こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神の母聖マリア(ルカ2:16-21)最期の場面に最後まで立ち会ったマリアに倣う

2017-12-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/01/01(No.922)
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神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
最期の場面に最後まで立ち会ったマリアに倣う
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新年あけましておめでとうございます。夜中のミサに参加してこのミサにも参加している方は、同じことを二度も聞かされておめでとうございます。初日の出も2回拝めたと思うので、おめでとうございます。

神の母聖マリアの守るべき大祝日から2018年を始めます。マリアは毎年わたしたちに模範を示してくれる方です。福音朗読と、福音書でマリアが登場するほかの場所にも触れながら、今年一年の大枠を見つけることにしましょう。

わたしの書棚には、たまにしか出番のない書物があります。ふだんは置いてあるだけですが、考えていることを確かめるために必要な書物です。その中の一冊が、「四福音書対観表」という本です。英語で”Synopsis”と呼ばれる種類の本です。2万円もしました。

簡単に言うと、四つの福音書を読み比べる本です。福音書に収められているイエスの言葉、たとえ話などを、マタイではどう書かれているか、マルコではどのようになっているか、ルカではどうか、ヨハネにも採用されているのかと、読み比べる本です。

たいていの人は、「そんな読み比べが何の役に立つのか」と思っているでしょう。わたしもそう思いますが、たまに読み比べてわかることがあるのです。イエスの誕生にまつわる話はマタイ福音書とルカ福音書の2福音書が書き残していますが、その中で羊飼いたちが登場するのは本日の朗読に選ばれているルカ福音書だけです。一方、占星術の学者たちが登場するのはマタイ福音書だけです。

登場人物の違いは、イエスの誕生のどこを強調したいかの違いです。ルカ福音書は、野宿して暮らすしかない羊飼いにもイエスは現れてくださったと強調していますし、マタイ福音書は諸外国にもイエスは礼拝されるお方であると強調しているわけです。両方読み比べることで、イエスの誕生の意味を重層的に読み解くことができます。

今の例でこの本の価値が分からなければ致し方ありません。先に進みます。本日の福音朗読で登場する羊飼いたちが最初に出会った尊いお方は誰でしょうか。それはイエス・キリストです。主の天使が「救い主」「主メシア」と呼ぶ尊いお方に、生まれて初めて会ったのです。

彼ら羊飼いは、羊を養いながら住まいを転々としていく人々でした。動物を飼育するという仕事は、当時は低く見られていた仕事だったでしょう。するとこの人たちが高貴な人に直接会うなどということは考えられなかったわけです。尊いお方に会うことなど想像すらしていなかった人生でしたが、思いがけずその機会を与えられました。

さらに羊飼いたちは、この素晴らしいチャンスを自分だけのものにしなかったのです。羊飼いたちは自分たちが見たことを人々に知らせました。ここでちょっと余談ですが、羊飼いたちが知らせた人々はどんな人たちだったでしょうか。

わたしの想像ですが、同じ羊飼い仲間とか、羊をやり取りする商売相手とか、飼っている間に羊にも水を飲ませるでしょうから、水汲み場で出会う女性たちだったのではないでしょうか。話を聞いた人たちも、社会では高い身分でない人々だった。こうして羊飼いたちは、社会の底辺にいる人々に、広く救い主の誕生を知らせることになったわけです。

羊飼いたちにとって、幼子イエスは自分たちが親しくさせてもらった、最初で最後の尊いお方だったかもしれません。そこから一歩踏み込んで、救い主イエス・キリストが最後に出会った人は誰だったのでしょうか。わたしは、マリアがその人だったのではないかと思っています。

先に話した「四福音書対観表」にもう一度戻りましょう。イエス・キリストの受難の場面はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネすべての福音書が取り扱っていますが、イエスの十字架のそばで母とそのそばにいた愛する弟子とのやり取りを書いているのはヨハネ福音書だけです。それは当然と言えば当然です。

この二人とのやり取り、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と語りかけたのが、イエスの十字架上での最後の場面ではないかと思っています。ですからここで語りかけた母と愛する弟子が、イエスが最後に出会った人だと思うのです。

もちろんイエスと一緒に十字架につけられた犯罪人たちともやり取りがあります。ですがわたしは、母マリア、愛する弟子とのやり取りを最後にもっていきたいです。特に母マリアこそ、神がこの世にお遣わしになった御独り子が最初に出会い、最後に出会った人だったのです。

これは注目すべき点だと思います。わたしたちが2018年の最初の日に祝っている神の母聖マリアは、御独り子の最初の場面から最後の十字架の場面まで立ち会ったお方でした。わたしたちは一年の初めに神の母聖マリアの模範を仰ごうとしています。「マリアはイエスの最後の瞬間まで、そばを離れないお方である。」これがわたしたちに示された模範ではないでしょうか。

言い換えると、イエスが最初に出会い、最後に出会った方マリアに倣うことが、一年の初めに求められているということです。わたしはお生まれになったイエスと最初に出会う人として心構えができているだろうか。十字架の上で救いのわざを完成されるイエスと最後に出会う人として心構えができているだろうか。これらが問われているのです。

すでに、「最初に出会う人としての心構え」は御降誕の夜半のミサで考えました。ここでは、「最後に出会う人としての心構え」を結びとして考えましょう。ひとことで言うなら、「最後までイエスのそばから離れない覚悟があるか」ということです。

今日は新成人の祝福式があります(でした)。新成人にも問いたいと思います。「あなたは、最後までイエスのそばを離れない覚悟がありますか。」この問いに「はい」と答える人が、真の意味で大人の信者なのです。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼わたしたちは一年の初めにどれくらい先を見越しているのだろうか。人それぞれだとは思うが、わたしは3ヶ月くらい先を見越して考えている。もっともそれは、90日後までの毎日のスケジュールを見越しているわけではない。
▼たとえば今年の復活祭は何月何日になっているか、それにすぐ返事ができるか。そういう大枠のことである。ちなみに今年の復活祭は4月1日である。そこから逆算すると、3月の第3週あたりには黙想会を組む必要がある。
▼復活祭のおよそ2週間前には、長崎教区内の人事異動が明確になる。ある人にはもっと早く情報が入るのかもしれないが、わたしのように人事に興味のない人には入って来ない。もっとさかのぼると、3月に入るとソワソワする人が出てくるという計算だ。
▼あるいは復活祭2週間後には転勤が実施される。地区の司祭の顔ぶれが変わり、どんなことに強みの出る地区なのか、顔触れを見ればおよそ見当がつく。その中で伸ばせるところ、補い合うべきところ、いろいろ考えながら月に一度知恵を絞るために集まる。
▼黙想会が3月の第3週だとすると、黙想会の説教師には3ヶ月前には依頼する必要が出てくる。12月初めだ。平戸地区は2月第3週に堅信式が組まれている。堅信を受ける子供達(おもに中学2年生)は、1月終わりか2月初めには堅信を受ける準備ができているか試験を受ける。試験問題をわたしは2学期の終わりごろに配った。
▼さまざまな案件を、およそ3ヶ月先を見ながら考える。今年は5月13日に、献堂百周年を予定している。その日まで、一つずつ解決していく課題があり、それがまた楽しみでもある。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第529回目。教会の敷地をぐるっと一周して、目に留まった植物を選んでみた。

