こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第21主日(マタイ16:13-20)わたしはあなたに天の国の鍵を授ける

2017-08-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/8/27(No.901)
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年間第21主日
(マタイ16:13-20)
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける
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「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(16・19)これまでよく見えてなかった部分に照らしを感じましたので、ペトロに託されたこの「天の国の鍵」について考えてみたいと思います。

先週、前半と後半でお休みをいただきましたが、前半は平戸地区の司祭5人で、大分と熊本を巡ってきました。大分では浜口司教さまを表敬訪問し食事をご一緒させてもらいました。熊本では長崎教区からの司祭2人に会って食事をして元気づけてきました。

平戸地区に8人の司祭がおります。地区長神父さまから「夏休み中に一緒に出かけませんか」と誘われて、日程の折り合いがついたのが5人でした。出かけてみて分かったのですが、わたし以外は簡単に言うと「温泉好きの神父さま」でした。

初日、黒川温泉の何とかと言う露天風呂に行き、2日目は阿蘇の何とか温泉に行きました。帰りの3日目も阿蘇の温泉に行きかったようですが、2つの教会で葬式が入り、朝8時からまっすぐ帰りました。わたしは温泉に入っても構いませんが、温泉に入らなければ悔いが残るという人間ではないので、お付き合いで参加したということです。

ただ、温泉の名前とお土産で聞き捨てならない物があると知りました。「はげの湯温泉」という温泉があって、そこの旅館のお土産で「せんべい」と「ソーダ」が有名なのだそうです。名前が傑作なのです。「はげませんべい」と「はげソーダ」と言うのです。もう禿げているわたしは、大変興味深いお土産だと思いました。今度先輩方と旅行した時は、はげの湯温泉旅館に行ってみたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。イエスはペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃいました。鍵は大切なものです。最近わたしにとっての鍵は、「閉めるためのもの」ではなく、「開くためのもの」という思いが強くなってきています。

旅行に出かけて、旅先の宿で鍵を預かった時、その鍵は開くためのもののはずです。最近の部屋は、オートロックなので、勝手に閉まります。部屋に鍵を置いたままロックがかかり、フロントに迷惑をかける経験をした人もこの中にはいるでしょう。

また、スマートフォンという種類の携帯電話をお持ちの方は、暗証番号や指紋認証で鍵を開けて使用するのを体験しているでしょう。基本的にスマートフォンは、他人に勝手に使われたりしないようにロックがかかっているのです。ここでも暗号や指紋は開くため、使用を可能にするために使います。

ペトロに託された「開くための鍵」とは何でしょうか。「閉じるための鍵」ではなく、「開くための鍵」。わたしは思い切って「それはイエス・キリストである」と考えてみました。イエスこそ、地上で罪につながれていた多くの人を解き放ち、復活して天の国の門を開いてくださったからです。

ほかにも、救いから遠ざけられているとされていた異邦人にも扉を開き、心を頑なにする律法学者たちにさえ、警告の言葉をもって解放の道を示されたのです。「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」(ルカ11・52)。このイエス・キリストをペトロは「天の国の鍵」として預かったのではないでしょうか。

加えて、鍵を預かる人はそれにふさわしい責任を求められます。開け閉めして中にあるものを出し入れしたり管理します。ペトロにも責任が伴います。イエス・キリストという鍵は、すべての人に天の国を開く鍵ですが、それはこの世が望むような権力と結びつく鍵ではありません。十字架に死に、復活して扉を開く鍵です。

当然この鍵を預かるペトロも、権力が天の国を開く鍵なのではなく、十字架上に死に、神によって復活させられる道が天の国を開く鍵であると理解しなければなりません。イエスはペトロが理解に達することができると信じて、天の国の鍵を授けたのです。今は理解できないとしても、ペトロの生涯全体をかけて天の国の鍵がどのようなものであるかを理解し、管理者となっていきます。

天の国の鍵を授けられたペトロは、これから天の国を開く鍵となる生き方を歩みます。それはイエスに倣う生き方です。12使徒の中でいちばん素朴で真っ直ぐなペトロが、教会の先頭に立って、教会が歩いていくべき道、十字架を背負って、復活を信じて生きる道を歩みます。

