こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)あなたがいてくだされば、絶望の中でも希望を持てます

2024-07-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/28(No.1307)
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年間第17主日(ヨハネ6:1-15)
あなたがいてくだされば、絶望の中でも希望を持てます
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(訳あって、2009年原稿を再掲)今週は、ヨハネ福音書による「五千人に食べ物を与える」という奇跡の物語で、四つの福音書ともに出来事を残しているわけですが、他の福音書の書き方とはっきり違いを見せています。共観福音書では、パンの奇跡が行われた場所は「人里離れた場所」とされていますが、ヨハネは出来事が山でおこなわれたとしています。

この「山」という表現ですが、かつて山で行われた出来事と、今回の出来事を重ねて考えてみなさいと言いたくて、「山」という場所を用いているようです。

「かつて山で行われた偉大な出来事」とは何でしょう。イスラエル人が真っ先に考えるのは「十戒の出来事」でしょう。神はモーセを通じてイスラエルの民に十戒を授けました。民はこれを守り、それによって神が民を守り、救うというものです。

ですから、イエスが五千人に食べ物を与えるという奇跡を「山」でおこなったという書き方をヨハネがしているのは、かつての山での出来事を思い出しなさい。神が十戒を与えて民を守り、救うと約束したように、今イエスも、あなたたちを守り、救う約束としてパンを与えているのですと言いたいのです。

ヨハネが描くパンの奇跡に見えるもう一つの特徴は、この出来事を「しるし」として示している点です。パンを食べさせてくれたのは、かつて十戒を授けてくれた神に私たちの目を向かわせたように、イエスもまた、神の子として私たちの救いのためにこの偉大な出来事をなさったのだと気づいて、神をたたえるべきだったのです。

ところが、群衆が取った行動は、イエスをこの世の王に仕立てようとする態度でした。この世の王は、人々を支配する存在です。救いを与えるのではなく、支配のもとに人々を置くに過ぎません。支配ではなく、神に守られ、愛されている喜びを持ちながら生きるために、奇跡をしるしとして用いたのです。

さて、このようなヨハネの理解を踏まえて、パンの奇跡の出来事をふり返ってみましょう。イエスは、フィリポに尋ねます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」(6・5)イエスはひとまずそばにいた弟子に尋ねています。弟子に何かを気づかせるためにほかなりません。

フィリポは置かれている状況が絶望的であることには気づいたようです。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」(6・7)シモン・ペトロの兄弟アンデレも、何かはあるけれども、何かがあるだけで何の役にも立たないだろうと決めてかかっています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6・10)

この状況は、きっと私たちの状況を指しているのだと思います。さまざまなことが、希望の持てない状況です。そこへ、イエスは見落としている大切なことを指摘します。絶望的な状況だけれども、わたしがそばにいるのを忘れてはいないか。何の役にも立たないくらいしか手持ちがないけれども、その役に立たないほどわずかのものを活かすことのできるわたしがいるではないか。そのことをイエスは、当時の弟子たちにも、私たちにも言いたいのではないでしょうか。

私たちは、イエスが示す奇跡をきちんとしるしとして読んでいるでしょうか。私が抱えていた絶望的な気分は、イエスがそばにいることを忘れていたことで生じていたのではないでしょうか。イエスは今も、私たちに「この絶望的な状況を、どうしたら打開できるだろうか」となぞかけをしているのではないかと思っています。

それに対して「もちろん、あなたがそばにいてくだされば、きっと解決できます」と答える準備をしておきましょう。その答えを、イエスは今か今かと待っておられるのではないでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼時々同じことを書き込んでいると思うが、「神様が経験させようと考えたことはすべて経験する」と考えるようになった。それは人との出会いもそうであるし、人生経験、健康や病気などである。
▼自分がたいした病気もしたことがないのに「病気の時は仕方が無いから、じっとしていたほうがよい」と言うのは、相手には伝わらない。辛い病気を経験して初めて、辛い病気の人に寄り添ってあげることができる。
▼病気らしい病気をしたことのない人が一ヶ月入院し、病人特有の青白い顔になり、すっかり痩せて退院したのを見たことがある。それ以前には理解できなかったことが、入院を境に理解できるようになったに違いない。神様は、必要なことは必ず経験させてくれるのである。

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今週の1枚
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第914回目。Amazonの商品を受け取る専用BOX。「置き配」希望の人には便利。

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† 神に感謝 †
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年間第16主日(マルコ6:30-34)良い休みを学ぶとよく働き、人に良い休みを与える