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† 神に感謝 †
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聖家族(ルカ2:22-40)シメオンは神をたたえ、マリアに語りかけた

2017-12-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/12/31(No.921)
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聖家族
(ルカ2:22-40)
シメオンは神をたたえ、マリアに語りかけた
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聖家族の祝日を迎えました。ヨセフとマリア、幼子イエスで始まった家族のことです。わたしは、ただぼんやりとヨセフとマリアとイエスがいる姿を思い描くのではなく、幼子イエスを母マリアが腕に抱いて、ヨセフが見守る姿、このように聖家族を描いてみたいと思います。

喜んでください。来年3月に予定している黙想会の説教師が決まりました。使徒ヨハネの祝日に、使徒ヨハネの霊名の神父さまに頼み込んできました。その神父さまはあるものに目がないので、大好物をぶら下げて説教師を引き受けてくださるよう説得してきました。案外簡単に釣れました。平戸瀬戸での釣りより、よほど簡単でした。

話変わりますが、最近、聖体拝領をさせていて感じたことにちょっと触れたいと思います。聖体拝領はご存知のように直接口の中に、舌に載せて授ける方法と、手に載せてもらって自分で口に運んで拝領する方法と二通りありますが、最近は舌をしっかり出して直接聖体を拝領する人は少なくて、手に載せてもらって自分で口に運ぶ人が多いようです。

聖体拝領に来るお母さんの中に、お子さんを抱っこしておいでになるお母さんがいます。感心だなぁあと思いつつ、器用だなぁとも思います。わたしが感心するのは、口の中に、舌に載せる方法ではなくて、手に載せた聖体を自分で口に運ぶ方法を選ぶお母さんです。体重3kgか、それ以上のお子さんを抱えたまま、手を動かすわけですから、器用だなぁと思うのです。

それはわたしにとって一つの気付きでした。母親は、子供を抱いたまま、もう一つのことをこなすことができるのです。説教の結論もここで見えてきています。お母さんたちは何気ないことなのかもしれませんが、幼子を抱いたまま、もう一つのことができるというのは新しい発見でした。

今週の福音朗読で、預言者シメオンと女預言者アンナが登場します。特にシメオンに注目すると、「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った」(2・28)とあります。ここまでは待ち望んでいたメシアに会えたわけですから自然な成り行きです。

しかし続けて、「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った」(2・34)とあるのです。シメオンは幼子を腕に抱き、一方で神をたたえ、他方でマリアとヨセフを祝福したのです。

皆さんはこう言うかもしれません。「シメオンがマリアとヨセフを祝福するときには、もう幼子イエスは腕に抱いてはいないでしょう」と。わたしは違う考えを持っています。預言者シメオンがマリアとヨセフを祝福した時、もし幼子イエスもシメオンが祝福したとしたら、そこには矛盾が生じるからです。

シメオンは、はっきりと幼子イエスを「主が遣わすメシア」と理解していました。それなのにシメオンが幼子イエスを祝福するのは無理があります。ですから、この時点で預言者シメオンは幼子を腕に抱いていたに違いないと考えたのです。

もう一つ、わたしの考えと重なる部分があります。シメオンは母親のマリアにこう言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。(中略)」(2・34)

「御覧なさい」とは、どういう状況でしょうか。母親がすでにわが子を抱いている状況で、そばにいる誰かが「御覧なさい」と言うのでしょうか。むしろ、語る人が幼子を抱いていて、注意を向けるために「御覧なさい」と言うのではないでしょうか。

まとめるとこういうことです。預言者シメオンは、「主が遣わすメシア」「幼子イエス」を腕に抱いたまま、一方で神をたたえ、他方でマリアとヨセフを祝福したということです。先に母親は、わが子を腕に抱いたまま、もう一つのことを器用にこなしますと言いましたが、預言者シメオンにもそのまま当てはまるのです。

大胆に言わせてもらうなら、人は腕に幼子を抱いたまま、二つのことが可能なのだということになります。一方で神をたたえ、同時に人に語りかけたりすることができる、ということです。条件は、その人が幼子を腕に抱いているとき、ということになります。

わたしたちの生活でも、同じことは実現するのだと思います。同時に二つのことはできない。そう思っている人がほとんどだと思いますが、イエスを腕に抱いている人は、同時に二つのことが可能なのです。

ある人はこう言います。「現実の生活があるから、信仰と生活の両立はできない。」それは、本当の意味で幼子イエスを腕に抱いていないから、不可能だと思ってしまうのではないでしょうか。幼子イエスをしっかり腕に抱いている家族は、信仰生活と社会生活を、同時に、両立させるのです。どちらかを捨てなければ、どちらかを取れないというものではないのです。

マリアとヨセフに連れられて神殿に来た幼子イエスを腕に抱いた預言者シメオンに学びましょう。幼子を抱いて、同時に聖体拝領のために手を広げる母親に学びましょう。
わたしたちが同時に成し遂げるのは無理だと思っていることは何でしょうか。同時に成し遂げる確実な方法は、幼子イエスをしっかりと腕に抱いて生活すること。これが唯一の答えです。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼田平教会には敷地の一角に「案内所」がある。平戸市の観光課だったか、あるいは観光協会だかが建てたものだ。「田平教会のガイド」を通じて平戸市内の観光につながるようにサポートするのが業務だと理解している(正確ではないかもしれない)。
▼田平教会を訪ねる人は案内所に一声かける決まりになっている。事前に申し込んだり、その場で申し出たりして、案内所職員が来訪者の統計を取る。どこから来たのか、何人なのか、男女の構成比など。月ごとの統計から、一年で何人訪問したかもわかる。おおよそ6万人が田平教会を訪れる。
▼もちろん一般の来訪者もあり、お祈りに来るカトリック信者もいる。韓国からの巡礼団や、国内のカトリック以外のキリスト者もちらほら見える。中には特定の宗教団体のグループがおいでになって、志を置いていったりもする。6万人も来訪する教会に赴任するとは思ってもみなかった。
▼ほとんどは案内所の職員が丁寧に応対して教会を拝観し(あるいはお祈りし)、また帰っていく。韓国巡礼団も同じだが、たまに、主任司祭を訪ねてくる韓国巡礼団もいる。ほとんど英語でしか話さないが、たまに巡礼団に同行する司祭と、通訳を交えて話すこともあり、「チョットだけ」韓国語を披露することがある。
▼巡礼団の司祭と会話するお決まりの韓国語はこうだ。「イルボネソ・ミサガ・チョウミエヨ?」(日本で・ミサは・初めてですか?)返事は「ネー(はい)」か「アニヨ(いいえ)」となる。いずれの返事でも、韓国語が通じた証拠になる。
▼広島だったか、大分だったかで働いたことのあるある韓国人司祭がこう言った。「神父さんが韓国語をあれこれ話すよりも、韓国語で巡礼の信者さんを祝福したりしてくれたほうが喜ぶと思います。」なるほどそうかもしれないと思った。そこで、「日本でのミサは初めてですか?」と、天候の挨拶などのありきたりの内容ではないことを尋ねるようにしたわけだ。
▼勉強も毎日しないので三歩進んで二歩下がり、会話も遅々としてはかどらないが、この一年、韓国語はわたしに新しい空気を送り込んでくれた。文字は、ずいぶん読み書きできるようになったので、ここにいる間に話が聞き取れるようになれたらと思う。

