当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/170625.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/6/25(No.891)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第12主日
(マタイ10:26-33)
譲れないものを、恐れずに言い広める
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節の一連の祝祭日が終わって、年間の主日に移行しました。年間第12主日は恐れを持つ必要のある相手はこの世にはなく、むしろ神のみを恐れるべきであると招きます。わたしたちの心の持ち方をうながす大切な招きだと思います。
この前、書留で印象深いミサ依頼を受け取りました。たいていのミサ依頼は、家族の為先祖の為だと思います。そのミサには、家族と思われる方の名前と、さらに洗礼を授けてくれた神父さま、洗礼に立ち会ってくれた代父母の為と書かれていました。
いずれ報告をするのでどなたが頼んだかは公表されますが、耳を傾けてほしいのは、誰が頼んだかではなく、どんな人のために頼んだかに耳を傾けてほしいのです。
自分と関わりのある人のためにミサをお願いする。よく見かけるごミサです。けれどもその人が洗礼を受けた時に関わった神父さま、立ち会ってくれた代父母にも思いを向ける気配りは、中田神父もちょっと思い浮かびませんでした。たしかに関わってくれた司祭や代父母がいます。わたしも洗礼を授けてくれた神父さまがいますし、代父がいます。わたしが51歳になるまで、洗礼を授けてくれた神父さまも代父のおじさんも健在です。本当にありがたいことだと思います。
ではこれら洗礼に関わってくださった方々のためにわたしはどんな感謝をしてきただろうか。わたしが司祭になったことでいくらかの感謝はお返しできたかもしれませんが、十分ではないような気がします。今回依頼を受けたミサの内容を見て、もっと考えていいことだなぁと思いました。そのまま真似をしないとしても、何か続けて感謝の思いを伝えなければと思ったのです。
福音朗読を読み返してみましょう。朗読の後半に、次のようにあります。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(10・32-33)
ミサを頼んでくださる方すべてに当てはまると思いますが、ミサをお願いするということは、人々の前で「イエス・キリストの仲間です」と言い表している人たちです。それに加えて、自分がお願いする人に関わった人たちのことも忘れない。こういう姿勢は、イエスの福音を消化して、自分のものにして生きているのではないでしょうか。
「自分はイエス・キリストの仲間です」「この人は、イエス・キリストの仲間です」こう言い切ることのできる人は、他の人間関係はともかく、イエス・キリストとの関係は変わったりしない、変えたりしない。そう確信している人だと思います。それは、朗読の前半で言われていることにつながります。「人々を恐れてはならない。」(10・26)
人間関係が良好だった人と、信仰を危険にさらす場面で対立し、難しい判断ののちに離れていくことが時として生じます。ほかのことは譲ったとしても、信仰の点では譲れない。その、どうしても変えられない部分で何かを強要されると、ある人は何事もなかったかのように手のひらを返します。しかしどうしても譲れないので、ある人は強要する人のもとを去っていきます。
たとえばそれは、結婚のためにカトリックの信仰を捨ててくれということかもしれません。いのちを宿したとき、いのちを初めから守ると教えられたカトリックの信仰、生涯にわたって愛と忠実を尽くしますと、結婚の時に誓うカトリックの信仰。この生き方を捨てて、わたしと一緒に歩いてくれと言われても、わたしたちは譲れないのです。
譲れないものを守るために、離れ去ると、どんな仕返しが来るだろうかと心配になったり、立場を失うのではないかと思うかもしれません。イエスはそこで励ましの言葉をかけておられるのです。「人々を恐れてはならない。」しかもどんな危険も、神のために譲れないものは譲れないと心に決めたなら、神はあなたを守ってくださるのです。
スコセッシ監督が制作した「沈黙」を思い出してください。映画の中で、ロドリゴは最後に死んで葬られていきました。恐ろしい拷問の末に彼は転んでしまったのですが、火葬のために送り出されるとき、小さな十字架を奥さんが手に持たせてくれて、その姿で火葬されました。
