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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
16/01/31(No.810)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第4主日
(ルカ4:21-30)
イエスの言葉の意味を知るまで思い巡らせる
‥‥‥†‥‥‥‥
今週の朗読個所は先週の続きです。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(4・24)という箇所から学びを得て、生活に活かす糧を持ち帰ることにしましょう。
26日(火)、本来は司祭団マラソン大会の日でした。直前の日曜日と月曜日は皆さんご承知の通りまれに見る大雪でした。下五島も同じ状況で、マラソン大会の前日、月曜日の時点で大会中止の判断が下されたそうです。日曜日も月曜日も、雪道を歩いて結構なトレーニングを積んだわたしは、マラソン大会中止の知らせはちょっと残念でした。
福音朗読に戻りましょう。郷里の人々は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と驚きの言葉を語ったイエスにこんな言葉を投げかけました。「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)
郷里の人々は、イエスのことを十分理解しているつもりでした。父親が誰で、母親が誰であるか、親類の人がだれであるかについても知っていたわけです。身内を前にしているのだから、身内を喜ばせる言葉を語るだろう。そんな予測を立てています。
ところが、イエスは予想もしない言葉を口にしたのです。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」予想の範囲を超えた言葉を口にしたので、郷里の人々は驚き怪しみ、理解できないだけでなくついには憤慨し始めます。もはや、郷里の人々の心は一歩も前に進むことはありません。冷静さを失ってしまい、考えることができないからです。
イエスの放った言葉は、郷里の人々には痛みを感じるほど強い言葉でした。ここで大切なことは、イエスがむやみにそんなきつい言葉を放つだろうかと、もう少しよく考える姿勢です。向けられた言葉を、もう少しよく考えてみる。そんな捉え方が必要でした。
イエスがきつい言葉を言うからには、それなりの理由があるはずです。優しく語りかけることも知っている方が、あえて厳しい態度で臨むのですから、それは理由があってのことです。理由があるのだなと考えたなら、さらにもう少しその理由に迫ろうとしたことでしょう。ところが郷里の人々は、イエスの言葉を聞いた時、「何をー!」という反応を取ってしまったのです。
わたしも一度、きつい言葉をかけられてお先真っ暗だと感じたことがありました。浦上教会の助任司祭を5年務めた後に、転勤の辞令がやってきました。次の任地は滑石教会の助任司祭でした。早めに滑石教会の主任司祭にあいさつに行こうと思っていましたが、思いがけずその機会が巡ってきました。たしか司祭が亡くなって浦上教会で教区葬が行われたときだったと思います。
教区内のすべての司祭が葬儀に参列しますので、その中に滑石教会の主任神父様がおられました。浦上教会の主任神父様と親しくしておられたその滑石教会の神父様が司祭館にやってきましたので、これはチャンスと思い、スリッパをすぐに用意し、「神父様、4月からはお世話になります。」と声をかけたのです。
すると滑石教会の神父様の返事は意外なものでした。「お前か。今度うちの助任に来るのは。もっとピチピチしたとばもらえると思っていたら、もう浦上で5年も煮しまっとるじゃないか。お前なら要らん。」とバッサリ切り捨てられたのです。
わたしはひとことも返せず、浦上教会の主任神父様の部屋に入っていくのをただ眺めるだけでした。内心「うわー、今度の主任神父様はとてもじゃないけれどもお仕え出来そうにない。」と思ったものです。
滑石教会の神父様の言葉の真意を知ったのは、滑石教会に着任して数か月後のことでした。この神父様はわたしとの最初のあいさつのことをその日のうちに滑石教会の役員に話し、「浦上教会で5年も鍛えてもらった助任をもらうことになった。わたしが手取り足取り教える必要もない頼もしい助任司祭だ。」と紹介してくれていたのだそうです。
そうとは知らないわたしは、お先真っ暗になったのでした。けれども、きっと新しい主任神父様の考えがあるに違いない。そんな思いも一方では持っていました。それは正解でした。もし新しい主任神父様の思いを誤解していたら、わたしは道を逸れていたかもしれません。
イエスの郷里の人々も、イエスの言葉をもっとよく考えたら、イエスを受け入れることができたのだと思います。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」こう言われた時に、自分たちには何が足りないのだろうかと、真剣に考えたなら、違った道に導かれたのではないでしょうか。
わたしたちもふだんの生活を見つめましょう。わたしたちの周りの人々は、必ずしも人当たりの優しいものばかりではありません。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうかと感じることも多々あると思います。予想もしない仕打ちを受ける時、「少し考えれば、意味が分かるかも知れない」そう考える心の準備が必要です。やみくもに困難や試練が来るはずはない。あの人が、何も考えなしにあんなことを言うはずがない。きっと何かを教えてくれているはずだ。そんな受け止め方を繰り返し言い聞かせるなら、道は開けるのではないでしょうか。
皆さんにも何か行き詰まっていることがあるかも知れません。投げ出したくなるような十字架を抱えているかも知れません。それでも、イエスがむやみに今の困難を目の前に置くとは思えないのです。何か、わたしへの思いを知らせようとして、今があるのではないでしょうか。