わたしたちの未来も、ここに描かれています。天の国の鍵を授けられたペトロと一つになって、この世を生きる必要があります。同じ生き方を人々に示すことで、わたしたちの知る天の国の鍵はこのような生き方ですと、証をします。

この世を謳歌するような生き方ではないかもしれません。けれども、天の国の鍵を見失う生き方よりも優れています。わたしたちが自分の生き方で天の国の鍵を保って生きることが大事だと知らせるなら、すべての人に対してわたしたちが鍵を握っている人間となれるのではないでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(マタイ16:21-27)
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ちょっとひとやすみ
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▼あー気が付いたら901号になっていた。900号もあと少し、と言っていた時には明確に意識していたのに、いざとなったら単なる通過点だった。次の区切りは1000号。あと2年くらいある。1000号はさすがに盛り上げて迎えたいものだ。
▼最近体の老化を実感することが多々ある。物を取り損ねて落とす。パソコンのキーボード入力で思うように指が動かない。連続したキーボード動作(半角72文字で改行し、メルマガ配信のための体裁に整える作業。100回くらい改行を入れる)。
▼メルマガ配信のための連続したキーボード操作は、機械的な作業なので、頭と手先の操作との連動が重要だ。半角72文字で改行。改行すると先頭にカーソルが移動するので「←キー」を押してカーソルを半角72文字の場所に戻す。
▼また改行。また戻す。場合によって半角74文字の場所が句読点ということがあるのでその場合は半角72文字ではなく74文字で改行。また72文字の場所に戻って改行。この一連の動作は3年前4年前は機械的に指先を動かせたのだが、今は作業速度を上げようとすると失敗する。
▼「改行・半角72文字の場所に戻る」の繰り返しなのに、速度を上げようとすると戻す動作が追い付かず、「改行さらに改行」となったりする。すると自分のミスに苛立ち、血圧が上がる。
▼この頃は速度を少し落とし、その分を頭の回転で補っている。頭を使わなくてよかった部分で頭を使うようになったので、メルマガ配信が終わると疲れてしまい、机にうつぶせになるか、畳に大の字になる。しばらく動けない。この繰り返し。
▼速度を落とさざるを得ないもどかしさ。これが老化との付き合いなのか。自分の現状と向き合いながら、これからまた1000号、その先の号へと進んでいく。

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今週の1枚
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第508回目。ホームページから紹介。「はげませんべい」「はげソーダ」

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† 神に感謝 †
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年間第20主日(マタイ15:21-28)「しかし」を「そこで」に変える信仰

2017-08-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/8/20(No.900)
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年間第20主日
(マタイ15:21-28)
「しかし」を「そこで」に変える信仰
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「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」(15・23)異邦人であるカナンの女の切なる願いに、イエスは返事をしませんでした。イエスはカナンの女の覚悟を知りたかったのだと思います。今週わたしたちも、イエスに対する覚悟を問われていると思います。

田平教会に韓国の巡礼団が頻繁にやってきてミサをして帰って行かれることは皆さんもよく知っておられるかと思います。毎月5件とか10件とか、多いときはそれ以上、韓国巡礼団のミサが入ります。わたしが手数料を取れば、5年もあれば結構な金持ちになれるくらいおいでになっています。

巡礼ミサのほかにも、田平教会に問い合わせが多いのは撮影許可です。観光パンフレットのためとか、テレビ番組で紹介するとか、いろいろあります。その中に、「鉄川与助が手掛けた教会を大学の卒業論文に選んで研究しているので、撮影をお願いしたい」という依頼が混じっておりました。

はっきり記憶していませんが、いったんは「外観の撮影を許可します」と返事をしたのだと思います。ところがこの卒業論文に取り組んでいる学生から、内部の撮影がどうしても必要であると、切実な依頼文を添えて再度依頼が届いていたのです。