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今週の1枚
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第528回目。サムゲタン。鳥は烏骨鶏だったが「黒い鳥」は食欲を削いだらしい

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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)神の独り子は制約多い「肉」を受け入れられた

2017-12-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/12/25(No.920)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
神の独り子は制約多い「肉」を受け入れられた
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主の降誕を、あらためてヨハネ福音書の朗読から学びなおします。ヨハネ福音書の冒頭は、「言が肉となった」という抽象的な言い回しですが、今年はわたしの中で学ぶところがありましたので、分かち合い、学びを持ち帰っていただきたいと思います。

神の独り子が最初に出会ったのは何でしょうか。昨晩の夜半のミサ説教が参考になるはずです。神の独り子は、最初に何と出会ったのでしょうか。それは「肉」です。食べる肉の意味ではありません。永遠のお方にとって、滅びるもの、朽ち果てるものに属する「肉」に出会われたのです。

永遠に属するお方が滅びるものに属する「肉」に出会った。どんな意味があるのでしょうか。それは、限界とか制約とか、神の子にまったくふさわしくないものを受け入れたということです。本来無限のお方である神の御子が、有限を受け入れられ、疲れることも眠ることもないお方が疲れて眠り、死ぬはずのないお方が死ぬべき定めを受け入れられたということです。

わたしたちは、ほとんど例外なく、より良いものに巡り合えばそれまでのものを手放し、より良いもので効率よく、生産性をあげて、豊かに暮らそうとするものです。

どの家にも洗濯機があり、自宅の洗濯機で間に合わないものはより大きな洗濯機を数百円で利用できる時代です。こんな時代に、あえて限界があり、制約だらけの洗濯板で服を洗濯する人がどこにいるでしょうか。

蛍光灯やLED電球が隅々までいきわたっているのに、それらに背を向けて誰がローソクの火で生活するでしょうか。暖房器具もこれだけふんだんに利用できる時代に、誰が家の中で焚火をして暖を取ったりするでしょうか。だれも、便利なもの、より優れたものを手にしたあとで、限界だらけ、制約だらけのものに手を伸ばそうとはしないのです。

ところが神は、その御独り子をこの世にお遣わしになるにあたり、限界だらけ、制約だらけの「肉」を取られたのです。いつかは死にゆく身体、翼もない、目は闇の中を見分けることもできない、社会も様々な制約だらけ。そんなこの世、そんな「肉」を受け取って救いの計画を始められたのです。

のちに宣教活動を開始されますが、だからと言って神の独り子は一度でも宣教活動に限界と制約を感じて不平不満を父なる神に述べたでしょうか。決してそういうことはなさいませんでした。

ところがわたしたちは、同じ限界と制約の中に生きて、数えきれないほどの不平不満を神に申し述べているのです。時間がない。思うような道具がない。夫が不満だ妻が不満だ。ありとあらゆることに不満を感じて生きているのです。

わたしたちはなぜ馬小屋に眠るイエスを見て考えないのでしょうか。神が救いの計画を完成させるのに、限界と制約のある「肉」を甘んじでお受けになったのに、わたしたちが並べ立てる不平不満はどれほどのものなのかと。わたしたちはもっと別のことを、幼子の前で申し述べる必要があるのです。

むしろ、こう言うべきでしょう。「おいでくださったイエスさま、わたしが自分に課せられた限界と制約を受け入れる知恵と勇気をお与えください。」限界と制約の多い「肉」を受け入れても神の救いの計画は完成するのですから、わたしたちの人生も、さまざまな限界と制約をありのまま受け入れたとき、完成するのだと思います。

本日のミサでは、一人の方が洗礼をお受けになります。一回限りの人生を、カトリックの信仰に土台を置いて完成させようと決意しておられます。限界や制約もあることでしょう。不安も少しあるかもしれません。けれども、人間の制約多いいのちを救い、完成させてくれるのはイエス・キリストですから、イエスを信じて生きる新しい生き方に生まれ変わってほしいと思います。

これから入信の秘跡に入ります。復活祭ののちには、同時に参列しておられるパートナーの方と婚姻の秘跡を結ぶ予定となっております。参列者の皆さんも、心を合わせて受洗者のためにお祈りください。

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‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:22-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近自分のことを「わたしの長男と同じ年ですね」などと比較する話を耳にする。つまり自分の母親と同じくらいの年齢のご婦人の話だ。この手のご婦人を味方につけることには大いにメリットがある。その人の長男と同じ目線で、わたしの味方をしてくれるからだ。
▼わたしもそうしたご婦人に「お母さん」と平気で言う。すると貴重な意見を引き出すことができる。明らかにわたしのほうからは「お父さん」「お母さん」と呼びかけて甘えているわけだ。相手は「お父さん」「お母さん」と言われて悪い気はしないはずだ。
▼わたしの両親よりもちょっと若い人の場合は、さすがに「お兄さん」「お姉さん」とは言わないが、うまく付き合える年齢になってきた。年齢が50歳を過ぎるというのは、一概に悪いことばかりでもない。
▼ある時期は、道路に表示されている「50(速度表示)」が腹立たしかった。「言われなくても50はわかっている」そんな気持ちにさせられていた。今は50という数字に特に反応しなくなった。傲慢と言われそうだが、50歳だという意識はあまりない。
▼50代になると、案外見た目や内面の年齢は努力によって衰えを防ぐことができるもののようだ。今でもナイターソフトでは「あいつは足が速いから要注意ね」と必ずマークされている。50歳にはとても見えない足の速さだということだ。非常に気持ちがいい。
▼一方で、変えられない現実もある。新幹線の予約をネットで押さえたとき、50歳以上の割引があって、早割よりも安いことに気づいた。腹立たしかったが、50歳以上の「おとなび割り」の料金でチケットを押さえた。そういうことにはあっさり従うのである。

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今週の1枚
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第527回目。韓国の聖具ショップで見つけた聖家族セット。韓服を着ている。

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† 神に感謝 †
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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)幼子イエスが最初に見たのはマリアとヨセフ

