こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マルコ10:46-52)「行きなさい」と送り出すイエスに従う

2012-10-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/10/28(No.616)
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年間第30主日
(マルコ10:46-52)
「行きなさい」と送り出すイエスに従う
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水曜日に、浜串教会の中学2年生が堅信式前の試験を受けました。筆記試験と祈りの口頭試験です。筆記試験は括弧の穴埋め問題で、108問設定されていまして、1問につき1.5点で満点は150点、祈りの試験は範囲が10問あって、その中から5問をくじで引いて答えます。これが50点。全体で、200点満点、合格点は150点となっていました。

筆記試験は108問ありますから、たとえ8問しくじっても150点満点をもらえます。この少しの余裕で、まぁ中にはギリギリ合格する人もいるのかなぁと思っていました。一週間前に試験問題を配って勉強してこいと言っておいたのですが、わたしは正直、「勉強してこないのもいるだろうなぁ。そいつは主任司祭の憐れみで救ってあげないといけないかなぁ」という覚悟はあったのです。

ところが、いざ蓋を開けますと、みんな猛烈に勉強したらしく、堂々と自分たちの力で合格を勝ち取ってしまいました。わたしが憐れみをかけて、恩を売るという、そういう計画は泡と消えました。残念であります。今年の中学2年生は、勉強すればちゃんと結果を出せる生徒のようです。

今週の福音朗読は、盲人バルティマイのいやしの物語です。マルコ福音記者は、バルティマイの目をどうやって見えるようにしたか、その具体的なことにはあまり関心がなく、むしろイエスと出会うまでの苦悩に多くの表現を割いています。

彼は道端に座り、叫んで、イエスに見つけてもらおうとしています。多くの人々が、バルティマイを黙らせようとしました。これは、バルティマイがイエスに出会うために乗り越えなければならない壁となります。イエスと自分が出会うためには、何としてもイエスに見つけてもらわなければなりません。それで、バルティマイは叫び続けました。

イエスは彼にどのように答えてくださったのでしょうか。イエスは彼を見つけて、ご自分のもとへ呼び、そして最後には「行きなさい」と送り出します。このイエスの一連の動きは、バルティマイだけでなく、わたしたちすべてに深く関わっています。

まずはバルティマイのその後を見届けましょう。彼は目が見えるようになりたいと願いました。イエスは、奇跡を起こすことばさえも言わずに奇跡を行い、「行きなさい」と声を掛けたのです。つまりそれは、いやしのことばよりも、「行きなさい」ということばのほうが、もっと大切な意味を含んでいるということではないでしょうか。

バルティマイは、願い通りすぐに見えるようになりました。もし、見えることだけで彼が満足したなら、次の言葉は物語に加えられなかったことでしょう。「なお道を進まれるイエスに従った。」(10・52)

バルティマイは見えるようになったとき、イエスに従うべきだと理解したのです。バルティマイにとって、見えるようになったのはほんの始まりで、イエスに従ってこれからを生きることのほうが、もっと重大なことだったのです。

ここに、今週わたしたちが学ぶべき点があると思います。悩みを抱え、苦悩しているすべての人に、イエスは足を止め、その人を見つけてくださいます。そしてご自分のもとへ呼び、最後には「行きなさい」と声を掛けてくださいます。

どこへ行くのか。それはバルティマイと同じ道です。バルティマイは「なお道を進むイエスに従った」のでした。イエスがこれから進む道、それは、エルサレムへの道です。つまり、十字架にかかって命をささげ、救いを完成される道のりです。

ですから、イエスに見つけてもらい、「行きなさい」と送り出された人は皆、救いを完成させるための道を歩き始めることになります。バラバラに、好き勝手に歩くのではなく、その速さも、いつから歩き始めるかも人それぞれですが、皆、イエスが歩んだ救いの完成への道を、歩き始めるのです。それも、イエスのあとに従って歩むのです。

堅信式を受ける中学2年生の皆さんは、今年は11月11日に、青方教会に集まって堅信の秘跡を受けます。皆呼び集められ、司教さまに秘跡を授けてもらって、「行きましょう、主の平和のうちに」という呼び声で送り出されます。実はこの日一日はイエスに声を掛けてもらい、なお道を進まれるイエスに従う一日なのです。堅信の秘跡を受けて、さらに歩みを確かなものにして、イエスに従う日なのです。

