こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(マコ1:21-28)この人が命じると、言うことを聴く

2018-01-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/1/28(No.926)
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年間第4主日
(マコ1:21-28)
この人が命じると、言うことを聴く
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年間第4主日B年は汚れた霊に取りつかれた男をいやす場面が読まれました。悪魔祓いと言うと現代には似つかわしくないように思うかもしれませんが、悪霊を追い出す司祭は現代でも教皇庁から選ばれて存在します。悪霊を追い出したイエスよりも、出来事に人々がどのように反応したかに注意を向けるほうが良いと思います。

いよいよ中田神父のマラソン第一弾が始まります。今日は午前11時に北松農業のスタート地点から他の選手と一斉スタートして生向(いけむこ)バス停まで走ります。皆さんの中には一週間前の日曜日11時に、沿道に座ってわたしが走って来るのを待っていた人がいると聞きました。「神父さまはまだか」と座り込みして待ってくれたのでしょう。ありがたいことです。凍えて地蔵様になったのではないでしょうか。

この一週間、実際のコースを走って、1日おきに「タイムを計る日」「疲れを残さないようゆっくり走る日」と交替で繰り返してきました。いつも走りに出るときは悪魔との戦いでした。「今日は特別寒いぞぉ。明日にすれば?」悪魔はわたしに取りつき、わたしの足を引っ張ります。そのたびに、「黙れ。出て行け」と追い払って練習に行きました。

駅伝に出たのは好きだからではなく、賑わせのためです。ですからわたしを動かしているのは、教会と地区とを結びつけようとしているイエスさまです。与えられた区間のタイムをいちおう計りましたが、3回とも8分45秒でした。後続には申し訳ないと思っています。

一人、教会の高校生がわたしと同じ区間に出ているという話を聞いています。顔も想像つきます。わたしに免じて手心加えるとはとても思えませんが、わたしはその高校生女子のうしろ姿を見ながら、女子高生の香りをかぎながら走ろうと思います。

マラソンの第二弾は30日(火)五島市福江での司祭団10キロマラソンです。ここでは、説教台にぶら下げているポスターを胸に貼り付けて、てくてく走ってこようと思います。昔のように順位を争える速さではありませんが、かえって百周年の宣伝にはちょうど良いと思います。報告を楽しみにしてください。ついでの話ですが、マラソンに出たご褒美の休みを一日ずつください。日程は「瀬戸山の風」に載せています。

福音朗読に移りましょう。出来事を目撃した人々は驚いて、論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(1・27)

皆さんは「汚れた霊」にばかり目が行くかもしれませんが、与えられた朗読個所でいちばん多く取り上げているのは「教え」あるいは「教える」ということです。数えてみましょう。「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」(1・21)「人々はその教えに非常に驚いた。」(1・22)「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(同)「権威ある新しい教えだ。」(1・27)

短い朗読の中で、4回も繰り返されています。つまりこの物語ではイエスの教える姿が中心なのであって、汚れた霊を追い出すのはイエスの権威ある教えを証明する一例に過ぎないのです。

ただし中心がイエスの教える姿であったとしても、その影響が同心円のように効果的に広がっていったかというとそうでもないようです。中心であるイエスの教えるそのそばにいた目撃者たちは、「皆驚いて、論じ合った」(1・27)というのです。

たいてい「論じ合う」という場面は意見が分かれ、双方が意見をぶつけ合っているさまです。彼らはすぐ目の前でまったく新しい権威を帯びて教えるイエスを見ていながら、権威に裏打ちされた驚くべき御業を見ていながら、ああでもないこうでもないと論じ合っているのです。

イエスが権威をもって教える様子、イエスの権威を裏付ける御業、これらを目撃した人々がすることは、論じ合うことでしょうか。教えるイエスに耳を傾け、教えを受け入れることです。この場面で汚れた霊だけが、教えるイエスに対してなすべきことを叫んだのです。

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(1・24)もちろんなすべきことを果たしませんが、汚れた霊がイエスの教えに耳を傾け、教えを受け入れるくらいなら、汚れた霊はとっくに滅ぼされていたことでしょう。

そばにいた人々も、なすべきことが何かを知っていたのです。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」教えるイエスに耳を傾け、その言うことを聴く。これがわたしたちのすべきことなのです。

わたしたちは何をなすべきかをすでに理解しています。ところでわたしたちは今どこにいるのでしょうか。わたしたちもまた、教えるイエスのすぐそばに集まっているのではないでしょうか。「これはわたしのからだである」と、驚くべき御業をおこなうすぐそばに集まっているのではないでしょうか。

