こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第12主日(マタイ10:26-33)譲れないものを、恐れずに言い広める

2017-06-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/6/25(No.891)
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年間第12主日
(マタイ10:26-33)
譲れないものを、恐れずに言い広める
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復活節の一連の祝祭日が終わって、年間の主日に移行しました。年間第12主日は恐れを持つ必要のある相手はこの世にはなく、むしろ神のみを恐れるべきであると招きます。わたしたちの心の持ち方をうながす大切な招きだと思います。

この前、書留で印象深いミサ依頼を受け取りました。たいていのミサ依頼は、家族の為先祖の為だと思います。そのミサには、家族と思われる方の名前と、さらに洗礼を授けてくれた神父さま、洗礼に立ち会ってくれた代父母の為と書かれていました。

いずれ報告をするのでどなたが頼んだかは公表されますが、耳を傾けてほしいのは、誰が頼んだかではなく、どんな人のために頼んだかに耳を傾けてほしいのです。

自分と関わりのある人のためにミサをお願いする。よく見かけるごミサです。けれどもその人が洗礼を受けた時に関わった神父さま、立ち会ってくれた代父母にも思いを向ける気配りは、中田神父もちょっと思い浮かびませんでした。たしかに関わってくれた司祭や代父母がいます。わたしも洗礼を授けてくれた神父さまがいますし、代父がいます。わたしが51歳になるまで、洗礼を授けてくれた神父さまも代父のおじさんも健在です。本当にありがたいことだと思います。

ではこれら洗礼に関わってくださった方々のためにわたしはどんな感謝をしてきただろうか。わたしが司祭になったことでいくらかの感謝はお返しできたかもしれませんが、十分ではないような気がします。今回依頼を受けたミサの内容を見て、もっと考えていいことだなぁと思いました。そのまま真似をしないとしても、何か続けて感謝の思いを伝えなければと思ったのです。

福音朗読を読み返してみましょう。朗読の後半に、次のようにあります。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(10・32-33)

ミサを頼んでくださる方すべてに当てはまると思いますが、ミサをお願いするということは、人々の前で「イエス・キリストの仲間です」と言い表している人たちです。それに加えて、自分がお願いする人に関わった人たちのことも忘れない。こういう姿勢は、イエスの福音を消化して、自分のものにして生きているのではないでしょうか。

「自分はイエス・キリストの仲間です」「この人は、イエス・キリストの仲間です」こう言い切ることのできる人は、他の人間関係はともかく、イエス・キリストとの関係は変わったりしない、変えたりしない。そう確信している人だと思います。それは、朗読の前半で言われていることにつながります。「人々を恐れてはならない。」(10・26)

人間関係が良好だった人と、信仰を危険にさらす場面で対立し、難しい判断ののちに離れていくことが時として生じます。ほかのことは譲ったとしても、信仰の点では譲れない。その、どうしても変えられない部分で何かを強要されると、ある人は何事もなかったかのように手のひらを返します。しかしどうしても譲れないので、ある人は強要する人のもとを去っていきます。

たとえばそれは、結婚のためにカトリックの信仰を捨ててくれということかもしれません。いのちを宿したとき、いのちを初めから守ると教えられたカトリックの信仰、生涯にわたって愛と忠実を尽くしますと、結婚の時に誓うカトリックの信仰。この生き方を捨てて、わたしと一緒に歩いてくれと言われても、わたしたちは譲れないのです。

譲れないものを守るために、離れ去ると、どんな仕返しが来るだろうかと心配になったり、立場を失うのではないかと思うかもしれません。イエスはそこで励ましの言葉をかけておられるのです。「人々を恐れてはならない。」しかもどんな危険も、神のために譲れないものは譲れないと心に決めたなら、神はあなたを守ってくださるのです。

スコセッシ監督が制作した「沈黙」を思い出してください。映画の中で、ロドリゴは最後に死んで葬られていきました。恐ろしい拷問の末に彼は転んでしまったのですが、火葬のために送り出されるとき、小さな十字架を奥さんが手に持たせてくれて、その姿で火葬されました。