結婚した人たち、皆さんは教会に呼び集められ、神に結び合わせてもらい、そして祝福のうちに送り出されました。その日から、なお道を歩まれるイエスに従う日を積み重ねてきています。修道者も司祭も、だれもがイエスに呼ばれ、「行きなさい」と送り出されて今を生きているのです。

振り返って、わたしたちは本当に、「なお道を進まれるイエスに」従っているでしょうか。堅信式や、結婚式や、誓願式叙階式で、わたしたちの目は以前よりも見えるようになり、イエスの歩む道を歩み続けているはずなのです。

もしかしたらある人は、歩みを止め、遠ざかっていくイエスの姿を見ても追いつこうとせず、道を逸れようとしているかもしれません。それでもイエスは、またきっといつかあなたを見つけ出し、ご自分のもとに呼び、「行きなさい」と声を掛けてくださいます。

イエスは今日、わたしたち一人一人に、「何をして欲しいのか」と尋ねます。本当に今必要なことを願い、イエスに従ってこれからの道を歩み続けることができるように、ミサの中で声を上げることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(マルコ12:28b-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼心あるかたから血圧計をプレゼントしてもらった。毎日、血圧を測っている。まぁ言ってみれば精神安定剤のようなものだが、自分の体が発している信号をキャッチしてあげなさいという神さまの声に、従おうと思っている。
▼メールアドレスを教えてもらっている上五島病院の先生に「血圧計をもらいました。今計ったところ、上が118で、下が78、脈拍は70です」と、画像を添付して様子をメールでお知らせした。
▼「正常な範囲の値です」と、先生から連絡が入った。ところが自分が送った添付ファイル付きのメールを読み返して、とんでもないことに気がついた。わたしが医師に送った添付ファイルには、プレゼントされた血圧計のパッケージの箱と、中に入っていた本物の血圧計とが写し出されていたが、本物の血圧計には数値が表示されていないではないか。
▼では何を見て、数値を医師に報告したのだろうか。すぐに分かった。パッケージの箱に移し出された血圧計に、報告したそのままの数値が表示されていた。どうやら考えもなしにパッケージの数値を読み上げて、報告していたらしいのである。
▼慌てて、血圧を測り直し、メモにとって、その数値を報告しなおした。先生はどう思っただろうか。慌て者だなぁと思ったかもしれない。そのせいか、やや下の数値が高かったような気がする。
▼こんなドジを踏むなんて、かつては考えられなかったことだが、こんなことを平気でするようになったのは、もはや年齢のなせるわざとしか思えない。こんなヘマをして、笑われたりする年齢になったのだと、受け入れることにした。

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今週の1枚
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第223回目。その血圧計。思い返すと穴があったら入りたい気分である。

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年間第29主日(マルコ10:35-45)報いとは関係なく、困難を受けて立つ

2012-10-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/10/21(No.615)
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年間第29主日
(マルコ10:35-45)
報いとは関係なく、困難を受けて立つ
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昨日から今日にかけて、長崎カトリック神学院では1日体験入学が計画され、浜串小教区からは6年生を1人鯛ノ浦港から送りました。同じ体験入学に、別の小教区から3人の6年生が参加していました。

わたしは自分の小教区の子供に、「よく見て、いっぱい学んできなさい。帰ってきたら感想文を書いてもらうから。原稿用紙100枚分ね」と言ったんです。いつもそうやってからかわれているので、うちの子供は「またまたぁ」という顔をしていましたが、そばにいた別の6年生は、顔が真っ青になりまして、「浜串教会の子供じゃなくてよかったぁ」と言っていました。どうやらわたしの冗談はセンスが悪いようです。

子供たちを乗せた船が鯛ノ浦港を離れてから、長崎カトリック神学院に、「鯛ノ浦港から4人送りました」と伝えますと、今年は五島からの参加者は浜串ともう一つの教会の、4人だけなのだと聞きました。世界宣教の日を今週迎えましたが、世界中に神のことばを伝えなければならないのに、五島から体験入学の生徒が4人しかいないというのは不安だなぁと思いました。

さて今週の福音朗読は、ヤコブとヨハネが自分たちの栄誉になるような約束を取り付けようとする場面から始まっています。今週の朗読の置かれた状況を確認すると、イエスは十二人の弟子を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し、その後に今日の出来事が続いています。

イエスは自分の身に起こる出来事をはっきりお話しになりました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10・33-34)

この時、イエスの死と復活の予告はすでに三度目になっていました。ですから、十二人の弟子たちは、これはもう苦難は避けられないということを理解していたはずです。師であるイエスが苦しんで死ぬことになれば、わたしたちにも影響が及ぶのは必至だとうすうす感じていたと思われます。