わたしたちも、イエスのすぐそばに集まっているのですから議論していてはいけないのです。むしろ謙虚に耳を傾け、「わたしたちはあなたの教えを実行します」と、ミサの中で答えるべきなのです。

まさかとは思いますが、こんなことをつぶやいてはいないでしょうか。「我々を滅ぼしに来たのか。」信仰のことを口酸っぱく言って、カトリック教会はわたしの生活を滅ぼそうとしているではかいかと。

はっきりさせましょう。わたしたちの生活は、いのちを与えてくだる神が留まる場所を設けて生活をしなければ成り立たないのです。神が留まるべき場所に汚れた霊を呼び込んで、自分さえよければよい、神などいらないという生活をすれば、滅びへの道をたどるのです。

「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」わたしたちは大声をあげて、この信仰を宣言しましょう。わたしたちが選ぶことのできる生活は、「教えるイエスの言うことを聴く」この道しかないのです。


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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マコ1:29-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼地区対抗駅伝がやって来た。この文章は前日に書き上げているが、当日はまるで県下一周駅伝のように盛り上がっていることだろう。田平教会が地区対抗駅伝でこれだけ盛り上がることなどかつてなかったに違いない。だからわたしは歴史を築いたのだと思っている。
▼もちろん記録がショボいので、たいした歴史ではないが、歴史の一ページには違いない。何人かの人は地区対抗駅伝が巡ってくれば、「そういえば主任神父さんが駅伝に出てたなぁ」と昔を懐かしむ日が来ると思っている。
▼それにしても急ごしらえでの駅伝はたしかに無理があった。そのあとの司祭団駅伝も含めて、回復のためにはしばらく充電が必要だと思う。充電するためには放電してから。放電するためのいくつかの趣味や計画が湧いてきている。レースに出る前から充電の話だからレベルが知れるというものだ。
▼2月になるとどのプロ野球チームも春季キャンプだ。あー楽しみだ。あーお忍びだ。田中だ丸だ菊池だ。今年こそ。26年ぶりの日本一に手をかけてくれ。ほかの趣味には手を出さないようにして観戦ツアー代を捻出するから、ぜひ今年はファンの願いをかなえてくれ。

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今週の1枚
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第533回目。ゼッケン。初め補欠だったので、巡って来るとは思わなかった。

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年間第3主日(マコ1:14-30)父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して

2018-01-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/1/21(No.925)
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年間第3主日
(マコ1:14-30)
父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して
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年間第3主日B年はイエスがガリラヤで伝道を始め、四人の漁師を弟子にする場面が選ばれました。四人の漁師を弟子にする場面で、あとに残していく人々のことを考えてみました。

司祭や修道者の中には、よく決断したなぁと思う家庭環境の人がいます。ある先輩はわたしが赴任したことのある小教区出身で、一人っ子です。しかも、ご両親が高齢になってから生まれたと思われるので、周囲の方々の支えはあるでしょうが、晩年を託す人はいないわけです。

ある後輩は、大神学生時代から父親が認知症でした。高齢で、認知症の父を神さまに委ねて司祭職を選ぶ。これもよく決断したなぁと思います。またある神父さまは東芝に就職してすでに課長まで昇進していましたが、司祭職への思いを持ち続けていました。40歳を過ぎて大神学校に入学し、司祭になっています。その方のお父さんはたしか助祭の時代にお亡くなりになったので、司祭叙階は見ていないと思います。

さらに大司教様は、来年度から44歳の韓国人を長崎教区の神学生として受け入れるそうです。これまで韓国から神学生や司祭を受け入れたのは日韓の交流のためで、最終的には契約が終わると韓国に帰っていく人々でした。今回正式に44歳の韓国人を受け入れるのだそうです。

この件に中田神父はとやかく言えませんが、プロ野球でFA選手が鳴り物入りでどこかに入団するような、そんな印象を受けました。わたしが応援するチームは海のものとも山のものとも知れない状態からコツコツ育てるのでいきなり即戦力を期待しませんが、来年度から長崎教区の神学生となるその韓国人は、祖国を置いて、即戦力となって日本の長崎に骨を埋めるつもりなのでしょう。

いろんな状況の中で、「あとに残していく人」のことが気にかかります。選ばれた福音朗読も、シモンとシモンの兄弟アンデレは「すぐに網を捨てて」(1・18)従い、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」(1・20)イエスの後について行きました。