譲れないものがたくさんあって、それが一つずつ引きはがされ、最後には司祭としての姿も引きはがされました。それでも、最後に一つ、譲れないものを手の中に納めて、旅立っていきました。まるで、「最後に譲れないものは、イエス・キリストへの信仰、その一つだけである」と言っているかのようです。
イエス・キリストへの信仰のために譲れないものがある。その生き方は恐れる必要のない者を恐れず、恐れるべき者を恐れて生きる生き方です。わたしたちはどうかすると自分の努力で何でもできると思っているのか、祈りをしなくても一日無事に生きていると勘違いしていますし、寝ている間に心臓が止まらなかったのもさも当たり前であるかのように思っています。恐れるべき者を恐れずに生きているのです。
恐れるべきものを恐れて生きるとは、びくびくして生きるということではありません。むしろ恐れずに生きる生き方です。わたしたちはイエス・キリストへの信仰に筋が通っていれば、何も恐れるものはないのです。「自分はイエス・キリストの仲間です」ときっぱり言える生き方、これを曲げたりおろそかにしないなら、何を失っても、誰を失っても、恐れないのです。
生涯、「イエス・キリストはわたしの仲間です」と言い続ける。わたしの守るべきものが、引きはがされるかもしれません。それでもわたしたちが譲れないものは、恐れずに言い広めることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(マルコ10:37-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼わたしが代表を務めるボランティアグループについて、わたしのメルマガと比べながら考えてみた。読書に支障のある方々のために音訳を通して情報提供の手助けをしている。会員は例外なく会費を納めて活動を続けている。自分たちの活動を維持するためだ。
▼今は会費の区分が緩和されたが、わたしの記憶によるといちばん活動している中心的な会員は月額600円の会費を払っていたと思う。その次のランクの会員が300円、そして名前を連ねて、つながりだけでも保っていたいという会員は100円だった。
▼わたしの中では「中心的に働いている会員こそ会費を100円に抑えたほうがよいのではないか」という考えがある。中心的な会員はその働きぶりで十分会費を補っていると思うからだ。むしろ中心的な働きができなくなった方々に、多めの会費で活動を負担してもらうのが合理的だと思っている。
▼ところが実際は、個人的な事情をかなり横に置いてまでボランティアを支えてくださっている中心的会員が最も活動資金を負担してきた。長年の伝統であるし、それなりの理由や事情もあるだろうから、責任者の座にいるというだけで仕組みをとやかく言うつもりはない。「働きも会費の納入も、よく頑張るなぁ」と感心するばかりだ。
▼そこで改めて考えてみた。わたしのメルマガ発行に対して、わたしは会費を払うことができるだろうか。自分の働きに対して、いくらかの費用を自分が払うことに意味とか価値を見いだせるだろうか。考えてみた。
▼自分の働きに自分で費用を支払うと、何か変化が起こるだろうか。ひょっとしたら、もっと自分の働きに責任を感じるようになるかもしれない。もっと内容を吟味したり、何度も読み返して対価に見合うメッセージを汲み取ろうとするかもしれない。
▼ということで、有料版(内容は無料メルマガと同じ)を発行し、自分が購読することにする。有料メルマガを自分で購読して、こりゃダメだと思ったら有料版は廃刊としたい。わたしは、このメルマガ配信に月額432円(税込)払う。無料版も継続するし、一切配信を受けず、ブログで読むこともできる。読者もどれかを選んでもらいたい。
▼有料版を購読してくださる方が納めてくださった購読料は定期的に報告します。関心のある方へ、URLはコチラ。http://www.mag2.com/m/0001627418.html 月途中の登録でも、月内に発行されたメルマガがすべて届きます。
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今週の1枚
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第498回目。今年の九州視覚障碍者情報提供施設大会(福岡大会)会場。駅すぐ。
ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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こうじ神父