そんな中で、ヤコブとヨハネがイエスに約束を取り付けようとしているのです。想像を絶するような苦しみが避けられないのだったら、そのあとの栄誉ぐらいなければやってられない。そういう気持ちだったかも知れません。

しかも、イエスはご自身の苦しみと死のあとに、復活が用意されていることをはっきり言っています。弟子たちは、イエスの苦しみの後に来る輝かしい復活を、苦しみの報いととらえたのでしょう。後に続くわたしたちにも、苦しみのあとの報いを約束してもらおうではないか。だいたいこういったところがヤコブとヨハネの願いの根拠だったのでしょう。

2人の願いに、イエスはご自分の右に座る栄誉、左に座る栄誉を約束しませんでした。約束しなかったわけは2つあるでしょう。1つは、ご自分の復活の出来事は、苦しみの報いではないからです。もう1つは、苦しみは報いがなければ無意味なのではなくて、苦しみそのものに意味があることを知らせたかったからです。

それぞれ、考えてみましょう。まず、イエスは死んで、そののちに復活するお方です。どのような死に方をしたにせよ、イエスは復活するお方です。死に勝利して、永遠の命を持っておられることを宣言するお方だからです。ですからイエスの復活は、苦しんだことの報いではないのです。苦しみは、苦しみそのものに意味と価値を見いだす必要があります。

次に、弟子たちは報いがあるのは当然だと考えています。苦しんだだけで終わるというのは、損をしていると考えているのかも知れません。自分たちにも苦しみが及びそうな予感がしています。苦しんだだけで終わりなのだろうか。師匠であるイエスのために苦しみを受けるのだから、イエスからその報いを受けても悪くないではないか。そう考えての行動だったのかも知れません。

けれども、イエスは右と左の席を約束しませんでした。約束がなかったことで、苦しみは報いとは直接結びつかないのだということが分かってきました。イエスは問いかけます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)苦しみを苦しみとして、そのまま受け入れることができるか。イエスは知りたかったのです。

ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。これはイエスが期待していた通りの返事ではありません。ヤコブとヨハネは、右と左の席という報いを約束してもらいたかったので、「できません」とは言えなかったのです。引くに引けなくて、「できます」と言ったと考えた方がよいでしょう。

それは例えて言えば、弟子をいっさい取ろうとしない先生に弟子入りしたくて、「どんなことでもやります」と言っているようなものです。その人は、弟子になれるという報いを当てにして、「どんなことでもやります」と言っているだけなのです。報いとは無関係に、どんなことでもやりますと答えているわけではないのです。

ヤコブとヨハネもそうでした。自分たちも何かしら栄誉を受ける当てがあれば、いくらでも苦しみを受け入れよう。報いのない苦しみは、考えられなかったのです。やはり、報いを横に置いて困難に立ち向かおうとしないのが、人間の正直な姿かも知れません。

今日は世界宣教の日に当たっていますが、報いを横に置いて、報いのことなどいっさい気にせず、宣教に目を向ける人になりたいと思います。わたしたちキリスト者がいるその場所が、宣教の場所です。報いを気にしないで、報われないことを恐れないで、困難に立ち向かう力と勇気を、イエスに願いたいと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼頭が痛い。メルマガを午前中からどうしても取りかかれず、午後になってもとうとうできず、夜に書こうとしたがそれでも頭が痛くて、とうとう夜中の1時になってしまった。今もまだ痛いが、何とか片付けて布団に潜らなきゃ。
▼こんなに体調がすぐれないのは初めてだ。金曜日に食事に招待され、遅くまでいたのが響いているのだろうか。そうなると、この頭の痛みは二日酔いか?初めての経験で、何が何だかさっぱり分からない。
▼たくさん飲めるわけでもないから、飲んだ量も把握しているつもりだ。一つ気になっているのは、テーブルの向かいの人から「顔色が悪い」と言われたことだ。初めて言われた。いつも顔が真っ赤になるのに、「顔色が悪い」というのは何だったのだろうか。
▼昨日から信心用具の移動販売の人が来ている。どれくらい買い求めてくれているか分からないが、いくらかでも協力できたらいいと思っている。それぞれ必要のある人と、それで生活している人と、それぞれの事情があるから、うまくかみ合って欲しいものだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第222回目。信心用具等の移動販売。

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年間第28主日(マルコ10:17-30)天に富を積むために