譲れないものがたくさんあって、それが一つずつ引きはがされ、最後には司祭としての姿も引きはがされました。それでも、最後に一つ、譲れないものを手の中に納めて、旅立っていきました。まるで、「最後に譲れないものは、イエス・キリストへの信仰、その一つだけである」と言っているかのようです。

イエス・キリストへの信仰のために譲れないものがある。その生き方は恐れる必要のない者を恐れず、恐れるべき者を恐れて生きる生き方です。わたしたちはどうかすると自分の努力で何でもできると思っているのか、祈りをしなくても一日無事に生きていると勘違いしていますし、寝ている間に心臓が止まらなかったのもさも当たり前であるかのように思っています。恐れるべき者を恐れずに生きているのです。

恐れるべきものを恐れて生きるとは、びくびくして生きるということではありません。むしろ恐れずに生きる生き方です。わたしたちはイエス・キリストへの信仰に筋が通っていれば、何も恐れるものはないのです。「自分はイエス・キリストの仲間です」ときっぱり言える生き方、これを曲げたりおろそかにしないなら、何を失っても、誰を失っても、恐れないのです。

生涯、「イエス・キリストはわたしの仲間です」と言い続ける。わたしの守るべきものが、引きはがされるかもしれません。それでもわたしたちが譲れないものは、恐れずに言い広めることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(マルコ10:37-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼わたしが代表を務めるボランティアグループについて、わたしのメルマガと比べながら考えてみた。読書に支障のある方々のために音訳を通して情報提供の手助けをしている。会員は例外なく会費を納めて活動を続けている。自分たちの活動を維持するためだ。
▼今は会費の区分が緩和されたが、わたしの記憶によるといちばん活動している中心的な会員は月額600円の会費を払っていたと思う。その次のランクの会員が300円、そして名前を連ねて、つながりだけでも保っていたいという会員は100円だった。
▼わたしの中では「中心的に働いている会員こそ会費を100円に抑えたほうがよいのではないか」という考えがある。中心的な会員はその働きぶりで十分会費を補っていると思うからだ。むしろ中心的な働きができなくなった方々に、多めの会費で活動を負担してもらうのが合理的だと思っている。
▼ところが実際は、個人的な事情をかなり横に置いてまでボランティアを支えてくださっている中心的会員が最も活動資金を負担してきた。長年の伝統であるし、それなりの理由や事情もあるだろうから、責任者の座にいるというだけで仕組みをとやかく言うつもりはない。「働きも会費の納入も、よく頑張るなぁ」と感心するばかりだ。
▼そこで改めて考えてみた。わたしのメルマガ発行に対して、わたしは会費を払うことができるだろうか。自分の働きに対して、いくらかの費用を自分が払うことに意味とか価値を見いだせるだろうか。考えてみた。
▼自分の働きに自分で費用を支払うと、何か変化が起こるだろうか。ひょっとしたら、もっと自分の働きに責任を感じるようになるかもしれない。もっと内容を吟味したり、何度も読み返して対価に見合うメッセージを汲み取ろうとするかもしれない。
▼ということで、有料版(内容は無料メルマガと同じ)を発行し、自分が購読することにする。有料メルマガを自分で購読して、こりゃダメだと思ったら有料版は廃刊としたい。わたしは、このメルマガ配信に月額432円(税込)払う。無料版も継続するし、一切配信を受けず、ブログで読むこともできる。読者もどれかを選んでもらいたい。
▼有料版を購読してくださる方が納めてくださった購読料は定期的に報告します。関心のある方へ、URLはコチラ。http://www.mag2.com/m/0001627418.html 月途中の登録でも、月内に発行されたメルマガがすべて届きます。

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今週の1枚
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第498回目。今年の九州視覚障碍者情報提供施設大会(福岡大会)会場。駅すぐ。

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キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)イエスの小さくなられた姿がわたしを養う

2017-06-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/6/18(No.890)
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キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
イエスの小さくなられた姿がわたしを養う
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キリストの聖体の祭日を迎えました。わたしたちが聖体を拝領する中で、神が御子を通して示そうとしている思いを学ぶ機会としましょう。キリストの聖体は心と体を養う糧です。心と体を神の思いに向けるヒントを得たいと思います。