この漁師たちのうち、ヤコブとヨハネについては明確に「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」と状況が書かれています。明らかに残されていく家族がいるわけです。残されていく家族のことを、本人たちはどのように考えたのでしょうか。イエスはそのことについてどのように考えたのでしょうか。

イエスは、だれよりも残される家族のことを心配していたと思います。意外に思われるかもしれませんが、父親を舟に残して従おうとするヤコブとヨハネ以上に、イエスは彼らの父ゼベダイのことを心配しておられたはずです。ヤコブとヨハネが心を配るのはせいぜい家族までですが、イエスは常に、すべての人に心を配って語りかけ、行動していたはずです。さまざまなことを考えた上で、イエスは四人の漁師に、最初に声をかけたのです。イエスが心を砕いておられるなら大丈夫でしょう。

ヤコブとヨハネはどうでしょう。マルコ福音記者のちょっとした説明が、この疑問に答えていると思います。「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(1・19-20)

気を付けて読むと、ヤコブとヨハネは「舟の中」で網の手入れをしていました。網の手入れは、狭い舟の中でするよりも、陸に上がって手入れしたほうがよいはずです。しかしあえて、マルコ福音記者は「舟の中で網の手入れをしている」と描きます。「舟の中」とは、「生計を立てる手段の及ぶ範囲内で」ということではないでしょうか。

同じように、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」というのも、ただ単に「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に残して」と表現する場合とは違っていると思います。
父親と雇い人たちは、舟の中でこれまで通り生計を立て、舟の中でイエスを信じ、生きるのです。しかしヤコブとヨハネは舟の中にとどまらず、「舟の外」イエスのもとに留まることにしたのです。いわばイエスという新しく、広々とした舟が、これからの漁の場所になるのです。

「わたしたちはこれまで通り、舟の中にいるから大丈夫だ。あなたは、イエスという新しい舟の中で、思う存分腕を振るいなさい。」残された父親からのたくましい応援が聞こえてくるようです。

わたしたちはヤコブとヨハネが、熟慮の上に父ゼベダイを雇い人たちとを残してイエスに従ったと考えるかもしれません。ですがマルコ福音記者は、彼らは舟の中に残るから心配はない。むしろイエスが、残された家族のためにこれからも心を砕き続けると理解すべきだ、その意味を「舟に残して、イエスの後に従った」という短い表現の中に込めたのではないでしょうか。

わたしたちも教会の何かで、協力を求められることがあると思います。ある人は任期何年という期限付きで、協力が必要になります。ある人は生涯にわたる協力です。これまでは「わたしが十分考えて、熟慮の上、求めに応じたのだ」と考えたかもしれません。

次のように考えましょう。「わたしが考えて決めるその前に、神が十分心を砕いて配慮をしておられた。だから求めに応じよう。」神が呼びかけ、神のために働くとき、それはわたしが求めに応じる能力があるから協力するのではなく、あなたのために、家族のことも含めて今後も心を砕いてくださるイエスを信じて協力するということです。

わたしを呼んでくださった神は、残されることになる家族を舟の中に残してくださいます。ただ置き去りにするのではありません。この信仰に立って、神の国のため、田平教会のため、身近に迫った献堂百周年のため、汗を流すことにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(マコ1:21-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週「地区対抗駅伝に補欠で登録された」という話を入れたかもしれないが、その話を説教の枕で話したら、金曜日に登録してくれた地区の監督がまたやってきて、「選手でお願いします」と相談に来た。
▼断る理由はないが、正直な気持ち、「補欠でよかったなぁ」と思っていた矢先だったので、「これは大変なことになった」と思った。わたしにとっては一大事である。一斉スタートの区間は教会の目の前を通るコース。ほかの選手全員が通過した後に、トボトボと追いかけるわたしがすでに目に浮かぶ。
▼考えてみれば駅伝の襷(たすき)をつなぐのは小学生以来だ。40年も駅伝に出たことがなかったわけだ。中学生から神学校暮らしをしていたわけで、当然と言えば当然だ。地域に献堂百周年を知らせるきっかけになればという思いだったが、思い襷になりそうだ。
▼声をかけられたので土曜日から8日間、実際のコースに出てみようと思う。土曜日さっそく出てみたが、エライことを引き受けてしまったと実感した。
▼スタート地点から教会までのなだらかな登りが、スタート地点に歩いていくときは緩やかに見えたのに、いざスタートしてみると傾斜は2倍に見える。愕然とした。8日間で練習が間に合うはずもなく、穴があったら入りたい気分である。
▼それでも、恥を覚悟で走る。28日の地区対抗駅伝はわたしにとっては通過点だ。30日に五島市福江での司祭団マラソン大会がメインレース。28日にエンジンをかけて、30日にギアを入れるつもりである。