2012-10-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/10/14(No.614)
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年間第28主日
(マルコ10:17-30)
天に富を積むために
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誰でも、もう一段上の状態、さらに上のレベルに進めたらなぁと思うことがあるでしょう。スポーツでは今まさに日本のプロ野球もアメリカのメジャーリーグも大詰めを迎えていますが、打率が3割ちょうどの選手は、3割3分打ちたいという気持ちは必ず持っていると思います。

また、仕事で考えれば年収が300万円の人は、400万円にアップするともっといいなぁ、そのために課長か係長か部長になって、がんばりたいなぁと思っている人もいるでしょう。

学問の世界では、今年のノーベル賞医学・生理学賞を京都大学の教授が受賞しましたが、あくまでこの教授の研究は基礎研究で、まだ再生医療で患者を救ったわけではありません。当然今の研究を、患者を救うところまで進めたいなぁと思っていることでしょう。

いろんな立場の人が、自分の今の立ち位置から、さらに上を目指していると思います。ちなみにわたしはどうかと言いますと、たとえば何かの役職、上五島地区の地区長になりたいとか、あるいはどこかの教区の教区長になりたいとか、そういうことは目指しておりません。そんなことではなく、よりイエスの役に立つためには、さらに何をすればよいのだろうか、それはよく考えます。

そこで今週の福音朗読に登場した人物に繋がっていきます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10・17)彼は、「何をすればよいでしょうか」と尋ねました。続くイエスとのやり取りで明らかなように、彼は周囲から十分評価されるだけの生活を維持してきたのです。さらにその上に、何を積み重ねたらよいか、知りたかったのでした。

イエスはまず、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(10・18)と言ってこの人の目を神に向かわせ、その上で十戒を思い出させる言葉を投げかけます。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(10・19)

それに対してこの人は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたのです。どんな心境だったのでしょうか。1つは、それらを十分守ってきたという自負心があったのかもしれません。もう1つは、幸いに、それら十戒の掟を子供の時から守ってきて、ほっとしたのかもしれません。でもさらに、何かを積み上げて「永遠の命」を確実なものとしたい。それがこの人の今の望みだったのだと思います。

イエスは何と答えたのでしょうか。ひとことで言うと、「何かを積み上げて永遠の命を確かなものとするのではない。むしろ、いっさいを捨てて、永遠の命を確かなものとするのだ」と答えたのだと思います。

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」(10・21)

たしかに、彼は金持ちでした。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(10・22)とあります。もちろんイエスはこの人が金持ちだったから持ち物を売り払い云々と言ったわけですが、金持ちの話に終わらせてしまうと、わたしたちの多くは、自分とは関係のない話と受け取るのではないでしょうか。

そこで、今週の出来事がお一人お一人に必ず関係があることを理解するために、もう一度整理しておきたいのです。イエスは彼に、「さらにその上に何かを積み重ねるのではなく、いっさいを捨てることで、永遠の命に近づくのだ」と言いたかったのです。

何が求められているか。福音朗読に登場した金持ちは財産を売り払うことでしょうし、スポーツ選手はこれまでの技術、経験をいったん横に置いてまったくのゼロから次の高みを目指すことです。より上の年収を望む人も、今の状態に満足する気持ちをいったん捨てる必要があり、基礎研究で名声を手に入れた教授の方も、この興奮から離れて、また一から出直して目標に向かっていく。そうして目指すものが手に入るのではないでしょうか。

わたしも、よりイエスの役に立つ道具になるために、今まで書いてきたもの、今まで話してきたこと、この場面ではこのように接してあげるとよいといったような経験、そうしたものをすべて手放して、何度も何度も自分をゼロの状態にしていく。そうすることでもう一つ高い次元で、イエスさまのお役に立てるのかなぁと思っています。

皆さまにとって、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」というイエスの呼びかけは、どのように当てはまってくるのでしょうか。病気をして、これまで自分の宝物と思っていた健康を失ってしまった。これも、持っている物を売り払うことになるかもしれません。健康を失って、それでもイエスへの信仰に留まることができるなら、私たちは天に富を積むことになるのです。

事情があって、慣れ親しんだ仕事を取り上げられることがあるかも知れません。職場内の配置転換で、不本意な思いをするかもしれません。そうした時が、あなたにとって「持っている物を売り払う」体験になるかもしれません。その時になお、イエスへの信頼を保って前を向けるなら、天に富を積むことになるでしょう。