2017-12-25 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/12/24(No.919)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
幼子イエスが最初に見たのはマリアとヨセフ
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主の降誕おめでとうございます。誕生の喜びはどんな人、どんな時代、どんな状況でも喜ばしいものですが、イエス・キリストの誕生はすべてに勝る喜びです。この夜半のミサでは、誕生の瞬間、幼子イエスが目にしたものを想像しながら喜びを分かち合うことにしましょう。

イエス・キリストが誕生した時、最初に出会った人々は誰だったでしょうか。まだはっきり見えていない中で、ぼんやりとその目に映ったのは、当然の答えなのですが、マリアとヨセフでした。この基本的な出来事から出発したいと思います。

イエス・キリストが最初に出会った人、最初に目にした人は、マリアとヨセフでした。聖書の読み返しをすると、マリアもヨセフも、イエス・キリストの誕生という神秘的な出来事に至るまでに、出来事を受け入れようと悩み、もしかしたら苦しみ、それでも個人的な考えを横において、すべてをお任せするまでの大変な心の道のりを経てきました。

悩みながら戸惑いながらも、マリアもヨセフも、これから成長していくイエス・キリストに全面的に協力する心の広さを持ち合わせていました。特にマリアは、のちにイエス・キリストの地上での最後の場面、十字架の出来事までそばにいて、苦しみを共に受け止めてくださったのです。

およそ二千年前は、イエス・キリストが最初に出会った人々はマリアとヨセフでした。では今年のクリスマスにイエス・キリストが最初に出会うのはいったい誰なのでしょう。ナカダコウジという一個人でしょうか。それとも誰か別の一個人でしょうか。

わたしは違う考えを持っています。今年も、イエス・キリストが最初に出会うのはマリアとヨセフであるはずです。マリアとヨセフに出会わなければならないのです。ではどこに、マリアはおられるのでしょうか。ヨセフはどこにおられるのでしょうか。

今年は、現代のわたしたちが、マリアとヨセフとして、クリスマスにおいでになるイエス・キリストをお迎えする必要があると思っています。マリアと同じ心構えで、ヨセフと同じ心構えで、イエス・キリストを受け止めるとき、今年のクリスマス、今年のイエス・キリストの誕生が完成するのではないでしょうか。

ではマリアと同じ心構えとは何でしょうか。マリアは、悩みと戸惑いの中で、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1・38)と答え、神の計画が前に進むためなら、喜んで身をささげますと答えました。わたしたちが、「神さまの計画が前に進むためなら、喜んでお手伝いします」そんな思いで幼子の前にひざまずくなら、わたしたちはマリアと同じ心で幼子イエスの前にいるのです。

ヨセフと同じ心構えとはどのようなものでしょうか。ヨセフは婚約期間からすでに思い悩んでいました。婚約を解消しようとさえ思っていました。大きな悩みを抱えつつも、それでもイエスが生まれた時はマリアと幼子を守り抜きます。そんな思いだったでしょう。男性の皆さんが、神の計画に協力する中で困難は予想されるけれども、わたしに託されたものを守り抜きます。そんな思いで幼子とマリアの前に立つならば、ヨセフと同じ心でここにいるのです。

イエスが幼子としてこの世界においでになった時、最初に出会う人はマリアとヨセフでなければならないのです。救い主の誕生の前に、謙虚に身をかがめる人々でなければならないのです。「わたしがいるからこの会は成り立っているのよ」とばかりに自分が中心になって取り巻きを作り、なびかない人は退けるような身の毛のよだつような人はイエスの前に立つことは許されないのです。

いつか、羊飼いがイエスの前に立つでしょう。いつか、占星術の学者たちがイエスの前にひざまずくでしょう。けれども権力にしがみつく人、人を人とも思わない人がイエスの前に立つのはずっと先のことなのです。わたしたちが今日、イエスに近づこうとするなら、マリアの心、ヨセフの心でなければなりません。

今日お生まれになったイエスは、初めて目にする人としてあなたを受け入れてくださるでしょうか。イエスの目に、わたしはどのように映っているでしょうか。幼子イエスの前にひざまずいて、自分の心に問いかけることにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼仕事が山積みで、ホームページの更新がままならない。17日のデータ更新を21日の夜にした。こんなことでは楽しみにしている皆さんの足を引っ張ることになる。本当に影武者か、クローンがいたらと思うくらいだ。
▼ただ、仕事は思い通りにいっている。こんなに仕事が進んだ赴任地もないだろう。経験と、主任司祭についてきてくれる人の力がかみ合って、結果を伴うのが楽しいとさえ感じる。ここまで日々を楽しめる時代はそうはないだろう。
▼もちろん、腹立たしいことはある。だがそんなことは、どこに行っても、どこにいてもある。だから気にしない。前に進む喜びがあるので、その他の痛みは通過すれば終わる話だ。今前進する力は2018年5月13日の献堂百周年。聖堂内に垂れ幕が用意される。わたしたちの決意の表れだ。
▼ところで、田平教会の敷地に隣接する土地について、主任司祭には活用するアイディアがある。まだ決定ではないが、わたしが赴任している期間内に、動き出すつもりでいる。十字架の道行きのコースを作れたらと思っている。
▼それとの関連だが、賄さんのTさんと、話を増幅させて夢を語った。「祈りの公園の構想があって、完成したらそこで十字架の道行きをしたいと思っている」「そうですか。それは楽しみです」「実物を使って、十字架の道行きをすることで、『こけら落とし』といこうかな」
▼これには困惑の様子だったが、構わず続ける。「イエス役がいて、裁判を受けて鞭打たれて、十字架担いでいって、丘の上で磔になる」「え!!イエスさまは主任神父さまでしょうけど、鞭打ったり、代わりに十字架を担いだり、ベロニカが布を差し出したり、一緒に十字架に磔にされる人だったり、いろいろ必要ですよ」
▼「大丈夫。だいたいの配役は決まっている。まずベロニカは賄さんだ」「あははは!」「イエスを鞭打つのはMさんだ」「なるほど」「右と左に磔にされるのは・・・」「磔にされるのは?」「その人は・・・」「その人は?」
▼「左はKで決まりだろう」「では回心する右の罪人は?」「それが問題よ。Tはどうだ?」「いいんじゃないですか~」あくまで適当にイニシャルを作ったので、実在する人を探さないように。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第526回目。今年の教会イルミネーションは子供たちがよく手伝ってくれた。

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待降節第4主日(ルカ1:26-38)神からの言葉はすべて不可能ではない

2017-12-24 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/12/24(No.918)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
神からの言葉はすべて不可能ではない
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第4主日です。今年はこの日が12月24日になっています。いちばん遅くやってくる待降節第4主日です。「救い主の誕生」はもう目の前です。ゆっくり構えてはいられない。そのつもりで福音朗読の学びを得ることにしましょう。

親子韓国旅行のきっかけはわたしの銀祝を田平教会で祝っていただいた時のお祝い金でした。5月にソウルの明洞に行った時、日本と気候は変わらないなと思ったので、季節も考えずに12月に予定を立てました。