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今週の1枚
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第532回目。トボトボと。コースの下見も兼ねて。教会の周りを初めて足で回った。

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年間第2主日(ヨハ1:35-42)わたしたちはメシアに出会った

2018-01-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/1/14(No.924)
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年間第2主日
(ヨハ1:35-42)
わたしたちはメシアに出会った
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主の降誕と降誕節が終わり、年間の主日が少し進みます。2月半ばの灰の水曜日を迎えるまで、イエスの語りかけに耳を傾け、また復活後の献堂百周年に向けて、高い目標をもって過ごすことにしましょう。

わたしの洗礼名は聖トマ使徒です。祝日表で7月3日を見るとそう書いています。ただ祝日表の後ろのほうにある教会住所録で田平教会を見ると、田平教会の主任司祭としてトマス中田輝次と記載されています。

なぜ違うのかは、今日の説教からずいぶん離れるのですが、教区に履歴書を届ける際、当時は新共同訳聖書が浸透し始めたころで、新共同訳に倣って洗礼名を「トマス」と届けたのでした。教会の典礼で使用される呼び名で届けるべきだったと、今となっては後悔しています。

さてこの洗礼名をいただいたのは、代父になってくれた喜蔵おじさんの洗礼名がトマだったからです。50年前のことですから、はほぼすべての人が代父母の洗礼名をもらっていたのです。小さいころから「抱き親」と言って親しくしていまして、正月とか大切な日には遊びに行っていました。

喜蔵おじさんはわが家と違って非常に信仰熱心でしたので、おじさんの家に長居すれば、ロザリオと晩の祈りのおまけつきでした。それには閉口しましたが、よく鍛えてもらったものです。誰かの家に寄せてもらえば、その家のしきたりに従うのが当然のことで、その家のしきたりから多くを学びます。もし自分に合わないしきたりであれば、早めにお暇することになります。

今週の福音朗読で、ヨハネの二人の弟子が、洗礼者ヨハネに促されるようにして「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」(1・38)とイエスのもとを訪ねて行きます。彼らはどこにイエスが泊っておられるかを見、そしてイエスのもとに泊まりました(1・39参照)。

わたしが代父となってくれたおじさんの家にお世話になってそのしきたりを学んだように、ヨハネの二人の弟子は、イエスのもとに泊まったことで、多くを学んだに違いありません。ヨハネ福音記者が「見た」という言葉を使うとき、それはただ肉眼で見ただけではなく、「理解した」という意味でも使われています。

ですからヨハネの二人の弟子はどこにイエスが泊っておられるかを見たとあるのは、イエスがどのように時間を用いているか、どのように食事を始めて、食事を終えるのか、一日の終わりをどのように過ごして床に就くのか、事細かに見て理解したのです。

「泊る」ということも同じように考えて間違いないでしょう。イエスの暮らしを体験し、イエスの生き方に自分も共感し、こんな生き方をわたしたちもこれからしたい。そう思わせるだけの豊かな体験をしたのです。ただ単に泊っただけではなく、イエスと一緒に寝食を共にすることに決めたのです。

わたしたちも想像してみましょう。わたしたちはイエスと時代も場所もまったく違いますから、ふつうに考えればイエスがどこに泊まっておられるかを見ることもできないし、イエスのもとに泊まることも叶いません。しかしわたしは、イエスがどこに泊まっておられるかを見る方法を、イエスのもとに泊まる方法を示したいと思います。

こういうことです。ヨハネの二人の弟子はイエスが暮らしの中でごく自然に御父に祈り、祝福をして食事をし、御父と共に眠りにつく様子を見たはずです。わたしたちが同じ生活を目指すなら、そこにはイエスがおられ、わたしたちはイエスのもとに泊まる者ではないでしょうか。

時代と場所を超えて、わたしたちはイエスがどこに泊まっておられるかを理解しています。望めば、イエスのもとに泊まることもできます。わたしたちが暮らしの中で、父なる神に祈り、父なる神と共に眠りにつくなら、そこはイエスが泊っておられる場所なのです。

もう一つ加えましょう。イエスに従った二人の弟子は、シモンに出会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言いました(1・41)。それはイエスに出会った者、イエスのもとに泊まった者にしか語れない言葉です。