ペトロは、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10・28)と胸を張って言いましたが、彼もまた、十字架に向かうイエスを前に三度「そんな人は知らない」と言って、一番弟子であるという自負心を打ち砕かれ、打ち砕かれてイエスの羊を任せることのできる本当の弟子に変えられたのでした。

金持ちの出来事は、だれもが通らなければならない道です。わたしにとって、持っている物を売り払い、だれかにその恩恵をすべて譲るということはどういうことだろうと、じっくり考えてみましょう。ただで受けた物をすべてただで与える時、わたしたちはさらなる高みに招かれるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マルコ10:35-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼客人が神奈川から浜串に来てくれた。大学の授業をこなして、その足で長崎の大波止から船に乗り、五島に渡ってきてくれた。初めに会ったのは浦上教会の助任で新米司祭の時だったか。その時から約20年、細く長くお付き合いさせていただいている。
▼客人は大学の先生である。専門はモンテッソーリ教育。子供への深い愛情を持って、子供を研究している。今年はどんな話に花が咲くだろうか。わたしのほうからは、長期にわたって健康で学問の道を続けていくために心がけていることがあれば教えていただきたいと思っている。
▼ノーベル賞を受賞した京都大学の教授は、平均すると研究に従事する人は9割が失敗で、残る1割成功すればよいほうなのだとか。たくさん失敗しても、恐れるに足らず。むしろどんどん失敗しなさいという懐の深さはには驚かされた。
▼わたしは1割の成功をしてきただろうか。1割には達していないかもしれない。5分くらいかもしれない。19回は失敗で、20回に1回しか成功を収めてなくて、神にその成功をおささげできていないのではないだろうか。
▼客人は文系の教授だが、1割ヒットで立派という意見はどう見るのだろうか。ご自分の研究者としての人生は、打率で例えるならどれくらいの率のヒットを打ったのだろう。わたしに与えられている現役の時間はまあもってあと20年だろう。あと20年で、1割打者になるためには、たぶん2割近い打率を残さなければならない。

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今週の1枚
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第221回目。信仰年の開始のミサ。14日に行った地区合同のミサの様子(後日)

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年間第27主日(マルコ10:2-16)一つ一つが神に結び合わされている

2012-10-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/10/07(No.613)
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年間第27主日
(マルコ10:2-16)
一つ一つが神に結び合わされている
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今日は上五島地区連合婦人会主催のミニバレー大会です。選手の皆さんはこれまでケガに注意しながら練習を積み重ね、準備してきましたので、ぜひ練習の成果を発揮しましょう。

お父さんたち、子供たち、また応援に参加できる皆さんは、選手の皆さんがふだん通りの力を発揮できるように、精一杯応援をお願いします。対戦は、福見・高井旅チームがAブロックの第3試合と第6試合、浜串チームがBブロックの第4試合と第8試合となっています。

わたしは両方のチームの練習に参加しましたが、両方ともそれぞれ特色のあるチームで、ふだん通りの力を発揮すれば、きっと好成績を残せるのではないかなぁと感じております。わたしも、福見・高井旅チームのユニフォームを支給されていますので、参加して頑張りたいと思います。

今週の福音朗読は、離縁についての教えです。夫が妻を去らせる、離縁することについて、ファリサイ派の人々はイエスを問い詰めようとしました。ファリサイ派の人々は、結婚した夫婦をどのように守り育てるかについてはまったく興味がなくて、夫婦の中でのいちばん悩ましい問題さえも、イエスの言葉尻を捉える材料にしか考えていなかったのです。

夫婦にのしかかる重い課題について、イエスの次の言葉がすべて答えてくださっていると思います。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(10・9)結婚は、人間がある一組の男女を結び合わせたものではなく、神が結び合わせたもので、それを人は離してはならない。これがすべての答えです。

人間が始めた決まり事であれば、将来人間の都合で変わるかもしれません。けれども結婚は、神が男女を結び合わせてくださった。これが出来事の始まりですから、神が始めてくださったことを引き裂くことはできないということです。

考えてみると、神が結び合わせてくださったものというのは、結婚だけに限らないと思います。わたしたちの身の回りのことは、神が結び合わせてくださったと言えるものがたくさんあります。わたしたちの信仰生活に深く関わっている七つの秘跡はすべて、神が結び合わせてくださったものではないでしょうか。