2024-07-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/21(No.1306)
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年間第16主日(マルコ6:30-34)
良い休みを学ぶとよく働き、人に良い休みを与える
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「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」(6・31)私は、このイエスの言葉が、弟子たちに対する深い思いやりとして映りました。何らかの形で人を雇っている立場にある人々にとって、学ぶことの多い態度だなと思ったのです。

イエスが弟子たちに「休みなさい」と言っている今週の朗読箇所は、小教区で人を雇ったり、協力者を募る立場になってようやく自分のこととして受けとめることが出来るようになりました。弟子たちに配慮するイエスの姿はつねに主任司祭のお手本です。

最高の模範があるにもかかわらず、私は雇っている人々にとって良い雇い主とは言えないと思います。協力者に対しても、良い責任者ではないと痛感します。未だに、人が人のために働いているということを、十分理解していないからです。

かつて、2人の主任司祭のもとで教会の務めを学びました。雇っている人、協力者への接し方も見て学びました。当時は20代後半から30代に入るという本当に若い時期でしたので、人が人のもとで働いていることについてほとんど理解していなかったと思います。

一方で、ある部分では雇われている身でもあります。主任司祭としてくださっているのは大司教様です。大司教様に任命された場所で務めを果たします。若い頃よりも今の方が、大司教様の期待に応えたいと考えるようになりましたし、大司教様がどんな気持ちで任地を決めて、私たちを働かせているのかなぁということも考えるようになりました。

そこであらためて思い返すのです。「しばらく休むがよい。」私は、イエスのような配慮を、雇っている人に持っているのだろうか。協力を仰いでいる人に、イエスのような温かい思いやりを掛けているのだろうか。むしろ配慮にも思いやりにも、足りない面があるのではないかと思うことばかりです。
子どもたち、また学生たちは夏休みに入りました。夏休みにも、今日のイエスの呼びかけ
を当てはめて考えることができます。「さあ、夏休みだ。しばらく休みなさい。」やってきた休みを何となく過ごすのではなく、イエスが休みなさいと言っているのだと考えるわけです。そのことで、休みは次の学期への準備をさせてくれるはずです。

私の主任神父様になってくれた2人の神父様は、次によく働くために休みを取るということを上手に実行していたと思います。神父様自身のためだけではなくて、主任神父様のもとで働く司祭にも、「良く休んで良く働く」ということを実践しておられたと感じました。

イエスは弟子たちにはしっかりした休みを取らせつつ、押し寄せてくる群衆には「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6・34)となっています。責任者が、態度で弟子たちを教え育てています。まず休みなさい。しっかり休んだら、私がしていることをあなたがたもしなさい。導きが必要な人々がまだまだたくさんいるから、いろいろと教えてあげなさい。そんなふうに、イエスはご自分の働きぶりで教えてくださっています。

私たちは皆、イエスから「休みなさい」と声をかけてもらう必要があると思います。イエスが私たちにくださる休みの中で、私たちは次に備える時間を持ちます。イエスが用意した場所で休むなら、その休みは本来の姿にどのように向き合うべきかを考える良い機会になるはずです。

もっと、雇われている人の気持ちに寄り添って「休みなさい」と声を掛けてあげられる人でありたいと思いました。そして、休みから帰ってきたら、また気持ちを込めて働く人へと育ててあげる必要にも気づきました。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日(ヨハネ6:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の広島カープ、すごく期待を持たせてくれている。一ヶ月首位だったこともあるし、全体的に粘り強さが戻ってきた。だがリーグ三連覇の時のような得点力が無い。それは一にも二にも、ホームランバッターがいないからだ。
▼ホームランを期待しているのは特に助っ人外国人ということになるが、今年の外国人選手はいわゆる「大砲」ではない。前評判からはすごく期待したのだが、助っ人のホームランを見たことがなかった。
▼その日も、無得点のまま試合が進み、「得点してくれないとピッチャーの気持ちが折れて失点してしまうじゃないか」とハラハラしながら試合の流れをラジコで聞いていた。
▼七回にノーアウト一二塁、絶好のチャンスが回ってきた。しかし後続が二人倒れ、次のバッターが助っ人外国人。「あー、ダメか」と思った二球目、球場が悲鳴に変わる。スリーランホームランが飛び出したのだ。助っ人外国人に、心からお詫び申し上げます。

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今週の1枚
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第913回目。ひどい肩こりが頭痛を誘う。病院(CT)と整骨院のお世話になる。

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年間第15主日(マルコ6:7-13)神のことばの一節を持ち帰り、杖一本とする