父の日を迎えました。中田神父さまにとってお父さんや、おじいちゃんは、早くに亡くなってしまった人たちです。わたしのお父さんのお父さんは、わたしが3歳のころには亡くなっていました。わたしのお母さんのお父さんも、人間の死が理解できるようになってから最初に亡くなった家族です。いつも、先に亡くなりました。

だから中田神父さまは考えたのです。父方のおじいちゃん、母方のおじいちゃんは、生きているあいだの時間よりも、亡くなってから思い出す時間のほうが長い人たちでした。父方のおじいちゃんのことを、お父さんや洗礼の代父のおじさん、おじいちゃんより長生きしたおばあちゃんたちから聞きました。母方のおじいちゃんも同じでした。

中田神父さまの中で、思い出をつないで、両方のおじいちゃんの姿がよみがえりました。どんなことを大切にしていたのか、どんなことをしてはいけないと考えていたのか。今神父さまの心の中にあるおじいちゃんの姿は、亡くなってから、長い時間かけて形になったものです。

弟子たちにとって、イエスさまの姿も同じではないでしょうか。イエスさまと弟子たちと共に生活したのは3年間です。それより、復活して天に昇られ、聖霊が注がれてからの時間でイエスさまの教えが深まって、イエスさまの姿をはっきりと描けるようになったのです。

ここで意外なことを話しますが、イエスさまの出来事が書かれた福音書は、いちばん早く書かれたマルコ福音書でも70年代、イエスさまと3年間を過ごしてから40年も後に書かれています。最後に書かれたヨハネ福音書は、実に50年以上もあとに書かれているのです。イエスさまの姿をより詳しく描くために、40年、50年という長い時間も必要な時間だったのでしょう。

福音朗読に移りましょう。イエスさまは何度も、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」(6・54)ことを繰り返して言います。イエスさまを食べると言うのですから、イエスさまはバラバラにちぎられて、形がなくなってしまうことになります。まるで、親鳥が雛に餌となる動物を与えて、雛が食べるような光景です。餌として与えられた動物を食べているあいだ、雛たちは口の周りは血がいっぱい付いているはずです。

本当に、イエスさまが食べ物になることが父なる神さまの人間に対する思いなのでしょうか。イエスさまが肉と血になってしまうよりも、何か代わりの食べ物を与えて、イエスさまはそのまま活動を続けるほうが、神さまの計画が前に進むのではないでしょうか。いえ、父なる神さまは、イエスさまが肉と血になって食べられることを望まれたのです。

「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(6・53)今は、わたしたちにとってイエスさまの肉と血とはご聖体のことです。どうしてほかの食べ物ではなくて、ご聖体をいただかなければ、命はないのでしょうか。あんなに小さなパン、あんなに薄いパンのどこに、命を養う力があるのでしょうか。

中田神父さまは今51歳です。初聖体を受けたのは6歳の時です。45年間、ご聖体をいただいています。でも一度もおなか一杯になったことはありません。朝6時のミサでご聖体拝領してミサが終わってすぐ考えることは、「あー腹減った。何を食べようかな」です。それなのにどうして、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)のでしょうか。

神父さまになってから25年、神父さまになる前よりもご聖体のことを思い巡らし、学んできました。それでも時々、ご聖体が命を養ってくれることを忘れてしまうことがあります。昨日も、病院に入院しているおじいさんにご聖体を運んでお見舞いしてくださいと言われて、「困ったなぁ。日曜日の説教の準備中で忙しいけどなぁ」と一瞬思ったのです。

けれども、命の危険にあるおじいさんにとって、神父さまが運んできてくれるご聖体はどんなに力強いことでしょうか。神父さまはそのことをもう一度自分に言い聞かせて、病院で待っているおじいさんにご聖体を運んでいきました。

ご聖体は、見た目には小さなパンで、おなか一杯にもならないし、栄養もありません。お金で考えたら10円の価値もないかもしれません。けれども、ご聖体を待っていた人は感謝してくれます。その姿を見ていると、「わたしたちへの愛のためにご自分を無にされたキリスト」の姿が見える気がするのです。