旅行代理店に相談に行ってみると、「ソウルは寒いですよ~。福岡より寒いです。寒さ対策をして出かけてくださいね」と言われました。店員にそう言われて、そのまま母親には伝えられませんでした。

旅行代理店の予約と支払いを済ませた直後でした。夜10時に実家から電話がかかりまして、「やっぱり韓国には行けない。韓国は寒いに違いない」と言ってきたのです。わたしが言わなくとも、衛星放送で世界の天気が紹介されれば、いやでも天気は目に入るわけです。

わたしは慌てまして、「いやいや。日本と気候は変わらないんだよ」と思いとどまらせようとしました。結果的に、韓国に行くまで不安は解消させることができなかったのですが、旅行を終えた後は「とても楽しかった。ありがとう」と言ってもらえました。わたしの言葉を信じてよく同意してくれたなぁと感謝しています。

さまざまな体験を積みました。言葉の違う生活、本場のキムチ、アワビのお粥、ビビンバ、烏骨鶏を丸ごと入れたサムゲタン。ほかにもミュージカル「ナンタ」の観劇、韓国王朝ドラマの舞台景福宮(キョンボックン)巡り、韓国のタクシー、地下鉄、王宮衣装の着せ替え体験、明洞大聖堂でのミサ、最後は韓国式エステも体験してきました。肌がつるつるになって、出国審査の時に「パスポートの人物と別人になっている。取調室に来なさい」と連れていかれました。最後はウソです。

まぁとにかく、言葉を信じて、言葉にこの先を委ねて、抱いている不安を横に置いてついてきてくれたので、今回の親子旅行は実りあるものとなりました。言葉だけしか判断材料がない。写真もない、映像もない、そんな中で決心してくれたことに心から感謝しています。

福音朗読の「イエスの誕生の予告」の場面に移りましょう。天使ガブリエルは、ナザレにいるヨセフのいいなずけのマリアのところに遣わされました。天使ガブリエルも、神からの言葉だけを携えてマリアと向き合うことになります。天使の言葉にマリアは戸惑い、考え込むのです。

それでもマリアは、神の言葉を信じて、神の言葉にこの先を委ねて協力することにしたのです。何より、人間の言葉ではなく、神の言葉であるがゆえに、すべてを委ねることができたのだと思います。

しかしあくまでもこだわる人は疑問を持つでしょう。「天使ガブリエルの言葉は、突き詰めると天使ガブリエルの言葉ではないのか」と。実際天使ガブリエルも「これこれの言葉を、神から託されましたのでお伝えしました」とは言っていません。

わたしも、少し調べたほうが良いと思い、一か所調べ直してみました。37節の「神にできないことは何一つない」についてです。日本語訳だけだと、それこそ天使ガブリエルの言葉であって、神の言葉ではない印象を受けます。

こういう場合は、できるだけ元の言葉に近い理解を確かめることが大切です。わたしは残念ながらギリシア語はさっぱりですが、元の言葉により忠実に置き換えると「神からの言葉はすべて不可能ではない」となると解説書にありました。

この説明だと、「神からの言葉」であることをより実感できます。マリアは神からの言葉の前に、人間の戸惑いなど何の意味があるだろうかと思い直し、ありのまま受け止めようとしたのです。マリアの返事も印象的です。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1・38)神からの言葉に、身をかがめようとしているのです。

ここで見落とせないのは、この場面、マリアが出来事の中心なのではなく、神の言葉が出来事の中心にあるということです。マリアが出来事の中心にいたなら、戸惑い考え込む彼女から神の招きに答える力は生まれなかったでしょう。神からの言葉が出来事の中心にあると理解できたので、「わたしでよければ」という協力が可能になったのです。

わたしたちが持ち帰る学びが見えてきます。中心に神からの言葉があるとき、言葉は出来事となって実現し、救いの計画が前に進みます。人間が出来事の中心にあるとき、神からの言葉は望みのままに働くことができず、出来事は実現しないのです。

わたしたちが、日ごろ思い通りにいかないとつぶやくことがあるなら、あらためて考えてみましょう。出来事の中心にわたしがいて、わたしの思いが実現しない、通じないと、つぶやいているのではないでしょうか。マリアは、神からの言葉が出来事の中心であれば、出来事は受け入れることができると教えているのです。

神からの言葉に中心を譲らなければ、いつまでたっても事態は変わらないでしょう。むしろ、マリアに倣って「神からの言葉はすべて不可能ではない」この体験を積み重ねましょう。

マリアと同じ立ち位置で出来事を見直すとき、世界は神の計画の中で着実に進んでいることが分かるでしょう。その時わたしの口にのぼるのは、つぶやきではなく賛美、不平不満ではなく感謝の言葉となるはずです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼巡回教会もない小教区で早1年半が過ぎた。振り返ると巡回教会がないのだからゆったり時間が過ぎるのかと思ったが、忙しい忙しい。何かかにか思い付いて、その実現のために走ってきた。仕事があるのは幸せとは言え、たまに海の上でぼーっとしたいものだ。
▼船には足が遠のいているが、今年は都合3回旅行ができた。イスラエルを学ぶ巡礼、韓国視察、韓国親子旅行。その間ありがたいことに緊急事態も発生せず、いったんいろんなことを横に置くことができた。田平教会の皆さんに感謝である。
▼年末年始にかけて、2018年をスムーズに迎える準備が必要になる。メルマガの型紙も一年分(せめて半年分)用意したいし、小教区報、マリア文庫、2月までの詩編を使った聖書愛読のための週ごとの解説、早めにと思うなら息つく暇もないほどだ。
▼新しい夢も出てきた。教会に隣接する土地を、教会のために使ってほしいと寄進してくれそうな流れになっている。そこが教会の土地になるなら、祈りの公園を設置したい。十字架の道行きの各留(station)を設置して、公園を歩きながら祈れたら素晴らしい。
▼たぶんそのためには、もはや個人的な趣味は断念せざるを得ないかもしれない。資金も必要だろうし、時間も投入しなければなるまい。わたしのいるうちに、と考えればいつまでも時間があるわけでもない。年が明けたら少し考えを整理したい。
▼黙想会の説教師のことが12月からちらちら頭に浮かんでは消えている。「この人に」という思いはあるのだが、果たして引き受けてくれるだろうか。とても二つ返事で引き受けてくれそうには見えない。こういう時は菓子折りか。その司祭がいちばん喜ぶものをわたしは知っている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第525回目。母親はやはりわが子の写真を撮るらしい。明洞聖堂の敷地内のルルド。

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待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19-28)証しをする使命を渋々でも引き受けよう

2017-12-16 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/12/17(No.917)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日
(ヨハネ1:6-8,19-28)
証しをする使命を渋々でも引き受けよう
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第3主日はヨハネの証しについてです。今回の説教を準備しながら、よく考えてみれば「証し」とはそういう意味なのだなと再認識しました。学びを皆さんと分かち合いたいと思います。

