こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(ルカ4:21-30)イエスの言葉の意味を知るまで思い巡らせる

2016-01-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/01/31(No.810)
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年間第4主日
(ルカ4:21-30)
イエスの言葉の意味を知るまで思い巡らせる
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今週の朗読個所は先週の続きです。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(4・24)という箇所から学びを得て、生活に活かす糧を持ち帰ることにしましょう。

26日(火)、本来は司祭団マラソン大会の日でした。直前の日曜日と月曜日は皆さんご承知の通りまれに見る大雪でした。下五島も同じ状況で、マラソン大会の前日、月曜日の時点で大会中止の判断が下されたそうです。日曜日も月曜日も、雪道を歩いて結構なトレーニングを積んだわたしは、マラソン大会中止の知らせはちょっと残念でした。

福音朗読に戻りましょう。郷里の人々は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と驚きの言葉を語ったイエスにこんな言葉を投げかけました。「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)

郷里の人々は、イエスのことを十分理解しているつもりでした。父親が誰で、母親が誰であるか、親類の人がだれであるかについても知っていたわけです。身内を前にしているのだから、身内を喜ばせる言葉を語るだろう。そんな予測を立てています。

ところが、イエスは予想もしない言葉を口にしたのです。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」予想の範囲を超えた言葉を口にしたので、郷里の人々は驚き怪しみ、理解できないだけでなくついには憤慨し始めます。もはや、郷里の人々の心は一歩も前に進むことはありません。冷静さを失ってしまい、考えることができないからです。

イエスの放った言葉は、郷里の人々には痛みを感じるほど強い言葉でした。ここで大切なことは、イエスがむやみにそんなきつい言葉を放つだろうかと、もう少しよく考える姿勢です。向けられた言葉を、もう少しよく考えてみる。そんな捉え方が必要でした。

イエスがきつい言葉を言うからには、それなりの理由があるはずです。優しく語りかけることも知っている方が、あえて厳しい態度で臨むのですから、それは理由があってのことです。理由があるのだなと考えたなら、さらにもう少しその理由に迫ろうとしたことでしょう。ところが郷里の人々は、イエスの言葉を聞いた時、「何をー!」という反応を取ってしまったのです。

わたしも一度、きつい言葉をかけられてお先真っ暗だと感じたことがありました。浦上教会の助任司祭を5年務めた後に、転勤の辞令がやってきました。次の任地は滑石教会の助任司祭でした。早めに滑石教会の主任司祭にあいさつに行こうと思っていましたが、思いがけずその機会が巡ってきました。たしか司祭が亡くなって浦上教会で教区葬が行われたときだったと思います。

教区内のすべての司祭が葬儀に参列しますので、その中に滑石教会の主任神父様がおられました。浦上教会の主任神父様と親しくしておられたその滑石教会の神父様が司祭館にやってきましたので、これはチャンスと思い、スリッパをすぐに用意し、「神父様、4月からはお世話になります。」と声をかけたのです。

すると滑石教会の神父様の返事は意外なものでした。「お前か。今度うちの助任に来るのは。もっとピチピチしたとばもらえると思っていたら、もう浦上で5年も煮しまっとるじゃないか。お前なら要らん。」とバッサリ切り捨てられたのです。

わたしはひとことも返せず、浦上教会の主任神父様の部屋に入っていくのをただ眺めるだけでした。内心「うわー、今度の主任神父様はとてもじゃないけれどもお仕え出来そうにない。」と思ったものです。

滑石教会の神父様の言葉の真意を知ったのは、滑石教会に着任して数か月後のことでした。この神父様はわたしとの最初のあいさつのことをその日のうちに滑石教会の役員に話し、「浦上教会で5年も鍛えてもらった助任をもらうことになった。わたしが手取り足取り教える必要もない頼もしい助任司祭だ。」と紹介してくれていたのだそうです。

そうとは知らないわたしは、お先真っ暗になったのでした。けれども、きっと新しい主任神父様の考えがあるに違いない。そんな思いも一方では持っていました。それは正解でした。もし新しい主任神父様の思いを誤解していたら、わたしは道を逸れていたかもしれません。

イエスの郷里の人々も、イエスの言葉をもっとよく考えたら、イエスを受け入れることができたのだと思います。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」こう言われた時に、自分たちには何が足りないのだろうかと、真剣に考えたなら、違った道に導かれたのではないでしょうか。