洗礼の水は、わたしたちを神の子とするために、わたしたちが神の永遠の命に結び合わされる秘跡です。堅信の秘跡は、洗礼を受けた人が、聖霊の七つのたまものに結び合わされて、大人の信者となる秘跡です。聖体の秘跡は、イエスがパンとぶどう酒のもとに実際にとどまって、わたしたちとイエス・キリストとを結び合わせる秘跡です。他の秘跡も、同じように説明を加えることができます。

こうして神は、わたしたちの生活の中に、神が結び合わせてくださったものを、たくさん用意してくださっています。それら神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。これが、今日イエスの言いたいことではないでしょうか。

洗礼の恵みをいただいている人が、洗礼の恵みを忘れたような生活をしている。堅信の恵みをいただいていながら、証しする人、信仰に反する事柄と戦うことを放棄している。聖体の恵みをいただける環境にありながら、行けば行けるけれどもミサに行かないでいる。それらはすべて、神が結び合わせてくださったものを、人間が引き離している行為ではないでしょうか。

わたしたちの身近な所で、神が結び合わせてくださったものを、人が引き離そうとする危険が潜んでいます。結婚に関わる重大な局面だけが、神が結び合わせてくださったものを引き離そうとする危険な場面ではないのです。身近な場面から、神が結び合わせてくださったものを守り育てるように、十分気を配る必要があります。

10月のロザリオの月、子供たちの参加がすっかり減ってしまいました。聞く所によるとそこにいても、隠れて出て来ないという話です。そんな中で、5月の聖母月も、今月のロザリオの月も、ずっと出席を欠かさない子供がいます。ありがたいことです。こういう子供を見ていると、神がお祈りの楽しさと結び合わせてくださったその子を、人が離してはいけない。絶対に守り育ててあげなければいけないと思います。

わたしたちの身の回りのことで、神が結び合わせてくださったものをわたしたちは大切に守り育てているでしょうか。人の都合で、あるいはだれかのせいにして、引き離そうとしてはいないでしょうか。

信仰に関わる事柄は、どれも神が結び合わせてくださったものです。その絆を守り育てるために、今週一週間振り返りの時間を持ちましょう。ミサの中で、すべてを結び合わせてくださる恵み深い神に、感謝の気持ちをささげましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マルコ10:17-30)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼10月のロザリオの月に合わせて、出席カードを作成した。5月の聖母月にも出席カードを作った。作るのが嫌だとは言わないが、わたしのアイディアではわたしでさえも「ありきたりかなぁ」と思う。できればいろんな人のアイディアを参考にしたい。
▼いろんなアイディアを参考にしたいが、それをどこに求めれば与えられるのだろうか。わたしの情報不足かもしれないが、かゆい所に手が届くようなそうした材料、資料、サンプルといったものはどこにあるのかという情報がない。わたしはこの状態は長崎教区の貧しさだと思っている。
▼いろんな資料が、もし権利関係の問題がないのであれば、自由に利用できるようにネット上にアップしてくれたらいいのに。ときどき長崎教区では「これこれのプリントができました。実費200円で配布致します」とか案内が来るのだが、実費だけでまったく儲けがないのであれば、わざわざ紙ベースで配布しなくてもよいと思う。
▼ネットでダウンロードして、ほんのちょっと自分なりのアレンジをする。そうしてもっとバリエーションが増えれば、どこかのだれかが作った物が長崎の、ひいては日本のどこかの教会で役に立つことがあるのではないだろうか。
▼わたしは保護者の皆さまへという案内状を書くのが面倒だと感じることがある。結局は案内状、お知らせを作って出すのだが、わたしよりも面倒に感じている教会、教会学校関係者は、わたしの作ったお知らせでさえ参考にさせてもらいたいと思っているかも知れない。
▼そうしたどこでも使いそうな資料、どこかが作っていればぜひ参考にしたい文書のひな形、ありとあらゆる「こまごましたもの」を集めたサイトがあれば、役に立つのではないだろうか。もちろん、雑然と寄せ集めても不便だろうから、整理整頓してアップしたほうがよいとは思うが、いろんなものが集められた時、宝の山になるのではないだろうか。
▼まぁそうは言っても最初の一歩は言い出した自分がしなければ始まらないのだろうから、そういうものを目指して、動き出してみようと思う。2013年ロザリオの月出席カードをアップすることから始めようと今計画中である。もし賛同してくれる人がいれば、アップしてもかまわない資料やイラストなどをメールで送って欲しい。アップするサイトの準備や、資料を共有するためのルールも考えなければならない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第220回目。来年2013年のロザリオの月出席カード(参考)。

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