ひょっとしたら、この説教は二回目になっているかもしれません。もしかしたら今回が一回目で、二回目は後日かもしれません。あるいはその反対で、すでに一回「証し」ということで同じ話をしているかもしれません。もし今日が二回目であるなら、皆さんは説教の結論まで理解していることになります。

今週の福音朗読個所についていつも読んでいる解説書を読みながら、よく考えれば確かにそうだなと思ったのが「証し」についての考え方です。次のような説明が目に留まりました。

(中略)イエスが行った御父についての「証し」は福音として全世界に告げ知らされますが、その場合、イエス自身が拒絶されたように、宣教者も迫害にさらされることになります。そこで「証し」という言葉<マルテュリオン>は殉教を意味する言葉になってゆきます。

わたしたちがイエスについて証しするということは、最終的には命がかかっている、ということです。「あなたはわたしについて証しすることで、命を削ることになるかもしれない。もっと言うと、今この場でこの世の命を取り上げられることになるかもしれない。それでもわたしについて人々の前で証を立ててくれるか?」

ある人はこの問いから逃げ出してしまいます。「無理です。命までは懸けることはできません。」ある人はこれを受け入れます。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22・33)ある人は知らないうちに命を賭けてイエスを証しするのです。

三つの態度を示しましたが、良い悪いは別として、「逃げ出す」というのと「勇敢に証しする」というのは分かります。どちらも人間らしい姿だからです。しかしなぜある人々は、「知らないうちに命を懸けてイエスを証しする」ことになるのでしょうか。

わたしは、逃げ出すのと勇敢な証しと、どちらにも当てはまらない場面もあると思っています。イエスがカルワリオで十字架を担った時、あまりの重さに何度もお倒れになりました。その時、シモンという人に無理に十字架を担がせたという話があります(マタイ27章参照)。このキレネ人シモンは、逃げ出したわけでもなく、勇敢に身代わりになったのでもありませんが、イエスの十字架を刑場まで担ったのです。

シモンは、たまたま押し付けられて十字架を担ったかもしれません。けれども彼は、目に見える形でイエスの仲間であると証しした最初の人になったのです。強いられて十字架を担ったとは言え、担った十字架の意味と価値は変わらないわけです。

同じように、わたしたちの中には逃げ出しはしませんが完全な動機からではないわざがたくさんあると思います。病気をしたくて病気になったわけではないけれども、病気をイエス様の十字架に合わせて仕方なくささげた。道に迷って困っている人を、逃げるわけでもなく喜んで案内したのでもなく、通りがかったので仕方ないなぁと思いながら道案内してあげた。これくらいの話はいろいろあると思います。

喜んでした隣人愛であれば、誰かに話して喜び合うかもしれません。しかし仕方なくした隣人愛は、誰にも話すことなく、そのうち忘れてしまうかもしれません。本人が忘れる程度の奉仕ですが、神はそのわざを決して忘れず、あとで報いてくださるのではないでしょうか。

すると、しかたなく、命がけで苦しみをおささげするということもあり得る。そう考えます。「ほかの人はともかく、自分は命を削ってまでカトリック信者であることを証しすることはしない。」そう思っているかもしれません。ですが実際は、思いがけず救急車で病院に運び込まれ、もうこれ以上命を削れないというところまで仕方なく命を削って、苦しみをささげる。そういう人も案外いるのではないでしょうか。

命を削って、苦しみをイエス・キリストにささげる。逃げることもできず、さりとて英雄的な勇気を発揮してでもなく、仕方なくささげる。それでもその人がささげた証の意味と価値は、減らないのだと思います。イエスはその人のささげた苦しみを、尊いささげものとして受け入れてくださるはずです。

実はわたしも、この説教を10日前に書き上げました。13日(水)から15日(金)まで、親孝行旅行に行っていたからです。その前後も、教区広報委員会、マリア文庫、保育園のクリスマス会出席、母親の佐世保港までの見送りと、ほとんど時間がありませんでした。仕方なく、半ばいやいやながら、先々週に説教2週間分、詩編の解説2週間分、その他の仕事も2週間分こなして、出かけて行ったのです。

先々週準備したからと言って、この説教の意味と価値は下がらないと思います。皆さんは何事もなく説教を聞くことができたのですから、わたしが「あー、いやだなぁ」と思いながら準備したとしても、それでも証しはできたのです。多くの場合の証しは、このようにして成り立っているのではないでしょうか。

わたしたちは例外なく、証しする者として招かれています。洗礼を受けたとき、証しする預言者とされたのです。もちろんだれもが洗礼者ヨハネのように「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5・35)ではないでしょう。仕方なく、渋々証しする人もいるでしょう。

それでも構いません。「光について証しをする」(1・8)洗礼者ヨハネの使命はわたしたちにもあります。最後はいのちを懸けた証し「殉教」すら、場合によっては自分に託されます。少なくとも、「知らず知らずのうちにささげるなら、わたしも手伝います。」これくらいの覚悟は持ちましょう。今週の決意として、パンとぶどう酒、献金の奉納と共にその決意をおささげしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼このメルマガが発行される頃には旅行からの帰りか。ブログなどの兼ね合いもあるので詳しくは言えないが、母親の希望にできるだけ沿った旅行日程を組んだ。だが返す返すも、12月に旅行したのは失敗だったと悔やんでいる。
▼平戸市田平町でさえ、日中の気温が7度、旅行先はおおよそ10度低いのだから、想像したくなくなるというものだ。最悪外回りはやめて、建物の中での見物と体験に切り替える場合も起こりうる。風邪ひいたり、しもやけになったり、高齢者となった母親だから心配はきりがない。
▼おそらく珍道中になるのだろう。わたしが旅行を組むと、必ず何かが起こって予定の変更が起こる。まぁ旅はそういうものなのだろうが、旅行はもう懲り懲りということにならないでほしいと願うばかりだ。
▼旅行ガイドを何度も読み返している。同じことをするにしても時間が経過すれば前回と同じというわけにはいかない。ハプニングも楽しみながら、母親のガイドを務めることにする。子供を旅行に連れて行くとき、親はいろんなことを想定したり準備したりするのだろうなぁ。
▼最後の荷造りに、タブレットを入れることにした。写真整理と、ブログ・Facebookの更新のためだ。日中は旅先の日程を優先して更新は難しいと思うが、夕食後にはぜひ何かしらの更新をしたいと思っている。果たして現地気温マイナスの雰囲気が伝わるだろうか。

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今週の1枚
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第524回目。あとになるかもしれないが、旅行を振り返る写真を。

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待降節第2主日(マルコ1:1-8)主に向き直る道が唯一の道

2017-12-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/12/10(No.916)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
主に向き直る道が唯一の道
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第2主日と第3主日は洗礼者ヨハネを登場させる朗読が取り上げられています。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者の声」です。声に耳を傾け、声の促すほうに向きを変えるよう努めましょう。