わたしたちもふだんの生活を見つめましょう。わたしたちの周りの人々は、必ずしも人当たりの優しいものばかりではありません。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうかと感じることも多々あると思います。予想もしない仕打ちを受ける時、「少し考えれば、意味が分かるかも知れない」そう考える心の準備が必要です。やみくもに困難や試練が来るはずはない。あの人が、何も考えなしにあんなことを言うはずがない。きっと何かを教えてくれているはずだ。そんな受け止め方を繰り返し言い聞かせるなら、道は開けるのではないでしょうか。

皆さんにも何か行き詰まっていることがあるかも知れません。投げ出したくなるような十字架を抱えているかも知れません。それでも、イエスがむやみに今の困難を目の前に置くとは思えないのです。何か、わたしへの思いを知らせようとして、今があるのではないでしょうか。

「もう少し考えてみよう」「何か、考えさせているに違いない」そんな姿勢を保って、イエスに従って歩みましょう。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(4・30)先へ進もうとされるイエスを見て、わたしたちも今日の一歩を進めることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(ルカ5:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼鼻水が出ている。火曜日になってから鼻水が出始めた。さかのぼってどういう生活をしていたか考える。思い当たる節があった。ただ時間はもとには戻らないので、今は鼻づまりに手を焼きながらの日々である。
▼頭もぼーっとするため、説教も新しいものを用意できず、古いものを引っ張り出して違うたとえを無理にはめてみた。不本意ではあるが、考える力が続かないので背に腹は代えられず、申し訳ないと思っている。
▼先週日曜日は雪の中を長靴で歩いて巡回教会に出向いた。巡回教会にはミサの時間を1時間遅らせてほしいと伝え、午前10時を目標に歩いた。深い雪を踏みしめながら、誰も歩いていない雪道を歩くのは大変ではあったが、巡回教会の信徒が待っていると思えば苦ではなかった。
▼この巡回教会では翌日もミサをするようになっている。そこで日曜日のミサをささげた後はもう帰らずに、そのまま巡回先の司祭館に滞在した。翌日のミサまで退屈だったが、大相撲は日本人力士の優勝で少し楽しませてもらった。
▼月曜日の朝、雪はまだまだ降り続いていて、誰も教会に来そうにないので修道院のチャペルでミサをした。シスターたちに教会まで歩いて来なさいと言うよりは、わたしが出向いたほうが簡単だと思ったのでそうすることにした。さすがシスターたち、出かけてみるといつもと変わりない。変化する社会の中で、変化しない聖域だと思った。
▼さて巡回先に長靴で歩いて出かけたわたしは、同じように歩いて帰らなければならない。昨日の距離をまた歩いて帰るのかと思うと歩く前からため息が出たが、まぁ帰ってから風呂で体を温めればいいやと、唯一それを楽しみにして出発した。
▼いざ浜串が眼下に見えるところまで歩いてきたとき、町内放送が流れる。「水道管の破裂で浜串地区、○○地区、○○地区などは断水しております。ご迷惑をおかけしております・・・。」それはあんまりだ。着ていたものはすべて取り換え、汗もできるだけ拭いたが、この日の過ごし方が悪かったのだろう。鼻水が止まらない。

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新企画今週の1枚
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第417回目。まれに見る雪景色。巡回教会の信徒は、温かく迎えてくれた。

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年間第3主日(ルカ1:1-4,4:14-21)イエスは聖書の言葉を巻物から飛び出させる

2016-01-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/01/24(No.809)
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年間第3主日
(ルカ1:1-4,4:14-21)
イエスは聖書の言葉を巻物から飛び出させる
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「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(4・20-21)イエスは会堂内にいるすべての人が注目している中で、あっと驚く言葉を語りました。わたしたちも、集まった人々と同じように、イエスの言葉に耳を傾け、取るべき態度を考えましょう。

とうとう26日(火)はマラソン大会となってしまいました。派手なウェアを用意した割にはたいした練習も積めなかったので、本当に冷たい視線を浴びながらのレースになると思います。それでも、当初の目標通り、足を止めず、最後まで完走して帰りたいと思います。

黙想会が2月下旬に控えています。今年は久しぶりに誰かにお願いせずに自分で説教師を務めようと思っています。説教案はほぼ固まりまして、「信仰に生かされ・信仰を生き・信仰で次の世代を生かす」という信仰の伝承を念頭に置いて話をしようと思っています。

わたしが黙想会を務めるときはいつもそうですが、説教の原稿をプリントにして準備する予定です。また、前もって録音して、たとえば寝たきりの人、体調が悪くて参加できない人のために自宅で話を聞くことができるようにCDも用意しようと思っています。黙想会の時にもう一度呼びかけますので、必要な人は利用してください。余ったらどこか別のところで配るつもりです。

福音朗読に移りましょう。当時会堂で聖書が読まれるというのは、読まれた聖書の解釈をするということでした。イエスも聖書の解釈を語るのだろうと思って人々は注視していたでしょう。けれどもイエスの口から出たのは、人々の予想をはるかに超える言葉でした。