「もう少し考えてみよう」「何か、考えさせているに違いない」そんな姿勢を保って、イエスに従って歩みましょう。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(4・30)先へ進もうとされるイエスを見て、わたしたちも今日の一歩を進めることにしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(ルカ5:1-11)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼鼻水が出ている。火曜日になってから鼻水が出始めた。さかのぼってどういう生活をしていたか考える。思い当たる節があった。ただ時間はもとには戻らないので、今は鼻づまりに手を焼きながらの日々である。
▼頭もぼーっとするため、説教も新しいものを用意できず、古いものを引っ張り出して違うたとえを無理にはめてみた。不本意ではあるが、考える力が続かないので背に腹は代えられず、申し訳ないと思っている。
▼先週日曜日は雪の中を長靴で歩いて巡回教会に出向いた。巡回教会にはミサの時間を1時間遅らせてほしいと伝え、午前10時を目標に歩いた。深い雪を踏みしめながら、誰も歩いていない雪道を歩くのは大変ではあったが、巡回教会の信徒が待っていると思えば苦ではなかった。
▼この巡回教会では翌日もミサをするようになっている。そこで日曜日のミサをささげた後はもう帰らずに、そのまま巡回先の司祭館に滞在した。翌日のミサまで退屈だったが、大相撲は日本人力士の優勝で少し楽しませてもらった。
▼月曜日の朝、雪はまだまだ降り続いていて、誰も教会に来そうにないので修道院のチャペルでミサをした。シスターたちに教会まで歩いて来なさいと言うよりは、わたしが出向いたほうが簡単だと思ったのでそうすることにした。さすがシスターたち、出かけてみるといつもと変わりない。変化する社会の中で、変化しない聖域だと思った。
▼さて巡回先に長靴で歩いて出かけたわたしは、同じように歩いて帰らなければならない。昨日の距離をまた歩いて帰るのかと思うと歩く前からため息が出たが、まぁ帰ってから風呂で体を温めればいいやと、唯一それを楽しみにして出発した。
▼いざ浜串が眼下に見えるところまで歩いてきたとき、町内放送が流れる。「水道管の破裂で浜串地区、○○地区、○○地区などは断水しております。ご迷惑をおかけしております・・・。」それはあんまりだ。着ていたものはすべて取り換え、汗もできるだけ拭いたが、この日の過ごし方が悪かったのだろう。鼻水が止まらない。
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新企画今週の1枚
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第417回目。まれに見る雪景色。巡回教会の信徒は、温かく迎えてくれた。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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イエスの言葉の意味を知るまで思い巡らせる
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今週の朗読個所は先週の続きです。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(4・24)という箇所から学びを得て、生活に活かす糧を持ち帰ることにしましょう。
26日(火)、本来は司祭団マラソン大会の日でした。直前の日曜日と月曜日は皆さんご承知の通りまれに見る大雪でした。下五島も同じ状況で、マラソン大会の前日、月曜日の時点で大会中止の判断が下されたそうです。日曜日も月曜日も、雪道を歩いて結構なトレーニングを積んだわたしは、マラソン大会中止の知らせはちょっと残念でした。
福音朗読に戻りましょう。郷里の人々は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と驚きの言葉を語ったイエスにこんな言葉を投げかけました。「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)
郷里の人々は、イエスのことを十分理解しているつもりでした。父親が誰で、母親が誰であるか、親類の人がだれであるかについても知っていたわけです。身内を前にしているのだから、身内を喜ばせる言葉を語るだろう。そんな予測を立てています。
ところが、イエスは予想もしない言葉を口にしたのです。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」予想の範囲を超えた言葉を口にしたので、郷里の人々は驚き怪しみ、理解できないだけでなくついには憤慨し始めます。もはや、郷里の人々の心は一歩も前に進むことはありません。冷静さを失ってしまい、考えることができないからです。
イエスの放った言葉は、郷里の人々には痛みを感じるほど強い言葉でした。ここで大切なことは、イエスがむやみにそんなきつい言葉を放つだろうかと、もう少しよく考える姿勢です。向けられた言葉を、もう少しよく考えてみる。そんな捉え方が必要でした。
イエスがきつい言葉を言うからには、それなりの理由があるはずです。優しく語りかけることも知っている方が、あえて厳しい態度で臨むのですから、それは理由があってのことです。理由があるのだなと考えたなら、さらにもう少しその理由に迫ろうとしたことでしょう。ところが郷里の人々は、イエスの言葉を聞いた時、「何をー!」という反応を取ってしまったのです。