平戸地区ではあまり見かけませんが、かつての太田尾小教区時代や前任地の上五島地区、古くは福岡での大神学生時代に、街頭に出てクリスマス募金の呼びかけをしていました。商店街に出かけたり、大都会の目抜き通りだったり、いろんなところでクリスマス募金の呼びかけをしました。

当時は「荒れ野に叫ぶ者の声」を文字通りに考え、反応がなくても、とにかく声を限りに叫んだことに意味があるのだと思っていました。街頭募金のたびに声がつぶれて、次の日の朝ミサは「ガラガラ声」でのミサでした。

しかし今年は、当時の振り返りも少し違った意味を持っています。当時は振り向かなくても声を出すことで務めは果たせたと思っていましたが、「荒れ野に叫ぶ者の声」は、もっと大切な使命を帯びていたわけですから、当時の考え方は少し足りなかったなぁと思っています。

洗礼者ヨハネは預言者イザヤの言葉を用いて言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(1・23)荒れ野に叫び声が響くだけでは働きは十分ではなくて、叫び声を聞いた人が主に向き直るように働く必要があります。わたしが参加していた「街頭募金」が、街を歩く人々の心に「向き直らないといけないなぁ」と思わせてこそ、働きは完成するわけです。

教会の中で行われる礼拝において、司祭の説教は「荒れ野で叫ぶ者の声」にならなければならないと、常々思っています。ひびきの良いことだけ話したのでは使命を果たせていないし、「ご無理ごもっとも」といちおう聞いてはくれても主に向き直らなければ、これまた使命を果たせません。何とかして、持ち帰ってもらって、生活を主に向き直らせる。その思いだけが毎週の説教を準備させる原動力です。

「荒れ野に叫ぶ者の声」は、洗礼者ヨハネに限ったことでしょうか。洗礼者ヨハネのように、人々の前で語る人だけが、「荒れ野に叫ぶ者の声」なのでしょうか。わたしはもっと、「荒れ野に叫ぶ者の声」を聞いた人は、人々の中に入って、「声」となる使命があるのではないかと思います。

「声」を聞いて、「声」に動かされた人が、誰かに対して「声」となる。そうして、「荒れ野に叫ぶ者の声」は広がり、遠くへ届いていくのです。わたしたちは誰もが、ミサの中でイエスの声を聞いて、その声を人々に届けるための「荒れ野に叫ぶ者の声」になる必要があります。

「声」となるといっても、叫んだりわめいたりする必要はありません。「主に向き直る」その助けをしてあげるなら、十分「声」の働きを果たしています。わたしたちが持ち帰った「声」にだれもが反応してくれるわけではありませんが、少しずつ、わたしたちの声が人々の中で聞き取れるくらいの声になり、はっきり聞こえる声になっていくよう努力したいものです。

一つ原理原則を持っていれば助けになります。それは、「ぶれない」ということ、主に向き直る「声」を曲げないということです。この場面では主に向き直るための「声」の働きをしているが、ある場面では呼びかける人に遠慮して主に向き直る「声」を潜める。それでは「声」として弱いのだと思います。

出来事をどのように受け止め、理解するのか。わたしはこう考えるという姿勢を「声」としてあらわすためには、わたしは一歩近づいて、「声」にならなければならないと思っています。しかし、人より一歩近づいて考えを述べるのは並大抵のことではありません。

それは場合によっては火中の栗を拾うといった勇気が必要です。虎の子を得るために、虎の穴にさらに一歩近づく勇気が必要です。「わたしはカトリック信者だから、いのちをそのはじまりから守ります。」学校の先生も踏み込んで言えないことを、カトリック信者であるわたしたちは信じていることとして「声」で表明する必要があります。

いのちの終わりについても一歩踏み込んで意見を表明する場合があります。新しく始まった裁判員裁判という制度があります。裁判員裁判の多くは重大事件であり、死刑を言い渡すような裁判のケースもあります。しかしカトリック司祭は、人に死刑を言い渡す裁判員の任務に就くことは認められていません。

もちろん社会的には、国が求める任務を拒否することになります。それでもカトリック司祭は人に死刑を言い渡すことは許されないので、一歩踏み込んで、「引き受けることはできない。辞退する」と表明するわけです。場合によっては国の制度に反対してでも、「声」を届けなければなりません。

いのちの始まりについて、いのちを刑罰によって終わらせることについて、人間には権利がないので、「荒れ野で叫ぶ声」になって、主の道である「いのちの始まりと終わりは、神の手の中にある」と、向き直らせる。これはカトリック教会に委ねられた大切な使命だと思います。

わたしたちはこの待降節中特に「主に向き直る」という回心が求められています。ぶれないで「主に向き直る道が唯一の道」ただこの一つの声を、持ち帰って社会に響かせましょう。わたしたちは「声」にすぎませんが、わたしたちの響かせるただ一つの声を、まもなくおいでになる主は「声の持ち主」として具体的に実現させてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ヨハネ1:6-8,19-28)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼人生一寸先は闇。「闇」を使わずに同じたとえがあればと思うがわたしは知らない。95歳のおじいちゃんの葬式は感覚的に分かる。だが二日後に行われた50歳のお父さんの葬式は理解に苦しむ。わたしよりも年下の人が、なぜ送られていかなければならないのか。
▼12月3日にその電話は入った。Yさんの病者の塗油に来てほしい。出向いてみると、心筋梗塞だったようですでに心臓は止まって、お身体を拭いてあげる段階だった。病院側に説明し、少し時間をもらって病者の塗油を授ける。まだ温かい。
▼家族は先生の説明を聞いている。とても声をかける状況ではなく、その場を離れた。教会のために今後どんな働きをしてくれるだろうかと楽しみだっただけに、残念である。わたしは通夜で、「わたしに面と向かって物言う数少ない人でした。もう一度起き上がって、あれこれ忠告してほしいです」と言った。これがわたしからの弔辞のようなものだ。
▼子供さんはまっすぐに育ったいい子たちだ。この子供たちの成長を近くで見ることができないのだ。わたしは亡くなったお父さんとほぼ同じ歳だから、できるだけ見守って声をかけてあげたい。可能なら、今後の夢をかなえるために力を貸してあげたい。
▼じつはその三日前に、一人のおじいちゃんの病者の塗油を授けている。今必死に一寸先を生き続けている。授けてなかった人が先に旅立った。わたしもまた、一寸先はわからないのだと肝に銘じたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第523回目。旅行先で、予約しておいたイベントに参加する。もういくつ寝ると。

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待降節第1主日(マルコ13:33-37)いつであっても、いくつになってもキリスト者

2017-12-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/12/3(No.915)
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待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
いつであっても、いくつになってもキリスト者
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主の降誕を迎える準備の季節、待降節がやって来ました。教会の暦「典礼暦」もB年に移行します。季節の切り替わり、暦の切り替わりに、第一に考えておくべきことを福音朗読から学ぶことにしましょう。