イエスが読まれた巻物はイザヤ書です。イザヤは預言者でしたから、当然イエスは預言の解釈をするものだと人々は思っていたでしょう。ある意味いきなりイエスは解釈を飛ばして、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と宣言したのです。

預言はたしかにいつか実現するものです。ただ会堂にいる人々は、まさかそれが今ここで実現すると語る人が現れるとは思ってもみなかったでしょう。「この人は威勢がいいなぁ」とか、「たいした度胸だ」このようにしか受け止められなかったのだと思います。

わたしたちは、前提なしにイエスの言葉に耳を傾けたいと思います。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」預言の言葉は、それまでは巻物の言葉でしたが、イエスが生きた言葉、巻物から飛び出す言葉に変えてくださるのです。

巻物から飛び出す言葉とは、例えば飛び出す絵本のようなものです。今でもそのような絵本は手に入りますが、子供の頃にそういう絵本を読んだ人もいるでしょう。飛び出す絵本のおかげで、物語はさらに楽しいもの、魅力的なものになります。子供にとっては、飛び出す絵本は絵本の世界から現実の世界に飛び出したように感じたかもしれません。

イエスは預言の言葉を巻物の世界から現実の世界に飛び出させてくださいました。会堂で読まれたのは次の個所でした。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(4・18-19)

イエスの宣言は、場面が飛び出す絵本になって、楽しい絵本だったねで終わるのではありません。実際に、捕らわれている人が解放され、目の見えない人に視力の回復がもたらされ、圧迫されている人が自由になり、主の恵みの年を告げられるということです。

だれが捕らわれているのでしょうか。目が不自由なのでしょうか。圧迫されているでしょうか。わたしたちではないでしょうか。罪に縛られ、信仰の価値が見えなくなり、信仰を表に出せば好奇の目で見られる。イエスはそんなわたしたちを解放し、自由にしてくださるのです。

私事ですが、あと二ヶ月くらいでわたしは50歳になります。社会で働く50歳の人々との違いは、一度も就職したことがないということです。自分の能力を元手に、生活を切り盛りしてきた経験がないのです。わたしが生活させてもらっているのはただ一つ、イエス・キリストを宣べ伝えることだけです。イエスが今も人を解放し、自由にしていると確信しているので、この生き方を生涯貫いていけます。

20年も自分の罪を告白できなかった人が告白する場面に立ち会いました。長く寝たきりで病苦を耐えて旅立った、その妻の苦しみの意味を悟って神に感謝を捧げる人がいました。教会の人間関係で心を閉ざし、教会に通えなくなった人が、インターネットにわたしが公開している主日の説教を受け取るようになり、慰めを受けている人がいます。こうしてイエスが今も捕らわれ、圧迫されている人を解放する姿を何度も見てきたのです。

黙想会の話を最初にしました。黙想会は人を解放するイエスの力、人を自由にする力を体験する良い機会になると思います。黙想会でいったん時間を止めることで、自分を見つめ直し、信仰を一歩前に踏み出させてくれる力をいただけると思っています。

イエスは、世の中の常識にがんじがらめになって信仰の価値を表に出せないわたしを解放し、自由にしてくださいます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」わたしたちの中にこの言葉を響かせましょう。そして、わたしが出会う人に、この言葉は信用できると、それぞれの体験を重ねて伝えましょう。今日イエスの言葉を必要としている人が、島内にもまだまだ多くいらっしゃいます。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(ルカ4:21-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会の原稿が整った。小教区では4回話すが、違う小教区でも話すので都合5回分の原稿を整えた。説教案で紹介した通り、「信仰に生かされ・信仰を生き・信仰で次の世代を生かす」という信仰の伝承を念頭に話をまとめている。
▼いろいろ、黙想会の構想を練るにあたっての断片のようなものは思い付いたときにメモを残したりしていたのだが、実際に書き上げてみると、断片のメモの10分の1も利用できなかった。断片を拾い集めて一つにまとめるのはまた違う才能が必要なのかもしれない。
▼「福見教会とともに」という福見教会献堂百周年のために用意した歌があるが、ちょうどこの歌詞の内容を展開したような黙想会の内容になっている。「福見教会とともに」の歌詞はわたしが用意したものだが、「過去を告げ知らせる」「現在を告げ知らせる」「未来を告げ知らせる」この3つが歌詞に盛り込まれている。
▼信仰の伝達は、つまりこの「過去」「現在」「未来」を信仰の切り口で語るということだと思っている。過去を聞いた子供たち孫たちが、受け継いだ信仰の価値に気付き、実際に信仰を生きてみて追体験し、確信を持って次の世代に伝える。こういう営みが信仰の伝達ではなかろうか。
▼黙想会に参加した人たちも、本当は黙想の話を聞きっぱなしではなく、それぞれの話を受けて分かち合いをするとか、話を聞くたびに感想をメモしておくとか、何かをすれば話が定着すると思うのだが、そのあたりは今後の課題かもしれない。「黙想が終われば信者の務めを果たせる」この固定観念がまだまだあって、「黙想会を活用する」という立ち位置にいないのが実情である。
▼「黙想会原稿プリント」と「黙想会録音CD」が活用される場が広がればと思っている。何か活用のアイディアがあれば教えていただきたい。