2024-07-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/7/14(No.1305)
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年間第15主日(マルコ6:7-13)
神のことばの一節を持ち帰り、杖一本とする
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「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず・・・」(6・7)八年前、2016年の1月下旬に、まれに見る大雪が降りました。私は上五島の浜串小教区にいましたが、本教会の浜串で7時のミサをした後、9時に巡回の福見教会でミサをしなければなりませんでした。

しかしすでに相当の雪が積もっており、車を出して山道を登るのは不可能でした。このままでは巡回教会のミサが出来なくなります。考えた挙げ句、ミサの時間を一時間遅らせて、歩いて巡回教会に向かうことにしました。この時、竹を切った杖を手に持って、片道一時間半歩いて出かけたのです。

浜串教会から峠を登り、いったん峠を降ります。そしてもう一つ峠を登って降ったところに福見教会があります。汗びっしょりになりながら司祭館で全身を拭き、身を整えてからミサをしました。

現代ですから、説教の原稿はスマホがあれば話すことは出来ます。文字通りの杖一本ではありませんでしたが、車に乗らず、ほとんど何も持たず、待っている信者のもとにミサをしに行ったのは忘れられない思い出です。

杖一本を持って出かける。イエス様時代のパレスチナで杖を持ち歩く人とは、旅をする人の姿だけでなく、一般的には羊飼いの姿なのでしょう。出かけた先に、杖を使って案内し、導く羊たちがいる。旅の途中に出会う危険な動物を追い払うだけでなく、その杖によって養う羊たちが目的地で待っています。そう考えて道を進むとき、たとえそれが困難な道であっても元気が出ます。

「杖」は、「あなたにわたしの羊を任せる」そのしるしとなります。食べ物や、施しを受ける袋や金銭は、イエスから派遣されたしるしにはなり得ません。待ち受ける人々は弟子たちの宣教する姿を自然と見極めます。神の国を告げ知らせる人がパンや袋や金銭を頼りにしていたら、人々から見切られてしまうでしょう。弟子たちは、羊を導くための「杖」に寄り頼んで宣教するので信頼されるのです。

弟子たちは、はっきりと「杖一本」持っていくように指示を受けました。皆さんはどうでしょうか。「杖一本」は難しいかも知れませんが、イエスから派遣された「しるし」これを拠り所に生活を組み立てることは可能です。特に、日曜日毎に朗読される聖書の一節を、今週の拠り所に持ち帰ろう。この積み重ねをしていけば、皆さんの生活も杖一本を手に、ミサから派遣されて生活に戻る人になれます。

場合によっては、福音朗読の一節ではなく、第一朗読や、第二朗読の一節が心に残って、一週間を組み立てる土台にできるかも知れません。13日土曜日の朝、第一朗読はイザヤ書でした。最後の部分で「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」という対話がありました。とても印象に残りました。第一朗読、第二朗読は、皆さんが読むわけですから、心に残る可能性は十分あります。

神のことばの一節を、生活に派遣される者として持ち帰りましょう。あなたの生活で信仰を表していく頼みの道具として、ミサで「行きましょう」と派遣された「しるし」として、神のことばはふさわしいと思います。今週は、どの一節を持ち帰りますか?どの一節が、あなたの一週間を助けてくれると感じるでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日(マルコ6:30-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年は雷の音をあまり聞かない。五月に、雷がひどかった日があったかもしれない。パソコンなどを立ち上げていると、雷の音にビクビクする。それと、去年もそうだったが、自分一人雷を警戒すれば良いわけではない。三人が注意しなければ、結局何かしらの出費を強いられることになる。
▼今年は、去年の学習が活かされている。配電盤の場所も把握している。外回りで電源を取る場所もだいたい分かっている。用心しても防げないこともあるかもしれないが、去年よりは被害を少なくできるだろう。

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今週の1枚
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第912回目。YouTube活動の報告。単調になってきたのか、登録の伸びが鈍化。

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年間第14主日(マルコ6:1-6)恵みの豊かさで驚きを与え続けてください

2024-07-06 | Weblog
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「今週の説教」
2024/7/7(No.1304)
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年間第14主日(マルコ6:1-6)
恵みの豊かさで驚きを与え続けてください
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主任司祭と助祭の霊名のお祝いを用意してくださり、感謝申し上げます。私たちの霊名のお祝いは、「皆さんもどうぞ、それぞれの霊名をお祝いしてください」という「しるし」と考えてください。

そう言っても「誕生日すら家庭で祝えないのに、霊名のお祝いなど考えたことがない」そんな家庭もあるでしょう。それでもあえて、考えてくださいと呼びかけたいと思います。誕生日は、人として歩み始めた日を思い出すことができます。霊名の日は、「神の子どもとして」歩み始めたことを思い出すことができます。

