†‥‥‥‥

主の昇天の祭日を迎えました。イエスが天に昇られたことを、弟子たちを含めすべての人が喜ぶために、出来事をどのように理解するか、少し考えてみましょう。今週のまとめとして、「天に昇られたイエスはすべての人を見守ってくださる」としたいと思います。

最近釣りに行っています。これまではもったいないなぁと思われるほど、ボートも遊んでいることが多かったのですが、今年は割合よく使っていると思います。先週は浜串地区の定置網から少し沖に出たところで、50cmくらいのマゴチを釣りあげました。

おもしろい夢も見ました。ミズイカを釣り上げている夢です。わたしは浜串小教区に赴任してから一度もイカ釣りに行ったことが無いのに、なぜあんな夢を見たのでしょうか。ミズイカが逃げようとしてグイグイ引っ張っている感触もありましたし、慎重にタモ網ですくい上げる感覚もありました。不思議な夢でした。

さて、主の昇天について、2つのことを考えたいと思います。1つは、天に昇られたイエスをわたしたちはどのように思い浮かべたらよいかということです。もう1つは、天に昇られたイエスとわたしたちは、どのような関係にあるのかということです。

まず、イエスが天に昇られたことをどのように理解したらよいでしょうか。さきほどわたしが見た夢のことを話しましたが、人間は実際には実現不可能なことまで想像したり夢を見たりすることができます。その能力を最大限発揮して、ご昇天の出来事を思い巡らしてみましょう。

わたしたちの住むこの地球は、とても大きいので、ふつうであればその大きさを把握することはできません。ところが、宇宙飛行士は、地球から何万キロも離れるため、地球の大きさを実感することができます。わたしたちも宇宙飛行士が撮影した映像を見ることで、彼らが見ているものに近い地球の姿を想像することができるわけです。

人類の知恵のおかげで、わたしたちは実際には見ていなくても、青い地球を想像し、見ることができます。ただし、人間の知恵は限界もあります。遠くから眺めた場合、どこまでいっても地球は半分しか見ることができないのです。見えている反対側は、見渡せないのです。

天に昇られたイエスに思いを向けてみましょう。イエスが天に昇られたということは、天のすべてを見渡しているということになります。天とは、地球だけを指しているのではなく、神が造られたすべてのもののことです。天におられるのですから、太陽も月も星も、この地球も、すべてを見渡すことのできる姿でおられるのではないでしょうか。

わたしたちはつい、イエスが天に昇られたというとき、何かわたしたちと背格好が同じイエスを考え、そのイエスがどこか遠い場所まで昇られたことを考えがちです。もっと大胆に考えてよいのではないでしょうか。この地球も、太陽も月も星も、今は天に昇られたイエスの手の中にある。そう考えれば、わたしたち人類すべてがイエスの見守りの中にあることも理解できるのではないでしょうか。

次に、天に昇られたイエスとわたしたちは、今どのような関係にあると考えるべきでしょうか。朗読されたマタイ福音書第28章、弟子たちを派遣する場面がその理解を助けてくれます。イエスは弟子たちにこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28・20)

これまでわたしは、天に昇られたのに、いつもあなたがたと共にいると言われるその意味が今一つ掴めずにいました。けれども、イエスが天と地の一切の権能を授かっていて、天と地のすべてを見渡していると考えてみたときに、天に昇られたイエスがもっと近くに感じられたのです。

今、イエスがこの地球を包み込むように見守っておられるとすれば、それは確かに、世の終わりまで、いつも共にいてくださると言えます。「どこにイエスはおられますか」とイエスを探す必要はありません。イエスは天におられ、すべてを治めておられますから、わたしたちと共におられるのです。

イエスが共におられることをより身近に感じられるようになったとき、わたしたちの目は次の目標に向けられていきます。わたしたちは洗礼によってイエスの弟子、イエスの友とされたのですから、すべての人にわたしたちの生き方を示し、イエスに導かれて生きる道に招く必要があるのです。

わたしたちに託された使命は、イエスが共にいてくださることで実現可能になります。もし、今年主の昇天を思いめぐらしたことでイエスが共にいてくださることがより近く感じられるようになったなら、今年は託された使命を果たすまたとないチャンスかもしれません。

イエスが共にいてくださる生き方、イエスの導きに心を開いて生きる道が、あなたにとって意味と価値があるなら、わたしたちの生き方に意味と価値を見出す人も必ず現れると思います。その人に巡り合えるように、また同じ価値観を分かち合える人を教会に招くことができるように、天に昇られたイエスに、聖霊の恵みを願いましょう。

わたしたちが願い、まもなく与えていただく聖霊は、より確実に、イエスが共におられることを感じさせてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼熊本の国立ハンセン病施設「菊池恵楓園」を訪問し、盲人会の会員の方々と面会してきた。2時間ほどだったが、時間の経過も忘れていろんな話に花が咲いた。わたしたちのほうで歌のプレゼントと手作り品のプレゼントを用意していった。
▼お会いした方々はすべて70歳以上、中には90歳を過ぎている方もいた。80歳前後の人だが、とても元気で、ずっと座布団に座っておられた。わたしのほうがかえって疲れてしまい、椅子に座りたいなぁと心の中でこぼしていた。
▼盲人会の方々の1人が、歌を披露してくださった。驚くほどの声量、そして歌詞も一度も間違えることなく歌いきった。わたしたちは喜んでもらおうと様々に工夫しで訪問したのに、かえってわたしたちが心満たされて帰ることになった。
▼バス会社に依頼しての移動で、高速道路では金立(きんりゅう)と広川(ひろかわ)サービスエリアで休憩をとった。行きの広川SAで、「チャソポソ」と書かれたのぼりが立った食事処に目が釘付けになった。
▼たぶん、「チャンポン」のことだろうが、わたしの目にはどう見ても「チャソポソ」に見える。一緒にいたマリア文庫のメンバーに、「チャソポソって、どんな料理だろうか」と尋ねたら、その人は真剣に考えたようで、「聞いたことないです・・・。注文してきましょうか?」と言うので、笑いをこらえるのが大変だった。

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今週の1枚
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第319回目。浜串の岬に立てられた「希望の聖母」。写真撮るのが難しい。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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