わたしも一度、きつい言葉をかけられてお先真っ暗だと感じたことがありました。浦上教会の助任司祭を5年務めた後に、転勤の辞令がやってきました。次の任地は滑石教会の助任司祭でした。早めに滑石教会の主任司祭にあいさつに行こうと思っていましたが、思いがけずその機会が巡ってきました。たしか司祭が亡くなって浦上教会で教区葬が行われたときだったと思います。
教区内のすべての司祭が葬儀に参列しますので、その中に滑石教会の主任神父様がおられました。浦上教会の主任神父様と親しくしておられたその滑石教会の神父様が司祭館にやってきましたので、これはチャンスと思い、スリッパをすぐに用意し、「神父様、4月からはお世話になります。」と声をかけたのです。
すると滑石教会の神父様の返事は意外なものでした。「お前か。今度うちの助任に来るのは。もっとピチピチしたとばもらえると思っていたら、もう浦上で5年も煮しまっとるじゃないか。お前なら要らん。」とバッサリ切り捨てられたのです。
わたしはひとことも返せず、浦上教会の主任神父様の部屋に入っていくのをただ眺めるだけでした。内心「うわー、今度の主任神父様はとてもじゃないけれどもお仕え出来そうにない。」と思ったものです。
滑石教会の神父様の言葉の真意を知ったのは、滑石教会に着任して数か月後のことでした。この神父様はわたしとの最初のあいさつのことをその日のうちに滑石教会の役員に話し、「浦上教会で5年も鍛えてもらった助任をもらうことになった。わたしが手取り足取り教える必要もない頼もしい助任司祭だ。」と紹介してくれていたのだそうです。
そうとは知らないわたしは、お先真っ暗になったのでした。けれども、きっと新しい主任神父様の考えがあるに違いない。そんな思いも一方では持っていました。それは正解でした。もし新しい主任神父様の思いを誤解していたら、わたしは道を逸れていたかもしれません。
イエスの郷里の人々も、イエスの言葉をもっとよく考えたら、イエスを受け入れることができたのだと思います。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」こう言われた時に、自分たちには何が足りないのだろうかと、真剣に考えたなら、違った道に導かれたのではないでしょうか。
わたしたちもふだんの生活を見つめましょう。わたしたちの周りの人々は、必ずしも人当たりの優しいものばかりではありません。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうかと感じることも多々あると思います。予想もしない仕打ちを受ける時、「少し考えれば、意味が分かるかも知れない」そう考える心の準備が必要です。やみくもに困難や試練が来るはずはない。あの人が、何も考えなしにあんなことを言うはずがない。きっと何かを教えてくれているはずだ。そんな受け止め方を繰り返し言い聞かせるなら、道は開けるのではないでしょうか。
皆さんにも何か行き詰まっていることがあるかも知れません。投げ出したくなるような十字架を抱えているかも知れません。それでも、イエスがむやみに今の困難を目の前に置くとは思えないのです。何か、わたしへの思いを知らせようとして、今があるのではないでしょうか。
「もう少し考えてみよう」「何か、考えさせているに違いない」そんな姿勢を保って、イエスに従って歩みましょう。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(4・30)先へ進もうとされるイエスを見て、わたしたちも今日の一歩を進めることにしましょう。
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(ルカ5:1-11)
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▼鼻水が出ている。火曜日になってから鼻水が出始めた。さかのぼってどういう生活をしていたか考える。思い当たる節があった。ただ時間はもとには戻らないので、今は鼻づまりに手を焼きながらの日々である。
▼頭もぼーっとするため、説教も新しいものを用意できず、古いものを引っ張り出して違うたとえを無理にはめてみた。不本意ではあるが、考える力が続かないので背に腹は代えられず、申し訳ないと思っている。
▼先週日曜日は雪の中を長靴で歩いて巡回教会に出向いた。巡回教会にはミサの時間を1時間遅らせてほしいと伝え、午前10時を目標に歩いた。深い雪を踏みしめながら、誰も歩いていない雪道を歩くのは大変ではあったが、巡回教会の信徒が待っていると思えば苦ではなかった。
▼この巡回教会では翌日もミサをするようになっている。そこで日曜日のミサをささげた後はもう帰らずに、そのまま巡回先の司祭館に滞在した。翌日のミサまで退屈だったが、大相撲は日本人力士の優勝で少し楽しませてもらった。
▼月曜日の朝、雪はまだまだ降り続いていて、誰も教会に来そうにないので修道院のチャペルでミサをした。シスターたちに教会まで歩いて来なさいと言うよりは、わたしが出向いたほうが簡単だと思ったのでそうすることにした。さすがシスターたち、出かけてみるといつもと変わりない。変化する社会の中で、変化しない聖域だと思った。
▼さて巡回先に長靴で歩いて出かけたわたしは、同じように歩いて帰らなければならない。昨日の距離をまた歩いて帰るのかと思うと歩く前からため息が出たが、まぁ帰ってから風呂で体を温めればいいやと、唯一それを楽しみにして出発した。
▼いざ浜串が眼下に見えるところまで歩いてきたとき、町内放送が流れる。「水道管の破裂で浜串地区、○○地区、○○地区などは断水しております。ご迷惑をおかけしております・・・。」それはあんまりだ。着ていたものはすべて取り換え、汗もできるだけ拭いたが、この日の過ごし方が悪かったのだろう。鼻水が止まらない。
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第417回目。まれに見る雪景色。巡回教会の信徒は、温かく迎えてくれた。
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