亡くなった川添神父様のことでもう一つ忘れられない思い出があります。わたしが浦上教会で五年川添神父様にお仕えした同じタイミングで、川添神父様も天草への転任を引き受けて行かれました。その後二度ほど直接訪ねて行きましたが、以後は年賀状のやり取りをするくらいで、それほど連絡を取り合ってはいませんでした。

川添神父様の年賀状は毎年俳句が書かれていて、いつも楽しみにしていました。ある年にいただいた年賀状は忘れられない年賀状となりました。その年は珍しく俳句は書かれていませんでしたが、次のような言葉が墨で書かれていました。「どこに行っても神父、どこにいても神父。」

とても考えさせられる言葉でした。ひょっとすると若い神父たちは、月曜日に休暇を取るときは神父を捨て去って外出しているかもしれません。わたしもご多分に漏れず、月曜日はテニスに釣りにと、神父であることなどみじんも感じさせない過ごし方でした。

その年賀状をいただいて、それまでの自分の時間の過ごし方を考え直したのです。もちろん月曜日に休暇を取ることは、土日にもっとも働く仕事なのですから誰もが理解してくれます。けれども川添神父様が年賀状で戒めてくれたように、「どこに行っても神父、どこにいても神父」であることを忘れてはいけないと思ったのです。どんなに夢中になっているときでも、信徒にお願いされたら自分の都合を横に置ける司祭であれよと、言っておられたのだと思います。

その川添神父様の戒めを、今週の福音朗読と照らし合わせて考えてみました。「気をつけて、目を覚ましていなさい。」(13・33)「いつ家の主人が帰って来るのか、(中略)あなたがたには分からないからである。」(13・35)亡くなった神父様の戒めに当てはめると、さしずめ「いつであっても神父、いくつになっても神父」というところでしょうか。

実際には、新米神父の時から徹底的に教え込まれていたことでした。浦上教会のすぐそばには長崎市内で一二を争う大きな病院である「長崎大学病院」があって、助任司祭たちは夜中だろうが何だろうが電話が鳴れば大学病院に駆け付け、病者の塗油を授けていました。ある時は交通事故で血だらけになっている人に、ある時は心臓が停止して、医者が心臓マッサージを懸命にして、それでも心臓が蘇生しないのを家族に説明している中で、授けることもありました。

前任地の時代には、ボートに乗っていてとある集落に救急車が駆けつける音が聞こえると、シーアンカーを上げて、いつでも帰ることができる態勢で様子を見守ることもありました。朝6時のミサ前にたたき起こされて救急病棟に行き、フラフラになって帰って朝ミサをすることもありました。

そうやって若い時から訓練を受けているのですが、それでも人間は弱いものです。今日は病人は出ないだろう。今日は告解人は来ないだろう。今日はミサを頼みに来る人はいないだろうと高をくくって、司祭館を留守にしたり、度を過ぎてお酒を飲んだり、いろんなことで「いつであっても神父、いくつになっても神父」を忘れてしまうのです。

徹底的にそのように教育されて最初の10年を過ごしてきたので、頭では分かっていたことですが、誰かに言われたことはありませんでした。最初にわたしの主任司祭となってくれた川添神父様だからこそ、わたしにあの言葉「どこに行っても神父、どこにいても神父」を贈ってくださったのだと思います。

さて、みなさんはどうでしょうか。与えられた福音朗読の結びに耳を傾けましょう。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(13・37)皆さんにも、中田神父の体験は十分当てはまるのです。皆さんも、「どこに行ってもカトリック信者、どこにいてもカトリック信者」なのです。あるいは「いつであってもカトリック信者、いくつになってもカトリック信者」なのです。

たとえ話の中で僕たちはいつ主人が帰ってきても、主人の望み通りの働きぶりを示さなければなりません。「お前はどのように、主人であるわたしのために日々を過ごしていたか。」その答えを求められるのは夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころか、明け方か、分からないのです。

わたしたちも時には旅行に行くこともあるでしょう。旅行先でもわたしたちは神に問われるのです。「あなたはどのように、わたしを信じていることを明かししてくれるのか。」旅行先ではどう考えてもミサに行けないかもしれません。ミサに行けなくても、わたしはイエスの弟子であることを、違う形で示さなければなりません。

そうやってわたしたちは、目を覚ましている信者であり続けるのです。病院に長期入院している人は、ミサにあずかることなど不可能です。告解で「病院に入院していたのでミサに行けませんでした」と告白する人もいると思うのですが、その告白は何を言いたいのでしょうか。わたしはきっぱりと「だから何なのですか?」と聞き返します。入院中に自分にできることをして、イエスの弟子であることを証明すれば、それで十分ではないでしょうか。

わたしたちはみな「いつであってもキリスト者、いくつになってもキリスト者」なのです。いつ主であるイエスに働きぶりを報告せよと言われても答えられるキリスト者でありたいと思います。「眠っているキリスト者」すなわち「主人の帰りは遅い」と勝手に思い込んで自分の働きをおろそかにすることがあってはいけません。「どこに行っても、どこにいても」わたしたちはそれぞれの身分でイエスの弟子であることを証明する必要があるのです。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼どんなに恵まれているのだろうか。親子旅行の話をわがことのように思ってくれて、志をいただいた。ふだんから返せないほど恩を受けているが、いかに恵まれた環境に置いてもらっていることかと感謝の気持ちがあふれてきた。
▼「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使徒言行録3章6節)今の気持ちはそんな感じか。わたしは志をいただいて、この世の何かではお返しできないので、恩人のために祈りをささげる。祭壇の上で、教会の祈りの中で、もがきながら説教を用意することで。
▼最近パソコンの調子がひどい。ワードで作成した文書をクリックして開こうにも、忘れたころにならないと開いてくれない。じれったくなってもう一度クリックすると「すでに開こうとしています。さらに開きますか?」みたいなことを尋ねてくる。実際には最初にクリックした時点での文書も開ききってないのに、である。
▼昔はこんな時、「メモリの解放」とか、「背後で動作しているソフトを終了させる」など、分かりやすい対策があってそれで改善されたことが実感できた。今のOSは簡単にいじれない。ブラックボックス化されていて、小細工ができない。
▼それではと、パソコンを立ち上げずにiPadだけで仕事を続けるぞと宣言しても、これも三日坊主。残念ながらiPadオンリーでの司祭の働きは難しい。ホームページビルダーとか、それを補って余りあるものがあれば別だが、そうはいかない。
▼いよいよメインのパソコンはガラクタとなりつつある。2年しか働いていないのに!わたしにも原因がないわけではない。最初にパソコンの性能をケチったから。その時点での高性能パソコンを買わないと、向こう6年間の仕事には耐えられないことを身をもって知った。今度は予算に糸目をつけず、高性能パソコンを使い倒してやる。

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今週の1枚
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第522回目。iPhone標準機能に一つ不満がある。画像の右回転ができない。

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http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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