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新企画今週の1枚
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第416回目。今年はこのウェアで。亀のような走りだが、10km完走を約束する。

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年間第2主日(ヨハネ2:1-11)イエスは最初のしるしで喜びを届ける

2016-01-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/01/17(No.808)
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年間第2主日(ヨハネ2:1-11)イエスは最初のしるしで喜びを届ける
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6年前の説教案を、少し見直して今週の説教に充てたいと思います。今週の福音朗読に選ばれた「カナでの婚礼」の物語は、朗読の最後にあるように、イエスにとっての「最初のしるし」となるものでした。イエスが公の面前で、最初におこなった奇跡です。わたしはこの、「最初の出来事」という点に注目して、一週間の糧を探ってみたいと思います。

イエスにとって、最初に取りかかった事柄というものをいくつか指摘できます。まず、公の宣教活動に入るに当たって、第一声というものがあります。イエスの第一声と思われる言葉は、マルコ福音書によれば、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)というものです。心を神に向け直すことを、まず求めたと言ってよいでしょう。

では最初の活動はどんなものだったでしょう。それは、「弟子を選ぶ」ということでした。もちろんイエスは、荒れ野での四十日の試練を経ていますが(マタイ4・1-11)、それは最初の活動というよりも、活動に入る前の準備です。

ですから、最初の活動と言えるのは、やはり弟子をお選びになることでした。その意味では、どんな奇跡よりも、信頼できる弟子を選び、育てることが、イエスにとっては何より大切だったのだなぁと考えることができます。

もしかしたらそれは、わたしたちの教会活動にも通じるのかも知れません。つまり、華々しいわざを展開するよりも前に、教会に寛大に奉仕してくれる弟子を育てることが、何よりも大事なのかも知れません。

本題の「イエスの最初のしるし」に入りましょう。水をぶどう酒に変える奇跡が婚礼に招かれた人びとに伝えようとしていることは2つあると思います。1つは、ご自分が神であるということ、もう1つは、イエスが最初にもたらしたものは、「喜びを届ける」という奇跡だったということです。

それぞれについて押さえていきましょう。イエスは、水をぶどう酒に変えてくださいました。水は、どんなに手を加えてもぶどう酒になり得ません。ぶどう酒がなくなって、どうしても調達できなくなった場面で、ぶどう酒を与えることができるのは神だけなのです。この出来事を通して、神がここにおられること、神がともにいてくださる(インマヌエル)ことを、お示しになったのです。

もう1つの点は、イエスはこの「最初のしるし」を通して、「喜びを届ける方」であることを示します。イエスが水をぶどう酒に変えたことで、集まっていた人々の顔は喜びで満たされます。婚礼の世話役の言葉が、そのことを如実に物語っています。

(世話役は花婿を呼んで、言った)「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネ2・10)

もしかしたら、イエスの奇跡のことを、婚礼の客は気付いてなかったかも知れません。奇跡に気付かなかったとすれば、イエスが神であることに気付くチャンスも失ったのかも知れません。もし、奇跡を目撃しなかったとしても、奇跡の結果は残りました。すなわち、ぶどう酒は婚礼の客すべてが味わい、楽しんだのです。イエスが神であることには気付かなかったかも知れませんが、人々は喜びに満たされたのです。

この出来事から、今週の糧をわたしたちも得ることにしましょう。イエスの最初のしるしのねらいは、1つはご自分がだれであるかを示すこと、もう1つはこの奇跡が「喜びを届ける」ものであったということでした。

ここからわたしたちも考えましょう。わたしたちにも、生活の中で2つの点を世に対して示すことができるのではないでしょうか。その2つとは、自分が何者であるかを表明すること、そして喜びを届けることが、わたしたちの「最初のしるし」なのだということです。

もう少し、説明を続けましょう。1つめの自分が何者であるかということですが、わたしたちはイエスの洗礼によって神の家族に加えられた者です。まずはこのことを証しします。神の家族ですから、家族であることを隠すべきではないのです。イエスによって救われた者として、顔を上げる必要があります。