もちろん、二つ祝うのは大変かもしれません。どちらか祝って二つとも思い出してはいかがでしょうか。冷めた見方をすれば、司祭たちの霊名の祝いは「あんな司祭が福江教会にいたなぁ」と思い出すきっかけかも知れません。霊名の日を思うためなら、理由は何でも構いません。

切実な理由で誕生日を祝えない方々もいます。この前指摘を受けました。現代では経済的な理由もあって記念日を祝えないのだと。今日、司祭と助祭のお祝いのために、小教区で予算を組んでもらっています。ありがたいことです。ただ、「祝う」「喜び合う」ということを突き詰めたら、お金をかけないで祝う、喜び合うこともできるはずです。

いちばんお金をかけないで、誕生日と霊名のお祝いを祝う方法を教えましょう。その日にミサに行くことです。ミサに行って、誕生日・霊名の日の祝福を神様に願う。早起きさえすれば、お金はかかりません。ぜひお勧めします。洗礼を受けて神様の子どもとしていただいた場所に行く。誕生日にもミサに行く。これは最高の祝い方だと思います。

洗礼の恵み、結婚の恵み、さまざまな召命の恵み。教会を通して神様からいただいたものがあります。それらが自分にとってどんな意味があるのか、答えが与えられるまで考える人であってほしいです。福音朗読ではイエスが故郷の会堂で教えておられます。当時は旧約聖書が神から与えられた賜物でした。イエスは聖書について、律法について、深く教えてくださっていたでしょう。

もっと言うと、イエスご自身が、当時の人々に与えられた神からの賜物でした。イエスは身をもって、そのことを教えようとしました。しかし故郷の人々は、自分たちがすでに知っていることの中に、神から与えられた賜物であるイエスを押し込めて理解しようとしたのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)

「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)郷里の人々は答えが与えられるまで思い巡らし、深く掘り下げるべきでしたが、そこまでの忍耐心も、イエスへの敬意も持っていませんでした。今風に言えば、郷里の人々はイエスを「上から目線」で見ていたので、正しく理解できなかったのです。

私の身近な先輩に、「自分は奇跡を信じている。私自身司祭になれたことが、イエス様の奇跡だ」と言う方がいます。言いにくいことですが、中田神父はこの先輩のことを上から目線で見ていました。奇跡は、上から目線でしか見ていなかった私にではなく、誰よりも苦労したこの先輩の上に起こったのでした。

私と、この先輩はいろんな地区で一緒に働きました。神学生の時だけでなく、どの地区に行っても苦労させられていました。誰よりも苦労したので、受けた恵みを誰よりも思い巡らし、掘り下げてきたと思います。ですから、みずからの上に起こった驚くべきわざを、誰よりも感謝できるのだと思います。

今になって私は、この先輩を上から目線で見ていたことがとんでもない間違いであったこと、そのためにどれだけ私自身成長するチャンスを無駄にしてきたかを思い知らされています。

しかし時間は残されています。私たちが神からいただいた恵みがどんなにすばらしいものであるか、考える時間はあります。この恵みが与えられていなかったら私はどうなっていただろうか。私たちはどうなっていただろうか。考える時間はあると思うのです。

神のわざを、自分たちがすでに知っていることの中に押し込めようとしたら、恵みの豊かさを台無しにしてしまいます。「十分に知っている。少なくともここにいる誰よりも知っている」そう思った瞬間に、私たちは神の恵みの豊かさを台無しにするのです。

神はいつも、その時代の人々を通して恵みの豊かさを証明してくださいます。今日も、恵みの豊かさを示して私たちに驚きを与えてください。ミサの中でこのように祈ってまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日(マルコ6:7-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎教区内の女子修道会が協力して「祈りの集い」というのがおこなわれている。単に「祈りましょう」というのではなく、「祈りかた」から始まり、共に祈ってくれる「同伴」のお世話も受ける。そういった内容のようである。長崎教区内の各地区を巡回しているが、今月下五島地区で開催され、福江教会が会場となっている。
▼「そういった内容のようである」と言ったのは、古い育てられかたで司祭になった中田神父はこの祈りの集いに付いて行けていない。「霊的同伴」という言葉を一度も聞かずに神学校を卒業して今に至っているので、「同伴」と聞いただけで「最新式」「自分には関係ない」と思ってしまう。
▼神の働きの豊かさは、いつの時代にも証明される。理解が追い付いていないのであれば、「霊的指導を言い換えただけだろ」と、霊的同伴のあり方を形の合わない箱に押し込もうとするのだけはやめよう。

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今週の1枚
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第911回目。チャンスは私の髪ほど薄いが、霊名のお祝いの様子があれば。

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