「自分は東北大学工学部の学生で、鉄川与助の手掛けた建築物にあしらわれている植物模様について研究しています。外観のみ撮影を許可しますという返事でしたが、鉄川与助が聖堂内あちこちにあしらった植物について調べるためには、どうしても内部の撮影に協力いただきたいのです。どうかよろしくお願いいたします。」

わたしは、それでも再度「内部の撮影は、これまで一度も許可しておりませんので」とお断りすることもできたと思います。けれども撮影依頼の文章の最後に、「もし撮影がかないませんなら、内部のスケッチを描かせてください」と書かれていまして、この学生の真剣な気持ちがよく伝わりました。

わたしたちにも恩恵をもたらしてくれる研究を、東北大学の研究生が取り組んでいる。スケッチだけでもさせてほしいという、その熱意に動かされまして、「主任司祭の立ち合いのもと、内部の撮影を許可します」と返事をしました。研究の成果が上がればいいなと思っております。

さて、説教を聞いている皆さんはうすうす気づいておられるかと思いますが、今話した出来事は、カナンの女の信仰の物語にうまく重なる出来事だといえます。鉄川与助の建築物の研究、それも卒業論文であるとは言え、わたしが断ればほかの教会にも依頼をかけているわけですから、それで済むかもしれません。

ですがこの学生は粘り強く交渉し、願いをかなえてもらう理由を見つけたのです。異邦人であるカナンの女性も、イエスから願いをかなえてもらう理由を見つけ出しました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15・27)

わたしは、この一連の流れをこのようにまとめてみました。異邦人のカナンの女性は娘を助けたい一心で願います。ただすべての願いが神の望みにかなうわけではないのです。そのことを十分わきまえたうえで、再度女性がイエスに願うと、イエスは答えてくださいました。「しかし」と繰り返した女性の願いは、いつしか神の望みにかなう願いへと変えられていき、「そこで」イエスは答えてくださったのです。

「しかし」が、「そこで」に変えられていく。聖書の中でイエスにもこの場面を見出すことができます。イエスは最後の時を迎えるにあたり、苦しみ悶えながら御父にこう言いました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26・39)

「過ぎ去らせてください」とは言ったものの、「しかし」もっと大切なことに立ち返ってもう一度御父に語りかけます。イエスにも、「しかし」から「そこで」に変えられる瞬間があったわけです。

わたしたちの信仰も同じことです。本来信仰は、「わたしはあなたを信じます」という生き方のはずなのに、いつの間にか一歩も引けない願いばかりになっていることがあります。一方的に願うばかりではいつまでたっても願いは聞き入れられません。

「しかし」といったん立ち止まるならば、声を上げる人の中で何かが変わっていき、神は「そこで」答えてくださるのです。「しかし」が、「そこで」に変えられていく。異邦人のカナンの女性がわたしたちに教えていることです。

信仰にかかわる事柄で「こうしてください」「こう思います」と断言することも確かにあります。そこに、「しかし、御旨が行われますように」と添えることを忘れないようにしたいものです。

いつでも、「しかし」と一歩引くことのできる信仰。「そこで」ようやく御父は望みのままに働くことができるようになり、神の国がすべての国、すべての民に広がっていきます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(マタイ16:13-20)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼暑さで頭が回らなかったか、それとも広島カープが立て続けに負けて血が上っていたか。録音ファイルに張り付けていたリンクが一か月前のままになっていた。ちょっとURLの間違いに気づく人なら自分で文字を書き換えて対応できたと思うが、大変申し訳なかった。
▼こう話してもわからない人のために。メルマガに、説教の録音を聞くためにクリックをうながす行があるはずだ。だがその行がうながす先が、7月19日のままになって配信され続けていたのである。
▼クリックする前に7月19日の部分を該当する日曜日に修正してクリックすれば実際には聞くことができたのだが、なかなかそこまで気づく人はいない。その点は申し訳なかったと思う。
▼ファイルリネームソフト。さまざまあると思うが、わたしは「お~瑠璃ね~む」というソフトを使っている。洒落の効いた名前が気に入っている。それはそうと、このソフトの思いがけない利用法を見つけた。
▼このソフトの「ファイル」の項目を見ると、「リストをCSV形式で保存」に関連した操作メニューが見つかる。すでにお分かりの方もいると思うが、ファイル名をリスト形式のテキストファイルでとることができたら、どんなにありがたいかと思っている人はいるに違いない。
▼少なくともわたしは、この操作ができるソフトを別に探したくらいだから、とても重宝している。膨大なファイルがパソコンに保存されていて、中には「どんな名前で保存したか」それすら思い出せないものもあるだろう。
▼探そうとしてパソコンの中をくまなく探すのも一苦労である。ときどきこの機能を利用してリストを作成しておけば、探すのも楽だし、不要なものを見つけて削除するときにも力を発揮するはずだ。
▼熱く語ったが、聖母被昇天を終えての話にしては、信心深くない話になってしまった。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第507回目。苦し紛れ。松浦鉄道に久しぶりに乗り、駅舎にあったチラシ。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)憐れみを忘れない神の働き