2つめに、生活の中で「喜びを届ける者」となることが必要です。圧力を与えるのではありません。人を悲しませる者であってもいけません。何よりもまず、「喜びを届ける者」であるべきです。こうしてわたしたちは、イエスが婚礼の席で示した証しを受け継いで、現代にあって証しし続けます。

かつてイエスが、ご自分が誰であるかを示し、真っ先に喜びを届ける方となったように、わたしたちも同じ姿をたどることで、イエスの働きを今の世に示すことができるのです。イエスは今も生きている。イエスは今も、わたしたちを通して世に働きかけている。そのことを、わたしたちの生きざまで示しましょう。

肉体労働をしている人も、机に向かう仕事をしている人も、誰でもイエスのわざを今に引き継ぐことができます。イエスの存在を人々に感じさせる。その思いで、今週一週間を過ごすことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(ルカ1:1-4,4:14-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガ配信の型紙に使っている資料が古いままになっていた。はじめ気付かずに説教案の準備に入ったが、すぐに朗読個所が今年の朗読配分表と合っていないことに気付いた。今週だけかと思ったら間違ったまま先の先まで用意されている。
▼これはすぐに修正しなければ。後先考えずに朗読配分をメルマガの型紙に当てはめていたのだが、あるところで間違いが無くなっていたり、何がどうなっているのか分からず頭がパニックになってしまった。
▼見る見るうちに時間が失われていく。土曜日午前中で終わるかと思った作業は昼を越え、午後2時になってしまった。今更のように、「今年前半くらいで型紙づくりは中断しよう」そう決めて説教案に戻ったが、どうしても頭が回らない。
▼致し方なく、6年前の説教案を開くこととなった。何度か読み返し、ニュース性が無くなった部分を削り、推敲してある。ほとんど以前のものは役に立たないことが多いが、今回の説教案に関しては自分で言うのもなんだがよくできていて「採用」できた。
▼ただ、机の上にはまだ片づけなければならないルーティンが散らかっている。今週のミサのお知らせが煩雑なのでメモを作ったが人数分コピーが必要だ。掲示板に貼る大きなお知らせもあと2部コピーが必要だ。わたしの「出張予定表」もあと2部必要だ。
▼ほかにも、信徒発見劇が2月20日(土)と21日(日)に上五島備蓄記念会館で上映されるが、整理券を配る関係上人数の正確な把握が必要で、申込用紙を作成して各教会で取りまとめが必要になる。あー、昼も食べずにこんな時間まで雑事に追われ、ついに説教案は目をつぶって6年前の焼き直しである。正直胸が痛い。
▼とは言え見直した際に誤変換が見つかった。「この出来事から、今週の糧をわたしたちも得ることにしましょう。」は正解だが、6年前は「わたしたち燃えることにしましょう」で配信し、ブログにアップしている。燃えていたのだろうか。

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新企画今週の1枚
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第415回目。長崎教区がたいへんお世話になっている女子修道会での終生誓願式

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主の洗礼(ルカ3:15-16,21-22)後から来られる方は聖霊で洗礼を授ける

2016-01-10 | Weblog
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16/01/10(No.807)
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主の洗礼
(ルカ3:15-16,21-22)
後から来られる方は聖霊で洗礼を授ける
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主の洗礼の祝日を迎えました。イエスが洗礼者ヨハネから受けた洗礼から学び始め、イエスが授ける洗礼に思いを向けることにしましょう。

マラソン大会の準備を先週月曜日に始めましたら、さっそく沿道で声がかかりました。わたしは練習初日ということもあってまずは歩き始めることからと、そういう格好で出発しました。するとご婦人から「神父さま、マラソンの練習は走ってするのではないのですか?」としっかり釘を刺されました。

もちろん初日から軽やかに走ることができれば理想的ですが、初日からはとても無理なので、「いやいや、初日からは走れないよ。初日から走ったら体が壊れてしまう」そう言って初日の練習を開始しました。初日、教会前のバス停から上の道まで二往復したのですが、もうすでに筋肉痛で逃げ出したい気分です。

先週は、初めて土井ノ浦教会の神父さまを助ける経験をさせてもらいました。土井ノ浦教会の神父さまが休暇を取っている最中に信徒が亡くなって葬式の必要が生じました。そこでまだ休暇に入ってなかったわたしに声がかかり、水曜日の通夜と木曜日の葬儀ミサ、その後の納骨を代わりに引き受けたのです。