ご聖体を拝領する人は、その人が命の危険にあればなおさら、ご自分を無にされた神さまの愛をいただいているのだと思います。神父さまはこの前のお見舞いの時、イエスさまはこのおじいさんのためにご自分を無にされたのだなぁと思いました。神さまの深い愛をもう一度思い出しました。この姿が、わたしたちを生かす力なのだと思います。

わたしたちへの愛のために、ご自分を無にすることもためらわなかった神さまの愛が、キリストの聖体です。この神さまの愛が、永遠の命です。神父さまは初聖体から45年もかかって、司祭になって25年もかかって、神さまの愛はわたしたちを生かすのに十分だと分かってきました。忘れることもあるけれども、今ははっきりそう思います。

今日お父さんに感謝するためにごミサをお願いして、ご聖体を拝領する子供たちも、覚えていてほしいと思います。ご自分を無にされた神さまの愛、あの小さなパンにまで小さくなってくれた神さまの愛は、わたしたちに永遠のいのちを与えるのに十分なのです。できれば、小さなパンまで小さくなられたイエスさまにお仕えする司祭、お仕えするシスターになろうと手を挙げてくれる人がいたらなぁと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(マタイ10:26-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼引退した神父さまが田平小教区に住んでいる。田平教会出身の神父さまだ。田平小教区には赴任していないが、同じ時代を生きたたくさんの人が今も健在である。もちろんこの引退した神父さまも見たところ健在である。
▼ときどき、教会敷地内に設置されている案内書に立ち寄って、わたしとしばし会話を楽しむ。「何かニュースはないか?」引退してもいろんなアンテナを張り巡らせて、わたしたちと同じ時代を生きておられる。わたしも、名前しか知らない人の人となりを聞くことがあり、大変助かっている。
▼5月28日、赴任したことのある小教区の人に頼み込まれての結婚式を引き受けておられた。挙式の要件になっている「聖堂での挙行」でない依頼(結婚式場)だったため、大司教さまに手紙を書いて、挙式要件の欠如を補う許可までちゃんと取っての挙式をなさったそうである。
▼その神父さまが、「挙式のための祭服一式貸してくれてありがとう」とお礼を言いに来てくれた。わたしとしては「お礼なんてとんでもありません」という気持ちだったが、とてもうれしかった。また7月に依頼を受けているそうだ。今度も挙式の要件が欠けているが、7月の依頼に関しては所属する小教区の主任司祭が全て整えてくれるそうだ。
▼小教区内に居住している引退した神父さまは、かつて鯛之浦小教区在任中にわたしに洗礼を授けてくれた方だ。いくら感謝してもしきれない。今年85歳、わたしたちの通る道を指し示してくれていると思った。

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今週の1枚
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第497回目。マツダスタジアムに野球観戦に行きたいが、チケット入手困難。

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三位一体の主日(ヨハネ3:16-18)聖霊の働きで、イエスへの信仰と結ばれた

2017-06-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/6/11(No.889)
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三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
聖霊の働きで、イエスへの信仰と結ばれた
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「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(3・16)わたしたちは主の昇天・聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体・イエスのみ心と続く一連の祭日の期間を過ごしております。父と子と聖霊の三位一体の神をたたえる祭日にあたり、今年は聖霊について考えてみたいと思います。

今月9日に、平戸市の老舗のホテルが装いも新たにオープンしまして、これはぜひ母親を連れて、温泉旅行をしたいなと思っております。まだいつにするかは決めていませんが、曜日としては、火曜日から水曜日を押さえて親孝行の日を用意しようと思っています。もし関係者の了解が得られれば、火曜日の修道院のミサと、水曜日の朝ミサにもあずかってもらおうと思っています。

そう言っていましたら、偶然にもお隣の平戸口の先輩神父さまが、10日(土)にお母様とご家族を連れて田平教会に立ち寄られました。いちばん近いホテルは別にありますが、ひょっとしたら先を越されて、オープンしたてのホテルに親孝行に行ったか?とビックリしました。