2017-08-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/8/15(No.899)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
憐れみを忘れない神の働き
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聖母の被昇天の祝日を迎えました。マリアを祝い、マリアのもとにとどまるということは、どんな意味合いがあるのでしょうか。与えられた朗読を通して考えてみましょう。

朗読の後半、46節から56節にかけては「マリアの賛歌」と呼ばれる個所です。マリアが言葉に表した世界が、わたしたちにどのようにつながるのかが分かれば、わたしたちがここにとどまる意味も理解できるようになり、8月15日にミサに集う意義と価値を人々に語って聞かせることもできるでしょう。

「マリアの賛歌」はマリアの個人的な体験から始まります。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(1・48)。それはマリアの個人的な体験でしたが、そこから神の働き方を見たのです。旧約時代、人々が神の声に耳を傾けない中、神に忠実なノアとその家族に目を留め、洪水が地上を覆って、ノアの家族だけが救われました。

アブラハムはカルデアのウルから出た小さな部族でした。エジプトという大国にあって虐げられていたイスラエルの民を救い出し、エッサイの子供たちの中で末の弟に目を留め、イスラエルの王となさいました。人々が目を留めるものには目もくれず、人々から低く見られていた部分に目を留めるお方だと理解したのです。

マリアは、自分の個人的な過去の体験から神のなさり方を知ります。過去から現在に至るまで、神は思い上がる人、権力をふるう人、富める人ではなく、身分の低い人、飢えた人に近づいてくださるのです。そしてこの小さな人々に寄り添う態度は、未来にも変わらない。これがマリアの理解した神の働き方でした。

わたしたちも、今こうしてマリアの賛歌を聞きながら、神のなさり方は過去現在未来、変わらないということを知りました。わたしたちはなぜここに集まっているのでしょうか。それは、マリアが声を上げた神のなさり方を、わたしたちもいっしょになって讃えるためなのです。

わたしたちは見物人でしょうか。マリアの賛歌を聞きながら、なるほど神のなさり方はそうなのかと理解し、それでもなおマリアのそばを通り過ぎるのでしょうか。そうであってはいけません。わたしたちがマリアを祝い、マリアのそばにとどまるのは、マリアが体験し、理解したことを現代に向かって証言するためです。

神のなさり方は今も変わらない。世の人々がほめたたえ、あこがれる人々の脇を神は通り過ぎ、低いとされている者、取るに足らないとされている存在のもとへやってくる。わたしたちは神のこのような働き方を讃えますと、ミサの中で表明するのです。