ではわたしたちには語れない言葉でしょうか?わたしはそうは思いません。わたしたちもまた、「わたしたちはメシアに出会った」と、人々に語ることができます。もしわたしたちがイエスのもとに泊まる生活を価値あるものだと思うなら、語る必要があるのではないでしょうか。

「わたしたちはメシアに出会った。」これは二千年前の、わたしたちには望むことすらできない出来事なのではなく、今もわたしたちの暮らしの中で、望めば叶えることができるし、告げ知らせることができるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マコ1:14-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼新成人が1月1日9時のミサで祝福を受けた。わたしより31歳若い。30歳も!愕然とする。認めたくないものだから、いろいろ馬鹿なことを考える。たとえば1月28日の地区対抗駅伝大会に出たいなぁとか、その2日後に司祭団マラソンに出ようかなぁとか。
▼地区対抗駅伝はまじめに走ろうと思うが(真面目に走ってもビリに違いない)、司祭団マラソンには「田平教会献堂百周年」という文字をラミネートしてウエアに留めて走ろうと思っている。ポスターとか、そういう正当な方法もあるだろうが、わたしは馬鹿だから、自分の売り込みと、教会の行事の売り込みを同時にやろうという魂胆だ。
▼寒いからなのか、猛烈なペースで教会信徒が亡くなり、葬儀を引き受けている。日曜日やお休みを入れる月曜日に葬儀をすると、曜日も分からなくなり、一週間ペースが崩れたまま過ごすことになる。曜日が分からない一週間は、体に良くないことが実感できた。
▼海上自衛隊では、曜日が分かるように決まった曜日、カレーが出るそうである。何曜日なのかは知らないが、食事で曜日を確認している司祭をわたしは知っている。食事で曜日をお知らせするのはけっこう使われているようだ。
▼こう葬儀が続くと、葬儀の説教はつらくなる。悲しい面持ちで葬儀をするのもマンネリ化する。むしろ、思うところをそのまま話し、復活の門前に送り出したと思って晴れやかな顔で送ることにしよう。
▼自画自賛だが、葬儀の説教がよかったといわれた。話した本人の「出来栄え」としてはイマイチだったのに、その人たちには心を打つ話になったらしい。そうだとすればそれはもうカミワザ、神がそのように感じさせたとしか言いようがない。

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今週の1枚
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第531回目。長崎や五島では12cmとか16cmとか積もったのに、平戸はうっすら。

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主の公現(マタ2:1-12)公に現れた。公に表した。

2018-01-06 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2018/1/7(No.923)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の公現
(マタ2:1-12)
公に現れた。公に表した。
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主の公現の主日を迎えました。今年はあとに続く「主の洗礼」が日曜日ではなく、ご公現の翌日に祝われます。主の洗礼について日曜日に学べないので残念です。その分、今週のご公現の中で学びを得て、生活の中で活かすことにしましょう。

金曜日にお見舞いした人の中で、ある年配のご婦人がしきりにわたしのことを「中田藤吉神父さまですか?」と尋ねるものですから、「そうだよ」とつい言ってしまいました。最初は「その中田神父さまじゃなくて、別の中田神父です」と懸命に説明したのですがうまく伝わらず、何度も「中田藤吉神父さまですか?」と言うものですから、説明するのがきつくなって「そうだよ」と言ってしまいました。

ここで問題にしたいのは、わたしが言った「嘘」ではなくて、「その中田神父じゃなくて」の冒頭「その」です。いったい、「その中田神父」とは「どの」「中田神父」なのでしょうか。ご婦人は中田藤吉神父さまから婚姻の秘跡を授けてもらった方でした。ですからご婦人にとっては言葉では言い表せないほどの恩を受けた「中田神父」なのです。

「その」が付いた「中田神父」は、価値が何倍にも跳ね上がる神父さまです。「その」という冠詞が付いただけで、「わたしに婚姻の秘跡を授けてくださった恩人」「田平教会の恩人」「今日また、こうして見舞いに来てくださった恩人」これらの意味をすべて含ませているのです。

それは福音書でも同じことで、たかが冠詞一つなのではなく、場面によっては命を吹き込む決定的な役割を果たすこともあります。今週の福音朗読でこの決定的な役割を果たしている部分は冒頭です。「(その)イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(2・1)

「そのイエス」は、「どのイエス」ですか。今日の福音の直前の段落で述べられている「イエスこそ人間を罪から救う方」ということです。福音を書き記したヨハネ、またイエスと出会い、救われた人が共通に持っている思いです。「そのイエス」が、公に現れました。あなたはどのように行動しますか?ということです。