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2017/6/25(No.891)
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年間第12主日
(マタイ10:26-33)
譲れないものを、恐れずに言い広める
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復活節の一連の祝祭日が終わって、年間の主日に移行しました。年間第12主日は恐れを持つ必要のある相手はこの世にはなく、むしろ神のみを恐れるべきであると招きます。わたしたちの心の持ち方をうながす大切な招きだと思います。
この前、書留で印象深いミサ依頼を受け取りました。たいていのミサ依頼は、家族の為先祖の為だと思います。そのミサには、家族と思われる方の名前と、さらに洗礼を授けてくれた神父さま、洗礼に立ち会ってくれた代父母の為と書かれていました。
いずれ報告をするのでどなたが頼んだかは公表されますが、耳を傾けてほしいのは、誰が頼んだかではなく、どんな人のために頼んだかに耳を傾けてほしいのです。
自分と関わりのある人のためにミサをお願いする。よく見かけるごミサです。けれどもその人が洗礼を受けた時に関わった神父さま、立ち会ってくれた代父母にも思いを向ける気配りは、中田神父もちょっと思い浮かびませんでした。たしかに関わってくれた司祭や代父母がいます。わたしも洗礼を授けてくれた神父さまがいますし、代父がいます。わたしが51歳になるまで、洗礼を授けてくれた神父さまも代父のおじさんも健在です。本当にありがたいことだと思います。
ではこれら洗礼に関わってくださった方々のためにわたしはどんな感謝をしてきただろうか。わたしが司祭になったことでいくらかの感謝はお返しできたかもしれませんが、十分ではないような気がします。今回依頼を受けたミサの内容を見て、もっと考えていいことだなぁと思いました。そのまま真似をしないとしても、何か続けて感謝の思いを伝えなければと思ったのです。
福音朗読を読み返してみましょう。朗読の後半に、次のようにあります。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(10・32-33)
ミサを頼んでくださる方すべてに当てはまると思いますが、ミサをお願いするということは、人々の前で「イエス・キリストの仲間です」と言い表している人たちです。それに加えて、自分がお願いする人に関わった人たちのことも忘れない。こういう姿勢は、イエスの福音を消化して、自分のものにして生きているのではないでしょうか。
「自分はイエス・キリストの仲間です」「この人は、イエス・キリストの仲間です」こう言い切ることのできる人は、他の人間関係はともかく、イエス・キリストとの関係は変わったりしない、変えたりしない。そう確信している人だと思います。それは、朗読の前半で言われていることにつながります。「人々を恐れてはならない。」(10・26)
人間関係が良好だった人と、信仰を危険にさらす場面で対立し、難しい判断ののちに離れていくことが時として生じます。ほかのことは譲ったとしても、信仰の点では譲れない。その、どうしても変えられない部分で何かを強要されると、ある人は何事もなかったかのように手のひらを返します。しかしどうしても譲れないので、ある人は強要する人のもとを去っていきます。
たとえばそれは、結婚のためにカトリックの信仰を捨ててくれということかもしれません。いのちを宿したとき、いのちを初めから守ると教えられたカトリックの信仰、生涯にわたって愛と忠実を尽くしますと、結婚の時に誓うカトリックの信仰。この生き方を捨てて、わたしと一緒に歩いてくれと言われても、わたしたちは譲れないのです。
譲れないものを守るために、離れ去ると、どんな仕返しが来るだろうかと心配になったり、立場を失うのではないかと思うかもしれません。イエスはそこで励ましの言葉をかけておられるのです。「人々を恐れてはならない。」しかもどんな危険も、神のために譲れないものは譲れないと心に決めたなら、神はあなたを守ってくださるのです。
スコセッシ監督が制作した「沈黙」を思い出してください。映画の中で、ロドリゴは最後に死んで葬られていきました。恐ろしい拷問の末に彼は転んでしまったのですが、火葬のために送り出されるとき、小さな十字架を奥さんが手に持たせてくれて、その姿で火葬されました。