これをひとことで言うなら、「憐れみを忘れない神の働き」と言えるでしょう。わたしたちはこの世がほめたたえる生き方に立たず、「憐れみを忘れない神の働き」を讃える「新しい神の民」なのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(マタイ15:21-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼ここ長崎では、あちこちで「平和学習」が行われる。修学旅行生が「平和学習」を積んで帰っていく。8月6日の広島原爆、8月9日の長崎原爆の歴史を学んでいく。あえて、もう一つ加えるなら、終戦記念日と重なる「聖母被昇天」の祭日を通して、平和について考えてもらえたらと思う。
▼説教にも触れたが、マリアは神のなさり方を「世の人々があこがれる者」を通り過ぎて、「取るに足らない者」のもとにおいでになる方ととらえた。平和を求める人々も、実は「世のあこがれる者」ではなく、「取るに足らない者」の立場に立つ人々ではないだろうか。
▼脚光を浴びている人々は、競争に打ち勝ち、多くの人や物の犠牲の上に立ち、今がある人々だと思う。そうした人々がいくら「平和な世界」と声を上げても、何か違うように感じる。平和は政治が作り出すものではないと思うし、力で築き上げるものでもないと思う。危うい緊張関係の上に成り立っている平和は、果たして安らぎと憩いを与えてくれるだろうか。
▼12日(土)朝ミサの前に、「病者の塗油を授けてほしい」と願いに来たおじいちゃんがいた。あとで聞くと、単に重い病気で不安を感じているだけではないそうだが、わたしはこのおじいちゃんを見ていて「神は低いとされている者、取るに足らない者のところへおいでになるのだ」とあらためて思った。
▼低くされている人を高く上げる神がわたしたちの信じる神であれば、わたしたちは何度も自分の姿勢を見つめなおし、謙虚さを忘れてはいけないと思う。責任とか、権限とかを預けられているうちに、知らず知らず「思い上がる者」「権力ある者」の立場に立ってしまう。そうなると神はわたしたちの脇を通り過ぎる。声をかけようとした人が自分の脇を通り過ぎていった経験のあるわたしにとって、それはあまりにもつらい場面である。

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今週の1枚
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第506回目。聖母マリアのもとに「取るに足らない」人々が集まり、平和を願う

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年間第19主日(マタイ14:22-33)安心しなさい。わたしだ

2017-08-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/8/13(No.898)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第19主日
(マタイ14:22-33)
安心しなさい。わたしだ
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今週の福音朗読は、「湖の上を歩く」というイエスの超人的なしぐさが取り上げられています。物語の中には、イエスが湖の上を歩くこと以上に大切なことが含まれています。そうでなければ、イエスが湖の上を歩く超人である、ただそれだけの物語です。イエスがもっと大切なこととしてわたしたちに示す教えを見落とさないようにしましょう。

近況報告です。8月2日のナイターソフトで調子に乗りすぎて手首を痛めてしまいました。ヒットを打ったのですが、それをどうしても二塁打にしたくて、無理やり二塁まで走ったわけです。

一塁コーチャーの「えー?二塁に行くわけ?」という声が聞こえる中、滑り込みの仕方も知らないくせに思い切り地面に手をついて滑り、左手首をくじいてしまいました。手の皮もすりむき、手のひらに血がにじむほどでした。

試合中はそこまで痛みはなかったのですが、次の日の朝ミサをささげていると、左手でパンと杯の器を持ち上げることができません。聖体拝領のあいだも痛いのをがまんして器を持ち、あやうく聖体の入ったチボリウムを落としそうになりました。

何も持てなかったわけではありません。司祭が拝領する大きなご聖体は持つことができましたが、その聖体を載せるパテナというお皿が重たくて持てません。100gとか200gとか、たかが知れた重さなのにです。

ミサ後、どれくらいまでなら持つことができるかお札で試してみました。1万円は持つことができました。10万円も大丈夫でした。しかし50万円になると重く感じ、100万円は持ち上げられませんでした。

およそ二週間、日常生活に支障をきたしました。これが全治二週間のけがかと、初めて体験しました。今も薄皮をめくるようにしか回復しません。重い物が持てないと嘆く人たちの気持ちがよく分かりました。

何より、わたしがけがをするとどれだけの人に迷惑をかけるか分かりました。ナイターソフトもほどほどにプレーしようと思います。でも本番になったらどうなるかは分かりません。

福音朗読に戻りましょう。場面を整理すると次のようになります。まずイエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせました。弟子たちの乗った舟は逆風のため波に悩まされはじめます。そこへイエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。ここからが大事だと思うのですが、イエスと、ペトロに手を伸ばして捕らえられたペトロとが舟に乗り込むと、風は静まったということです。