先月、母の日のミサを子供たちの依頼でおささげしてもらいました。今月、父の日が来週巡ってきます。その時もきっと、お父さんを喜ばせるミサがささげられると思います。中田神父さまは、先にお父さんが亡くなったので、目の前のお父さんのためにおささげができる子供たちは幸せだなぁと思います。期待して待っています。

さて三位一体の祭日、父と子と聖霊の神さまのことを、毎年頭を抱えながら考えてきましたが、人間がどんなに考えても神さまのことについて完全な説明などできっこないので、それよりもむしろ3年かけて父と子と聖霊について考えたほうが、準備をするわたしのためにも、同じような話を聞く羽目になる皆さんのためにも良いのではないかと思いました。今年は、聖霊について話してみたいと思います。

与えられた朗読箇所はヨハネ福音書第3章の「ニコデモとの対話」の箇所です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神の独り子は、受肉して世に来られました。神と、人とが一つになられました。この神秘に、わたしは聖霊の働きを思い浮かべました。

この世のもので、何かと何かが一つになるためには、繋ぐものが必要です。しかし神と人とが一つになるために、この世の何かでは繋ぎ合わせることは不可能です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」神の愛が、御子の受肉という神秘を可能にしていると考えれば、イエスにおいて神と人とが一つであるのは聖霊の働きでしょう。

聖霊が、神と人とを一つにする神の愛であれば、わたしたちの中で神に属するものとこの世のものとが一つになるためにも、聖霊の働きは必要になるでしょう。わたしたちの中では、目に見えない神、そして神が与えてくださる恵みが、わたしたちの中に宿ることを知っています。洗礼を受けた時、神の子とする恵みが、わたしと結び合わされました。

聖霊によって一つに結ばれたものは、本当は切り離すことができないはずですが、ある人は自分の中にある信仰を、あたかも脱いだり着たりする洋服であるかのように考えています。ある場面ではカトリック信者としてふるまい、別の場面ではカトリック信者であることを横に置きます。それは、聖霊の働きによって一つにしてもらった神の恵みとわたしの結びつきを、十分考えていないからではないでしょうか。

皮膚と、皮膚に覆われたからだとは、切り離すことはできません。そのような場面を想像すらできません。神の恵みは、あたかもわたしたちを覆う皮膚のように、聖霊によって一つに結ばれたものです。もしも無理にでも聖霊によって一つに結ばれたものを横に置くというのなら、それは皮膚を剥がすのと同じ行為であり、想像するだけでも痛みを伴うでしょう。

神の恵みであるイエス・キリストへの信仰を、聖霊によって一つに結ばれたものであると深く理解していた時代がありました。それはキリシタンの迫害の時代です。当時の人々にとってキリシタンの信仰は、例えて言えば体の一部でした。キリシタンの信仰を捨てるということは、体の一部を切り離すことで、とても考えられなかったのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしと、神が与えてくださった恵みとは、聖霊によって一つに結ばれているでしょうか。切り離したり、脱ぎ着したりできるものと思い違いをしていないでしょうか。先週お祝いした聖霊降臨、その聖霊の賜物は、わたしという止まり木につかまっている鳥のようなものでしょうか。

そんなはずはありません。わたしの中で、恵みの雨となってしみ込んだので、切り離すことも、取り外すこともできないはずです。むしろ聖霊のもたらす実を結ばせるもの、わたしの中にあるものなのです。

三位一体の神の愛、聖霊は、わたしと神の恵みとを一つにしてくださいます。それは洗礼であり、堅信であり、聖体であり、叙階の恵みです。聖霊によって一つに結ばれたものは、わたしをわたしらしくしてくれているでしょうか。父と子と聖霊の三位一体の神が、わたしの中に分けることのできない尊い恵みをくださいました。