わたしも、昨年東京に出張したときに桐教会の神父さまに代わってもらった経験があるので、困ったときに司祭同士で助け合うって本当に素晴らしいなぁと思いました。代わりを務めたことで、以前代わってもらった時のことがどんなに有難いことだったか分かりました。貴重な経験をさせてもらったと感謝しています。

朗読福音に戻りましょう。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。ルカ福音では、イエスの受洗に洗礼者ヨハネは脇役となって姿を現しません。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3・4)とか、そういうやり取りが省略されています。イエスは確かに洗礼者ヨハネの授ける悔い改めの洗礼を受けたでしょうが、洗礼を受ける場面よりも洗礼を受けてからのことを強調したいのだと思います。

そこで、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことで、洗礼はどのような意味を持つようになったのか、考えてみましょう。まず、聖霊が鳩のようにイエスの上に降ってきたのですから、イエスが洗礼を受けたことで洗礼は聖霊に結ばれる道具となったと言うことができます。洗礼者ヨハネの洗礼は人を悔い改めに結びつけるものでしたが、これからイエスが授ける洗礼は人を聖霊に結びつけるものとなりました。

洗礼が、人を聖霊に結びつけるものとなったということは、洗礼は恵みとなったということです。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼ですから、償いの効果はあっても恵みまでは届きませんでした。イエスの洗礼は恵みであり、洗礼を受けることで人は神の恵みの器となるのです。

ここでわたしははたと考えに行き詰りました。イエスが授ける洗礼が人を聖霊に結びつける神の恵みなのだと、言葉で十分伝わるだろうか。そこで思いついたのは、イエスが水をぶどう酒に変えた奇跡のことです。

イエスが洗礼を受けたことで、もはや洗礼の水はただの水ではなくなり、ぶどう酒に変わった。そう考えると洗礼者ヨハネの洗礼とイエスが授ける洗礼に決定的な違いがあると表現できるなぁと思ったのです。

実際にぶどう酒で洗礼を受けるわけではありませんが、イエスの洗礼を受けた者は、あたかもぶどう酒が周りに香りを運ぶように、恵みを運ぶ器となるのです。わたしたちはイエスの洗礼を受けて、神の恵みの器となりました。そこにはふちまで満たした水が入っているのではなく、香り高いぶどう酒が入っていて、周囲の人々を喜ばせるはずなのです。

イエスがのちに水をぶどう酒に変えたように、悔い改めの洗礼を聖霊の恵みをもたらす洗礼に変えました。イエスは出会う人すべてに救いをもたらす器となられました。わたしたちはどうでしょうか。イエスの「聖霊と火による」洗礼を受けて、中身は水がぶどう酒に変わったでしょうか。洗礼を受ける前と変わらず水の入った器でしょうか。それとも、「人を喜ばせるぶどう酒の入った器」に変えられたでしょうか。

洗礼を受けてある人はもう30年、もうそろそろ中身はぶどう酒に変わっているでしょう。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がイエスに響いたように、わたしも神さまの声に人々が気付く道具になっているでしょうか。

わたしたちには、もう一つ、水をぶどう酒に変える相手がいます。それは、未だわたしたちの信仰に触れたことのない人々、わたしたちの信仰に関心があるけれども、きっかけがなかなか見つからない人々です。

彼らも、わたしたちが恐れずに証しするなら、これまでの「水」であった生活が「ぶどう酒」の生活に変わりうるのです。もっと味わい深く、もっと人を喜ばせることのできる生活に変わりうるのです。