始めと終わりだけをつなぐとこうなります。「逆風のため波に悩まされていた弟子たちは、イエスが舟に乗り込むと風が静まったのを見た。」あとのことは物語を補強しているのです。イエスが水の上を歩いて弟子たちのところに行きますが、復活したイエスは弟子たちが戸を閉め、鍵をかけていた家の中に入って来られました。ですからイエスをことさら超能力者と見る必要はありません。イエスは神の子だからです。

ペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(14・28)と言ったけれども強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」(14・30)と叫びました。わたしたちも決めたことを実行しようとして、怖気づくことがあります。湖の上でのペトロの心境が語られているのです。

この物語で最も大切だと思っていることは、イエスが恐れに捕らえられている弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14・27)と呼びかけている部分です。人が恐れに捕らえられ、パニックになっている。その時イエスは近づいて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけ、恐れを取り除いてくださるのです。

だれもが、恐れに捕らえられ、パニックになることがあり得ます。日曜日9時のミサでは、洗礼式が予定されていますが、命がこの世に誕生するその瞬間まで、心配でたまらないという経験をしたかもしれません。生まれてからも、この子が元気に育ってくれるだろうかと、心配は絶えないかもしれません。

わたしはこう思います。イエスはこの子に洗礼の機会を授けてくださいました。神が親子に近づいてきてくださり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださっているのです。「この子が元気に育つように、わたしは人生の初めから生涯にわたって、この子に恵みとなりましょう。」イエスはそのように呼びかけているのです。

福音朗読の湖の上での出来事を、わたしはこう考えます。人間的にはすぐに助けに行くことのできない場所、助けを求めても、すぐには駆け寄ることのできない状態です。そんな状況にあっても、イエスはすぐに駆け寄ってくださり、わたしたちを救い出してくださるのです。

わたしたちが神の恵みにあずかろうと教会に来るのは、恵みを期待しているだけではなく、人々に対する証でもあります。人間的には、すぐに助けに行くことのできない場所、助けを求めても、すぐには駆け寄ることのできない状態にあっても神はわたしを助けてくださる。教会に集うわたしたちは、そのことを人々の前で宣言しているのです。

イエスは、沈みかけそうになっているわたしに手を差し伸べ、救い出してくださいます。神さまの差し出す手が、短くて届かないということがあるでしょうか。決してあり得ません。わたしたちはそのことを少しも疑いませんと、あらためて表明しましょう。神は遅れることなくわたしたちに手を差し伸べ、恵みを与えてくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼夏の甲子園が始まった。照り付ける日差しの中で白球を追う球児の全力プレーを、おじさんとなったわたしはエアコンの効いた部屋で観戦している。歳を取ったものだ。四日目の組み合わせは豪華な顔ぶれで、広島広陵が中京大中京を破り、熊本秀岳館が横浜高校を破った。第三試合第四試合も楽しみだ。
▼ところで第三試合に組まれた沖縄興南と対戦する智弁和歌山の高嶋仁監督について、思わず身を乗り出すような情報を見た。なんと高嶋監督は五島出身だったのである。目を疑った。そのほかの情報はネットを調べれば大体のことはわかるので割愛するが、五島出身のわたしにはちょっとした自慢が増えた。
▼興味があったので、タブレット端末を購入した。タブレット端末を大きく分けると、iPadかそうでないか、ということになる。iPadは新しさはないので、「そうでないほう」つまりAndroid端末を購入した。
▼使い始めは、すぐ立ち上がるし想定内の仕事ができているし、大変重宝していたのだが、二週間もすると態度が豹変した。日本語入力ができなくなり、いきなり両手を縛られたような状態になったのである。
▼生まれて初めて、「音声」でさまざまな機能を動かした。なかなか優秀、と思ったのもつかの間、ログインが必要なサイトに入るときにパスワードを音声で入力するのは超絶技巧が必要だった。最終的にこのパスワード入力で音声入力を断念することになる。
▼音声で入力できない文字があって、絶望的になった。何度言い直しても「t」を「d」としか認識してくれない。気が短いわたしは買って2週間もしないタブレットを破壊しようと何度思ったことか。
▼初めのころはできていたキーボード入力がタブレット端末で使用不可になった原因をパソコンからネットで検索する。あまり芳しい答えが見つからない中、「google日本語を入力すべし」という結論にたどり着いた。腹立たしい答えだったが、このアプリを入力した途端、ウソのように問題が解決した。