この世に属していながら、この世に属していない神の恵みと結ばれている。わたしの生き方で、まだ三位一体の神秘に触れていない人々に証を立てましょう。脱いだり着たりできる信仰では、相手に何も伝わりません。わたしの一部となっている信仰で、出会う人に三位一体の神を告げ知らせましょう。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
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ちょっとひとやすみ
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▼切り離せないほど、一体のものは何か。考えているうちに行き詰ってしまい、「三位が一体である」という点にこだわらないことにした。3年かけて「父と子と聖霊」をよく学ぶ祭日になればいいなと思っている。
▼説教には直接出てこないが、結合双生児という言葉で検索して考えるヒントを探していた。記事がいくつも見つかった。わたしの知る結合双生児と言えば「ベトちゃんドクちゃん」だが、世界にはほかにもいろんな報告が上がっている。
▼人格は別だが、体は共有している。結合双生児についてのわたしの理解だ。ベトちゃんドクちゃんは分離手術を経て体を切り離した。足は片足ずつ分けた。2人のうち兄は長くは生きられなかったが、弟はその後生きて、家族を形成したと思う。
▼分離手術で切り離すのは、医学の進歩がそれを可能にしたからだが、それでも切り離せないものはあると思う。結合双生児が歩んだ人生や、彼らしか理解できない絆は、分離手術でも切り離せるものではない。
▼切り離せないもの。人間がたどり着ける「一体」という考えは、およそここまでではないだろうか。これは三位一体の神をたたえる所までたどり着けないので、直接的に触れないことにしたのである。
▼ところでわたしの机にも、もはや切り離せなくなったものがある。ラミネートしてはいけないもの。転勤する前のものだが、何とか剥がれないものかと試してみたが、とても手に負えず、あきらめて銀行に行こうと思っている。
▼はじめ、教会会計に「これ、見事に処理できたら会計に寄付するから」とお願いしてみたが、「本人でないと手続きできないと銀行に言われました」と断られた。仕方がないので、自分で行こうと思っている。

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今週の1枚
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第496回目。蛇が。女性の会も飛んで来ての大捕り物となった。かわいいのに。

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聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)恐れを取り除き、イエスに心を開かせる

2017-06-04 | Weblog
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
恐れを取り除き、イエスに心を開かせる
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聖霊降臨の主日を迎えました。聖霊を思い巡らすことは神の思いに心を向けることです。神の思いに目を向け、わたしたちにどんな生き方が期待されているか、考えてみましょう。

先週の司祭叙階25周年の記念ミサと祝賀会にはたくさんの方々に温かい言葉をかけていただき、ありがとうございました。子供たちのプレゼントも毎日司祭館の食堂で眺めています。打ち上げをしてくれと言っていました。7月17日海の日の夜、バーベキューでいかがでしょうか?

お祝いもいただきました。貯金と言いたいところですが、これから15年乗り続けるためにカローラフィールダーを買いましたので、母親を温泉に連れていく以外は車の支払いに充てさせてください。ただ、お祝いをくださった方には記念ミサと祝賀会の様子をビデオに撮っていますので、ぜひお分けしたいと思います。

当日の祝賀会においでくださった方々には、わたしが司祭に叙階された時のビデオをお配りしましたが、ご覧になられたでしょうか。最後までご覧になった方は、島本大司教様が赴任地を発表している様子もご覧いただけたと思います。祝賀会で配ったものと同じDVDもまだ残っています。ご覧になりたい方は案内書に声をかけてください。

一つ失敗がありました。祝賀会で入場の曲をかけてくれと言って、「パーフェクトヒューマン」というのをCDに入れて渡していました。分かる人は分かると思いますが、あの中で「ナカタ」「ナカタ」と連呼するシーンがあります。その掛け声に合わせて入場したかったのですが、ずっこけてしまいました。主任司祭入場だけ、霊名の祝いでもう一度やり直したいと思います。

福音に戻りましょう。聖霊降臨の学びは、第一朗読と合わせて考える必要があります。まずは福音朗読ですが、イエスは恐れに捕らえられている弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(20・19)と言って恐れを取り除いてくださいます。恐れを取り除いてから、聖霊を受けるように促し、さらに使命を与えています。

使命は、聖霊を受けて与えられます。しかも、恐れを取り除いてもらった状態で、平和・心の静けさを整えてもらった状態で使命は与えられます。当然と言えば当然です。恐れている弟子に無理やり使命を与えても動けないでしょう。あるいは失望している状態にあっては使命も重荷になるでしょう。平和な状態、心の静けさを取り戻した状態になってから、弟子たちは使命を果たすことができるわけです。