イエスが受けることで決定的に変わった洗礼に感謝しましょう。ミサに積極的に参加することで、水の状態にあった自分がぶどう酒に変えられたことを感じましょう。わたしたちはもはや、自分の命を維持するだけの水ではありません。洗礼によって人を喜ばせるぶどう酒に変えられたのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼人は死ぬと天国・煉獄・地獄のいずれかに置かれることになる。人は死ぬと最初の審判を受け、天国・煉獄・地獄の置かれる場所が決まる。わたしはこう考えてみた。最初の審判に九官鳥が立ち会っていて、ひとこと声をかける。「手ぶらでや?(手ぶらで来たのか?)。」
▼占星術の学者たちはイエスのもとを訪ねた時に贈り物を携えていた。黄金・乳香・没薬である。だから神の前に立つとき、何かを携えていなければならないとわたしも思っている。そして九官鳥の「手ぶらでや?(手ぶらで来たのか?)に答えを持っている人は天国に、答えに窮する人は煉獄に、持たない人は地獄に行く。
▼煉獄に行くと、ここは有限の罰を償う場所であり、またもや九官鳥が入り口に待っている。この九官鳥は「いらっしゃい」と言った。しかしいつまで償いの期間が続くのか、何も答えてくれない。だがいつかきっと有限の罰の償いは終わり、天国に迎えられる。今度こそ、「手ぶらでや?(手ぶらで来たのか?)」に即座に答えることができる。「わたしはすべてを償ってまいりました。」言い方はいろいろあるかもしれない。
▼地獄に決定づけられ、地獄の門まで来るとそこにも九官鳥がいた。この九官鳥はこう言う。「わたしはあなたのことを知らない。」だれも自分のことを知らないし、気にもかけてくれない。絶望の中に投げ込まれる。もはや何の希望もない。永遠に、「わたしはあなたのことを知らない」という宣告を受け続ける。
▼仮に、こういうことが起こるとするなら、わたしは生きているうちに神のもとまで届く「お土産」を用意したいと思う。祈りであるとか、隣人への愛であるとか、人に対するゆるしであるとか、神への信仰だとか。もしわたしの準備が足りなければ、わたしを弁護してくれる友に、この地上で巡り会っておきたい。
▼「彼はわたしにこのようにしてくれた人です」と、友人の弁護によって携えるものが見つかるかもしれない。少なくとも、「手ぶらでや?(手ぶらで来たのか?)」という声で迎えてもらえるような人生を送る必要がある。「わたしはあなたのことを知らない」はあってはならない声である。

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新企画今週の1枚
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第414回目。葬儀ミサに手伝いに行った教会にあるルルド。風がきついそうだ。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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主の公現(マタイ2:1-12)わたしたちは東方でその方の星を見た

2016-01-03 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/160103.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
16/01/03(No.806)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
わたしたちは東方でその方の星を見た
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主の公現の祝日を迎えました。東方から拝みに来た占星術の学者によって、ユダヤ人の王としてお生まれになった幼子が、ついに諸国民の王として示されます。この礼拝によって、ユダヤ人だけでなく、異邦人もお生まれになった王の救いの力にあずかることが明らかになりました。

中田神父の2016年の始動は2つの別々の行事で始まりそうです。1つは2月20日と21日の信徒発見劇、もう1つは1月最後の火曜日(26日)の司祭団マラソン大会です。久しぶりに、10キロマラソンに出てみようと思っています。

信徒発見劇は出番も少ないので、しっかり練習すればこなせると思いますが、司祭団マラソンのほうは20日ちょっとしかないので、どんなに遅いタイムでも、何人追い抜かれても最後まで走る。それが目標です。

まともに走ろうと思うなら3ヶ月は練習が必要です。残念ながら今からその時間はありませんので、怪我しないで、恥ずかしい思いをしても走り抜いて帰って来たいと思います。

福音に戻りましょう。占星術の学者たちの礼拝は、神の「秘められた計画」の扉を開く出来事と言ってよいでしょう。異邦人にはわたしたちも含まれています。ユダヤ人以外のすべての人の救いの扉が、占星術の学者たちの礼拝によって開かれたわけです。イエスを信じ、礼拝する人は、国籍や人種や時代を問わず救われるのです。

福音朗読を読み返しながら、一つの疑問が浮かびました。占星術の学者たちの行動は、イエス・キリストを危険にさらしたのではないかという疑問です。彼らの言動がヘロデの耳に入ったことで、ヘロデは幼子の抹殺を画策します。もし学者たちがヘロデの凶暴な性格をもっと深刻に考えたなら、イエス・キリストが成長して危険が減ってから贈り物を携えて礼拝に行くという選択肢もあったのではないでしょうか。

考えたのは、彼らは占星術の学者であり、イエス・キリストがどのような星のもとにお生まれになったかを十分考えた上で、幼子の時期に自分たちが礼拝に出向いてもヘロデの魔の手から逃れ、王として立派に使命を果たすに違いないとの結論にたどり着いたのだろうということです。つまり学者たちが導き出したのは「お生まれになった方は地上のどの王よりも強い星のもとに生まれた」という答えだったのです。

学者たちは自分たちが得た確信のもとに果敢に行動します。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2・2)彼らの言葉は、彼ら自身の命も危険にさらすものでした。そんな大それたことを言えば、ヘロデの気分次第で彼らの首が飛ぶこともあり得ます。しかし占星術の学者たちは、自分たちがユダヤ人の王としてお生まれになった方を見つけ出すまでは殺されないと分かっていたのでしょう。

また、彼らの考えの正しさは星の導きによっても証明されました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(2・9)学者たちはその星を見て喜びにあふれます(10節参照)。お会いする王は、ヘロデという残虐な王よりも強く、地上のどの王よりも尊い方であることを、星の導きによっても感じたことでしょう。

ついに占星術の学者たちは、星が示す王を見つけます。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(2・11)