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今週の1枚
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第505回目。購入したタブレット端末。教会の備品にするつもり。

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主の変容(マタイ17:1-9)モーセとエリヤとイエスが語り合っている

2017-08-05 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)

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こうじ神父
「今週の説教」
2017/8/6(No.897)
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主の変容
(マタイ17:1-9)
モーセとエリヤとイエスが語り合っている
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暑さもピークを迎えているこの時期に、「主の変容」の祝日を迎えるのは、厳しい夏を乗り越えるための神さまからのプレゼントのように思えます。気力も萎えてしまうような場面をどのように乗り越えたらよいのか、学びを得ることにしましょう。

近況報告です。先週の日曜日、所用で二番ミサ後にすぐ出ましたが、帰りは夜中でした。あまりの眠さに佐々のインターを降りて、いったん左折してコンビニに入り、栄養ドリンクを買って飲みました。

その後道路に復帰し、十字路を江迎方面にエレナに沿って左折しました。黄色の信号を構わず左折した途端、対向車線にパトカーが見えました。ビックリして、ドリンクを飲まなくても済むくらい目が覚めました。「これで免停になったか」と肝を冷やしました。しかしパトカーはわたしには目もくれず、左折して佐々の町中に消えていきました。少しは涼しく感じたでしょうか。

暑いので、涼しくなるような話を考えてみました。「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」(17・3)いったい何を語り合っていたのでしょうか。ルカ福音書による並行箇所を読み比べると、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9・31)と説明されていますから、十字架上で成し遂げられる救いのわざについて語っていたと思われます。

さらに、今週の朗読箇所に「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」(17・8)とあります。ですから、モーセが語ったこと、エリヤが語ったことを踏まえた上でも、イエスが語られた内容が最も優れていた。イエスの語った内容こそ「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)という雲の中から聞こえた御父の声にふさわしい内容なのだと思います。

すると、いよいよイエスが何を語られたのかが大事になります。こんなことを考えてみました。モーセは、モーセ五書とか十戒とか、掟と法に関わる人物です。ですから、「人間の救い」について、「掟と法に従って裁くべきです」とイエスに進言したということはあり得ます。モーセは、まだイエスが示す愛とゆるしを見ていないからです。

次にエリヤは、聖書の中では「バアル神の預言者と対決し、偽りの預言者すべてを剣にかけて殺した神の預言者」「炎の車に乗って神のもとへ運ばれた預言者」そういうイメージです。つまりエリヤが正しい人と不正な人や邪悪な人の間を裁くとすれば、「剣をもって正邪を裁くべきです」とイエスに進言するということがあり得ます。エリヤもまた、イエスが示す愛とゆるしを見ていないからです。

そんな中でイエスは、ご自身がどのようにして人間を裁き、救われるかを説明しておられたのではないでしょうか。つまりイエスは、「溢れるほどの愛、これ以上ないほどのゆるし」をもって人間を裁き、救われるのです。モーセも、エリヤも、イエスの計画の前に身をかがめ、残っていたのはイエスのほかにはだれもいなかったのでしょう。

裁きの座に上がる人を想像してみましょう。表に立つ人たちがいます。政治や教育、文化や科学、宗教、そういった場所で人の前に立つ人たちです。こうした人々が裁かれるとき、モーセは法に従って裁くでしょう。エリヤは彼らの行動に裏表がないか、表では正しい道を説き、裏では悪に手を染めていないか、剣をもって見分けるでしょう。イエスは、彼らの心に語り掛けて、任せられている務めを誠実に果たすよう辛抱強く導き、その後に裁くでしょう。