譲れないものがたくさんあって、それが一つずつ引きはがされ、最後には司祭としての姿も引きはがされました。それでも、最後に一つ、譲れないものを手の中に納めて、旅立っていきました。まるで、「最後に譲れないものは、イエス・キリストへの信仰、その一つだけである」と言っているかのようです。
イエス・キリストへの信仰のために譲れないものがある。その生き方は恐れる必要のない者を恐れず、恐れるべき者を恐れて生きる生き方です。わたしたちはどうかすると自分の努力で何でもできると思っているのか、祈りをしなくても一日無事に生きていると勘違いしていますし、寝ている間に心臓が止まらなかったのもさも当たり前であるかのように思っています。恐れるべき者を恐れずに生きているのです。
恐れるべきものを恐れて生きるとは、びくびくして生きるということではありません。むしろ恐れずに生きる生き方です。わたしたちはイエス・キリストへの信仰に筋が通っていれば、何も恐れるものはないのです。「自分はイエス・キリストの仲間です」ときっぱり言える生き方、これを曲げたりおろそかにしないなら、何を失っても、誰を失っても、恐れないのです。
生涯、「イエス・キリストはわたしの仲間です」と言い続ける。わたしの守るべきものが、引きはがされるかもしれません。それでもわたしたちが譲れないものは、恐れずに言い広めることにしましょう。
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▼わたしが代表を務めるボランティアグループについて、わたしのメルマガと比べながら考えてみた。読書に支障のある方々のために音訳を通して情報提供の手助けをしている。会員は例外なく会費を納めて活動を続けている。自分たちの活動を維持するためだ。
▼今は会費の区分が緩和されたが、わたしの記憶によるといちばん活動している中心的な会員は月額600円の会費を払っていたと思う。その次のランクの会員が300円、そして名前を連ねて、つながりだけでも保っていたいという会員は100円だった。
▼わたしの中では「中心的に働いている会員こそ会費を100円に抑えたほうがよいのではないか」という考えがある。中心的な会員はその働きぶりで十分会費を補っていると思うからだ。むしろ中心的な働きができなくなった方々に、多めの会費で活動を負担してもらうのが合理的だと思っている。
▼ところが実際は、個人的な事情をかなり横に置いてまでボランティアを支えてくださっている中心的会員が最も活動資金を負担してきた。長年の伝統であるし、それなりの理由や事情もあるだろうから、責任者の座にいるというだけで仕組みをとやかく言うつもりはない。「働きも会費の納入も、よく頑張るなぁ」と感心するばかりだ。
▼そこで改めて考えてみた。わたしのメルマガ発行に対して、わたしは会費を払うことができるだろうか。自分の働きに対して、いくらかの費用を自分が払うことに意味とか価値を見いだせるだろうか。考えてみた。
▼自分の働きに自分で費用を支払うと、何か変化が起こるだろうか。ひょっとしたら、もっと自分の働きに責任を感じるようになるかもしれない。もっと内容を吟味したり、何度も読み返して対価に見合うメッセージを汲み取ろうとするかもしれない。
▼ということで、有料版(内容は無料メルマガと同じ)を発行し、自分が購読することにする。有料メルマガを自分で購読して、こりゃダメだと思ったら有料版は廃刊としたい。わたしは、このメルマガ配信に月額432円(税込)払う。無料版も継続するし、一切配信を受けず、ブログで読むこともできる。読者もどれかを選んでもらいたい。
▼有料版を購読してくださる方が納めてくださった購読料は定期的に報告します。関心のある方へ、URLはコチラ。http://www.mag2.com/m/0001627418.html 月途中の登録でも、月内に発行されたメルマガがすべて届きます。
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今週の1枚
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第498回目。今年の九州視覚障碍者情報提供施設大会(福岡大会)会場。駅すぐ。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
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† 神に感謝 †