与えられた朗読の中で、「星」と「拝む」が繰り返されていますが、その中で「拝む」という言葉に注目してみました。占星術の学者はこう言います「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2・2)まず言葉で、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みたい、拝もうと思っていると表明しました。

一方ヘロデはこう言っています。「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(2・8)。ヘロデはもちろん本心からこう言っているのではありません。見つけたら殺そうと思っています。彼は本心を偽り、隠し、公にしないのです。

ヘロデとは違って、占星術の学者は、言葉で自分たちの意思を表しただけではなく、態度でも表しました。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(2・11)

救い主が公に現れると、ヘロデは本心を隠し、占星術の学者たちは言葉でも態度でも本心を表しました。わたしたちも態度を求められています。あなたは、公に現れた救い主、公にされた神の救いの計画の前に、本心を隠しますか、それとも本心を表しますか。

もしわたしたちが、星の光によって照らし出された神の救いのしるしの前に、本心を隠してしまうなら、わたしたちはヘロデと同じグループに属することになります。反対にわたしたちが星の光によって照らし出された神の救いのしるしの前に、言葉でも態度でも本心を表すなら、わたしたちは占星術学者の仲間なのです。

わたしたちの態度次第で、わたしたちの人生が変わります。公に現れた救い主を前に、取るべき態度を隠す人は、単にヘロデの仲間であるだけでなく、ヘロデと同様に最後の最後までイエスを知ることなく、照らしを受けることもできません。

そうではなく、公に現れた救い主を前に礼拝をささげるなら、わたしたちは占星術の学者と同じ仲間であるだけでなく、彼らが礼拝後に「ヘロデのところへ帰るな」(2・12)と夢でお告げがあったように、絶えず神の導きのもとに生きることができるのです。公に現れたイエスを前にどのように振る舞うかは、生涯イエスとは誰かを学ぶことなく闇の中を歩くのか、イエスを救い主と受け入れて生涯照らされて生きるのかの分かれ道なのです。

最後に、わたしたちがさらに深く、占星術の学者たちの生き方に学ぶ方法を考えてみましょう。ひょっとすると彼らは、まことの礼拝を一度ささげて責任を果たしたということで、安心して祖国に帰り、それっきりかもしれません。そうではないだろうと思うのですが、彼らにそれ以上の義務はないわけです。

しかしわたしたちは違います。洗礼を受け、堅信によって洗礼の恵みを強めてもらったわたしたちは、占星術の学者たちを超えて今日も、さらに2018年も、言葉と態度で救い主に礼拝をささげます。しかも礼拝を終えて生活に戻ってからも、言葉と態度で救い主に導かれていると表明するのです。公に現れた救い主への信仰を、日の上るところから沈むところまで、隠すことなく生きるのです。

公に現れた救い主を、公に言い表しましょう。言葉と態度で、公にしましょう。わたしたちはこうして、占星術の学者たちを超えて、「あのイエス・キリスト」を宣べ伝えます。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハ1:35-42)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼年賀状が送り返されてきた。「あて所に尋ねあたりません」だそうだ。毎年このような年賀が何枚か発生する。昨年末には「新年のあいさつを控えます」と連絡してきた恩人にはがきを出して、それも返ってきた。家までわかっている住所なのに・・・と思った。
▼これだけ進歩した世の中なのに。こんなちょっとしたことで残念な思いになる。新年早々湿っぽい話だが、どうにかならないものか。今年は返却された年賀状を、問い合わせてもう一度郵便で送ろうと思う。
▼お年玉をあげた侍者たちに、「お年玉たまったか?」と聞いたらほぼ間違いなく「たまった」と返事が来た。そんなにたまるものなのだなぁ。わたしの財布からは5万5千円も飛んで行った。5万5千円分手伝ってくれたからいいのでは?
▼週が明けるとさっそく集まりが3つも4つも5つもやってくる。どれも外せない。5月まで突っ走ることになりそう。本当はあっという間の時間の過ごし方の中に、ゆっくり流れる時間、止まっている時間を置きたいのだが。
▼昨日、教会信徒が亡くなり、力不足を感じ残念な日だった。今日、珍しい人が訪ねてきた。毎日目まぐるしく変わる。変わらない真っ直ぐな軸が、自分の中にあるか。ぶれずに、その軸を保ち続けたいものだ。

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今週の1枚
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第530回目。今年は辞書を使いながら韓国語の勉強。中古辞書、送料込み351円。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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