占星術の学者たちがどこまで感じ取ったかわかりませんが、彼らが見た光景には重大な意味が隠されていると思います。ユダヤ人の王としてお生まれになった方は幼子でした。わたしが疑問に思ったと言いましたが、このままではヘロデに簡単に消されてしまうか弱い姿でした。

神が占星術の学者たちに示した幼子、それは一つのメッセージだったと思います。弱いとしか思えない姿のうちに、すべての人を救う神の計画は実現する。そのことを見える形で学者たちにお示しになったのです。

イエスはのちに、十字架の上で命をささげ、人類の救いを成し遂げます。十字架の姿はこれ以上ない弱い姿のはずです。しかし神の救いのわざはこの「弱さ」の中で発揮されるのでした。学者たちが見た幼子イエスにも、「弱さの中に発揮される神の力」が込められていたのです。

ひょっとすると、学者たちはヘロデの魔の手が幼子に向かうかもしれない、そんな心配はしていなかったのかもしれません。この方はどんな危険をもくぐり抜ける星のもとに生まれた方である。わたしたちが余計な心配をする必要はない。わたしたちは高価な贈り物をささげるに値する方を見出した。それで十分だ。だから安心して国に帰ろう。こんな晴れやかな気持ちだったかもしれません。

神の救いの計画は、人間の悪意など全く意に介さないほど優れています。占星術の学者たちが拝んだ幼子イエスを通して、わたしたちもこの確信を持ち帰りましょう。

学者たちは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(2・12)とあります。学者たちの身を守るという意味もあったかもしれませんが、神の計画はすべてに勝り力強いことを知って、それを理解しないヘロデにもはや用はないので別の道を通って帰ったと言ってもよいでしょう。

わたしたちも、弱さの中で力を発揮する神の救いの計画をベツレヘムの馬小屋で確かめました。それはこの世が頼りにする力とは別の道です。けれども別の道を通らなければ、わたしたちの本当のふるさとである天の国へ帰ることはできないと思います。神の救いの計画はすべてに勝る。覚悟をもって、この信仰を携えて生きていきましょう。たとえこの道が別の道だと言われても、勇気をもって証することにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(マルコ1:7-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼年賀状を元日に受け取り、眺めている。たぶん出し忘れた相手もいるし、わたしが一方的に出した相手もいると思う。例年だと照らし合わせて後で出すことが多いが、今年はあまりそういう気になれない。申し訳ないとは思うが、どうも気分が乗らない。
▼2日と3日は箱根駅伝。小一時間観ているころでこの記事を書いているが、もう遅れ始める大学もあるし、飛び出して他チームを振り切った大学も出ている。そんな中、ショートメールが入ってきた。差出人は去年35年ぶりに連絡を取ることができた小学校時代の恩師だった。
▼律儀な先生だな、と思った。丁寧なあいさつで、気にかけてくれていることがとてもよく伝わった。当時は警察沙汰を起こしたりして先生には本当に迷惑をかけてしまったが、こうして連絡をもらえるようになったのは本当にありがたいことだと思う。
▼「神の母聖マリア」のミサ説教を考えたのもつかの間、今日はもう切り替えて明日「御公現」のミサ説教を考えなければならない。御公現こそ福音朗読が同じなので、新しいものを見出すのはますます難しくなってきている。それでも自分が存在しているのはこの説教を用意し続けているからだと思っているので、何とか切り口を見つけたい。
▼元日のテレビの中で興味深いものがあった。BSプレミアムだったと思うが、瀬戸内寂聴さんを撮影し続け、それを編集して紹介した番組だった。ありのままの瀬戸内さんを見せてくれる内容で、93歳になって誰にもなにもはばかることなく思ったことを言う姿は痛快だった。
▼その中で、「どの作品も自分を超える何かに動かされて書いた作品が良い作品になる。」そんな言葉があって「そうそう。その通り」とうなずいて観ていた。説教案も、苦心して書いてみても、「何かが違う」と思って破棄してしまい、「消さなきゃよかったなぁ」と残り少ない時間でもがいていたら何かが降りてきて、さらっと書けた、そういう経験がある。得てしてそういう説教案は自分でも「なるほどなぁ」と感心するものである。
▼これは余談だが、瀬戸内さんの恋愛観はわたしには受け入れられないと思ったがそういうものなのかもしれないなぁ、とも思った。「恋愛は雷に打たれるようなもので、雷に打たれないよりも打たれるほうが人生を豊かにする。恋をしてはいけない相手はいないと思う」ということのようだ。

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新企画今週の1枚
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第413回目。占星術の学者たち。小さな学者たちも祈ってくれています。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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