表には立ちませんが、人々から視線を浴びる人たちもいるでしょう。イエスの時代であれば徴税人や娼婦や、金持ちなどです。事情は様々ですが、モーセもエリヤも、これらの人々を罪に定めることができるでしょう。ひょっとしたら、この人たちを救うのは難しいと判決を下すかもしれません。しかしイエスは、モーセもエリヤも示すことのできなかった愛と赦しで、これらの人々に救いの道を示すのです。

「この人には責任がある。」裁きの座に就く人は、責任を追及すればどんな人間も責任を逃れられないでしょう。父親としての責任、母親としての責任、社会人として、学生として、だれもが何らかの責任を任せられていて、残念ながら責任を果たせなかった場面があるかもしれません。

法に従って、剣にかけて過ちが明らかであっても、しかしイエスは最後にわたしたちを救うために裁きの座に就いておられます。ぞっとするような過ちの数々、並べられた訴えの数々。本当は救われないのかもしれません。ですがそこにイエスがおられるとき、「あなたがたの罪はゆるされた」「安心しなさい」という言葉をかけてもらえるのです。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)。ただ一人残っているのが法に従って裁くモーセだったらどうでしょう。剣にかけて正邪を裁くエリヤだったらどうなっていたでしょう。しかし父なる神は、わたしたちに最後に示されたのはイエス・キリストだったのです。

これは何を意味しているのでしょうか。わたしたちに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言っているのは明らかです。法に基づいて裁くこともできますし、正義の剣にかけることも可能でしょう。しかしわたしたちが出会う人に示すべきなのは、イエス・キリストがわたしたちに示された「愛とゆるし」なのです。

もし、雲の中で現れた三人が、「中田神父は法に従って有罪です」「中田神父は裏では悪を行っているので剣にかけましょう」そういう相談をしているとしたら、きっとわたしはひとたまりもありません。けれどもそこに、イエス・キリストがおられるので、わたしは憐れみを受ける可能性があります。そう思って、今回は雲の中に現れたお三方を思い描いてみました。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(マタイ14:22-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼病人訪問を月に一度のペースで実施している。その中に106歳のおばあちゃんがいて、すばらしいことに訪ねて行った時はいつも起きていてちゃんと祈りをして聖体拝領を受けている。健康状態も申し分なく、今のところは来月も会えると思っている。
▼聖体拝領のための式文は、おおよそミサの内容を要約したもので、「招き」「回心」「聖書朗読」「主の祈り」「聖体拝領」「拝領後の祈願」で成り立っている。ミサにあずかることができない病人のための、母なる教会の配慮なのだと思う。
▼そのおばあちゃんも、毎回主の祈りを聖体拝領前に唱える。8月4日(金)のお見舞いの時、いっしょに主の祈りを唱えながら、何かがわたしに降ってきた。この日のおばあちゃんとの祈りをわたしは決して忘れない。実際にその時感じたことをスマホにメモを取り、いつでも体験談として話せるようにまとめてみた。
▼聖職者がこんなことをいうのもなんだが、神は存在すると思う。わたしが106歳のおばあちゃんといっしょに祈って、何かのひらめきが降ってくるのは、わたしが超能力者だからではない。わたしが超能力者なのだとしたら、とっくに新しい宗教を作っている。
▼そうではなく、わたしを照らし、導く神が、わたしのひらめきではないれっきとした神が、存在すると感じさせるのだ。わたしが作り出した神であれば、わたしの思った時にいつでも呼び出すことができるだろう。
▼しかし、わたしが体験したのは、まことの神が、みずからわたしに思わぬタイミングで語り掛け、何かを教えてくれるということだった。主の祈りは珍しいことではない。106歳のおばあちゃんと主の祈りを唱えたのも今回が初めてではない。だが照らされて何かが降ってきたのは今回が初めてなのである。
▼神の働きに謙虚に耳を傾けたり、神の存在に謙虚に跪く。その心構えを決して忘れてはいけない。神が何かを教えてくださるその日、その時を、わたしたち人間は指定できないのだから。

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今週の1枚
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第504回目。召命フェスティバルで若手司祭が「前前前世」を披露。決めたね!

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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
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3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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