その鍵となるのが聖霊の働きです。イエスは天に昇られ、そのままでは弟子たちは心に穴が開いたままです。聖霊は御父から御子に与えられて、弟子たちに注がれます。「炎のような舌」(使2・3)でありながら、人間を焼き尽くすことはなく、心の平和と、使命への熱意を与えるのです。


聖霊が降った様子は使徒言行録に詳しく書かれていますが、仮にその様子を知らないとしても、問題ありません。福音朗読は聖霊が恐れを取り除いてもらってから注がれ、使命を与えることをはっきり告げています。

堅信の秘跡で、聖霊降臨の時と同じ聖霊を注がれると教えられ、中には当時の聖霊降臨と結びつかず、首を捻った人もいるかもしれません。使徒たちに聖霊が注がれた時も、彼らは使命への熱意に燃えたのであって、やけどをしたわけではないのです。堅信の秘跡を受けたわたしたちと変わりありません。

御父はアダムとエバが罪を犯して救いから遠くなったことを心配して、御子を送ってくださいました。また御子は御父から受けた聖霊をわたしたちに送ってくださいました。聖霊は、わたしたちに対する御父と御子との深い愛なのです。

ところで福音朗読の中で、「聖霊を受けなさい」この言葉にわたしはいったん立ち止まって考えました。弟子たちにわざわざ「聖霊を受けなさい」と言う必要があったのでしょうか。弟子たちには聖霊を与える約束がされたはずです(ヨハネ14・26参照)。もっと言うなら、イエスが弟子たちに聖霊を与えるのを弟子たちに前置きする必要すらないはずです。

わたしはこう思います。ヨハネ福音書は聖霊の約束を受けて何十年もあとに書かれています。何度も思い巡らし、聖霊の約束は弟子たちに言われただけではなく、イエスを信じるすべての人に向けて言われたと理解したのではないでしょうか。復活したイエスは当時の使徒たちだけでなく、今このときにも、信じるすべての人の恐れを取り除き、平和と心の静けさを整えて、使命を授けるのです。

ある人たちには特別に罪のゆるし、ある人には平和のための活動、ある人には祈ることで神の国の完成のために働く。今も聖霊は注がれて、さまざまな人に、さまざまな使命を与えているのです。

聖霊の働きは、身近な人に向かいます。わたしたちが使命を果たすなら、出会う人はわたしたちを通して聖霊に触れます。生きている限り、この世界が続く限り、わたしたちは聖霊によって遣わされていくのです。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガが今週で888号となった。パチパチ。今週の福音朗読から、個人的には「聖霊を受けなさい」を彫り出したと思っている。25年目にして初めて、「聖霊を受けなさい」が弟子たちのためだけの言葉でなく、わたしたちのためでもあることを浮き彫りにできたからだ。
▼「このように彫刻してくれ」それが聞き取れるにはまだまだだと思うが、今週に限って言えば、「言いたいことを思い通りに話す」という説教を超えたと思う。わたしの中で「聖霊を受けなさい」が説教の軸になる予定ではなかったのだから。
▼教会で発行している「瀬戸山の風」これは編集委員がいて、広報委員長が全体を見渡しているわけだが、今月の記事は引っかかる記事があり、広報委員会にも小教区全体にも考えてもらおうと思っている。
▼記事を書く場合、「記名記事」「無記名記事」があるが、責任を持ってもらう必要のある記事は「記名記事」にすべきだと思う。問題を感じているのは「イニシャル」で書かれた記事だが、イニシャルは明らかにだれが書いたか分かる場合と責任逃れとみなされる場合とがある。
▼誰だか分からないイニシャルはいけない。内容の如何に関わらず、記事は最大限尊重する。しかし書いた人が責任を持てないならば、書くべきではない。掲載すべきではない。責任を持てるのであれば、記名記事でもよい。
▼だから、来月から、教会を訪ねた人の感想文以外は、原則記名記事で書いてもらおうと思う。どのように記名するかは広報委員に任せるが、無責任な記事は出来事をつづり記録を残すための小教区報をダメにしてしまう。

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今週の1枚
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第495回目。聖母行列の様子。いくつかの場面を組み合わせて。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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